はてなキーワード: 漠然とは
そりゃまあ俺だって公務員ごときよりは給料貰ってるし、手に職があるから会社が傾いてもなんとかなるけどさ、それは従兄弟が何年もニートやってるときに下積みをちゃんとして、然るべきタイミングでちゃんと情報収集してから天職をやってきたからなわけよ。
公務員の世界しか知らないしロクに情報も集めてないような無知蒙昧、やりたい仕事聞いても「誇りが持てる」「面白さを感じられる」「意味がある」「残業代がちゃんと出る」「ちゃんと休める」とかの漠然とした言葉しか出てこない空っぽ人間が今更慌てて動いた所で突然降ってくるようなものじゃない訳。
せめて「お前ごときが今以上を望むにはそれ相応の行動が必要になるけど、それをまず理解できてる?」って部分だけでも分かってもらわないとスタートラインにも立てないんだが
子供の頃から漠然と、「大人になったら…」という考えはあった、あったというか親にそう教育されていた。
中学に入ってからアニメを見ていると「いい年してまだそんな番組見て」と親に小言を言われていた。
こんな楽しいものに親は興味を示さないのかと不思議に思う反面、大人になるとはそういうことなのかなぁとも思っていた。
しかし、私は離れなかった。大学を卒業しても、帰宅中にコンビニで立ち読みをし、飯を食いながらアニメを見て、深夜までゲームをして過ごしてきた。
最近、立ち読みをしなくなった。マンガがつまらなくなったのだ。
1,2週読み飛ばしても、物語の大筋は掴めるほど中身がないから、と作品そのものに理由を求めていたが、違った。
大好きだったRPGも、物語の大筋が見えてしまえばそこで辞めてしまう。レベル上げをしてスキルやらシステムやらが解放されていき完全体が見えてきたらそこで飽きてしまう。
きのうも同じように会社に電話して、すみません、体調が、ええ、ご迷惑おかけしますけど、はい、すみません、とか言うて。
きのうはなんとも言えず心細い気分で参ったけど、今日はちょっとリラックスしている。
旅に出たときと似ている気がする。
マー普段行かないところへ行くというのは旅みたいなもんやね。
遊牧民は動かない。
仕事は次の異動までの待ち時間みたいな時期で、学ぶことはあるが概ね退屈。その異動もはっきり決まってなくてもどかしい。
しばらく自営業でやっていた自分が、ふとした時に一流の技術を見たいと思いついて入った会社で、蓄積された技術はたしかに一流、しかしながら大きくて古い会社特有なんかな、独特のゆったりしたムードにまだ慣れない。
会社勤めってこんな感じなんか?
別に慣れてええ気がせいでもない。仕事の量は前と比べて圧倒的に少ない。そして売上は圧倒的に大きい。生産性とはこういうことかと唖然とする。
でもはじめの新鮮な気持ちとかはどこかへ行ってしまって、なんか退屈で灰色の感じでしょうがないから、昨日、今日と個人的働き方改革の実施。
その色あせた理由を心に探してみても、具体的にはなくて、事務所と自分のペースが合わずもどかしさへの自家中毒かなと漠然と思ったりしていた。
上司と先輩との関係は、どうなんかな、特に問題ないと思ってたけど、家でこうして思ってみるとじんわりやりづらさを感じているかもしれない。互いに興味がない?
自営業で独りのときに孤独でなかったのに、人といると孤独になるのか。
へーんなの。
おっちゃんは優しくて、買った豆もうまかった。
まず今NISAとかを勧めているやつらはアフィ目的だから、それを見てやるやつは馬鹿だ。
そうじゃなくても「老後が不安」っていう漠然とした課題意識で「金を積んでおけばいいんだ」ってなるのは馬鹿としか思えない。
そもそもNISAもiDecoも60歳まで金を使わずに積んでおくってだけだぞ。まず、ここで次のような残念な思い込みがあることがわかる。
(1)自分が60歳まで働いている
(3)60歳まで同じ国に住んでいる
(4)60歳まで同じ証券会社が存続している
それぞれの項目を見ても60歳までそれが続いているという保証はないし、どれかが崩れたらおしまいだ。なのに、積み上げとけばいいなんて、目を瞑って現時点での安心を買っているに過ぎない。
これには精神的な束縛も生じてきて、住宅ローンといっしょで仕事に縛られ、場所に縛られ、NISAの奴隷になることに他ならない。きみが海外に移住したとしたら、日本の税金の控除がどうとか、そんな馬鹿らしい話はない。
では、どうしたらいいかと言うと、人的資本に投資していくしかない。能力の向上、健康の維持、個人的なサーフティーネットの確立。それによって収入の上昇と、確かなスキルによる安定を手に入れることの方が先決だ。生活を切り詰めてNISAに積み立てるなんて、何の保証にもならない。そのお金を人的資本の投資に回せ。安く買ったパンの耳を食っていたって、何の能力の向上にもならないし、むしろ、健康状態を崩してしまう可能性の方が高い。生活の質を落とすことは、そのまま不健康の沼へ一直線だ。
私から言わせてもらえば、今のNISAやiDecoへの注目の集まりは、失った終身雇用の亡霊に過ぎない。会社が安定を保証してくれなくなったから、それを金で買っているのだ。しかし、そんなことははっきり言って罠だ! 金で安定は買えない。所属するコミュニティにおいて、自分の貢献を高めていくことでしか、たしかな生活というのは手に入らないのだから。
長文。書き捨て。どうにかならんかな。
前から薄々自覚はあったんだが(飼い犬をベッタベタに可愛がるとか)
なんかこう、この一、二年くらいで愛情の捌け口的な存在を脳が強く欲してるみたいな状態になる日が増えている
誰かと一緒にいてイチャイチャしたい、誰かを肯定して肯定し返されたい、誰かと助け助けられして生活を共有していたい、あと性的欲求を解消したい、そういう諸々の欲求が日常生活中に脈絡もなく発生してはいろんな脳神経が連鎖的に発火
日々の貴重なプライベートタイムが無意味にもだもだと浪費されてゆく
明らかにサイクルがあるので要するにホルモンに振り回されているということなんだろうが、ピーク時は二次元の推しとか特に推しではないけど印象的なキャラとかしょうがっこうのころすきだったこ(あのころのまんまの姿)とかが入れ替わり立ち替わり夢に出てきてアレコレと切な苦しいことをしてくれて本当しんどい
そういう夢に限って嫌に鮮明だったりするんだこれが
で、
勤め先のよその部署に最近入ったという人がいるんだが、この人がもうなんというか、かなり好みで、この前飲み会して以来じわじわと変に気になっていて困っている
「変に」っていうのは「これが…恋…?いやこれ恋ちゃうのでは?これどっちかというと二次元の推しに対する愛着では???」みたいな感覚でいるから
「推しとどうにかなりたいとは思わない、むしろ壁になって推しを見ていたい」「推しが幸せだと自分も幸せ、推しがかっこいいと自分も嬉しい誇らしい」「自分はフレームインしなくていいです、それより推しを映せ」みたいなのあるじゃないですか、アレが一番近い
三次元相手に二次と同じような好意抱いてるってのは誠に申し訳ないとしか言いようのない無礼とはわかっているけれどもそれが幸いでもあって、というのも向こうさんは子持ちの既婚者で
こちとらそういう人とどうにかなる妄想は妄想レベルでも無理なタイプのオタクなのでアタックするとかはあり得ないし、まかり間違って向こうからコナかけてきたら百年の恋も冷めるどころか可愛さ枯渇して憎さと嫌悪感でいっぱいになる自信があるのでそういう意味では心配ないんだが
他部署とはいえチーム組むことになったので接する機会がこの一週間でうなぎ登りに増え、既に「知れば知るほど好きになる」的な沼もといドツボの気配がしていて
例の愛情の捌け口神経がもういつになく活発に発火してくれてここんとこ平日異様にしんどい、休日の訪れにこんなホッとしたことない
思えば推しと毎日顔合わせて一挙一動に無意味にときめかされてちゃ心臓の筋肉が過労でヘタるのは当たり前なんだが(週五でそれって過剰摂取じゃない???)
ねえ世の中の三十路はこういう脳みその漠然とした動作不良ないの?どうやってしのいでるの??
それとも喪女もしくはオタクを拗らせた、これがその罰だということ???
どうせ心拍上げるならちゃんと恋して上げたい、ダメでもせめて自分磨きの運動で上げたい
あ゛あ゛あ゛あ゛それにしても恋がしたい、なんかこうのめり込むようなマジ恋がしてみたい
この二次元相手的な執着を一瞬でも上回るような、そんなレベルで夢中になれたら、脳神経の発火パターンを上手いこと上書きできるんじゃないか?
このままだと本当生活に支障が出そうなのでとにかく「好い人」を作りたいんだが、恋ってどこに落ちてるの?
将来のことかなぁ。
ベビーカーで移動すれば邪険にされ、子供が泣けば怒られる、保育園にも入りにくいんだろう。
寛容な社会になって欲しい。
仕事のことかな。
会社は働きやすさをうたっていたが、子供がいないと時短は厳しいようだ。
女性も働ける社会を~なんていうけど、家事を分担してこなさないと難しいなーと感じた。
友人関係かな。
薄々感じていたが、学生時代の仲が良かった友達はみんな腐女子になってしまった。
会話に参加できず、疎遠になった。
みんな毎日楽しそう。
もっと元気はつらつ生きたいな。
みんな生きにくいのを隠して明るく生きてるのかなー。
そうして俺が目的地へ走っている時、兄貴は乗り物で優雅に移動していた。
「それで弟は、『“M”の話を鵜呑みにする人間が多いのは奴が“インフルエンザ”だから』って言ったんですよ」
乗り合わせたセンセイとバスに揺られながら、なんだかユラユラっとした会話を交わしている。
「どうしてあんなものを信じるんでしょうね。知識や読解力がなくても、そもそも匿名の文章って時点で疑ってかかるもんですが」
「恐らく、そこはどうでもいいのだよ。彼らにとって信用できるか、情報が確かであるかなんて重要なことじゃない」
「ええ? 最も重要な点だと思うんですが」
「彼らにとって重要なのは、興味深いかどうかだよ。その情報に対して自分が何を語りたいか、他人がどう語っているかだ」
「大衆は愚かではあっても馬鹿ではないということさ。あれを本気で、何の根拠もなく鵜呑みにしている人は少ないだろう」
「ああ……そういえば、クラスメートも『本当だったら何か言いたくなるし、嘘だったらそれはそれで何か言いたくなる』とか話してました」
「まあ、場末のネットに限ったことでもないがな。マスメディアで情報をこねくり回したり、コメンテーターが適当なことを言うのも同じさ」
「それにつけても“M”がインフルエンサーだってのは変な話ですけどね。どこの誰かも分からない人間の言葉に権威があるなんて。ましてや一般社会から隔離された状態で、社会の意見だとかを吹聴するなんて馬鹿げている」
「マスダの指摘は興味深いが、案外“M”当人に崇高な理念や目的はないかもしれないぞ」
「では何のために? 他人にどう受け取られるかといった意図や期待も希薄なまま、わざわざ目につく場所で主張することを憚らない。一体どういった心理なんですか」
「要は独白、“呟き”なんじゃないかな。自己顕示欲、承認欲求といったものすら漠然としている。自分の中にある鬱屈とした想いを、ただ発露したかっただけなのかもしれない。ネットにはそういうタイプが結構いる」
「それじゃあ、まるでガムを道端に吐き捨てるようなものじゃないですか。噛み終わったのなら、紙に包んでゴミ箱に捨てるべきだ」
「ネット社会はそういうのに大らかなのさ。現実の公道とは違う。だから、彼らは自分の口の中にある“ガム”を吐き出すんだよ。それがどういう結果に繋がるかを深く考えないまま、ね」
「うーん……理解に苦しみますが、辻褄は合いますね。ネットだからこそ“M”には権威があり、それに便乗して語りたがる奴も多くいるわけですか」
「実際のところは分からないがな」
そんな感じで兄貴たちは今回の件に関わろうとせず、ただ俯瞰して見ているつもりのようだった。
でも憶測をあれこれ立てたり、自分の物差しで思うまま語っている時点で、騒いでいるだけの連中と大して変わらない気もするけれど。
兄貴がそんな悠長な話をしていた時、俺はシロクロの住み家にたどり着いた。
「ウェルカム! 遊びに来たのか? それともオレの力が必要か?」
「え、ボクに?」
この家に居候しているガイドって奴は、遥か未来からやってきたらしい。
テクノロジーも進んでいるから、きっと未来のアイテムとかで“M”を見つけ出せるはず。
「へえー、この時代の人たちは随分と純粋なんだね。情報に関するインフラストラクチャーが整ってなくても、教養や意志が薄弱なままでも、非論理的なものに身をやつせるだなんて。少しだけ羨ましいよ」
いつも通りウザいポジショントークをしてくるけど、今はそんなことで不機嫌になっている時間はない。
「やろうと思えばできるけど……やるわけにはいかないかな、それは」
しかしアテが外れた。
いや、俺のアテそのものは外れていない。
こいつにやる気がないってだけだ。
「なんでだよ、人が死ぬかもしれないんだぞ」
「だからこそだよ。人の生死が左右されるレベルの過干渉は避けたいんだ。修正力で直せないほど未来が変わるかもしれないからね」
「不甲斐ないぞ、ガイド! お前は何のために未来から来たんだ!」
「少なくとも、こんなことのためではないよシロクロ」
じゃあ何のために来たのかというと、それも守秘義務だとかで答えない。
なんだか、実は出来ないことを誤魔化しているだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。
「悪いけど他をあたってくれよ、マスダの弟」
何が「悪いけど」だ。
悪いだなんて全然思ってないくせに。
私の家で友達とお菓子を作った。2月13日、バレンタイン前日のことである。
もう夏だって?うるせえ書き溜めてたメモを発見したからいま投稿すんだよ。
私を入れて4人、その中の2人は数ヶ月前に彼氏ができたばかりだった。一人をAとしよう。
クリスマスイブに告白され、なんやかんやで後日付き合い、バレンタイン当日に彼氏の家に泊まりに行くというAとその彼氏を「イベントに乗っかりすぎじゃね?」とからかった。
私たちのグループはとても下品で、よく下ネタを話していた。ちなみに全員処女である。Aに彼氏ができてからはよく彼氏の下半身の話をよくした。まあ、有り体にいうとち◯このことだ。
わたし「一人で致す時でさえ指二本も入らんのに、ちんこなんか入るのか?」
A「いやほんまにそれすぎる……しかもあいつ(彼氏)のブツはかなりでかいっぽいしどうしたらいい?」
普段からこんな会話ばかりなので、お菓子を作り終わる頃には「避妊に気をつけよう」という結論を出して解散となった。
そして、後日。
「快感が3、痛さが7。でも、まあ、なんとかなるもんだ」
という非常に力強いメッセージだった。
こいつに一生ついていこう…という頼もしさを抱きつつ祝福をした。
そのあと。
ふと、「自分はこうならないんだろうなあ」という漠然とした予感が頭をよぎった。
自分は愛されない。資格がそもそもない。ステージに上がれない。確信めいた予感である。
小学校の時からあるこの予感は、幽霊のように私に付きまとっている。
ここから急転直下に暗い話になる。下着売りのJKのエロい話を期待していたなら申し訳ない。
話は戻るがAとは高校からの付き合いである。しかし彼女は中学の頃から何度か彼氏がいたことがある「女の子」である。
私はというと、街中を歩けば容姿を見ず知らずの人に貶められる体験を何度もしたことがあるブスだ。ナンパをしようとしたやつが「よく見るとブスじゃねーか!」と叫ぶ、というものだ。ブスは「女の子」ではない。男女という枠から追放されたバケモノなのだ。私がそう実感するようになったのは小学校からである。
ブスと馬鹿にされ、毎年クラス替えの度に違う男子からいじめられていた。そうして自信を無くしたブスはカースト上位の女からもいじめられた。いじめの内容はテンプレすぎるのでつまらないと思う。まあ一つ例をあげるなら、プールの自由時間に複数人に足を掴まれ背中に乗られたりして軽く溺れたりした。ちなみにこれをやった女子で、今看護師を目指しているやつがいる。怖すぎる。
自己嫌悪の塊となり私はいつしか精神を病んだ。朝、身体が動かない。何もないのにいきなり涙がでる。人が集まる場所に行くと馬鹿にされている気がして体が動かなくなり涙が出る。声を出して泣くと姉にうるさいと言われるので夜は声を出さずに泣けるようになった。リストカットは親にバレるので足や腕を殴ったり、見えない部分を引っ掻いて血を出していた。相談したスクールカウンセラーは嘲笑し「かまってちゃん」といった。やはり手首を切らないと精神を病んでるとはいえないのでは?と思ったが心配した親に心療内科へ連れていかれた。親は泣いていた。
そして通院をし、カウンセリングを受け、薬を飲み、生活に支障をきたすほどの病状は高校に進学する頃にはほとんど治っていた。
だが根本的な問題が残ったままだった。圧倒的な自己肯定感の欠如だ。私には「根拠のない」自信がない。
私は顔はブスであるが、身体はエロい。スレンダーでもないがデブでもないし、なんといっても巨乳である。Fカップである。意味がわからない。発育の良かった私は小学校四年生からブラをしていたし、中学生ではDカップになっていた。私のようなタイプは基本的に男に軽んじて見られるのだ。
そういうことだ。
性被害には頻繁に合うのに、告白は一度しかされたことがない。しかしその告白の理由も後から聞けば「胸がでかいから」だった。死ね。
でも私は、異性からの「かわいい」がずっと欲しかった。女の子として見られたかった。「価値のある女の子」になりたかった。
そんな私が自分の裸をネットにアップし始めたのは高校の頃からだった。
リアルではないネットの世界でなら、たとえ性欲の先にある「かわいい」でも受け止めることができたのだ。何も目の前でブスだと罵られたり暴力を振るわれる訳ではない、安全な位置からの「かわいい」は単純に嬉しかった。私は自分の身体を自分で好きになることができなかったのだ。だから誰かにジャッジされないと価値がないと思い込んでいたのである。歪んでいるとは自覚していたが、「かわいい女の子」ではない私にはこの方法でしか価値は与えられなかった。
ある日、テレビでJKビジネスのうち「下着売りの少女達」といった特集をやっていた。
そんなものがあるとは知らなかった私は、早速検索して下着売買の掲示板を見つけた。
現役JKだと警察から「やめとけ」的なメールが送られてくるのを知った。
待ち合わせ場所近くのコンビニで脱いだ下着を男性に渡して5000円貰った。つけられていないかの確認の為ロフトのトイレで身を隠していた。個室でボーっとしながら男性のポケットから出されたクシャクシャのお札を見て「汚いお金」とは思わない自分に驚いた。これが自分につけられた価値かと冷静になったのである。
だが下着売りはそれ一回きりで辞めた。ちなみに私は小心者なので、これでもかというほど念には念を入れて個人の情報につながらないようなやりとりをしており、辞めた理由としてその労力と対価が見合っているとはとても思えなかったというのもある。もう一つの理由として、いい意味でも悪い意味でも、なんだか自分が自分ではないような感覚になったのは確かだったのだ。
帰りの電車でその男性からまたリピートしたいというメールが来ていたが、捨てアドを消して終わった。してはいけないことをしたという気が私にはなかった。これから男にブスと貶められても5000円で私のブラを買ってオナニーする男もいるのだな、と思うと笑ってしまう。なんだかいろんなものがバカらしくなった。
人は見た目が100パーセント。それは真実であり、ブスに人権はない。世間がどう取り繕っても現実は非情である。それでも自分の好きなように適当に生きようと思った。恋愛なんてできる気はしない。好きの気持ちの前に諦めがくるからだ。自分が嫌いな人間を好きになってくれる人なんてありえない。それに時々送られてくる異性のメッセージも、男友達がいない私からしてみれば「急に友達でもないのに連絡とったりなんかしてこいつも彼女(という名の穴)がほしいだけのやつか」という捻くれた物の見方しかできず相手する気すら起きない。相手にも失礼だし、この考えが間違っているのはなんとなくわかっている。若い頃の恋愛なんて、そんな真剣に考えずに「寂しい」という理由でフィーリングで付き合うのが正しいのだ。
幼いころから肯定されてきた人間、または周りの環境に恵まれてきた人間の、「根拠のない自信」からくる落ち着きや振る舞い、言動にはどうあがいても勝てない。
それでも一度精神を病んで薬を飲んでから、これでも大分マシになったのだ。時間はかかったが、昔より自分を客観視できるようになった。努力をして人並みに容姿や外ヅラを誤魔化すことができるようになった。メイクも洋服も好きなのを着れるようになった。スカートやスキニーを履けるようになった。友達も増えた。
けれども。それでも。
それを悲観しているくせに、自分から目を背けているところもあるのだから手に負えない。
多分これは私の中の私と向き合わなければ解決しない根深い意識だ。まだ血が流れてる傷を見なきゃいけないのかと思うとしんどい。それでも幸せな友達を見て、私は半ば諦めつつも幸せになる努力をしようと思った。
恋愛は諦めている。では自分で自分を幸せにするしかない。他人からの「かわいい」だとか他人からの承認に頼るんじゃなくて、自分自身が「かわいい」とか認めてあげることが1番大事なんだってことに漸く気付いた。自分を大事にすれば、いつか他人と向き合える日も来るかもしれない。
あのとき下着を売ったことを後悔したことはない。ブスという化け物が執着していた「かわいい」なんてクソほども価値もないことに気付くことができたからだ。愛されなくても自分が自分のことを愛していたらそれでいい。
メモに書きためていた、数年前のバレンタインに思ったいろんなことをまとめてたら夏になってた。
今読み返してみて思うところはたくさんあるが、あの時だからこそ感じた決意などがはっきり書けていた為このまま記事にしようと思う。JKビジネスなどを推進する記事ではないということを明記しておく。
先日地下街を歩いていた時に、急に知らない男性から声をかけられた。アンケートにご協力頂けませんか?とでも言われると思い身構えたが、彼曰く私の顔がとてもタイプで、さっきまで居た店で見かけた時から尾けてきていたらしい。もし時間があったらカフェで話しませんかと言われた。めちゃくちゃ困惑した。生まれてこの方ナンパなどされたことがないし自分の顔については不可よりだとはっきり認識しているので、この人についていったら間違いなくツボを買わされるなと思い、一瞬で警戒レベルが上がった。その後も男性は私の容姿やら服装やらを褒めてくれたし、誘いを断っても態度を変えることなく最後まで優しく接してきた。別れ際に、なんで駄目か理由を教えてくれませんかと聞かれ、急に声かけられてちょっとうわ〜ってなっちゃったので…というぼんやりとした返答をしてしまった。帰宅後、この自分としては信じられない出来事を反芻しているうちに、もったいないことしたなという思いが湧いてきた。喪女を極めているため異性から可愛いだのなんだの言われた経験が皆無だったので、あの人を逃した今、もう二度と誰かとお付き合いするチャンスなど巡ってこないのでは?と思ったのだ。しかしだからと言ってホイホイついて行っていたらそれこそツボを買わされていたかもしれないし、最悪殺されていたかもしれない(これは少々思考が飛躍しているが)。しかし、ここでまたしかし、あの男性が本気の本気で私に声をかけてきたのであれば、申し訳ないことをしたなとも思った。こうやって知らない女性に声をかけたのは初めてだ、でもあなたに声をかけないと後悔するかもしれないと思った、それくらいあなたが可愛いと思った これらの言葉が全て本当だとしたら、私は随分酷い事をした気がする。年齢も職業も嘘をついたし、彼に何故駄目なのかと聞かれた際に誠実に答えられなかった。今思い直してみると急に声をかけられて怖かったからという理由以外に、自分が気に入ってないものを褒め称える彼を信用出来なかったから、だと分かった。いや、分かっていたけど言えなかった。信用出来ないが故に、とにかく早くその場を後にしたかったからだ。私はあの男性に騙されかけたのかもしれない。からかわれていたのかもしれない。若しくは彼の語ったことは全て本心だったのかもしれない。いずれにせよ今となっては分からないし考えるだけ無駄だ。他人の心を開いて見ることなんて一生叶わないと痛感したと同時に、自分が思いの全てを開示したいと思えるような相手は一生出来ないのではないかという漠然とした不安に身を包まれてしまった。
多分元気にいろんなこと乗り越えて頑張って楽しみを開拓してる人にはピンとこないと思うけど、どうなりたいとかでなく漠然と助けて欲しいとか救われたいとか幸せになりたいとか言っちゃう人にとっての救いってセックスでしかないのかな。
自分にとってそういう感覚って人肌恋しいって言葉が近いんだけどこれってセックスしたいのかな。
いろいろな余裕や豊かさを削ぎ落とされて脳の中に残ってるものが本能しかなくなって、いざ言葉にすると救われたいって単語しか出てこないのかな。
まあだからっていざセックスするかって言われたらこの文明社会日本に生きる人間なのでセックスにありつくのもそう簡単じゃなくて、やっぱり救われないのかな
遺書といっても本当の遺書ではない。理由なく毎日ただ漠然と死にたいので、いつ死んでも平気なよう、仕事の引き継ぎのメモを「遺書」と呼んで、今年度からつど書きながら仕事している。
仕事の中身をつぶさに記録していくたびに、社会人としての私の存在価値がたった1個、多くとも数メガバイトのdocxファイルに移っていく。
月が終わり、「◯月」の欄が埋まるたびに、スカスカした達成感がある。
私は多分、自殺をしないと思うし、事故や病気で夭折することも、なんとなく叶わない気がしている。
でも、こいつがあれば、私はいつでも存在価値をただのデータに取って代わられるようなゾンビになれる。いつ死んでもいいし、生きていてもいいし、でも、死んでも困らない存在になる。
案外悪くないなと思うのだ。
政治に無関心な若者とかよく言われるけど、無関心層に加えてネトウヨみたいないわゆる保守層の比較的若い世代(30代くらいまで)って漠然と「保守的な年配者に任せておけば若者のことをも気にかけてよくやってくれるに違いない」という甘ったれた思い込みをしてると思う。
「子供部屋おじさん(おばさん)」という言い方はまさにそのあたりぴったりな表現で、仮に結婚してたり一人暮らしをしてたりして自分の世帯を持っていても漠然と年配者の采配に期待している人は「子供部屋」から抜けてないといえる。
自分の話になるが先日とある経済界のトップが集まるパーティー会場で接客の仕事をしたのだけど、そこで聞こえてくる話が本当に反吐が出るようなものだった。
そこにいるのは平均年齢70くらいの会長職とか会社の代表とかが多かったが、会話の内容は「いかに自分は働いていないのに稼ぎを出しているか」という自慢話ばかりだった。
週何日ゴルフに行ったとか、どこそこの管理職女性がエロい体してるかとか、正直場末の居酒屋のオッサントークとかわらないレベル。
政治や経済をそういう年配世代に任せるとき、最初に挙げたような人たちは「人生の荒波を乗り切ってきた先輩たちが若者のことを高いレベルで考えてよい方向に導いてくれるはず」と思い込んでいるのかもしれないが、断言する。
「日本人であれば~」という言い方をする連中には特に注意だ。あいつらは外的要因で搾取をさせるためにそういう言い方をする。
金持ちの年寄がうまいのは、若者のことを考えているかのような振りをすることだけだということにもっと多くの人が気づくべきだと思う。
こうして蒸し暑くなってくると、もう10年も昔になる工学部の大学生だったころの思い出がよみがえる。大学生とは、今振り返ってみると自由で開放的で人生が最も輝いていた時期だと思う。都会に出て親の管理から離れて下宿して、適当に大学に行って、夜は自由に過ごす。もう二度とこんな素晴らしい時間はこないのだろう。今でも時々、目を閉じて楽しかったころの雰囲気を思い出す。
大学では高校のように閉鎖された人間関係に圧迫感を感じることもなく、講義で毎日のように会っているのに名前も知らずそれでいてテストの前にはノートのコピーをせがむような緩い関係が良かった。毎回講義に出るかどうか悩んでいたが、ただ習慣というだけで面白いわけでもない講義に出ていた。だから、休講になると喜び勇んで駅に行って焼き魚定食を食べた。御飯がお替り自由だったので、卵かけご飯、みそ汁の猫まんま、沢庵、焼き魚と山盛りで4杯は食べた。こうしておくと夕飯を食べずに過ごせるという打算からだった。腹いっぱいに御飯を詰め込んで、街をぶらぶらするのが最高の幸せだった。帰り道にレンタルDVDを借りるのも楽しみだった。当時はまだギリギリレンタル文化が残っていた。
講義が終わったら夜までサークル部屋で談笑した。授業のこと、社会のこと、世界のこと、あらゆることに開かれている気がした。大学生の私にとって、そんなおしゃべりが未来に対する漠然とした不安に抗う唯一の逃げ道だった。
大学時代はむやみやたらに動き回っているのに、これといってなしとげられない自分に怒りと嫌悪感でいっぱいだった。そのくせやりたいことだけは増えていき、楽しいだけの生活ではなく一人になると悩むばかりの生きざまだった。まあ、たくさん悩んだから今の悩み慣れした自分があるのだという風に、今は開き直っている。
夏休みは実家に帰ってきたら、という両親の誘いも断り、アパートに引きこもってニコニコ動画をずっと見ていて結膜炎になったり、エアコンを我慢しすぎて熱中症になったりした。授業もなく、知り合いには誰にも会わずに買い物以外はひたすらPCで動画を見ていたか、申し訳程度にPCを作ったり壊したりしていた。毎日見ず知らずの通行人とすれ違うのだが、誰とも会話をしないとだんだん思考が、焦げてくる。ニコニコ動画のお気に入りのMAD動画を半日ずっと見ていたりした、あの頃はどうかしていたと思う。余談だが、素材を切り貼りしたMAD動画文化が昨今衰退したのは悲しい。私が知らないだけで、どこかに彼らの生き残りが活動していたりするのだろうか。
とにかく、あの頃はクリエイティブなことをしたいという衝動にいつも駆られていたが、ただ悶々とした時間を過ごしただけで何かを作るということはついぞなかった。なんの役に立たないが、アニメの絵柄を見ただけで「これてってあのアニメとキャラデザのスタッフ一緒じゃね?」て当てられるようになっただけだ。あと、拾った画像で「これってあの絵師じゃね?」という特技もあったけれど、今は画像検索が発展したのでお役御免となってしまった。
春の風が終わり、緩やかな殺人としか思えないほど湿度が高くなってくるときらきらとした輝きを放つ過去が思い出される。記憶が美化されるとはこういうことなんだなと納得している。しかし、どうにもあの頃の自分こそ本物の自分であり、毎日働く今の自分というのは偽物であるという感じがずっとまとわりついている。
自分はエンジニア(肩書上)なんだけれど、父の日に有給を取った。
理由はもちろん「私用」そこで事前に伝えていた親父を食事に誘ったのだが店で料理が運ばれるのを待っているときに
「有給なんか取って大丈夫か?」と心配された、もちろん「問題ないよ」と答えたが日数の問題ではないらしい。
うちの親父は今年で62歳、金融業界の営業として未だに働いている、母親が家にいるとストレスになるしボケると迷惑だからと引退を許してくれないとかで未だに働いている。
そんな親父の世代は身を粉にして会社に尽くし客に尽くして深夜までの残業や終電帰り休日でも客からの電話は即座に対応と言う働き方が
当たり前とされている世代で有給を取るなんてあり得ないと言われた時代を生き抜いてきた人だ。
親父にとってちょくちょく有給を取って遊びに行ったり記念日に休む労働者が目の前に存在する事自体が、ありえないと思う反面、時代が変わったんだと戸惑うらしい。
ちょうど親父の世代が部長や役員を占める企業が多いから「有給を取っているとやる気がないと烙印を押されて会社から排除されるのでは」と心配をしていたみたい。
食事はそんな話で始まったけれどあとは母親に飲みすぎだと怒られて酒を隠されたとか、会社の新人がダメとかたわい無い話で終わった。
親父と別れてふと・・・・・「親父の世代がいる限り働き方改革なんて不可能じゃないかな」と漠然と感じた。
働き方改革は旧世代のアイデンティティーを破壊するレベルのもの、それを変革するなんて罰則付きの法律で縛らない限り不可能ではないか。
特に老後のこととか考えたこともなくて、観測範囲の年金暮らしの老人のイメージで、漠然と老後は悠々自適の年金暮らしと思ってた人らか、とにかく政府の失策にしたくて騒いでるかのどっちかやろうな。
怒ってる人ら。
22歳の女だ。
働き始めて、日本は滅びた方がいいとより強く思う。
「おもてなし」とか「マナー」とかほざいて、「外人が思う日本の素晴らしいところ」とかテレビ組んでてくっそ気持ち悪いよな。
レイプは無罪!車で人を殺しても捕まらない!初任給15万!「いつか返すから」と言われて今の老人達に毎月3万くらい払わなきゃいけない!それがなくちゃ2000万たまりそう、っていう爆笑な矛盾!
働き始めて尚更。
何もすることないから定時までみんなネットサーフィンしてるって何これ(笑)
こんなの続けなきゃなの?
滅びちゃえよこんな国。
いいでしょ、こんな国。
私たち若者は、ずっと将来に漠然とした不安を抱きながら生きてくんだろ?
最近年下見ると泣きたくなるよ、この子達はもっと辛い負担が来ちまうのかと。
負の連鎖なんて断ち切ろうぜ。
当たり前に子供産まないよ。
可愛そうだから。
「女性は最低でも3人は……」とかほざいた野郎がいたけど、出産は女性一人じゃ出来ないんだけどね。
はやく滅びろよ日本。
おれは社会の一員であることを自覚しているので、問題があれば変えたいと思っている
あなたの文章では何か大変だろう事はわかるがその原因がいつ書かれるのかと思っていたが結局なく(落胆)、最後の方に社会への攻撃宣言してるのを見て、あぁ漠然とと社会に敵愾心もつ他責のタイプだと思った
氷河期だからとかこういうことがあったとか書いてれば賛同も出来たろうに、あの文章なら同じ境遇の人以外に訴えられるわけがないではないか
(ごめんトラバ間違えた)
で、誰かに守られるイメージを疑似体験できるマンガとかないかな、と検索してるうちに寝落ちした
フィクションで守られる感覚を探すことはできなかったが、いつものように肌触りの優しい敷き毛布と掛け毛布にくるまると、ちょっと気持ちがなだめられた
毛布は良いと思う
俺はシスヘテロの30代男で、彼女なしの独身。過去に数カ月だけ付き合った人が二人いる。男友人はある程度いる。女友だちも数人いる。ただ、ほとんどが大学時代からの友人で、社会人になってから広がった交友関係はほとんどない。会社で友人は作らない。友だちが沢山いるとは言わないけれど、決して少なくはないだろう。
俺の友だちの定義は「サシで会える相手」だ。複数人で会って話せる相手も人によってはサシで全く話せなくなることも多い。そういう人には心の距離を持ってしまっていると感じる。
オタクの繋がりだからかはわからんが、男友だちの多くは独身だ。でも女友だちはこの年になると彼氏がいるか結婚してる。半分は子どもができた。旦那さんとも友だちか先輩かだったりするおかげで子どもがいてもサシで(というか赤ちゃん連れて)お茶するくらいはたまにしてるけど、流石に会う頻度は昔に比べると減ってくる。相手は仕事に育児とてんやわんやで、プライベートも減っていると聞く。あと地方に戻るとかで物理的に会えなくなる相手も増える。旦那さんが全く親しくないひとの場合は流石に気軽には呼び出せない。どうしたって「気軽に会う」回数は減る。
そうなると「会いやすい」友だちは自然と男に偏ることになる。飲みニケーションという言葉があるが、帰りに数時間酒を飲むだけならできなくはない。それにしたって既婚者や同棲相手のいる人は誘うのに少しは躊躇はしてしまう。独身相手なら急に呼び出すことのハードルは低い。交友関係の中で唯一、当日に雑に呼び出せる友人がいる。平日午後にお互いLINEで「酒」「19時以降新宿か中野」「ルミネ7階」の会話だけで飲みの算段がつく。端的に親友だと思っているが、それでもやつと会うのは半年に一度くらいだ。それくらいの距離感がちょうどいい。心理的距離感と「何度でも頻繁に会いたい」という感情は必ずしも一致しない。ただこれも、どちらかが結婚したり彼女ができたりするときっと失われる距離感なのだろうと考えている。
どうしたってライルスタイルの変化は人生に伴うし、それにあわせて友人との実際的なつながりは、消えはしないが薄れていく。なぜなら俺たちは友人だけど家族じゃないからだ。こころがつながってるとかそんな話はしていない。ここにあるのは「家族を持ってる人」と「家族を持ってない人」、「男性」と「女性」の間にある交友関係の勾配だ。人生と同じで人間関係は年を取るとどんどん選択肢が狭まるように感じてしまう。
そのことに俺自身それほどの不満はないし、正直彼女がほしいとか結婚したいとかもあまりない。問題は俺がよくても周りが勝手に変わっていくことで、普通に生きているだけで世界がどんどん閉じていくように感じている。少なくとも「恋愛関係を含まない女友だち」は少しずつ損なわれている。女友だちとの関係は他の交友関係で代替可能ではあるけれど、決して同じものではない。男性同士・女性同士・男女間・友人関係・恋愛関係・家族……すべてが異なる性質のものだと俺は思っている。失われたから別のもので埋め合わせればいいという問題ではない。
「あてがって」もらう必要はない。新しい関係性が本当にほしくなったら新しい場所に飛び込んで交友関係を開拓する。ただ、昔は好き勝手生きてりゃ自然とできた友だちが、今では「開拓する努力」が必要になったのかとため息混じりに思うことがある。それだって東京に住んでる以上はるかにハードルは低い。
ここまで書いてて思うのは、俺は人間関係の面でどう考えたって恵まれているということだ。東京でぼちぼちの生活ができてて、日々はそれなりに充足してて、友人もそれなりにいる。彼女がいたこともあれば女友達もいる。俺は自分が社交的な人間とは思わないのだが、多分社交的に分類されるんだろう。それでもふとした瞬間、それこそこの文章を書いてる深夜なんかに漠然と将来の人間関係に不安を抱く。そして、俺よりもはるかに「恵まれず」、はるかに不安を抱いてる人が世界には山ほどいるだろうことに愕然とする。
「女をあてがえ」という言葉は間違った欲望と感じるものの同時に悲鳴にしか聞こえない。「助けてくれ」という心の叫びだ。それを聞くとひどく悲しい気持ちになる。なぜなら男である俺がどこまで同情していようと、彼らを助けることはできないからだ……そこでなぜ「友だちをあてがえ」でも「家族をあてがえ」でもなく「女をあてがえ」と言われやすいか、という問題は考えてほしいけど。
個人としての人権が尊重されればされるほど、ある種の交友関係を得られない人に「あなたの考え方を変えなさい」か「あなたが自分で見つけなさい」と言わざるを得なくなる、人間関係の自己責任論が強まってしまうという矛盾をどう解決すればいいか、俺は知らない。