はてなキーワード: 県道とは
カラフルタウン!
カラフルタウンは岐阜羽島ICから県道1号線を北東へ直進8.0km、13分!
カラフルタウンは駐車台数3,000台!
境川らくちゃんバスなら名鉄柳津駅より赤ルートで30分!青ルートで40分!
カラフルタウンのATMコーナーは三菱UFJ、ゆうちょ銀行、十六銀行などの取り扱いがある!
カラフルタウンには世界的に有名なケンタッキーフライドチキンがある!
カラフルタウンのロフト前のスペース使用料金は平日1日4万円!
カラフルタウンはトヨタオートモールクリエイトのショッピングモール!
トヨタオートモールクリエイトはグローバルゲートの8階に入っている!
つまり、デ・ラ・ファンタジア!
みんなも、都心からデ・ラ・ファンタジアを撮ろう!
25日午後3時半ごろ、群馬県大泉町西小泉の洋菓子店「不二家西小泉店」に、さいたま市の女性(44)が運転する乗用車が突っ込んだ。店のガラスが割れ、はずみで動いた店内の小型冷蔵庫と机に押され、来店していた60代の女性2人が足を打撲する軽傷を負った。
大泉署によると、車はワンボックスタイプで、県道綿貫篠塚線から店舗前の駐車場に入ろうとしていた。
女性はクリスマスケーキを買う目的で来店したといい、「歩道の段差を乗り越えようと、強くアクセルを踏み込み過ぎてしまった」と説明しているという。
女性の車には3人が同乗していたが、いずれもけがはなかった。事故当時、来店客は3人いた。
同署が詳しい事故原因を調べている。
高トルク低出力だから段差を乗り越えられて、
結果的に突っ込むことはできない
運転免許取って十六年にもなるというのに、自分の正面から救急車がやって来たという経験は、今日が初めてだった。
私は幅にそこそこ余裕のある県道(追い越し禁止)を走っていて、救急車は私から見て左手の細い脇道から県道に入り、こっちの方に向かって来た。
だから、私はただ救急車が前方を横切って対向車線に入るまで待っていればよかったはずなんだけれども、対向車線を走る車が悉く救急車に道を譲らない。そのため、救急車はこっちの車線に侵入してきた。
え、待って待って待って、私はただ停止するだけじゃなくてもっと端に避けなきゃダメじゃんね。そういう所に限って自転車専用レーンがあるので、慌てて後方確認して自転車が来てないことを確認して端に避けた。焦った。最初から気を利かせて端に寄せて停車してればよかったな。
これか。
愛知県東海市の県道。先月30日午前7時ごろ、信号待ちの乗用車に軽自動車がゆっくりと接近。すると、そのままコツンと追突します。
追突された車の男性が軽自動車を見ると、運転席で男性が突っ伏していました。
搬送された病院で死亡が確認されました。死因を調べるためにCT検査をすると、治療にあたった医師も驚く症状が…。
治療にあたった医師:「正常な肺の部分は一切残っていない、ひどい肺炎があって、コロナ肺炎による低酸素血症が死因」
肺炎が重症化し、低酸素の状態にもかかわらず、自ら運転していたことになります。
治療にあたった医師:「もう本当に死ぬ直前の酸素が足りない状況でも車が運転できてしまう。まさにハッピー・ハイポキシアという状態」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0ad4e6e63d9ea37dd47420dd2eebeeaa0561f7f8
道路交通法において、自転車は車両であるから車道を通行しなければならないとされつつ、路側帯や歩道の通行を条件付きで許可されている。
路側帯を通行できる条件は、歩行者の通行を著しく妨げないとき(第十七条の二)。つまり空いてる時はだいたい無条件にOK。
歩道を通行できる条件は、①標識で認められている時②幼児や児童などが運転者の時③車道の状況に照らして安全を確保するためには歩道通行がやむを得ない時(第六十三条の四)。
いずれも、安全な速度と方法での運転が義務となっている(当たり前だ)。
ここで今、話題にしたいのが「車道が危なくてとても安全には通行できねーよ!」って時には歩道通行が法的に許されているという点だ。
ブクマカ諸氏などは杓子定規に、「自転車は車道!」と切って捨てているところもよく見るが、この点についてよく考慮のうえだろうか。
つまり、その車道が安全に走れることを確認して言っているのだろうか。
言ってばかりでは頭でっかちになるので、ここしばらく実際に車道を自転車で走って確かめた。
結論から言うと、安全に走れる車道などほとんどなく、その帰結として多くの歩道は法的に通行できることがわかった。
車の速度がやばい。走っている自分からそれほど遠くない位置を、60キロとかでビュンビュン抜けてくる。
何度かは普通に命の危険を感じたし、この実践を始めたことを後悔した。
特にトラックはおそろしい。高速移動する巨体との至近距離での並走。小石とかにつまづいてブレたら死ぬよね、これ。
普通に安全運転してて命の危機を感じる状況を「歩道通行せずに安全を確保できる」と言えるだろうか?いや言えない。
国道ほどじゃないがやっぱり車はビュンビュン飛ばすね。
でも一車線だからか、国道より道幅に余裕がある気がした。自転車レーンもしばしばあり。
述べたように走行車の速度は十分あるので、車道側に完全にはみ出るように回避する勇気は出しづらい。
(一度だけがんばって車道側に避けてみたが走行車が全く配慮してくれずめっちゃエンジン音吹かされた)
車道側に避けたら轢かれる危険性がある状況で歩道に上がるのは安全の確保のための通行と言えるだろう。
なお、この時段差等があったりしてすぐに歩道に上がれるとは限らないので、前々から上がっておかなければ積む羽目になる。
都市の民度によっては、路駐の間隔が狭くて結局ずっと歩道を行くこともある。
ここも基本的に車道通行できるとしばらくは感じたが、やはり路駐があるのと、あと交差点前のムーブがやばい。
小さめの普通自動車に、信号に差し掛かるというところでグイッと左側に寄ってこられた。
心臓がドキッとしたよ。ブレーキかけなかったら轢かれたんじゃないかと思う。
大きい道と比べるとこの辺りの小さい道はそもそも幅が狭く、車と併走する自体がなかなか安全とは言い難い。
自転車レーンがあっても、曲芸師かと言いたくなるような平均台みたいな幅で、意味をなしていない。
そんなわけで小さい道でもやはり安全確保のために歩道に上がる理由はある。
歩道がない場合は、歩行者も路側帯、自転車も路側帯通行。上述の通り著しく歩行者を妨害しなければ無条件で通行が許される。
歩道がある場合は、それに幅をとられて車道が狭い場合が多い。車と併走できる幅がなければ、歩道に上がらざるを得ない。
小康時代、ランドセルを背負ってコンサートで歌っていた場所は、喜劇劇場。ケープタウンのすぐ裏。古い町並みの中を走る国道沿いの大通りで、5時間に1本のペースでフェスを開催する。町中から中へ国道160号線に向かってその小ささなく大きな通り沿いの町のわけを、40分くらい歩く。市内から県道に乗るので、道路沿いも歩く道幅も23くらいある。
さて、初めはいかにもHIPHOPバンド。とは言え、重厚感はない。当時、二十代だった私は、若いながらも、威圧感のない、個性のあるバンドが好きだった。して、そんなバンドが、50代になり、また今年、60代になった。
実は思うに、21歳くらいの時からロックフェスに足を運んでいる。
今や、「美」をテーマにしたフェスという基本の中の言葉を飾ってのフェスである。そもそもフェスに行く時には、「美」というテーマを取るバンドがここだったのだが、ノスタルジックで美しいフェスというゲームが存在する限り、何を1曲として伝えるのか、異端として映るフェスはない。
そんなときには、先月、60代を迎えたばかりの界隈の若手バンドと、30回目のさかえとで見比べてみる。ロック好きの目から見ると、他のフェスと比べて、ロックの熱は薄いように思う。
もちろん、他にはロックフェスにも、パンクやパンクロックやヘヴィロックやパンク色の濃いフェスがある。では、60代のロックフェスには、どんな意味合いがあるのだろうか。間違いなくそれが分かる。もしも、70から80年代前半、80年代のアイドル、80年代のクラシックを、ロックで解説してみたい。HIPHOPは一時代を通して、1980年頃から80年代にかけて爆発的に拡大した。その変遷は、令和の時代になってからも変わらない。毎年、夏、そして9月のどこかに出かけた時に、その熱はまだまだ冷めないのが目に見えた。
だが、今年、ノスタルジックになって、なおかつ、熱気に溢れんばかりの方が、画的にも、参加しているバンドも、ロックフェス育ちのオヤジたちは、新社会人になって、そして、新天地でロックフェスを楽しんでいる。今年が半世紀もの時を経て、フェスでお会い出来るというのだ。
最新作の数々、みじんも予想していなかった60年代のロックフェスが、60代の初夏になり、令和2年、令和2年になる。さらに、30年、60年という節目を記念するイベントも多数開催予定で、その一つになると言っても過言ではないと思う。ロックの民族楽器の演奏で、ぶっつけ本番で、ロックフェスを楽しむのが海辺のまちなのだ。
なお、今年のフェスでは、ビーチにバーベキュー、バーベキューや外遊びをする以外にも、パーティーフェスというユニークな形で開催が予定されている。(本稿は今年のフェスで話したいと思う)さて、今年のフェスに、一本だけでも、何本かある。まだ1本も見たことが無い方々は、ぜひ、観てきて欲しいと思う。とはいえ、40周年、60周年、このタイミングに合わせ、バンドやバンド同士の交流は、今の倍以上になりそうな気がする。まだ出たばかりなので、今年のフェスにも足を運ぶ予定があるのは、それからなのだ。
バンドはいつも、誰もが自由な解釈や曲、サウンドを奏で、そして、唄い、演奏しながら、声を張るという音楽の世界を行っている。それは、30周年を迎えたバンドにとっては、非常に大きなことだ。音楽性も、そして、時代によって雰囲気もどんどん変わってきている。いま、時代と共に周りの環境も大きく変わってきているが、それでも、時代に取り残されている音楽というのが、ロックフェスの特徴なのだ。60年以上も前からロックフェスの世界にいて、私たちの世代の憧れのバンド。どこかで見たような、ラテンっぽい、レトロな、EDM風なサウンド。独特のサウンド。そんなロック自慢の音楽が、20年、30年も、世界に多くのオーディエンスを誘って、地球の裏側で、フェスを行うことになる。
そして、令和2年も、今年で60周年。20年を超えるのに、すでにロックフェスで、しかも、60年を超える必要がある。70、80年のミックスアップ、98年のドック、96年の超結婚。そして、その超絶必勝の方程式。
一番軽いベンゾジアゼピン系抗不安薬、5mg、3シート食べた。飲んだんじゃなく食べた。甘いんだ。いい大人なのに。
断薬の理由は後述するとして、あるきっかけで心療内科にかかり、診断書をもらって2年間断続的に休職し、新年度から復帰しようとしたら出鼻挫かれて再度休職か、いや経済的に、といった迷いの時期だった。
その数ヶ月前は、考えすぎて眠れず頭が痛くなると、頓服で薬を飲むようにしていた。薬の効果は、思考スピードが緩くなる、体がほかほかする、入眠しやすくなるなど。反面、思考から論理性がこぼれて溶け出してネガティブな方に感情的になってしまう効果もあった。悲しさ、寂しさ、怒りも増幅される。大声で泣いたりした。夜中にダイニングの床を水拭きしながら子どもみたいにギャン泣きしたこともある。攻撃的にもなった。安心できる居場所が欲しくて、大声を出した。
断薬は、迷惑をかけるのは嫌だということを家族で話し合って決めた。
となると、仕事に行くためには体調を管理しなければならないので、睡眠時間の確保が生活の「要」となる。これが家族としての自分の責任、家族の条件。
話し合いの次の日から、入眠の障害になり得るものを極力避けることに全神経を注いだ。苦手だったのは、考えすぎないこと。フラッシュバックがスパークすると、傷口に白血球が集まってくるように思考が沸き立ってしまうので、覆い隠すように作業に没頭する必要があった。計算問題とか、床の拭き掃除とか。
10段階での頭痛怠さ動悸のしんどさ、食事の内容、買ったもの、トイレの回数、ベッドに入った時間、中途覚醒時間、起床時間、考えた時間が多かった事柄などを記録した。読み返してルーティーン改善の参考にした。
まあまあうまくいっていた。最初にコケた原因も分かってる。そこから改善してきている。睡眠時間が伸びて、頭痛も弱くなっている。このままうまくいければ、仕事に行ける時間も増やせると確信していた。自分の責任をやっと果たせるようになる。
でもダメだった。ベッドに入ったのが23:20、頭痛が強くなりしつこいフラッシュバックに対応していて結局眠りに入れたのはスズメが鳴き始めた時間帯だった。アラームは聞こえなかった。
車の音、子どもの声、夕方に目が覚めた。自尊感情は尽きてた。当然。当たり前。当然のことができてない。家族を支えていない。普通じゃない。頭が痛い。心臓がうるさい。耳が立つ。腕が重い。
だから薬を1シート食べた。頭が痛いのをやめてほしい。心臓がうるさいのをやめてほしい。耳が立つのをやめてほしい。腕が重いのをやめてほしい。普通じゃないのをやめてほしい。家族を支えられないとかやめてほしい。仕事ができないとかやめてほしい。ありえない。家族としてありえない。なんでこんなんになっちゃったんだろう、なんでこんな思いしてるんだろう、いつまで続くんだろう。
いい大人なのに、甘いやつのおかげでゆっくりしてきて、正義の酔っ払いになっていた。
家族が仕事から帰ってきて、一言も喋らなくて、目も合わせなかった。
頭痛から逃げるために救急車を呼んだ。かかりつけの心療内科にいけと言われただけだった。家族の車とは別にタクシーで帰ってきた。家ではたくさん話をした気もするし無言だったような気もするけど、喪失感ははっきり覚えている。
家族が寝たあと、追いシートを2つして、深夜の県道を歩いて市を跨ぎ、コンビニでタバコとビニール紐を買って、血圧を計算して柵かなんかで首を吊った。
男は北東へ向かって歩き続けていた。そちらの方角の方が人も車も少ないからだ。
道路脇には片方にだけ歩道がありその横はススキが所々生えていて風に強く流されている。
男はパーカーのポケットの中で拳を作りポケットの角に押し付けるように腕をこわばらせた。
コンビニに入りまっすぐ雑誌コーナーへ向かい適当な旅行雑誌を手に取り広げた。
しばらくすると右斜め前に黒いセダンが停まるのがガラス越しに見えた。運転手は小太りで角刈り、柄もののセーターを着ていた。ドアを閉めたがマフラーからは寒さのため排気ガスが白く登っている。エンジンがかけっぱなしなのを確認すると男は本を棚に戻し店を出るとさっき停まった車の前を通り中に誰もいないのをフロントガラスから確認すると乗り込んでバックで方向転換し県道を北東へ走らせて行った。
男は一つのことを除いて何も考えなかった。いや、一つの目標を達成するために頭の中ではあらゆる方法を考えていた。その目標を果たせるなら手段は選ばないことはもう決めていた。
両手のカマを振り上げて、前後に体を揺らしていた。
すると、おもむろに片側1車線の車道にゆらゆらと飛び込んでいったのだ。
「なんで?」と思った。カマキリに道路を横断するメリットはないからだ。この県道を渡り切ったとしても、その先はコンビニの駐車場であり、緑は一切ない。なのにどうして?
ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだばかりだった。こんなに阿呆な子の遺伝子が生き残っているとは思えなかった。突然変異というやつかな?
……カマキリが片側の1車線を渡り切った。残るは反対車線だ。頑張れ!
軽自動車のココアに、20tトラックに、プリウスに、フォルクスワーゲンに、野良犬に、ビッグスクーターに、なんかもう色々と車が通り過ぎる度に、カマキリの体が風に揺られていた。
頑張れ。あともうちょっと。残りは4分の1。
「危ない、轢かれる!」
と思っても、大乗仏教なことが多かった。目の錯覚というやつで、轢かれる!と思っても、カマキリの頭を掠めるほどで済んでいる。そういうものなんだと思って、自転車に跨ったまま、ずっとその子を見ていた。
白い軽自動車がカマキリに迫っていた。尻尾の真後ろを通過すると思った軽自動車のタイヤは、私が思い描いたとおりの軌跡を描いていた。
カマキリの真後ろをサッと通り抜けると思ったら、プジャアッ‼ という鈍い音とともに――ヤツは弾け飛んだ。轢かれるコースだった。
こんなに音がするんだと思った。カマキリが自動車に潰されても音はしないものだと思っていた。大きい音だった。
にゅるにゅると、カマキリのお腹の辺りで何かが蠢いている。黒い色で、びよびよとうねりながらアスファルトの上にいた。
生きてるヤツは初めて見た。かの有名なハリガネムシだった。実物はかなり長い。15cmはある。
悲しげな動きでハリガネムシはのたうっていた。たぶん、もう死ぬだろう。路上を移動する能力はないし、そのうち車が通ってぺしゃんこになるんだろう。
離れたくはないが、見ていたくもない。T-BOLANの歌詞を思い出した。多分違う。自転車を漕ぎ始めた。
家に帰ってググった。
ハリガネムシがカマキリに寄生すると、宿主の認識回路を変えるらしい。光を好むようになる。
自然が豊かなところで寄生されたカマキリは、水面のきらきらとした反射に飛び込んで自殺する。すると、お腹の中から、本来は水棲であるハリガネムシが出てきて水の世界に帰るのでした。めでたしめでたし。
そういえば、車両の反射板って太陽光でも輝くのだろうか? だとしたら、寄生を受けたカマキリの行動にも説明がつく。
今日も炭水化物をたくさん食べたな、太ったら嫌だなと考えていた時、閃いた。
私の家はお米を作っている。毎年、干からびた水田を耕して、用水路から水を入れて、農協から苗床を買って、トラクターに苗を乗せて田んぼに植えて、水を入れたり抜いたりを繰り返して、時期が来たら収穫して、トースで引いて、30kgぐらいの袋に詰めて出荷する。
収穫された稲は全滅ということになるけど、世の中には収穫されない稲も一部あって、次世代の苗として育てられる。人類が生き残ってる限り、お米がこの世から消えることはない。
お米は、育てられて食べられてを繰り返すことになるけど、種が絶える可能性は低い。人類滅亡後に種が絶える可能性はあるけど、まだ千年は大丈夫だ。
炭水化物はおいしい。白米や玄米は大抵のおかずに合うし、乾麺には脂ぎったスープの味がよく染み込むし、ケーキは病みつきになる甘さだし、お陰で人類は生存が有利に働いている。
カマキリみたいに一方的に利用されてるんじゃなくて、むしろ人類が利用している側なんじゃ? だって、どれだけ炭水化物を食べても直接的に死ぬわけじゃないし。
自分でも何が言いたいのかわからなくなってきたので、この辺りで終わりにする。学生の戯言を読んでくれてありがとう。イトメンのチャンポンめんは是非おススメしたい。
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
従動で人を投げ飛ばしたら
死んじゃった
と誤った。
そう、この程度 そうね。
思った、思わなかった。
そうね。
2年間延々とそういう感じ。子の程度は良い。まぁ、そのひとにとっては、この程度。しょうが無い
従動で、投げ飛ばしっていい。
県道でぶっ叩いてい。
そりゃ、その程度。。訓練だからいい。
訓練だからいい。
しょうが無い。50年間、そうだった。
この程度。
オタクは異常S問Yがバウ、
えたひにん、アボリジニずっとやってきた。自分がやられたとして、しょうが無い。 これが 現実。
その人達の子供と、その人達さ、政権を取る。そうすると、たしかに、それが普通。
平成の30年より長い。すこしちがうけど、ことばがわからないから。
ありがおつ平成