はてなキーワード: 人形とは
アスカは人間の生活や価値観を捨てた、クチの悪い軍人だと思ってた。なと思ってたので、その視点はなんだか新鮮だった。
増田の中でアスカは素子だと構築しているならそれで何も問題ないよ
『そうなんだ』っていうだけ
新ではメンタル病みの描写が随分優しいし、シンジ以外はそこまで追い詰めてない
↓
そういう描写あったっけ?見逃してるかもしれないので破とQチェックしてみる。
???? 結局、アスカに病み描写あると認識してるんだよね????
当たり散らすのはもちろんお人形とアスカは1人でも大丈夫ってやってるのは健康そうじゃないよ
倫理的にもエヴァのメタ的にも (過去にガイナ名義でCPれるゲームは作ってはいたけど)
===================
===================
A『そんな私にも理解ある彼くんがいます。彼くんのおかげでなんとか日常を送っているわけです』
<Aの彼くん 理解力3万>
B「その程度で理解力がある?笑わせるわね。私の彼くんの理解力は53万よ」
<Bの彼くん 理解力530万>
彼『うわーーー』
A『そんなの間違っているわ!理解力は人を傷つけるためのもじゃない!メンヘラの私を幸せにするためにあるのよ!』
理解ある彼氏=貞淑な妻という解釈・理解は 価値観の違いで片付けられるレベルの話ではない気がするが
よかった事↓
・レイが自立した
25年間か、長かったなぁ。
初めてエヴァを見たのは20代の時で、まだ訳のわからん焦燥感に追い立てられるような日々を過ごしていて、
世間的には成人していてなんなら働き始めの頃だったっけ。
だからすっかりシンジ達の目線というより、中途半端に大人の世界に足を突っ込んだ人間の目線だった。
オタ仲間が貸してくれたTV版エヴァは「子供がなんか酷い目にあってるアニメ」で
とりあえず流行ってるから観たけどひでぇ大人ばっかりだな!!って印象だった。
「この状況ならこう動いて欲しい」という期待なんかきいてくれない。
やたらとストレスが溜まる展開で、でも、最後まで見て「やっぱりわけわからん」で終わっていた。
時間が経ち様々なエヴァが公開され自分も年を経て見えていなかったものに気づいていった。
存外大人は未熟な人間だらけだという事、他人は自己の延長線上にはいないという事、社会はパターン化されたコミュニケーションで成り立っていてパターンをインストールしておけば社会に受け入れられやすいという事、自己を保ちたいという欲求以上に他者に受容されたいという欲求が驚くほどの強さで自分の内に存在する事、
様々な自身の体験を、作品に重ねて鑑賞できる様になっていって、ふと気づいたら、エヴァという劇を楽しめる様になっていた。
それはその時々の自分が不幸なら「せめて虚構の中では幸せな話を見たい」だし、充実している時なら「虚構の中とはいえ人が不幸になる話は見たくないし一緒に幸せになってほしい」からだ。
だから、今までのエヴァの登場人物が誰一人として幸せそうではない事は見ていて辛いものだった。
綾波が独立した魂を持った人格として扱われずに使い捨てられていく事に心を痛め、アスカが心の渇望を埋めるために自己を破壊していく姿に涙し、シンジが絶望に打ちのめされ踞ることしかできない暗闇にいる姿を見ると気が塞いだ。
どうなれば幸せを感じられるのか、幸せになりたいのかすらもわからず、劇中の人々のその瞬間に起る出来事への瞬間の反応が物語を、人生を形作っていく。現実の人生もそうだろう。納得できる結末なんて見えはしない。けれど時間を超えた視点を持つ事を許された観客たる自分は、どうしても終劇を求めてしまう。
その欲求が満たされるのか、それともまたしても満たされずに終わるのか、その期待感とスリルでエヴァを見続けていたんだと思う。
そう、劇場版を観劇した人は分かるだろうが、自分はもう満たされた。
綾波が社会とそれに対する自己を育て受け入れられていくシーンは本当に嬉しくて涙ぐんだし、魂の無いクローンではなくゲンドウとユイの娘として一個の人としての人生を手に入れた事は心から祝福したかった。
アスカを理解して共に人生を生きてくれるであろう人は、派手ではないけれど人格破綻者ではなくしっかりと地面に足をつけた信頼できる人物だ。
シンジは、ゆっくりだけど自ら立ち上がって歩き出し、とりまく世界を理解し成長する事を選んだ。
ただ、今は、おめでとうと拍手を送りたい。
時々ふと思い出す、数年前に死んだ愛猫のこと。思い出すたびに胸の底が冷たくなる。
先に書いておくが、飼い主としてとかではない。私は猫は好きだけど飼い猫にイマイチ愛情を持てなくて、他の家族が可愛がっているのを遠目に見ているくらいだ。
数年前に死んだ猫は私が小学低学年の頃に母が知り合いからもらってきた猫で、大柄で毛が長くて臆病な子だった。
先住猫が既に1匹いたが、結局最後まで仲良くはなれなかった。
若い頃から晩年まであんまり活発的に動くこともなく"ネコ"の名に相応しいくらい寝てばっかりだったし、そのくせ食い意地だけは張っていて、人が何かを食べていると結構な確率で起きてくる。あと人馴れもしなかったんだけど、亡くなる少し前には何故かとても人懐こい猫になっていた。
私は飼い猫が嫌いってわけではなったけど、他の家族が飼い猫のことをずっと可愛がっていたから、ほっといても誰かがやってくれるし世話もしなくて良いや〜っと思っていた。事実、母が頻繁に餌をやっていたし、父は凄く凄く溺愛していた(+トイレ掃除)し、妹は散歩に連れて行ってあげていたので、私の出番は殆ど無い。別にやりたいというわけでもないので、特に何も気にすることはなかった。
飼い猫が亡くなる数ヶ月前、家族で行った買い物先から帰ったところ、キッチンの床に血が付いていた。みんなビックリして何の血かと探したら、飼い猫の口周りに血が付いていた。痛そうにしてるとか怪我してるとかもなくて、本当にいつも通り座っていたものだから「鳥とか生肉とかでも食べた?」と考えたりもした。
次の日に大事な親戚の集まりがあって、どうしても欠席は出来なかった。まー普通にしてるし、大丈夫でしょ。みたいな雰囲気になったけど、私は心配で仕方なかったので、飼い猫を壊れかけのキャリーケースに詰めて、検索して出てきた遠くの夜間病院まで行った。
もう終電間際だったから途中で電車が無くなったので、深夜の住宅街をひたすらに歩いてやっと着いた病院。結果は何にも無かったんだけど、何かあったらいけないからということで獣医さんが紹介状を書いてくれた。
それから紆余曲折あって、数ヶ月後に突然死してしまった。今回の話とは関係ないので端折るけど、良い死に方はしなかった。厳密に言えば母のせいではないんだけれど、母が発端となり亡くなってしまったので、母は一時期とても落ち込んだ。
で、初めて飼い猫が死んだので知らなかったんだけど、火葬用の車が家の近くまで来てくれて、一応葬儀らしきものをしてくれるらしい。私は暇だったから参加することにした。父と妹はどうするんだろ?と思っていたところ、二人は「欠席する」との事だった。
え???父は元々冷血漢だから別にだけど、妹はイベントか何かがあって行かれないとかで???ん??あんなに可愛がってたのに????世の中にはペットが死んだ場合に有給の申請が認められてるらしいが、我が家では誰も取る人がいなかった。この記憶が、私の中の心がヒヤッとする思い出の一つである。
葬式は、母が終始大号泣、葬式を取り仕切ってた人(?)もつられて大号泣、安っぽい小サイズのスピーカーから流れる安っぽい音のG線上のアリア。私はこういう"ほら、泣けよ"という演出(捻くれててすまない)が昔から苦手で、気持ちが冷めて二人の雰囲気にどんどん置いてかれて居心地が最高に悪かったことを覚えてる。あと当たり前なんだけど、死後硬直した猫って人形みたいな感じで、死体がすごい苦手なので触らなかった。生前は触れてたのに。
大体1時間くらい近所で骨を焼いて、戻ってきた。母はまた泣いてたけど、私は何も感じなかった。死んだと聞いた時も、葬式の間も、骨になって帰ってきた時も、今もずっと。
何も無いというか、10年以上居た飼い猫が死んだことよりも、その周りのことの方がよっぽど感情を揺さぶられるというのが近い。
あんなに可愛がってたと思っていたのに、飼い猫の死をきっかけに"みんな実は言うほど可愛がっているわけじゃ無いのでは?"と考えるようになった。いや、勿論、世話をたまにしかしない私より、世話をしてるみんなの方が愛情はずっと深いと思う。
でもたまに、あの葬式前夜のモヤモヤ感や、夜間病院の道のりを思い出しては、何とも言えない感情が湧き上がる。
葬式の当日、父は様子を尋ねることもなかった。妹は聞いてきたけど、上記の通り私は完全に気持ちが離れていたので、母のことを中心に伝えた。それ以上のことは聞かれなかった。
夜間病院の時、冬間近で小雨も降っていて、寒くて心細かったけど、今考えてみれば飼い猫との唯一の思い出だ。壊れかけのキャリーケースの中でたまに細く鳴く猫の声を頼りに歩いた暗い道を、今でも覚えている。ちょっとスタンドバイミーみたいだとも思う。
もし飼い猫に何かあった時、真っ先に立ち上がるのは自分じゃなくて誰かなんだろうなーと自覚してたし、他の家族にも「アンタは飼い猫に興味ないよね」言われた。きっとあの日までは事実だった。愛情って何だろうね。私が何かあった時、家族に同じ対応されたら、そして手遅れになってしまったらどうだろう?と時々考える。
因みにここまで書くと母が一番猫のことを思っているように見えるけど、多分母が中でも特にヤバい。私よりヤバい。詳しくは書けないけど、猫の対応見てると「あ、この人はやっぱり毒親なんだな」と再確認させられる。
後輩たちの理想になることは諦めた。
だからせめて、少しくらいは続くたくさんの後輩が働きやすくなるように。
本当は、性別なんて関係なく、なるべく多くの人が健やかに生きていける社会になるのが一番だけど、日本というジェンダーギャップが大きい国に生きる女のひとりとして、女性が輝ける社会になりますようにと願いたいと思う。
塩谷舞さんのnote記事を読んで、私も筆を執ってみようと思った。あんな風に前を向ける記事ではないけれど。(リンクのつなぎ方がわからなかったので気になる人は探してみてほしい)
小学校の時は、男友達とよく遊んでいた。一番仲良しだった幼馴染は女の子だったけれど、年の近い兄弟がいたせいか、外でフットベースやどろけいに明け暮れていたように思う。リカちゃん人形やたまごっちにはあまり興味がなくて、ハイパーヨーヨーとミニ四駆は持っていた。そして単純に身体を動かすことが好きだった、そういう小学生だった。
小学校4年生まではスカートが嫌いでズボンばかり履いていたし、つまるところあまり「女の子っぽくなかった」のだと思うが(そもそも女の子っぽいとかぽくないとか、そういうのが時代錯誤なのはさておき)、幸か不幸か男の子と仲良くしていても、とやかく言われずに済んだのは幸いだったと思う。男の子と仲良くしている女の子の中には男好きだと陰口を叩かれている子もいたのだが、「まあAちゃんだし」と言われて女子から目の敵にされることはなかった(と、思う)。今になって思えば、女の子たちから「女」と認識されていなかったのだろう。要は、あの子は恋愛対象にはならないからOK、ということだ。
お互いを好き合った男女がカップルになったりしていて(同性カップルもいたのかもしれないが、私の耳に入ることはなかった)、仲が良さそうな男女がいれば噂になった。そして私は相も変わらず休み時間は割と男友達と話していた方だったと思うのだが、「Aちゃんだし」という理由で特に噂の対象にはならなかった。おかげさまで僻まれることもなかった。
やっぱり、「女」ではなかったのだと思う。そしてそれは私としても自覚している。
そういう環境で育ったので、「男」だとか「女」だとか、そういうものには鈍感というより興味がわかないまま中学3年になり、進学先を決めることになった。私の出身都道府県には、今では珍しい公立の男女別学校があった。こだわりがない故に別学校を選ぶ必要もなかったのだが、当時私を可愛がってくれていた先生が、「あなたは絶対に女子高が合うと思う」と言ってくれたという単純な理由で、私は女子高を目指すことにした。
結論から言えば、私は本当にあの時にあの女子高を目指した自分を褒めてやりたいと思っている。
ギャルもヲタクも皆一緒に学校行事に参加して勉強で競い合って最高の3年間だった。楽しかったというのもあるが、何より変な気を遣う必要がなかったのだ。当時から制服はスカートとズボンが選べたし、当たり前だが誰と仲良くしていようと噂されることだってなかった。
強くて逞しい人が多かったから、比較して自分の小ささに凹むことはあったけれど、とても刺激を受けたのもまた事実だ。
共学校が駄目だと言いたいわけでも、男女別学であるべきだ!と思っているわけでもない。
ただ、あの3年間は間違いなく私の自立心を育てていて、「女だから」は理由にならないし、する必要がないことを学んだ。
日本という国において、絶対に、女子校が担っている役割は大きい。
そういう、とても私にとって意味のあった3年間を過ごし、大好きな分野の学問を学ぶため大学に進学し、こんなにも文理で男女差があるのかと驚いた。
高校では半々とまではいかなくとも、どの学年も大体文系の方が少し多いくらいで、理系の女子も多かった。(どうでもいい余談だが私はゴリゴリの文系である)自分も文系なのでとやかく言えないのだが、何で女子は文系が圧倒的に多いんだ?と不思議に思ったものである。
入学してから数日、久しぶりに皆で連れ立って食事をし、皆で一緒に次の教室へ移動した。
多分1週間も持たなかった。
一瞬で最初のグループからは離れ、ひとりで食堂に向かったら、浮足立つ新入生のグループが多い食堂で、明らかに新入生であろう女子が、ひとりラーメンを啜っていた。
そうだよなあ、好きにお昼くらい食べるよなあ、と安心し、少し離れたところで同じくラーメンを食べた。彼女とは今でも連絡を取る仲である。
女子高を卒業し、大学は学部もバイト先も女子が大半を占めるコミュニティの中で過ごし、たまたま男女比9:1の会社に就職した。
総合職を選んだ以上、男も女も関係なく業務に邁進するのみ!という心意気だったのだが、割と早々にしんどくなって泣いた。ひどいセクハラを受けたわけでも女を捨てることを強要されたわけでもないのだが、「男も女も関係ない」という自分の意識と、「圧倒的に男が多い集団の中にいる若い女子」である事実を上手く融合させることが出来なかった。
どうしたって「女」を上手く利用している子の方が可愛がられる。可愛がられたいわけではないが、「女を捨てる」ことも出来なくて(いやしなくていいんだけど)、何とも中途半端な位置になり、色んなバランスが崩れて勝手にしんどくなった。
男社会の中で女であることに甘えられない・出してはいけないのだというプレッシャーはあるのに、貴重な女子社員として意見を求められるという矛盾した立場にいて、「女」を肯定すればいいのか否定すればいいのかわからなくなっていった。
「女」が主語になるコミュニティで生きていると、自分の意識もそれに近づいていくのだと気づいたときが、一番怖かった。
「女は女に厳しい」「女は気まぐれだからやりづらい」「女は甘えればいいと思ってる」「女はすぐ子どもを産むからここから離脱する」「女は…」
前述のとおりあまり「女」としてカウントされない私は、そういう声もよく耳に入った。要は男性がそういう話をしている場面に出くわしやすいし、そういう話題を振られることが多かった。「Aさんは違うけど、」という枕詞を挟んだ上で、「女は…」と語られる。
今でこそ「それ、女じゃなくて〇〇さんでしょ(要は個人の話)」と言えるようになったけれど、しばらくの間は擁護をすれば自分もそう思われるのではないかと思うと怖くて、この手の話題が出た時に否定することが出来なかった。ずっと悔やんでいる。
会社の人が噂をする「女は…」に自分が入ることが怖くて、これは私を少しずつ蝕んでいき、この立場でこの仕事を続けながら「結婚」と「出産」を選ぶことは出来ない、と思うようになってしまった。
性自認は確かに女なのに、自分が女であることを肯定できなくなっていった。
もちろん、活躍している女性だっているし、今の現状に満足出来ている女性がいるのもわかっている。
自分が気にしなければいいのだとも思うけれど、30年生きてきていい加減わかっている。私は他人の声を気にせずいられるタイプではない。
いっそこの業界が嫌いになれたら良かったなと思う。
女性の採用も増えたけれど、まだまだ圧倒的に男が多いこの業界を飛び出していけば、もう少し気楽に働けるのかもしれない。
でも、会社のことは変だと思っているし、決して誰もが働きやすい会社ではないと思っているけれど、この業界が担っている社会的役割だとか、やりがいだとか、そういうのは好きなのだ。
だから、やっぱり続けたい。
優遇してくれとは思っていない。
ただ、男性と同じところに立たせてほしい。
男だってつらい、という声も聞くけれど、男優位に作られた社会で、女と同様男にも悩みがあるだなんてどうして言えるんだ。立っている場所が違うということをわかっているんだろうか。
結婚適齢期で子どもを持つ同期が増えた。「やっぱ子育てもしながらっていうのは大変だよ」と言った彼は、毎日残業していた。彼は優秀な同期で、残業しなければ終わらないような会社の仕組み自体どうなんだとは思っているけれど、彼が毎日残業出来るのは奥さんが子どもの面倒を見ているからだ。他人の家庭に口を出すつもりはないし、1人が稼いで1人が家事を行うと決めているのであればそれも良いと思う。
ただ、この状態の総合職(男性)が圧倒的に多いこの会社で、この人たちと同じようにキャリアを積んでいくには、同じように働くしかないのだ、と思うと、まだまだ社会的に女性が家庭を守るべきという風潮が強い中でそんなことが可能なのか?と絶望する。
「キャリアと子育ての両立に男だって同じように悩む」と言っていたけれど、本当に同じなんだろうか。
同じだったら何故男女でこんなに差が出るんだろう。
「女は昇進させない」というほどひどい会社ではない。女だってちゃんと昇進できる。ただし、子育てを優先せざるを得なかった人たちの昇進スピードが落ちるから、見渡した時に男女で差があるように見えてしまうのではないか。だって男で子育てを優先した人は圧倒的に少ない。子育てを頑張りながら同じように昇進していくことはかなり大変なのではないか。周りを見渡してそう感じ、夜中に大泣きするくらい悩んだ。悩んで、今はとりあえず結婚・出産は考えられない、と判断した。
男性も本当に同じように悩むんだろうか。
大多数の男性社員と同じようにキャリアを積めた女性の、独身・子どもはいない率に茫然とする。
きっとこの人たちも大変だった。この人たちはもっともっと苦労して、女性が活躍できる場を広げてくれた。
ただ、こうでなければたどり着けなかったんだな、と思うと、自分が思い描いていた将来とは違うのだ。
一緒に頑張ろうと言っていた同世代の女性が、何人も「もういいかな、仕事は。子ども産んで適当にやっていくよ」と言うようになった。あんなにたくさん将来のことを話したのに、もう話せなくなってしまった。そういう道を選んだ、というよりは、諦めたんだな、と思った。
幸いなことにと言えばいいのか、この会社は「子どもを産んで適当にやっていく」ことも出来る。制度は整っているし、相談すれば配慮もしてもらえる。
そうだ、確かにたくさんいる。でも多分、男性の同期と同じようにキャリアを積んだ人は少ない。
だって私は現時点で、お子さんがいる先輩方を結構な人数追い抜いている。
それでいい、という女性がたくさんいるのもわかっている。でも、それでいい、と思わせるような構造になってしまっていることが、そもそも問題なのではないか。
男は、子どもがいようがいまいがほとんどが同じようにキャリアを積んでいくのに。
気が付けば私も、昔の私がその姿を見て茫然とした人たちと同じように、仕事だけを取る方の道に進み始めている。
これだけ家庭と仕事の両立が叫ばれる時代に、家庭を持たずに道を進んでいくことは、きっと後輩たちの光にはなり得ないのだと思う。私が昇進したところで、私が思ったのと同じように「あの人独身だしな…」と感じるんだろう。自分も思ったんだから、自業自得なのはわかっているが、なんて地獄だここは。
男性諸君は、諸先輩方を見上げて、「あの人独身だしな…」と思うことがあるのか?女性の待遇が上げられないというのなら、いっそ男性も同じように悩む社会になればいい。
そういう呪いにも近い気持ちが渦巻いている。出さないように、細心の注意は払っているけれど。
後輩たちの目標にはなりづらいかもしれないけれど、せめて家庭と両立を頑張ろうとする女性たちが働きやすくなるように、手助けが出来る社員にくらいはなろうと思う。
そもそも平等に働くことさえ出来なかった時代に、女性の社会進出の場を切り開いてくれた先人のように、後に続く後輩たちのために粛々と働くのだ。
自分がラッキーなのもわかっている。男性優位な社会で、男が圧倒的に多い会社に、総合職として入れたのだから。
それなりに力がある立場になろうと思えばなれる。トップダウンと言われようとも、権力を駆使して変えてやりたい。大企業が変わることは、多分それなりに意味を持つ。
私の心がそれまでに折れなければの話だけど。
日本社会のジェンダーギャップを埋める、ひとつの駒くらいにはなれるように。
なれるかな。
なれたらいいな。
この国に対してくそくらえとも思うけど、たくさんお世話になった人もいるから。
少しでも社会がよくなれば、それが一番の恩返しになると信じている。
モデルは痩せている。
特に、日本は低体重やBMIが痩せすぎであっても問題なくモデルとして出ている。
そして、その異常な細さが好まれている。
異常としか言えない。
細ければ良いと思うか?否。
あんなに折れそうな棒脚を見せられたところで
「健康的」とは思えないし、本当に「マネキン」っていう感じだ。モデルとしては成功なのか?
幼いころはリカちゃん人形に憧れるとか言うが、私は憧れたことが無い。
本当にそれに憧れて細い足を目指しているのだろうか?
人形になりたいとか、少々怖い。そんな私は色気やオシャレよりも食い気だった。
花より団子、実に扱いやすいだろう。「産まれる性別を間違えたか?」と良く言われる。余計なお世話だ。
痩せすぎると拒食症になったり、貧血になったりと様々な問題があるが
一番の問題は「胸の肉が無くなる」ことだと思う。そう、おっぱい。
胸は何と言ったって脂肪なのだ。痩せるのは胸から、と言われるのは脂肪だからなのだ。
何でこんなことを書いたかっていうと、
モデルに憧れ、鏡で自分をチェックしては「もっと痩せないと」と言っていた。
細すぎて栄養の足りてなさそうなのを「標準」としないでほしい。
個人的な感情で人種差別と書いてしまったが、マレーシア政府からするとマレー人優遇政策らしい。が、正直人種差別だとしか思えないのでタイトルではそう書いた。
マレーシアは多民族国家である。2018年のデータでは、マレー系69%、中華系23%、インド系7%という人口構成比となっている。
中華系マレーシア人は19世紀ごろに中国南部から渡ってきて定住している人たちや、植民地時代に労働者としてヨーロッパ諸国に連れてこられた人たちの子孫である。
今回は主にマレー系マレー人と中華系マレー人の断絶について語っていく。
あくまで全体的な傾向だが、マレー系の人は良くも悪くもおおらかである。細かいことは気にせず、10時に始まる授業が始まるのは11時だったり、12時だったり、15時だったりした。基本約束は守らず、お店の人はずっとスマホを見ていたように思う。
一方中華系の人は、勤勉な人たちが多かった。何事にも一生懸命、留学したり、インターンをしたり、積極的な人が多かった。
全く違う性質を持つ2つの民族間の断絶は大きかったと思う。仲が悪いわけではないが、少なくとも私が住んでいたクラスの席は人種ごとに分かれ、ランチも、ショッピングも、人種が交わったグループで行われることはなかった。日本人の私は、マレー系の人からは「中華系の人たちは働きすぎて余裕がない。あんな働いてどうするんだろう」と、中華系からは「マレー系の人たちはあんなに怠惰でひどい」とよく言われていた。
こうしたことから生まれるのは経済的格差である。マレーシアは資本主義をとっているので、勤勉に働く人がお金を得られる。つまり、多くの経験をつみ、起業したり大企業で働く人の多くは中華系である。こうしたことで、経済を回すのは中華系の人々で、マレー系の人々は農業などの一次産業に従事するという構図が出来上がった。
ここに待ったをかけたのがマレー系の人々で、マレー系の人々を優遇することで、マレー系の地位を守ろうとした。そのための政策が1971年にうまれたブミプトラ政策である。
教育は、日本で言えば高校入試において男女別に枠を設けているのと同じようなものだ。こうした場合、性別ごとの最低合格点が異なることで不公平が生じることがある。マレーシアの国立大学では人種ごとの合格枠の比がその人口比とかけ離れているため、優秀な中華系が大学に落ち、マレー系ばかりが合格するということが多発した。
就職は、中華系の人には職業選択の自由が保障されていないということだ。中華系の人は、公務員にはまずなれない。もしなれても昇給などで不当な扱いを受ける。私の友人の中華系マレーシア人も、子供の頃から警察官に憧れていたが、途中で自分はなれないことを知って、その時はとても悲しかったと言っていた。
減税はそのまま、マレー系の人たちは車や家に関する税がかなり優遇されている。低金利ローンや住宅購入時の割引などもある。また、会社もマレー系の人が経営している場合はかなり税金の優遇措置がある。(中華系の人は、無能はマレー系を人形としてトップとしておけばいい、なんてジョークをよく言っていた。)
国際的な批判(マレーシアは人種差別撤廃条約を批准していない)や、中華系(や、とばっちりで差別されているインド系)の人たちの反発があり、ブミプトラ政策の緩和を推進する動きもある。
しかし、マレーシアは民主主義国家であり、マレー系の人口は全体の69%であることから、ブミプトラ政策の緩和という政策は話題になっては消えるということを繰り返してきた。
最近では2019年に選挙の結果首相となった93歳のマハティール氏の支持率は当初79%であったが、ブミプトラ政策を見直す姿勢を明らかにしてから、下院議員や州議会議員の補選で与党は3連敗し、支持率も39%まで低下し、デモも多発した。
もともとマハティール氏は昔も首相であったが、その際もブミプトラ政策の見直しをしようとして野党に転落した。
こうした背景もあり、実際ブミプトラ政策の撤廃は難しく、もし撤廃される日が来るとしてもそれはかなり先のことだろう。
マレーシアのことだから差別的だと思ってしまうが、他の国から来た何世とか言われる人たちが日本の富のほとんどを持っていて、政治的主導権も持ってたら、多分私もそれを良しとは心から思えないから。
Twitterにいるフェミニストと自称している人をリストに100人ほど入れて暇な時に眺めているのが趣味だ。
そこで得た気付きをここに記す事で共有していきたいのがこの増田の目的だ。
ほぼ朝から深夜にかけて生息している。
朝起きたらまずニュースのRTから始まる。そして知識人のようにツイートをするが専門家ではないので内容は全く的を射ないのが殆どだ。
一人ワイドショーが終われば次は子供や旦那に対する不満や愚痴が始まる。殆ど似たり寄ったりなのでこればかりは全世界の主婦さんお疲れ様ですとしか言えない。
しかしここで子持ちか子持ちでないかで傾向が若干異なってくる。子持ちは国や家族の将来の不安などを視野に入れているのかどこか現実的な部分が見られる。
子供持たない主婦は旦那への不満が多く、現状ばかり文句を言っていて若干お姫様体質が多いように思えた。
そして旦那が家事をやってくれない系のツイートにはどちらも食いつきが良い。お前昼はずっとTwitterとソシャゲとドラマばっかして家事してないだろって主婦(主婦?)もやたらと食いつく。
中には旦那だけは好きだけど他の世の中の男性はマジファックだという主婦もいる。不思議な事にメンヘラを患っている率が高いので旦那をパートナーってよりご飯を食わせてくれる人形として見ているかもしれない。
アダルトチルドレン(以後AC)という言葉自体を聞くの久しい人がいるかもしれないが今も深刻な問題として力強く根付いているのである。
親からの愛情不足、または親の不仲、離婚などから来る結婚に対する不信感が拗れた結果ツイフェミに目覚める人がわりかしいる。
中には父親からの暴力がトラウマで男性そのものを心底から怯えてしまっている人もいて、それは可哀想だとは思う。
しかし結婚というより男女の恋愛に対して不純なものと見なしてしまう人も一定数いて、そこから極端となると反出生主義に走るケースも見られる。
このACツイフェミの多くはこの世に対する憎悪や怒りが根底にあってそもそも私がこんな目に合うのはこの家父長制が全ての元凶なのだと、それによるホモソーシャルや女性を性的搾取する強者こそが
我々の敵であり打ち倒せばきっと平和な世界が訪れるのだろうという分かりやすい魔王を作り上げる事で自分を奮い立たせている。
だから自分の人生がどうしてこんなに幸せになれないのかという思考が前提にあってフェミニストのいう男女平等とかは彼女らにとってはどうでもいいように思える。正確にはフェミニストではないかもしれない。
だがそれでも彼女らは自分を魔王を倒しに行く正義の味方なのだと振舞っており、もし彼女らにとって都合の悪い情報が入ってもそれは一切見ないようにして
男性でも弱者はいるという現実も彼女らは絶対に認めようとしないのである。男性の時点で加害者であり魔王なのだという前提が彼女らの心の支えになっているのだから。
親の都合で不幸になるのは同情するし、出来る事なら幸せになって欲しいのだが他人の弱者を見て見ぬふりをしたり踏みつけて良い理由にはならないのもいつかは気づいて欲しい。
はっきりいってこの生態はクソオブクソである。
腐女子なので男性向きの漫画やアニメを好んで摂取している傾向にあるのは言うまでもないが
男性をターゲットにしたからこそのセクシー描写に対してやたらと厳しいのである。その時にお決まりの言葉が「この作者古い価値観のままで、アップデートしてない・・・」だ。
ちなみに俺はセクシー描写ぐらいはいいと思うが、セクハラ描写に対してはやや否定的な立場なのでラッキースケベで胸を掴んだりとかはどうなんだろうとは思うし
何よりも権力を利用して相手の身体を弄ぶようなパワハラでもあるセクハラが俺も到底許せないと思う。こればかりはセクハラに文句を言う腐女子の立場も理解できる。
ところがその男女間のセクハラにやたら厳しいはずの腐女子がハマっているコンテンツやその二次創作を目にすると何とも驚くのが
セクハラしまくりなのである。胸をまさぐるし、しかも上司が立場を利用して部下を脅したり(逆もあるけどそれは割愛)と権力によるセクハラが普通に好まれているのである。
純愛だからいいんですといってもどう見ても相手嫌がってるんですがそれは。フィクションだからいいんですといったらさっき上で言ってた女性へのセクハラもいいんですってなるぞおい。
そう腐女子フェミニストはとにかくダブスタしまくりである。自分の言った言葉が見事に自分がやってる事に刺さりまくりなのである。
しかし腐女子はそれを絶対に認めようとしない。BLは尊いだとか素晴らしいとか強引に理屈をつけて男性が考えるセクハラとは違うんですと開き直ろうとしている。
それ以上に厄介な問題もある。鍵をかけているのならともかくとしてTwitterというオープンな世界で腐トークを撒き散らすのである。
文が得意とする腐女子は長文感想(ツリーが10個ほどある)垂れ流したり、絵が描ける人はドキツイ二次エロを放流したり、それに対して絶賛しまくる腐女子。
女子の中でも腐女子はお気持ちが本当に強すぎるのである、感情が魂と直結してしまっているのだろうかとにかくいきなりお気持ちを爆発するので周囲にとっては自爆テロに等しいのである。
腐女子は学級会を行って度が越えた行為や発言は控えているとはいうがSNSが浸透してからはその自浄作用はぶっ壊れているように思える。
二次元の男性は好きだけど三次元の男は嫌いですというのはオタク特有の理由だろうからそれは別にいいとして
BLというのは実際に男性を性的搾取するのが前提のコンテンツなのは間違いはないし、ましてやゲイではないキャラクターを強引にゲイにして入れるか入れられるかの組み合わせにするのは正直どうかと思う。
はっきりいってBLは多くの人に見逃されているコンテンツともいえる。ポリコレで言えばグレーすぎるしもしもゲイ達が立ち上がってBL反対運動なんて起こせばBLは簡単に吹き飛ぶのである。
地上波でBLドラマが流れても不快だ!セクハラだ!と怒る男性はいたのだろうか?嫌なもの観ちまったなとそのまま黙って終わるのが殆どではないだろうか。
はっきりいって腐女子はよそ様のコンテンツに物申せる立場ではないのだ。更に言えばフェミニストという視点からでも一番遠い立場にいるのが腐女子なのだ。
それなのにフェミニストですが何か?って厚顔無恥な腐女子がなんと多い事か。フェミニストでもなくむしろ足を引っ張っている立場だというのに。
BL好きならばゾーニングを心がけたり、SNSのようなオープンの場所で下ネタだらけのトークなんかせずにその専用のアカウントを作って鍵をかけて欲望を吐き出したりと色々と工夫はあるはずだ。
私は飽きっぽいイケメン大好き人間なので、ピンとくるイケメンと運命の出会いを果たした時にオタクになる。
1回目は中学生の時。
2回目は大学生の時。
そして3回目が現在。
中学生の時はSNSが普及していなかったしすぐにバンギャになったので別として、大学生でハマった時からムズムズすることがあった。
推しを「バブちゃん」と呼んで赤ちゃん扱いする文化と、ぬいぐるみを愛でる文化。ムズムズする。
これらがどうにも慣れない。同じような人がいないかと検索をしても、現れない。わたしだけでしょうか。
赤ちゃん扱いに慣れないのは推しには男らしくあって欲しいと思ってしまうからだと思う。男性キャラに男らしさを求めるなんてステレオタイプで令和に合っていない。わかっている。善処します。
それ以上にぬい遊びという文化がムズムズする。
キャラクターのぬいぐるみを着せ替えして遊んだり、シチュエーション毎に複数のキャラを並べて撮影して一つの物語に仕上げる。
女の子といえば着せ替えとお人形でごっこ遊び。それらを極めし大人の女の子たちの嗜み。
なのに私は慣れない。どうにもむずむずする。
ぬいぐるみ自体を持つことは平気だし、大きくてブサイクなぬいぐるみや、某うさみみパーカーを着た可愛らしいぬいぐるみを持っていたこともある。カフェにも持っていった。
なのに、友人がぬいぐるみを持って私のぬいぐるみに話しかけた途端、フリーズする。私も、私のぬいぐるみも。初めてぬいぐるみ越しに話しかけられた時はさながらスペース猫状態だった。
そういえばリカちゃん人形もシルバニアファミリーも持っていなかった。ぽぽちゃんは持っていたけどおもちゃのベビーカーに乗せて家の中を走り回っていた記憶しかない。
メイクができるのっぺらぼうのバービー人形の顔は、マッキーでお手製の目と鼻と口をつけてあげていた。
幼稚園児のくせに、どうやって遊んだらいいかわからなかった。今もわからない。
小学生の頃友人とリカちゃん人形遊びをしたとき、遊び方がわからず一言も発せなかったので無言で暴れる狂人を演じていた。友人たちはリカちゃんをピョコピョコ跳ねさせて可愛く会話していた。以降私はお人形遊びに呼ばれなかった。最初で最後のお人形遊びである。
そうしてお人形遊びをしないまま20代半ばになり、お人形で遊べなくて困っている。
ぬいぐるみは漫画なんかにも登場する。「ぬ〜〜」と喋っているし、セックスもする。
もう大混乱である。スペース私。
ぬい文化に慣れない人っているのでしょうか?
SNSで見かけるうさぎは大体ネザーランドドワーフっていう丸っこいお人形みたいなうさぎか、長毛ないし短毛のロップイヤーとか、そういう血統のしっかりしていそうな子が多い。
うちのは雑種。ネザーの血も入ってるらしいけど、あんまり丸さがなくてキリッとしてて、野うさぎをテレビで見るたびうちの子に似てるな…と思う。ピーターラビットに近い感じだ。
うちのうさぎに限った話じゃないかもしれないが、あまり小動物っぽくない。
どっしりしていて気が強い。動物園のカンガルーとか見ている気分だ。
広いケージにドカッと座り込んで、目を開けたまま眠っている。草食動物らしく警戒心が強いのかと思いきや、雷や花火の音も大して気にかけず眠りこけている。
耳を立てて目を開けて首を据わらせた“うさぎスタイル”の寝方を必死で保とうとして、でも抗いきれずにピクピクしている。ぐらぐら船を漕いでる。電車の中で寝落ちかけてるサラリーマンみたいだ。
ひとしきり抗って、ガクッと体勢を崩すと「おっといかんいかん…」みたいに座り直すが、割とすぐに諦めてズシャッと寝転んでいる。最初からそうすればいいのに。
うちのうさぎは撫でられたがりだ。
撫でないとキレる。ケージの中で暴れているときは大概撫でが足りていないときだ。
あと目が合うと撫でてもらえるのだと確信した顔をする。
ケージの扉を開けて、手のにおいを嗅がせてやると、首を床におろして「撫でてよし」のポーズをとる。
撫でさせていただく。
こちらの気が済んだからケージの扉を閉めようとするが、うさぎの気が済むまではどっしりと撫でポーズを崩さないので閉められない。
撫でられるのは好きだがその他の接触はめちゃめちゃに嫌う。
グルーミングはせざるを得ないから頭を撫でてる間にこっそり背中にブラシをかけている。
世の中のうさぎ、当たり前のように膝に乗ったり抱っこを要求していたりして別の生き物みたいだ。
バズるうさぎみたいなきゅるんとした顔もほぼしない、基本的に人を睨みつけているような吊り目で野性味ある顔つきのうさぎだが、しっかり親バカなものでこれが一番かわいい。
鼻先を撫でているとき、手足の小ささに気付くとき、たまにふと「あっこれ小動物だ」と実感する瞬間がある。
普段は存在感が大きすぎて、同居しているもうひとりの人間くらいの認識をしているが、不意に小さきものとして見えることもあり、普段とのギャップにやられる。
態度がでかいのに、ツンとしてるのに、部屋に放していると飼い主の脚についてきたり、そばにいると別の部屋にいるときよりもリラックスした様子を見せたり、なんだかんだと甘えてもくる。
お人形遊び終わったの?
お人形遊びやめよ?