はてなキーワード: 掛け値とは
正直どこまでが真に迫ってるのか…
マトモな判断力があれば、いつ捕まって殺されてもおかしくないような場所に、大した備えもせず捕まってしまったらそれまでって状況にノコノコ自ら身を投じるわけがない(と信じたい)。
なのであれは周到に安全が担保された状態で撮影したのではないかと思ってる。
実際はあのエリア内であの程度の散策ならまず目をつけられることはなくほぼ危険はない、そう現地スタッフと綿密にルート打ち合わせの上で行ったんだろう。
それを現地人に見られた=マークされた!みたいに煽って間一髪で脱出したかのように演出した。
小賢しいやり方だけど裏でちゃんとリスク管理してるならまだいい。
本当にノープランでノコノコ危険地帯に出かけていったんだとしたら、たとえ無事だろうが愚かすぎて目も当てられない。
だがもしかすると本当にそんなバカをしでかしそうな危うさも感じるから、ノープランの大バカよりはずる賢いヤラセであってくれと思うのだが、どっちなんだろう?
久しぶりにガッツリと本を読んだ気がする。去年『魔道祖師』(墨香銅臭)を読んで以来? でもたぶんシリーズ全4冊ぶんで『魔道祖師』1巻の3分の1も文字数ないと思うけど。しかしすごい読み応えあった。という訳で感想など。
『白昼堂々』『碧空』『彼等』『若葉のころ』の全4冊のシリーズもの。
主人公は華道の家元の孫息子・原岡凜一(はるおか りんいち)。真性ゲイの凜一が真性ノンケの氷川に恋をしてしまい、もだもだと悩んだり迷ったり僻んだり浮気をしたりしながら送る、15歳から19歳までの約四年間の青春期を描いた物語。
一言で言って「優柔不断」な性格とはどのようなものか、それを執拗に描写しきる長野まゆみ先生すごすぎる。ほんと、凜一の言動の隅々まで一貫とした「優柔不断」っぷり。彼に相対する人物達がイライラするのがよくわかる。凜一のキャラクター造形には細部にわたって一切の手抜きがない。凜一のはっきりしない物言いには時にビンタしたくなる半面、そのネガティブ通り越して傲慢ですらある性格が親という安心基地を持たない孤独により作られたものというのも解るので、おぉよしよし可哀相に~ってしたくなる。
長野先生といえば四季折々の花鳥風月や日本の古民家の内装や調度の描写の詳細さ。それと華道や茶道の知識が豊富なことだけど、人間を描写するのも巧みなんだなと。
見た目は綺麗だけどちょっとひねくれていて意地の悪いキャラクターは長野作品の特徴だが、凜一シリーズの登場人物はいつもの長野作品のキャラでありつつ特別人間臭いんだなと思った。登場人物の全員がどこか欠けていて、誰もまっとうな大人とは言えない。そんな人達が不用意な言動でボタンの掛け違いを起こしたり相手を傷つけたりする様子の描写が繊細。はぁ、そのヒリヒリとした感じ、まさに青春だなぁ。
凜一シリーズを読んでいてふと気づいた、長野まゆみ作品が商業BL読みにはあまり好かれない理由。それは、商業BLで描かれるのがもっぱら掛け値ない永遠の愛であるのに対して、長野作品で描かれるのは有限の美であるからなんだろう。長野作品では男同士の恋愛が毎度のごとくに登場するけど、それは有限の美を表現するツールの一つであってメインテーマじゃないんじゃないかなあ、たぶん。
凜一シリーズも最後は大団円って感じでもなく、凜一と氷川の関係はうやむやのまま綺麗に終わった。
さて、今年に入ってからずっと読書ばかりしていて自分の執筆作業は停止してたので、そろそろ積んでる資料を読んで続き書かなきゃ……。
インターネットコミュニティで出会った友達が昨日、ベトナムへ引っ越すことになったので空港まで見送りに行った。コロナがこれだけ流行っていて、世の中に与えている影響は甚大だ。だけれど、今回の件に関しては、こうした世相に感謝しなきゃいけないかもしれないと思っている。ベトナムへ行った彼は本当は去年の夏には移住する予定だったのだけど、コロナのせいで移住が先延ばしになっていた。彼と出会ったのはちょうど今から一年前くらいの頃で、もし去年の夏に引っ越してしまっていたら、これだけ多くの楽しい時間を一緒に過ごすことはできなかった。一緒に会って過ごす時間だけがすべてじゃないけれど、一緒に過ごせた時間は掛け値なく楽しい時間だった。これからもずっと友達でいるだろうし、そんな風に過去形にしてしまう必要は全くないのだけれど、楽しすぎた時間のせいでやや寂しさは感じてしまう。この一年間、あまり外出できなかった分のインターネットで過ごした時間は本当に濃密だった。コロナでできなかったことの代わりにやったことが、これはこれで一生残っていくんだろう。
よくよく考えて見ると凄いよな
例えば東京ガールズコレクションで献血ブースが出来て若い女性が一杯献血したら掛け値無しに賞賛されると思うんだよ
まぁ中には腐す奴も居るかも知れないが圧倒的少数だろうし支持もされない、腐す奴はただのしょうもないカスってのは一般的に共有される見解だろう
でもオタクならそれがひっくり返る
「オタクスゲー」系と腐されたり食傷と言われたり、「コミケに行かないと献血しないの?」と言われたり
「女性スゲー」系と腐されたり食傷と言われたり、「TGCに行かないと献血しないの?」と言われたりなんて無いのにね?
これは凄い事だよ
こんなに態度とか受け取られ方が違うんだから
この前ナイキのCMに対する反応で、日本に差別が無いとする反応が却って差別のある現状を浮き彫りにした、なんて言われたがあったけど、
献血の話題に対する反応で、浮き彫りに成っちゃってるよね、かつてより随分マシになったとは言え、まだオタクは平気で迫害される立場なんだって事が
だって現にオタクと非オタクで献血したことに対する反応がまるで違うじゃん?これでまだ「オタク差別は無い」と言うなら、それこそナイキCMに「差別は無い」って言うようなもんだよね、それ自体がもう差別じゃん
仁藤夢乃 Yumeno Nito
@colabo_yumeno
セカンドレイプですよ。本質を見えていないのはそちらではないでしょうか。知人なら、加害者自身の中にある差別意識に向き合わせるべきです。
https://twitter.com/colabo_yumeno/status/1253707189622988800
が向けられた寺田議員のツイートは、以下のツイートに続けられたもの。
仁藤氏のツイートを引用する形で述べられたのは、むしろこちらの方のはずだ。
寺田 静
@teratashizuka
今回のことは許される事ではありません。その上で、性的被害の経験者として私に言えるのは、子供・女性関係の勉強会等でご一緒させて頂く阿部・馳両先生は、自民党の中において仁藤さんが支援されている方達のことを掛け値なく熱心に考えて下さる議員であるという事。要望書に応えられることを望みます
https://twitter.com/teratashizuka/status/1253700515260596225
つまり寺田議員は仁藤氏の言う通り、馳議員に対して「加害者自身の中にある差別意識に向き合」った上での謝罪を要請しているわけで、なぜこれがセカンドレイプになるのか、奇妙な発言と言わざるをえない。
寺田議員の発言が馳議員の擁護と捉えられる可能性をはらんだものであったとしても、それは決してセカンドレイプなどではない。
仁藤氏はこう言っているのだ。「馳議員の全人格を否定することができなければ、それはセカンドレイプである」と。
私はこれに与することができない。
同業の人たちとの飲み会で、ちょっと好きだった人に同棲してる彼女がいることを知る。
おめーはそういう奴だよな、だから頑張って家に帰ってたんだな、ってすごい毒付きたい。
そして仕事経由で知り合った人だから「あいつは彼女いるのに他の女を抱くクズですよー!」っていろんな人に言いまわって信用落としてやりたい。
やっぱり火の無い所に煙は立たないんだよ。今度仕事で会ったらすげえ詰めてやりたい。
それにしても、だ。私はもうこういう女を卒業したい。誰かに大事にされて生きてみたい。何か価値を差し出さなければ認めてもらえない生活、辛いんだわ。でもさ、相手に何も求めずに受け入れられる人はだいたい既に相手がいるわけなんだな。掛け値なく愛せる人が既にいるから他の人にも優しくできる論理。もうそういう世の中の成り立ち、疲れるよ。私はそういう世界からいつも爪弾きだ。結婚できなくて疲れちゃう人の気持ち、昔はわからなかったけど今はとても分かる。
自分の気持ちに向き合って生きるのはとても辛い。結婚したいっていう自分の気持ち、気付きたくなかった。アクションとれば傷つくばっかりだ。
死にたいけど死にたくない
死にたくないんですよ。死にたくない。
すごーーーく幸せだった記憶のおかげで死にたくないなぁと思うんですね。
そんな風な時間がまた来るんじゃないかとどこかで思ってるんだと分析するんですけど。
基本的にその幸せだった時期以外は人生掛け値無しにクソだと言って支障ないんで、ぼくの足を現世に括りつけてるのはその時の記憶で間違いないんです。
まあ他の人生やったことないのでぼくの人生が本当に掛け値無しにクソかどうかは相対的にはわからないですが、個人的には微塵も肯定できない。
でも死にたいんですよねえ。
死にたい。
何もかもめんどうくさい。
まあモノによって様々でしょうけど、「死んだ後必ずハイパーハッピーになれるから生きてる間神様に尽くそう」っていうスタンスが多いですよね。
アレだといかに人生クソでもニコニコしながら神に尽くして、そんで笑顔で死ねますもんね。
昔から寝る前布団に入ってからずっとどんな死に方をするかばかり考えてたんですが、最近はもう死んだ後に幸せだった記憶の中を無限ループで生きられたらな、と思ってます。
いるなら入信するな。
現実はクソ。
来世を信じて行こうぜ。
寝てる間に死んでねえかな。
はい。
お手伝いさせていただいている会社の若い子やらから、「仕事が楽しいと感じる時って何ですか?」みたいなキラキラした質問をされることがあるんだけど、そもそも仕事で楽しいと思った瞬間は一回もないわけです。なので素直に、「楽しかったこととか特にないよ?」と返すと、ちょっぴり残念そうな顔をされるんです。今の若い子って、仕事に何かしらの希望と期待を持ってるのかしら。
自分が仕事をしている業界が業界だけあって、周りには仕事好きな人が多いんですよね。その理由もよくわからないわけですが。お手伝いさせていただいている会社の人とか、この時間にもまだ普通にメール飛ばしてたりするし、正直何が楽しくてそんなに仕事をしているのか全然わからないわけです。早く帰ってスプラトゥーンした方が楽しいやんって。
とはいえ、仕事中が常につまらないかと言われたらそんなわけではないです。仕事が常につまらなかった時代もあったけど、つまらなすぎて転職を何回かして、わりとフリーダムな感じのフリーランスになったので、このハゲ氏ねよとか、つまらないなと思う回数は、幸いなことにかなり減ってるわけです。好き勝手やらせてもらえてるし、いろんな意味で良い人たちと仕事させてもらえてるし。とはいえ、仕事が楽しいかといわれれば、ちょっと違うんじゃないかと思うわけです。
例えば、プログラムを書いていてそれがうまく動いた時って、ちょっとした万能感みたいなものがあったりして楽しいと思うときは少なからずあるんだけど、でもそれって「プログラミング」が楽しいわけであって、仕事「が」楽しいわけじゃないと思うんですよね。いうなれば、仕事中に粘土細工をしていて「楽しい!」ってなっているのとあまり変わらないわけです。この場合、仕事が楽しいんじゃなくて、粘土細工が楽しいだけですよね?
別の例だと、新規の取引先に営業に行って契約をまとめられた瞬間なんかはちょっとした満足感はあったりするんだけど、でもこれよりも女の子を口説き落とした時の方が全然楽しいし、満足感もあるわけですよ。そんなのと比べると、微々たる楽しさしかないし、これを楽しいって思っちゃう人って幸せだなとしか思えないわけです。
さらに別の例だと、職場の人とくだらない雑談で盛り上がったりして楽しい瞬間があったりするんだけど、でもそれって居酒屋とかで友達とだべってる方が数百倍楽しいわけですよ。自分の作ったサービスが使われてるのが楽しいっていう話もわからなくもないけれども、その場で自分が描いた絵を手売りしてる方が全然楽しいわけですよ。
仕事の中で楽しいと思う瞬間はゼロじゃないとはいえ、それって仕事「が」楽しかったのか、仕事に付随する作業やプロセス自体「が」楽しかったのかでいうと、明らかに後者だと思うんですよ。もうちょっと別の言い方をすると、わざわざその仕事をしなくても得られる楽しみだと思うんですよね。
で、それが楽しかったからといって、仕事「が」楽しいとはいえないと思うんですよ。
文化祭とか部活って、なんかよくわからないけど楽しかった記憶があるんです。
仕事にも、そんな感じの楽しさが転がってるんですか?
仕事が楽しいって一回くらい言ってみたいし思ってみたいんです。
仕事が楽しいっていう人がいるってことは、楽しい仕事や仕事の楽しみ方ってものが多分あるはずだし。
(なんとなく追記)
ブコメ読んでて思ったけど、「その仕事じゃないと得られない楽しみ」ってのに期待してるのかも。
例えば、サッカーって「サッカーじゃないと得られない楽しみ」があると思ってて(サッカー嫌いの人は他の何かに当てはめて欲しい)、仕事にもそんなものがあるのかなっていう淡い期待がある。サッカーも分割して考えると、球を蹴る、走るとかになって、それはそれで楽しいタイミングもあるんだけど、チームで一つのゴールを目指すというサッカー独自の事情があったりして、それが楽しさを生み出してると思うわけで。
仕事にもそういうものがあるなら、もうちょっと踏み込んで仕事してみてもいいのかもとは思うんだよね。
逆に、そういうものがないのであれば、仕事は金を稼ぐ場と割り切って、他の楽しいことやればいいし。
(追記2)
なんか伸びてた。
ブコメ読みながら色々考えてたんだけど、「仕事に付随する行為自体が楽しい=仕事が楽しい」っていうのはやっぱりちょっと違うと思うんだよね。
掛け値無しに「仕事こそが生きがいです」みたいな人が世の中にいるってことは、仕事に付随する行為自体を超えたところにある「仕事ならではの楽しみ方」が何かしら存在すると思うわけです。その行為だけだと、生きがいになる程楽しみ尽くせるものにはならない気がするんだよね。
とまあ、せっかく一日の中の多くの時間を仕事に使ってるわけだし、どうせならもっと仕事自体を楽しみたいよねってのがこのエントリで伝えたかったことです。そして、既にそんな感じの状態になっていて、かつそれをうまく言語化できる人がいるなら、話を聞いてみたいなと思ってる次第です。
イチゴは美味しい。クリームも美味しい。スポンジも美味しい。それぞれ単体でも美味しい。
でも、イチゴが美味しい=ショートケーキが美味しいってのはちょっと違うよなと。
それぞれがうまく組み合わさることでショートケーキならではの美味しさが生まれるから、それぞれを別々に食さずに「ショートケーキ」として食すことに意味が出てくる。
いつどこにいて暑かろうが寒かろうが
汗をかくだけじゃないか、と思うかもしれない。
会場に辿り着いて、順番に並び始めた。
遠くの方に憧れのアイドルがいる!
どんどん近づくアイドル、
さぁ、次はあなたの番だ!
常時汗は溢れ出てくるので意味がない。
テンパればテンパるほど汗は出る。
なんとなく伝わったと思いたい。
そんな感じである。
常に汗をかくから基本服は汗が目立たない白か黒、
頑張って紺だろうか。水色は論外、グレーは即死だ。
忘れたらその日は死んだと思って良い。
ブーツなど履いてみようものなら家に着く頃には汗まみれである。
それに防水性が高くてもベトベトしてくる。
なんとなく気付いたかもしれないが、多汗症の重症度には性格が倍率的に掛かる。
人目を気にする、気をやたら遣う、そんな人は重症度が跳ね上がる。
私は掛け値が高い。
何をするにしても多汗症が立ちはだかる。
トイレに座った後は便座を拭かないといけない。
挙げればキリがないが
そもそも、これを書いていて気になってきたが
多汗症はどの程度周知されているのだろうか?
その人は周りから見ればただの汗っかきだろうが、
この汗っかき、やたら気を遣ってくるなぁとか
手、体が触れるのを嫌がるなぁとか
そういった反応があれば優しくしてやってほしい。
最後になるが、
読んでくれてありがとうございました。
私は被災者でも関東住民でもないからこの増田と同じようには感じられないが、あの熱線シーンは本当にすごかった。
観客を映像と音で黙らせる、あれこそまさに映画の力だと思った。
官邸内の政治家や官僚がリアルだなんだと言われているが、そんなものは枝葉末節であり私は楽しめなかった。
制作に際して行われる取材の当然の結果が映像になったに過ぎないのではないか。
「覚醒する政治家と役人」みたいな言い方があるが、どこで覚醒していた?と聞きたくなる。
矢口やスタッフの内面は満足に描かれず、主要キャストがストーリーに都合よく有能なだけという印象だった。
「みんな泊まり込んでよくやっている」みたいなセリフを安易に言わせてしまうところにもがっかりした。
ちなみに石原さとみは問題外だが、きれいだからいいんじゃないですかねくらいの感想だった。
しかしながら会議室の描写は必要であり、それはいいんだ。でも描き方が幼稚だと感じた。
あの一連の人間パートがもっとよくできていれば、私はこの映画を手放しに賞賛する。
何が言いたいかと言うと、人間が出てくるシーンがダメ。少なくとも私は不満足だった。
増田が書いていた被災した少女の笑顔も、全体の流れの中では洗練されたものではないと感じる。
なければならないシーンではないからだ。
ただ、増田の背景を考えるとあそこで感情を刺激されることはよく理解できる。
何が言いたいかと言うと、『シン・ゴジラ』は人間が出てくるシーンはダメダメ。
それ以外は素晴らしい。