はてなキーワード: 懇願とは
★企業の最先端の取り組みに対し、国の「補助金」とか「政府系金融機関による低利融資」が付くケースがある。
中小企業やベンチャー企業であれば、補助金。低利融資は「有難い話」になるが、
巨大企業の場合は、「別に補助金なんかなくても事業遂行できる」場合も多い。
「低利融資」だって、この低金利なご時世だと、大企業が自身の与信で借入を起こした方が、
★例えば、三井不などの「柏の葉スマートシティ」とか「日本橋スマートシティ」などは、
多分国交省だか経産省だか環境省辺りの補助金等を貰っていると思うが、三井不は別に補助金がなくても事業遂行できる体力もあるし、
★補助金を貰ったり、低利融資を受けたりする手続きは意外と大変。
通年で受け付けていないケースが多いし、書類準備も大変。
「補助金申請準備手続きに1年程度掛かって」「その作業に社員1人が張り付いてしまう」のであれば、
数百万円程度の補助金であれば、「社員の給与の方が多い」ので、「補助金手続する分だけ損」となる。
★・・・にも関わらず、三井不が「あえて補助金を貰う」理由は、はっきり言えば「宣伝効果」という側面が大きいと思う。
「この事業は環境省の補助金を受けました」と銘打てるのであれば、
直接の補助金インカムが500万円、三井不人件費マイナスが1,000万円でも、
★「国の補助金が付く」ということは、「事前の国の審査に合格した」ということ。
つまり「最先端の取り組みである、と国がお墨付きを与えた」ということ。
三井不が欲しいのは「国のお墨付き」であり、別に補助金も低利融資も欲しくない。
「別に補助金も低利融資も欲しくないが、国のお墨付きが欲しい」という巨大企業に、
結果的に補助金を手渡すのは、税金の無駄遣いという気も、しなくない。
★だから、補助金や低利融資はないが、国が「お墨付きを付ける」という制度を用意すれば、
そうなると、補助金を「真に必要とする中小企業だけ」に渡すことが出来る
★あと、三井不あたりだと、
http://anond.hatelabo.jp/touch/20141211171033
まったく同意できない。
ソープを楽しむ人間が何故オナニーを楽しめないと思うのか。まったく別のものだ。
童貞であることを恥じてソープに行く?違うだろ。気持ち良いことがしたいからソープに行くのだ。
ソープは自分の欲望を吐き出すことができる数少ない場所である。
女性物の下着を身につけて遊びに行く男がいる。
尻の穴をいじくってほしいと懇願する男がいる。
女性の中に己が分身をぶちまけたいという欲求に取り憑かれた男がいる。
想像力が表沙汰にできない欲望を生み出し、その欲望を形にできる場所がソープ及び性風俗店である。彼らは然るべきルールの中で冒険をしている。批判される謂れなどない。
そして、ソープ嬢は股ぐらを貸しているだけの存在ではない(中には股ぐらだけ貸している女性がいることも否定はしない)。
目的は何であれ、彼女たちは男性の冒険をアシストしてくれる存在である。数多ある男の欲望を受け止め、具現化し、解放してくれる存在。親しくない間柄だからこそ、男は恥ずべき欲望をぶつけられる。変態的行為をしたいけど恋人や妻にはできない。親しいパートナーの前で変態になれる男は幸福だが、変態の多くはその状況にはない。変態的な欲望は想像力の産物であり、変態になれるのは人間だけだ。
理性で変態は押さえつけられない。変態は、性欲は、恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
変態はまったく恥ずかしく、背負っているのが厄介なものだ。だからこそ、「変態」という荷をおろすため、男はプロフェッショナルの前で偽名を名乗り、裸になるべきである。
フランスのブルゴーニュ・ボジョレーにチャック・ノリスというドメーヌのオーナーがいた。いや、チャック・ノリスがいるか、いないかである。
チャック・ノリスは天候など気にしない。しかし、7月は冷涼で雨が続いた。それは天候がチャック・ノリスに恐れて流した涙である。
9月に入り、土壌があるもの全ての養分を吸ってくれと、太陽が通常より早く日の出をして遅く日没したいと、チャック・ノリスに懇願してきた。
チャック・ノリスの葡萄は大粒で果実味が溢れるものになった。このようのことは毎年、例外なく起こる。チャック・ノリスがルールなのだ。
収穫の時期はチャック・ノリスが決める。チャック・ノリスが葡萄を収穫するわけでは無い、葡萄がチャック・ノリスの元に集まって来る。チャック・ノリスは回し蹴りで瞬く間に葡萄畑を殲滅させた。
チャック・ノリスは酵母と会話ができる、15か国語を操るのだ。チャック・ノリスが葡萄を一掴みすると、そこからワインができる。タンクなど必要ない。余談だがチャック・ノリスはワインからタンクを作ることができる。チャック・ノリスが作るワインは軍隊1個師団に匹敵する。史上最強の軍隊だ。
チャック・ノリスのワインを評価することはできない。評価するのはチャック・ノリスの方だからだ。
今年のワインは良いできらしい、しかしチャック・ノリスには関係ない。チャック・ノリスには勝利しかないのだ。
そもそもチャック・ノリスは1年もかけてワインなど作らない。チャック・ノリスがワインを飲む、それだけだ。
フランスのブルゴーニュ・ボジョレーにランボーというチャック・ノリスがいた。ランボーは悩んでいた。毎晩同じ悪夢を見るのだ・・・・
結婚式はやらなかった。
夫婦ともに人前に立つのがすごく苦手なので、その選択を後悔してはいない。
ただ、もうすぐアラフォーを目前にして、ウェディングドレスを見るとモヤモヤすることが増えた。
テレビのCMや街中のショーウィンドウ。友達から送られてくる写真や絵葉書。
真っ白なドレスを見て嬉しそうに微笑む彼女たちを見ると心がざわつくのだ。
「ちくしょー!うらやましい!私もそれ着て、夫に可愛いって、キレイって言われたい!」
もともと、女性らしい格好は苦手で今もクローゼットには冠婚葬祭以外のスカートは入っていない。子どもの頃からズボンをはいて野山を駆け回る男勝りな子だった。
いつからそうだったんだろうと記憶を掘り起こしてみれば、おぼろげに見えてきたのは幼稚園頃の思い出。
友達がとても可愛いお姫様のようなワンピースを着ていて、自分もそれが欲しいと両親にねだったのだ。両親はその願いを一蹴した。理由は分からない。
それ以降、私は女の子らしい服装を憎むようになった気がする。
手に入らない物に憧れ続けるのは辛いことだからその反動だったのかもしれない。
イソップ童話でいうところのぶどうが食べられないキツネと同じ心理だ。
Wikipedia先生によると「フロイトの心理学では防衛機制・合理化の例とする」とあった。
なるほど。さっぱり分からん。
なにはともあれ、私は女らしさを立派にこじらせたまま大人になり、紆余曲折を経て結婚をした。
そして今頃になって「え?もしかして私、ウェディングドレス着たかった?」と狼狽している訳である。
もちろん今からでも着ようと思えば着ることは可能だ。写真だけで満足すると思うので10万円も出せば簡単に夢は叶うだろう。
しかし。
しかし、だ。
アラフォーババアのウェディングドレスなど正視に耐えないものになるのでは…という恐怖が拭えない。
お姫様に変身した姿を期待して鏡の前に立つ、そこに映っていたのがボストロールだったら…。女性としてのプライドは完膚なきまでに打ち砕かれ、きっと立ち直れないと思う。私はこれまで以上に女性らしさを憎むようになるだろう。
それに夫に何と説明すればいいのか、という問題もある。
今更、ウェディングドレス姿を残したいです、とか恥ずかしくてとてもじゃないが言えない。今まで築いてきた「ウェディングドレス借りるだけで数十万?アホらし。それなら叙々苑で焼肉食べるわー」キャラが、イメージが瓦解してしまう。
もしそこで夫に一笑に付されようものなら、私の女性としてのプライドは(以下略)だし、「お前も女だったんだなぁ(微笑み)」などとしみじみされてしまったら恥ずかしさのあまり死ねる。
夫から突然「結婚記念に写真を撮ろう。どうしてもお前の姿を写真に残しておきたいんだ」と懇願されて、「あなたがそこまで言うなら仕方ないね」としぶしぶ写真を撮りに行く、というのが一番ベストな手段なのだが、世の中そんな都合の良いことが起きるわけはない。
妻に絶対ウェディングドレスを着せたい!なんて思っている男性は現実にはそうそういないだろう。大抵の男性にとっては『結婚式なんて金の無駄遣いだけど、親or彼女(妻)がどーしてもと言うから仕方なくやっとくか』というもののはずだ。
『人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない』
今日、久しぶりに読んだマンガにそう書いてあった。ええ言葉や。確かにそうだと思う。
私は自分の小さいプライドや見栄を気にして、何も犠牲にしないから、何も得ることは出来ないのだ。
こういう事例を見ると、さすがにそれもさもありなん、と思ってしまう。
http://hondamaki.hateblo.jp/entry/2014/08/28/003106
1. 父親からDVを受けて育ったブログ主が、自分以上に酷い暴力を受けていた上の兄弟に対して、自分の結婚式に両親と共に出席してくれることを懇願。
2. 当然、兄弟からは当初きっぱり断られるも、「親への感謝を伝えたい、両親を喜ばせたい」と嗚咽する妹を見かねたのか、結局やむなく出席。ピアノ演奏までしてくれた。
3.ブログ主感謝。青空をバックに『やっぱり、結婚式をやってよかった。こんな家族だけど、私は大切に育てられて本当に幸せ』(※しかし、目下自分は夫のモラハラにより家庭内別居中)
以上に対して『自己満足のために兄弟をどれだけ傷つけ、苦しませてしまったのか分からないのか』『ただの自己陶酔だ』とか実にもっともな意見が出てきたものなら、「違うんです、私の書き方が悪かったんです反省しますごめんなさいすみません(r」とか言い訳を連ねておいて、一方では炎上だとか叩きだとか愚痴って類友と馴れ合うだけで(https://twitter.com/hon_da_maki)、肝心の問題の本質を顧みようとしないのだから、そりゃ、リアルでも同じような対応を取っていたら、周囲は正直腹立つし、まっとうな友人知人からは匙を投げられるし、モラハラ男にも付け入れられる、というものだ。
そもそも、公に、ましてネットという有象無象、不特定多数の目に触れうる場に己をさらけ出しておいて、「共感や同情だけ欲しい、反論や批判は一切見たくない、触れたくない」というのは不可能なのだ。前者がどうしても欲しければ、後者のリスクは当然受け入れなければならない。ときに誤解や齟齬が生じるのもやむを得ない。それを、「自分は傷つきたくないしリスクは取りたくない、でも他人には皆自分のことはありのまま受け入れて欲しい、ただ愛情と共感だけを自分に与えて欲しい、それをしてくれない人間はみな酷い敵だ!」なんていい歳の人間が臆面も無く主張していたら、それはまさにDV親やモラハラ夫と同類なのだ。
私は9才で親を捨てた。
二度と親だと思って頼らないようにしようと決めた。
小学1年生の頃、私には盗癖があった。最初は友達の持ち物を盗んだ。
母親からそれを知らされた父は私が失神するまで殴った。頭をガツンガツン叩き、誤りながら泣き叫ぶ私をうるさいと叫んでまた殴った。声を出さないように我慢したくても、過呼吸になって喉からしゃっくりが何度もこみ上げた。それを「女ならもっと奇麗に泣け」とあざ笑った。何度も殴るので失神した。気がつくといつも失禁していた。意識が戻っても、それでも父親の怒りが消えるまでは殴られた。翌日父は痛んだ手を見せて「殴る方だって痛いんだ」と誇らしげに私に見せた。
小学生の頃は、私に非があれば、それを理由に何度も殴られた。顔や体を腫らして学校に行ったことは何度もあったが、訴えても大人は見ない振りをしていた。
学校でもいじめられた。小さな学校だから同級生は少ない。一度いじめられ役になると卒業までそのままだ。だから友達はいなかった。私は孤独だったが、誰も私を見てくれる人はいなかった。
母は私にとって父にチクる人だった。母は私の行動を監視する役目だった。日記を読み机をあさり、私が何か悪い事をしていないかそれだけを気にしていた。咎められるようなことをしたのを母に見つけれた時、何度も頭を下げて父に言わないようにお願いした。あまりに懇願する私を見て、母は父に言わないと約束してくれた。しかし、その夜私は父にまた殴られて失神した。
誰も信じられなくなった。学校でもいじめられ家でも居場所がない。生きていてもしかたがないと思って、大工道具が保管されている小屋で手斧を見つけ、それを持って近くの森に入った。
森の中で手首を切り落とせば死ねるかどうか考えた。もし生き残ったら、騒動を起こした私をまた父は殴るだろうと思った。失敗するのだけは避けなくてはいけないと思った。片手がなくなると、もし生き残った時に生活に不便だろうなとも考えた。手首だけで死ねるのか、じっくり考えたがよくわからなかった。首を落とせば確実だろうが、手斧で自分の首を落とすのは現実的じゃない。どこか血がたくさん出る場所があったと思うが、よく覚えてなかった。
死ぬ方法を考えているうちに、ふと、母のことも思い出した。あの人は私が死んだら悲しむだろうか。
きっと泣くだろう。私の死んでいる姿を見て泣き叫ぶだろう。葬式では悲劇のヒロインだ。大勢の親戚になぐさめられて、かわいそうにと注目を浴びるだろう。しばらくは、私の遺影に花を飾るだろう。でも、あの人は3ヶ月もしないうちに、私のことを忘れるに違いない。
これは確信だった。あの人達は幸せで優秀な家族を演出することが何よりも大事だった。きっと私の家族は私の死体までもを自分達の不幸な出来事として演出し、葬式では成績のよい手伝いもよくやる優秀な子供だったと褒め称えるに違いない。そしてすぐに私の事など忘れて平穏な生活に戻るんだと。
私が今ここで自殺しても無駄だ。誰も悲しまない。そんな自分は悲しすぎるじゃないかと、自分の存在があまりにかわいそうで泣いた。それで私は自殺するのを止めた。
これからは親を信じない。大人は誰も信じられないから、生きるために利用する。私はここで生き延びる。早く大人になってこの家から脱出するまで、そのために親を利用する。
9才の決心は、大学生活の開始で実現した。家を出た日のあの気持ちを忘れられない。
※何十年も前の思い出です。心の中に閉じ込めたまま生きてきました。もう父は死にました。まったく悲しくありませんでした。あの頃の事を許すことは私が生きている間ないでしょう。悲しまないのが、私にとっての復讐なのかもしれません。虐待とはそういうものです。世の中から躾という名目の虐待がなくなりますように。
マグロ http://2chcopipe.com/archives/51948757.html
近大で勉強してた韓国人の学生が養殖技術の資料を丸ごと持って韓国へ帰国。でその韓国人がその養殖技術特許申請してるらしい。ご丁寧にも昨年末に韓国船が串本の近大マグロ養殖場傍に突っ込んで座礁…近大の養殖場の壊滅まで画策?
いちご http://blog.livedoor.jp/nico3q3q/archives/68082188.html
苗を利用しないって嘘ついて、日本の農家からもらって、その後、韓国で勝手に栽培→販売、支払いは当然拒否
ジジイが10年かけて、すごい美味いイチゴの新品種を作り出す。
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ちょ、おま、なんで流行ってんの、分けるなって言ってんやろがー!
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村人は自衛官に「奴らはこの村を皆殺しにする気だ!一緒に戦ってくれ!」と懇願する。
Q:集団的自衛権を持たない自衛隊にできることは何でしょうか?
A:日本人ではない村人を助けることは集団的自衛権に当たります。
武装勢力が村人に対して攻撃しても、手も足も出せません。
彼らが「明らかに自衛官を殺傷を目的に」攻撃してきた場合のみ、自衛が可能です。
それを知ってる武装勢力が、ニヤニヤ笑いながら自衛隊を無視して村に堂々と侵入し、村人の虐殺を始めたとしても、何ひとつ手出しできないのばかりか、自衛隊が「戦闘地域」に駐在することは現行法で禁じられてるので、助けを乞う村人を放置し、ただちに撤収することが決められています。
ま、こういうことを書いておきながらも、私は集団的自衛権には慎重でいてほしい派だけどね。どんなに卑怯者呼ばわりされてでも、巻き込まれないほうがいいということもあるだろうから。
長いし、ただただ書き留めておきたいだけの自己満足だ。
両親が共働きでおばあちゃん子だった。おばあちゃんに孫は自分を入れて4人いたが、一番下で他の孫と年齢が離れていることもあって自分が一番可愛がられた。
本当に溺愛という言葉が正しく、同じ家に住んでいるのに、少しでも自分の姿が見えないと探しに来た。10分離れると不安だったのだろう。
高校時代に受験勉強(という名のただの夜更かし)をしているときも、1時や2時に起きてきて「えらいねぇ。まだ寝ない?」と聞いてきた。
そのたびに「まだ。もうちょっと。」と言ってあしらっていた。
近所でも有名になるぐらい、自分のことを溺愛していた。
高校を卒業し、浪人した。この時に実家を出て、予備校の寮に入って祖母との同居から離れた。
18年片時も離れず育てた孫がある日突然出て行くのだ。寂しかったのだと思う。もちろん電話が頻繁にかかってきた。
2、3日に1度というペースで、かかってきて、いつも決まって同じことを言った。
「次はいつ帰って来るんよ?カレンダー見ながら指折り数えてるんよ。はよ帰ってきて。」
寂しいことはわかっていたが、毎週末帰るわけにいかない。
するとだんだんと電話の頻度が多くなってきた。言われることはいつもと一緒。
「次はいつ帰って来るんよ?はよ帰ってきて。」
ある時、少しだけ反発をした。
「昨日も電話したやん。同じことばっかり言われてもすぐ帰れんよ!」
ちょっと強めに言ってしまった。少し後悔した。その瞬間、思いもよらぬことを言われた。
あとで母親に聞いたところ、自分が家を出てから物忘れが加速しているのだそうだ。
財布を家の中で失くしたり、ご飯をたべたことを忘れてしまったりと日常生活に支障をきたし始めていた。
ショックだった。祖母は働き者で、両親が働いていて居ない間はご飯を作ったり塾への送り迎えをしたり、常に動いている人だった。
自分が家を出てから、世話をする人がいなくなり、昼間にずっと寝る生活になったのだという。
自分が家に居たら。そう思った。
だがもう限界をとっくに超えていたのだろうと思う。
夜も満足に眠れず、昼間も祖母が気になって仕事場からちょくちょく家に見に帰っていた。
家族はそれに賛成したし、もちろん僕も賛成した。
自分は実家から遠く離れた大学に進学したので帰るのは半年に1度程度だった。
その頃には自分のことは忘れられていた。
「おまん、誰よ?」
辛かった。けれど祖母が育ててくれたことに対する感謝の気持ちがあったので、帰ってきた時は毎日のように会いに行った。
大学4年のある日の朝に夢に祖母が出てきた。
白いぼんやりとした、もやもやしたものの中に祖母が立っていた。
はっきりと「もう長くないんよ。」と言った。
ハッとして起きた。嫌な胸騒ぎがした。しかしその時期は大学の研究発表会が近づいており、こんな夢を見ることもあるだろうと思い大学に向かった。
夜8時を超えたぐらいだったと思う。父親から電話がかかってきた。嫌な予感がした。
当たった。
「もう今晩がヤマらしい。」
聞いた時は冷静だった。
「今すぐ帰るから、待ってるように言って。」
結局実家に帰る終電には間に合わず、朝いちの電車で帰ることになった。
それまでにいろんなことを考えた。もし自分が着く前に亡くなっていたら。
せめて自分が着くまで。今まで育ててもらった感謝の気持ちをまだ伝えてない。
その願いは叶った。
病室につくと、両親や親戚が集まっていた。意識はもうない。
無意識の中で人工呼吸器を手で取ろうとしていた。邪魔なのだろう。
母親は泣きながら「お願いやからとらんといて。お願いやから・・・」
言葉にならないようなか細い声で懇願しながら、人工呼吸器を祖母の口に戻した。
そこにいる全員がその時は近いことを悟っていた。
だがもともと体力だけはあった祖母だ。そこから24時間保ち続けた。
もともとその数日前から病院につきっきりの母は明らかに体力の限界だった。
自分は祖母の手を握りながら、「頑張って。おじいちゃんが向こうで待ってるよ」と語り続けた。
いままでありがとう。こんなに立派に育ったよ。本当にありがとう。感謝の言葉を言い続けて手を握り続けた。
ギュッと握ったら、少しだけぎゅっと握り返してくれた。
生物学的な反射という行動なのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
朝5時過ぎた頃だったと思う。疲れたいたので少しうとうとしかけた所にお医者さんが入ってきた。
手首を触って脈をみる。
一言だけ言った。
「ご家族を呼んでください。」
意味がわからなかった。先生はその言葉を残して病室を出て行った。
「やめてくれ。一人にしないで。」と思ったが、することがあった。
何を言えばいいのかわからなかった。
出た言葉は「来て。はやく。」
たったこれだけだったが、十分だった。
その中で眠るように祖母は逝った。
みんな泣いていたのだけは覚えている。
そこから2日ほどは様々な事務処理に追われてほとんど覚えていない。
「名前を継いで欲しい。」
祖母には娘が2人いるが、どちらも嫁に出たので祖母とは苗字が違う。
うちの地方ではよくあることだが、祖母の養子に入ることで名前を継げる。
自分は次男なので、事あるごとに名前を継いでほしいと言われていた。
不思議な気持ちだったが、自分の中でこれが一番の祖母への感謝を表す方法だと思ったからだった。
今では祖母の名前を継いだことを誇らしく思う。
11月18日(月)
巨大な熊手を抱えながら、これで地球をぶっ壊したいなんて思っていた先週の金曜日。
満員電車のなか、最初はただ手が当たっているだけだと思った。しかし、尻だけだったのが股間にまで伸びてきたとき、さすがに痴漢だと気づいた。無理矢理振り返って相手を見ると、小太りで、ハゲていて、おまけに鼻毛まで飛び出した中年の男が、醜い顔でウインクした。ぶったおれそうになった。こっちはコンプレックスまみれの顔をマスクで覆い、やっと安心して街を歩いているというのに、こいつの謳歌する自由はなんだ。なぜお前は、そんなにも自分に甘くいられるのだ。
男の手は止まらない。不感症の私は、いっさい快感を得ることなく、ひたすら空虚だった。ガラスに反射した男の顔は、きらめく夜景と合わさったって、すこしも美しくはならない。それに比べ、マスクを着けた自分の顔は、やはり可愛い。股間をまさぐられながら、表情の練習なんてしてみる。すこし困ったような目付きが、驚くほど決まって見えた。
駅に着き、逃げるようにホームへ降りると、男は私の腕を掴み、頼むからオナニーを見てくれと懇願した。膝が震えるほど怖かったはずなのに、気がつくと、男と狭い個室トイレに入っていた。
男は巨根だった。しかし驚いたのは、その巨根を取り出した瞬間の顔の方だった。眉間の辺りから漂う、巨根ひとつですべての欠点を帳消しにせんとする傲慢さ。帳消しになんて、なるかよ! と呆れつつ、それしか誇りのない男が哀れになり、「おっきい」と言ってやる。うれしそうに光る顔がまた哀れだった。
男のオナニーは滑稽だった。一生懸命いやらしい表情をつくり、私を挑発するのだが、なにせ立派なのはチンコだけなので、まったく恰好がつかない。せっかくの機会なので、ちょっぴり握らせてもらった。もうどうにでもなれと、舐めてもみた。拳のなかで、男の巨根はまるで無機物のようだったし、なにか特別な味がするわけでもなかった。あーあ。ずっと夢みていた男のチンコというのは、こんなにも味気ないものだったのか。浅草の熊手のほうがよっぽど躍動的だった。
男が果てると、今度はキスを迫られた。それすら、欲しけりゃどうぞとくれてやった。ファーストキスだった。
そのお代として、50回ほど耳元で「可愛い」と言ってもらった。可愛い、可愛い、可愛い……。息継ぎでブヒ、と鼻を鳴らす男。苦しそうだったが、続けさせる。可愛い、可愛い、可愛い……。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/001300.html
4月8日(火)
母親は、二世帯暮らしの狭い家で、共に戦う同志だった。結婚当初、「頼むから親と同居してくれ」と泣いてすがったという父親は、女の前で泣く度胸はあっても、女を守る度胸はなかった。
そんな父親にかわり、私は必死で母親を守った。どんなにいやな思いをしても、母親との絆に癒された。
14歳のある日、ひとりで風呂に入っていると、当然のように母親が入ってきた。翌日、鍵を閉めると、怒号とともに母親が激しく戸を叩いた。
この寒い日に、裸の母親を締め出すなんて、お前はなんて冷たいんだ。
びっくりした。
戸に開いた換気用の穴から、ヘビのような目が覗いている。
聞こえないふりをして、死角に身を丸めた。しばらく待って、おそるおそる戸を見ると、母親はまだそこにいて、じいっと私を睨んでいた。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/001366.html
4月14日(月)
彼女と駅で待ち合わせ。焦らすような各駅停車に乗って、ひと駅ひと駅を噛み締めるように進んでいく。公園の桜は、もうほとんど散っていた。歩道をうずめる花びらを、両手ですくって嗅ぐと、体中に春が染み渡っていった。
広場の真ん中で、おそるおそる一人称を変えてみた。その瞬間、木々は槍になり、花はピストルになり、私に向かってくるかと思われたが、公園は変わらずのどかなまま。彼女は気に入った洋服の話をしている。
涙が出るほどうれしいのに、どこか寂しさも感じていた。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/001368.html
5月6日(火)
熱を出した母親がソファに横たわり、細い髪を汗で濡らしながら、喘ぐような声で言った。
私は「げ、きもちわる」なんて思いながら、とっとと荷物をまとめる。
軽く犬を撫でてから家を出て、ぐんぐん車輪を漕いでいく。不便で、ぼろくて、しみったれた地元の駅に飛び込み、急行列車に乗って、東京へ。
二回ほど乗り換えて駅に着くと、タクシーをつかまえて、ペンキの匂いのする白い階段を駆け上がった。慌てて鍵をつっこんで、ドアを思いきり閉め、その場にぺたりとしゃがみこむ。
それをぼんやり眺めながら、涙があふれた。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/
結局少年アヤちゃんは、毒母に育てられて自身をゲイのオカマだと認識するようになったノンケだったんだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20130306041028
というエントリを随分前に書いた。
つらい時に書き捨てたもので、トラバやらコメントやら、いい言葉ばかりではなかったがそれでも温かい言葉を貰って改めてありがたいと感じた。
その時の増田達への軽いお礼方々、後日談とその後の雑感を書く。
やくざみたいな難癖をつけて暴力を振るってきた上長は、後述する理由で改めて、腫れ物を触るような対応をしてくるようになった。
パワハラをしてくる先輩には、他人も聞いている中で面と向かって「あまりしつこいと訴える」と言ったところ、腫れ物を触るような対応をしてくるようになった。
軽んじた態度を取る後輩達は、暴力を振るってきた上司の目の前でその増長した態度をきっちりと叱った。部下の僭越を嗜めるのが仕事の上長は、一切口を挟まなかった。(その後輪をかけて、腫れ物を触るような対応をしてくるようになった)
中でも一番調子に乗っていた下っ端は、まるでしぼむように勢いをなくし、唐突に別の同業他社行きの道を選んだ。
暴力を振るわれた直後に真っ先に病院へ行き高い金を払って取ってきた診断書を、「雇用主に出さないでくれ」と懇願してきた上長は、暴言を吐くのをやめて腫れ物を触るような対応をしてくるようになった。
職場は音をなくし、静かになった。
要するに、「誰かを犠牲にする事で成立する平和」を破壊した、という事なのだろう。
もう、後輩のおしゃべりには付き合わないし、先輩にもコミュニケーションを計らないし、上長とも業務連絡しかしない。
自分の方が圧倒的に優位だと思い見下していた相手に盤面をひっくり返され、プライドが高くまた職場でしかわがままの言えない彼らは、虎視眈々と反撃の機を窺っていると思う。
書かなかったことだが、ここに登場する以外の先輩にも三年間至近距離で毎日毎日皮肉を言われ続け、最終的に、このままこの態度を続けるならパワハラで告訴すると言って黙らせた事がある。
先輩はその後ほとんど皮肉や嫌味を口にしなくなったが、その仕返しのつもりか、後輩がなめた態度を取ってくる(取らせる)ようになった。
なのに、職場のほぼ全員に対して結局は、子供相手のような警告をきっちりしない限りは、普通の職場生活と当たり前の平穏すら手に入らなかった。
その事実が、何よりもむなしい。
もちろん、これで一件落着ではない。執念深いのがこの業種と田舎者の特徴だ。これまでに二、三あったように今後も相手からの反撃はあるだろう。
今の状況的には、同業他社へと移る後輩を共通の攻撃対象と設定し、職場全体で盛り上がり、残る者の連帯を強める事も可能だろう。
だが、それをする事はない。愚かなことだからだ。
やられそうになった事を相手にそのままお返しするのはきっと自業自得というもので、ペナルティもないのだろうが。
やらないし、やりたくない。これ以上少しでも関わりたくない。
そもそもこんな下らない諍いに巻き込まれる為に仕事をしている訳じゃない。
しかし世の中、桃源郷などどこにもないし、青い鳥もどこにもいない。
仕事に対する熱意は就職当初からないし、職場の人間にもそこまで期待はしていなかったが、これだけ酷い目に遭ってもやはり辞めようとは思わない。
仕事に嫌気が差し職場を退いて実家に引きこもり、親にいたわられつつ職場に対する恨みを何年も抱えながら心療内科に通い続ける生活とか。
何か代替物を求めて新しい職業へと転職し、今まで味わった不幸せの対価を得ようとするかのように目を血走らせて幸せを求める生活とか。
そういう未来と、今の現実の生活とを交換する気にはやはりなれない。どうしてもなれない。
今貸したお金ならば、今ここで、貸した相手本人に、少しずつでもいいから返して貰うのがやはり筋だろうと思うからだ。
やられ損にはしたくない。
そう思い、職場を避けるのをやめ、むしろ積極的に職場をあれこれと個人的に利用するようにしている。私物もだいぶ増えた。
職業に期待しない。職務に期待しない。職場に期待しない。求めるものは求めるだけ、何を利用してでも自分で得る。
社会に出てから心に決めた基本姿勢ではあったが、曖昧だった部分が消え、一層鮮明になった気がする。
暴力を振るわれた直後、職場の近くの総合病院(その日は専門医が休み)へ行って診察を受けようとした際、ケガの原因を聞かれて職場で振るわれた暴力ですと答えたら、専門医ではない医師は自分では診断書が出せない(だから勝手に治療もできない)と言われ、やむなく専門医の住所だけ聞いて、隣接する市まで40kmほど車を走らせた時の、シートベルトと胸の傷のこすれる痛み。
コストかかるけど、研修で2週間くらい外界と引き離すのもポイント。
マインドコントロールは、基本的にどのようなものであっても
後重要なのは、何の実際的効力も無い「儀式」や「戒律」を上手く取り入れること。
要するに、「特殊な集団の栄えある一員」という感覚を滋養するためには
無駄に賢しい奴のふるい落としになるしね。王将や居酒屋甲子園のあの馬鹿馬鹿しい業務にも
それなりの合理性がある。
マインドコントロール系の書籍はたいした数が出てないから全部読むといい。
あとは宗教団体の運営マニュアルをまとめた「完全教祖マニュアル」が使えた。
それも執拗に繰り返し繰り返し「私は駄目な人間です、しかしやります」と繰り返させる。
ある種の自発性が伴ってないと半年もたない。
振られた原因はおそらくこれではないかという
原因がわかったので追記。
付き合うのにも若干時間がかかり苦労した。
今年になって問題なければ結婚しようみたいなことを
言っていて、そこで彼女は本当にこの人を信じていいのか
とても迷ってしまい、
このトラウマと僕を好きな気持ちで
それで信じる恐怖とトラウマを克服できず
別れることを選択したようだ。
愛されている証拠が欲しいって懇願していたのは
トラウマと戦うための武器とパワーを欲しいって懇願していたんだと思う。
色々理由をつけていたけど、問題は背後にあったんだと思う。
そんなに苦しんでいたこと、それに気づけなかったこと、何もできなかったことが
本当に辛い。
ねえねえこのあとどうしよっか何処か行きたいところとかあると聞かれてうーん僕は特にないけど疲れたから休めるようなところがいいねと答えるするとじゃあ今日は泊まっちゃおうかと言うので驚いた顔をして本当にいいのと尋ねるとうん大丈夫だよ私もう準備できてるからと恥ずかしそうに応じるああついにこの日が来たのだ今夜俺は男になるんだ念願の夢がやっと叶うんだそう思いながら生まれてはじめてのホテルへ向かう一緒に歩く彼女の頬は心なしかほんのり赤い二人とも言葉は交わさずうつむきがちであるホテルの部屋に入ると彼女はベッドに座りわあすごいふわふわだねと無邪気にはしゃぐとりあえず俺も隣に座ってほんとうだね寝たら気持ちよさそうだねと適当に応えるが心臓は今にも破裂しそうなのでこのままやったら死ぬのではないかと心配になる彼女はやおら立ち上がりじゃあ私先に浴びるねとバスルームへ向かうこういう時は一緒に入るのが普通なのではないかと思いつつもそんなことを言い出す勇気は無いためうん待ってるねと笑顔で手をふるバスルームから聞こえてくるシャワーの音を聞きながらにわかに興奮してくるけれども息子はふにゃふにゃのままなので緊張している自分に驚くさあそろそろ出てくるころかと思うと居てもたってもいられずベッドの周りをぐるぐる回り始めるが折から彼女が出てきてえっ何してるのと不思議そうにつぶやくはははと笑いながら目を上げるとそこにはバスローブ姿の天使がいた細身の体は透き通るような白さで胸の辺りだけがまあるく膨らんでいるよほど恥ずかしいのか目を合わそうとはしてくれない俺は天使の体を抱きかかえベッドに連れ込むきゃっちょっと待って何するのごめんもう我慢できないよ優しくするから大丈夫いやせめてシャワーを浴びてからにしてと彼女は懇願するけれども明らかな変化のみえる俺の股間に気がついたのかようやく男を受け入れる覚悟をしたようだった俺は夢中で全身を動かす無料動画で見たとおりに動かす本能のおもむくままに動かしまくるすごいすごいこれが女なのだ辛いこともあったけど今日まで生きてきた甲斐があったあきらめなければ叶うそれが夢なんだわあすごいわあすごい女ってほんとうにすごいすごすぎるよああええおおいっくううううううううう
ドライブ中にナニをちゅぱりだす、朝起きたらナニをちゅぱってるのがデフォだった。
それ以外にも色んなプレイを試したがる女だった。
ザ痴女という名にふさわしい女だった。
相手はボクの先輩だった。
その先輩とは何となく気まずくなり、疎遠になって行った。
だけど痴女の方は、ボクがぞっこんだったため、何とか関係の修復を懇願した。
しかしそんな思いとは裏腹に、痴女は手あたり次第男を漁りだし、やがてボクの前から消えることになる。
俗に言う着信拒否というやつだ。
ボクの何が悪かったというのか・・・。
この時はかなり荒れた・・・。
その数カ月後、痴女の傷も癒えはじめた頃、ボクは就職生だった。
そんなとき就職フェアに企業側の担当者として来ていた例の先輩にバッタリ会った。
タバコでも行こうか、と外に誘われる。
ボク「・・・・。」
ボク「・・・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「本当にごめん・・・。」
先輩「すまん・・・。」
ボク「未だに分からないことがあるんですが聞いていいですか・・・?」
先輩「うん?何でも聞いて」
ボク「なぜ彼女は浮気したんでしょうか? ボクの何が悪かったんでしょうか・・・?」
ボク「何か知っていることがあれば教えてください。」
先輩「・・・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「・・・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「・・・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「1つだけ・・・。」
ボク「1つだけ?。」
先輩「1つだけ、彼氏の生理的に受けつけないことがあるって言ってた・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「・・・・。」
ボク「教えてください・・・・。」
先輩「・・・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「・・・・。」
ボク「・・・・。」
先輩「我慢汁が多すぎて口でするのが気持ち悪いって・・。」
ボク「!!!!」
衝撃の事実だった。
そもそも我慢汁の適正量ってどのくらいなんだろう?
例えばナニのサイズや、挿入時間なんかは客観的な数字を出しやすいから、他人と比較しやすい。
だけど我慢汁は・・・。
その日以来、ボクの中で我慢汁が12年もトラウマになっている。