はてなキーワード: 謙遜とは
例:子供が泥だらけで遊んでいると、楽しそうでいいと思うよりも誰がそれを洗うんだとガチ切れる。
・怒るのが下手。やって欲しくないことを伝える時になぜなにクイズを始めてしまう。
例:子供に汚れる遊びをして欲しくないことを伝える時に、「なんで汚れる遊びしてんの?」などと遠回しかつ嫌味に言ってしまう。
・脅しを多用する。意味がないのに。
例:子供に言うことを聞かせる時に早くしないと置いていくよ、などと言うが本当に置いて行けるわけがないことは自分でもわかっているので余計にイライラするだけの発言になる。
・子供を下げるのが得意。
例:「良い子ですね」と子供が褒められても「いえ、この間もコップをひっくり返したんですよ」などと素直に受け止めないどころか自分が子供のダメなところと思っていることを口にする。謙遜とは自分にだけするものだと分かっていない。
子供がすぐに自分の思い通りになるものだと思い込んでいるから、そうならない時に安易に腹を立ててしまう。それは、子供を何よりも甘く見ているし、子供がまだ弱い存在であることに甘えているし、漬け込んでいる。
子供に腹をたてるのは人間だから誰しもあることだろう。けれども、子供相手にそれを飲み込むことができないのは人間だからではなく子供だからだ。
これ分かる
俺も常に自分が最低ラインだと思ってるから、自分が出来た努力量・仕事量を「出来ない」と言うやつは俺より出来るくせに手を抜いたり頑張るのを面倒がったりする、ちょうどウサギとカメのウサギみたいな仕事の仕方してるんだろってつい疑ってしまうわ
後輩に教えたり指示を出さないといけない時も、俺が新卒ほやほやだった時と比べて全員明らかに優秀だな、じゃあ俺がやってきた程度なら少し努力すれば皆簡単に出来るんだろうな、って判断で仕事振ってしまう 無理ですキツイですって言われたらそりゃあ調整はするが、「本当は頑張れば絶対出来るだろこんなに優秀なんだから・・・」って言いたくて堪らない
別にわざと過剰な謙遜・卑下とかましてや馬鹿にしているつもりは毛頭無くて、本気で俺が出来ている事なんてどうせ他人に比べて大した事ないって常々思ってんだから仕方ないんだよなあ・・・
フリーランスの知人が謙遜なのかなんなのか「税金とかなんやかんやで半分以上持ってかれる」「サラリーマンの3倍稼いでやっと同じくらいの給料」と言ってくるんだけど実際どうなの?
45万で本当に三分の一してしまうと月収(額面なのか手取りなのかよくわからないけど)15万になってしまうけど本当にそういう感じ?
・チカラ入ってるなら少しチカラ抜こう。気負いすぎるな。そんなにみんな新入社員の一挙手一投足に注目してない。謙遜しすぎる必要もない
・雑用とか要返信みたいなメール対応とかは、考えずに最速で対応しろ。それだけで第一印象がかなり高まる
・自分自身の予定(会議とか提出物)は自分が管理しろ。先輩や上司は把握していないと理解しろ。上司との打合せが長引いていても次の会議相手はそんなこと把握してない。自分から次の予定があるのでまたあとで話しましょうといって退室しろ
・上司やら先輩社員が常に正しいと思うな。理解できない部分は明示的に確認しろ。思いのほか、本質的な部分をすっ飛ばしてる輩は多いぞ
・自分の価値観と異なる価値観で自分を値踏み(評価)する人間がいることを意識しよう。社内ルールの解釈違いとかに注意しろ。例えば新人のくせに権利を主張することをよく思わないアホが役持ちをやってたりする
・ゆるい運用でやってること、厳密にやらなきゃならないことをハッキリさせて、後者は間違えないように気をつけろ
・形骸化している社内ルールなど、上司先輩が守ってないからといって自分まで同じレベルに落ちる必要はない。新入社員こそ厳格にルールを守ろう。ちゃんとした人だって印象つけよう。周りの悪習慣にわざわざ染まるな
■生活
・社会のルールを守ったり、社会に貢献することが会社だけでなくあなた自身の価値を高める。逆は即信用を失う結果につながる。そんな責任を背負っている意識を持とう。簡単なところだと、ゴミ出しのルールとか信号を守ろう。電車やバスで席を譲ろう
・知らない土地に移り住む場合、なにげなく選んだ駅が新たな地元になって、なんだかんだ愛着が湧いたり、そこに生まれ育った伴侶が見つかってしまうかも知れない。思ったよりもずっと長く住むことになることが多い。子を望むなら今のうちから子育て環境も考慮して選ぶとよい。治安とか。
・部屋はやはり駅近が便利。バス便が充実しているところだと、バス停近くも便利。俺の場合は、不動産屋で信頼に足りる担当者を見つけてからは話が早かった。なんにしても時々いる有能なエージェントを見つけて頼るのは成功への近道
・学生時代から付き合ってる相手がいるなら1回目の賃貸の更新で同棲→結婚くらいの時間感覚。お金がカツカツでない場合の話ね。
どうせこれからしばらく生き甲斐絶つなら、これまで抱えてきた感情とその感情を向けてきたあらゆる対象もろとも心中するくらいの心づもりでいようと思ったので巨大感情をぶつけてから一時撤退することにしました。
誰が見てくれなくてもいいけど見てくれた誰かが刺されてくれたら、それで好きだったその人から嫌われてももう良いやという気持ちで文章にします。
後を濁す気満々で申し訳ない。
(一部方々におかれましては重複してお伝えしている内容ではありますが良かったら今一度受け止めて下さい。)
(一度鍵垢でべらべら喋って怒られたことをまた喋ってるのでいよいよ距離を取られたら寂しいなあと思っていますが極力これきりにしたいので許して下さい、出来ればやっぱり嫌われたくないです)
というのも数値や関係が一目で可視化されている文化圏の中で交流を兼ねながら創作活動をするということが自分には致命的に向いてないと思ったからです。
数値が見えるというのは時として嬉しいものなんですが時としてすごく残酷だと思います。
とりわけ数値で自己と他者とを比較できてしまうという点においては自身の実力を図る手段であり、時として自信になり得る要素でもありましたが、交流していくにあたっては自分にとってはデメリットでしかありませんでした。
まず、自分の創作物というのは贔屓目も謙遜も抜きに見ても、描けない人から見たら描けてはいるもの、絵の上手い人から見たら稚拙だと思われる傾向のものだったと思っています。
なまじ創作物に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたので、そのときのジャンルやCPによっては目に留めてくれる人が多く、その中にはとても絵の上手い方もいらっしゃった、くらいの。
その辺りの側面はひとまず抜きに、「好み」とかの話でなく、絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を私は持っていませんでした。
主観的なものなんだから一概にそんなことはない、なんて言い出せばそうなんですが創作活動を続けていく中で「絵を描く層」を限りなく客観視したとき自分が感じた自身の立ち位置は少なくとも「どちらかといえば上手くない」というものでした。
(「上手くない」「どちらかといえば上手くない」「「どちらかといえば上手い」「上手い」の4段階として)
私が今から話すのはフォロワの中でも上記4段階において「上手い」に属する人=神絵師の方々に対しての感情です。
「神絵師」という判定こそその人の主観でいくらでも変わる認識ですがpixivで1千ブクマを安定して得てるとかフォロワが何万居るとかそういう数値的なものでなく、此処で記す「神絵師」というのはあくまで『絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を持てていると私が判断している人』というものであることをまず始めにご理解下さい。
前述の通り、私は自己の脳内ヒエラルキーにおける絵が上手い人種ではありませんでしたが、
前述の通り、なまじ創作物(主に漫画のことなんですが)に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたのでそこを見てくださった方であったりあるいは横の繋がりであったりで神絵師の類にあたる方々との繋がりがそこそこにありました。
絵がどうとかどうでないとかありにしても無しにしても、とにかく自分と繋がって関係を築くことを良しとしてくださった方なわけですから、その時点で神絵師だとかそうじゃないだとか抜きに交流していければ完結する話なんですが、自分に関してはそれができなかった為しちめんどくさいことになりました。
好きな作品についてや日常の雑談について語るにあたっては「同じ路線の感性」があれば絵の良し悪しとか関係なく楽しめます。
でも、関係を持った人たちが「絵を描く人」である以上、日頃の会話の中にはどうしても「自分たちの作品について」の話題が時として出てきます。
特に女性間で顕著なんですが作品を作る人という括りであればどっちにしろこういった話題が出てくる瞬間が私はとにかく苦手でした。
「Aさんは本当に絵が上手い」「そういうBさんの絵に私は憧れてるんだよな」
フォロワの間でそういう話になる度に私は心底しんどくてたまりませんでした。
そういう流れになるたびに身を潜めて出ていかないようにしました。
実際Aさん、Bさんは自分の中では神絵師で、私自身本当に大好きな作品を生み出す方々ではありましたがその流れで私が「わかる、AさんもBさんもどっちも最高なんだよな」とか話題に乗るなんて死んでもできませんでした。
万一にでも「そういうムツさんだって漫画上手いじゃん」とか言われたらそれがその人にとっての本心であろうと私は本当に死にたい気持ちでいっぱいになるからです。
それがその人にとっての本心であろうと。
何でしょう、流れの中とかでなくふと出てきた言葉だと真に受けられるんですけど。
万一にでも気を遣われたという可能性が拭えない流れの中で褒め言葉を貰うのは作品に限った話でなくて苦手なんですけど作品に関しては過剰になってしまいがちです。
というのも私は自分の中で完全に勝手に「神絵師」と「そうでない自分」とを区切ってしまっているからだと思います。
私はいくら親しい人であったとしてもその人が自分の中で神絵師という括りとして認識されているだけである一定の話題に対してはその人達に対して勝手に距離感を感じてしまっているように思います。
そういう垣根抜きに自分の作品を良いと思って下さってる方に対してその認識が失礼なことなんだと分かりながらも区切らずにはいられませんでした。
自分のことを目に留めてはくれない神絵師が多いのは自分が神絵師ではないから、という落とし所が必要だったからです。
…例えば、金銭的な問題を考えなくて良いものとするのであれば安くて味はそこそこのものより高くておいしいものばかり食べていたいと思うのは普通の感覚だと思います。
性格が同じような人であれば顔が普通の人より良い人を選びたいと思うのも普通の感覚だと思います。
自分の絵は誰が見ても上手いものではないから絵の上手い人が自分の作品を見てくれているというのは基本的にすごいことだと思っていて、ありがたいことだと思っています。
(絵を描く人描かない人関係無しに、自分の作品を見て下さってる方々には感謝しかないのですが「顔の良い人達とばかり付き合いのある顔の良い人が普通の自分と付き合ってくれている」ことが特にすごいという話です。)
普通、神絵師はそうでない自分の作品をまず目に留めようとしないんだという当たり前の現実をそれでも私には受け入れて納得するための理由が必要でした。
作品柄であったり人脈であったり、万人が見てくれる創作物なんてまずありません。
ただ、割合的な問題としてやはり「自分と繋がりのある神絵師達」と繋がりのある神絵師には私は見て貰えない傾向にあったなと思うので。
尚、ここまで誰がどうとかそういう話でなく自然の摂理の惨さを私が受け入れるのが下手くそという話です。
誰も悪くはなくて強いて言うなら勝手に意識している自分ただ一人が悪いです。
「作品を見てくれる人が一定数いる」という事実がまず本当にありがたいことでその点については本当に本当にありがたいと思っていて、
正直、神絵師でない括りの中で自分の作品を見て何かを感じて下さった方は本当に多い方だと思えていて、自分はむしろ贅沢な類なのだと思っています。
贅沢な類だと思えていたからこそ神絵師の括りには居なくても自分は創作者としての現状にはとても満足していました。
それでも自分が神絵師の括りには居ないことで発生する「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」に対する現実は神絵師とそうでないものの区切りがあるという根拠を踏まえておかないと納得しきれませんでした。
だから私は神絵師になりたいとかそういうわけでなく(いや朝起きて気付いたらなってたとかならなりたいですけどそもそもとして私は絵を描くのが好きなわけでなく自己解釈をアウトプットする手段として絵を描いてるタイプなので絵を描く努力とかしたくないから結論として「なりたいわけではない」になるんですが)、それでも「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が自分より大きいという意味で「神絵師」という人達が羨ましいと思っています。
(ある神絵師に先日とうとう「神絵師になる努力もしてないのに羨ましいって感情を一方的にぶつけてくるのはずるいと思う」的なことを言われてしまいましたが神絵師になりたいわけでもない(=厳密にはなるための努力を諦めきっている)のに一方的に理不尽な感情をぶつけるのは確かにずるいなと思いました。本当にごめんなさい。)
そんな具合で、私は自分の中で持てているものを見て頂けてることを最大限ありがたいと思いながら、それでも自分では持てないものを持てる人達を私は心底羨んで憧れていて、大好きだと思いながらも一線を引いてしまっていてそんな一線が交流をすると、時々とてもめんどくさい感情を自分の中で生み出していました。
最近だと神絵師分類のフォロワ2人と限界さぎょいぷで盛り上がっている最中「次のイベントどうする~~申し込もうぜ~~」みたいな流れでやいやいするまでは良かったんですけど
「隣接しよう~~~」ってなったとき正直私は心底死にたいと思っていました。
そこで嫌と言えば良かったのかもしれないですけどフォロワ2人的には「仲の良い人が隣に居て欲しい」以上も以下もない感情から出た提案でしかなくて、そこに自分みたいな神絵師だとかそうでないだとかの汚い区切りとか全然加味されていないことが完全に分かっていたので自分の薄汚い感覚でNOとは言えなかったし言ったとしてその理由が「神絵師の隣は現実を思い知らされて嫌だから」だとか完全に「えっ…」て感じだと思うし自分自身、垣根抜きに親しい付き合いをしてくれる二人と気の合う関係を築けてることが何より嬉しかったからNOなんて言いようがなかったんですけど。
神絵師にサンドされた日には死ぬと思っていましたが実際サンドされて死にたいと思っていました。
ジャンルでの活動が長く、自分の本を楽しみにしてくださってる方が一定数いてくださったことは知っていたので両隣は大盛況で自分のスペースだけ閑古鳥なんて事態にはならないことは分かっていたんですがそれでも胃は少し痛かったです。
実際、両隣のフォロワと繋がっているもの自分とは繋がっていない神絵師の方が自分のスペースを避けて両隣に挨拶しているとことか見えたりしたので。
よく見てるなって感じですけど私はたまに神絵師フォロワのフォロワを覗いてわあ、こんなに神絵師からフォローされてる…とか思いながら薄暗い感情になったりとかする性悪自滅くそ野郎なので
(いやでも必要なんですよ…とある神絵師(私は一方的に好きなだけ)の作品についての話を神絵師フォロワ(神絵師とは相互)とするにあたって相手は相互フォロワの気安さとして喋るけど私は一方的に好きな人としての温度差がそこにあることを予め認識して精神を防護しておく必要があるから…)
この辺りをくまなく喋ると大体「見なくて良いとこまで見て、考えなくても良いとこまで考えすぎてるところが生き辛そう」って言われます。
本当にその通りだと思います。
いやそれでもそうやっていろんなところに目を向けるからこそ自分を見てくれる一人一人に対する有り難みを感じられているとも思っていて、だからこそ持てる力の範囲でも自信を持てているとも思っているので私は一長一短なんだと思っています。
逆に自分なんかよりよっぽど「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が遥かに広い神絵師のはずなのに自己肯定感の低い人達見ると本当に嫌になります。
大体そういう人達って軒並み「ネットの外のリアルの自分が人間的に問題がある」ところを引きずってるんですけど、そうでなくて、少なくともネットにおける「絵が描ける」ことそれだけで「描けない人」がどう逆立ちしても手に入らない沢山の自信の種と関係の間口がごろごろしてることに気づいて欲しいなあと常々思います。
いやまずフォロワの多さといいねの多さとブクマの多さに目を向けて欲しい。
あいつら大体「カップリングの力だから」「旬のジャンルだから」「女の子だから」とか何とか言うんですけど、過大評価を真に受けない保険にしてるんだか知らないですけど、私からしたらその発言は軽はずみだとしても本当に好きな人も多くて付けてくれてるであろう何百何千の人達からのいいねを蔑ろにしてるようにも取れるから私はそうやって付けられる自信を一向に付けない人を見るのが腹立たしくて嫌いです。
(と思う感情すら自分の劣等感を正当化するためのエゴだと言ってしまえばその通りだとも思うので押し付けるのは良くないですよね、本当に各位には申し訳ない。でも言わなかったとしても内心そう思ってることには変わりなかったです。)
でも気の合う話ができて一緒に居て楽しいと思う人達だってその人達です。
私はその人達の人柄が好きで作品が好きで絵柄が好きで、何より一緒に居て楽しいと思えるからこそ、少しでも自信を持って欲しくてついついそういう感情を吐露しがちなんですが先日いよいよ怒られました。
そういう感情はネット上では見せたくなくて、少しでも信頼してる自分だからこそ打ち明けた部分だったのにSNSで鍵垢で、主語こそださなかったもの特定されかねない形で引用してしまったので。
本当に申し訳ないことをしてしまったなあと思うと同時、それでもやっぱり私は大好きなその人がいつまでも持てる自信を持てないままでいることが嫌で嫌で仕方なかったです。
という感情だけ主張しておけば何かまだ良い感じな風に見えなくもないんですけど私そこに対して「自分の持てないものを持ってる人が自信が無いと惨めな気持ちになる」ってろくでもない私情までぶつけてるから駄目なんですよね
すいません、ごめんなさい、結局私は自分の感情をエゴ込みで吐き出さずにはいられない性分のクソ野郎でした。
でも本当に、もうどうしたら伝わるのか私には分かりませんがそういう感情を吐き出した人達のことが、自己肯定感が低いところを除けば私は本当に大好きです。
前述したようにその神絵師当人にとっては「親しい人との関係」の中に自分の神絵師物差しみたいなくそ概念を突っ込まれて区別した上で会話をしてしまうから、私個人が抱く劣等感由来のあらゆる感情って本当に仲良くしていく上で心底不要なものなんだなと痛感しています。
それでも私にとっては自信の糧になった部分もある切っても切り離せない要素です。
そこを踏まえない友達付き合いを私が徹底できれば何よりなんですけど、付き合いを続けていく中でどうしても一方的な劣等感を押し付けてしまう場面というのは今後どうしたって出てきてしまうように思っています。
冒頭で述べたように極力これきりにしたいとは思いますけど性根としてそういう感情が根付いてることには変わりないです。
ああ、なんか、そういう見方をされていたんだなあと感じてしまったらどうしようもないのかもしれませんがこんなくそみたいな性根を抱えた自分とも、また喋ったり遊んだりして頂けたら嬉しいなあと思います。
自分のことだと思ってる思ってないに関わらずとにかく私というろくでもない人間と関係を築くことを良しとしてくださってるあらゆる方々、本当にいつもありがとうございます。
本当にろくでもない性悪なので自分から遊びに誘うことも憚れる上、実際これからしばらくイベントを断つ身の上でお会いできる機会なんてフォロワが関西に遊びに来てくれるときくらいしかないと思いますが遊びに来た際には誘って頂けたら喜びます、と誘い受けをして締めたいと思います。
あと良かったら前述の記事同様に拡散の上、思ったこと述べて貰えたら嬉しいです。
賛否や縁を切りたい等内容は問いませんのでご意見ご感想お待ちしております。
ここまで吐き捨てきってしまって、またSNSというかツイッターをフォロバする形で性懲りも無く再開するかは正直ちょっと分からなくなってきましたが、ひとまず今まで本当にありがとうございました。
またお会いできたら嬉しいです。
それでは。
どうせこれからしばらく生き甲斐絶つなら、これまで抱えてきた感情とその感情を向けてきたあらゆる対象もろとも心中するくらいの心づもりでいようと思ったので巨大感情をぶつけてから一時撤退することにしました。
誰が見てくれなくてもいいけど見てくれた誰かが刺されてくれたら、それで好きだったその人から嫌われてももう良いやという気持ちで文章にします。
後を濁す気満々で申し訳ない。
(一部方々におかれましては重複してお伝えしている内容ではありますが良かったら今一度受け止めて下さい。)
(一度鍵垢でべらべら喋って怒られたことをまた喋ってるのでいよいよ距離を取られたら寂しいなあと思っていますが極力これきりにしたいので許して下さい、出来ればやっぱり嫌われたくないです)
というのも数値や関係が一目で可視化されている文化圏の中で交流を兼ねながら創作活動をするということが自分には致命的に向いてないと思ったからです。
数値が見えるというのは時として嬉しいものなんですが時としてすごく残酷だと思います。
とりわけ数値で自己と他者とを比較できてしまうという点においては自身の実力を図る手段であり、時として自信になり得る要素でもありましたが、交流していくにあたっては自分にとってはデメリットでしかありませんでした。
まず、自分の創作物というのは贔屓目も謙遜も抜きに見ても、描けない人から見たら描けてはいるもの、絵の上手い人から見たら稚拙だと思われる傾向のものだったと思っています。
なまじ創作物に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたので、そのときのジャンルやCPによっては目に留めてくれる人が多く、その中にはとても絵の上手い方もいらっしゃった、くらいの。
その辺りの側面はひとまず抜きに、「好み」とかの話でなく、絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を私は持っていませんでした。
主観的なものなんだから一概にそんなことはない、なんて言い出せばそうなんですが創作活動を続けていく中で「絵を描く層」を限りなく客観視したとき自分が感じた自身の立ち位置は少なくとも「どちらかといえば上手くない」というものでした。
(「上手くない」「どちらかといえば上手くない」「「どちらかといえば上手い」「上手い」の4段階として)
私が今から話すのはフォロワの中でも上記4段階において「上手い」に属する人=神絵師の方々に対しての感情です。
「神絵師」という判定こそその人の主観でいくらでも変わる認識ですがpixivで1千ブクマを安定して得てるとかフォロワが何万居るとかそういう数値的なものでなく、此処で記す「神絵師」というのはあくまで『絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を持てていると私が判断している人』というものであることをまず始めにご理解下さい。
前述の通り、私は自己の脳内ヒエラルキーにおける絵が上手い人種ではありませんでしたが、
前述の通り、なまじ創作物(主に漫画のことなんですが)に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたのでそこを見てくださった方であったりあるいは横の繋がりであったりで神絵師の類にあたる方々との繋がりがそこそこにありました。
絵がどうとかどうでないとかありにしても無しにしても、とにかく自分と繋がって関係を築くことを良しとしてくださった方なわけですから、その時点で神絵師だとかそうじゃないだとか抜きに交流していければ完結する話なんですが、自分に関してはそれができなかった為しちめんどくさいことになりました。
好きな作品についてや日常の雑談について語るにあたっては「同じ路線の感性」があれば絵の良し悪しとか関係なく楽しめます。
でも、関係を持った人たちが「絵を描く人」である以上、日頃の会話の中にはどうしても「自分たちの作品について」の話題が時として出てきます。
特に女性間で顕著なんですが作品を作る人という括りであればどっちにしろこういった話題が出てくる瞬間が私はとにかく苦手でした。
「Aさんは本当に絵が上手い」「そういうBさんの絵に私は憧れてるんだよな」
フォロワの間でそういう話になる度に私は心底しんどくてたまりませんでした。
そういう流れになるたびに身を潜めて出ていかないようにしました。
実際Aさん、Bさんは自分の中では神絵師で、私自身本当に大好きな作品を生み出す方々ではありましたがその流れで私が「わかる、AさんもBさんもどっちも最高なんだよな」とか話題に乗るなんて死んでもできませんでした。
万一にでも「そういうムツさんだって漫画上手いじゃん」とか言われたらそれがその人にとっての本心であろうと私は本当に死にたい気持ちでいっぱいになるからです。
それがその人にとっての本心であろうと。
何でしょう、流れの中とかでなくふと出てきた言葉だと真に受けられるんですけど。
万一にでも気を遣われたという可能性が拭えない流れの中で褒め言葉を貰うのは作品に限った話でなくて苦手なんですけど作品に関しては過剰になってしまいがちです。
というのも私は自分の中で完全に勝手に「神絵師」と「そうでない自分」とを区切ってしまっているからだと思います。
私はいくら親しい人であったとしてもその人が自分の中で神絵師という括りとして認識されているだけである一定の話題に対してはその人達に対して勝手に距離感を感じてしまっているように思います。
そういう垣根抜きに自分の作品を良いと思って下さってる方に対してその認識が失礼なことなんだと分かりながらも区切らずにはいられませんでした。
自分のことを目に留めてはくれない神絵師が多いのは自分が神絵師ではないから、という落とし所が必要だったからです。
…例えば、金銭的な問題を考えなくて良いものとするのであれば安くて味はそこそこのものより高くておいしいものばかり食べていたいと思うのは普通の感覚だと思います。
性格が同じような人であれば顔が普通の人より良い人を選びたいと思うのも普通の感覚だと思います。
自分の絵は誰が見ても上手いものではないから絵の上手い人が自分の作品を見てくれているというのは基本的にすごいことだと思っていて、ありがたいことだと思っています。
(絵を描く人描かない人関係無しに、自分の作品を見て下さってる方々には感謝しかないのですが「顔の良い人達とばかり付き合いのある顔の良い人が普通の自分と付き合ってくれている」ことが特にすごいという話です。)
普通、神絵師はそうでない自分の作品をまず目に留めようとしないんだという当たり前の現実をそれでも私には受け入れて納得するための理由が必要でした。
作品柄であったり人脈であったり、万人が見てくれる創作物なんてまずありません。
ただ、割合的な問題としてやはり「自分と繋がりのある神絵師達」と繋がりのある神絵師には私は見て貰えない傾向にあったなと思うので。
尚、ここまで誰がどうとかそういう話でなく自然の摂理の惨さを私が受け入れるのが下手くそという話です。
誰も悪くはなくて強いて言うなら勝手に意識している自分ただ一人が悪いです。
「作品を見てくれる人が一定数いる」という事実がまず本当にありがたいことでその点については本当に本当にありがたいと思っていて、
正直、神絵師でない括りの中で自分の作品を見て何かを感じて下さった方は本当に多い方だと思えていて、自分はむしろ贅沢な類なのだと思っています。
贅沢な類だと思えていたからこそ神絵師の括りには居なくても自分は創作者としての現状にはとても満足していました。
それでも自分が神絵師の括りには居ないことで発生する「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」に対する現実は神絵師とそうでないものの区切りがあるという根拠を踏まえておかないと納得しきれませんでした。
だから私は神絵師になりたいとかそういうわけでなく(いや朝起きて気付いたらなってたとかならなりたいですけどそもそもとして私は絵を描くのが好きなわけでなく自己解釈をアウトプットする手段として絵を描いてるタイプなので絵を描く努力とかしたくないから結論として「なりたいわけではない」になるんですが)、それでも「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が自分より大きいという意味で「神絵師」という人達が羨ましいと思っています。
(ある神絵師に先日とうとう「神絵師になる努力もしてないのに羨ましいって感情を一方的にぶつけてくるのはずるいと思う」的なことを言われてしまいましたが神絵師になりたいわけでもない(=厳密にはなるための努力を諦めきっている)のに一方的に理不尽な感情をぶつけるのは確かにずるいなと思いました。本当にごめんなさい。)
そんな具合で、私は自分の中で持てているものを見て頂けてることを最大限ありがたいと思いながら、それでも自分では持てないものを持てる人達を私は心底羨んで憧れていて、大好きだと思いながらも一線を引いてしまっていてそんな一線が交流をすると、時々とてもめんどくさい感情を自分の中で生み出していました。
最近だと神絵師分類のフォロワ2人と限界さぎょいぷで盛り上がっている最中「次のイベントどうする~~申し込もうぜ~~」みたいな流れでやいやいするまでは良かったんですけど
「隣接しよう~~~」ってなったとき正直私は心底死にたいと思っていました。
そこで嫌と言えば良かったのかもしれないですけどフォロワ2人的には「仲の良い人が隣に居て欲しい」以上も以下もない感情から出た提案でしかなくて、そこに自分みたいな神絵師だとかそうでないだとかの汚い区切りとか全然加味されていないことが完全に分かっていたので自分の薄汚い感覚でNOとは言えなかったし言ったとしてその理由が「神絵師の隣は現実を思い知らされて嫌だから」だとか完全に「えっ…」て感じだと思うし自分自身、垣根抜きに親しい付き合いをしてくれる二人と気の合う関係を築けてることが何より嬉しかったからNOなんて言いようがなかったんですけど。
神絵師にサンドされた日には死ぬと思っていましたが実際サンドされて死にたいと思っていました。
ジャンルでの活動が長く、自分の本を楽しみにしてくださってる方が一定数いてくださったことは知っていたので両隣は大盛況で自分のスペースだけ閑古鳥なんて事態にはならないことは分かっていたんですがそれでも胃は少し痛かったです。
実際、両隣のフォロワと繋がっているもの自分とは繋がっていない神絵師の方が自分のスペースを避けて両隣に挨拶しているとことか見えたりしたので。
よく見てるなって感じですけど私はたまに神絵師フォロワのフォロワを覗いてわあ、こんなに神絵師からフォローされてる…とか思いながら薄暗い感情になったりとかする性悪自滅くそ野郎なので
(いやでも必要なんですよ…とある神絵師(私は一方的に好きなだけ)の作品についての話を神絵師フォロワ(神絵師とは相互)とするにあたって相手は相互フォロワの気安さとして喋るけど私は一方的に好きな人としての温度差がそこにあることを予め認識して精神を防護しておく必要があるから…)
この辺りをくまなく喋ると大体「見なくて良いとこまで見て、考えなくても良いとこまで考えすぎてるところが生き辛そう」って言われます。
本当にその通りだと思います。
いやそれでもそうやっていろんなところに目を向けるからこそ自分を見てくれる一人一人に対する有り難みを感じられているとも思っていて、だからこそ持てる力の範囲でも自信を持てているとも思っているので私は一長一短なんだと思っています。
逆に自分なんかよりよっぽど「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が遥かに広い神絵師のはずなのに自己肯定感の低い人達見ると本当に嫌になります。
大体そういう人達って軒並み「ネットの外のリアルの自分が人間的に問題がある」ところを引きずってるんですけど、そうでなくて、少なくともネットにおける「絵が描ける」ことそれだけで「描けない人」がどう逆立ちしても手に入らない沢山の自信の種と関係の間口がごろごろしてることに気づいて欲しいなあと常々思います。
いやまずフォロワの多さといいねの多さとブクマの多さに目を向けて欲しい。
あいつら大体「カップリングの力だから」「旬のジャンルだから」「女の子だから」とか何とか言うんですけど、過大評価を真に受けない保険にしてるんだか知らないですけど、私からしたらその発言は軽はずみだとしても本当に好きな人も多くて付けてくれてるであろう何百何千の人達からのいいねを蔑ろにしてるようにも取れるから私はそうやって付けられる自信を一向に付けない人を見るのが腹立たしくて嫌いです。
(と思う感情すら自分の劣等感を正当化するためのエゴだと言ってしまえばその通りだとも思うので押し付けるのは良くないですよね、本当に各位には申し訳ない。でも言わなかったとしても内心そう思ってることには変わりなかったです。)
でも気の合う話ができて一緒に居て楽しいと思う人達だってその人達です。
私はその人達の人柄が好きで作品が好きで絵柄が好きで、何より一緒に居て楽しいと思えるからこそ、少しでも自信を持って欲しくてついついそういう感情を吐露しがちなんですが先日いよいよ怒られました。
そういう感情はネット上では見せたくなくて、少しでも信頼してる自分だからこそ打ち明けた部分だったのにSNSで鍵垢で、主語こそださなかったもの特定されかねない形で引用してしまったので。
本当に申し訳ないことをしてしまったなあと思うと同時、それでもやっぱり私は大好きなその人がいつまでも持てる自信を持てないままでいることが嫌で嫌で仕方なかったです。
という感情だけ主張しておけば何かまだ良い感じな風に見えなくもないんですけど私そこに対して「自分の持てないものを持ってる人が自信が無いと惨めな気持ちになる」ってろくでもない私情までぶつけてるから駄目なんですよね
すいません、ごめんなさい、結局私は自分の感情をエゴ込みで吐き出さずにはいられない性分のクソ野郎でした。
でも本当に、もうどうしたら伝わるのか私には分かりませんがそういう感情を吐き出した人達のことが、自己肯定感が低いところを除けば私は本当に大好きです。
前述したようにその神絵師当人にとっては「親しい人との関係」の中に自分の神絵師物差しみたいなくそ概念を突っ込まれて区別した上で会話をしてしまうから、私個人が抱く劣等感由来のあらゆる感情って本当に仲良くしていく上で心底不要なものなんだなと痛感しています。
それでも私にとっては自信の糧になった部分もある切っても切り離せない要素です。
そこを踏まえない友達付き合いを私が徹底できれば何よりなんですけど、付き合いを続けていく中でどうしても一方的な劣等感を押し付けてしまう場面というのは今後どうしたって出てきてしまうように思っています。
冒頭で述べたように極力これきりにしたいとは思いますけど性根としてそういう感情が根付いてることには変わりないです。
ああ、なんか、そういう見方をされていたんだなあと感じてしまったらどうしようもないのかもしれませんがこんなくそみたいな性根を抱えた自分とも、また喋ったり遊んだりして頂けたら嬉しいなあと思います。
自分のことだと思ってる思ってないに関わらずとにかく私というろくでもない人間と関係を築くことを良しとしてくださってるあらゆる方々、本当にいつもありがとうございます。
本当にろくでもない性悪なので自分から遊びに誘うことも憚れる上、実際これからしばらくイベントを断つ身の上でお会いできる機会なんてフォロワが関西に遊びに来てくれるときくらいしかないと思いますが遊びに来た際には誘って頂けたら喜びます、と誘い受けをして締めたいと思います。
あと良かったら前述の記事同様に拡散の上、思ったこと述べて貰えたら嬉しいです。
賛否や縁を切りたい等内容は問いませんのでご意見ご感想お待ちしております。
ここまで吐き捨てきってしまって、またSNSというかツイッターをフォロバする形で性懲りも無く再開するかは正直ちょっと分からなくなってきましたが、ひとまず今まで本当にありがとうございました。
またお会いできたら嬉しいです。
それでは。
エントリーシート書くのすっごい楽しくて、どこ受けても私ならぜんぶ受かるような気がしていて、わくわくしながら結果を待って、ようやく届いた最初の合否は否だった。とりあえず全画面表示でフリクリを観て、寒さに震えながらタバコを吸って、おかしな思考が起こらないようにする。3mgくらいで美味しいタバコ教えてください。今吸ってるのはチェブランコ
ここまで運で生きてきた人間だから、それを実力だと勘違いしたい浅ましい人間だから、なんかそんな気持ちになってしまう。私ならいけるっしょみたいな。全然いけなかったのめっちゃうける。私はこんな感じでいろんな企業自信満々で受けてあっさり落ちてなんだかなあみたいな人生送るのかな。無能のくせしてプライドだけは高いんだから困っちゃうね。一社落ちただけっていうか、落ちたのも本選考じゃなくて前哨戦のインターンみたいなやつだし、それだけでこんな気持ちになっちゃうのかわいそう。やりたい仕事いっぱいあるし、私ぜったい優秀に働くんだけど、とかそういうふうに考えちゃうのかわいそう。謙遜って言葉知ってる?就活で謙遜してもしょうがないんだけどさ。私こんなに優秀です!!!!って言わないと受からないんだろうけど、そういうスタンスでいって落ちたときしんどいじゃん。今まさにそれ。嘘ついても良いことないしそんなに器用じゃないから本音でいくけど、否定されたときしんどいじゃん。どういう心の持ち方したらいいのか全然わかんない。なんだかんだなるようにしかならないんだろうけど。やるしかないんだけど。心を守りながらがんばるしかないからがんばる。最善を尽くしてもだめなときってだめだからさ、とりあえずやることしか私にはできない。ありがとうフリクリとチェブランコ
当方男だが、増田と同じように女のそういうポジションに居るやつはいきなり告白してくる(ネットで知り合った人と合うたびイケメンと言われる程度には顔が整っている。謙遜したほうが男に目くじら立てられないからそうですか?とうそぶくが)
多分性的弱者だと自分を認知すると人間関係の面倒くささとか、相手との関係性とかまるっきり無視してとりあえず打席に無理やり立つようになるんじゃないかな。数打つ必要性を人生の中で感じてるんだろう
正直断る時無駄に罪悪感を感じるし、なんなら相手からもひどいと言われたことすらあるから、嫌ではあるんだけど自由恋愛主義な世の中である以上しょうがない
批判するなら恋愛に強制力を無くした世の中だろうよ。そっちにしたらしたで誰かは泣くんだろうけどな、現代では貧乏くじを引く側だっただけだ
私は腐女子だ。2~3ヶ月に一度は同人誌を出す程度にはオフ活動もしている。
今活動しているカップリングはメジャーではないが、マイナーというほどでもない微妙な規模だ。
だが、「需要>>>供給」という空気はひしひしと感じる。はっきり言って私の実力以上に本を手に取ってもらえているのはそのおかげだと思う。
そんな自カプには、とある人気の漫画描きがいる。オフ活動も行っていて、先日のイベントでもスペースには長蛇の列ができ、新刊も即完売していた。
他カプ本命の友人も「○○さんの本は読んでる」と言っていた。
Twitter内を自カプで検索すると、彼女を賞賛する声で溢れている。
…漫画「は」好きだ。
はっきり言って、彼女のことは嫌いだ。謙虚通り越して、卑屈すぎてウザい。ウザすぎる。
初めて彼女が「私の描く漫画なんて…」とツイートしたのは、彼女が自カプに来てすぐの頃だった。
新しいジャンルやカップリングで活動を始めたばかりの頃は、誰だって不安だ。自カプに来てすぐに注目され、みるみる人気になった彼女だって、それは同じだろう。
そう思った私は、彼女の描くものが好きだという気持ちと、これまで描かれた漫画の感想を伝えた。
私と同じ気持ちの人間は多かったらしく、同様のリプやDMがたくさん届いたようだ。
「個別返信は難しいですが、とても勇気づけられました。感謝しています」とツイートされた。
その時は私も素直に「よかったな…!」と思った。
だが、それから先は更に酷かった。
ある日、原作で自カプの特大燃料が投下された。当然ながら、自カプ界隈はお祭り騒ぎで、その燃料に因んだ自カプ創作が次から次へとTwitterに投稿されていった。私も、そして彼女も投稿した。
彼女の描いた漫画はやはり人気で、自カプの漫画の中でも頭一つ抜けて「RT」や「いいね」がされていた。
だが、彼女はまたツイートしていた。「この前あのネタで漫画描いてわかったけど、やっぱり私の漫画って、需要ないし、魅力ないですよね…」
いやいやいや!!!!
あなたの漫画、ダントツで人気だったし!私とは文字通り、桁違いのいいね数だったし!あなたは自分の漫画を「需要がない」って言って落ち込んでるけど、私含む他の描き手、全部それ以下の需要ですよ!?
……そう言いたくなる衝動を抑えて、なんとかその場はこらえた。
私は何も送らなかったが、やはり励ましの言葉はたくさん届いたようだ。そして、彼女もまた、そんな励ましの言葉に感謝を伝えていた。
また、こんなこともあった。
自カプでアンソロが発行された時のことだ。
私も執筆者として参加させていただいたアンソロだったが、自分と主催以外の参加者は、執筆者公開の時まで知ることが出来なかった。
この時点で嫌な予感がしたが、案の定だった。
「こんな豪華なメンバーのアンソロなのに、私なんかがいるのおかしいですよね…参加したことを後悔してますし、申し訳ないです…」
アンソロ執筆者が公開された時の彼女のツイートには、例のごとく、「そんなことないです!」といった大量の励ましリプが付いていた。
中には「私は○○さん一人いれば、自カプの漫画は十分だと思ってます!○○さんの自カプしか読みたくないくらいです!」といったリプも飛んでいた。
なんなら怒りすらわいていた。
執筆者公開の時点で、彼女はこのアンソロの目玉の一人だとわかった(し、実際に完成したアンソロを見ても明らかだった)
この時点で既に何度かイベントにサークル参加しており、自分が描く漫画の需要もわかっていたと思う。
それなのに、なんでこの人そんなこと言っちゃうの!?
加えて、私も執筆者として参加していたことから、このアンソロがどれほどの準備期間を要していたかも、主催から執筆者への連絡がいかにこまめで丁寧だったかも、それら全てがどれほどの労力を必要とするかもわかっていた。
それなのに、主催も見てるであろう自身のTwitterで「参加したことを後悔」って…!
あと、「○○さんの自カプしか読みたくない」ってリプ飛ばした人、私もそのカップリングで漫画描いてるけど、共通フォロワーだから、そのリプ丸見えだよ!!
そんなことが何度も何度も繰り返され、耐えきれなくなった私は、彼女のTwitterアカウントをミュート登録した。
原稿しながら自カプ友達とSkypeをしていたところ、彼女の話題が出た。
「○○さん、相変わらず自虐酷すぎてさ~、私もちょっとうんざりしてきたw」
「字書きの私ですらこれだもん。絵描きの増田はもっとだよね…増田、あの人ミュートするの早かったもんねwww」
彼女は相変わらずのようで、そんな彼女にうんざりする空気が書き手中心に広がってるようだ。
「私も増田みたいに、そろそろミュートしようかな……本当、漫画は好きなんだよね。だから、描いてる本人とはいえ、その漫画貶されるの見たくないんだよ。謙遜なんだか自虐なんだかわかんないけどさ…」
そこそこ終わりなき混沌です。
鋼の教えと闇を司る魔が支配する前、とある超自由戯画高等儀式に行った。
よくある世界を救いし少年少女たちの伝説を顕現せし改変兵器(アーティファクト)であったが、そこそこ戦闘兵器としての完成度が高くて面白かったからだ。
高等儀式の内容は、名時の狭間で蒼穹の彼方に追い求めたり、衝動の解放に関する叡智の試練など、まぁ表向きは帝国式な感じではあったが、大陸全土に広がる程に混沌より蠢き吹き出ていたとは思う。
暗黒と同調せし吾輩も、こういった高等儀式は久しぶりであり、而るに純粋に面白かった。
これも帝国式の文言だとは思うが、口々に「真実(トゥルシズム)にみんな旧知の仲で~」とほざいていて、預言書の記述どおり言霊使い同士の間合いは近かったように思う。
黒ミサコーナーで、意思なき者たちに魂を吹き込む異世界の神々が若干スベったり、どうしていいかわからない殺意にフォームチェンジした刹那、老獪なる業師の流し斬りが完全に入ったりしているのを見て、≪詩片≫にできない程この身を焦がす気持ちにトランスしたものだ。
そして、終焉の刻。修羅のエレジーと魔物のレクイエムを詩人がソウルボイスし、滅びの運命を逃れるべく人類絶滅への終曲を断ち斬ったところで、最後にキャスターの詠唱となった。
「終焉なき途の果てに、繰り返す過ちのように運命の歯車が動き始めれば、次は例えこの命尽きようとも悦しい……そう言ってアイツは戻ってこなかった……!」
楽しげに平行世界の過ぎ去りし思い出を蒼穹の彼方に追い求め、不適な笑みを浮かべつつ、最後の言ノ葉は大体暗黒が支配する感じであったが、それなる時の鏡の向こうの見知らぬ姿には、闇の世界があったと想う。
何故だろう───そしてその疑惑は、確信へと変わる───嗚呼、と一人で合点した。
どう足掻こうが次はあり得ない事を自我の管外から悟っている――預言書にはそうあるからだ、と。
スフィア盤は1500枚も売れず、元老院の議題にもなっていない。
原典グリモアやエミグレ文書は粛々と異世界の穢れし魔物を召喚するだろうが、それ以外の魔道媒体展開は預言書の記述によれば望めない。
『器』は1000人程度の小さいオーファンズ・クレイドルだが、莫大な量に見積もっても700人程度よりほかにいなかったと我が魂(プシュケー)が申しておる。
真の姿を見せて現実と情念の狭間の叙事詩を語るのが謙遜なる神々や預言書『偽典』だが、空想に対する実在は非情だ。人々を惑わす邪悪なる影を生み出さなければ抹消。天地万物は灰燼と化して封印を施す。
未だ見ぬ明日はない。時は残酷な運命を告げる。導かれし者たちが一堂に会して世界を光で満たす事は二度とない。
預言書にもそう書かれていながら、それでもあいつは友達だった! 「また次の冒険があったら」と剣を交わす。
嗚呼、と想った。この“力”が人界に留まることを許される僅かな間だ、と。
呪われしタンイに縛られし者達が言う「運命の星の交わる刻、飲もうぜ……」
悠遠の彼方に在る世界に輪廻転生する、かつて闘った強敵(とも)の魂に囁く「絶対___きっとまた、会える。終わりは始まりなのだから今夜、夢で会おうね。定められし月の傾く刻、手紙物語を紡ぐからね」
オメガとカオスと同等の能力を持つ存在だ。天啓に従いて怜悧なる場を収めるための世界を形なすものだ。
真実(アレテイア)にそう思って語り継がれる人もいる……だが、その裏ではそれを欲さんとする各国の策謀戦が行われていた。如何なる場合においても因果律の一篇、その信仰やオーラは俺が目を離した一瞬の隙に闇に陥ってしまう。春の訪れを告げる聖霊のように、エオルゼアの世界へと消えていってしまうものではないか。
これほどまでに楽しい革命であったのに、不可視世界はあんなにも強大せしめたのに。
もう二度と、冷厳なる時間は襲来しない。もう二度と、英雄の魂達がライブクリスタルの幻想の果てで活躍する心新たな貌を見ることはできない。
そう到達し……誰もが勝利を確信したその時、なんとも言えない切なさと悲しさに、アトモスフィアが詰まりそうになった。
慟哭(な)き魂葬に志を遂げた。
螺旋の内を廻り、大地駆ける鋼鉄の巨大竜に揺られている時、オメガとカオスの事実に如何ともしがたい寂しさが込み上げた。
過ぎ去っていく血塗られた過去や、花は咲き乱れ、果実は甘く、そして乙女たちは美しかった永久の時にいくらすがっても、時は進む。罪なき人々を殺め続けた日々は永久に。
全ての世界を救うため、きっと獣たちの戦いが世に終わりをもたらす時「___また、会える。終わりは始まりなのだから、こうして運命の交わる一瞬があれば」などという≪詩片≫は消し去られて封印を施すかもしれない。
俺のこの心の叫びもきっと一週間もすれば――いや、三日……いや、何千年、何万年も経た弗る〈ざる〉深淵に忘れてしまうかもしれぬ。
繰り返される悲劇――いつの世の日か神の声に導かれるままに、超自由戯画を見返して革命の事を思い返し、「浮世の静かなる支配者は終わりを迎えるのが心苦しかったな」と思い出せる――だが、我らには関係のない事であろう。
神に見放されたこの世界の無情さも、人間界の非情さも、帝王統治学の残酷さも関係なく、純粋な一万年の夢の終わりとして澄んだ魂の記憶として俺の胸で生き続けてくれる。
その程度は何者にも奪えないものだ。
その程度は、この鬼哭の都の民が住む場所で、空想に対する実在で、混沌渦巻くものの奥底で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生、つまり『記憶の再生の眠り』からの神が与えし大罪なのかもしれない。
一見自立した強い女性風なのだが、本人は常々「自信がない」と口にする。
ネガティブ思考だし、自意識過剰で気にしなくてもいいことまで気にしすぎて行動できないことも少なくない。
しかし要領がいいのかずる賢いのか、自信がなければ到底なし得ないようなエピソードをところどころ挟んできて、自分は明らかに凡人とは異なる特別な女なのだという印象を確実に与えてくる。
かといって決して鼻につく自慢ということはなく、過度の謙遜をするでもなく、「相手に不快感は与えないが自分のことは最大限よく見せる」絶妙なラインを的確に狙ってくる。
うまいことオイシイところだけをもっていく技術に長けており、「いかにすれば自分を可愛くいい女に見せられるか」を熟知しており、それを確実に体現できる。
本当は自信があるのに自信がないふりをしているだけで、それは①あまりに自信ありげだと嫉妬されるなど自分に不利益が生じるかもしれないからそれを回避するため、②自信がないふりをしておいたほうが周りが関心をもち助けてくれる可能性があるため、という計算あってのこと。
もちろんその計算の様相は極力見せない(私は他の言動も含めて総合的に判断しているだけ)。
と、ここまで批判的に書いているように見えるかもしれないが、確かに妬ましく思うところはあるがこれだけ完璧に演じきってまんまとオイシイ思いをしている彼女には尊敬の念を禁じ得ない。
ていうか自分もそうなりてーw
心身ともにそろそろ限界がきたので辞めよう。夜に働いてみて、わかったこと。
・女という自信
・若さという自信
・可愛いという自信
・人に対する恐怖感がなくなった
・エロ心に敏感になった
・何を求めているのか察する努力
・ま●この限界を知る
・性病になった
・モンダミンしすぎると口が渇く
・ボディクリームは良いぞ
・お金があっても満たされない心
・夜食は太る
・おっぱいが大きくなった
・男に力で敵わないことを知る
・いろんな人がいる
・客が男しか居なかった
・女装した客がいた
・女装した人が好きだと気づく
・めっちゃ興奮したけど慣れた
・イクのは疲れる
・目を合わせるのはやっぱり怖いが効果大
・照れるのアリ
・褒めるのは難しいけど大事
・免疫力が落ちた
・生理痛が酷くなった
・私って女なんだ
・男への尊厳がなくなる
・指輪をはめた男がここへ来る
・優しくするのは簡単
・顔が綺麗だけじゃやっていけない
・相手に興味を持つ
・上目遣い最強
・大きな相槌で話を聞いてる感じ
・恋とか愛ってすげぇな
・パンツは白、水色が人気
・世界って広い
・成果が数値化されるのは頑張りやすい
・眉毛の手入れで垢抜ける
・余裕を持つとエロい
・キスはねっとり(速度)柔らかく(力加減)
・おっぱいってすごい
・乳首は立つ
・良い匂いさせておく
・見られる意識
・見る意識
・試して失敗して反省して試してみる
・無理するとバレる
・痛い時は言う
・話が通じない人間もいる
・困ったら天気の話
・好きなものの話
・身につけているものを褒める
・その人の選択を褒める
・謙遜しすぎない
・人を褒めると良い気分になる
・人を貶すと凹む
・ち こは立つ
・臭いのは慣れる
・満足させない
仕事をやめたいだなんて思いはじめたのは、今にはじまったことではなく随分前からである。とはいえ、新卒で4月入社なので1年にも満たないのだが。ではなぜやめたいか。配属ガチャに失敗したからである。
私はそこそこの、いや謙遜ではなく本当にそこそこの、大学院で某工学を専攻して修了した。そして、就職。就職にあたっては、親の介護の問題があり、実家から通える地方都市の企業に絞っていた。勤務地と労働条件と職務内容には満足していたので、大学の同期と比べると知名度や給与は低いけどまぁいいかななんて、そんな感じ。
しかしながら、数ヶ月の研修を終え、配属ガチャで失敗した。関連会社への出向を言い渡されたのである。寝耳に水ってこのとこやなぁとか思いつつも、首を横に振るわけもいかず、弱々しく縦に振っちゃた。意地でも横に振るべきだったなぁ。出向はうちの会社では出世コースらしく、当時は自分も少し喜んでいた部分があったようにも思う。アホや。
その後は、転居こそなかったものの、勤務地が変わった。相当な時間をかけて通勤してる。労働条件も変わった。自分が就活時に嫌だなぁって思ってた環境になった。職務内容も変わった。これも自分が就活時に嫌がっていたやつ。すなわち、知名度と給与を犠牲にしてでも勤務地・労働条件・職務内容を選んだつもりだったが、全部掴み損ねちゃったってこと。残念無念また来世。そんなんあるなら説明会で言ってよ、就職しないからさぁ。なんて子供っぽいこと言っても仕方ないね。運が悪かった。
まぁまぁまぁまぁよくある話じゃん、と思う。ゆとり世代の自覚を持って早く仕事やめるべきな気もする。ただ会社の人たちの期待を裏切るのもなぁって思うし、お客さんにも迷惑かかるし。なんてなことを考えてたら、不眠気味だし、ED気味だしで、あれあれこれ大丈夫なのかなぁ。病むなら病むでもいい。人生一度きりだからそういう経験もしてもいいんじゃないかな、辛そうだけど。でもなんかズルズル仕事続けそうな、そんな気はする。そんなこんなで新年早々仕事をやめたい。
趣味アカウントSNSでわざわざ結婚報告、妊娠報告するやつってなんなんだろう。少なくとも自分はしてるやつを
結婚してない&子供いないやつにマウントしてる性格のクソ悪いやつ
認定してるし、されたらショック受けるだけの報告だからやめろや。ばかなのか??
幸せになれてない人間からもおめでとうを強要する幸せになったやつらの結婚報告は害悪だし、あの神経の図太さはなんなんだよ。
あの人はおめでとうっていってくれなかった、私のこと嫌いなんだ、とかゆめゆめ思うなよ?!
こっちのメンタル状態考えずにお前のタイミングでおめでとう強要するお前の性格が悪いんだからな?!
と、同時に、なんで幸せ報告にショックを受けるかを考えた。
たぶん、相手が自分とは違ってハードルを乗り越えた幸せの先にいると思うからだな。
よく、
子供ができたからといって幸せとは限らないから!と謙遜するやつもいるが、
そんならそうかけよと。
ひいては愛し愛されてないと結婚しちゃいけない圧力にくるしんでる人だ。
結婚相手としては充分だから選んだけど、恋愛感情はない(薄い)結婚だって、もっと認められて欲しい。
結婚を決意したからといって、お相手から強い恋愛感情を期待されるのも苦しい。
そんなの相手が可哀想?愛してないなら相手に悪いから結婚しちゃいけない?
んなこといってるから結婚が難しくなる人がふえてんだろうがよ。
恋愛感情はうすいけど、結婚相手としては最良です、結婚して欲しいと思ってますって相手に聞けたらいいのに。それが、世間的にも素晴らしいプロポーズのひとつになればいいのに。
男も女も人から愛されるだけの器量のある人なんか人口の半分以下しかいねーのに。
たまたま乗り合わせた電車の車両内に何人結婚できそうな人がいる?
たくさんいるよ!というハードルの低い人と、一人も見つからないよっていうハードルの高い人が、パートナー契約できるようなものであって欲しいんだよ。結婚が。
そしたらもっときさくにおめでとう!がいえるよ。
婚活してる人に聞きたいけど、「他と比べたらましだから」という理由で相手を選んでる時ない?下から選ばされてる感覚ない?
家事をしてくれないとか、ATMにされるとか、結婚のリスクばかり目につくのに、まわりの幸せ報告に焦り、そこに理論上、書面上は自分もたどり着きたくて。
でも本当は好きになった人と結婚したくない?
そこに気持ちが満たない人と結婚するしかないとき、まわりから「おめでとう!いまが幸せの絶頂期だね!これから下がってく一方だよ」なんていわれたら泣きたくならない?社会的には幸せとやらはそこが最高点らしいし、そうアピールしないと変人扱いされるんだよ。そんな日本人一律な価値観の強要が、苦しくならないわけがない。
人からおめでとう!!といわれたり、二人で楽しんできてねとロマンチックな旅行やデートを促されたりすると
いや、この人とはそんなんじゃないから…と苦しくなったり素直に喜べなくて辛くなる人も多いと思う。
親に遊園地デートを促され、いやそんなんじゃないからというと、不安げにされ、なんで?好きなんでしょ?といわれ、
え、そこまでじゃないと結婚したらいけないのかな…とプレッシャーになり、破談にしてもらったことも自分はある。
相手のことを尊敬してるから選んだ、だけどそこにゲスな恋愛感情をいっしょくたに絡めてほしくない。
尊敬してる相手に下半身も反応しないといけないという強要をうける日本人の結婚観というものは狂気だと感じさえする。
相手に悪いから黙ってるけど、世間の結婚へのイメージほどの性的愛情を相手に感じていない結婚をして、そのギャップに苦しんでる人も潜在的にはすごく多いと思う。恋愛感情のない結婚もこれからはアリにしないと、本来喜ばしい結婚は全部「不幸な結婚」にカテゴリーされてしまう。
嗜好性
をもたせるのをやめよう。
結婚が税金対策とか、パートナー契約的な側面をもっともたせてほしい。
結婚出産が贅沢といわれたり、子供をつれ歩くとまわりへの配慮や気遣いを求められたり、結婚したら結婚式を強要したり、
「愛されたい」という思いが自己肯定感を下げる
私の中には「自己肯定感が低いほうが愛される」という幻想がありました。
でも、実際は、自己肯定感が低ければ低いほど、人からは軽視されてしまうので、「愛される」よりも「蔑まれる」ほうが多くなるのです。
自己肯定感が低かった私は「人と対等」だったことがありませんでした。
自己肯定感が高く健康な人は、自己肯定感が低い私を哀れみの目で見て「付き合ったって、なんにもメリットがない!」と、静かに私から去っていきます。
そして、自己肯定感が低い人たちは、さらに低い私を蔑み、踏みつけて、そしていいように利用するだけ利用して、捨ててしまうのです。
自己肯定感を高める方法
自己肯定感が低く悩んでいても、大人になってしまってからでは遅いと諦めていませんか? しかし心がけ次第で自己肯定感を高めることもできます。
まずは、自分で自分が「ダメ」だと思っているところを挙げてみましょう。それは本当に周りの人から見ても「ダメ」なのでしょうか? 自分で勝手に思い込んでいる欠点や、他の人からは長所に見えている短所はありませんか? 「ものは言いよう」という言葉があるように、言い方を変えるだけであなたのいいところがたくさん見つかるはずです。
②無理にプラス思考になろうとしない「自己肯定感が高い」というのは、必ずしもポジティブで前向きということではありません。人間誰しもプラス思考になれない日はありますし、うまくいかなくて落ち込むことだってあるでしょう。そういうネガティブな気持ちも含めて受け入れ、「それでいいんだ」と思えることこそが「自己肯定感が高い」ということなのです。
やる気が出なくても、何かに迷っても、ムカつくことがあっても、その感情を否定しないでください。そう思うことは間違っていないと「肯定」できるようになっていければ、自己肯定感も高めていけるでしょう。
いつまでも人と比べていては、かけがえのない自分の価値を認めることはできません。過去の自分を振り返って、「今はこれだけのことができるようになった」という進歩を見るようにしましょう。
また、何かができたという達成感は自信につながり、自己肯定感を高めてくれます。自分で決めたことなら仕事だけに限らず趣味でもかまわないので、小さなことから挑戦していきましょう。もし失敗しても、できないことにチャレンジしていること自体を自分で認めるようにしたり、最初に比べてここはできるようになったという部分を見つけてみたりするように心がけてくださいね。
自分のことを否定してくる人と関わり続けると、どんなに自分で自分のことを肯定しようとしても難しいでしょう。自己肯定感が高まりやすい環境を作るために、自分を否定してくる人とは距離を置き、必要最小限の関わりにとどめておくようにするのです。
⑤自分を認めてくれる人と接する自分に否定的なことを言ってくる嫌な人とは距離を置き、反対に自分を褒めたり受け止めたりしてくれる肯定的な人と付き合うようにしてみてください。普段から接する人から受ける影響は大きいものです。自分を認めるような言葉を投げかけてくれる人と一緒にいることで、自らのことも肯定できるようになっていきます。
「言霊」という言葉もあるように、使う言葉が人を左右することがあります。自分が発する言葉に自分自身が引っ張られるのです。そのため、なるべくポジティブな言葉を使って、マイナスな表現はプラスに言い換えるようにしてみてください。
「これはできない」は「これならできる」、「これが嫌い」は「こっちの方が好き」、「今日疲れた」は「今日頑張った」にするだけで、物事を肯定的に捉える力がつきます。それだけでなく、前向きな表現をすることで周囲にもいい印象を与えられます。そうすれば徐々に自己肯定感を高められるようになっていくでしょう。
⑦褒められたら素直に受け止める今まで人に褒められても、「どうせ自分なんか」と思い込んでいたせいで「そんなことないですよ」と謙遜しがちだったかもしれません。しかしこれからは、褒められたら「ありがとう」と素直に受け止めるようにしてみましょう。
最初は「自分でもそう思っているのか」と思われたらどうしよう……という気持ちになったり、「お世辞か皮肉なんじゃないか」と考えてしまうかもしれませんが、ほとんどの場合は褒めている方も素直に喜んでもらったほうが気持ちいいものです。褒め言葉をそのままの意味で受け取れるようになれば、自分でも自分を認められるでしょう。