はてなキーワード: 謙遜とは
心配したり、発言者に腹を立てたりしないでも、「本当は手放しで褒めたい」けれど、
身内を我がことのように褒めるのは、今の時代でもちょっと気恥ずかしい。
むしろ発言者は、増田さんの事を、誇らしいと思っているのでは。
▼以下は余談です。
プレゼントでも「ほんの気持ちです」「つまらない物ですが」「お口汚しですが(お口にあいますかしら)」、など。
ひたすら「謙遜」するという日本人独自の性質。謙虚であれというのがとかく麗しいとされてて。
海外の方に、「つまらないものですがどうぞ」なんて言うと「つまんないものをくれるの?失礼な!」ってなるらしい。
海外でも知れ渡ってて「++語が上手いですね」と褒められたとき「私なんてまだまだ下手ですよ!」と反応すると
「やっぱり日本人は謙遜するんだ!」「謙遜した!」大うけしたというWeb漫画を先週くらいに読んだので、思い出してしまいました。
それを踏えて。
身内をわざと下げて表現するのは、今でもおおいにあるように思います。
たぶん年長者さんに多い印象です。
42歳11ヵ月、東京在住、既婚、子なし、年収950万、そんな俺の戯れ言。
地方に帰省するたびに、誰々に孫ができたという報告を耳にする。
晩婚化な昨今でも結婚しても当たり前になっている年齢とはいえ、40代で孫ってなんだよ?いや物理的にはありうるけどさ、そんな話を聞くと別次元の事に感じてしまう。
「盛りのついた猿が産み散らかした子供が、親同様に好き放題産み散らかしてる」それくらい別次元で、自分とは無縁の感覚。
別段、それを咎める訳では無いけど、こいつら人生計画あるのか?計画的な俺ならストレスになるだろう。
子供産まなきゃという焦りでは無く、「あいつヤりたい放題やって、少子化対策に貢献して…凄いな…。それでオラついたミニバン乗り回してるのかよ。自分には無理だ…」という呆れを通り越して、おかしな劣等感を抱いてしまうほど。いや、劣等感なんてないんだけどさ。
そして友人から「30〜40歳過ぎて子供がいない。いても小学校行ってない。しかも車も持っていないのは、こちらでは今だにおかしいと思われる。」という言葉を聞く。
これも、子供がいない事に焦りを覚えるわけでは無く、「40過ぎて、DINKSで、過剰な仕事あってこそ優雅な暮らし」を謳歌している自分が地元に住んだら、自分が望んでいない将来を想像され、出来ない自分に低評価が下される世界が恐ろしくて仕方が無い。
地方住民の曲解というか思い込みなのか、年々恐ろしくなっている事の一つ。
あとは仕事の話。
何事も無かったように就職してドラッグストアの店員とかで、仕事に必死にしがみつくことなく年収300万の正社員で安住している地元の人間。
終身雇用制度が崩壊しつつあることに備えて、しっかりスキルアップして、転職を繰り返す度に年収アップして、自分の稼ぐ力をつけてきた俺からしたら、ぬるま湯な地方とは何なのか意味がわからなくなる。
地元でそこそこの学校出て、地元でそこそこの仕事をして、地元で子育てしていく中流家庭とか遠い昔の話なのだと再確認。
親に対しても「金がない」と口にしていたら、冗談だと思っていた様子。いや、冗談だが。
400万くらい稼いでいるのに、謙遜して言っているとか思い込んでいた感じかなあれは。
「あちこち仕事を転々としてるようだけど幾ら稼いでいるんだ?」と聞かれたから、「もうすぐ年収1000万くらいだよ」って返した。
両親とも驚いていた。「お前どうやってそんな金額稼いでいるんだ!?闇営業でもやってるのか?」みたいな感覚で接された。
自分の中では「あ〜あ、やっぱりこういう感覚なのか」と周囲との温度差を痛感する。
だからこそ、安堵というか自分も低所得者になったつもりで、激しく同意するような意見を書き込んだりしていた。
けれど、現実でその話をすると、あからさまに自分が異端であると気付かされてしまう。ネットに入り浸って低所得者になりきるなんて時間の無駄だと。
いや、単に自分が暇すぎるだけ…?
嫌なことから脱却すべく行動して努力してきた結果だし、望んで自己を優先してきた結果だけど、生活環境自体を、楽しんでしまっている自分。
その癖、後ろめたさではないが、地元の連中これでいいのかよと勝手に鼻で笑う。
そう思い東京に住んでいると、他者の中で薄まる存在感があるからか、やっぱりナンバーワンになり、もっともっと特別なオンリーワンにならなければと思える。
29歳11ヵ月、東京在住、年収200万、そんな低所得者の戯れ言。
結婚しても当たり前になっている年齢のハズなのに、そんな話を聞くと別次元の事に感じてしまう。
「宇宙飛行士が宇宙に行った」それくらい別次元で、自分とは無縁の感覚。
別段、それを周囲に咎められている訳では無いけど、曲解してストレスになっている。
結婚しなきゃという焦りでは無く、「あの人も宇宙に行ったんだ…凄いな…自分には無理だ…」という自身のおかしな劣等感を抱いている。
そして友人から「30〜40歳過ぎて結婚出来ていないのは、こちらでは今だにおかしいと思われる。」という言葉を聞く。
これも、結婚していない事に焦りを覚えるわけでは無く、「30〜40過ぎても、宇宙に行けない、行きたくない」と思っている自分が地元に住んだら、自分が望んでいない将来を想像され、出来ない自分に低評価が下される世界が恐ろしくて仕方が無い。
自身の曲解というか思い込みなのか、年々恐ろしくなっている事の一つ。
あとは仕事の話。
何事も無く就職して、必死に正社員を目指しながらバイトしている自分を軽々と超えて稼ぐ地元の人間。
自分の稼ぐ力の無さを痛感するのと同時に、都会とは何なのか意味がわからなくなる。
親に対しても「金がない」と口にしていたら、冗談だと思っていた様子。
400万くらい稼いでいるのに、謙遜して言っているとか思い込んでいた感じかなあれは。
「幾ら稼いでいるんだ?」と聞かれたから、「年収200万くらいだよ」って返した。
両親とも驚いていた。「本当にそんな金額で生きているのか!?」みたいな感覚で接された。
自分の中では「あ〜あ、やっぱりこういう感覚なのか」と周囲との温度差を痛感する。
だからこそ、安堵というか同じ人は居るんだなとか、勝手に思っていた。
けれど、現実でその話をすると、あからさまに自分が異端であると気付かされてしまう。
嫌なら行動すれば良いし、望むなら自己を優先すれば良いのだろうけど。
その癖、後ろめたさを感じて、これでいいのかと勝手に葛藤を抱える。
そう思い東京に住んでいると、他者の中で薄まる存在感があるからか、多少気楽になれる。それがマズいのか。
女性に対して疑ってみてる感じが常にあって
(馬鹿にされるとか高圧的とかではないんだけど)
本当に自分のこと好きなのかな?とか
会話に出てきた話を次回見てきてくれたかな?とか
デートの場所や食事ははどこに連れて行っても喜んでくれるのかな?とか
毎回試験受けてる空気みたいなのがあってが面倒で別れてしまった。
別れを提案すると「あなたもクリアできませんでしたか」みたいなことを言われる。
自分も非モテで男性経験ないけどあんなに試すようなもんなのかなー。
男性で婚活してる人も非モテの女性と付き合ったときになんか試されるもの?
ちょっと前に書いたのが今こんなにブコメもトラバも貰えるとは思ってなくてびっくりしたよ。
ちょっと言葉大きすぎとか、上から目線では・・・っていうコメに説明不足だったなと思って。
非モテっていうのは、自分で「あんまりモテなくて」って言ってた人について言ってる。
私も自分を称して「あんまりモテなくて」って会話したことはあるよ。
本当にせよ謙遜だったとしても「モテなくて」には「モテそうにないですね」とは返さないし、
「そんな風に見えない」っていうよね。
女も試し行動するよってコメみて、やっぱりそうなんだなって思った。
友達間での試し行動とはまた違うのかなと思ってみたけど、男→女も女→男も変わらないんだね。
わがまま言ってみてるっていうより、嫌われるために保険をつくってる気がしたよ。
これをされて相手が傷つくんじゃないかなとは思わないのかな・・・
本人も非モテって言ってるくらいだし、不安に思って人を試すようなことをしてしまうって
心理は理解できないわけでもないけど、この試し行動を頻繁にされてしまうと、
付き合う前からする人もいれば、付き合ってからもする人もいて終わりが見えなかったんだ。
これが結婚してからも続くんだろうか、この人の不安や疑惑が解消されることはあるのだろうか、
何度伝えてもわかってもらえないんだろうか、本当は嫌われていて別れたいんじゃないのか、
私が察するのを待っているんじゃないのか、とか思ってしまったよ。
タイトルそのまま。
ガチガチのオタクの癖に無駄にコミュニケーション能力あって、でもなんだか距離感気持ち悪くてハキハキしゃべれて意外としたたかに自分のポジションを確立できてる器用さが、妬ましくて嫌い。
オタクなんで〜wwめちゃくちゃネガティブで自信なくて〜ww私なんかゴミです〜ww
ってオタク特有のそこまでいう?ってほどの謙遜は『そんなことないよ』の言われ待ちと保険だ。〇〇さんは、ほんと謙虚だよねって同僚は言うけど違う。そう言われないように防御の姿勢で言ってるだけ。本音はめちゃくちゃプライド高いタイプ。
友達いないって言いながらネットの友達は沢山いて、しょっちゅうオフ会やってるみたい(本人の話参考)。自分に自信なかったらそんなんできんだろと思うんだけどなぁ。
基本的に二枚舌だから、一緒にいる人の発言でコロコロ自分の主張変えるから信用できないなぁと思うけど、みんなに好かれてる感じがするのが不思議でたまらない。
なんで分かんないの?あれ絶対みんなにぺこぺこしながら、twitterとかで悪口言いまくってるタイプじゃん。みんなと話してないときの陰鬱そうな顔見てたら分かるじゃん。
今の職場みんな優しいからかもしんないけど、朝からアニソンとか自分趣味全開の音楽流されると本当頭くる。押し付け、ほんと良くない。
容姿は化粧してないし、ほぼ球体に近い見苦しい太りようなのに、一丁前に耳に安っぽいピアスぶら下げて、プチプラ服をしょっちゅう買って流行に乗ってる感出してるのも、腹立たしい。まず痩せろよと。
でも男にナンパ?的な感じで声掛けられることはちょくちょくあるらしい。本人曰く。ちょっと嬉しそうに話すけど男にも選ぶ権利があるし、そういう声掛けされること自体軽んじられてるって気づかない?普通の女の人、そういう話自分からはしないよ。てかなんで虚言癖系多いの?オタクって。自分の容姿鏡で見た?
その自信はどこから湧いてくるの??
「素敵!最高!こんな素敵な○○があるなら私なんか書かない方がいい……」
褒めてるつもりなのだろうか。気分が悪くなるから一生言わないで欲しい。
私は同人歴の短い腐女子。群れとか大手とかが大変苦手なので、ほぼ壁打ちで生きてきた。
新しい沼はマイナーではあるが沼内が非常に活発。ファン同士の交流も熱めで(若干苦手意識はあるものの)とても楽しい。
私は大手でもなんでもない、ちょっと何か作るだけの人間だ。上記の台詞を言われるような立場でもない。
人の作品をさして「これがあるから私はかかない」は失礼だと思う。
褒めてるつもりだろうし、謙遜のつもりだろうし、本気でもないのだろうけど、だからといって不快なものは不快だ。
そもそも過度の謙遜はされた方も迷惑だ。もちろん過度の持ち上げも。
理路整然とは書けないけど、なんというか、内輪の持ち上げとか謙遜バトルとか本当にやめたい。好きなものは好き、作ったものは作ったものとして責任を持つ、さすが神!私なんかとはくらべものにならない!みたいな脳死の褒め方をしたくない。本当に見てるのが嫌になる。
ジャンルがせまいので切るにも言うにも大変でつらい。
転生なのに3歳くらいで物心が付く←それは転移または憑依っていうんだよ
心の声がダダ漏れ
赤ん坊時代~幼少期に都合よく自分の理解者が必ず一人以上最初からいる
地味系なのに普通に美少女(美幼女)←要するに自己評価が低いだけ
悪役令嬢なのにハイスペック過ぎる、あと家族もハイスペック(父親は大体宰相で公爵か伯爵)
回りは良い人だらけ
乙女ゲーに飽き足らずレディコミなど自身が生前読み耽った作品世界に転生する←何故か都合よくその事(登場人物やエピソード)を忘れてる
やってる事はどこかで見たような行動
悪役令嬢に転生すると十中八九闇のあるイケメン(または作品世界における黒幕)に警戒される
モブや取り巻きに転生すると何故か本来の作品主人公や悪役令嬢に目を付けられる
序盤だけやたら面白いが中盤以降ダレる
ダレるだけなら良いがどうでもいい押し問答だけで10話以上費やす
情報の小出しが鬱陶しい。※スマホ太郎やスルト太郎のような頭空っぽにして読めるソフトタイプは殆どない
前世の知識をひけらかしておいて、いざそれが称賛される自己評価を過少化させる、誰かしらの功績を採用しただけと謙遜する
いちいち判断が遅い
男向けと大差ないけど少女漫画チックな展開が好きな人なら延々読めると思う
だけど基本的に起きる事件は毎回ショボいので面白い展開を期待すると痛い目を見るので
正直女向けなろうをどうしても読みたいという人以外にはオススメ出来ない。自己評価低い女が主人公のなろうコミックなんか読みたいか?って事です。
数年前転勤してきた。
後から転勤してきた人が博士まで出てるという話になったとき、いつも偉そうな事務のおばちゃんに
「○○さんは大学どこなのー?」
と聞かれた。
何回かはぐらかしてた後も、
「いいじゃん、教えてよー。」
「すごくなくても関係無いじゃん。」
とあまりにしつこかったのと大した大学じゃないという前提にいらっとして、京大であることを言った。
驚かれて絶句された。
そりゃいつもあなたに話すことはできるだけシンプルにするし、そんなに真面目に勉強してないって謙遜してたけど思いっきり真に受けてたのか。そもそも勉強できますよ。なんて言う奴いるのか。
あと、仕事お願いしても、いっつもなんでこんなのわたしが。とか文句ばっかりだったのが、おばちゃんとの仕事はやりやすくなった。
彼の正義感は異世界でも発揮され、凶暴なモンスターや悪い人間を倒して人々に慕われます。
例えば第二章では海賊が山から下りてきて、近くの村を荒らしまくります。
海賊たちは口が悪いし、暴力もふるうし、悪い事をするためだけに生まれてきたようなキャラです。
そんな奴に対してヴェノラは決めゼリフを言います。
「俺がこらしめてやる。溜飲を下げさせてもらう」
そして「俺には正当な理由があります」と付け加えて悪党をあっという間に倒します。
このセリフがすごいのは、彼の正義感をこれ以上なく表現している点にあると思います。
悪を見過ごせない心だけではなく、戦う理由も考えている。
しかも「こらしめてやる」と言うように、やりすぎるつもりもありません。
敵は悪者だから、ちょっと位やりすぎてもいいと思うのですが、そこに正義はないからヴェノラはやらないんです。
第三章では、正義と力を持つ人間がどう振る舞うべきかが描かれました。
村の人々は宴を開き、ヴェノラの今までやってきた行いを評価して、彼の性格や能力を褒め称えます。
自分自身を客観的に評価しているので、周りにもそうしてもらえるよう望んでいるからです。
僕は、これは現実にも言えることだなあと思いました。
必要以上に評価されて期待されることも嫌ですが、だからといって評価されないことも嫌です。
そのためには自分が自分のことをどう思っているか考え、他人にもそう見てもらえるよう頑張ればいい。
だけどヴェノラは自分の力をひけらかして、その評価を得ようとはしません。
二章で描かれた彼の正義感は三章になっても変わっていないんだなあ、と感心しました。
僕は正義のあり方を学ぶと同時に、村の人たちと一緒にヴェノラを褒め称えたい気持ちになりました。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
東京出身者としては、逆に「東京出身」の息苦しさもあるんですよ、と言ってみる。
「出身どこ?」と聞かれて「東京」と答えた時の空気が冷える感覚がつらい。
地元のいいところとか主張したいこともあるけれど、「へえ、東京の人はいいですね」と相手が離れていくので常に謙遜するしかないし。
「東京は忙しくて人が冷たくて大変ですね」と言われても、反論は許されないしね。 しんどくたって逃げる地元は東京しかないんだよ。
たまに疲れて、「そうだよ、東京いいでしょう。地方はちょっとしんどいよ」と言ってしまいたくなる気持ちを抑えてる。