はてなキーワード: 誤謬とは
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公正世界仮説
この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などの存在を暗示する。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、
あるいは「努力すれば(自分は)報われる」
「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。
(中略)人々が明白な原因も無しに苦しむなど、我々は世界が公正でない証拠に毎日直面している。
(中略)不公正な出来事を、公正世界信念に適合するように作り変える再解釈の方法がいくつかある。一つは、結果や原因を再解釈したり、犠牲者の人格を再解釈することである。例えば、罪のない人々が苦しんでいるという不公正な現実を再解釈して、実は彼らは苦しむに値するだけのことをしたのだとする[1]。具体的には、第三者が、犠牲者の格好や行為に基づいて、犠牲となったことに関して犠牲者を非難する[6]。公正世界信念に関する多くの心理学的研究は、犠牲者非難や犠牲者の名誉棄損と言った、これらの負の社会現象にも焦点を当てている[2]。
参考にしたサイト:http://lelang.sites-hosting.com/naklang/fallacy.html
相手の主張を一部分だけ引用したり、極端な形に言い換えたりして、反論しやすいかたちに改変してから論破してみせること。
多くのデータの中から、自分にとって都合の良い例だけを取り出してきて、都合の悪い例は無視すること。
そっちこそどうなんだ主義。
自分の行動が批判されたときに、それ自体には反論せず、「お前も同じことをやっているじゃないか」と相手の過ちをあげつらう論法。
「最近の漫画がつまらないのは出版社のせいだと思うか?」という質問は、「はい」と答えても「いいえ」と答えても「最近の漫画はつまらない」という前提を認めてしまうことになる。
最近の漫画を面白いと思うなら、そもそも前提が間違っているということを指摘しなければならない。
実際には他にも選択肢があるにもかかわらず、0か100かの極端な選択肢だけを提示し、相手を回答不能にさせること。
滑り坂論法。
いちどでも要求を認めれば、次々と要求を認めなければいけなくなるので、最初の要求を認めてはならない、という詭弁。
たとえば「いちどでも賃上げ要求に屈せば、どんどん給料は吊り上がって、会社は倒産してしまうだろう」といったようなもの。
迫害を受けたガリレオが結果的に正しかったように、私が批判されているのも私の主張が正しいからだ、といった論法。
ガリレオの代わりにセンメルヴェイスやヴェーゲナーが引用されることも多い。
複数の仮説のなかで、間違っているという証拠があるものを除外していき、最後に残ったものが(どんなに信じられなくても)真実である、という誤謬。
言い換えると「間違っているという証拠が見つかっていないから真実だ」と言っているに等しい(未知論証)。
「ad nauseam」はラテン語で「いやになるほど」という意味。
何度も何度も何度も何度も同じ主張を繰り返すことで、批判者を疲弊させて撤退に追い込み、第三者にはそれが真実であるかのように刷り込む。
「嘘も百回繰り返せば真実になる」。
ある主張に反対するために「子供たちのことを考えろ!」というフレーズを用いること。
ここでいう「子供たち」は主張者に都合の良い架空の存在である。
インターネットでの議論が長引くほど、ヒトラーやナチスを引き合いに出した不適切な比較が行われやすくなる、という法則。
あるいは、ヒトラーやナチスと比較した時点でそれを言った側の負けだ、といったルールのこと。
ヒトラーとの不適切な比較は「ヒトラー論証」と呼ばれる詭弁であるが、ゴドウィンの法則自体にも「適切な比較すら封殺する」という批判がある。
常識的な主張と過激な主張を使い分け、過激な主張を批判されれば「私が本当に言いたいのは常識的なことだ」と弁解し、常識的な主張の同意を得れば「過激な主張が立証された」と強弁する論法。
本来は「小高い丘(モット)に建てられた天守」と「平地を外壁(ベイリー)で囲った曲輪」で構成された城のことを指す。
No true Scotsman。「本当の○○は××しない」。
「スコットランド人はそんなことをしない」という主張に対し、「俺の知り合いのスコットランド人はそれをしていた」と反例を挙げられたとき、「その人が真のスコットランド人ではないからだ」と定義を変更することで反例を排除する。
相手の主張に対して根拠を要求し、それに回答があると、しれっと要求を変形させて「これでは根拠になっていない」と言う。
「醤油ラーメンがいちばん人気があるという根拠はあるのか?」「ラーメンの人気ランキングはこれだ」「俺は東京のラーメンについて聞いたんだ、東京に限ったランキングを出せ」といったもの。
専門家でさえリアルタイムでは答えられないような細かい質問を次から次へと投げかけて相手を回答不能に陥らせる手法。
ギッシュ・ギャロップを繰り出し、相手がひとつでも答えられなければ「彼はこの問題について無知である、よって議論に参加する資格がない」といった結論に持っていくコンボ。
以下、名前が見つからなかったけどネット上ではよく見かけるやつ。
「反対をするなら対案を出せ」というもの。
具体的な問題を解決しないといけないときに、出てきた対策に反対ばかりしている人に対しては成り立つが、余計なことを始めようとするときに現状維持を望むのは、それ自体が対案となる。
「TINA(There is no alternative)」と呼ばれることもあるが、TINAは「他に道はない」と言って押しとおすことなので、微妙に違う気がする。
何かを批判している人に対して、まったく別の領域の類似問題を挙げて、「これも批判しなければダブスタだ」と言うことで、際限なく戦線を拡大していき、相手が対応できなくなることを狙う。
Whataboutismの仲間か。
集団内でも意見が異なることはあるものだが、集団をひとつの人格とみなすことで、異なる意見が存在することを矛盾とみなす。
右翼Aが「天皇を守れ」と言った、右翼Bが「今の天皇は左翼だから退位させろ」と言った、それを見て「右翼は天皇を守ると言っていたのに退位させようとしている」と主張する、といったもの。
命題の真偽と対偶命題の真偽は一致。逆命題と裏命題の真偽も一致。命題と逆命題の真偽の一致は偶発的(命題の意味によって一致したりしなかったりするので一般的にYesともNoともいえない)
命題と対偶命題の真偽は一致するが、命題自体が真でない(恒真でない)ことを忘れて対偶命題を真だと主張する
「成功者は努力家だ。したがって努力をしていないものは成功することはできない」
これは命題が恒真でないことが原因であるので間違いだ。現実世界では努力家でない成功者もいる。論理的には正しいが、意味的に誤っている例といえる。
この話に関する最も愚かで、最も多い人種の説明は、全単射だのヒルベルトホテルだのを持ち出して的外れな解説をした挙げ句、「人間の感覚が裏切られる数の性質のひとつ」などとのたまうアレである。本質をまるで理解せず、明らかな矛盾や自らの違和感を深く追求することもせず、権威を前に思考停止して、自分よりは深くものを考えている人たちが納得できずにいるのを見て優越感に浸る真性のゴミカスである。
頭の働く人であれば、無限集合の「大きさ」の定義は一般的な定義とは違っており、表題のような混乱を招かないため新たに「濃度」という語が定義されている、ということを明言するだろう。この話ではそもそも言葉の定義が知識と違うのだから齟齬が生じるのは当然だ。この再定義を経ずに表題の結論に至るとしたら、間違っているのはそちらの方だと言ってもいい。受験レベルの数学的帰納法でも偶数が自然数より少ないことは証明できるだろう。これが感覚であるなどと、よくもまあ言い張ったものである。
参考までに、次のロジックなら誰もが納得できるだろう。『2つの無限集合において集合の全ての要素が1対1で対応するとき、「2つの集合は大きさ(濃度)が同じである」と言う。無限集合A={1,2,3,...,n,...}と無限集合B={2,4,6,...,2n,...}は各要素が1対1で対応するため大きさ(濃度)が同じである』。これは数学的にも直感的にも何ら欠陥の無いロジックだ。
さて、定義を改めればひとまず納得することはできる。だが逆に言えば、一般の定義で見た場合に明らかな誤謬が生じているという事実は残っている。集合の要素が1対1で対応するのであれば同じ大きさである、というのは一般的にも間違いなさそうに見えるからだ。真理を冒している論理の誤りがどこにあるのかを明らかにしてこそ、この問題を十分に考え抜いて理解したのだと言えよう。
違和感がどこにあるかは、おそらく誰もが直感的に分かっている所だろう。すなわち、仮に集合Aを100までに限ると、集合Bは200までの偶数となる。一方では100を上限としながら、もう一方では102~200までを考慮してもいいのだろうか。普通、自然数と偶数と言われてこのような解釈をすることはまずありえない。この矛盾感が、無限集合という言葉を盾にされても看過しがたいものに思えているのではないだろうか。その直感は何も間違っていない。それこそが核心である。何故なら「正の偶数は自然数に含まれなけれなければならない」からだ。要素を1対1で対応させようとすれば集合Bは必ず集合Aに無い要素を含む。そのため自然数に含まれるという本来の定義を満たすことができない。集合A={1,2,3,...,n,...}を自然数、集合B={2,4,6,...,2n,...}を正の偶数の集合、とすることは各々では正しくとも、偶数の定義に自然数が関わる以上は両者の定義上の関係性を改めて保証する必要が生じていたのだ。かくして表題のような誤謬が生じたわけである。
まだ未消化のや未放送のが多いがひとまず。
あくまで1話の感想なんで、2話以降どうなってるかは関係なし。
特に気に入ったのは◎、まあまあ気に入ったのは○。
<あらすじ>
インスタントラーメンを発明するらしい。
<感想>
15分では特に良いとも悪いとも。
アラサー安藤サクラは役柄の18歳に見えるとまでは言わないにせよ年齢不詳な感じに頑張っているが、姉のアラフォー内田有紀は素で下手すると安藤サクラより年下に見えるくらい年齢不詳なので、なんだか不思議な感じになっている。
<あらすじ>
<感想>
一人芝居の分量が多い分、説明ナレーションを多用したり、主人公の推理の酷さを本編内でツッコまず予告でメタ的にツッコんだり、かと言って一人芝居を貫くわけでもなく……ならずっと二人芝居にした方が無理がなかったんじゃ。
<あらすじ>
王子様キャラの男達が伝説の王子の座を競う現代逆ハーレムものってことでいいのか?
<感想>
逆ハーレムに興味なくても楽しめる程度にきちんと馬鹿馬鹿しい。
1話のメインの王子の、死んだ母親から酷い夫の代わりに理想の王子として育てられたという設定はグロテスクな呪いに思えたが、作り手は自覚的っぽく、ヒロインについて心酔する母の生まれ変わりかもなどと多くの女性が引くであろう台詞まで彼に言わせてるあたり興味深い。
14人の王子のドミノ倒しみたいな壁ドンのアイキャッチは絵的には面白いが、王子の、延いては女性の好みの多様性の否定に思える。
<あらすじ>
ざわざわ賭け麻雀。
<感想>
麻雀がわからないとやっぱりもどかしさがあるのと、人生を賭けたドキドキとかべつに味わいたくないなぁというのと。古川雄輝の役も、思い上がった若者が鼻っ柱を折られてスッキリという役割なのだろうがあまり酷い目にあってほしくない。おかやまはじめの追い詰められた小市民役はハマっていたが。
<あらすじ>
<感想>
下世話な面白さは『ブラックリベンジ』同様。夏恋(字面込みで憶えやすい役名だ)って女優がスキャンダルの餌食にならなかったのは都合が良すぎだが。整形前のヒロインの松本まりかの熱演もいいが、悪役平岩紙の「しろなんて言ってないよぉ」「夏恋、頑張って」の言い方がツボ。
<あらすじ>
<感想>
出来あがった実写作品(とあれで言えるかはわからないが)よりも制作過程のアレコレがメインで、テレ東一連の人気役者を使ったドキュメンタリー風ドラマっぽいな。……このシリーズ、わざとらしくて苦手。
『ガラスの仮面』でキャストにド素人集めて上手くいく話があったけど、やっぱり素人は素人だと思った。
<あらすじ>
<感想>
主題歌が『オトナ高校』と同じ高橋優っていいのだろうか。こちらの暗さの方が彼に合っているかもしれんが。
シリアスな分、非現実的な設定が飲み込みづらい。いや、現実にあの法案が通ることはなくても、本音では肯定しちゃうような政治家は結構いそうではあるが。
主人公に真面目に申し上げておくと、恋愛できなくても欠陥品ではないし、合コンの女は酷いが、劣等感を埋める為に結婚を強いられる社会を望むのは相手のことを考えてなくてアウト。
<あらすじ>
だめんずぶったぎってすっきり。
<感想>
うーむ、原作から大きな改変はないけど、原作の面白さが再現されてるかは微妙な感じがする。「もうちょっと聞いて貰えます?」って、ほんと、何故もうちょっと聞かずに話の流れを止めたのだろう。あと現実感がないとすっきり感も薄れるという点で、コメディ的な誇張も注意が必要だと思った。
<あらすじ>
<感想>
原作の海外ドラマは知らない。織田裕二が少々ダーティなのだが、準主役的な子分の中島裕翔もぶっとんだ設定かつ強かさも気の毒さも欠いた微妙な問題児で、感情移入のやり場に困った。
<あらすじ>
<感想>
仕事の能力が低いからといって恋を成熟させる資格がないわけではないが、しかしヒロインを応援したくなる要素が恋敵が悪女であることくらいしかないのはつらい。
<あらすじ>
<感想>
やたら地味な企画だが、『ざんねんないきもの事典』のヒットあたりからの企画だろうか。まったりと楽しくはある。あの宿題は調べるなと言われてもみんなネットで調べちゃうだろうと思ったが。あと動物行動学+人間ドラマって自然主義的誤謬っぽくなりそうと思っていたが、1話は童話のうさぎと亀って動物行動学と関係なかった。
<あらすじ>
高校じゃなく中学の教師と生徒と恋愛もの……って今までにあったっけ?
<感想>
センセーショナルに思われそうな題材だが、パスワードが盗まれたりとかボヤ騒ぎが起きたりとか、高尚ぶらず普通にセンセーショナルな作りであった。
夏川結衣が池谷のぶえと紛らわしい感じになっているのは役作りだろうか(年相応なだけではあるが)。
<あらすじ>
<感想>
会話劇としてクスリとくるところはあったものの脚本の妙を感じるまでには至らず。男二人の髪型被りに意味はなかったんだな。
<あらすじ>
恋人も社長も同僚も営業先も両親もみんないっぺん母ちゃんの腹の中からやり直してきな!!とぶち切れられない理性の人。
<感想>
いや父親は死んでるし母親は縁切ってるし会社も最後に少し救いが見えたが、それにしてもヒロインの境遇のしんどさに震える。救いが見えたと言ってもタイトルからしてどこまでヒロインが戦えるかわからんし。ぐいぐい引き込まれたのはさすがの野木脚本で、今クールの本命だろうという予想はクオリティ的には全く裏切られてないけど、次回以降の視聴率は大丈夫か。いやここで脱落する方が後味悪いからみんな見続けようぜ。
<あらすじ>
<感想>
主人公に珍名を付けようと思いながら小鳥遊というド定番を選ぶ思考回路の謎。
初回の題材が痴漢冤罪なのはいいとしても、自称被害者は真面目な女子大生「と見せかけて実は」ホステスで金目当ての狂言でしたって世間のバイアスに全乗っかりだな。次回予告でもハニートラップなんて文字が踊ってたのはまあ、次回を見てからコメントすべきかもしれないが。
<あらすじ>
『Pure Soul』とその韓国リメイクの『私の頭の中の消しゴム』は憶えてるがその日本リメイクの『私の頭の中の消しゴム』というのが思い出せないが本作はべつにリメイクじゃない。
<感想>
合理主義的な松岡昌宏と婚約する戸田恵梨香も合理主義っぽいが、癒し系のムロツヨシにほだされていくのかな……と思いきやムロツヨシは捻くれてて、なのによくわからんけど戸田恵梨香が菊地・獣・凛子もびっくりの理性のなさでムロツヨシに突っ走ってて理解不能だったのだが、あれはひょっとしてアルツハイマーの症状として理解不能な感じなの? それとも単に大石脚本のヒロインだから理解不能なの?(『コントレール』の肉食系で済ませられないヒロインを思い出した)
<あらすじ>
大変旨~私は忘れる君を。
<感想>
婚約破棄、小説家、長谷川朝晴、そして忘却……って紛らわしいけどアルツハイマーものではなく、グルメものというあまり興味のないジャンルだが、たしかに美味しそうだし、グルメ以外のパートのコミカルな演出も効いている。
○朝食:なし
○調子
なんかしんどかった。
夕方ぐらいから、調子が上がってきたのだけど、もう休日は終わり。
ブルックリンナインナインを見てたのだけど、2シーズン目の18話がとてつもなく面白くて、感動して、涙が出てきた。
いや、これがそういう話なのかどうか、よくわからないんだけど、とにかくいい話だった。
こう言う日があってもいいよね、いや割とよくあるけど。
いろいろ見たけど、特に良かったのが杏ちゃんと都ちゃんが活躍する、ねりさえさんのミステリもの。(タグにPがついてないけど、つけて呼んだ方がよいのかしら)
僕は、ミステリは衝撃の展開とかドンデン返しとかではなくて、議論の誠実さにあると思っている。
ただし、この議論の誠実さの誠実さ度合いを検証して評価するとかそういうことを言っているわけじゃない。
あくまでそれらしい文量と、作中人物がそれぞれがそれらしく納得する描写があれば、検証した際に誤謬があることや、議論の抜けがあることなんかは、評価を下げる理由にはならないと思っている。
結局のところ「それらしさ」が大事なのであって、そのクオリティを第三者として正しく評価する気はないって態度なのです。
なぜなら、作中人物とじかに会話ができるわけではない以上、すべての議論をくまなく抑え、
かつすべての登場人物が破綻のない行動をしないというのは、絶対に不可能だと思うから。
いや別に後期クイーン問題とかそういう大それた話じゃなくて、現実問題、第三者が外からかつ後から何かの文章を読んで真実を見つけるなんて、どう考えても不可能でしょ。(なんか今話題になってるネットの事件を皮肉ってるような文章になったけど、そんなことないよ)
と言う意味で、ねりさえさんの日常の謎シリーズは、とても「それらしく」て超面白かった。
キャラをオリジナルにしてミステリーズに乗ってても違和感がない。
なにより、自分がいちばん好きなアイドルマスターのキャラクタが割といい立ち位置で出ているのが良いね。
いや冗談です、中身も素晴らしいです。
芸能人が関東圏の放送状態が楽天的だ、不適切だのようだということ言ってるけど、
(その場にいないので断言はできない)
見ているだけで無力感を覚えたり、過去のトラウマを思い出す人、PTSDを発症してしまう人もいるので、
でも何より不自然なのはその不適切だという発言がすでに他人事のようになっていることだと。
「見ているなら助けろ」というのもメディアの人に物理的に助ける力があるというとそうでもない気もする。
ネットワーク的に人や交通網があるってだけで救助できる能力があるかは別。
災害を受けていない圏は経済を回したり、いつもどおり過ごすということも大事だし、
小さな日本では西と東でできているということじゃん。それは凄いことでしょ。
ミクロとマクロで~ みたいな話で同じ事柄が言い方や見方で違うとか自分の都合のよい話にもってこうっての見かけるけど
視野とか距離感とか観察対象の最小単位の切り方で全部別物なので「ミクロとマクロがおなじ事柄について語ってる」て事自体が存在しないので
別物であるから同列にならないので「ミクロ と マクロ」という別個の二つになるはずのものが
「ミクロとマクロで 同じものが二つの意味をなす」みたいに「同じもの」扱いするのがおかしい
意味や質が変わった時点で別物なので 同じなのに違っている みたいな言葉遊びをするから 同じものだと思っちゃう人がでてくるし
同じものなのに違うのはなんでとかいう意味のわからない質問をしてくる人もでてくる
あなたのもってるコップの水と私のもってるコップの水とみんなのもってるコップの水の成分がまったく同じだったとしても
全部の意味と用途と価値は別物で「同じ水だから」とか「同じ水なのに」などとは言えず「合成の誤謬」などという言葉で同一系統に並べられるべきものではない
スケールの違うものでそれぞれ単位「1」が違うのに「1」という単位で言えばと逆算することに意味はない 誤謬というレベルでもない
個人の主観に落とし込んで体感的に理解しやすくその齟齬を表現しようとしたものだとは思うがミクロ・マクロといった形容をそのまま説明に使ってくる様子は滑稽
今日もホットエントリ見たろ! ← 普段温厚な一般的はてなユーザー
↓
今日もブクマ多いなー、なんでこの記事ブクマ多いんやろ?見たろ!
↓
なんでこの記事にブクマ多いのか、詳しくないし内情知らんからよーわからんわ、コメント見たろ!
↓
ぱっと見、論点と関係ない過激なコメント多いなー ← まだ一般的はてなユーザー
↓
でもスターいっぱい付いてるからそんな間違ってないんやろな、上から順によく読んでみるか ← マイナス評価が無いのでプラス補正が入る(スターバイアス)。
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なるほど、そういうことだったのか!こんなん、こいつ間違っとるんやん! ← 100文字以下しか書いてない・内情も知らないので自分の理解しやすいように拡大解釈し始める
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このコメント納得やから、スター付けたろポチ― ← 過激コメントが補強される
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我慢ならんから俺も意見言ったろ! ← 攻撃的はてなユーザーに変身、怒ってるから過激なコメントになりやすい
↓
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ストーリーを知らないという方は、検索したら出る。そんなに難しくない。
高度に進化した文明をもって、動物たちがそれぞれ共存している都市『ズートピア』。そこでノウサギのジュディが警察官に就職するんだけど、いろんな差別や偏見と闘いながら問題を解決していく、って感じ。ざっくりいうと。
さすがディズニー作品という感じで、すごくいいエンターテイメント映画でもあるんだけど、公開当初によく言われたのが、「人種差別のメタファー」とか「『ズートピア』はアメリカの比喩だ」とかだった。
たしかに、当のディズニーはそんな説教臭いメッセージを込めたとは言わないだろうけど、見ればわかる。
アメリカという社会がかかえる問題が、いろんな差異(肉食/草食、体格、生息地など)をもった動物の共存とその問題として描かれている。
しかも公開当時の2016年が、トランプが「メキシコとの国境に壁を作る」とか言ってた時期だったから、余計に刺さったわけ。
で、この間テレビ放映見てたら、もう一つ、新しく気になった点があった。
ここからは若干ネタバレになるが、劇中で肉食動物が突然凶暴化して野生化する事件が起こる。
それをジュディが上司に報告すると、水牛のいかつい警察署長がこう返す。
「おい、いまは石器時代じゃないんだぞ。我々進化した動物が、また野生化しただと?冗談はよせ」
まあうろ覚えなんだけど、こんなことを言うのね。
さっきも言った通り、『ズートピア』は主人公のジュディの姿を通して、周りの動物たちが持つステレオタイプ(そして人間がもつ偏見)をあぶり出すという構造で描かれる。
だとしたら、さっきの台詞は人間至上主義への批判なのかもしれない。
「人間はほかの生物(=野生であり、けだもの)とは違う」、さらに言えば「神から与えられた理性という特権」という信仰。
人種問題という人間同士の問題への批判だけでなく、人間そのもの(というかおもに西欧社会)がかかえてきた誤謬すらこの映画は批判しているのではないかと、そう思ったのだ。
文明化、進化、理性といったものは、不可逆で定向的だといまだに多くの人に思われている。
一度達成された工業化や民主化といった文明、サルから人間への進化、成熟した理性というのは「あるべき方向性」をもっていて逆戻りすることはない。
そしてその法則を外れた、あるいはそのレールに乗れなかったものは「野蛮」であり「けだもの」である。
そうした考え方はたしかに思想や科学の上ではすでに否定されていたことだ。
しかしそれがディズニー映画の中で意図的に行われたとしたら、これはかなわない。えげつない映画だ。
……だがそんなメッセージは物語の『主題』としては出てこない。まあ俺の勝手な思い込みである可能性は十分にある。
「本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。」
→本件では、有害図書の自動販売機への収納禁止は、こうした害を防止するための必要かつ合理的な規制は合憲とした。
一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるもの
という事が
扇風機ってあるだろ?
あれさ、どうして風を送るんだろうって考えないよな?
風を送るために作ったのが扇風機なんだから「どうして?」って考えるのおかしいじゃん。w
人間っているだろ?
それがさ、何で生きてるのかってのも同じなんだよ。
目的は生きてるから考える(初めから決まってなんかいない)んで、どうして生きてるのって疑問自体が間違ってるんだよ。
罪って言うだろ?
どうして罪なのかって、これも同じなんだよ。
殺す事を罪って言おう、って人間が勝手に決めたんだよ。悪いって"架空の概念"を作ったの。
順序が逆なのよ。だって戦争の時はたくさん殺したら勲章貰えるでしょ?
道具は目的のために作られたから置き換えると笑っちゃうけど、目的がない存在は状況に応じてそれを変える事ができる。そして状況は変化するので、共有する概念は不変のものではない。
不変不滅の概念なら、裁判で死刑って決まった人も殺しちゃダメじゃん。
もう一度書くね。
どうして人を殺すのが罪なのかを考えるのは間違いで、人を殺す事を罪って言う事にみんなで決めたから、そうなってる。
これが正解。