はてなキーワード: ニスとは
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
ここ数年でコーヒーに興味を持った。
ある程度道具も揃って変化がなくなってきたので、文字にすることで一旦自分の中で整理したいと思う。
コーヒー好きだが興味の対象は香り、準備からいれるまでの工程、道具である。
豆や水など味にこだわっている人からは邪道に見えるかもしれない。
1. COFFEE WORLD/カズマックスのコーヒーワールド
コーヒーの抽出を楽しむという入り口の段階で一番影響を受けたと思う。
それまで一人暮らし始めた時に親から渡されたカリタのドリッパーとサーバーしか持っていなかったのだが、動画を見てハリオセラミックミルや名門ドリッパー、カリタ銅ポット、KINTO製品などを購入した。
ミルを購入したおかげで、抽出の直前に毎回豆を挽くようになり、香りが好きだということに気付けた。
2. CAFICT / CAFICT – コーヒーのある暮らしと道具。
動画の雰囲気がおしゃれ。ブログのほうは色々な道具が紹介されていて、道具好きの自分としては見ていて楽しい。
見るとLOVERAMICSのギフトセットが可愛らしくて欲しくなってしまうが、絶対使わないので買わない。
コーヒーにハマってしばらくしてからは /岩崎泰三 -Coffee Journalist Taizo Iwasaki - や ひつじ珈琲なども見ている。
「私はこういう考えでこうやっていますよ」「こういうアプローチでコーヒーを楽しんでいますよ」というスタンスの人が多く、「俺の考える正解」を押しつける人がいないのが自分のようなにわかコーヒー好きには救い。
道具を買うようになったのはMakuakeのせいと言っても過言ではない。
変わった道具があると気になって見てしまう。忘れた頃に届くのも楽しんでいた。あまりおすすめはしない。
まだ道具が揃っていない頃にHOLZKLOTZのスターターセットを購入。
今でもスタンドとメジャースプーンは毎日使っている。ドリップポットもたまに使う。
oceanrichのドリッパー/ミル、ハリオ スマートGあたりもここで購入した。おもちゃとして面白い。
習慣にするという意味ではこれが大きい。
家から徒歩3分の場所に比較的に買いやすい値段(400-700円/100g)の豆屋がある。毎週行って色々な豆を試している。
もう少し離れたところにも豆屋があるのだが、そちらは同じ豆でも200円くらい高い。好きなブレンドがあるので、それ目当てでたまに行く程度。
コーヒーの前は日本酒が好きだったので、仕事帰りに居酒屋や酒屋に寄っていた。
緊急事態宣言で居酒屋に行くことはなくなり、ワクチン接種前後で禁酒してみたのをきっかけにもう家でも飲んでいない。日本酒に使う金や時間がそのままコーヒーに使えている。
また、在宅勤務になったおかげで、仕事中に飲むものが給湯室のコーヒーから自分でいれるコーヒーに変わった。午後に一度挟むドリップの時間は休憩にも丁度いい。
色々な抽出方法やドリッパーを試したが、結局普段はHARIO V60。
朝:20gで260mlをハリオのステンレスサーバーにいれる。
昼:午後3時くらいに休憩も兼ねてコーヒーをいれる。デカフェ豆で27gで400mlくらい。3杯取りするようになったのが最近なのでまだ分量安定していない。
夜:夕食後にデカフェ豆でいれたりいれなかったりする。
コーヒーばかりでも飽きるので1日を通して白湯もたくさん飲んでいる。
週末には1週間分の豆を買いに近所の豆屋に行く。
中深煎りがメインで浅煎りはたまに。その時のおすすめ豆を買ったり、なるべく毎回違う豆を選ぶようにしているが、迷ったらキングケニア カリエAAにすることが多い。
以前は冷凍庫で保管していたが、取り出すときの結露が気になり、20gずつ小分けに……とやっていたら面倒になってやめた。
やる気のある日はミルを分解して掃除したり、生豆を焙煎してみたりする。
コーヒーの香りと言っても3種類あるが、好きなものから順に書くとフレグランス、アロマ、フレーバー。
自分にとってはミルで挽いた直後がコーヒーを楽しむピークと言っても良い。
コーヒーをいれた部屋を一度出て、再び戻ったときの香りも好き。
香り全てが好きかというとそういうわけでもなく、ドリップ後のペーパーを触った指の臭いは最悪。
見た目が好きで買うものが多い。見たり触るだけで満足するのに、コーヒーをいれるのに使えるなんて一石二鳥。
静電気防止、優れた静音性ということでNextGの購入を検討していたところ、九州限定ホワイトカラーを見かけて見た目も気に入り購入。
静電気は確かに少ない。音は朝晩使うのには憚られる程度にはうるさいので、昼間だけ使っている。
余裕のある日にするミル掃除の時間も結構好き。掃除のために中を開けると結構な量の粉が落ちてくる。
いくつかミルを購入して高級手挽きミルが欲しくなってきた頃に、Makuakeで見かけ、タイミング良く超早割で買えた。今の価格なら買ってないかもしれない。
手挽きミルによくある底面のダイヤルによる挽き目調整が苦手だったので、上部にあるダイヤルと目盛りがとても魅力的。
少ない力で十分だし挽き終わるのが早いので、セラミックミルで手挽きしていた頃嫌だったことが解消された。
(セラミックミルで挽いたときのポリポリというフィードバックも嫌いではないが、毎日使うのは疲れる。)
騒音の気になる朝晩の他、エスプレッソ用を挽きたいときに使っている。
元々1杯用のモカエキスプレスは持っていたが、カフェラテをたっぷり飲みたいときには足りないと感じていた。
3杯用という丁度いいサイズと、赤い見た目が気に入り購入。冬には結構使う。1杯用と並べて飾っていると可愛い。
見た目が好き。毎日使ってるのに未だに使いこなせてはいない。一回火傷したので気をつけてる。
見た目が可愛い。これのおかげでたまに生豆も買うようになった。一回あたり100gしか焙煎できないのは不満。
分解してバッグに収まるところがかっこいい。相当余裕のあるときしか使わない。
手間と味を考えると自分にはモカエキスプレスで充分。かっこいいものが手元にあるということで満足。
3杯取りするし、抽出後軽く撹拌したいのでサーバーは使う。洗いやすいのが良い。2,3口分ずつFOGマグに注ぎながら飲むのが好き。
角張ってるデザインがかっこいい。ステンレスサーバー買う前はこれをずっと使っていた。
クッキー入ってたやつ。ハリオのキャニスターから豆が溢れたときに使う。見た目が可愛い。
今使ってるHOLZKLOTZのメジャースプーンの形があまり好みでないが、使えないわけでないので買い換えるのがだいぶ後回しになってる。
経年変化を楽しめる木製で良いものがあれば欲しい。
軽くググった感じKINTOか椿井木工舎ってところのが良いかな。
→ KINTOのメジャースプーン買った。毎日使っていて楽しい。
高い。V60メタルドリップスケールとBLACK MIRROR BASIC+を持っていて、不満はあるが使えないわけではないので(略
高い。注湯量と抽出量が別で計れるのが良い。アプリも気になる。スケールは既にあるので(略
JPproで足りてはいるんだが、やはりコマンダンテも欲しい。かっこいい。
プレゼントに良さそうなので、どんなものか自分で一つ持っておきたい。比較的買いやすい値段。
高い。かっこいい。すぐ使わなくなるだろうけどかっこいいから飾るために買ってもいいかな
今はハリオのキャニスターを使ってる。蓋が白黒各3つずつ。黒にはデカフェ豆いれるという使い分け。
見た目があまりおしゃれじゃないので、良いのがあれば買い替えたい。洗いやすいものが良い。
最近キャニスター関連の増田があったのでそれについてたブコメ参考にしてみる。
たまには自動でいれて欲しいなと思うことがあるので、良いのがあれば欲しい。
東南アジア(マレーシア、インドネシア)に行くと普通にあるよ。
マレーシアで「ケチャップ(「ソース」の意。発音は「キチャプ」に近い)」と言えばまず ケチャップマニス(Wikipedia)のことで、
大豆から作るあまりしょっぱくなくて薄甘い糖蜜くらいの固さのソース。トマトっ気ゼロ。
現地には他の種類の「ケチャップ」もあるらしいけど自分は知らない。
知り合いのマレーシア人は20歳でアメリカに来るまで「トマトケチャップ」は見たことがなかった、と言ってたよ。
「トマトケチャップ」はアジアのあのあたりに東インド会社持ってた国のどれかが、自国でなんとか「ケチャップ」を再現しようとした結果だよね。
じゃあ俺はランブータニスト
きっと子どもの頃に、家族が親族に裏切られる様を見たことが根本原因なので、根深い。
家族親族友人知人、心の本当の奥底で信頼に値する人などいるわけがない。
そんな心で人と世の中を見ているので、友人は少なく、無宗教、無党派。
簡単に人を信じてえらい目に遭う人を見たり、宗教にはまりこんで金をむしり取られたり、支持政党に裏切られたりする様を見つけては「ほら見たことか」と自分の性質を肯定する。なんというピュア、なんという無策。人は信じるに値しない。他人を信じては、ならぬ。
ただ本当のところは、自分のマインドを肯定するための事例を探しているに過ぎないこと、他人を信じてうまくいくケースがあることを知っている。自分にそのケースが当てはまらなかったと言うことも。
DAIGO は成れの果て
何者少女を拉致してはレイする旅を続ける一行そんな日々に次第に慣れてきた原の支店から送る非常に非日常な日常回ルーティンとかした少女の補足捕獲ホーロー2章3 H までの一連の流れまず沼がノート PC を使い移動先の地域を Google ストリートビュー津曰く宝の地図できじ散策しつつ人目につきにくいが少女が通りそうな場所にいくつか目星をつけるメンバーたちが車から降りて各場所に分かれて実際に散策スマホのグループチャットで状況を報告しあい少女が現れるのを待つ成果がない日も多いが場所を再検討しつつ望めば23日で必ず症状を細くすることができる細く市大草野が車でメンバーを回収し少女を追跡タイミングを見定めてひじまた指原の二人で少女を深くし車に押し込むその後はそんな堕落した日々を送る笹原だがハルヒキジマがとある畑を目指していることを知るどうやら出会ったあの日に入っていたいつか黒髪ロングに帽子の白いワンPの女の子とと言う弓は本当だったらしいその時ふと木が花火離さず身につけている古めかしい帽子のサイズが小さいことに気づく子供用その帽子を女の子にかぶせるつもりなのだろうかところ変わってとある捜査本部スクリーンに映し出された監視カメラの映像をながめるスーツ姿の男たち現在日本中を騒がせている連続少女誘拐事件がとある一組のグループによる犯行であることを突き止めたようだ半角と思われる男が帽子は身につけていることから今後はグループを麦わらと呼ぶことにする一刻も早く逮捕せよ絶対的正義の名のもとに隠して一味は懸賞金をかけられて全国指名手配となった指による考察各々が陰毛むしりその本数の多さでイプする順番を決める儀式通称チンゲン菜オーク虫れた次の回はあまりも知れなかったりとバランスの取れた秀逸な方法だしかし好みの子に一番乗りする時のために日々抜け落ちた陰毛を潜めておいてチンゲン菜時にパンツの中に忍ばせておくというちょんぼを津がやらかし会えなく廃止になった女を媒介にして男達でキャッキャウフフするホモソーシャルの極致とも言うべき地獄の世界だ少女を弄ぶことに慣れてきた笹の独白彼は少女を支配することで得られる自信を圧倒的雄星と呼んだいわく今の日本人男性に圧倒的に欠けているものだと言うがそれが少女レイという形でしかいられないのだとしたらその歪みの終着点はやかましいわ実際に何人かの少女を玩具のように扱ってみてわかったことがある命令は割と聞いてくれるパニック状態だと少し時間がかかるが少女たちは皆生き残るために必死で従うのだセック中に笑顔でピースさせることも可能その弱々しい微笑みがニスをより一層硬くさせる抱きつかせたりキスさせたりどうやら俺は強制議事は管が好きみたいだ喘ぎ声のようなものは一応出るが体が圧迫されて勝手に出てしまうものなのだろうそれでも少女の黄色い声はオスの本能に響くのでついつい激しく腰を打ち付けてしまうセリフを言わせるのが一番楽しい例えばこのひなたちゃん本当なら夏休みの宿題や自由研究に疲れるはずだった大脳を 叡智 な台詞を覚えるのに一生懸命使ってくれている間違えるたびに二の腕をつねられるからなのだがまだツルツルで柔らかくて吸収力のある健全な脳みそに 叡智 な単語や台詞柏として刻み込まれていくんだと思うとたまらない感動を覚えるちゃんと言えたらよく言えましたって頭をなでなでしてあげてご褒美にお***をいっぱい苛め抜いて凝縮した大量の液を氏宮の奥に注いであげる
5chに連投コピペで貼られてたんだけど、ググっても元の文章が出てこない。
・すぎやまこういち(1931年東京都生。作曲家。日本バックギャモン協会会長)
・植松伸夫(1959年高知県生。神奈川大学外国語学部英語科を卒業後、TVCM等フリーで活躍し、1986年スクウェア入社)
(要約)
すきやま:
だんだんドラクエ関連のスケジュールだけで1年終わっちゃうみたいな有様になってきちゃって、
あんまり他のことができなくなってきてるんだよね。困ったもんだよ。
ドラクエやると、やれCDブックだアニメだときて、レコードもブラスバージョンやエレクトーンバージョンやピアノバージョンが出て、
そうなると色んな出版社がピアノ譜やエレクトーン譜を出す。そんなことやってるから1年潰れちゃうもんね。
植松:
すきやま:
どうしても大変だと思いながら、「このゲームが好きだなあ」ってことになるとついね。
植松:
まさか本当にやって頂けるとはね。言ってみるもんだなとつくづく思いましたよ(笑)
すきやま:
でも楽しかったね、あれは。FFVも大変だったね。やっと僕も上がったんですけどね。
植松君は働き者だなとつくづく思いましたよ。何曲あるの、あれ?
植松:
60近くはあるかもしれないですね。
すぎやま:
60曲あのゲームの中にあるということは、実際作った曲はその裏にもっとあるでしょう。何曲ぐらい?
植松:
1コーラス作ったという感じで言ったら100曲ぐらいいってるかもしれないですね。
すぎやま:
働き者だなあ(笑)
植松:
曲数が多いというのも一既にいいとは言えないとも思ってるんですよね。
すぎやま:
植松:
そんなでもないんですけどね、それでも10曲ぐらいは少ないかな?
すぎやま:
そうでしょ。やってる時はこの曲面白いなと思うんだけど、終わったあと覚えてる数が少ない感じがしたね。
その原因は何だろうと思ったんだけど、多すぎるというのがあるのかもしれないな。
でもやっぱりどんどん意欲が湧いて、ここはこういう曲にしちゃおう、ここはこうしようっていうのが出てきちゃうものだよね。
植松:
作ってる方としてはまだ足りないんじゃないかという気もするんですよね。完成したあとに自分でやってみますよね。
そうすると、こことここの音楽変わってないやっていうところがいくつかあるんですよ。
だから作った本人は全部曲覚えてるから別に問題ないんですけど、
自分以外の一般の人にとっては多いかなとは思ってるんですけどね。
30曲に抑えようとしたんですよ。IVのときもちょっと多いと思ったんです。
今回は絞り込んでやろうと思ってたんですけど、欲が出てしまいますね。
すぎやま:
僕も曲を絞り込むときは断腸の思いでね。切る作業が大変ですよ。
前にも言ったと思うんだけど、むこうのミュージカルなんかを見ると本当に曲数少ないんだよね。
でも植松さんのやり方でいいなと思うのは、1つの曲をシーンに応じてアレンジを変えて出すケースが多いでしょう。
植松:
すきやま:
働き者なんだよ。FFVの曲は植松さんの趣味趣向がはっきり出てるから、
それがある意味でいい個性になってていいなというのがありますね。
スコットランド民謡をはじめとして、民族音楽への傾斜というのがあるでしょ。
植松:
今回そのアイルランドのリールっぽい曲を入れたのって初めてなんですけど、あれを入れますと
ユーザーの意見なんかのハガキに「アイルランド行ってきて帰ってきたらもうこれだ」というのがあるんですよ(笑)
別にアイルランドから帰ってきて、その影響受けてやってるわけじゃないんですけど。
以前から凄く民族音楽に興味がありまして、入れたかったんですけどファミコンのときとかって難しいじゃないですか。
すぎやま:
ちょっとやりにくいよね。
植松:
いつかやってやろうと思ってたんですけど、あんまり興味本位で民族音楽好きだから
入れるというのも安っぽく見えてイヤかなと思ったんですけどね。
先日、すぎやま先生がうちの職場にいらした時にお話ししたんですけど、今トルコ音楽を習いに行ってまして、
すぎやま:
植松:
日本人だったら日本の音楽ルーツとして民謡とかがあるはずだと思ってるんですよ。
日本に昔からある音楽が自分の血の中にあるはずだって自分では思ってるんですけど、
一度「雅楽(古来の宮廷音楽の総称)」の“ひちりき”(雅楽用の竹製の管楽器)を習いに行ったことがあるんです。
そうすると自分の中に流れている血というよりも、逆にそれがすごく新しい、
ブライアン・イーノのシンセサイザーの音楽に近い印象があったんですよね。
すぎやま:
笙(雅楽用の管楽器)のハーモニーなんかは音の響きが非常にシンセサイザー的な新しさがあるよね。
植松:
そうなんですよ。だからこれはものすごく面白いけど、自分にとっての血ではない気がしたんですよ。
雅楽は朝鮮からのものですけどね、そういうルーツみたいなものを考えていったら、
逆にヨーロッパの民族音楽がすごく自分にピンとくるものがあったんです。
自分にとってピンとくるものを追っかけていく方が面白いんじゃないだろうかと思って、
最近は自分が日本人だから日本古来の音楽をどうのこうのという考えはなくなってきてるんですよね。
すぎやま:
僕ら日本人で日本の文化の中で暮らしていると、いつかは三味線音楽や琴の音楽が耳に触れてるわけ。
和風喫茶やレストラン、エアラインなんかでもいつの間にか聞こえてくる。
アメリカで生まれ住んでるとそれは耳に触れないで大人になっちゃうでしょう。
僕らは耳に触れてるから、知らない間にそういう音感は身についてると思うの。
町の音楽「ミーファー」ってメロディがいくときに、もう1つの声部が「ミーミー」とそのまま引っ張って、
ミとファが平気でガチャーンと使ってるのがあるでしょう(トゥールの村などの音楽)。
植松:
バッテンなんですよね。
すぎやま:
植松さんはあれにある種の美しさを感じるからやってるわけでしょう。
で、僕も日本人だから聞いて「あ、ここいいな」と思ったんですよ。
「ソーミーファー」というのと「ソーミーミー」というところでミとファがぶつかっているのは、
西洋音楽のエフメジャーセブンの中のミとファのぶつかりの意味とは全然違う意味のミとファでしょ。
それは江戸時代の三味線や琴の音楽でしょっちゅうやってることなんだよな。
「ラファミミファミミファファミ」といってるときに、1は「ミミミ」といってミとファがぶつかってるという、
そういうテンションに美しさを感じるという江戸時代の音楽家らの伝統みたいな感覚の流れがあるんだよね。
あの部分を聞いて植松伸夫もやっぱり日本人だと思ったんですよ。
で、僕もアレをイヤだと思わずに、あぁこれいいなと感じて、僕も日本人だなと再確認したんです。
植松:
ミとファの半音でメロディと伴奏が平気でぶつかることがしばしばあるんですよね。
自分でもああぶつかってるな、クラシックの音楽のテストなら絶対にバツだなと思っても、
その響き欲しいしと思ってそのまま残すこともあるんですよ。
すぎやま:
それが間違いか間違いじゃないかというのは、感覚的にそのぶつかりが許せるかどうかなのよ。
いいと思うかどうかなのね。だから西洋音楽なんかも近代音楽以降はガンガンぷつかるでしょう。
それが前後の関係や音楽全体の姿からいって、感覚的にこれが美しいと思えるものはマルなのね。
ミとファのぶつかりあいが美しいと思える感受性があってやったものであれば間違いじゃないんだよ。
ただそれが自分一人でいいと思ってるだけで、世の中全員が気持ち悪いと思ったら
植松:
難しいですよね。音楽を学問にした人というのは、かなり強引だと思ってるんですよ。
どうやって音楽の点つけるんだろうって未だに僕思ってるんですよね。
小中学校を通して音楽というものを学校の教育に取り入れて100点取った人は偉い、
大人になって楽器を手にしなくなっちゃう人が多いんじゃないでしょうかね。
すぎやま:
音楽教育というのがどうあるべきかというものは、これはもっと考えなくてはいけない問題で、
植松:
すぎやま:
笛を吹いたことについて点数つけることよりも、笛吹く楽しさをわからせるのが大事だよね。
だからファイナルファンタジーとかドラゴンクエストの音楽というのは大事なんですよ。
植松:
ドラゴンクエストの音楽が好きになってコンサート行きますよね。
すぎやま先生なんかのコンサートはフルオーケストラでやってらっしゃるでしょう。
それはものすごい影響力だと思うんですよね。
子供がオーケストラを生で聞くチャンスが普段あるかというと、少なくとも僕は子供の頃そんな経験はしてないんですよ。
そうすると、ある意味ですごく羨ましいんですよね。小学校2-3年という頃に、N響の音が年に1回、生で聞けるわけでしょう。
すぎやま:
他のオケなんかのコンサート数えると、20-30回やってるよ。全部ドラクエじゃないにしても、1コーナーとかね。
だから、あちこちに頼まれて棒振りに行く仕事もやってます。それは大事なことだからね。
植松:
すぎやま:
しかし、いつもゲームの音楽作るときに、昔の大作曲家の作品聞くじゃない。
とてもかなわないなと思うことが多いね。
植松:
すぎやまさんがそんなこと言ったらこちらの立場はどうなるんですか(笑)
すぎやま:
昨日久しぶりにバレエ見ようと思って神奈川県民ホールに「くるみ割り人形」見に行ったの。
チャイコフスキーのド天才めって感じだよ(笑)。とんでもない天才だね。
植松:
チャイコフスキーは僕もすごく好きですね。音楽は誰が好きなんですかなんてインタビューとかであるじゃないですか。
すぎやま:
とんでもない大天才だよね、あの人は。
あの時代で20世紀の音楽家が考えて書くようなヴォイシングやってたりするわけよ。オーケストレーションのうまいこと。
植松:
この前、西田敏行がロシアに行ってチャイコフスキーの足跡を辿るという番組をテレビでやってたんですよ。
僕もチャイコフスキー好きだから見てたんですけど、チャイコフスキーはホモであるというのを聞いて、
「ああ良かった」と思ったんですよね(笑)
すきやま:
その良かったというのはどういう意味なの?
植松:
チャイコフスキーも人間だったんだなというね。ま、噂なんですけどね。
すきやま:
モーツァルトなんか完全にいってるよね。大天才でも大欠点があるという。
植松:
チャイコフスキーにしろモーツァルトにしろ、メロディが非常にわかりやすいんですよね。
クラシックって難しいから嫌いという人が多いですけど、そんなことないと思うんですよ。
すきやま:
ベートーベンとかブラームスあたりはみんなそうだよ。いいメロディもってるよ。
植松:
すぎやま:
植松:
だからドラクエなんかはオーケストラでやっても子供が聞けるんですよ。
すぎやま:
ドラクエにしてもFFにしてもメロディ大事にしてるからそこに強みがあるでしょう。
他にもFFでは民族音楽的なのがありましたな。デデンッデデンッ…てやつ(笑)
植松:
すきやま:
だからそのうちトルコも出てくるぞ(笑) FFでは吟遊詩人というジョブがあるじゃない。
吟遊詩人がマップの中のトルコやアイルランドみたいなところへ行ったりするとそこの音楽を覚えて、
それを戦闘中に唄うと何かが起こるみたいなことがあれば面白いんじゃない。
植松:
すぎやま:
増えるね(笑) でも吟遊詩人というジョブがあるから使えそうな気もするね。
植松:
一度何かに絡めてやってやろうと思ってるんですけどね。
どうしても容量がそういう余分なところまで回らないんですよ。
すぎやま:
植松:
すぎやま:
ダンジョンも違う?そんな気もしたんだけど。
植松:
いや、ダンジョンという曲は1曲しか用意してないんですよね。他で使ってるのを使いまわしてるんです。
すぎやま:
でもなんかすごく多い気がしたな。
植松:
実際多いんですよね。飛空艇は1曲ですし、チョコボは2曲だし。
すぎやま:
チョコボはまた面白いね。あの音楽と動きを見事にシンクロさせてて良かった。
植松:
あそこらへんはプログラマなんかと楽しんで作ってましたよ。
すぎやま:
植松:
ヘタクソなやつが最後はコンサートピアニストぐらいにしてくれと言われたんで、
最初はメトロノームにも合わせられないようなところから始めて、最後はドビュッシーまで弾けちゃうんですけど、
あのドビュッシーの曲(月の光)をみんなあんまり知らないんで、ガッカリしちゃったんです。
すぎやま:
グリークとかチャイコフスキーのピアノコンチェルトみたいな方がコンサートピアニストみたいな気がするからね。
植松:
そうですよね。最後のが弱かったのが残念だったな。
すぎやま:
植松:
息抜きというやつですね。でも結構一生懸命やっちゃうんで、息抜きできなくなっちゃうんですけど。
すぎやま:
作ってる本人はいいんだよ。遊ぶ方は息抜きできるんだから。植松さんはドラクエは上がったの?
植松:
実は最後のダンジョンの手前でFFVのアレンジCDの仕事に入っちゃいまして、まだなんですよ。
すぎやま:
上がってないの!?
植松:
今日までに終わらせるつもりだったんですけど。
すぎやま:
僕は対談頼まれたときに、12月中だと聞いてそれまでにFFVを終わらせる自信ないって言ってたんだけど、
元祖プロゲーマーを称してるからには面目にかけても上がろうと、しゃにむにやって上がりましたよ。
途中でやんなっちゃうゲームだと上がれないけど、やってて楽しかったから相当寝不足になりましたよ。
植松:
今回はアマチュアの勝利ですかね。スクウェアのメンツって、単独で独立して音楽で食っていけるか、
絵で食っていけるか、企画で食っていけるかという連中がまだ1人もいないんですよね。
すぎやま:
植松:
いえいえ。平均年齢がまだFFチームでいうと25ぐらいなんですよね。
すぎやま:
ドラクエチームもそうですよ。皆さん若い。僕1人だけ飛び抜けてるんだ。
植松:
結局若い、何かやってやろうという奴らが集まってるんですよね。
そいつらが泥まみれになって一緒くたになって限度知らずの頑張りをするんですよね。
全てのプロの人がそうというわけじゃないんですけど、中にはお金と割り切って仕事をする方もいらっしゃいますよね。
そうするとある程度から先の気力とか頑張りを越すというのは難しいというのがたまにあるじゃないですか。
そういうことが5のチームには無かったんですよ。
とにかく最後の最後まで、〆切のマスターを任天堂に送る朝まで、どこまでできるかということをみんながやったので、
そこらへんの適当なプロの人を集めて作っても、ああいう気合いの入った作品は出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。
今になってやってみると、あそこをこうした方がいいというのはうのはいっぱいあるんですけど、
終わった時点ではもうこれ以上はできない、とみんなが思ってるんですよね。僕もあのときはそうでしたしね。
すぎやま:
結局世の中を見てると、FFにしてもドラクエにしてもそうだけど、
好きで好きでとことんまで頑張るという人が集まってるところのゲームがヒットしてるんだよね。
植松: