はてなキーワード: 動詞とは
中身の無い人間が、服装だけ着飾ったってすぐにボロが出る。
口ばかり達者な人間は、長く接していると矛盾が見えてくる。そして信頼を失う。
技術だけの人間は、社会に出ても美味しい汁を吸われて安く使われるのがオチだ。
心優しい人間は、言葉や行動を伴わなければ存在しないのと変わらない。
躰たくましい人間は、それを生かす方法を見つけられなければ無意味だ。使い方を間違えたら害にもなる。
努力している人間は、その成果について常に確認しないと努力の意味がない。努力の行為そのものに満足していたら最悪だ。
「着飾ったって意味がない」とか「口達者は信用できん」とか、特徴の一点を否定するような言い分は詭弁だ。
「努力にこそ価値がある」とか「心だけは優しくあれ」とか、特徴の一点だけを肯定するような言い分も足りない。
中身が伴わなくたって、口達者でおしゃれな人間はきっとモテる。
心が冷たくても、躰たくましく頭も回る人間は、文武両道としてきっと一目おかれる。
ダサい恰好してるけど、技術がありさらに努力している人間は、たぶんナメられない。
いくつもいくつもパラメータが積み重なって人間の性質が出来上がるわけで。
ひとつひとつの特徴だけを否定したり肯定するようなことは、論理として足りない。
その行為自体に満足するなんでもっての外だ。
努力は、その結果として何かの成果を出して、それが人に認められなければ無価値だ。努力は手段でしか無いんだよ。
もし貴方が何かに努力しているとして、その姿についてきっと周りは称賛の言葉を投げてくれるだろう。
しかしそれは貴方が挙げた成果への承認ではない。しかし社交辞令でもない。彼らは割と本気で貴方を称賛してくれている。
それは何に対する称賛か。
それは「未来に発生するかもしれない成果に向かう貴方の姿」への称賛だ。承認ではなく応援なのだ。期待なのだ。
もしこの称賛に満足してしまったらどうなるか。
満足は人の足を止める。そこで未来予想図は砕ける。それは彼らの応援に対する裏切りだ。
応援は応援として受け止め、それを「承認として曲解し、足を止めるようなこと」は絶対に避け、
彼らの声に応えたいならば足を留めずに進んでいこう。
ある時点で何か諦めるのも別に悪いことじゃない。それはそれで選択だろう。
それは別の何かの可能性の始まりになる。
でも、何かを辞める理由を「十分努力したから。努力という目的は達成したから」みたいな歪んだ理由として自分を騙すのは、ダメ、絶対ダメ。努力は手段なんだよ。「努力に満足する」なんていう動詞は在っちゃいけない。そんな辞め方したらその先もまた同じような失態を繰り返す。
為末 大 @daijapan
成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提。
私はこの発言を大肯定する。
これはおそらく現実だ。
でもね、この発言を引用して、「じゃあ才能ないけど努力してる俺の努力は無駄なのかよ」みたいな論調で否定するような行為は愚かだからやめたほうが良い。
才能があるかどうかなんて完全には分からないし、才能がもし足りなくても努力で補える可能性が1%くらい残ってる。そういうところにしがみつくのが本来の努力だと思うのよ。そんな意地も持てずに、彼の発言を理由に自分の努力を無駄扱いするような言動はとても恥ずかしい行為に見える。もっとプライドを持とう。
これが間違えているのか、敢えてeを取るのが流行っているのか、判断がつかん。
「敢えてeを取るのが流行っている」とまで弁護してあげて、
カッコつけてNoと言わずにNopeと言おうとして恥かいたことをかばう必要はない。
ツイッターや4chanでの他愛ないおしゃべりで「ぺらぺら」になったつもりの学生ならともかく、
第一、本当に「ぺらぺら」なら、意味もなくカッコつけたスラングなど使わない。
なぜかもう消されてしまっているが、こういうレスがついてたんだ。
"Yes" is "yep", and "No" is "nope", in colloquial english? right? ちぃ覚えた。 Well, your linked page describe, Nop is an abbreviation for "not our publication". "not our publication"? What's mean? But I know another mean in computer science ver...
きみが「英語ぺらぺら」でなくとも、your linked page describe ... がおかしいことはわかるだろ?
それを言うなら、the page you linked describes ... だ。(describeという動詞の選択も変だが)
こういう「節」がまともに使えないのは「ぺらぺら」とは言わんと思うがね。
MicrosoftのHelpページ、日本語だと最初普通に誰か書いたようなレベルだと思ってて、
でも良く見るとおかしな部分があって、ん?とか思ってたらBing使って訳してるだけだった。
勿論、完璧ではないけど、Googleより余程精度が高い感じ。
Exciteって昔物凄く弱かったイメージがあって使ってないけど、Googleより精度高い?
ま、でも、日本語って語順が違うから結構難しいんだよね。正確に、教科書初歩レベルな感じできっちり主語、動詞、等が無いと上手く翻訳出来ないし。
英語の翻訳にはあまり実用性感じないけど、フランス語やドイツ語なんかを訳すのに英語にすると結構読める。
勿論、元の文章をほとんど自力で訳せないから、英語で書いてあることを信じるしか無い、というのはあるんだけども。でも、なきゃ全く分からないページも多いから便利だよね。
2chまとめで話題を見かけたので思うことを書く。
自分は、言葉は変遷していくものなので別にいいんじゃね?派なんだが、それはさておき、気になったのは「よろしかった」という過去形はおかしいだろ、という文法的な指摘だ。でもこれ、文法をもちだすのなら、むしろ逆に納得のいく説明ができる。
動詞に「た」をつけた形は、「過去形」ではなく、そのまんま「た形」と呼ぶ。なぜそう呼ぶかというと「た」がつくのは過去に限らないからだ。
「た形」のもうひとつの重要な使い方は仮定法。「もし明日雨が降ったら」というときの「降った」が過去のことを指していないのは言うまでもない。そして、この点、日本語と英語は似ている。英語でも仮定法では過去と同じ形の動詞をつかう。
さらに、仮定法と丁寧な言い回しに密接な関係がある。英語で Would you like ~ というとき、will の過去形である would を使っているのはもちろん過去だからではなく、これは仮定の語気を含んでいるからだ。「もしあなたがお望みであれば〜」というニュアンス。「私の押し付けではなく、私にはあなたが何を望んでいるのかを断定するつもりはなく、あくまであなたが望むなら」という気持ちがこもっている。それがひいては「丁寧な言い回し」となる。
というわけで「過去形」「仮定法」「丁寧な言い回し」の間には、密接な関係があって、それは日本語にも英語にも通じる。たぶん、言語を問わず、人間が生まれもった言語論理自体にもともとそういう類似性が含まれているんだと思う。
「よろしかったでしょうか」という言い方を使う人が「よろしいでしょうか」をすこしキツいと感じているとすれば、それは上記のような理由。人間の言語能力的に、必然的な感覚なんじゃないかな。
イケハヤニ殺サレタ→http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/comment?date=20130627§ion=1372308842
「1回言ったくらいで死ぬような奴は他に原因があるに決まってんだろアホか」
これは確かに正論なんですが、「最後の一押し」になる可能性は十分あります。
ネットは不特定多数に届きうるものだから、その確率はネット以外のものよりもだいぶ高いかもしれない。
もちろんそれがなくたって、何か他の「最後の一押し」があった可能性も同様にありますけども。
悪い例えを使うと、今まさに崖から落ちそうになって両手でへりをつかんでる人がいるとする。
体力的にほっときゃ間違いなく落ちる。そのときうっかり景色に気を取られて、気づかずその人の手を踏んでしまってその人落っこちて死んじゃったと。
確かにその人の死因の割合としては、踏んでしまったことは微々たるものかもしれないし、落下死の運命も決まっていたかもしれないけど、
そこで踏んでしまった人が「いやあいつ俺が踏んでも踏まなくてもどうせ落ちたでしょ? 俺別に悪くないと思うんだけど」というのは、やはりおかしいのではないかと思うわけです。
kyoumoe氏の「会ったこともない知らない人間に1回死ねと言われたくらいで死ぬような奴に配慮してたら何も書けんわ」は実に正論、それで責任を取らされるのであれば口をつぐむほかない。
ただしイケダハヤト氏の「『死ね』という言葉は攻撃性が高すぎます。今のやり取りがまさにそうであるように、ある程度誤解されることは前提です。あなたがそのつもりはなくても、受け手はその言葉に傷つくことは十分ありえます」というのも同程度正論と言って差し支えないはず。
そもそも最初の問題は、kyoumoe氏が「ネットイナゴ呼ばわり」と「死ね」をクソミソに語ったところから始まってはいなかったか。(http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20130625/1372176480)
以下私見ですが、「ネットイナゴ」と「死ね」の影響力を同程度と考えるのはまずもってかなり無理があるかと。
理由は簡単で、「ネットイナゴ」はスラング、「死ね」は一般動詞命令形だから。スラングと一般動詞では、与える力以前に意味を理解できる人間の数が違いすぎます。
それを天秤に乗せて「お前は俺に『死ね』って言うなっていうけど、じゃあお前の『ネットイナゴ』で人が死んだら責任取れんの?」というkyoumoe氏の発言は、
「1回言ったくらいで死ぬような奴は他に原因があるに決まってんだろアホか」「会ったこともない知らない人間に1回死ねと言われたくらいで死ぬような奴に配慮してたら何も書けんわ」という自身の発言と矛盾をきたしているのでは?
とはいえイケダハヤト氏もイケダハヤト氏で、この記事(http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20130627)でkyoumoe氏が言及しているように、
巧みに被害者/加害者の構図を誘導して、kyoumoe氏をやりこめてしまったわけですが。
もちろんこれは文章上のテクニックなので、批難できるようなものではありませんけどね。
ただひとつ解せないのは、「『死ね』も『ネットイナゴ』も、発言していいんですよ。発言者の覚悟の問題です。覚悟があるのなら、どんな発言も自由です」
というkyoumoe氏のブログのコメント欄に書き込まれたこの文言。
これはひと目で明らかに間違っているのがすぐに分かるはず。発言の影響力は発言者が覚悟を持っているか、責任を取れるかという問題ではないので。
そもそも人の死に対して他人が責任とるという行為自体不可能じゃないですか。僕らはザオリクもアレイズも使えないんだから。
イケダハヤト氏は裁判の話を持ちだしてるけども、裁判で白黒つけること=責任を取ることではない。
裁判はあくまで法律上罪人となるかそうでないかを判断することでしかないので、人の死に対してはむしろあまり関係のないことだとすら言えるかもしれない。
結論を言うと「『死ね』はやめといたほうがいいんじゃないの。『死ね』使わないでも伝えられるでしょ」というのが第三者からみた正直な感想です。
3 その理由は,
動詞の意味を見ると、「貼る」は物を(広げ)他の物に糊や鋲などで付着させることで、「張る」は、一点から伸びたものの先が広がる、糸・紐・綱・針金などを一直線に伸ばし、渡したりすることです。(中略)
Webとはもともと英語で「クモの巣」の意味で、クモの巣のように世界に張り巡らされた情報網のことをインターネットのWorld Wide Webと言います。クモが巣を作るとき、いきなり網状の巣を貼り付けるのではなく、まずはある一点から別の一点に糸を渡し、それを繰り返しながら巣を編んでいきます。リンクもそのイメージで作られていると解釈すれば分かり易いと思います。
とあって,インターネットのWorld Wide Web(ワールド ワイド ウェブ、略名:WWW)システムとの関係から説き起こし,極めて説得的である。
もう15年も昔に卒業した大学に卒業証書を貰う事になった。戯れに偏差値を調べてみたら40だった。
15年前の偏差値を知るよしも無いが、当時から3流大学だった事は間違い無いし、それでも大学は非常に楽しかった。
ふと、もしかしたら高校生や浪人生で偏差値40の大学に入学する事に不安を抱いている人もいるかもしれないと思い、ここに吐き出してみる事にした。
いい大学へ入りなさい。いい会社に入りなさい。安定した仕事をしなさい。親が公務員だった事から常日頃からそう言われて育てられた結果、小学校から成績は低空飛行を続け、高校では県下で下から数えた方がいい3流高校へ入学。そのまま推薦で3流大学へ入学という底辺コースをひた走った。
努力無く見栄えだけは整えようと、部活や生徒会の役職をこなしながら教科書の代わりに小説や漫画を読み、寝食を忘れてゲームにのめり込んだ。というのが僕の小中高だった。
当然学校の勉強なんてついて行けるわけが無く、中学時代は教科書が記号に見えたし、英語なんて未だに主語と動詞も理解していない。
それでも高校も3流だった事が功を奏し、比較優位の問題で成績は悪くなく、小論文と面接で大学は受かった。第二次ベビーブームの終焉による学生不足という学校側の都合もあったと思う。
もちろん、私立、文系、低偏差値、別居という4重苦に対して多大なる投資をしてもらった親があってこその入学だった。
入学して最初に感じた事は、大学は人種のるつぼだったという事だ。政令指定都市の3流私立なんて、政令指定都市のご子息が集まるはずもなく、僕の様な「はぐれ者」が全国から集まる事になる。
いきおい、出身もバラバラ、年齢もバラバラ、バックグラウンドとしての知識もバラバラなやつらに囲まれる事になる。それだけでも相当面白い。
また、皆一人暮らしな事から寄り集まる事も多く、各地の料理や故郷観とも言うべき価値観などもゆるやかに共有していくコミュニティが作られる事になる。
その政令指定都市の中でも15くらい偏差値の高い大学に在籍した妻の話を聞くと、周りは政令指定都市のご子息だらけで、実家または遠くても近県出身が多かったとの事なので、これは偏差値というより立地と偏差値がパラメーターになってバリエーションが変わってくる様だが、多様な価値観を知る事ができ、感じる事ができるというのはどこの大学にも共通した価値だと思う。
曰く「社会に出てからの仲間には必ず損得勘定が働く。君たちは損得勘定抜きでつきあえる最後の仲間だ。大切にしろ。」
おぼろげながら社会の厳しさを想像していた僕には、目から鱗な一言だったが、今でも確かに一理ある。と思う。
低偏差値大学であればあるほど、なんというか社会に出てからのバリエーションが豊富(?)なため、価値観にも違いが出てきて、仕事の話や生活の話はしにくくなるが、今でも合えば当時に戻って文字通り損得抜きで話ができる大切な仲間ができたというのは財産だ。
逆に偏差値の高い大学に入るメリットも、まさにここだろう。低偏差値の場合は損得抜きの仲間を作れるが、偏差値が高いと損得有りな関係を構築する事が可能だ。
今後いつまでこの状況が続くかわからないが、就職というのが卒業生大多数の選択肢となる現代日本においては、偏差値の高い人達は価値観が似通う仕事をしている割合が多いようにみえる。
結果、社会に出てからも有用なお付き合いができる仲間が持てる。という事になる。正直これはうらやましい。
研究内容や就職しやすさなんてのは些細な話で、この一点においてのみ、僕は高偏差値大学がうらやましいなと思う。これが必要だと思う人は頑張って勉強して偏差値の高い大学に入って下さい。
ただし、これは低偏差値出身でも高偏差値の人達と付き合ってると、次第に増えてくるものなので、何が何でも学生時代に得なきゃいかん!というわけでは無い。ちょっと座布団ひいて社会人生活をスタートできる。という程度の話だ。
大学に入ると教授という生き物が居る。低偏差値大学は、この大学教授の距離が異様に近い。
これは卒業して他校の話を聞いてはじめて知ったが、低偏差値大学の教授はある種学生に諦めにも似た境地を持って接しているため、権威誇示などという無駄な事に労力を使わない。
普通に研究室へ行けば居る人という近所のおじさん感覚で教授と会話できるのは、低偏差値大学ならではのメリットだろう。
低偏差値大学は遊びに来ている学生も多い事から、少し普通に学生ぶってみるだけで、その道の専門家の豊富な知識と多様な人脈が面白い位簡単に手に入る様になる。
これは有形無形の様々な価値を僕にもたらしてくれた。当時の研究内容は教授の助けもあってそれなりに面白いテーマにできたし、それは社会に出てからも自分の専門領域として高偏差値出身の人達との目線併せという意味で一役買ってくれている。
また、師事した教授の人脈で直接師事していない教授を知り、そのつてが就職にも有利に働いた。
何よりも「答えの暗記」ではなく「問題を考える」という事に慣れる事ができた事は大きい。今にして思えば、なんで高校までは考える事を教えないんだろう??実は聞いてなかっただけで教えていたのかな。
ほんの少し吐き出そうと思ってたら、意外と長くなってしまった。もう一回要点だけまとめてみる。
文系でも私立で一人暮らしとなったら、余裕でレクサスを買える位の金を払って大学に行く事になる。それなら、十二分に喰い物にしてやろう。という気持ちで臨めば、低偏差値大学には低偏差値大学なりの得られるメリットはあるので、前向きな気持ちで入学してください。新入学おめでとう。
丶`д´ <チョッパリが我が偉大な朝鮮語のことを全然考慮していないニダ
文法は言語の世界では少数派の、SOV系(英語、中国語を含む多くの言語はSVO系)。⇒朝鮮語もSVO
しかも助詞によって、主語や目的語の順序を前後させる事ができる。⇒朝鮮語も助詞あり、順序逆転可能
というか、主語を省略することが多い。⇒朝鮮語も、というか英語以外大体の言語が省略可能。中国語も可能
動詞は各に活用の種類が決まっていて、個別に覚えなければならない。⇒朝鮮語も活用する
まっとうな社会人として振舞うには、敬語を使い分けなければならない。「私は」「俺は」/「拝見します」「ご覧ください」etc⇒朝鮮語も敬語が豊富
母音が5つと少ない(二重母音がない)ため、発音は比較的簡単だが、弊害として外来語が間延びした音節に区切られたり、似ても似つかぬ音に変換され、理解しにくい。⇒朝鮮語は単母音が7つもあるわりに音節を間延びして受け入れる
社会生活を送るためには、最低限、50文字のひらがな、50文字のカタカナ、2000字弱の漢字の読み書きができないといけない。
しかも漢字の多くが2種類以上の読み方を持ち、使いどころと読み方をセットで覚えなければならない(中国語は多くが一通りの読み方)。
文法は言語の世界では少数派の、SOV系(英語、中国語を含む多くの言語はSVO系)。
しかも助詞によって、主語や目的語の順序を前後させる事ができる。
というか、主語を省略することが多い。
動詞は各に活用の種類が決まっていて、個別に覚えなければならない。
形容詞すら活用する。
まっとうな社会人として振舞うには、敬語を使い分けなければならない。「私は」「俺は」/「拝見します」「ご覧ください」etc
難読人名/地名多すぎ。日本人の中でさえ戸惑うこともしばしば。
地方では方言が色濃く残っており、標準の日本語だけでは理解できないことも。
母音が5つと少ない(二重母音がない)ため、発音は比較的簡単だが、弊害として外来語が間延びした音節に区切られたり、似ても似つかぬ音に変換され、理解しにくい。
Michael→英語:Mi・chael(2音節) 日本語:マ・イ・ケ・ル(4音節)
water→英語:wa・ter(2音節:『ワラ』に近い) 日本語:ウォ・ー・タ・ー(4音節)
頭が悪いっていうか、注意力と記憶力が低すぎて論理構造を作るまでに至ってないみたいな感じですね。
英語で例えると何度教えてもbe動詞の時制がおかしいとか一般動詞の活用しくじるとかit...thatの構文の構造がわかってないとかそういう感じでしょうか。
言語は数こなさないとどうにもならないです。業務で評価が低いということはミスの度に叱られたり注意されているということですが、それで本人が萎縮すると注意力記憶力共に減退しますので悪循環です。
開き直るよりは申し訳ないとしょんぼりしてるほうが周囲のウケはいいのですが成長率は落ちるので、業務外で猛勉強するか業務中に凹みつつもガンガン知識を吸収する必要があります。
http://d.hatena.ne.jp/takeda25/20121017/1350465781
まったくないという人もいるかもしれません。
しかし、「揺るがせる」「巡らせる」等は、辞書を見てもないことが多いのです。
これは、元々は下二段活用(否定は「せず」)だったのが、下二段活用がなくなるとともに、五段の「す」(否定は「さない」)と下一段の「せる」(否定は「せない」)に分かれた片割れです。
(用例番号は引用者付記)
1.は「ガ行五段活用の動詞「揺るぐ」の未然形である「揺るが」に、使役の助動詞「せる」が付いた『揺らがせる』の進行形。」
2.は「ラ行五段活用の動詞「巡る」の未然形である「巡ら」に、使役の助動詞「せる」が付いた形。」
であって、「揺るがす」「巡らす」とは別の単語。変化ではなくて、分化と呼ぶべき。他も同様。特に1.のような報道関係によく見られる文章になると、客観性の保持からか、使役を伴う表現が増える。(主体性の問題)
変わってるんじゃなくて、使い分けてるのであって、置き換わってるわけでもない。
ちなみに、上記用例はすべてヲ格を伴う他動詞であり、自動詞と他動詞は一対一対応するわけではなく、自動詞ひとつに複数の他動詞が存在するのはたくさんあるわけで、結局のところ、これを微細であれ変化と認めるのは難しい。
秋なのに桜が狂い咲いている
これらはいずれも名詞の中でも「転成名詞」と呼ばれるものであり、転成名詞はすべてが他の品詞から派生して名詞になったものである。
ゆえに、これらは「名詞が動詞になった」ではなくて「転成名詞がもとの品詞そのものとして扱われている」と解釈すべきであり、そしてそれは転成名詞の成立上他の名詞より柔軟に使えるから、サ変名詞より馴染みやすく、楽に受け入れられることが容易に想像できる。そしてこれを変化とみるかというのは、やはり難しい。
複合動詞を作る時に、もともと意味として自然なのは「自動詞+自動詞」「他動詞+他動詞」という作り方です。「たちなおる/たてなおす」・「おちいる/おとしいれる」のようなものがあります。しかし、このようにしていったん固まった形から、自動詞の他動詞化や他動詞の自動詞化が起こることがあります。
自動詞には自動詞、他動詞には他動詞を結びつけることが意味として自然であるわけではない。
(http://nihongo.do-bunkyodai.ac.jp/qandaDisp.php?id=104)
たまたま「立て上げる/立ち上がる」の対立が琴線に触れただけで、探せばたくさんあるのだから、そういう分類自体が意味を成していなかったと見るべき。
なんで突然英語で書き始めたのかわからないが、もうちょっと上手に書けないものかね。ピジンイングリッシュか。
一行目からしてひどい。itはトラックバック元の「抽象思考の苦手な人にたまにあるパターン」にかかっているのか、「JAVAのオブジェクトは理解できないがCは理解できる人がいる」になのか、can't understandと書いていることからしてもしかして構造体そのものを指しているのか。
もし前二者だったらunderstandなどというニュートラルな動詞をつかわず、バカにしていることが明白にわかるような構文を意識するべき。
スティーブン・キングの本にいっぱい載ってるから参考にするといいよ。
俺なりの解釈ですまんが、要するに、
識字率が高い事とIQが高い事はイコールにならないってことだろ
例えば、大学で外国語を専攻となった時、「英語、フランス語、中国語」の三か国語が主要な外国語科目に挙げられることが一般的なわけで。
これらは文法上かなり似通ってて「主語+動詞(+目的語)」が共通してる外国語。日本語に直したら「主語は動詞する(目的語を修飾して)」となる。
実は日本語は英語やフランス語や中国語と文法的には共有する部分がある。でも共有しない部分もある。
「主語が〇〇を動詞する」のが日本語なのに対して英語などでは「主語が動詞する〇〇を」となるので日本語に直すと文法的に意味が分からなくなるというジレンマに陥り易くなり、その構造を理解していれば日本語に互換して学習することができるけど、それが出来ないのが外国語に多くあるから理解できない人が出てくるのだと思う。
IQが高い人は理解できるけど、みんながみんな高いわけじゃないから識字率が高くても理解できないのが多くなるのはごく自然だと言えるんだけどね。
一部のIQ高い人が英語は簡単だと言ってもみんなが同じ条件や前提にあるわけじゃないから個人差が出るわけで。
英語やラテン語をネイティブレベルまで上げたいなら手っ取り早くその風景や文化に慣れること、つまり旅行や留学が一番手っ取り早い。
4ヶ月行って帰ってきたから書いとく。結論として自分の英語は伸びたのかというと、ちょっぴり伸びた。TOEIC800点だけどあんまり喋れない、中級にありがちな状態の人が、日常生活で困らないぐらいに会話できるようになったぐらいの進捗。帰国後TOEICは未受験。あくまで参考程度に。
日本人は20~30代がほとんどで、大抵は超初心者。(60代以上など年配の人はチラホラ。40~50代はあまり見かけない。)TOEIC200~300点台レベルが大半。中1レベルの動詞の過去形を知らない人もいる。1~2ヶ月の留学では気休めにもならない。マンツーマンの先生は進歩をほめてくれるが、内心ではもっと基礎を勉強してから来ないとあんまり意味ないよね…と思っている(複数の先生が実際そう言ってた)。準上級以上の日本人はほぼ皆無。まれに居たとしても、周囲の日本人とレベルが違うため「何であの人ここに留学しに来たの?」状態になっていた。韓国人では上級はチラホラ居たが多数派ではなかった。
せめて高校生レベル、さらに欲を言えばCラン以上ぐらいの大学生レベル(TOEIC400超えるぐらい?)で、「中級以上の文法とスピーキングを伸ばすために、最低でも3ヶ月以上留学する」というのが投資に見合ったリターンを得るのに最も適していると思われた。残念なことにそういう大学生はあまり居なかった。個人的には、とりあえず中学レベルの基礎文法と、DUOとかキクタンとかメジャーな単語本の1冊丸暗記ぐらいは終えてから行った方がいいんじゃないかと思った。マンツーマンの先生たちは皆口を揃えて、初心者を教えるのはすーーーーっごいすーーーーっごい大変だと言ってた。最初の自己紹介すら通じなくてただ微笑んでるだけとか、ほぼ無言とかの状態から始まる生徒も居るんだと。そして先生たちは大抵明るくて話好きなため、ぬっちゃけ、会話が成り立つ生徒のほうがクラスを持ってて楽しいらしい。(もちろん仕事だからどんな生徒でも普通に教えてはくれるが)
ESL学生の大部分を占める韓国人大学生たちは大抵が中の下~上の下ぐらのレベル。文化の違いはあるものの、政治的思想を持ち込むおかしなヤツというのはまず居らず、クラスメイトとして普通に友達になれる。ただし基本的に仲間内で群れるため、輪に入りたければある程度積極性が必要になる。クラブで遊んで女を買いまくってるDQNも居れば、まじめなインテリ学生も居た。留学に来ているのは基本的にそこそこいい家の子ばかりのようで、付き合いに不安はなかった。
日本人では、カナダやオーストラリアへワーホリで行く前の準備段階としてセブに来ているという人が結構いた。セブで3ヶ月程度英語を学んでからネイティブの国へ行き、そこでまた現地の語学学校に通うものの、マンツーマン授業は無いため語学の勉強としてはあまり役に立たないとの経験談を複数聞いた。セブで学んでからオーストラリアへ行ったものの、勉強にならずもう一度セブに戻った韓国人学生は結構いるとのことだった。
どの先生も基本的には真面目に教えようと頑張ってくれる。伝わらなくても生徒の能力を伸ばそうと努力を惜しまず向き合ってくれる。教材も十分ある。訛りの強い先生も居るが、それに文句を言えるレベルの語学力の学生はまず居ない。ただし、フィリピン人先生のクラスの後でネイティブ先生の英語を聞くと、すごくわかりやすく感じることもあるらしい。超絶ビギナーすぎると、ほんの少しの訛りでわからなくなるのかもしれない。(自分はそこまで初心者でもなかったので特に困らなかった)
先生と仲良くなると、一緒に遊びに行ったり、家に呼んで貰ったりすることもある。プライベートな話もよくする。ちなみに自分が通ってた語学学校は安月給(ESLの最低基本給が月額8000ペソ程度、ベテランで11000ペソ程度に皆勤手当て等の数千ペソ付加)なため、自分が受け持った生徒の帰国後に、副業としてオンラインで英会話教室をやっている先生も多い。これは普通のオンライン英会話と同程度の授業料(1時間300ペソ以上)だが、生徒としては気心の知れたプロ語学教師に学べるというメリットがある。自分が行った学校では先生は正社員というよりはバイトに近いような雇われ方をしているようで、健康保険や有給休暇は基本的には無いらしかった(大ベテランのみ?)。病気や急用の時は代理の先生が来た。急に退職してしまう先生もごくまれに居た。
先生は大抵が若い人で、教育学部や看護学部を卒業してそのままESLに就職したか、あるいは数年だけ他の職場で働いたという人が大多数であるため、所謂ビジネス英語や専門的な英語を学ぶことは難しい。教えれる先生がほとんどいない。ESLのうたい文句でビジネス英語「も」学べる!なんて書いているところもあるが、気休め程度とか初歩だけと考えていいと思う。(本気のビジネス英語を学びたがるレベルの学生がそもそも来ないからだろうと思われる)例えば日本人の看護士が留学して、運がよければマンツーマンで看護学部卒の先生を探せるなんてこともあるかもしれない。
ちなみにESLの先生という職は現地ではそこそこ勝ち組な部類とのことで、「ちゃんと英語が話せる」というのは現地でも一応ステータスではあるようだった。タクシー運転手でもなんとなく英語は通じるが、普通に英会話ができるとは言えないドライバーがほとんどだった。現地の大卒というのは日本ほどの価値がなく、ファーストフードやショッピングモールの店員ですら大卒らしい。日本のいい大学を出てるレベルとゆーのは、あちらでは院卒レベルなのかもしれない。
Forestとか薄めの文法参考書と、単語本の2冊があれば十分だと思う。向こうでも教科書買うし。毎日の授業で新しいことたくさん学ぶので、日本から持っていった自習教材でバリバリ勉強しちゃうぜ!という人はあまり居ない。というかそこまでやる気が持つ人が少ない。毎日宿題出す先生も多いし、友達できて楽しすぎるし。そして盲点なのが、本が多いと国際線の手荷物重量で引っかかるとかそっちの心配もある。行きは良くても帰りにおみやげ増えて重量オーバーとか。
日々のレッスンは、何をしていくか先生と相談したりもする。基本的な文法がなんとなくわかってる人は、こつこつライティングの勉強も並行してやると、脳内英作文が早くなるからスピーキングも伸びやすい。毎日作文して毎日先生に添削してもらう。脱ブロークンのためにもオヌヌメ。
女の人は以下もあるといいらしい。
観光、食べる&飲む、クラブ行く、ダイビング行く、買い物するぐらい。正直遊ぶのは2ヶ月で飽きる。フィリピン人の女買う奴も居るけど、ゴムしてれば全部大丈夫とか思ってるアフォが多すぎ。あとオカマ多くてびびる。綺麗なのに・・・なにその喉仏。
行って本当に良かった。色んな人との出会いも良かったが、フィリピン人のテキトーさに触れ、自由を満喫して、日本以外にも生きていける場所が見つかったという開放感がパネェ。何となくいま閉塞してしんどい人も、軽い気持ちで行って見たらいいと思う。大人しくしてれば安全に過ごすことも十分に可能だから。こまけぇこたぁいいんだよ!
http://anond.hatelabo.jp/20120803173843
中学校1年のときの英語教師が、増田の言うような授業スタイルで、一切日本語を喋ってくれなかった。
私のころは当然公立の小学校では英語教育などなく(ローマ字は教えられたから、アルファベットだけは書けたが)、
塾に通っていて英語を習っている子も、1年生の最初も最初"This is a pen."レベルだから、まだ少なかった。
授業方法は、まったく文法などを解説せず、教師にバシバシ訂正されながら教科書を音読させられたり、
テンプレートのやり取りを隣同士で行なったり、というのが主だった。
私たちはまったく文章が構成されるルールを知らないまま例文を暗記するだけでテストを受けていたが、平均点は高かった。
扱われている教材のテキストレベルはおそらく指導要領からは外れていなかったと思う。何せ中1だ。
それにしたって、あの1年間はなんだったのだろう。
翌年、英語担当教師が変わり、塾に通っていなかった、英語の勉強方法はそういうものだと思っていた愚かな私たちは、
一般的なスタイルの授業の前に撃沈した。
なにせ「be動詞」というものが何を指すかすら知らなかった(is、are、などは知っていたが、それらをbe動詞と呼ぶとは知らなかった)。
もちろん、それらがどういった条件で変化するのかもあやふやだった。
今考えると、恐ろしい。
こういう勉強法はせめて高校卒業時…いや、中学卒業時レベルでもいい、
とにかく、基本的な文型やifや関係代名詞やそういうの知ってからすべきだったのに。
あるいは日本語も話せないような幼児教育としてやるべきだったのに。
その後、塾に通い、学年相応の英語力はついたし、折りしもハリポタブーム()で初めて洋書を買って、
英語と米語の違いや各地方の訛り、綴り、韻、ジョークなど、「娯楽的英語」の楽しさから英語好きになって、
進路を決め、1年だけだが留学も出来た。
仕事は英語関係ないけど、洋ドラや映画やアメコミやナショジオは大好きだ。
遅れは取り戻せたが、あの1年がなければ、私にとっとと塾に駆け込むべきだと考える判断力があれば、
まあ、それはともかく、基本的な英語を覚えてなくても習ったことがある人が、
再学習として自習で英語を勉強するなら、英語は英語、という考え方をしたほうが良いとは思う。
日本語話者同士の日本語でのやり取りでさえ、齟齬が起きたり、気持ちが伝わらなかったりするのに、
本件の印象は、「初動でつまずいたが、うまくリカバリしつつあるな」というものである。
推測だが、本件は、次のような流れなのではないだろうか。
→3. 5/25時点 危機管理に強い弁護士・コンサル投入(←イマココ!)
5月16日の発表(http://www.yoshimoto.co.jp/cmslight/resources/1/108/120516.pdf)を見てみよう。
しょっぱなから「週刊誌の記事やインターネット上の風説が流布されており」と書かれている。
通常、「風説の流布」とは、金商法上の用語として用いられるもので、法律家であればこのような文脈では使わないから、おそらく広報担当部署のみでの対応であったのだろう。
普通は、広報担当者には危機管理能力の高い人間を置くものだが、非上場化したので株主に叩かれることもないし、元々吉本ということでマスコミに叩かれることはないから、適当な人材を置いて対応しているのだろう。
更に、主語と動詞の関係を見ても、「週刊誌の記事…が流布されており」となっており、意味をなしていない。
アホくさいのでこれ以上は詳しくは触れない。
2.の時点でも、弁護士を入れて火消しに走ったようだが、イマイチだったようだ。
http://www.kotono8.com/2012/05/25komotojunichi.htmlによると、
とのことだが、当たり前である。記者会見で話したことは、吉本側の言い分であるのだから。
過去に発表した事実と矛盾しないように、かつ、新たな事実が判明しても嘘にならないように、巧妙に仕組まれている。
(そうでなければ、吉本側も高いフィーを払っている意味がない。)
2から1週間経って、満を持しての会見である。予行演習もバッチリやって、想定問答もバッチリ用意されているだろう。
タイミングについても、おそらくは木曜日発売の週刊誌で報道されることを見越してのものだろう。
更に、土日の情報番組で何度も取り上げられることも期待しているのかもしれない。
5月25日の発表(http://www.yoshimoto.co.jp/cmslight/resources/1/109/120525.pdf)も、垢抜けている。
ざっと見ても、(1)まず謝罪から入り、(2)(過去の行為の)責任を認めない(「自主的に」、「違法な行為があったことを前提とするものではありませんが」、「道義的な責任」)、(3)(将来の行為に対する)明確なコミットはしない(「…予定でおります」「…調整させていただきたいと考えております」)、(4)謝罪で〆る、という綺麗な流れである。
とのことであるが、このような人は、ディフェンス側の企業から見ると、善意であればあるほど、ありがたい。
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」