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はてなキーワード: 動詞とは

2013-10-30

努力で着飾って満足してはいけない

ちょっと足りない人間について

中身の無い人間が、服装だけ着飾ったってすぐにボロが出る。

口ばかり達者な人間は、長く接していると矛盾が見えてくる。そして信頼を失う。

技術だけの人間は、社会に出ても美味しい汁を吸われて安く使われるのがオチだ。

心優しい人間は、言葉や行動を伴わなければ存在しないのと変わらない。

躰たくましい人間は、それを生かす方法を見つけられなければ無意味だ。使い方を間違えたら害にもなる。

努力している人間は、その成果について常に確認しないと努力意味がない。努力行為のものに満足していたら最悪だ。

結局何が言いたいか

「着飾ったって意味がない」とか「口達者は信用できん」とか、特徴の一点を否定するような言い分は詭弁だ。

努力にこそ価値がある」とか「心だけは優しくあれ」とか、特徴の一点だけを肯定するような言い分も足りない。

中身が伴わなくたって、口達者でおしゃれな人間はきっとモテる

心が冷たくても、躰たくましく頭も回る人間は、文武両道としてきっと一目おかれる。

ダサい恰好してるけど、技術がありさら努力している人間は、たぶんナメられない。

すべてのパラメータ価値があって、

大事なのは物量であったりバランスであったりなのだよ、と。

いくつもいくつもパラメータが積み重なって人間の性質が出来上がるわけで。

ひとつひとつの特徴だけを否定したり肯定するようなことは、論理として足りない。

努力に満足したら終わり

ある世界には「努力」に対する神聖視がはびこっている。

が、努力なんて人がもつパラメータひとつしかない。

必要以上にそれを神聖視してはいけない。

その行為自体に満足するなんでもっての外だ。

努力は、その結果として何かの成果を出して、それが人に認められなければ無価値だ。努力は手段でしか無いんだよ。

もし貴方が何かに努力しているとして、その姿についてきっと周りは称賛の言葉を投げてくれるだろう。

しかしそれは貴方が挙げた成果への承認ではない。しか社交辞令でもない。彼らは割と本気で貴方を称賛してくれている。

それは何に対する称賛か。

それは「未来に発生するかもしれない成果に向かう貴方の姿」への称賛だ。承認ではなく応援なのだ。期待なのだ

もしこの称賛に満足してしまったらどうなるか。

満足は人の足を止める。そこで未来予想図は砕ける。それは彼らの応援に対する裏切りだ。

応援は応援として受け止め、それを「承認として曲解し、足を止めるようなこと」は絶対に避け、

彼らの声に応えたいならば足を留めずに進んでいこう。

ある時点で何か諦めるのも別に悪いことじゃない。それはそれで選択だろう。

それは別の何かの可能性の始まりになる。

でも、何かを辞める理由を「十分努力たから。努力という目的は達成したから」みたいな歪んだ理由として自分を騙すのは、ダメ、絶対ダメ努力は手段なんだよ。「努力に満足する」なんていう動詞は在っちゃいけない。そんな辞め方したらその先もまた同じような失態を繰り返す。

ところで為末大の発言について

為末 大 @daijapan

成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提


私はこの発言を大肯定する。

これはおそらく現実だ。

でもね、この発言を引用して、「じゃあ才能ないけど努力してる俺の努力無駄なのかよ」みたいな論調で否定するような行為は愚かだからやめたほうが良い。

才能があるかどうかなんて完全には分からないし、才能がもし足りなくても努力で補える可能性が1%くらい残ってる。そういうところにしがみつくのが本来の努力だと思うのよ。そんな意地も持てずに、彼の発言を理由に自分努力無駄扱いするような言動はとても恥ずかしい行為に見える。もっとプライドを持とう。

2013-09-27

http://anond.hatelabo.jp/20130927205758

これが間違えているのか、敢えてeを取るのが流行っているのか、判断がつかん。

「敢えてeを取るのが流行っている」とまで弁護してあげて、

カッコつけてNoと言わずにNopeと言おうとして恥かいたことをかば必要はない。

ツイッター4chanでの他愛ないおしゃべりで「ぺらぺら」になったつもりの学生ならともかく、

海外駐在経験のある社会人なのだろ?

第一、本当に「ぺらぺら」なら、意味もなくカッコつけたスラングなど使わない。

なぜかもう消されてしまっているが、こういうレスがついてたんだ。

"Yes" is "yep", and "No" is "nope", in colloquial english? right? ちぃ覚えた。 Well, your linked page describe, Nop is an abbreviation for "not our publication". "not our publication"? What's mean? But I know another mean in computer science ver...

http://anond.hatelabo.jp/20130927052740


きみが「英語ぺらぺら」でなくとも、your linked page describe ... がおかしいことはわかるだろ?

それを言うなら、the page you linked describes ... だ。(describeという動詞の選択も変だが)

こういう「節」がまともに使えないのは「ぺらぺら」とは言わんと思うがね。

それに、こういうことを「節」で表す、というのは、俺が英語勉強してわかった「文化」なんだがな。

2013-08-26

http://anond.hatelabo.jp/20130826151152

意外とMicrosoftBingが優秀だよ。

MicrosoftのHelpページ、日本語だと最初普通に誰か書いたようなレベルだと思ってて、

でも良く見るとおかしな部分があって、ん?とか思ってたらBing使って訳してるだけだった。

勿論、完璧ではないけど、Googleより余程精度が高い感じ。

Exciteって昔物凄く弱かったイメージがあって使ってないけど、Googleより精度高い?


ま、でも、日本語って語順が違うから結構難しいんだよね。正確に、教科書初歩レベルな感じできっちり主語動詞、等が無いと上手く翻訳出来ないし。

英語翻訳にはあまり実用性感じないけど、フランス語ドイツ語なんかを訳すのに英語にすると結構読める。

勿論、元の文章をほとんど自力で訳せないから、英語で書いてあることを信じるしか無い、というのはあるんだけども。でも、なきゃ全く分からないページも多いから便利だよね。

2013-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20130808211348

放射脳「でも最近ベクレルが多いと思うよ。だからガレキは焼却しないでね」

これがリアルな用法なの?放射脳が"ベクレル"をこう勘違いしてるっていうリアル

そんな奴でも

ガレキがベクレてないか不安だって

ベクレるなんてこと言わないし聞いたことありません。何で動詞になってん?

2013-07-29

そいつ動詞しか調べてないに決まってるだろw

ほとんどの国語辞典は動作名詞と、それに「-する」を付けただけのサ変動詞をわざわざ別項にはしてないんだけど、国語辞典ほとんど引いたことないのかしら。

2013-07-18

◯◯でよろしかったでしょうか

2chまとめで話題を見かけたので思うことを書く。

自分は、言葉は変遷していくものなので別にいいんじゃね?派なんだが、それはさておき、気になったのは「よろしかった」という過去形おかしいだろ、という文法的な指摘だ。でもこれ、文法をもちだすのなら、むしろ逆に納得のいく説明ができる。

動詞に「た」をつけた形は、「過去形」ではなく、そのまんま「た形」と呼ぶ。なぜそう呼ぶかというと「た」がつくのは過去に限らないからだ。

「た形」のもうひとつ重要な使い方は仮定法。「もし明日雨が降ったら」というときの「降った」が過去のことを指していないのは言うまでもない。そして、この点、日本語英語は似ている。英語でも仮定法では過去と同じ形の動詞をつかう。

さらに、仮定法と丁寧な言い回しに密接な関係がある。英語で Would you like ~ というときwill過去形である would を使っているのはもちろん過去からではなく、これは仮定の語気を含んでいるからだ。「もしあなたがお望みであれば〜」というニュアンス。「私の押し付けではなく、私にはあなたが何を望んでいるのかを断定するつもりはなく、あくまであなたが望むなら」という気持ちがこもっている。それがひいては「丁寧な言い回し」となる。

というわけで「過去形」「仮定法」「丁寧な言い回し」の間には、密接な関係があって、それは日本語にも英語にも通じる。たぶん、言語を問わず人間が生まれもった言語論理自体にもともとそういう類似性が含まれているんだと思う。

よろしかったでしょうか」という言い方を使う人が「よろしいでしょうか」をすこしキツいと感じているとすれば、それは上記のような理由。人間言語能力的に、必然的な感覚なんじゃないかな。

2013-06-27

イケダハヤトvskyoumoe問題を冷静に見る

イケハヤニ殺サレタ→http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/comment?date=20130627&section=1372308842

「1回言ったくらいで死ぬような奴は他に原因があるに決まってんだろアホか」

これは確かに正論なんですが、「最後の一押し」になる可能性は十分あります

ネット不特定多数に届きうるものから、その確率ネット以外のものよりもだいぶ高いかもしれない。

もちろんそれがなくたって、何か他の「最後の一押し」があった可能性も同様にありますけども。

悪い例えを使うと、今まさに崖から落ちそうになって両手でへりをつかんでる人がいるとする。

体力的にほっときゃ間違いなく落ちる。そのときうっかり景色に気を取られて、気づかずその人の手を踏んでしまってその人落っこちて死んじゃったと。

確かにその人の死因の割合としては、踏んでしまったことは微々たるものかもしれないし、落下死の運命も決まっていたかもしれないけど、

そこで踏んでしまった人が「いやあいつ俺が踏んでも踏まなくてもどうせ落ちたでしょ? 俺別に悪くないと思うんだけど」というのは、やはりおかしいのではないかと思うわけです。

kyoumoe氏の「会ったこともない知らない人間に1回死ねと言われたくらいで死ぬような奴に配慮してたら何も書けんわ」は実に正論、それで責任を取らされるのであれば口をつぐむほかない。

ただしイケダハヤト氏の「『死ね』という言葉は攻撃性が高すぎます。今のやり取りがまさにそうであるように、ある程度誤解されることは前提です。あなたがそのつもりはなくても、受け手はその言葉に傷つくことは十分ありえます」というのも同程度正論と言って差し支えないはず。

そもそも最初の問題は、kyoumoe氏が「ネットイナゴ呼ばわり」と「死ね」をクソミソに語ったところから始まってはいなかったか。(http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20130625/1372176480

以下私見ですが、「ネットイナゴ」と「死ね」の影響力を同程度と考えるのはまずもってかなり無理があるかと。

理由は簡単で、「ネットイナゴ」はスラング、「死ね」は一般動詞命令形からスラングと一般動詞では、与える力以前に意味を理解できる人間の数が違いすぎます

それを天秤に乗せて「お前は俺に『死ね』って言うなっていうけど、じゃあお前の『ネットイナゴ』で人が死んだら責任取れんの?」というkyoumoe氏の発言は、

「1回言ったくらいで死ぬような奴は他に原因があるに決まってんだろアホか」「会ったこともない知らない人間に1回死ねと言われたくらいで死ぬような奴に配慮してたら何も書けんわ」という自身の発言と矛盾をきたしているのでは?

はいイケダハヤト氏もイケダハヤト氏で、この記事(http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/20130627)でkyoumoe氏が言及しているように、

巧みに被害者加害者の構図を誘導して、kyoumoe氏をやりこめてしまったわけですが。

もちろんこれは文章上のテクニックなので、批難できるようなものではありませんけどね。

ただひとつ解せないのは、「『死ね』も『ネットイナゴ』も、発言していいんですよ。発言者覚悟の問題です。覚悟があるのなら、どんな発言も自由です」

というkyoumoe氏のブログコメント欄に書き込まれたこの文言

これはひと目で明らかに間違っているのがすぐに分かるはず。発言の影響力は発言者覚悟を持っているか責任を取れるかという問題ではないので。

そもそも人の死に対して他人が責任とるという行為自体不可能じゃないですか。僕らはザオリクアレイズも使えないんだから

イケダハヤト氏は裁判の話を持ちだしてるけども、裁判で白黒つけること=責任を取ることではない。

裁判はあくまで法律上罪人となるかそうでないかを判断することでしかないので、人の死に対してはむしろまり関係のないことだとすら言えるかもしれない。

結論を言うと「『死ね』はやめといたほうがいいんじゃないの。『死ね』使わないでも伝えられるでしょ」というのが第三者からみた正直な感想です。

2013-05-14

リンクは「張る」もの

3 その理由は,

 動詞意味を見ると、「貼る」は物を(広げ)他の物に糊や鋲などで付着させることで、「張る」は、一点から伸びたものの先が広がる、糸・紐・綱・針金などを一直線に伸ばし、渡したりすることです。(中略)

 Webとはもともと英語で「クモの巣」の意味で、クモの巣のように世界に張り巡らされた情報網のことをインターネットWorld Wide Webと言いますクモが巣を作るとき、いきなり網状の巣を貼り付けるのではなく、まずはある一点から別の一点に糸を渡し、それを繰り返しながら巣を編んでいきますリンクもそのイメージで作られていると解釈すれば分かり易いと思います

とあって,インターネットWorld Wide Webワールド ワイド ウェブ、略名:WWWシステムとの関係から説き起こし,極めて説得的である

http://www5d.biglobe.ne.jp/Jusl/JTLink/JTLink999_01.html

http://anond.hatelabo.jp/20130514072351

2013-03-12

偏差値40で大学に入る君たちへ

もう15年も昔に卒業した大学卒業証書を貰う事になった。戯れに偏差値を調べてみたら40だった。

15年前の偏差値を知るよしも無いが、当時から3流大学だった事は間違い無いし、それでも大学は非常に楽しかった。

ふと、もしかしたら高校生浪人生偏差値40の大学入学する事に不安を抱いている人もいるかもしれないと思い、ここに吐き出してみる事にした。

少し僕の話をする。

いい大学へ入りなさい。いい会社に入りなさい。安定した仕事をしなさい。親が公務員だった事から常日頃からそう言われて育てられた結果、小学校から成績は低空飛行を続け、高校では県下で下から数えた方がいい3流高校へ入学。そのまま推薦で3流大学入学という底辺コースをひた走った。

努力無く見栄えだけは整えようと、部活生徒会の役職をこなしながら教科書の代わりに小説漫画を読み、寝食を忘れてゲームにのめり込んだ。というのが僕の小中高だった。

当然学校勉強なんてついて行けるわけが無く、中学時代教科書記号に見えたし、英語なんて未だに主語動詞も理解していない。

それでも高校も3流だった事が功を奏し、比較優位の問題で成績は悪くなく、小論文面接大学は受かった。第二次ベビーブーム終焉による学生不足という学校側の都合もあったと思う。

もちろん、私立、文系、低偏差値、別居という4重苦に対して多大なる投資をしてもらった親があってこその入学だった。

大学価値偏差値で決まるのか。

多様な価値観を得られる(flat

入学して最初に感じた事は、大学人種のるつぼだったという事だ。政令指定都市の3流私立なんて、政令指定都市のご子息が集まるはずもなく、僕の様な「はぐれ者」が全国から集まる事になる。

いきおい、出身もバラバラ、年齢もバラバラ、バックグラウンドとしての知識もバラバラなやつらに囲まれる事になる。それだけでも相当面白い

また、皆一人暮らしな事から寄り集まる事も多く、各地の料理故郷観とも言うべき価値観などもゆるやかに共有していくコミュニティが作られる事になる。

その政令指定都市の中でも15くらい偏差値の高い大学に在籍した妻の話を聞くと、周りは政令指定都市のご子息だらけで、実家または遠くても近県出身が多かったとの事なので、これは偏差値というより立地と偏差値パラメーターになってバリエーションが変わってくる様だが、多様な価値観を知る事ができ、感じる事ができるというのはどこの大学にも共通した価値だと思う。

社会に出てからの仲間作り(disadvantage)

当時、師事した教授一言で心に残る名言がある。

曰く「社会に出てからの仲間には必ず損得勘定が働く。君たちは損得勘定抜きでつきあえる最後の仲間だ。大切にしろ。」

おぼろげながら社会の厳しさを想像していた僕には、目から鱗な一言だったが、今でも確かに一理ある。と思う。

偏差値大学であればあるほど、なんというか社会に出てからバリエーション豊富(?)なため、価値観にも違いが出てきて、仕事の話や生活の話はしにくくなるが、今でも合えば当時に戻って文字通り損得抜きで話ができる大切な仲間ができたというのは財産だ。

逆に偏差値の高い大学に入るメリットも、まさにここだろう。低偏差値場合は損得抜きの仲間を作れるが、偏差値が高いと損得有りな関係を構築する事が可能だ。

今後いつまでこの状況が続くかわからないが、就職というのが卒業生大多数の選択肢となる現代日本においては、偏差値の高い人達価値観が似通う仕事をしている割合が多いようにみえる。

結果、社会に出てから有用なお付き合いができる仲間が持てる。という事になる。正直これはうらやましい。

研究内容や就職やすさなんてのは些細な話で、この一点においてのみ、僕は高偏差値大学がうらやましいなと思う。これが必要だと思う人は頑張って勉強して偏差値の高い大学に入って下さい。

ただし、これは低偏差値出身でも高偏差値人達と付き合ってると、次第に増えてくるものなので、何が何でも学生時代に得なきゃいかん!というわけでは無い。ちょっと座布団ひいて社会人生活スタートできる。という程度の話だ。

大学教授という生き物に接する(advantage)

大学に入ると教授という生き物が居る。低偏差値大学は、この大学教授の距離が異様に近い。

これは卒業して他校の話を聞いてはじめて知ったが、低偏差値大学教授はある種学生に諦めにも似た境地を持って接しているため、権威誇示などという無駄な事に労力を使わない。

普通に研究室へ行けば居る人という近所のおじさん感覚教授と会話できるのは、低偏差値大学ならではのメリットだろう。

偏差値大学は遊びに来ている学生も多い事から、少し普通に学生ぶってみるだけで、その道の専門家豊富な知識と多様な人脈が面白い位簡単に手に入る様になる。

これは有形無形の様々な価値を僕にもたらしてくれた。当時の研究内容は教授の助けもあってそれなりに面白いテーマにできたし、それは社会に出てから自分の専門領域として高偏差値出身人達との目線併せという意味で一役買ってくれている。

また、師事した教授の人脈で直接師事していない教授を知り、そのつてが就職にも有利に働いた。

何よりも「答えの暗記」ではなく「問題を考える」という事に慣れる事ができた事は大きい。今にして思えば、なんで高校までは考える事を教えないんだろう??実は聞いてなかっただけで教えていたのかな。

偏差値40の君たちへ。

ほんの少し吐き出そうと思ってたら、意外と長くなってしまった。もう一回要点だけまとめてみる。

偏差値大学でも

  1. いろんな価値観が混在しているか面白いよ。
  2. 損得勘定抜きの仲間が作れるよ。
  3. ちょっとした努力で頭の使い方を学べるよ。

文系でも私立で一人暮らしとなったら、余裕でレクサスを買える位の金を払って大学に行く事になる。それなら、十二分に喰い物にしてやろう。という気持ちで臨めば、低偏差値大学には低偏差値大学なりの得られるメリットはあるので、前向きな気持ちで入学してください。新入学おめでとう。

2013-03-06

http://anond.hatelabo.jp/20130306210417

他に制約がなければ、普通に悪問だなそれ。

動詞を適切な形に変換して入れよ」とか「下記の中から選べ」とか入っているべき。

受動態の勉強をしてるんだから受動態の文を作らなきゃ×なのは当然。空気読め」とか言ってきたらそれは出題者の怠慢。

ただ、塾のテスト程度でクレーム入れる母親母親だけど。

2013-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20130119195254

日本語で言うなら

あめ!

で、雨か飴かわかるか?方言もアレば、訛りもあるぞ?

あめがふった なら 雨だろうし

あめをくれた なら 飴だろ。

例文はどっちも文章として完成してねーじゃん。前者なら後ろに名詞が来るし、後者なら後ろに動詞が来るだろ。

 

というか、英語なんて、日本で教えているようなガチガチで重箱の隅をツツカなくても

会話なんだからどうとでもなるだろ。

日本英語ハードル上げすぎて落ちこぼれを作る教育だと思うよ。

2012-12-20

絶対助詞の中で一番難しいのは「に」だと思う。こいつのせいで、後続の動詞が制限されてしまってほんと腹立たしい。

あと文末表現は糞。みんな小川洋子を見習うべきだと思う。

2012-11-29

http://anond.hatelabo.jp/20121129011056

丶`д´ <チョッパリが我が偉大な朝鮮語のことを全然考慮していないニダ

 

文法は言語世界では少数派の、SOV系(英語中国語を含む多くの言語SVO系)。⇒朝鮮語SVO

しか助詞によって、主語目的語の順序を前後させる事ができる。⇒朝鮮語助詞あり、順序逆転可能

というか、主語を省略することが多い。⇒朝鮮語も、というか英語外大体の言語が省略可能。中国語も可能

動詞は各に活用の種類が決まっていて、個別に覚えなければならない。⇒朝鮮語も活用する

形容詞すら活用する。⇒朝鮮語動詞と同じように活用する

まっとうな社会人として振舞うには、敬語を使い分けなければならない。「私は」「俺は」/「拝見します」「ご覧ください」etc朝鮮語敬語豊富

母音が5つと少ない(二重母音がない)ため、発音は比較的簡単だが、弊害として外来語間延びした音節に区切られたり、似ても似つかぬ音に変換され、理解しにくい。⇒朝鮮語は単母音が7つもあるわりに音節間延びして受け入れる

 

まあ両者とも外国人に対しては排斥的な国民性であることは間違いないんだが

母語の複雑さと排斥的な国民性関係ないと思われるニダ

日本を守ってくれている日本語

社会生活を送るためには、最低限、50文字のひらがな、50文字のカタカナ、2000字弱の漢字の読み書きができないといけない。

しか漢字の多くが2種類以上の読み方を持ち、使いどころと読み方をセットで覚えなければならない(中国語は多くが一通りの読み方)。

文法は言語世界では少数派の、SOV系(英語中国語を含む多くの言語SVO系)。

しか助詞によって、主語目的語の順序を前後させる事ができる。

というか、主語を省略することが多い。

動詞は各に活用の種類が決まっていて、個別に覚えなければならない。

形容詞すら活用する。

まっとうな社会人として振舞うには、敬語を使い分けなければならない。「私は」「俺は」/「拝見します」「ご覧ください」etc

難読人名/地名多すぎ。日本人の中でさえ戸惑うこともしばしば。

地方では方言が色濃く残っており、標準の日本語だけでは理解できないことも。

母音が5つと少ない(二重母音がない)ため、発音は比較的簡単だが、弊害として外来語間延びした音節に区切られたり、似ても似つかぬ音に変換され、理解しにくい。

Michael→英語Mi・chael(2音節)   日本語:マ・イ・ケ・ル(4音節)

water→英語wa・ter(2音節:『ワラ』に近い)   日本語:ウォ・ー・タ・ー(4音節)

これらの言語障壁が日本悪事を働こうとする外国人敬遠させている。

日本語日本を守ってくれているのだ。

2012-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20121109114139

頭が悪いっていうか、注意力と記憶力が低すぎて論理構造を作るまでに至ってないみたいな感じですね。

英語で例えると何度教えてもbe動詞の時制がおかしいとか一般動詞の活用しくじるとかit...thatの構文の構造がわかってないとかそういう感じでしょうか。

言語は数こなさないとどうにもならないです。業務で評価が低いということはミスの度に叱られたり注意されているということですが、それで本人が萎縮すると注意力記憶力共に減退しますので悪循環です。

開き直るよりは申し訳ないとしょんぼりしてるほうが周囲のウケはいいのですが成長率は落ちるので、業務外で猛勉強するか業務中に凹みつつもガンガン知識を吸収する必要があります

2012-10-19

「地味すぎて気づかれにくい日本語の変化」にケチをつける

地味すぎて気づかれにくい日本語の変化 - アスペ日記

http://d.hatena.ne.jp/takeda25/20121017/1350465781

1.について

  1. 金融界を揺るがせている
  2. 将来に思いを巡らせる
  3. 五感を研ぎ澄ませて楽しむ
  4. 名刺を切らせてしまった

これらの表現違和感があるでしょうか。

まったくないという人もいるかもしれません。

しかし、「揺るがせる」「巡らせる」等は、辞書を見てもないことが多いのです。

辞書には、「揺るがす」「巡らす」として載っています

「揺るがす」のほうは、「す」という使役形を含んでいます

これは、元々は下二段活用(否定は「せず」)だったのが、下二段活用がなくなるとともに、五段の「す」(否定は「さない」)と下一段の「せる」(否定は「せない」)に分かれた片割れです。

(用例番号は引用者付記)

1.は「ガ行五段活用の動詞「揺るぐ」の未然形である「揺るが」に、使役の助動詞「せる」が付いた『揺らがせる』の進行形。」

2.は「ラ行五段活用の動詞「巡る」の未然形である「巡ら」に、使役の助動詞「せる」が付いた形。」

以下略

であって、「揺るがす」「巡らす」とは別の単語変化ではなくて、分化と呼ぶべき。他も同様。特に1.のような報道関係によく見られる文章になると、客観性の保持からか、使役を伴う表現が増える。(主体性の問題)

変わってるんじゃなくて、使い分けてるのであって、置き換わってるわけでもない。

ちなみに、上記用例はすべてヲ格を伴う他動詞であり、自動詞他動詞一対一対応するわけではなく、自動詞ひとつに複数の他動詞存在するのはたくさんあるわけで、結局のところ、これを微細であれ変化と認めるのは難しい。

2.について

スマッシュで打とうとしてミスって空振

優秀な社員を飼い殺してはもったいない

秋なのに桜が狂い咲いている

これらはいずれも名詞の中でも「転成名詞」と呼ばれるものであり、転成名詞はすべてが他の品詞から派生して名詞になったものである

ゆえに、これらは「名詞動詞になった」ではなくて「転成名詞がもとの品詞のものとして扱われている」と解釈すべきであり、そしてそれは転成名詞の成立上他の名詞より柔軟に使えるからサ変名詞より馴染みやすく、楽に受け入れられることが容易に想像できる。そしてこれを変化とみるかというのは、やはり難しい。

3.について

複合動詞を作る時に、もともと意味として自然なのは自動詞+自動詞」「他動詞+他動詞」という作り方です。「たちなおる/たてなおす」・「おちいる/おとしいれる」のようなものがありますしかし、このようにしていったん固まった形から自動詞他動詞化や他動詞自動詞化が起こることがあります

自動詞には自動詞他動詞には他動詞を結びつけることが意味として自然であるわけではない。

http://nihongo.do-bunkyodai.ac.jp/qandaDisp.php?id=104

たまたま「立て上げる/立ち上がる」の対立が琴線に触れただけで、探せばたくさんあるのだから、そういう分類自体が意味を成していなかったと見るべき。


なんというか、現代曲を古典和声で説明つけようとして破綻するのと同じ有様を見ているようで、感慨深い。

2012-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20121012114247

なんで突然英語で書き始めたのかわからないが、もうちょっと上手に書けないものかね。ピジンイングリッシュか。

一行目からしてひどい。itトラックバック元の「抽象思考の苦手な人にたまにあるパターン」にかかっているのか、「JAVAオブジェクトは理解できないがCは理解できる人がいる」になのか、can't understandと書いていることからしてもしかして構造体そのものを指しているのか。

もし前二者だったらunderstandなどというニュートラル動詞をつかわず、バカにしていることが明白にわかるような構文を意識するべき。

スティーブン・キングの本にいっぱい載ってるから参考にするといいよ。

2012-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20120829014555

俺なりの解釈ですまんが、要するに、

識字率が高い事とIQが高い事はイコールにならないってことだろ

例えば、大学外国語を専攻となった時、「英語フランス語中国語」の三か国語が主要な外国語科目に挙げられることが一般的なわけで。

これらは文法上かなり似通ってて「主語動詞(+目的語)」が共通してる外国語日本語に直したら「主語動詞する(目的語を修飾して)」となる。

実は日本語英語フランス語中国語と文法的には共有する部分がある。でも共有しない部分もある。

主語が〇〇を動詞する」のが日本語なのに対して英語などでは「主語動詞する〇〇を」となるので日本語に直すと文法的に意味が分からなくなるというジレンマに陥り易くなり、その構造を理解していれば日本語互換して学習することができるけど、それが出来ないのが外国語に多くあるから理解できない人が出てくるのだと思う。

IQが高い人は理解できるけど、みんながみんな高いわけじゃないか識字率が高くても理解できないのが多くなるのはごく自然だと言えるんだけどね。

一部のIQ高い人が英語は簡単だと言ってもみんなが同じ条件や前提にあるわけじゃないから個人差が出るわけで。

英語ラテン語ネイティブレベルまで上げたいなら手っ取り早くそ風景文化に慣れること、つまり旅行留学が一番手っ取り早い。

日本にいる限りネイティブで理解し話すのは不可能。だって周りはみんな出来ない人だから

2012-08-13

セブ留学雑感

4ヶ月行って帰ってきたから書いとく。結論として自分英語は伸びたのかというと、ちょっぴり伸びた。TOEIC800点だけどあんまり喋れない、中級にありがちな状態の人が、日常生活で困らないぐらいに会話できるようになったぐらいの進捗。帰国後TOEICは未受験。あくまで参考程度に。

留学生の年齢と英語レベル分布

日本人20~30代がほとんどで、大抵は超初心者。(60代以上など年配の人はチラホラ。40~50代はあまり見かけない。)TOEIC200~300点台レベルが大半。中1レベル動詞過去形を知らない人もいる。1~2ヶ月の留学では気休めにもならない。マンツーマン先生進歩をほめてくれるが、内心ではもっと基礎を勉強してから来ないとあんまり意味ないよね…と思っている(複数の先生が実際そう言ってた)。準上級以上の日本人はほぼ皆無。まれに居たとしても、周囲の日本人レベルが違うため「何であの人ここに留学しに来たの?」状態になっていた。韓国人では上級はチラホラ居たが多数派ではなかった。

留学する時のレベル

せめて高校生レベルさらに欲を言えばCラン以上ぐらいの大学生レベルTOEIC400超えるぐらい?)で、「中級以上の文法とスピーキングを伸ばすために、最低でも3ヶ月以上留学する」というのが投資に見合ったリターンを得るのに最も適していると思われた。残念なことにそういう大学生はあまり居なかった。個人的には、とりあえず中学レベルの基礎文法と、DUOとかキクタンとかメジャー単語本の1冊丸暗記ぐらいは終えてから行った方がいいんじゃないかと思った。マンツーマン先生たちは皆口を揃えて、初心者を教えるのはすーーーーっごいすーーーーっごい大変だと言ってた。最初自己紹介すら通じなくてただ微笑んでるだけとか、ほぼ無言とかの状態から始まる生徒も居るんだと。そして先生たちは大抵明るくて話好きなため、ぬっちゃけ、会話が成り立つ生徒のほうがクラスを持ってて楽しいらしい。(もちろん仕事からどんな生徒でも普通に教えてはくれるが)

現地で出会韓国人

ESL学生の大部分を占める韓国人大学生たちは大抵が中の下~上の下ぐらのレベル文化の違いはあるものの、政治的思想を持ち込むおかしなヤツというのはまず居らず、クラスメイトとして普通に友達になれる。ただし基本的に仲間内で群れるため、輪に入りたければある程度積極性が必要になる。クラブで遊んで女を買いまくってるDQNも居れば、まじめなインテリ学生も居た。留学に来ているのは基本的にそこそこいい家の子ばかりのようで、付き合いに不安はなかった。

その他

日本人では、カナダオーストラリアワーホリで行く前の準備段階としてセブに来ているという人が結構いた。セブで3ヶ月程度英語を学んでからネイティブの国へ行き、そこでまた現地の語学学校に通うものの、マンツーマン授業は無いため語学勉強としてはあまり役に立たないとの経験談を複数聞いた。セブで学んでからオーストラリアへ行ったものの、勉強にならずもう一度セブに戻った韓国人学生結構いるとのことだった。

フィリピン人の先生

どの先生も基本的には真面目に教えようと頑張ってくれる。伝わらなくても生徒の能力を伸ばそうと努力を惜しまず向き合ってくれる。教材も十分ある。訛りの強い先生も居るが、それに文句を言えるレベル語学力学生はまず居ない。ただし、フィリピン先生クラスの後でネイティブ先生英語を聞くと、すごくわかりやすく感じることもあるらしい。超絶ビギナーすぎると、ほんの少しの訛りでわからなくなるのかもしれない。(自分はそこまで初心者でもなかったので特に困らなかった)

先生と仲良くなると、一緒に遊びに行ったり、家に呼んで貰ったりすることもある。プライベートな話もよくする。ちなみに自分が通ってた語学学校は安月給(ESLの最低基本給が月額8000ペソ程度、ベテランで11000ペソ程度に皆勤手当て等の数千ペソ付加)なため、自分が受け持った生徒の帰国後に、副業としてオンライン英会話教室をやっている先生も多い。これは普通オンライン英会話と同程度の授業料(1時間300ペソ以上)だが、生徒としては気心の知れたプロ語学教師に学べるというメリットがある。自分が行った学校では先生正社員というよりはバイトに近いような雇われ方をしているようで、健康保険有給休暇は基本的には無いらしかった(大ベテランのみ?)。病気や急用の時は代理の先生が来た。急に退職してしま先生もごくまれに居た。

先生は大抵が若い人で、教育学部看護学部卒業してそのままESL就職たか、あるいは数年だけ他の職場で働いたという人が大多数であるため、所謂ビジネス英語や専門的な英語を学ぶことは難しい。教えれる先生ほとんどいない。ESLのうたい文句でビジネス英語「も」学べる!なんて書いているところもあるが、気休め程度とか初歩だけと考えていいと思う。(本気のビジネス英語を学びたがるレベル学生がそもそも来ないからだろうと思われる)例えば日本人看護士留学して、運がよければマンツーマン看護学部卒の先生を探せるなんてこともあるかもしれない。

ちなみにESL先生という職は現地ではそこそこ勝ち組な部類とのことで、「ちゃんと英語が話せる」というのは現地でも一応ステータスではあるようだった。タクシー運転手でもなんとなく英語は通じるが、普通に英会話ができるとは言えないドライバーほとんどだった。現地の大卒というのは日本ほどの価値がなく、ファーストフードショッピングモールの店員ですら大卒らしい。日本いい大学を出てるレベルとゆーのは、あちらでは院卒レベルなのかもしれない。

現地でやる勉強

Forestとか薄めの文法参考書と、単語本の2冊があれば十分だと思う。向こうでも教科書買うし。毎日の授業で新しいことたくさん学ぶので、日本から持っていった自習教材でバリバリ勉強ちゃうぜ!という人はあまり居ない。というかそこまでやる気が持つ人が少ない。毎日宿題出す先生も多いし、友達できて楽しすぎるし。そして盲点なのが、本が多いと国際線の手荷物重量で引っかかるとかそっちの心配もある。行きは良くても帰りにおみやげ増えて重量オーバーとか。

日々のレッスンは、何をしていくか先生相談したりもする。基本的な文法がなんとなくわかってる人は、こつこつライティング勉強も並行してやると、脳内英作文が早くなるからスピーキングも伸びやすい。毎日作文して毎日先生添削してもらう。脱ブロークンのためにもオヌヌメ

生活環境

女の人は以下もあるといいらしい。

夜遊び

観光、食べる&飲む、クラブ行く、ダイビング行く、買い物するぐらい。正直遊ぶのは2ヶ月で飽きる。フィリピン人の女買う奴も居るけど、ゴムしてれば全部大丈夫とか思ってるアフォが多すぎ。あとオカマ多くてびびる。綺麗なのに・・・なにその喉仏。

きけん

最後

行って本当に良かった。色んな人との出会いも良かったが、フィリピン人のテキトーさに触れ、自由を満喫して、日本以外にも生きていける場所が見つかったという開放感がパネェ何となくいま閉塞してしんどい人も、軽い気持ちで行って見たらいいと思う。大人しくしてれば安全に過ごすことも十分に可能だから。こまけぇこたぁいいんだよ!

2012-08-04

英語の授業について、ほろ苦い気持ちを思い出した

http://anond.hatelabo.jp/20120803173843

中学校1年のとき英語教師が、増田の言うような授業スタイルで、一切日本語を喋ってくれなかった。

私のころは当然公立の小学校では英語教育などなく(ローマ字は教えられたから、アルファベットだけは書けたが)、

塾に通っていて英語を習っている子も、1年生の最初最初"This is a pen."レベルから、まだ少なかった。

授業方法は、まったく文法などを解説せず、教師にバシバシ訂正されながら教科書を音読させられたり、

テンプレートのやり取りを隣同士で行なったり、というのが主だった。

授業方法が授業方法なだけに、テスト内容もそれに沿っていて、

私たちはまったく文章が構成されるルールを知らないまま例文を暗記するだけでテストを受けていたが、平均点は高かった。

扱われている教材のテキストレベルはおそら指導要領からは外れていなかったと思う。何せ中1だ。

それにしたって、あの1年間はなんだったのだろう。

翌年、英語担当教師が変わり、塾に通っていなかった、英語勉強方法はそういうものだと思っていた愚かな私たちは、

一般的なスタイルの授業の前に撃沈した。

なにせ「be動詞」というものが何を指すかすら知らなかった(is、are、などは知っていたが、それらをbe動詞と呼ぶとは知らなかった)。

もちろん、それらがどういった条件で変化するのかもあやふやだった。

今考えると、恐ろしい。

こういう勉強法はせめて高校卒業時…いや、中学卒業レベルでもいい、

とにかく、基本的な文型やifや関係代名詞やそういうの知ってからすべきだったのに。

あるいは日本語も話せないような幼児教育としてやるべきだったのに。

あの教師はいったい何を教えたかったのだろう…。

その後、塾に通い、学年相応の英語力はついたし、折りしもハリポタブーム()で初めて洋書を買って、

英語米語の違いや各地方の訛り、綴り、韻、ジョークなど、「娯楽的英語」の楽しさから英語好きになって、

進路を決め、1年だけだが留学も出来た。

仕事英語関係ないけど、洋ドラ映画アメコミナショジオは大好きだ。

遅れは取り戻せたが、あの1年がなければ、私にとっとと塾に駆け込むべきだと考える判断力があれば、

1年でもっと色々できたかもな。と思わなくもない。

まあ、それはともかく、基本的な英語を覚えてなくても習ったことがある人が、

学習として自習で英語勉強するなら、英語英語、という考え方をしたほうが良いとは思う。

日本語話者同士の日本語でのやり取りでさえ、齟齬が起きたり、気持ちが伝わらなかったりするのに、

言語同士の相対表作ったり、あまつさえ話者のニュアンスを完全に再現した翻訳などできるわけがない。

多くの英語話者の作品をサンプルとして見聞きし、その単語フレーズが示す概念ニュアンスやらを知ったほうが応用が利く。

2012-07-26

森博嗣小説の中にこんな言葉があった。

日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」

「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これは、もともと液体を一緒にするとき言葉です。外国特に欧米では人間は、仲間に入れてほしいときジョインするんです。混ざるのではなくて、つながるだけ……。つまり日本は、液体の社会で、欧米個体社会なんですよ。(以下略)」

有名作家意見をそのまま拝借して申し訳ないのだが、最近いじめ問題ひとつのアンサーになっていると感じる。

からといってこれがすべての要因ではないが…。

日本人ときとして水と油で分離するが、欧米人レゴブロックだ。接続点がひとつしかないブロックでも巨大なブロックでも"ジョイン"できる。

奴らにコミュニケーションで勝つことはこの概念を理解できない日本人には難しいだろう。

2012-05-26

re:河本準一氏叩きで見失われる本当の問題

 本件の印象は、「初動でつまずいたが、うまくリカバリしつつあるな」というものである


 推測だが、本件は、次のような流れなのではないだろうか。

 1. 5/16時点 広報担当部署レベルでの対応

→2. 5/18時点 弁護士投入(片山議員との面談に同席)

→3. 5/25時点 危機管理に強い弁護士コンサル投入(←イマココ!)


1.の時点での対応は、めちゃくちゃであるゼロである

 5月16日の発表(http://www.yoshimoto.co.jp/cmslight/resources/1/108/120516.pdf)を見てみよう。


 しょっぱなから週刊誌の記事やインターネット上の風説が流布されており」と書かれている。

 通常、「風説の流布」とは、金商法上の用語として用いられるもので、法律家であればこのような文脈では使わないから、おそらく広報担当部署のみでの対応であったのだろう。

 普通は、広報担当者には危機管理能力の高い人間を置くものだが、非上場化したので株主に叩かれることもないし、元々吉本ということでマスコミに叩かれることはないから、適当人材を置いて対応しているのだろう。

 更に、主語動詞の関係を見ても、「週刊誌の記事…が流布されており」となっており、意味をなしていない。

 アホくさいのでこれ以上は詳しくは触れない。


2.の時点でも、弁護士を入れて火消しに走ったようだが、イマイチだったようだ。


3.そして、本日対応は、なかなかである

 http://www.kotono8.com/2012/05/25komotojunichi.htmlによると、

記者会見によれば……、以下のような経緯である」、「ここに河本氏や母親の問題は一切ない」。

 とのことだが、当たり前である記者会見で話したことは、吉本側の言い分であるのだから

 過去に発表した事実矛盾しないように、かつ、新たな事実が判明しても嘘にならないように、巧妙に仕組まれている。

 (そうでなければ、吉本側も高いフィーを払っている意味がない。)

 2から1週間経って、満を持しての会見である。予行演習もバッチリやって、想定問答もバッチリ用意されているだろう。

 タイミングについても、おそらくは木曜日発売の週刊誌報道されることを見越してのものだろう。

 更に、土日の情報番組で何度も取り上げられることも期待しているのかもしれない。


 5月25日の発表(http://www.yoshimoto.co.jp/cmslight/resources/1/109/120525.pdf)も、垢抜けている。

 ざっと見ても、(1)まず謝罪から入り、(2)(過去行為の)責任を認めない(「自主的に」、「違法行為があったことを前提とするものではありませんが」、「道義的責任」)、(3)(将来の行為に対する)明確なコミットはしない(「…予定でおります」「…調整させていただきたいと考えております」)、(4)謝罪で〆る、という綺麗な流れである

河本準一氏の母親・姉・叔母二人の「生活保護不正受給」問題が騒がしいが、わたしは河本氏叩きにはまったく賛同できない。

 とのことであるが、このような人は、ディフェンス側の企業から見ると、善意であればあるほど、ありがたい。

 「ディフェンス側の企業としてどう対応するか?」をまず考えてから論じないと、企業の手のひらの上で踊らされるばかりである

もっとも、上記ブログ記事は少々論旨が破綻しているため、分かっていて敢えて曲解しているだけかもしれないが。)

2012-04-23

捗る」が、馬鹿が使う動詞に感じてしょうがない

いや偏見なのはわかってるけどさ、どうしてもタイトルのような感情が湧いてしょうがない。

2012-03-14

けがれ」

http://anond.hatelabo.jp/20120314140038

ちなみに、「けがれ」とは、いまで言う「ケガ」のことをいう。

けがる」が動詞で、いまで言う「ケガをする」という意味である

このように、いまの多くの日本人は、日本語がわかっていないままに、気分でしゃべっている。

2012-01-27

村上春樹の猛々しい想像力 (1/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)

1 - 2 - 3

この夏、私は初めての日本への旅行を企てた。

村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。

ところがその目論見は外れることになる。

私は村上の作品の影響下にあるまま、東京に降り立った。

期待していたのは、バルセロナパリベルリンのような街だった。

そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ劇場文学シットコムフィルム・ノワールオペラロックといった、

西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタン世界都市を私は期待していた。

誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。

実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。

そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。

東京での初めての朝、私は村上の事務所に向かっていた。

アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、

私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。

最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、

どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。

私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。

そして蜂の巣状のガラスピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき

ついにユキという村上アシスタントに見つけてもらうことができた。

このようにして私は東京の地下の洗礼を受けたのである

まりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。

実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。

そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。

村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなた最初記憶はなにかと尋ねる。

やっと村上に会えたとき、私は彼の最初記憶について尋ねた。

それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。

彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。

流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル

そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。

「明確に覚えている」と彼は言う。

「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」

村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。

その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶自分の中にある、と感じた。

ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。

村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分記憶を写し込んでいたのだ。

村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中

週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。

それは非現実的なまでの災害の余波を受けた夏だった。

4ヶ月前に北日本を襲った津波で2万人が命を落とし、

いくつもの街が破壊され、原子力発電所メルトダウンした。

その結果、電力、公衆衛生メディア政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。

日本を代表する小説家である村上に会いに来たのは、

大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。

この本はアジアで数百万部を売り上げ、

まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。

62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学最高峰としての地位を確かなものにしている。

疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界大使となった。

そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。

村上は常に自分日本アウトサイダーだと考えている。

彼は不思議社会環境最中に生まれた。

アメリカによる戦後占領を受けた1949年京都日本の前首都である

「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。

「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。

「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。

彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、

それはそのまま彼の最初人生経験の基本構造でもある。

村上は成長するまでのほとんどを神戸郊外で過ごした。

そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である

彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説ジャズに没頭して十代を過ごした。

そうして反逆のクールさを自分ものにし、

二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブ東京で開いた。

掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、

彼は約10年間をその仕事に費やした。

作家としての村上キャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。

どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生根底から変えてしまう。

29歳の村上地元野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴヒルトンというアメリカ人助っ人バッター二塁打を打つのを見ていた。

平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上天啓に打たれた。

自分小説が書けると気づいたのである

そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。

そして彼は書いた。

試合が終わった後、書店に行きペンと紙を買って、

数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。

それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。

アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。

わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。

名犬ラッシー』、『ミッキーマウスクラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲フランス映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディランマーヴィン・ゲイエルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストックサム・ペキンパーピーターポール&マリー。

以上はごく一部に過ぎない。

そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本芸術引用がまったくない。

村上作品のこうした傾向は日本批評家をしばしば苛立たせている。

村上は『風の歌を聞け』を権威ある新人賞に応募し、受賞した。

そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。

時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。

30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。

すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。

彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。

そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。

彼は自分の事務所を監禁場所だとみなしている。

「ただし自発的な、幸せ監禁だけれど」

「集中は僕の人生もっと幸せものだ」という。

「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」

そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。

30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンルSFファンタジーリアリズムハードボイルド)と様々な文化日本アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。

どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。

時とともに村上小説は長くシリアスになる傾向が強くなった。

シットコム引用もその傾向に調和している。

そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。

低く深い声で村上たくみ英語を操る。

彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。

なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。

はいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。

特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。

安全言葉いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。

英語即興の遊びをしているように感じられたのである

私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。

その事務所は半ば冗談ながら村上製作所と名付けられている。

数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。

村上は青いハーフパンツと半袖のボタン付きシャツで現れた。

彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロンけが好きだという)。

靴は履いていない。

彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップブラックコーヒーを飲んだ。

その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からお気に入り小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。

話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。

村上純粋にびくっとしたようだった。

その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。

「大きいな」と村上は言った。

電話帳みたいだ」

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