こうして蒸し暑くなってくると、もう10年も昔になる工学部の大学生だったころの思い出がよみがえる。大学生とは、今振り返ってみると自由で開放的で人生が最も輝いていた時期だと思う。都会に出て親の管理から離れて下宿して、適当に大学に行って、夜は自由に過ごす。もう二度とこんな素晴らしい時間はこないのだろう。今でも時々、目を閉じて楽しかったころの雰囲気を思い出す。
大学では高校のように閉鎖された人間関係に圧迫感を感じることもなく、講義で毎日のように会っているのに名前も知らずそれでいてテストの前にはノートのコピーをせがむような緩い関係が良かった。毎回講義に出るかどうか悩んでいたが、ただ習慣というだけで面白いわけでもない講義に出ていた。だから、休講になると喜び勇んで駅に行って焼き魚定食を食べた。御飯がお替り自由だったので、卵かけご飯、みそ汁の猫まんま、沢庵、焼き魚と山盛りで4杯は食べた。こうしておくと夕飯を食べずに過ごせるという打算からだった。腹いっぱいに御飯を詰め込んで、街をぶらぶらするのが最高の幸せだった。帰り道にレンタルDVDを借りるのも楽しみだった。当時はまだギリギリレンタル文化が残っていた。
講義が終わったら夜までサークル部屋で談笑した。授業のこと、社会のこと、世界のこと、あらゆることに開かれている気がした。大学生の私にとって、そんなおしゃべりが未来に対する漠然とした不安に抗う唯一の逃げ道だった。
大学時代はむやみやたらに動き回っているのに、これといってなしとげられない自分に怒りと嫌悪感でいっぱいだった。そのくせやりたいことだけは増えていき、楽しいだけの生活ではなく一人になると悩むばかりの生きざまだった。まあ、たくさん悩んだから今の悩み慣れした自分があるのだという風に、今は開き直っている。
夏休みは実家に帰ってきたら、という両親の誘いも断り、アパートに引きこもってニコニコ動画をずっと見ていて結膜炎になったり、エアコンを我慢しすぎて熱中症になったりした。授業もなく、知り合いには誰にも会わずに買い物以外はひたすらPCで動画を見ていたか、申し訳程度にPCを作ったり壊したりしていた。毎日見ず知らずの通行人とすれ違うのだが、誰とも会話をしないとだんだん思考が、焦げてくる。ニコニコ動画のお気に入りのMAD動画を半日ずっと見ていたりした、あの頃はどうかしていたと思う。余談だが、素材を切り貼りしたMAD動画文化が昨今衰退したのは悲しい。私が知らないだけで、どこかに彼らの生き残りが活動していたりするのだろうか。
とにかく、あの頃はクリエイティブなことをしたいという衝動にいつも駆られていたが、ただ悶々とした時間を過ごしただけで何かを作るということはついぞなかった。なんの役に立たないが、アニメの絵柄を見ただけで「これてってあのアニメとキャラデザのスタッフ一緒じゃね?」て当てられるようになっただけだ。あと、拾った画像で「これってあの絵師じゃね?」という特技もあったけれど、今は画像検索が発展したのでお役御免となってしまった。
春の風が終わり、緩やかな殺人としか思えないほど湿度が高くなってくるときらきらとした輝きを放つ過去が思い出される。記憶が美化されるとはこういうことなんだなと納得している。しかし、どうにもあの頃の自分こそ本物の自分であり、毎日働く今の自分というのは偽物であるという感じがずっとまとわりついている。