はてなキーワード: 仏教とは
「恥をかくこと」
どんなアイデアも顧客候補に話して行けるかいけないかを聞かないとならない。
表面にこにこしつつそれ無理じゃね?と言われることが多く恥をかく。が、こうならいけるかも?みたいなのを拾い上げて商品を修正して物にしていく。
でも、実際は恥をかくのを恐れて自己満足でおわらせる。
「疑われること」
起業家社長は信頼もない。ま、起業したよって言って、起業したの?スゴーイなんて言ってくれる人は正直世間体で言ってくれるようなものだから、正直真に受けれない。
多くは世の中にないものだから、そんなもの本当にうまく行くんか?とは思われる。今までの常識でそれはうまく行かないんじゃないの?と言われる。
けど、それを受け止めて、必死で考えて「いや、これはこうこうこうだからうまく行くんですよ!」というシナリオを作らないとならない。
「嫌われること」
まず、嫉妬される。次に、方向性が違うものを部下に押し付けられるかもしれない。
嫉妬はホントどうしようもない、それを元にこちらの仕事を邪魔される可能性もある。だから、近くにいてこちらの仕事に邪魔されるのを感じたら、即効逃げないとならない。
回りもまとめて切る必要もある。まあ、そもそも嫉妬心を抱かせるような行動を厳に慎まないとならない。
それから、こんなもの売れないだろ?という提案を部下にゴリ押しされるかもしれない。けど、作ったものに責任を持ち、失敗したら借金を抱えるのは社長。
話を全く聞かないのも良くないが、状況見定めて、あるいは話を聞いてもダメなら嫌われるの覚悟で切らないとならない。切らんと仕事にならんし。
人間よく思われたい。いい人でいたいと思いたい。でも、その落差に苦しむことがある。
よく思われたい、いい人で思われたいって感情は小池龍之介氏解釈の仏教だと「慢」と言って、それが大きすぎると、非難に弱くなる。自己愛と言う言葉が近いかもしれん。
そんな非人間になるのが創業するということ。垢と汗にまみれて、肥溜めから這い上がるようなもの。
自己愛・慢は傷つけられるもの。でも、なにかそこら辺を捨てて得られるものがあると思うから創業するんだろ?
そんなのないのなら創業なんかしないほうが良い。起業いいよいいよとおだてる無責任な奴に踊らされるな。
半分今の自分に対してかく。
宗教全体の批判なんてしてない、だから宗教をなくせとも言ってない。宗教の中の権威主義が犯罪を生み出してることを徹底的に批判してる
権威が犯罪を生み出していれば、それは批判され破壊されるのが当然。
宗教の権威を利用した性犯罪もそう。どうしても矮小化したがるが、宗教ではずっと権威による性犯罪が問題にされてきた。それは、キリスト教だけでなく過去の仏教もそう。いままでの勘違い発言は全部見逃してきたんだからより知識のある人に対して勉強しろといって逃げず、自分が宗教と性犯罪の関係性や深刻さを学ぶべき。
夏になり、もうすぐ8月になろうとしている。多くの商業施設が沢山の来場客を見込み、また期待に胸を膨らませるのはゲーム業界も同じである。携帯端末の普及により、顧客(となりうる人たち)が増加し、今まででは考えられないスピードで新たなゲームたちが生まれ、その速度と同じくらい飽きが生まれ、開発企業、ゲーマー共に「新しい」ゲームを求めている。
ここに寄稿するのは初めてだが、この状況は書くべきだろう。いいや、書かなくてはならない。DMMについて。
「擬人化された女の子たちと戦うゲームは?」と、聞かれれば、まず最初に思いつくのは「艦隊これくしょん」であろう。2015年にサービスが開始されたこのゲーム、旧帝国海軍艦船を擬人化し、その彼女たちと一緒に自身は「提督」として、海に乗り出し戦うものである。サービス開始後物凄い勢いで人気が上がり、現在では多くのプラットフォーム、媒体を通して発展した結果となった。特に戦艦や軍事に興味がなく、なんとなく始めたと言う人も、その可愛さやゲーム性から、軍事や歴史が好きになったと言う人たちも多い。
擬人化を通してその先にあるものをプレイヤーに見せた功績は、高く評価するべきだろう。
しかしこれと同時に、DMM含め多くの開発側は知ってしまった。擬人化の力を。
では今、彼らが次に女の子にしようとしているもの、それは何だろうか。神社である。
神社と言えば日本には馴染み深く、その神々の歴史は建国まで遡る。初詣や七五三も神道のイベントであり、仏教と共に日本人の生活に根付いている。
そんな神社神道をターゲットにした"例の"ゲームサービス発表は、今年3月に行われた。
「社(やしろ)にほへと」と称されたそのゲーム、ゲームの内容としては、日本中の神社の建物(この建物であると言う点が重要。)を女の子にして、よくわからないものたちと戦う、と言う設定だ。
筆者も公表がされたその日に、事前登録を済ませ、正式サービス開始を楽しみにしていたが、正直そのとき思った感想が「そう来たか。」である。
艦これの前例の様に、上手く行けばもっと多くの人たちに神道に興味を持って貰える、今回は実際に存在している場所なので、ファンたちが聖地巡礼として実際に多くの神社を参拝してくれるかも知れない。そう個人的には期待していた。他の事前登録者たちも、今までにない宗教を対象にしたゲームである事に様々思いつつ、運営の次の出方を待っていた。
しかし、私たちは突然、何の説明もなく、運営に待ったをかけれる事になった。
事前登録を済ませた待機者たちには、「事前登録おみくじ」が引けるようになっており、それぞれには初期メンバーの女の子が割り振られており、一日一回ランダムで大吉から凶までのおみくじが引けた。最初暫くはまだ安定して引けていたが、4月25日から、今まで行われていたおみくじが全てストップする。
Twitter公式アカウントによると、「不具合」が、発生したようである。筆者はそのような企業システムに詳しくないので、勿論最初は「ああ、いろいろスタートアップっで忙しくなって、改善の為に一度止めたのだな。」と、思った。プレイヤーも始まったばかりの企画のそのような自体の発生には慣れているので、特に大きく騒ぐ事なく復旧を待っていた。しかし、不思議、いつまで経っても治らない。そろそろプレイヤーも不安になってくる。
この当たりで、匿名掲示板等である噂がささやかれ始める。それは、「神社側の許可を取っていなかった。」と言うものである。
有り得ない。そんな馬鹿な。そうかも知れない。様々な意見が飛び交う中、公式からは何の追加情報もない。そして、筆者も思うようになった。本当にそうかも知れない、と。
最初の匿名掲示板の、このゲームのスレッドが立ってから、今現在までも書き込みは続いている。はっきり言って事実だと断言できる答えはない。しかしながら、運営は何かを隠している…。大型アップデートのサプライズにしては不自然過ぎる。
無許可説浮上については、全くの事実と証明する事はできないので、その疑念があくまでも仮説として話を進めていく。
もし企業側、開発が、本当に神社本庁及び初期メンバー対象の神社に何の許可、趣旨の伝達、商業的利用の許可を取っていなかったとしたら、これは大変な事である。将来的に初期に約束した通り正式サービスに移行できなかったとしても、その神社をキャラクタとして使うのだから、ひと言あって当然だ。事前登録した人たちも、そのゲームの将来性に期待して柱の一本になったのだから、開発続行が危うくなりそうな事態が起これば、Twitterなり公式サイトなりで事情を説明するのが当たり前である。新着ゲーム一覧から消したりYouTubeの公式PVを非公開にしたり、そう言うみみっちい事は素早くやったのに、するべき事はしない。それでいてTwitterアカウントは残したままと言う謎である。
擬人化の手法は、受け手に取ってはとてもわかりやすい。なにせ自分と同じ人間のひとりになるのだから、会話もできるし、感情移入もし易い。又、擬人化の対象も限定しない。石ころもできるし、車からビル、太陽系外惑星もできる。しかしながら、ひとつ絵を書いて名前をつければ、「かわいい。」の原理の前にもう何も考えなくて良い。そして、今回のこの事件は、森羅万象美少女化主義の事故だと考える。事態の進展は全くわからないが、最早ここまできて正式サービス開始したら、間違いなくDMMは神の民間企業である。彼らの前に吸収されない物事はない。
ポンと結論を書く終わり方にはできなかったが、皆様には筆者と共に、事の成り行きを見ていて欲しい。行き止まりまで行かないと、自分が袋小路を進んでいた事すらわからない場合もあるから。
俺は「裏で言うと」なんていう数学用語をわざわざ使えとも言ってないぞ。「逆に言うと」なんて前置き付けなきゃいいだけだろ。そのくらいのことも思いつかないの?
逆と呼ぼうが裏と言おうが、俺の言ったことからお前の言ってることが論理的には帰結しないことは確か。
他人に「人殺し」と呼ばれることは、たしかにそんなに頻繁にないかもしれないが、だからどうした?他人から「痴漢!」と呼ばれて痴漢に間違えられることも、「泥棒!」と呼ばれて万引きに間違えられることも、なかなかないよな。頻繁にあることではないからこそ、あらかじめ議論して対策しておく必要があるんだろう?
仏教には「縁起」という考え方がある。この考え方は簡単で、すべての物事には理由があり、自分が何かをしたら、巡り巡って、それが思いもよらない他の事象を引き起こしているかもしれない、という考え方だ。科学的には、バタフライ効果と呼ばれているものと似た考え方だ。今日、蝶が一回羽ばたいたら、それは、遠く離れた土地のハリケーンの原因かもしれない、というやつだ。
仏教は、縁起を大事にする。あなたが生きていることが、巡り巡って、誰かの死に繋がったかもしれない。あなたが道を歩いていたら、道を歩いているあなたを他人が見たことによって数秒、その車の進みが遅れ、その遅れによって、他の人が交通事故で死ぬかもしれない。
この考え方を突き詰めていくと、全ての人間は、誰かの死の原因になっているかもしれない。つまり、私もあなたも、生まれてきた瞬間に誰かの死の原因になっている可能性がある「人殺し」なのだ。だから、真の仏教徒であるならば、「人殺し!」と詰られても、憤ってはいけない。それは、真実の姿であるからだ。我々の社会で、明確に人を死に至らしめるという「意思」を持って人を死に至らしめた人間のみが「人殺し」として処罰されるのは、単に、社会ではそういうルールにしておかないと誰もが簡単に人殺しになってしまって社会が成り立たないからで、本質的には、全ての人間が、誰かの死の原因になっているかもしれない「人殺し」なのだ。社会において「人殺し」となるのは、あくまで「裁くのが能力に限界のある人間だから」という理由で、あなたの行動と他人の死との間の因果関係を、他人が明確に認識できる場合に限定されているだけである。人間を超越した世界では、「人間が認識できる因果関係」という概念は無意味だ。
人間が認識できようが出来なかろうが、因果関係は超自然的な力によって決められていて、そのうち、人間が認識できたものだけが、人間社会では人間の都合によって裁かれているというだけだ。超自然的な世界では、人間社会の都合など考慮されるはずがない。たとえ、人間社会では罰せられなかったとしても、それは社会を成り立たせるための法律のルールによるものであって、仏教的には、全ての人間のすべての行動は、他人の死に繋がる/繋がった可能性があるかもしれないので、全ての人間は「人殺し」なのである。
不殺生戒(ふせっしょうかい, 梵: prāṇātipātāt prativirataḥ) - 生き物を故意に殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい, 梵: adattādānāt prativirataḥ) - 他人のものを故意に盗んではいけない。
不邪婬戒(ふじゃいんかい, 梵: kāma-mithyācārāt prativirataḥ) - 不道徳な性行為を行ってはならない。
不妄語戒(ふもうごかい, 梵: mṛṣāvādāt prativirataḥ) - 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい, 梵: surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ) - 酒などを飲んではいけない。
このうちの
不飲酒戒(ふおんじゅかい, 梵: surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ) - 酒などを飲んではいけない。
これは誰も、坊主ですらも守っていない。むしろ坊主の集まりでは必ず酒が振る舞われるという。この国ではお釈迦様の話など誰も真面目に聞いていないのだろう。
なんかそうだとしたら少しホッとするな。
いつも自分だけが精神に異常があるんじゃないか、自分だけが苦しんでいるんじゃないかと思ってしまうから
アダムとイブが知恵の身を食べて天国から追い出されたという話は、クリスチャンじゃないから信じていないけれど、その話を誰かが作ったことを想像すると本当に彼は人生に悩んでいたんだなと思う。
イスラム教もキリスト教も仏教も開祖した人は相当人生に悩んで、なんとか自分自身の現況を打開するために始めたのかなと思っている
キリスト教は良いぞ。
・金銭問題、嫉妬感情などが大体解決する。正確に言うと、人生を辛く感じても絶望に陥らずに済むようになる。
・欧米における2000年以上の議論の蓄積があるため、現代人が信仰を持つときにぶつかる問題、特に「合理主義(科学)と宗教との対立」がほぼ克服されており、受け入れやすい。
・同様に、とにかく蓄積が多いため、人生でぶつかる問題(結婚、病気、貧乏、嫉妬)のあらゆる点についての先人の議論に、キリスト教を通じて触れることができる。
・本による習得がある程度可能なので、教会に行くことに抵抗がある人でもしっかりとした信仰を持つことができる(そのためカルトにも引っかかりにくい)。
・西洋の文学、映画、歴史がよく分かるようになる(というかキリスト教の理解なしに文学やヨーロッパ史の勉強は無理じゃないかとも思う)。さらに勉強を進めるとアメリカの政治なんかも分かってくる。
・仏教やヒンドゥー教に比べれば勉強は簡単だが、それでもやはり難解。教会に行く場合は聖書購読にある程度参加し、行かない場合には注釈書を数冊読まないといけない。その意味ではインテリ向けとも言えそう。
・↑と関連するが、ある程度勉強が進むと周囲がバカに見えて仕方がなくなることがある。そもそも他人と違う価値観で生きることになるため、どうしても軋轢が多くなる。ただこれはどの宗教も一緒かもね。
瞑想やってないゼブラのせいですっかりネタ臭がついたけど、瞑想はあなたのようなそういうのにおすすめ
スピリチュアルじゃなくて、脳の構造をいじって未来のこととか過去のこととか妄想とかしない脳に出来るから
ヴィパッサナー瞑想について、本は色々出てるけどスマナサーラという坊さんの本がおすすめ
繰り返しで効果は高まっていくけどちゃんとやれたら一回で効果わかるよ
そういうくだらない思考やネガティブ感情が心に入ってこなくなって、意識は冴えてるのに無敵の膜が張られてるみたいな状態になる
普段ムカついてるようなことをされても我慢するのではなく怒りヶ生じずそこに心が止まらなくなる
もちろん過去のことなんかどーでもよくなるし無駄な感情や思考が起動しない
この分野についてはカウンセラーなんかより仏教のほうが圧倒的に優れたメソッドを持っているから
この増田の死ぬって肉体死(老衰死)だろうとおもうが、他にも死が有る。
犯罪などを犯して世間からクズ扱いされ愚痴や憎悪のはけ口にされる社会的死。
痛みがある肉体的死や病気。
脳死、
認知症による知性の死、
逆に知性があっても気力が失せて一時的に生きるのが辛くて死にたくてしょうがない鬱状態(気力の死)などある。
そうして考えていくと実は不幸だが肉体死が訪れなないまま生き続けなければならないのも
死ぬより怖い。
となると結局は「みんな元気で死なないのがいい」。
それは単なる半径5mの幸福で達成できる。
熱中症にかかると救急車で運ばれて5万円かかるし下手すると死ぬ。
じゃあ1人1人が工夫して自分や半径5m内の人が熱中症にかからないようにすることで、病院のベッドを1つ開けて、他人が生き残るチャンスをつくれる。
丹波哲郎さんの死後世界の説明が(宗教がない人にも)かなり受け入れやすいので調べてみよう。
追記
宗教でいえば、アイドルに全てを託して、アイドルに会えたり握手できたらその日死んでもいい、悩み苦しみもアイドルの一番好きな芝居してるときの写真にむかって告白してればなんか解消できちゃう。がキリスト教その他一神教。
逆に徹底的草食系になって、宇宙とか意識して好き嫌いの感情を常にフラットに保つことで死もこわくない。アカシックレコードの一部として生きるのが仏教。多神教というか、無神教。
どちらにもそれなりの救いはある。
どちらにもハマれず急に本当に辛くなったら、そのときはメンタルのお医者さんにかけこんだらいいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20170611183038
これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。
一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド・西域・東南アジアの文化を伝えた。
遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人を日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベルの用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?
ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しかも桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺の大仏開眼供養会はインドやベトナム出身の僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。
「日本がしばしば新羅を従属国として扱おうとしたため、両国の関係はしばしば緊張した。しかし、日本の遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」
これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使が新羅人に助けられたというのは、円仁の著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?
また、上掲の講談社『日本の歴史』シリーズから引用すると、次のような話もあります。
遣唐使の派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅の商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通と新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台・真言の平安仏教の旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。
このころ唐では、みずからを世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷は新羅や、朝廷に服属しない東北や九州南部の人びとを蝦夷や隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。
朝廷が東北地方や九州南部に進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試の問題を解くときのヒントになるでしょう。
もっとも、この点はやはり、山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方の蝦夷、九州南部の隼人を異民族(夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。
それに比べると、三省堂の教科書は、遣唐使と中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。
実教出版にも「奈良時代に遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版は9世紀のことも記述していてグッド。
遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから、9世紀末まで遣唐使を派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。
理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。
これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています。時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本の僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しかし朝廷は遣唐使の派遣に積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。
[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的のなかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。
東京書籍の教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。
これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。
ちなみに、このとき「天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王スメラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本の朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないから日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的な問題は、国史編纂のときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社「日本の歴史」シリーズや青木和夫著の中央公論社『日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)
さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」「倭国」「朝廷」等の表記になっています。
なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号・国号は、ある時期の特定の政治状況のもと、人為的に作られたものだからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号・国号の使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である「日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。
無論、教科書では便宜的に仁徳天皇、推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権的国家体制の形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています。
なぜキモくて金のないオッサンを「失うものがない存在」だとid:KoshianXみたいなキモくて金のないオッサンが言ってしまうのか。
喪男板も非モテ論壇も、そのような「失うものがない存在」論を叩くためにこそあったのではなかったか。
もっと言えば「失うものが無くても犯罪には走らない」ための模索だったと思っていたのだが。
動物生殖生理学的にも、歴史人口学的にも、現代日本の独身男性や少子化は極端な例外とは言えない。むしろ戦後ベビーブームこそが異常事態であり、現代日本は東アジアの中で出生率という点ではかなり頑張っていると言っていい。VRやロボット工学で慰みになるなら福祉による救済対象ではない。シングルマザーも貧困自動も救済されてないのに五体満足の男性が救済が優先されるわけがない。そもそもキモくて金のないヤツが結婚できないのに、結婚できないことがキモくて金のないヤツを増加させるという論理の組み立て事態が破たんしている。自由恋愛主義でない江戸時代などは婚姻率も低い。また乳幼児の死亡率は高い(屈強なDQNしか生き残れないのでは)。
ちょっとずれるが一夫多妻は現状追認であり一妻多夫は逆ハーではなく経済的理由や非対称な農牧兼業(性別による間引き)などドス黒い制度だ。女性の選択権と雇用がある状態で復活させたところでキモくて金のないおっさんは余るのだ。逆に言えば選択権は保証されているのに冴えないやつでも結婚できたのは専業で雇えるだけの収入があったからというだけのことだろう。
キモくて金のないおっさん論に同調的なブックマークコメントにも腹が立つ。リンク張るのも面倒だがid:heis101みたいな「幼少のころから仕込め」論は糞である。幼少のころから「孤独だと不幸」だという刷り込みを強化しかねない。また30代婚姻率と中学高校のウェイ陰キャ率って一致してるなと思ってさかのぼってみたら幼稚園にまでさかのぼって一致する。たぶんアスペが上層に集中し、ADHDが下層に集中するというような、遺伝的な問題である。かつてシゾイド人間(ちょっと異常)と言われたウェイが主流になっているのである。同質性が高まればヤンキーになるか陰キャになるか極端な2分の1の微弱ADHDや微弱双極の傾向は高まる(そして男性のほうが差は激しくなる)。
id:p_shirokumaがまた「自由は弱者にとって不利」論なコピペしてるのも気になる。もうすでに自由と豊かさの恩恵を受けているのだ。乳幼児のころ死んでおけばよかったのなら死ねばいいし、江戸時代のように婚姻率が低くていいなら今の社会はまさにそれをなぞっているので問題ないではないか。
カオスな世界でさらにカオスな人間がなぜか社会を築いているのだ。末期がん患者がみな好き勝手ふるまうわけでもないし、失うものがない、程度の問題で犯罪に走られても困る。極論言えばどうせみないつか必ず死ぬのだがらみな失うものがないではないか。地球だって宇宙だって消えるかもしれない有限のものでしかないのだ。仏教の教義も失うものを失おうではないか。失うもの絶対主義みたいな近代合理主義のまずい部分を凝縮したような理屈で近代批判なんかしてもネトウヨが増えるだけである。
最近オタク批判派、非モテ非コミュ批判派よりオタク内部、非モテ非コミュ内部で織り込み済みだったずの反社会性情念を暴走させてるヤツが目立つ。こしあんはもうどうしようもないと考えているのか、VR等でなんかなると思っているのか、救済するとして具体的にそんなものがあると思っているのかガチで聞いてみたいのだが。