はてなキーワード: 仏教とは
豊田市美術館に行ってまいりましたわ。
平日なのにすごいお客様で驚きました。大半がお年寄りでしたわ。
敷地の端に建っている櫓をみて盛んに「城」とおっしゃっているのを耳にして、
天守どころか櫓でも城とイコールにされてしまうのだと世間の感覚を思い知りました。
ここのものは七州城の復元櫓ですが、あのような認識の方が多いのでは
そのままの配置で展示されています。
恥じらいもなく大量の群青と緑青を使った波濤の絵は圧巻です。
全体的に薄暗くなっていたのは、顔料が繊細な日本画の保存のためだと
思われますの。
また抽象の力展も同時開催されており、
頭の良い監修者がうまく説明されていました。
なにせミュージアムショップでカタログが売り切れているというのですから、
コンクリートの容器に、コンクリートの破片を詰めた高松次郎の作品
わからないものでもヒルマ・アフ・クリントの初期抽象作品はなんとなく
好きになれました。
いちばん分かりやすかった抽象芸術はコンスタンティン・ブランクーシの
こんな破廉恥な展示が許されるのかしらと作品の前でどぎまぎしてしまいましたわ。
対応しそうな作品としてルーチョ・フォンターナのピンクに塗りたくったキャンバスに
赤い縦の貫通穴をほどこした作品もありましたけど、
コンスタンティン・ブランクーシのせいで、そういう目になっていただけかもしれません。
恐ろしげな世界をあじわえました。
ファイナルファンタジーの初期イラストを描かれた天野先生の作品に
少し印象が似通っています。
小嶋悠司作品は抽象の力にあった、熊谷守一の作品「轢死体」とならんで
SAN値を下げてくださいました。
再入場できない東山魁夷作品を最後に見るべきでしたわ・・・・・・
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
のもりのかがみ【野守鏡】
鎌倉時代の歌論。作者は,源有房,天台僧(氏名不詳)など諸説がある。1295年(永仁3)9月に成立。書写山(播磨の円教寺)に参詣したおりに住僧から聞きえた話を紹介するという趣向は,《大鏡》などと同巧。上下2巻から成り,上巻では二条派的な平淡美を重んじる歌論を説き,京極派,とくに為兼を批判,下巻ではおもに宗教論を述べ,禅宗や浄土宗を非難している。反京極派の歌論として,また仏教思想史上の資料として貴重。【赤瀬 知子】
出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報
【歌論】より
…為家の子の代で,二条家,京極家,冷泉(れいぜい)家と歌の家が三つに分裂し,以降,派閥争いが激化したために,〈歌論〉も本質を理論的に深めるという方向ではなく,派閥意識をあらわにして,他派を攻撃するケースが増えていったからである。たとえば《野守鏡(のもりのかがみ)》は作者未詳の歌論書であるが,二条派の立場に立って為兼を初めとする京極派を攻撃した書であったし,《延慶両卿訴陳状(えんきようりようきようそちんじよう)》と呼ばれる,《玉葉和歌集》の選者をめぐっての二条,京極両家の厳しい対決を伝える応酬もある。南北朝・室町時代では頓阿(とんあ)の《井蛙抄(せいあしよう)》,二条良基・頓阿の《愚問賢注》,良基の《近来風体抄(ふうていしよう)》等の二条派の歌論書,冷泉派の今川了俊の《弁要抄》《落書露顕(らくしよろけん)》などがある。…
夫のごはんだけ先によそっておいて、冷めるまで放置、というプロセスが、
なんていうか思考停止してしまいたくなるぐらいの禁忌行為に思えてしまった。
せっかくのつやつやほかほかのごはんがカピカピに乾いてしまいそう……、とか、
真っ白でほかほかの湯気が立つごはんに塵が落ちたら……!とか
想像しただけで手が震えて、放置しておく、というのが出来なそうな気がする。
奥様が私と同じ、ほかほかごはんとあつあつみそ汁教徒なのか、そうじゃないのかは分からないけど。
ほかほかごはんとあつあつみそ汁教は、実は隠れた日本の伝統宗教なので、理性で割り切れる問題ではなくて
もう宗教的倫理観と密接に絡み合った生活習慣になってしまってるんだよね。
例えとしては、仏教になっちゃうけども「仏様に上げるごはん」みたいな気がしちゃうというか。
それを愛する夫に食べさせるなど……!お米の神様(ほか教の神)に申し訳が立たない
ところで、私個人は、お弁当の冷やごはんは、冷たいまま食べるのが当たり前なので全然気にならない。
実際に増田が例に出している駅弁はじめ、冷めてから食べるお弁当は、おかずも含め「冷めて美味しい」ように調味されているし。
一方で、コンビニ弁当のごはんをレンジで温める行為は、何となく、……違う。と感じる。
コンビニ弁当ほかほか問題は、教義原典では言及されてないので、教徒内でも意見が分かれるところなんだけど。
あと寿司のごはんは冷やごはんではあるが、あれも完全に冷たくするのではなくちょっと温いぐらいが、ほか教では「よろしい」とされる。
で、解決方法として一つ思いついたのだが、ごはんをいつもおにぎりにしてくれ、というのはダメだろうか。
ほか教では、おにぎりを握る時には、ごはんがあたたかい状態で握ることが絶対正義とされているのです。
一方で、炊きたてすぐをおにぎる時には、手のひらのやけど恐怖と闘いながら、愛情をこめてにぎることが教義的に正しい。
おにぎっている作業の過程でおにぎりは冷めていくし、ほか教的にも「正しいほかほかごはんへの態度」を取り続けることができる。
勉強に気が進まないなら、気晴らしを兼ねて読書はいかが。物事の観方と読解力が両方手に入って、大学受験の気晴らしには一石二鳥。
何を読むかだけど、増田の状況であれば、自分で自分自身を理解するのと自分の考えを整理するのに役立つ本がいい。
・仏教は心の科学 アルボムッレ・スマナサーラ(仏教僧)
■生き方の参考にする
・素人のように考え、玄人として実行する 金出武雄(工学博士)
■考えを整理して計画し実行する
・ストレスフリーの整理術 デビッド・アレン(経営コンサルタント)
全部ほんとうにおすすめ。ざっくり順を追って読むといいけど、もし一冊だけ手に取るなら「森田療法」を勧めるよ。
後は、ペースづくりのために相談に乗ってくれる相手をつくること。例えば、メンタルクリニックやジョブカフェで相性良い人を探すといい。こちらが現状を打ち明けるのを批判せずに聞いてくれて、一緒に考えてくれるけど、最終的にどうしたいかはこちらにゆだねてくれる人(いわゆるコーチ的な振る舞いをしてくれる人)がいると心強いね。
このエントリはボンバーマンジェッターズのネタバレを含みます。まだ見ていない人は今すぐ見てきてください。その後この増田を読むかどうかは関係なく今すぐ見てください。
さて、7つ目のボムスターをシロボンが与えられたとき緑色の光を発しましたが、アレと同じ色の光が作中で出てきたことがあります。
決死の覚悟を決めボンバーマンとしての使命を貫く瞬間、マイティが投げたボムの色がまさにあの緑色なんです。
そのボムの名は「サニティボム」、サニティ、つまりは正気という意味。
ですが、ゼロに残されたマイティの姿はまさに正気そのものだっのです。
人々の期待に応えるために自分を見失っていたマイティではなく、自分の大切な人を守りたいという思いに燃える、優しく気高いかつてのマイティだったのです。
ボンバーマンはボムスターを集めていくなかで、ボムスターを集めたことによる慢心、そして真のボンバーマンという栄光への思いに取り憑かれていきます。
シロボンも何度となくボムスターを手に入れる事を焦り、ボムスターを手に入れたことに驕っていました。
これは私の勝手な妄想ですが、7つ目のボムスターはその真逆の方向にあるのではないでしょうか。
手に入れてきた物に囚われず、栄光に目をくらませず、純粋に自己実現を求めていた頃の思いこそ、7つ目のボムスターなのではないでしょうか。
シロボンが7つ目のボムスターを手に入れたとき、その気持ちは純粋に今目の前にある世界の危機を見つめていましめ。
人を助けたい気持ち、人々を守るボンバーマンのあるべき姿でありたい気持ちが極限まで高まっていました。
そこに最後のピースとして、マイティが与えたモノが、マイティの弟であり、マイティが信頼するシロボンであることの再認識、つまりは自分ならば出来るという自信です。
人というものは自信がないと、様々な理論武装を固めてしまい、心が硬直してしまいます。
かつてマイティが己を見失ったのも、自分が心のボンバーマンに相応しいかどうかという事に迷い、自信を失ったからです。
そのマイティを救ったのは、シロボンの純粋な憧れの目、自分への絶対の信頼でした。
そして、物語の終わりで、マイティがシロボンに送ったものも、シロボンの純粋さひたむきさへの純粋な信頼なのです。
自分を真っ直ぐに信じることから生まれる、ある種の悟りのような状態こそが、7つ目のボムスターなのです。
さて話は表題へと移ります。この世界には悟りも悟りに対する無知すらもないと語る教えこそが般若心経です。
そのマントラに「ぎゃーてーぎゃーてはらぎゃーてーはらそーぎゃーてーほーじーそわか」というものがあります。
これは「行きなさい行きなさい彼岸に行きなさい、彼岸に行くものよ幸あれ」という意味だそうです。
これの意味を詳しく語ることは私には恐れ多くて出来ません。
それはさておき、この言葉が7つ目のボムスターと近しいものように私は感じるのです。
7つ目のボムスターを手に入れよう手に入れよう、手に入れた者こそが真のボンバーマンなり幸あれ、どうでしょうか?
7つ目のボムスターを手に入れたボンバーマンこそが、真のボンバーマンです。
しかし、真のボンバーマンに執着していては7つ目のボムスターは手に入らないのです。
ですがそれは悲しいこととして描かれていません。
真のボンバーマンであるということは、そこがゴールであることを意味します。
今より自分を高めたいと願い純粋に日々を励む人生にこそ、曇りのない幸福があるのでは無いでしょうか。
今よりよい明日を信じて祈るように、ボンバーマンは日々7つ目のボムスターを探すのです。
そして、その境地に達した者が、ただ純粋にボンバーマンの使命感に燃え、自分の限界を引き出そうとするとき、真のボンバーマンとなるのではないでしょうか。
そして、その者が真のボンバーマンであるがゆえに、日々をよりよく生きようとする願いに応え、7つ目のボムスターは再び姿を消すのではないでしょうか。
ふと夜中に寂しくなり、唐突に子供向けアニメの考察をしてしまいました。
どうもお目汚し失礼いたしました。
http://anond.hatelabo.jp/20170425210458
一番エグいと思ったのは、男子の後継者がいないので養子をとって寺の娘と結婚させ、子供が生まれてしばらくしたら離婚して養子を追い出して、住職から孫に継がせるという話。
誰が聞いてもエグすぎると思うんだけど、こんなことは実際に横行しているし、寺だけでなく教団の要職なんかもデカい寺の世襲坊主で寡占している現状もある。
後継者がいない場合は親戚寺院の子弟とかで補充するのでそこらじゅう親戚だらけ。議会議員は会派や政策関係なく、親戚の多い人が当選する。
教団職員は宗門大学のゼミ閥&世襲の寺の子弟で占められるので、息が詰まりそうなほど集団の同質性が強く、パワハラが横行。うつ病で休職する人が後を絶たない。
この外から人を入れる努力を全くしないで、世襲と血縁でギトギトに利権を分配している組織が、「差別をなくそう」とかキラキラした目をして社会運動しているわけです。笑っちゃいますよね。ワタクシには全く理解できません。なんだか頭がクラクラしますよ。
http://www.sankei.com/west/news/170426/wst1704260015-n1.html
うちの宗派の話じゃないけど、まあどこも似たり寄ったりです。
で、じゃあ、世襲が全くダメなのかというと、そうとも言えないような現状もある。
お寺に入りたいみたいな人は確かにいます。でもね、そういう人って結構お寺を選ぶんですよ。田舎の食っていけないようなお寺に入る人なんてめったにいません。というか、紹介しても断られる。まあそりゃ、食べていけない職業に自らつく人なんていませんわな。
一方、世襲の人はお寺を選ぶなんて出来ない。貧乏寺だろうと田舎だろうとそこに生まれた自分の運命を引き受けて、なんとか他に仕事を見つけて兼業で頑張ってる訳です。実際の所日本の仏教ってそういう人たちが支えています。月曜日から金曜日まで働いて、土日で法事をこなして、お寺の行事のときは会社を休んで、会社員住職は自分のボーナスや退職金を寺の普請につぎ込んだりする。頭が下がります。
確かに坊さんらしくはないかもしれないけど、人の中に入って人と同じように働いて教えを残している人たちで、そういう所に「寺生まれじゃないけど、お寺をやりたいんです」とキラキラした人が入ってくるかというと、なかなか入ってこない。
うちの寺もそうなんだけど、日本のお寺の大部分は「食べていけないお寺」なんですよ。そんなの世襲じゃなければ継ぐ人なんておらんよねとは、やっぱり思いますよ。
元記事の増田は、お寺を兼務している人が在家の人に譲らないと言って嘆いていたけど、実際はそうでもないですよ。現状を知ったら尻込みして来ないんですよ。
あ、ちなみに僕は在家出身、つまり寺生まれじゃない僧侶です。だからこの世襲ドロドロの寺社会で相当嫌な思いもしてきたし、今もしてる。まあでもね、経済的には全く得にならん、というか思いっきり自分の人生を縛ってる寺ってものを、それでも代々守ってきたお寺だから、仏教は素晴らしいからって継いで残してきた人は尊敬していますよ。
http://anond.hatelabo.jp/20170425210458
前から思ってたんだけどさあ。
酒飲まない、不道徳セックスしない、嘘つかない、殺生しない、盗まない。
俗世に生きる人でもこれくらいはまもろうねってゆるめの戒律。
肉食って酒飲んで嘘つく坊さんどこにでもいるだろ。
日本の坊さん一個も守ってないんじゃねーか?
なんで嫁さんいるの?なんで財産持ってるの?なんで金勘定してるの?なんで経済活動してるの?なんで修行してないの?なんで下らない娯楽で心動かしてんの?
嘘ついたりだらしないセックスしたり飲酒したりしてたら在家レベルの修行もできないし、
実利的に戒律があるわけ。
修行というなによりも大事なことに全力で取り組めて出家は嬉しい。
坊さんであったらもうものすごい人格と智慧持ってないとダメで。
世の中には離婚して再婚するハゲもいるし、二股をかけて「自分は日本の仏教を正したい」とか言ってる肩書だけの律僧もいる。
披露宴で新郎は袈裟を着けて登場、嫁さんは白無垢の角隠しを着けて現れた時は何の冗談かと思ったよ。
それはそれはアニメか映画の世界の中に飛び込んだ気分だったぜ。
付き合いもあるから「おめでとう」と声をかけたけど複雑な気分だったな。
明らかに新郎は嫁側の金目当てだったし。
仕事の付き合いで行った別のハゲの披露宴は、グランヴィアホテルを使って引き出物がカルティエとかね。
袈裟を着けて飲酒して、袈裟を着けて嫁を娶って僧侶なんだもんな。
俺も楽してレクサス乗りてーなー。
あーおめでたいね。
元増田です。
私は妻帯世襲反対派です。
1:日本の現状として仕方がない
2:日本の戒律は大乗菩薩戒(梵網戒)だから不邪淫戒は不倫をしないということで結婚は大丈夫
3:明治5年の太政官布告「僧侶の妻帯勝手たるべし」に由来する
まず(1)は寺門興隆の為とか何とかいいます(建前)が、それで興隆するのは家門(本音)です。これは「寺=私有財産」と考えられていることに関連している言い訳だと思います。
(2)少し専門的ですが確かに梵網戒(ぼんもうかい)は、不邪淫を説くだけで具体的なことは述べていません(梵網戒は日本仏教の中では最も依拠されているもの)。解釈も時代によって大きく異なっていますが、現代のように「不倫しない」というのは、「なんで僧侶なのに妻帯しているの?」と聞かれる頻度が増した現代的な解釈だと思います。しかし宗団が依拠する経典を読むと「性交渉」そのものを禁止しているので「不倫しない」は現代的に都合のいい解釈かと思います。「経典<解釈」という現状がここで浮かび上がります。
以上のことから、私の意見としては「僧侶として結婚をして子どもを産んで育てて世襲させる根拠はない」です。
余談ですが、必ず引き合いに出されるチベットやタイのお話です。
彼らと接して話をした上で分かった程度の知識です。
それは短い期間でも出家することが親孝行という一面があるからです。
僧侶になったのに還俗するということは、ある意味で棄教とも取れる側面があるので、それはそれで問題かと思います。
厳密に戒律を一生守る僧侶は日本と同様に極めて少ないと言っていいと思います。
また全ての戒を守るわけではなく、多くの戒律の中からの自分の守れそうなものを選択して僧侶になります。
次にチベットですが、戒律復興運動が起きて「根本摂一切有部」という戒律に則っています。
しかし、この戒律復興が問題を引き起こしまして、チベット仏教が誇る「性ヨーガ」が戒律と矛盾する状態に陥りました。
そこで実際の性交渉を避けて「頭の中で性交渉を思い巡らすんだ」という修行法が制定されて、それが現代の主流になっています。
こういう現象が続いたことが明治の廃仏毀釈に至ったわけで、その時代に各地で失われた多くの文化財のことを考えれば、放置すると仏教界だけでなく日本全体にとって不利益というのは分かる。ただ、「そういう目に遭ってもなお性懲りもなく同じことを繰り返す人々」なわけだよな。結局、体制自体を変えないとダメなんだろう。
地元の様子を考えるに、僧が寺を「我が家」のようにして後を継いでいくのが100%悪いとは思わないのだが、後を継ぐ肉親がいなくなった時点ですっぱり手放すという決断を自分でできないのが問題なのだと思う。知り合いのところも、子がダメなら孫、みたいな感じでなんとか後を継がせようとしてた。それは結局「自分が住み慣れた家(寺)から出て行きたくないから」なんだよね。
かといって、増田のあげた例で言うなら、「養子で入った新しい住職」の権利を強めると、今度は「信じて入れた養子に冷たく追い出された高齢の元住職夫妻(あるいは元住職が亡くなって、妻のみが追い出される等)」といった別な方向の修羅場が発生するだけのことだと思う。難しいね。
とりあえず、元住職夫妻限定で入れる素敵な養老院を、本山が出資して整備してみるとかそういう方向での解決はどうなんだろうかね。