はてなキーワード: ケチョンケチョンとは
増田はまだ分かるんだよ。
増田なら俺がこの増田だと特定されることはあるまい、という大変あさはかな増田の意識が透けて見えるので。
けどそれなら別に2ちゃんねるとかその辺でもよくねえのか、って。
いま思いついたのがそれってだけで他にももっと匿名性の高いより適切で耳目を集められそうな場所ってあると思うけど知らん。
いちいち人のこと気にしてる余裕ない。毎日が退職してるようなもんだし。
さておきはてなブログでやるのは何でなの。
いっぱい謎なのはほら、Yahoo!で見出しを量産してた俺! 転職します! って奴。あれに限った話じゃねえけど。
なんではてなでやるの?
はてなもさぁ。
もうちょっと考えろ。
「はてなだったらそこそこ目立つけど、そんな派手に炎上するわけないし。だってはてなだから!」
って足元見られてるような感じがしないか?
なんで他所ではやらずにはてなや増田に吸い寄せられてくるんだ。
ブクマカが群がってブクマするエントリがはてなや増田に極端に偏り過ぎてるだけで、他所のブログサービスでも退職・転職エントリは一大コンテントになってんのかな?
なら雇用の流動性は順調に進展しているのだと思うが、どうもそんな気配は感じず、局地的に集まってる観しかない。
あとさ。
「おまえ最悪やったわ」
気取った退職エントリ書いて「こんな良いところもあったんすよ」っていうブロガーも多いのに、はてなブログ卒業するときはとにかくケチョンケチョンやん。
アレなんなの。
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た
最初に言っておくと、映画版は滅茶苦茶面白かった。第2期(途中脱落)のグダグダさは何だったのかと思うレベルなので、1期が好きだったなら絶対に見に行った方が良い。ギャグ・愚直な面白さをメインに追求した作品は実は希少なので、ちゃんと売れて欲しいと思う。
で、本題なのだが、映画オリジナルのヒロインが非常に引っかかる造型なのである。作品が面白いし上手く脱臭しているので観ている間は全然気にならないのだが、「これさすがにどうよ?」と言う造型である。(ちなみに「どうよ?」と言うのは別に消せとか変えろとか居ない方が良いとかでは断じてない。気になったことを書いてるだけである)
あ、一応ネタバレなので、観てない奴はとっとと映画館行ってから読んでくれ。
・六つ子が集団でワチャワチャしているのを見るのが好き
と言う造型である。
まあ、見ての通りこれはメインの客層(と、制作者は判断しているらしい。基本的にはノイジーなだけで、1期のヒットはもっと広い層だったと思うのだが……)である腐女子を擬人化?した存在である。で、物語上六つ子はこの子を追いかけ追い求め、結局何も受け取らずにスゴスゴ家に帰るいつものオチを迎えることになる。
未来(現在)の自分を規定した円環構造だろうとか、そう言うどうとでも取れる話は置いておいて、基本はこう。
で、あのヒロインは、ビックリするほど利己的で自分本位で、ゲロ吐きそうなくらい嫌な奴である。
何故か?
彼女は、六つ子の事が好きだと言いながら、仲違いした六つ子の話を聞くでもなく、話をするでもなく、キモイ手紙を書くだけで何一つ力になろうとしない。
散々六つ子を鑑賞して楽しませてもらっておきながら、恋人は愚か六つ子にとって喉から手が出るほど欲しいであろう「普通に話をしてくれる女友達」にすらなろうとはしない。まあ、それを正当化するための病気設定なのだろうが、高校3年間+卒後数年間しっかり生き延びてるので(OP/EDの解釈は幅があるだろうが)何をかいわんやである。
フェミニスト様なら女子の接触には性的リスクガーとか言うのかもしれないが、そしてあの六つ子がリスクの固まりだというのはその通りだが、友達にもなれないほどリスキーな相手にあんな手紙を送るのも相当なタマである。
「あなた(達)は見ていて楽しいので、そのままでいて下さい。人生悲惨だろうけれど。あと、私はあなたと恋人にも友達にもなる気はないけれど、そんな私からも遠慮されるようなあなた(達)でいて下さい」と言ってるわけである。クソ過ぎる。
六つ子を終始利用してやろうとしつつもちゃんとリスクを取っているトト子の方が、余程首尾一貫していて好感が持てる。
むしろ、「馬鹿でクズな六つ子の無様を楽しむ」作品を観ている我々視聴者への皮肉と見るべきなのかもしれないが、そう言う意図で出したのだとしたら、あのヒロインこそ笑いものにしてケチョンケチョンに貶さなければ意味が無い(馬鹿にされないギャグマンガのキャラは、役割を与えられないに等しい)。
繰り返すが、「えいがのおそ松さん」は傑作だ。もう一回くらいは劇場に行くだろうし、Blu-rayが欲しくなるかもしれない。でも、あのキャラは折角視聴者の願望コピーという属性を与えながら綺麗なままギャグマンガから退場してしまったあのキャラは、余りに異質だし片手落ちだと思う。
六つ子に感情移入していれば多分もっと怒り狂えるはずなのだが、勿論ギャグマンガはそう言う作品ではないので、文字通りの「引っかかり」だけが残ることになった。想定メイン視聴者層は、あのキャラに感情移入して泣けたりするのだろうか?だとしたら、非常に良くできた造型と言うべきなのだろうが。
と、いうごく単純な理屈がどういうわけか人類には理解できない。
ということをよく考える。
であれば、貴方はまず、痴漢してた人に関するルポや証言を知るべきである。個人の精神にとどまらず、痴漢をするような精神を広める社会自体を否定したいならば、貴方は痴漢ものAVやゲームの内容や売れ行きを知らねばならない。
注意しなければならないのは、痴漢を否定するフェミニストの言葉や、痴漢逮捕にかかる統計や、痴漢被害者の凄惨な悲しみを知っただけでは、上記の条件は満たされないということだ。否定したいのは「痴漢男の精神性」だからだ。夏目漱石の批評がしたいと思っているのに、芥川龍之介全集を読んでどうする? 無関係ではないかもしれないが、明らかに知識が方向音痴だ。
いや、判っているとも。
どういうわけか、などと書いたのはレトリックだ。
知りたくないよな。痴漢男の精神の内容や、痴漢ものAVの内容がどういう風だとよく売れるか、なんて真実は。さらっと流しただけとか、伝聞情報とか、想像だけで済ませたいよな。そりゃあそうだよ。
だから普通の人間には、実は「嫌いなものを否定する」ことは出来ないのだ。
安倍晋三を嫌いな人は、安倍晋三の全発言や全行動を追っかけられないので、彼を本当の意味で否定することはできないのだ。
アニメやゲームが嫌いな人は、アニメやゲームの流行を追う事なんでてきないので、アニメやゲームの本当の悪いところを見つけることできないのだ。
韓国が嫌いな人は、韓国にわざわざ行って韓国人と話すことなどないし、現実の韓国人の本当に悪いところを知ることなどないのだ。
戦争を無くしたいと思っている人間は、たいてい人一倍戦争に疎いし、そこらへんのネトウヨに鼻で笑われるようなことしか言えないのだ。
もしも嫌いなものについて本当に勉強し出来る人間がいるとすれば、そいつは9割がた頭がおかしくなっている。
論理と理性を極めた残り1割の人間は、感情を完全に抑圧したうえで本当に嫌いなものについて研究することが、あるいは出来るかもしれない。
しかし、そこまで詳しく「嫌いなもの」についての真実を知ったとき、嫌悪はもはや保たれないであろう。
韓国の酸いも甘いも噛分けるほど韓国に詳しくなったうえで、韓国を嫌いなままでいれるはずがない。
明確な嫌悪ではなく、良いところと悪いところを順に挙げることだけが、唯一できることになる。
なので嫌悪を全面に何かを批判しているやつは、対象が何かとは無関係に、もれなく何も知らないアホなんだね。
はてな界隈ではあれだけクソミソにケチョンケチョンに貶されてたにもかかわらず目標の倍集まった五輪ボランティア。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/this.kiji.is/425215097243026529
けちょんけちょんに貶してたはてなーは完全敗北であり、
潔く敗北宣言を出したbbbtttbbb氏はまっことに漢であり抱いてほしいくらいなのだが、
まあそれは置いといて。
今のところトップブコメでドヤ顔決めてるpoko_penってのははてなウヨクのidなので言及しない。
目を引いたのは、
「今までどこにいたの?」と感じずにはいられない、
orino-for-no
wapa
まあそうだろうな、と。マラソン大会とかでもボランティアしてる知り合いは色々いるし。スタッフ服とかもらえるだけでも記念になるし。運営が嫌だからといって、応募してる人を罵倒するようなことはしないでほしい。
skypenguins
citron_908
dalk
そりゃあ一生に一度あるかないかのレベルだし、東京にいくのにボランティアにいくといって嫌な顔をする奴は少ないしついでに遊びに行っても良いし利用しない手はないと
plagmaticjam
突如として五輪ボランティアに対して好意的なコメントばかりが軒並み人気ブコメにランクインしているというようにしか見えない。
この事象を以て、今までは
ここはぐっと踏みとどまって、
まずこれらのidが今まで五輪ボランティアに対して好意的なコメントをし続けてきたのかという点を確認してみた。
「ボランティア」「五輪」「オリンピック」で検索してみたのだが。
結論から言うと、過去のブコメからも五輪ボランティアに対して肯定的なブコメをしていたのは下記のコメントのみであった。
plagmaticjam
ただ、「適正化してくれれば」と留保を付けているように、手放しの称賛ではない。
有識者とは...
下記のブコメは、ボランティアではないが、五輪に対して肯定的と取れるコメント。
torino-for-no
五輪でマイナー競技観るの大好き人間なので、気にせず頑張ってねと。俺の税金返せって思ってる奴には振込手数料負担してくれれば俺が代わりにお前の分負担して口座に振り込んでもいい位に思ってる。お互い赤字だけど
ただ、後ほど言及するが、普段からボランティアに対して肯定的な発言があったわけではない。
一部については、過去五輪に対して非常に手厳しい批判を加えているidもある。
ただまあ五輪の運営とか政治案件とか利権とかに対しての批判で、ボランティア参加自体をdisってるわけではない、
積極的な五輪ボランティア肯定コメントはお世辞にも過去でてはいなかった。
wapa
いいから金払って人を雇えよ。施設は既存の使い回しで。レガシー残そうとか開発で金ばら撒こうとするからこういうところに歪み出てるんだし。誘致時から予算爆増してるのに人件費ケチってるのがなんとも情けない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/370568268/comment/wapa
wapa
海外の他の大会は?と思って読んでたら書いてあって、ロンドンは本当にこれでボランティアがやったらしい。五輪は元々奉仕前提で成り立ってるのか。あんだけスポンサー料集めてるのに、そっちは施設に行ってるのか?
↑ボランティアしたい人を否定するわけではないが、カネを出さないのが気に食わないという趣旨だろうか。
だがそうすると「ボランティア」という単語の意味を理解しているかどうかが問題になるが…。
citron_908
大戦末期とクリソツだな…原爆投下に相当するイベントは開催期間中の超東海地震か
plagmaticjam氏をダシに使わせてもらって申し訳ないが、
今まではてな界隈で散々スポーツボランティアが否定されてたにもかかわらず、
現実の風向きが変わるまでは過去のブクマをみる限り一切出てこなかった。
これはやはり、
「その世界で支配的な空気に逆らうのはとてつもなく勇気も要ればコストもかかること」
という結論になるのかな、と。
で。
その支配が緩んだ途端に、
今までの不満が一気に噴出する、と。
ボランティア云々以前に、
こういう空気の気まぐれで人の意見が180度変わっちゃうところなんじゃないかな。
まあ、はてなーの手のひら返しって批判に対して「主語がでかい」という再批判があり、
じゃあ一貫性について調べてみようと思ったけど、
でもさ、
はてなのこの「急に空気が変わる感じ」って本当にきな臭くて嫌だなって思ったので、
少なくともただ単に感じだけで終わらせたくなくてやってみたわけよ。
しかし、
「あれだけ五輪ボランティアに対して凄まじいバリゾーゴンをブチかましてた奴らがそろってダンマリ」ってのは間違いない事実で、
しかもそれを検証しようとしたら想像を絶するほどの時間と労力がかかるわけだわ。
都合の悪い事実が出た、
今までと流れが大きく変わった、
ってなったときに急にダンマリする奴らが多数発生する場合には、
「はてなー」の主語は大きくしても差し支えないんじゃないかと俺は思ったね。
以上。
推敲もほぼしない。
aflat_1000dai4 敗北とかよくわからないし、自分の意見は東京五輪に否定的ということで変わらなかったな。ボランティア問題についても、そのものではなくて国体の問題と捉えているので。
その言葉にだけ反応してコメントしてる時点で、この案件に勝敗というものの見方で囚われてることを白状しているようなもんだ。
その場の空気で少数者の意見が圧殺されているということが本旨だというのに、勝敗というくだらない発想に囚われた人間には理解できないものなのだな。
先日、ゲートウェイ理論に納得できないって増田があったよね。これhttp://anond.hatelabo.jp/20161026010604
ブコメでも学術的にはどうなのよって声があったのでちょいと調べてみました。
まず薬物のゲートウェイ理論に関する最初期の論文(たぶん最初じゃないかな?)はKandel (1975)ね。
・ランダムサンプリングされたニューヨーク州の高校生における縦断的(経時的)研究
・5~6ヶ月の観察期間中、飲酒および喫煙習慣のある高校生の27%で大麻への移行が見られたのに対し、そうした習慣のない高校生のうちわずか1%でしか移行が見られなかった。
・同様に、大麻を使用する高校生のうち26%でLSD、アンフェタミンまたはヘロインへの移行が見られたのに対し、非薬物大麻(食品とか飲料に入ってるタイプ)や合法ドラッグ(酒やタバコ等)の利用者で移行が見られたのはそれぞれ1%と4%のみであった。
つまりは"酒・タバコ → 大麻 → その他違法ドラッグ"という一連の流れ("Gateway" sequence)が存在するのではないか、という話。
なかなかそれっぽくて分かりやすい結果だね。
疫学を多少かじった人が見たら「なんか交絡あるんじゃない?」って思いそうな結果でもある。
この論文、うちの大学では全文読めなかった(Scienceなのに!)ので、交絡やら何やらどこまで考慮されているのか等は分かりません。ごめんね。
さて、その後いろいろあってゲートウェイ理論は非専門家にも知られる程度の知名度を得たわけだ。
でもまあ結局のところ知りたいのは"ゲートウェイ理論はどの程度確からしいのか?"ってことよね。
"肯定的なエビデンス、どんくらいあんの?"って言い換えてもいい。
そいじゃ近年のレビュー論文――総括的な知識が欲しいならレビュー論文やメタ解析論文が便利。あと英語版Wikipediaもバカにできない――から良さそうなのを1本もってこよう。
Vanyukov et al. (2012)はゲートウェイ理論とその対立仮説であるCLA (Common Liability to Addiction: 薬物中毒に対する一般的傾向)説に関して、いろんな論文を集めて論じたものだ。
・ゲートウェイ理論の一連の流れ("Gateway" sequence)に因果関係が示されていない
・非典型的な流れは"エラー"や"例外"として除外されていることが多い
・あくまで薬物"使用"に限った説であり、薬物中毒の程度や進行については触れられない
著者らの推し論がCLAの方っぽいので多少割り引いた方がいいかも知れないが、少なくともこの論文では薬物問題に関してのゲートウェイ理論はあまり確からしくないって結論だね。
レビュー論文1本で分かった気になったら痛い目を見る(見た)。もう1本いってみよう。
Agrawal and Lynskey (2014)。
これはゲートウェイ理論と言うか、大麻とそれに関わる問題をあつかったレビュー論文だね。
大麻と他の違法ドラッグ、うつ病、自殺に関する話。何ともおだやかではない。タイトルからして"大麻論争"だし。
さっきのレビュー論文よりかは甘口だけれど、因果関係に関してはやはり不明瞭なようだ。
この手の論文はたいてい1国での調査だし、せっかくだからワイドに国際比較した論文も探してみよう。
Degenhardt et al. (2010)。これは良い。なにせ調査国に日本が入ってる上にけっこう字数も割いてくれてる。
実はさっきのレビュー論文(Vanyukov et al., 2012)でも引用されてたりする。
・"Gateway" sequenceは、因果関係ではなく"計測されていない共通の原因(unmeasured common causes)"を反映していると考えられる。
・初めての違法薬物は大麻が最も多く、飲酒喫煙から移行するのが典型的。ただし国によって大きく変わるため、あまりあてにならない。
まあ前の2つとあまり変わらないね。国ごとに特徴があってなかなか面白い論文だった。
ついでに、この論文で日本がどう扱われているかと言うと、"大麻より他の(重大な)違法ドラッグの方が多い国"、もっと言えば"ゲートウェイ理論が全然成り立たない国"。
まず大麻少ないから"飲酒喫煙→大麻"も"大麻→他の(重大な)違法ドラッグ"もほぼ成り立ってないわけ。
じゃあ"飲酒喫煙→他の違法ドラッグ"のパターンはどうかと言えば、何故かは知らんがこれもまた調査国中で最も低頻度なのだ (※)。
※ 日本で"酒もタバコもやらないけど違法ドラッグには手を出した人"の頻度は52.5%(全患者中)。初手からドラッグ。ゲートウェイなんていらんかったんや!
参考までにメキシコでの頻度は6.3%、すなわち93.7%の患者がドラッグ前に飲酒喫煙者。
以上、違法薬物におけるゲートウェイ理論について少し調べてみた結果である。
他の論文もちらほら読んでみたけれど、概ね
(1)"合法ドラッグ→軽いドラッグ→重いドラッグ"といったGateway sequence自体はよく観察される、
お役にたてば幸い。役に立たなくてもクレームは受け付けない。スターは受け付ける。
それでは。
参考文献
Agrawal A., Lynskey M. T. (2014) Cannabis controversies: how genetics can inform the study of comorbidity. Addiction, 109, 360–370.
Degenhardt L, Dierker L, Chiu WT, et al. (2010) Evaluating the drug use gateway theory using cross-national data: consistency and associations of the order of initiation of drug use among participants in the WHO World Mental Health Surveys. Drug Alcohol Depend, 108, 84–97.
Kandel D. (1975) Stages in adolescent involvement in drug use. Science, 190, 912–914.
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法事で帰省中。ついでにと休みを取って、友人に出産祝いを渡しに行ったりしながら久しぶりの故郷でのんびりしているのだけど、予備校の先生にばったり会った。私は美大に行ったので、絵の勉強のために予備校に行っていたのだけど、かなり強烈な先生で、今も変わっていなかった。
予備校とはいっても小さなもので講師は片手で足りるぐらい。(田舎で生徒も多いというわけでもなかった。ただ、とても成績優秀な予備校で、有名美大の合格者も毎年出ていた)代表のその先生は非常に厳しい女性・・・と当時は思っていたけど、いい年になった今会って立ち話(といっても20分みっちり付き合わされた)したらそうでなく、単に嫌味で高飛車で、気分のむらの激しい人だったのだなと思った。
話をしていて、「あの頃のあなたは○○だったな、だから~~に落ちるんだよ」「あなたの友達は本当に上手かった、あなたはひどかったねー」「今何の仕事してるの?へー、デザイナーになったの、でも派遣じゃたいしたことないんだね独立もできないんじゃダメだね」などなどいわれて気持ちが落ち込んだ。そういえば予備校に行っている間、私の通っている高校や、私の親についてもひどいことを言われたものだったな・・・先生って立場の人に何て言い返せばいいのか分からなくて何も言えなかった。
早口でまあよく喋るなと思いながら、こちらはあまり喋らず話を聞いていると、「卒業したら折々に挨拶ぐらい来るもんだよ、最近の若い子は皆なってない」と言い出して、ああ皆先生に会いに行ったりしてないんだなと、妙に哀しいような変な気持ちになってしまった。あと求めすぎだとも思った。ケチョンケチョンに言われて憎いという気持ちは、不思議となかった。
その予備校を辞めて都会に出た別の先生とは、私も私の友達も年賀状のやりとりはあるし、近くまで行くことがあれば連絡をして、お会いしてお茶をすることがある。お互い仕事のジャンルも似ていたりするので、情報交換したり、時には仕事を紹介したりすることもある。嫌味な先生、損してるなあ。