中身の無い人間が、服装だけ着飾ったってすぐにボロが出る。
口ばかり達者な人間は、長く接していると矛盾が見えてくる。そして信頼を失う。
技術だけの人間は、社会に出ても美味しい汁を吸われて安く使われるのがオチだ。
心優しい人間は、言葉や行動を伴わなければ存在しないのと変わらない。
躰たくましい人間は、それを生かす方法を見つけられなければ無意味だ。使い方を間違えたら害にもなる。
努力している人間は、その成果について常に確認しないと努力の意味がない。努力の行為そのものに満足していたら最悪だ。
「着飾ったって意味がない」とか「口達者は信用できん」とか、特徴の一点を否定するような言い分は詭弁だ。
「努力にこそ価値がある」とか「心だけは優しくあれ」とか、特徴の一点だけを肯定するような言い分も足りない。
中身が伴わなくたって、口達者でおしゃれな人間はきっとモテる。
心が冷たくても、躰たくましく頭も回る人間は、文武両道としてきっと一目おかれる。
ダサい恰好してるけど、技術がありさらに努力している人間は、たぶんナメられない。
いくつもいくつもパラメータが積み重なって人間の性質が出来上がるわけで。
ひとつひとつの特徴だけを否定したり肯定するようなことは、論理として足りない。
その行為自体に満足するなんでもっての外だ。
努力は、その結果として何かの成果を出して、それが人に認められなければ無価値だ。努力は手段でしか無いんだよ。
もし貴方が何かに努力しているとして、その姿についてきっと周りは称賛の言葉を投げてくれるだろう。
しかしそれは貴方が挙げた成果への承認ではない。しかし社交辞令でもない。彼らは割と本気で貴方を称賛してくれている。
それは何に対する称賛か。
それは「未来に発生するかもしれない成果に向かう貴方の姿」への称賛だ。承認ではなく応援なのだ。期待なのだ。
もしこの称賛に満足してしまったらどうなるか。
満足は人の足を止める。そこで未来予想図は砕ける。それは彼らの応援に対する裏切りだ。
応援は応援として受け止め、それを「承認として曲解し、足を止めるようなこと」は絶対に避け、
彼らの声に応えたいならば足を留めずに進んでいこう。
ある時点で何か諦めるのも別に悪いことじゃない。それはそれで選択だろう。
それは別の何かの可能性の始まりになる。
でも、何かを辞める理由を「十分努力したから。努力という目的は達成したから」みたいな歪んだ理由として自分を騙すのは、ダメ、絶対ダメ。努力は手段なんだよ。「努力に満足する」なんていう動詞は在っちゃいけない。そんな辞め方したらその先もまた同じような失態を繰り返す。
為末 大 @daijapan
成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提。
私はこの発言を大肯定する。
これはおそらく現実だ。
でもね、この発言を引用して、「じゃあ才能ないけど努力してる俺の努力は無駄なのかよ」みたいな論調で否定するような行為は愚かだからやめたほうが良い。
才能があるかどうかなんて完全には分からないし、才能がもし足りなくても努力で補える可能性が1%くらい残ってる。そういうところにしがみつくのが本来の努力だと思うのよ。そんな意地も持てずに、彼の発言を理由に自分の努力を無駄扱いするような言動はとても恥ずかしい行為に見える。もっとプライドを持とう。