はてなキーワード: イラストレーターとは
女と見ればエロいことを考えるのが性なんだよなあ…いかんのか?
いいことを教えておくけれど、むしろ穢してはいけない存在を穢すことで背徳感が高まるんよ。めっちゃ興奮するんよ。
こちらへの投稿は初めてで、また自分は作文が得意ではなく、ただの(夢女子の)戯言といえばそうかもしれない。でも「王様の耳はロバの耳」の如く、吐き出して心を整理しなければ心が死んでしまうところだったので許してほしい。
自分はとある刀剣のゲームが好きなアラサーである。ゲームそのものは元々ブラウザのものであるが、自分のゲーム歴はスマホ版が出てしばらくしてから始めたので4年半くらいだろうか。始めたきっかけは同じ県出身で好きなイラストレーターがキャラクターデザインをしていたことだった。ただし当時は期間限定登場キャラクターだったため、始めた頃にはそのイベントは終了していて、それを知って崩れ落ちたのだが。
さて今年はゲーム開始6周年、そのゲームの存在は6年前の当時はちらっと知っていた程度ではあった。でもどうしても擬人化というのに対しては色物だからと苦手意識があった。テレビで刀の展示が特集されて「会いに来たよ〜」とか言って映っている女子も苦手だった。だがこの辺りは同族嫌悪なのかもしれない。自分も元々漫画などが好きなオタクで、マスコットやキーホルダーなど好きなものを鞄や携帯にジャラジャラ付けたい収集癖のあるオタクではあったのだが、人型イラストのないイメージグッズならともかく、ひと目でわかるキャラクターが描かれたグッズには抵抗があった。
そんな折、まだゲームも始めていない頃、地元の本屋で刀の雑誌を見かけた。キャラクターが全面に押し出されたものではなく、有名な刀剣を扱った図鑑だった。今引っ張り出したらゲーム実装刀の名前が表紙にズラっと書いてあるし、発行年月日も2015年6月とあったからゲーム開始直後に出た本といえばそうなんでしょう、審神者(ゲームプレーヤーの総称)を狙ったといえばそうかもしれない。その本で、運命の出会いがあった。
でもピンナップとして取り上げられるくらい、綺麗な刀だった。
自分の生まれ月が名前に入る、名の響きも姿も、美しい刀だった。
また刀工も同じ県だというのもあって、気にならないわけがなかった。
1番美しいと評判なのは別の刀だけど、刀に興味を持つきっかけになったのは間違いなくこの刀だった。
自分は、趣味の合う友人達とTwitterのグループDMでひたすらに騒いでいた。キャラクターのデザインもまぁ悪くは無いなと思っていた。ひたすらやかましかったので申し訳なかったとは思う。
でも後にキャラクター紹介の文面を見てびっくりした。別の方がはてなブログに書いてらしたように「なぜそんな内容をピックアップした!?」とは思った。自分がリアルにそのお刀と対面できたのは1、2年ほど前のたった1回、現在収蔵の美術館がある県の外に住んでいる関係もあって自分はろくに美術館周回もできてないので、その投稿者の方ほど熱狂的かというとそうでもないかもしれない。でも同じ美術館にある別の刀との回想など楽しみにしていたのもあって、実装後すぐには無かったので残念ではあった。そのあたり今後あったらええなとは思っている。
さてそのお刀であるが、つい先日、ミュージカル出演というのが明らかになった。ゲームで最近登場した、同じ刀工で別のお刀の姿もお披露目された。
周りがキャーキャー騒ぐ中、自分はというと……本当は、来ないでほしかった。
このようなゲーム発のミュージカルや舞台はいわゆる2.5次元と言われ、最近ではTVにも出てくるようになって発展が目覚ましいといえる。こうしたものから名前が知られてテレビ番組にも出てくる俳優の方も増えつつあると思う。間違いなく見目も整ってるし、こうした俳優さんの活躍は嬉しい。
ミュージカルの方は先日5周年を迎え、記念のミュージカルが上演された。このコロナ禍の中、運営側も感染対策をしっかりして、またライブビューイングや配信など、ファンに向けたサービスをよくやってくださった。ただ残念なことに現地では、今回はいつもある客降りがなく、また来場者も声出しができずにペンライトを振ったり拍手のみだった。きっと皆さんもっと騒ぎたかったことだろう、愛を叫びたかったことだろう。
━━ただ申し訳ないのだが、おかげで自分は今回、安心して配信を視聴できたのである。
書き方が悪く、性格悪いなという自覚はあるが、自分は客降りでのファンサービスやファンの歓声が苦手だ。観劇の上で、自分以外の存在があるのが苦手なのかもしれない。ライブビューイングや映画における応援上映なども行けず楽しめない、強火な同担拒否勢なのである。まぁひょっとしたら騒ぐのや人の目があるのが苦手と言うだけかもしれない、でもアーティストのライブは平気だったりするので本当になんなんだ自分、メンヘラなのか。
……まぁ刀剣絡みではないのだが、リアルでは自分の推し(ただのシスコンなので申し訳ない)である妹が「実家に彼氏を連れていく」とか言っていたのもあるので、正直荒れている。自分に浮いた話もない癖に年齢が年齢だけあって焦っているのかもしれない。ただ自分は、信頼していた既婚者大学OBと一緒に出かけたタイミングで突然キスされたのが原因で人間不信と男性恐怖症になったので、もう普通の恋愛はできないとは思っている。ごめんね、家族。ほんまはちゃんと自分の子に自分の愛すべきお刀を代々伝えてってほしいと思っていたが、結婚もできなさそうでまして子供なんてと思うので、自分が死んだら妹の家に相続してもらうとしようか。多分あっちの家の方が家柄もしっかりするだろうし、美術系好きな血筋ではあるから、しっかり守ってくれるさ。とりあえず自分が今後障害になりそうだったら、姿消すなりして迷惑かけないようにしようと思う。ま、生きてる限りはしっかり守り刀してもらうつもりですが。
もう行け、僕は少し泣く。
……話が逸れてしまった。救いといえば、どの作品でも「とある本丸」と明記していてくれることだろうか。よそはよそ、うちはうち。ましてただのゲームといえばそうなのだ、ただのフィクションなのだ。ならば自分の役目は、フィクションはフィクションなりに、その物語ごと愛すことだろうか。自分は周りと同じように楽しめないかもしれないけれど、今後ますますの発展、お祈りいたします。
通勤中イヤホンでランダム再生で近侍曲を聴いていることも多いのだが、同じ美術館所蔵の短刀の曲が流れると、やっぱりあの刀を思い出す。
長文乱文失礼しました。
すごく良いイラストレーターさんの絵は過去分もまとめて見れるとすごく嬉しいのだが
Twitter>(fanbox等有料コミュ)>>pixiv>>越えられない壁)>>個人サイト
となってて、見れる期待値順に見ることになるんだよね
まずTwitterで最初に観測するのが一番機会として単純に多いし、メディア欄を除けば全ての写真は辿れるし。
メディア欄にソシャゲやら大量に写真載せてるような人はTwitterだけで閲覧するのが難しいから、次の閲覧方法のpixivを試す。
Pixivはちゃんとしたクオリティの絵は上がってるけど、らくがきと称するハイクオリティ絵がなかったりする人が結構多いから優先して見ない。
タグ検索は金払わないとゴミすぎて使い物にならんから、アクセス元としてはあまり期待するな。
最後に個人サイトはもう更新が絶望的、90%くらいはまともに更新されてない感覚で時間の無駄という認識があるので、他でカバーできるなら基本見ない。
中学時代からちょっと人の気配のないジャンルを反復横跳びしながら気楽に絵を描いていた。絵の上達とか一切考えてなかった。描く時に資料も見なかったし授業中に先生に隠れてバストアップを描いていたレベルである。その頃なんて身体の描き方も全然分からないし手は紅葉だ。足なんて上半身部分を描いていたら入り切らないので描いたことが無かった。下手の横好きというやつである。
ただ中学からネットに染まっていたので、ずっと同ジャンル繋がりで私より遥かに絵が上手い同い年くらいの友達に大勢恵まれていた。そして有難いことに皆性格が良かった。神絵師は性格が良いのだろうか。友人達は私がどんなに基礎画力のなってないポンコツでも仲良くしてくれていて、私は自分の絵が下手なことに何ら危機感を憶えてこなかった。
それが少し前に気が変わった。数ヶ月程かけてめちゃくちゃ絵の練習をしようと思った。
大体今から1年ほど前、旬ジャンルにハマった。それまで旬ジャンルにハマったことがなく、専用垢を作って毎日絵を上げていたらたちまち絵にいいねが付きまくってフォロワーが増えた。ちょっとビビって通知を切ってしまったが、絵を見てくれてありがてぇなぁと思った。人がほぼ居ないジャンル出身で絵は下手くそだったので見て貰えず0いいねは当たり前だったから新鮮だった。
半年ほどして人が寄ってきた。自分より遥かに絵の上手い神絵師がバンバン話しかけて凄いです!絵が好きです!と言ってくれる。有り難いし恐れ多い反面、旬ジャンルすげぇや…と他人事のように見ていた。
ある日一緒に絵を描いていたリアルの知人が居た。知人は長年の付き合いで絵が上手く、イラストレーターを目指していたのでめちゃくちゃ応援していた。基礎画力もしっかりしていてちゃんとした自分の絵柄を持っている。憧れだ。
その知人に言われた言葉がなかなかショックだった。「人気ジャンルは描いてればいいね貰えるのいいよね~私はあんたと違って絵上手いから同じもの描いたらすぐバズるだろうけど、人気に屈して媚びたくないからちゃんとオリジナルで勝負するわ」と言われた。
軽く1週間は凹んだ。
私は好きなものをただひたすら楽しく描いてるだけなのに、その知人には媚びに見えていたのか…と思ってしまった。長年の知り合いだったこともありまぁなかなか落ち込んだ。
ただ1週間経って考えを改めた。
知人と私では、絵に対するスタンスが違うのでは?と思い始めた。
どうも絵を描く人間には
の3種類が居る。
私は確実に①タイプだ。描いてる時に楽しければいいし描き上がった絵はどうでもいい。描き上がったものに1いいねがつこうが5万いいねがつこうが私の中での最高傑作か駄作かは決まっているので気にならない。というか1でもいいね頂けるだけで有難い。0いいねがオーソドックスだった下手くそ絵描き、見て貰えるだけで感謝感謝なのだ。
しかし知人は違う。イラストレーターを目指していて自分の絵がバズるのを目標にしている。自分には基礎画力はあるので後は見つけて貰うだけだと言っていた。評価を気にするどころか評価が自分の日銭に直結するのだから、いいねの数どうでもいいなどと言ってる場合ではない。
なので知人も、たまたま私に刺さる言い方をしただけで基礎画力は大切だよ!と教えてくれただけだと思った。うん多分そう。絶対そう。
しかし私は正直絵が上手くなりたいみたいな向上心が一切無かった。字の通り最悪である。描いてる時だけ楽しければいいアホだった。
ただ今より基礎画力が上がったら、もう少し絵を描くのが楽しいんだろうなぁと思った。いつも色塗りや漫画のネタ出しは割と楽しいが、身体を描いたり手を描いたりする時はよく分からんので苦しみながら描いている。この身体は、こう!という感じで自由自在に好きな構図を描けるようになったら、絵の幅も広がって楽しいだろう。数ヶ月くらい絵をみっちり練習してみたいよな~とは思った。それを一切しないまま中学時代から数十年経ったからこうなってんだよな……
ということでアカウントを消した。フォロワーは5桁を超えそうだったが申し訳無い。絵を上達させるというより、絵を描くのが楽しくなりたいから、まぁ頑張って上達して来ると思ったか?
笑止
ふざけている
数十年も「「「誤魔化して」」」絵を描いていた者が、これまで本当に一切何もしなかった者が、神絵師の友人に囲まれて危機感すら覚えなかった者が、たかが知人の言葉1つで絵の練習をするはずが無いだろ馬鹿か
筋金入りの怠け者だぞ
手なんて紅葉でいいし足なんてボキーーーーっと曲げた方向が関節なのだ
そもそも絵に上手い下手の概念など存在しないしそんなものは皆無だ
な~~~にがデッサンだ漫画のコマ1つ描くのなんてバストアップで十分だ
バランス?左右反転と変形でなんとかなる、いつの時代を生きてんだ令和だぞ自動着色まであるんだから存在する技術は徹底的に使うのが筋だ
そう、好きな絵を好きなだけ描くのが、一番楽しい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
自分のジャンルで写真素材の丸パクリがバレて炎上した絵描きがいた。炎上したと言ってもお囲いの信者やパクリをパクリだと思わない頭をしたオタクたちに守られて吉牛された始末だ。
擁護した中には公式関係者のイラストレーターもいたという恐ろしさである。
その時期、他のジャンルでもトレパクやパクリの同人誌が炎上していたことから、トレパク・パクリを擁護するオタクの声がやたら多かった。
当時、件の絵描きは反省したとツイートしたのだが、Togetterから見に行ったら現在はそのツイートが削除されている。本当に反省したのだろうか。
その絵描きは今、公式関係の仕事をもらって普通に宣伝している。公式関係のアカウントからもこの人物の存在が伝わってくるのである。
パクリを行うような人物が公式の仕事をしている。本当に不愉快だ。正直、自分のお金がそいつに行ってほしくないので関わった公式関係のムックや商品は購入していない。そいつを起用し続ける公式関係者もどうかしていると思う。
この絵描きを擁護する人はフォロワーにも多かった。気持ち悪いので擁護していた人は全員ブロックした。そもそもパクリをやるような絵描きをフォローし続けている神経がわからない。パクリで描かれた絵を称賛できる神経がわからない。
WEB上にある写真は何もかもパクっていいのだろうか。件のパクリ絵描きの絵は構図や衣装の意匠まで丸パクリだった。それどころか背景をそのままイラストに流用していた。
パクられらた写真の出典は通販サイト、ニュースサイトや有料素材、中には無断で使用した厳しい罰則を設けているサイトまであった。バレたら首が飛ぶという意識はないのだろうか。
このパクリイラストが掲載された同人誌は未だに通販サイトで頒布が続けられている。
◎前置き
X日後に死ぬことが分かっているとしたら、僕は残された日々をどう過ごすだろうか。
いくつかの仮定を置いたうえで思いついたことを書き連ねてみる。
・X日後に死ぬことは確実であり、僕はその事実を受け入れている
この前提がなければ、僕は何とか生き延びる手段を探すだけで、残りの時間を使い切ってしまうかもしれない。
何か災害や天変地異で多くの人が死ぬわけではないということだ。僕以外の人々や環境は、僕の死以外は何一つ変わらず日々が続く。そのため、他の人を救うために時間を費やす必要もない。
この2つの前提を置くことで、僕は残りの時間を純粋に自分が満足するためだけに使うと想定する。
◎1日後に死ぬ僕
平日なら、仕事を休まなくてはならない。仮に大事な仕事があったとしても、何かと理由をつけて休むだろう。残念ながら、僕にとって今の仕事は、24時間しか残されていない状況で時間を割くには及ばない。事情を説明して別れを惜しむほど、会社の面々とは親しくない。みな僕の死を知ったら驚くだろうと思いながら、事務的に部長に有休申請を行うまでだ。
明日死ぬと思って毎日を生きよう、そんな格言を聞いたことがある。そう思うことで、本当に望むことに取り組むことができるという意味だそうだ。しかし、本当に1日しか残っていないとしたら?できることはあまりに少ない。選択肢はとてつもなく刹那的になってしまいそうだ。僕には好きな友人や家族はいるが、特別日々を一緒に過ごす類のパートナーはいない。仮に恋人や妻がいれば、最後の1日を普通に過ごして見送ってもらうだけで終わるかもしれない。だが、そんな相手はいない以上、個人的に満足に過ごす方法を考える必要がある。
僕はきっと24時間を一人で過ごすだろう。もうすぐ死ぬことが分かったうえで、友人を呼びつけて一緒に過ごしてもらう気まずさには耐えられそうにない。両親との関係は悪くないが、この状況では会うには気が引ける。そんなことができる距離感の相手なんて、それこそ恋人か妻か子供ぐらいしかいないのではないか。残念ながらそんな相手はいない。誰かに電話くらいはするかもしれない。でも、友人には普段電話などしないので、何か問題ごとでもあるのかと勘繰られてしまいそうだ。何かの用事にかこつけて、母親の声でも聞ければそれで十分だろう。
最後の1日を刹那的な快楽のために使うか、何か意味のあることに使うか、悩むところだ。刹那的な快楽を得るならば、とにかく美味しいものを食べるとか、綺麗な景色を見るとか、性欲を満たすとか、そんな過ごし方になるだろう。できるなら最後の食事は美味しいものが食べたい、でも一人で食べるなら何でも一緒に感じてしまう気もする。そもそも残り時間を考えれば、栄養にもならない食事に時間と労力を割くのはもったいない。食事に限らず、もう何も思い残すことがないと思えるほどの快楽なんてあるのだろうか?どんなに刹那的な快楽を満たしたとしても、最期の1分1秒には、どこか虚しい気持ちになってしまうのでは?
そうだとしたら、死ぬ瞬間に満たされた気分になる1日の使い方とはなんだろうか。やはり「善いことをした」「この世界に良い影響を残した」と思うことで、自らの人生を肯定できるようになることではないか。残念ながら、僕が仮にこの文章を書いている今この瞬間に死ぬとして、僕は何かこの世界のために役に立ったのかと問われると、自信をもってイエスとは言えない。たいして他人に迷惑をかけずに生きているという自負はある。しかし、周囲との干渉が少ない故、特別人助けをしているわけでもない。仕事だって、給料に見合う働きを提供するだけの等価交換で、社会に対してプラスを与えている気はしない。そんな認識を塗り替えるようなことが、24時間で成し遂げられるだろうか?
一つ、すぐに取り組めそうで最も「自分が」やる意義がありそうなことは、近しい友人たちに手紙を書くことだ。僕は29歳で、同年代の友人たちの多くは、若くして死ぬということに実感がないと思う。僕自身もそんな実感はない。そんな友人たちに向けて、身近にいる人間として、心を込めたメッセージを残せば、きっと彼らは限られた生を実感して、より有意義に過ごしてくれるのではないか。そう思いながら昇天するのは悪くない気がする。
一応、死因は自殺ではないことが皆に分かるように手配しておきたい。僕の世代の死因に占める割合は自殺が多いはずなので、事情を知らない人には勘違いされる可能性もある。僕自身はこの際どう思われても構わないが、勘違いのせいで周りの人が嫌な思いをしてしまう事態は避けたい。
◎1か月後に死ぬ僕
1か月は新しいことを始めるには短いが、1か月はちょっと長い。休まず有意義に使い切ろうとしたら息が詰まりそうだ。それでも、1日でも労働に費やすのは惜しいと思ってしまう。やっぱり仕事は無理やり辞めるしかない。お金が必要でないのなら、働かないに越したことはない。そもそも現状で何故僕は、嫌だと感じている労働に多くの時間を割いているのだろうか。
別に誰かに命令されるわけでもなく、僕は自分の意志で一挙一動を選択してきたはずだ。その積み重ねで生きてきたはずなのに、何故不本意な結果となっているのだろうか。僕は必要に駆られて働いているのであって、労働から精神的な充実を得られると期待するのが筋違いなのかもしれない。とはいえ、身の回りを見渡してみれば、仕事を楽しんでいる人はそれなりにいる。今の職場に就職した理由に思いをはせると、僕は仕事の内容や会社の状況について多くの誤解をしていた。さらに言えば、自らが求めているものもよく理解できていなかった。分からないものが多すぎたので、正しい選択ができていなかったのだ。そして、今も自分が求めているものはよくわからない。
1か月もあるのなら、できるだけ面倒を残さないように、いろいろな手続きを済ませておきたい。仕事を辞めて、部屋を片付けて、もろもろのサービスを解約しておけば、あとに残された人も困らない。ついでに恥ずかしい日記を処分しておこう。あと、年に1度ぐらいしか帰省はしていなかったが、顔ぐらいは見せておこうと思う。
口座に200万円はある。これを一体何に使えばいいだろう?1週間で使い切るとすれば、なかなかの贅沢ができる。どうせならぱーっと使ってしまいたい。僕の貯金は社会に影響を与えるには雀の涙すぎるし、このお金を寄付するほどの聖人ではない。それに、個人的に残してあげたい相手がいるわけでもない。しいて言えば、会社勤めをしながらイラストレーターの夢を追う弟にはちょっと残してあげてもいいだろう。全部残すと重たいし、あぶく銭は彼のためにもならないかもしれない。残高を気にせずに、旅行したり、いいものを食べたりして、残った分は弟に渡すくらいでちょうどいいかもしれない。
僕はかねてから死ぬ前に一度バンジージャンプに挑戦してみたいと思っていたが、1か月のうちの半日ほどを費やすに値するほどではなさそうだ。リストに入れるべき項目は、手紙を書くよりは重要でなくて、バンジージャンプよりは重要なことにしよう。残り1か月があるなら、無理を言ってでも友人たちに会って、直接思うことを伝えることができる。
そういえば、残り24時間しかない場合を考えているときは、お金のことには思い至らなかった。僕にとってお金は最優先事項ではないのかもしれない。ある程度長い期間生きるとして、なくてはならないものであって、それ以上のものではないのだろう。少なくとも、残されたお金の使い道を考えながら死にたくないとは思う。
◎1年後に死ぬ僕
1年残っているなら、少しはきれいに仕事を辞めてもいいかもしれない。2週間ぐらいは引き継ぎに費やしてもいいし、そのほうが残りの1年間をすっきりした気持ちで過ごせるだろう。残りの期間で仕事の関係者に出くわす可能性が上がるので、あまり気まずい思いをせずに済ませたい。これくらいの長さがあると、「将来のために今は多少我慢をする」といった発想が生じてくる。
きっと、仕事を辞めた理由を誰もに聞かれるに違いない。親しい人たちには正直に話すほうが良さそうだ。残り1週間ならともかく、1年間あれば段階的に別れを受け入れることができる。何度か会ったとしても、そう重苦しい雰囲気にならずに済みそうだ。でも、どうやって伝えたらいいのか分からないし、伝える瞬間の気まずさに耐えられなさそうだ。Twitterにでも書き込もうか。
貯金を取り崩すだけでも、何とかやりくりして生きていけるだろう。まず、会社に行かなくていいなら、家賃はできる限り節約しよう。決して余裕があるわけではないので、計画を立てて、慎重にお金を使っていくことになるだろう。食事だってそんなに贅沢はできない。それでも、僕にとってはお金よりも時間のほうが大切であって、贅沢をするためにより長く働こうという発想にはならない。
1年もあるならば、全く新しいことを始めたとしても、何かを成し遂げられる気がする。果たして僕は特別に何か成し遂げたいことがあるのか?と考え始める。そして、今までの日常の延長線上でしか考えられないことに気づく。思うに僕は無趣味なのだ、無趣味な故、急に働かなくてよくなったら、何をして過ごしたらいいのかわからなくなる。働きながらだって休みはあったけれども、寝て体力を回復したり、家事をしたり、友達と遊んだり、ランニングしたり、漫画やアニメをダラダラと見たりしていたらあっという間に時が過ぎた。漫画やアニメを見るのは好きだが、あと1年で死ぬとしてずっとそれに時間を費やしたいとはあまり思いつかない。それはリラックスを兼ねた娯楽であり、積極的に取り組んでいるというよりは、消去法的な時間の過ごし方だった。
もともと、人生を捧げられるような対象が欲しいと思っていた。しかし、そんなものは見つからず、とにかく生活のために労働し、疲労と惰性で考え事をするのもままならず、暇な時間ができたら途方に暮れる有り様だ。そんな対象がなくても、愛すべき人がいて、その人と過ごすだけで楽しく満ち足りた日々になるなら、それまた幸福だ。しかし、1年しか残されていないのが分かっていながら、新しく親密な関係の相手を探すのは残酷めいている。残される相手のことを考えると、残り1年で愛すべきことを見つけるなんてハナから期待すべきでない。
愛する人もいないし、やりたいこともない。そんな自分の現状は不甲斐ないが、ないものはないので仕方ない。とにかく何がしたいのか考えてみよう。かといって急に机に向かって考え始めたからといって、何か思いつくわけではない。12か月もあるのだから、1か月ぐらいは思い切って、考えるために時間を使ったっていいではないか。いったん、何もかも放り出して、どこか海沿いの旅館にでもこもって何をしたらいいか考えることにしよう。それ以上のことは今は思いつかない。
10年間生きるならば、すぐに仕事を辞めるわけにはいかない。自分がやりたいこととは別に、生活費を稼いでいくということを主軸に据える必要がある。仕事をどうすべきか、という問題に正面から向き合わなくてはならない。この問題については、大きく二つの方向性を考えることができる。一つは、多忙でもハードでも、とにかく給料の高い仕事に転職してお金を稼いで、一日でも早く仕事を辞めようとすること。もう一つは、仕事をしている時間を無駄と感じずに済むくらい、意義のあるものにすることだ。残念ながら、現状の仕事はどちらにも当てはまらず、ただ金を稼ぐため、辞めて履歴書に傷をつけないために惰性でぶら下がっている状態だ。よって、残り10年間を前提とするならば、すぐにでも転職活動をして、より有意義な時間を過ごせるようにしたい。
例えばかなり無理をして、3-5年間ハードな場所で働いて、残りは働かずに暮らせるのなら、悪くはない。この選択肢は、どう転んでも仕事をすることは苦痛なので、とにかく短期間で済ませるという考え方に基づく。貴重な10年間のうち多くの時間を割くに値するような労働はあるのだろうか?そんなものが見つかりさえするのなら、すぐにでも飛びつきたい。そもそも、そんな仕事があれば、残り10年とか関係なくやってみるべきなのではないか。
10年あれば、適当な理由をつけて別れることを前提に、恋人を作ってもそこまで罪深くはないだろう。すべてを語るような深い関係にはならないかもしれないが、一人で過ごすよりは日々に彩りが生まれそうだ。それとも、ふとした瞬間に虚しい気持ちになるだろうか?
◎30年後に死ぬ僕
10年ではなしえず、30年かけてしかできないものというのはそう多くはないはずだ。仮に僕が職人か何かで、同じことを一筋やり続けるのであれば、その時間の差は歴然となって現れるのだろうか。そんなことを考えると、今すぐ何かの道に入門して、極めてみたいものだという気持ちが湧くが、僕は飽きやすい人間であることをすぐに思い出す。僕はタイムマシンがあればすぐに30年後に行って、知識と経験の蓄積による果実を得たいと思う怠惰な人間だ。その蓄積の過程自体を楽しみ、こなしていくことができるなら、とっくに僕は何かを身に着けているはずなのだ。
残念ながら職人道を極めることはできなさそうだが、それでも少なくとも2つほどは新たな可能性が思いつく。まず、結婚して子どもを育てることが選択肢に入る、30年あれば、子どもが成人するまで面倒をみることができる。そして、家を買うかどうかも真剣に検討する必要がある。
僕は子どもが欲しいのだろうか?正直、残りの人生の期間について考えなければ、そんなことをまじめに自分に問う機会もなかった気がする。具体的に結婚するような相手ができて初めて、欲しいかどうかを考えればよいと思ったのだ。しかし、成人するまでは面倒を見ておきたいという条件を付ければ、残された時間は結構短い。相手ができたとして、すぐに子どもができるかどうかだってわからないのだから、30年のうちの最初の5年くらいで、一連の仕込みを済ませておく必要があるだろう。そのような前提を置くと、恋愛や結婚は残り時間から逆算したうえで、極めて計画的で無駄のないプロセスで行う必要がある。そう考えると窮屈に思えてきたが、女性であれば出産できる年齢が限られている故、同じような考えを持つのだろうか。一通り考えを巡らせたところで、そもそも子どもが欲しいかどうかすら分からないことに気づく。別に、残りの30年を考えたうえでそれが最優先事項というわけでは無ければ、窮屈な思いをしてまで計画的に「仕込み」を行っていく理由もない。
30年もあると考えると、途端に今すぐには現状を変えなくても良いかという思いが芽生えてくる。僕は現状の生活に満足しているわけではない。それなのに、変えなくてよいと思うのはなぜだろうか?変化にはきっかけとエネルギーが必要なのかもしれない。そこそこのストレスや孤独があるにせよ、安定しており、ある種の均衡状態となっている僕の生活を変えるには、何らかの外的なショックが必要なのだろう。
◎53年後に死ぬ僕
今29歳の僕は、52年後に日本人の平均余命といわれる81歳になる。すなわち、52年後くらいに死ぬという前提は蓋然性が高く、それをもとに人生の計画を立てることはひとつ筋が通っている。しかし、正直なところ、年老いた自分がどう過ごすかなんて、今から計画を立てるのは馬鹿げている。そこに至るまでの不確定要素が多すぎる。
とはいえ、一つ考えるに値することは、日本にずっと住み続ける前提で人生を考えるか?ということだ。何せ、この時期までに日本の人口は2-3割くらい減る推計になっている。今だって、社会保険料と所得税と消費税が大きな負担になっているが、今後ますますその負担が増えることは間違いない。5-10年先の未来だけ気にすればよいのなら、別に自分にとっての影響は大きくない。でも、より長い期間を考えると、例えばまともに医療が受けられなくなったり、預金が没収されたりするリスクだってあるかもしれない。少なくとも、今現在の高齢者が受け取っているのと同等の価値の年金をもらうことは全く期待できない。
僕は家族や友人たちがたくさん住んでいて、最高のアニメや漫画を生み出す日本が大好きなので、できることなら日本に住み続けたい。しかし、生活があまりに苦しくなるようなら、泣く泣く国を離れるというのは、世界中のどこにでもある話だ。かといって今すぐに海外に移住することが賢明というわけではない。とにかく英語くらいはできるようになっておき、いざとなればよその国でも食べていけるような能力は身に着けておく、それくらいの「投資」は残り53年くらい生きるなら、多少今を犠牲にしてでもやっておいたら老後の安心に繋がるかと思う。
◎あとがき
現在僕は、感染症が広がり外に出られない状況で、友人と会う機会も減り、社会とのつながりが徐々に切れていく感覚を味わっている。もともと、仕事に追われて、生活のために生きているような感覚を覚えていたが、そこから抜け出すことを難しく感じていた。一日中家で仕事をして、終わっても何もしたいと思えることがない。あまりに空虚な自分の生活に一種の絶望を感じている。
そんな中いつものようにTwitterを目的もなく眺めて時間をつぶしていると、「友人は少なくていい、3か月後に死ぬとしたら一緒に過ごしたいと思えるような相手さえいれば十分」というような記事にたどり着いた。そこから着想を得てふと自分の生活を振り返ってみると、3か月後に自分が死ぬのならやらないであろうことであふれていた。短い間に自分が死ぬことを考え出すと、僕は気が楽になった。これは僕自身にとってのセラピーになった。ある種のミニマリズムや断捨離に近い感覚で、「3か月後に死ぬのであれば不要」と思えることを生活から切り捨ててみる。例えば僕はいつか読んでおこうと思っていた大量の本をその基準に従って捨てた。すると、僕の人生は前よりも少し方向性が定まったように感じたのだ。
とはいえ、それと同時に、自分の空虚さを改めて実感するきっかけにもなった。自分の寿命の想定をどんどん伸ばしていくほどに、可能性は広がっていくはずなのにやってみたいと思うことが思いつかないのだ。まるで、遠方ほど霧が濃くなっていくような感覚だ。この問題は僕が、「いつかは役に立つだろう」と思われる仕事や資格の勉強に時間を費やしがちだったことと関係があるかもしれない。その時々に自らの欲求に耳を研ぎ澄ませてこないできたら、欲求をとらえることができなくなってしまっていた。
平均寿命から想定して、老後の安心や家庭を持つ可能性なども考慮した貯金やらライフプランとやらをある程度は考えなくてはならない。それでも、僕のようなタイプの人間は、3か月後に死ぬというぐらい過激な想定をしてでも、素直に最もやりたいと思えるようなことを考えていくべきでは、というのが今のところの結論だ。
僕の文章は思いつきを並べただけでまとまりのないものになってしまったが、もっと多くの人にこの思考実験をやってもらって、その結果を読んでみたいと思う。ぜひこれを読んだあなたも試しに3か月後に死ぬとしたら何をするか考えて、記事を上げてみてほしい。
俺は俺が絶対正しいとは思ってないしエロマンガについて酷評することは初めてなくらいだけど…ぼくはこのマンガだけはアカンと思った。
タイトルにNTRってついてるんだけどさ。NTRについて解釈違いしてる。
解釈違いとかジャンル自体に欠陥がある作品ってやっぱ頭にくるね。
俺が絶対正しいとは思ってないけど、
「ちゃんとヒットした作品を勉強してたり、登場人物に愛情があったらもっと違う表現ができたよね?」
ぐらいのことは思います。
NTRってさ「悔しい…でも感じちゃう(抜いちゃう)」なのに、幻滅だけで終わっとるやん
別の作品を挙げて「これが正しいNTRじゃ」って説明するのもありだけど、それ以前の問題として「感情移入できないNTRで抜けるかボケ」ってなった。
僕がマンガ家やイラストレーターさんを尊敬してるのは絵がうまいだけじゃなくて、その解釈まで素晴らしいからだけど…これは相容れない。
NTRっていうのはさ…男のダメさと加虐性と向き合う性癖なんだよ。
もちろん、人間には独占欲があって「自分のものにしたい」って言う欲望もあるんだけど、そうならなかったら幻滅するっていうのはNTRじゃないんだよ。
幻滅よりも乱れてる女性を見た時の悦びとギャップで抜くから成り立つ。ヘタレが女の子を取られて幻滅して拗ねるだけのやつはNTRって言わないです。
幻滅するようなNTRがあっても結局抜いてしまって「俺ってダメなやつであると同時に、結局女の子をメチャクチャにしたかった&乱れてる時に助けにも入れないんだな」ってのがNTRです。もしくは間男になってでも汚したいか
NTRってDQNや絶倫男に女の子が股を開けば成り立つとかそういう性癖じゃないんですよ。
そういうのを目の当たりにしても止めに入る・糾弾するわけでもなく抜いたり、むしろそういう目に遭わせてでも自分のものにしたいとか…そういう人間の欲深さと向き合う性癖なんだよ…
こんなものはフェミニストを名乗る雑なセクシストどもの擁護でしかない。
性はクラデーションで厳密な男性向けも女性向けも存在しないんだ、美少女のセクシーな絵が好きな女子も腐男子もみんないてみんな良かったんだ。
BLの男性への販売拒否とかやめようよっていうBL同人界隈の動きとかもあって10年ぐらい前まではわりと真面目にジェンダーフリーを目指していたんだ。
美少女系の女性イラストレーターがフリルとレース山盛りの可愛いとえっちなもを共存させる絵を描いてそれを男性も女性も支持していた。
だけどそれらを全部ぶち壊しにしたんだよ、老人世代の分断が若い世代に存在すると思っている50代60代のジジババや
インターネットの意識の高い面した海外の流行でしかないキャンセルカルチャーの猿真似をやっている名誉白人どもや
一部の腐女子による美少女系女オタクへのただのヘイトとそういうのが合流して腐女子のセクシズムをフェミニズムが支持してしまったんだ。
初心者への添削やアドバイスをやってる人で、学び方などがロジカルなので上手い人なんだろうなあ、と思いつつ動画を聞いていたが、なにか内容に違和感がある。数日後Pixivを拝見すると、ちょっと神絵師とは言えないレベルで閉口までとは言わないにしても正直尊敬するほどでもない。検索するとやはり山ほどいるアンチ。
1番は正しいとも言える。ただし2番めをふんふんと聞いて氏の絵を見るとかなり違和感が出てくる。
まずさいとう氏自体神絵師ではない。はっきり言ってルーキーレベル。その内情の殆どが立体が取れずペタッとしている件。これはつまり1番めをおろそかにして勝手に2番めを実践してるから、という事がはっきりわかる。そして何よりまずいのは、できないからまずは模写するのであって、できない時点でできない絵を別角度から描くということ自体不器用な人には難しい。違う絵柄には方言が存在していて、その方言を別角度から理解して描くという事自体応用力がある。つまり初心者~中級者というターゲット層に適してない。
そもそも氏自身の上達が遅いのだから、練習法にも説得力は生まれない。
そうですかぁ?という素直な感想。下手な絵が自分の手から出てきたら一瞬で理解できますよね。一生懸命取り組んでも頭打ちなものには時間をかけるだけ無駄、このくらいの認識は最大でも三年やってりゃ身につくこと。サラッと描いうまい絵が出てくる人は詳細に描いてもうまい。常識的な話。
最近のイラストはかなりマシだけど、この人の自己申告どおりに考えたとしても画力はジワのび。言ってしまえば普通だと思う。あと風景にごまかしが多くて決定的に描けない人だとも思うけど、彼いわくモンスター絵師から人物絵師になったということで、風景はノータッチなんだろう。デザインは豊富なので記憶力がいい人だし、加工は上手。ただし加工に頼って彩色がいい加減で浅いもののほうが多い。欲しい絵はDLしちゃう人だけど、この人のはもうちょっと待ってからかなあ、という印象。全体的に言って背景の描けないさしみん(たいら)くらい。
すべてが悪いわけじゃなくて、何が悪いのか逐一メモする、原因追求するというあたりは共感する。みんなやってるしあたりまえなんだけどね。はっきり言って。そこは初心者向け動画だから仕方ない。この人流に無意識で反復するのは意味ないよ、と言ってるのはわかる。さらに、自分なりに描いているときこそが一番弱点が露呈しやすいから、実践しつつ復習する態度もわかる。これは本当に重要。ただしそれだって基礎がないとやっぱりイロハのイから無理。
氏の言ってる内容で最大の問題だと思うことが、模写から違和感を探して原因と結果を書き込む、という練習法を否定してること。個人的に言えば模写から成り立ちを逆算してメモするほうが10倍勉強になる。
界隈でよく言われてることが売名野郎ってことなんだけど、ここはプロとして食ってゆくためにやってるのでうまくやってると思う。ただ納得はさせてほしいかなあって。
結構有名でユニークな言動やイラストを描く人があるvtuberにハマってた。
毎日絡んだりイラスト描いたりしててvtuberの方にも認知されていたけど、ある日vtuber側で問題が起きて人気がなくなった。
その日からそのイラストレーターは毎日のように描いてたイラストも絡みもなくなり他のvtuberに鞍替えしてイラスト描いて今も何事なかったようにTwitterで活動している。
変わり身の早さにゾッとした。
怖いね
塩じゃないです
この年末年始にひとつも商売のことを考えない人は小売業に向いていないし、
この年末年始にひとつも建築のことを考えない人は建築業に向いていないし、
この年末年始にひとつも金融のことを考えない人は金融業に向いていないし、
この年末年始にひとつも客のことを考えない人はサービス業に向いていない。
とは言わないのに、なぜIT系エンジニアだけそう言われることが多く、しかも一定の妥当性を認めてしまうのか。
それはIT産業が、従事者の好奇心にフリーライドして成立している業態だからに他ならない。
そう考えると、他にこのような言説が成り立つような業態は全て、従事者の好奇心・嗜好性・サービス精神・使命感・自尊心・ほか色々なものにフリーライドして支払うべきコストを支払えていないと言えないだろうか?
たとえば、
この年末年始にひとつも医療のことを考えない人は医療従事者に向いていない
この年末年始にひとつも子供のことを考えない人は教育者に向いていない
この年末年始にひとつも学問のことを考えない人は学者に向いていない
この年末年始にひとつも絵を描かない人はイラストレーターに向いていない
この年末年始にひとつも筋トレをしない人はスポーツ選手に向いていない
この年末年始にひとつも練習をしない人はピアニストに向いていない
この年末年始にひとつも小説を読んでいない人は小説家に向いていない
成立していると思うなら、その業種についてフリーライドを認めていることになると思うが、どうか?