はてなキーワード: 事務的とは
キモくなくて、事務的過ぎず、好感度を下げないみたいなラインを探ろうとするとおじさんLINE構文に陥りそうになるのなんでなの?!
見栄ばかり張っても関係は長続きしないし、がと言ってケチくさく思われるのも損してる気がするし、AIにでも書いて貰った方が余程上手く行きそうな気がするわ
(追記)
好感度を下げないように思うこと自体が既にキモいとブコメ含めて言われてるけど、嫌われないよう気を使うのがキモいならもうおじさんLINE構文だろうが何だろうが変わらなくない?
(追記2)
ChatGPTに古語で書いてくれと頼んでみたけど、最後の文章は全部生成されずに途切れてしまった
「久しきに会へぬ、今までは○○で相見られし所であったが、今回は○○を考へて○○○で相見られることを願う。○○を恐れてはおらぬが、どうか許して頂きたく思う。今後も何卒よろしくお願い申し上げます。」
(追記3)
もう3日経つのにメール返信なし(これまでは当日中には何かしらの返信は来ていた)。
予定を聞かれてOKで答えたから返信不要だと思ってるとか…?いや正確な日付も時間も決まってませんが。
ケチくさいお願いが失礼なら失礼だと言って欲しいし、金の切れ目が縁の切れ目だと思ってるなら「去ね」の一言ぐらいは欲しいわ。
今まで幸運にもコロナに感染せず過ごしてきましたが、令和5年ついに感染してしまいました。
そしてそれは家族全員に感染、全員熱と身体中の痛みでろくに動けず困ってしまった私は川崎市に連絡、確か支援物資みたいなものを届けてくれると聞いた事があったので、聞いてみました。
他県に住む友人数人に後日聞いてみたところ、そちらではまだ救援物資は届く事になっていると聞き、同じ日本でなぜ違うのか納得いかない思いをしました。
市役所に問い合わせた時、同時に収入が減るので、相談もしてみました。
その答えは支援の融資等は令和4年で終わってしまっていると言われ、終了。
まだコロナは終わってねーぞ!
タイトルそのままの内容なので閲覧には注意されたい。一部の人にはつらい記憶を思い出させてしまうかもしれない。女性視点の体験記は数多くある一方で、男性視点のものは少ない。妻が妊娠すると男性も覚悟を決める。しかし、(過去の自分も含めて)何が起こり得るかはぼんやりとしか想像できない。稚拙ながらも自分の体験と後悔を書き残しておけば、その解像度が上がるかもしれない。そう思い投稿する。
分娩室。妻につながれた医療モニタが歪なサインカーブを描いていた。正確にはサイン波の絶対値のような概形でゼロ区間が長い。波形がピークに近づくにつれて妻のうめき声が大きくなる。これが陣痛発作だ。間欠的な小休止を挟みつつ、数分おきに発作が起こる。モニタの値が妻の痛みを表している。全力で妻をサポートしたいなら、助産師の動きを脳裏に焼き付けて、完全に模倣すればよい。一挙手一投足に意味がある。プロの動きを邪魔しないように、分娩室の俯瞰映像を想像して立ち振る舞う。男性は手が大きいので、より効果的にさすることができる。胎児の心臓が止まっていると分かったのは、6時間前のことだった。
妻がついに妊娠した。待望の我が子で、出産月のコントロールなどとうに諦めていた。妊娠後の検査は全て正常、胎児の推定体重は発育曲線のど真ん中。妊娠週数を横軸としたグラフに推定体重を書き込み、発育曲線なる2本の曲線の間にあれば正常とされる。何も定量的な説明はなかったが、胎児の体重はおそらく正規分布に従うので、上下の発育曲線は平均±数σを表しているのだろう。曲線の離れ具合から、発育が進むにつれて分散が大きくなると読み取れる。ちょうどそのど真ん中で、初めての我が子は順調に育っていた。早々に名前をつけて、膨れ上がった妻のお腹に毎日のように話しかけた。
無痛分娩に興味があった。背骨と脊髄の間にあるわずかな空間に麻酔薬を注入して分娩にともなう母体の苦痛を軽減する。一定のリスクはあるが、メリットが大きく上回る。無痛分娩のためには麻酔科医の予定を抑える必要がある(※後で知ったがこれは産院によるらしい)。出産予定日は3月末だった。つまり、無痛分娩を選択することで子の早生まれが確定する。ひょっとしたら4月生まれになる可能性もある。そんな淡い期待を胸に、私たちは自然分娩を選択した。
私は3月生まれであることがずっとコンプレックスだった。早産の早生まれ、背の順は常に先頭、鬼ごっこではいつも鬼、50m走のタイムは肥満児より遅く、ドッジボールではただの的、組体操のピラミッドでは頂上から落ちて何度も死ぬ思い。身体的・精神的な発達の遅れに由来する傾向は「相対年齢効果」と呼ばれ、特に男子の場合は生涯賃金の観点で一生の足枷となる。これは歴然たる統計的事実として知られている(ちなみに、女子もしくは学力上位の男子ならばこの呪いの例外となる。興味があればGoogle Scholarで検索してみてほしい)。子の幸せを願う親として、自分と同じ思いをさせてはならないという使命感が、自然分娩の選択を後押しした。
出産予定日に陣痛が起こり、病院に着いてから胎児の心臓が止まっていると分かった。1週間前の検診では何も異常がなかったため、その間のどこかで突然死したことになる。我が子の突然死。目の前の現実を受け入れられず、ただただ夫婦二人でむせび泣いた。
分娩室。妻から我が子が押し出されてきて、一瞬の静寂が広がる。子はすぐに医師がどこかに連れて行ってしまった。分娩室は静まりかえっている。蘇生の可能性はゼロ。突然、遠くから赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえてきた。我が子の声ではない。不快な、怒りに近い感情が湧き上がる。元気な泣き声がナイフのように心に突き刺さる。どうしてうちの子は。心に深い闇が広がる。妻の一言で、自分が強い嫉妬の感情を抱いていることに気づかされた。「向こうの子は無事に生まれて良かったね」妻はいつの間にか、すべてを受け入れていた。
妻と私、そして布で丁寧に包まれた我が子。一晩を一緒に過ごすことになった。「かわいいお顔を見せてくれてありがとう」口ではそう言いつつ、顔が明らかに赤黒く変色し、傷ついた皮膚から血が流れているのに言葉を失った。病室に来る助産師達はしきりにスキンシップや沐浴を勧めてくる。私はこれが全く理解できなかった。腐敗防止のために徹底的に冷やされている我が子を触り、その金属的な冷たさを感じるだけで心が締め付けられる。おくるみの下にはきっとドライアイスがあるのだろう。定期的に交換してくれている。なぜ進んで苦しい思いをする必要があるのか。言語化できない恐怖感があった。あまりにも触らないためか、助産師が手形と足形を取ってくださった。このとき抱いていたのは恐怖感ではなく、エゴ由来のただの現実逃避であったと後に気づく。
役所での手続きは事務的には簡単で、精神的には苦痛でしかない。病院で受け取った死産届に記入し、役所に提出すると火葬許可証が発行される。予め出生届の記入方法を調べていた。死産届の様式が出生届とほぼ同じであるのに気づき、スムーズに記入できたが、子の名前を書く欄はない。様式からも現実を突き付けられた。火葬業者によっては、代理で届けを出してくれるらしい。
火葬場では地獄のような時間を過ごした。大人と違って赤ちゃんの棺はとても小さい。100サイズの段ボール箱とちょうど同じくらいの大きさだ。棺は私が運んだ。今でも100サイズの同じくらいの重さの段ボール箱を持つと当時の記憶がフラッシュバックして涙が出る。火葬後のお骨上げはただただ拷問のようだった。赤ちゃんの骨は割り箸のように細く脆い。頭蓋骨は割れたプラスチックの破片のようだ。「産道を通るために赤ちゃんの頭は形が変わるようになっている」という知識が目の前の現実と急に結びつく。赤ちゃん用の骨壺はすぐには入手できない。仕方なく、急ぎホームセンターで入れ物を購入した。「こんなのでごめんね」
我が国における年間の自然死産数は約8000程度で推移している。その他、新生児死亡や乳児死亡も含めると、毎年約1万人を超える赤ちゃんが旅立っている。これほどまでにつらく悲しいことがあるのかと、絶望に打ちひしがれていたが、同様の絶望は人知れずそこら中で起こり、大きな悲しみを背負っている人達がたくさんいることを知った。死産を繰り返した人、出産で妻と子を同時に失った人。つらい経験をした家族達が集まって語り合う自助グループが数多くあり、「グリーフケア」という名称で様々な取り組みやビジネスがなされている。関連書籍も多く(「産声のない天使たち」「誕生死」等)、図書館には必ずあるだろう。供養の方法は複数あり、水子供養の場合はずらりと並んだ小さな骨壷を目にすることになる。「天国で友達たくさんできるかな?」
ポジティブに捉えると、妻と一緒に同じ苦難を乗り越えたことで、お互いの心の結びつきが一層強くなったように思う。妻との関係性が、これまでにない、かけがえのないものに変化した。妻の人柄や屈強なメンタルに、改めて敬意を抱いた。
後悔は二つある。
第一に、無痛分娩を選ぶべきだった。出産が遅れるほど分娩リスクは高くなる。無痛分娩であれば、出産予定日よりも前に強制的に分娩させられるため、リスクが相対的に低いのではないか(正確には医師に相談されたい)。本事例では、出産予定日の1週間前には無事であったため、無痛分娩であれば死産を避けられていた可能性がある。「4月生まれになるかも」などという勝手なわがままで我が子を間接的に殺したのでは、という自責の念に駆られている。
第二に、我が子ともっと向き合うべきだった。完全に冷え切った子に触れるのには勇気がいる。スキンシップや沐浴を勧めてくる助産師がサイコパスのようにさえ思えた。これは完全に誤りである。夫婦水入らずで、最後の姿をまともに見られるのは、このタイミングしか残されていない。火葬したら骨になってしまう。家族写真・手形・足形・遺骨だけでいいのか。せめてスキンシップだけでも、精一杯向き合って、家族の思い出を作るべきだった。
皆さん、心優しいコメントをどうもありがとうございます。お察しのとおり、子が旅立ったのはコロナ禍前です。ちゃんと言葉にできるようになるまで、事実を客観視できるようになるまで約2年半かかり、同時に、受容が進むにつれて記憶が薄れるのに気づき、一気に書き出しました。的確なご指摘が多く、勉強になると同時に、自分自身の認知の歪みにも気づかされ、励まされました。
本記事へのトップコメントはこちらからご覧になれます。つらい思いをしている方が、少しでも前向きに、励まされることを願っています。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221225220743
私は、修士課程のころ、指導教員の印鑑を勝手に買って使ったことがある。
他人の印鑑を勝手に使用することは有印私文書偽造罪と立派な犯罪だが、なぜかバレなかった。
その研究室は、専攻分野の中でも際立った研究をしており、かなりの実績を出していた。
担当教員もかなり力のある人物で、設備も充実していたことに魅力を感じた。
研究テーマも、他の学生と全く異なるものを任せてもらい、やりがいもあるだろうと思っていた。
そこで論文執筆や国際学会発表をたくさんこなして博士課程まで進み、アカデミックに残りたいと思っていた。
だが、研究室に入ってすぐ、そんなことはできるわけがない現実に直面した。
まずコアタイムが厳しく、コアタイム外のゼミ会が毎週あったり、それ以外の時間も暗黙の了解で残らせるところだった。
夏休みも学部生が1カ月以上あるのに対しこちらは長くて1週間、春休みはなし。
書かれていないことは暗黙の了解に過ぎないと無視していたら、指導教員直々に「お前やる気なさすぎ」とまで言われた。
雑用当番や研究室行事も頻繁にあり、ただですら研究で疲弊しているところに追い打ちをかけるようだった。
また、研究室が優秀ならメンバーも非常に優秀ですぐについていけなくなった。
そんな中、研究成果をうまく出せず、指導教員に叱責される毎日を送っていた。
指導教員は言うことが頻繁に二転三転するうえ、こちらの意見は全く聞き入れられず、ストレスが溜まっていった。
うまくいかない実験に関しこちらが改善案を出しても一切認めず、ただやり直せと言うのみでにっちもさっちもいかなくなった。
学生相談制度で別の教授と会ったときも「ここまで緩い研究室すら無理なら退学すべき。就職も今は人物重視だから問題ない」と言われた。
学内の相談員も同様に、遠回しな言い方ではあったがやたらと退学を勧めてきた。もしかしてそういう校風だったのだろうか。
そしてある日、ついに限界を迎えてしまい、半ば喧嘩別れの形で研究室を飛び出してしまった。
その後は好きな講義を受講するなど学部生に準じる生活を送っていた。
ところで、私は学内で国際教養を認定するプログラムに入っていた。
それは対象の講義をいくらか受講し、さらに留学すると大学から認定証とともに国際教養のお墨付きがもらえるというものだ。
もちろん国家資格とかじゃないからこれで食えるわけではない。ゆく先々話のネタにはなる程度だ。
ちょうどお金もたまっていたのでそれに応募しようと思った。
しかし、大学院生は何をするにも教授の許可がいる。授業の履修だけでなく休学・退学ですら例外ではない。
もちろん留学にも指導教員の許可が必要で、願書には指導教員の記名押印をもらう必要がある。
しかしその時の私は指導教員と仲違いしており、のこのこと研究室に出て「ハンコ下さい」なんて言うわけにもいかなかった。
実際、これまでのことを謝罪しに行ったことはあるのだが、取り付く島もなく追い返された。
となるとどうにかして印鑑を押してもらったことにするしかない。
研究室へ行くとバレてしまう。ならば指導教員と同じ苗字の印鑑を買って押すしかない。
ダメで元々店に赴くと、かなりメジャーな苗字だからか簡単に入手できた。
指導教員の名前はWordで印字し、買った印鑑を押したら問題なく受理された。
(後で知ったが「記名押印」は印鑑さえ押していれば氏名は印字やハンコでもOKだという。氏名も手書きが必要なのは「署名捺印」)
申し込むとすぐに「学内選考合格。返済不要の奨学金付きで先方に推薦するので応募手続きを進めるように」という返事が来た。
そのまま応募手続きを進めたところ、留学先による選考にも合格してしまった。
ちなみに、一番大変だったのは英文の履歴書と志望理由書の作成だった。インターネットで調べて何とか出来たが。
留学担当部署へ合格を報告すると、選考だけでなく留学にあたり書く申請書にも指導教員の印鑑が必要だとわかった。
ここまできて引き返すわけにはいかないが、同じことをすればいいので良心の呵責はなかった。
こちらの行動がバレるきっかけはいくつかあったが、追及は全くなかった。その原因を考えてみたい。
まず印鑑を使った段階についてだが、これは簡単だ。印鑑を買って押したところは目撃されていないのでわかるわけがない。
書類を受理した側についても、建前上指導教員の許可が必要としているが、実際は印鑑の有無を事務的に見るだけだからだ。
銀行ではないのだから印鑑登録をしたり、その真正性の判定や所有者への確認はしない。
もし不備が見受けられるのなら書類を突き返して作り直しを命令するだけでよい。
受理された後も、書類は関係する諸手続きにしか用いない。つまり用が済んだら即時破棄が普通だ。
そこで一番バレる原因になりそうなのが教授会だ。
国際教養プログラムの担当教員によると、プログラム修了認定の議題を教授会に出したという。
となると、配布資料または口頭で私の名前が出ており、それを指導教員が認知しているはずなのだがなんの追及もなかった。
不思議に思ったので原因をいくつか考えてみた。
私としては、ありそうなのは順に③、①、②だと思う。
確かに指導教員の許可を要する物事は数多く存在するが、そうでないものも多い(証明書の発行、通学定期の購入など)。
従って、国際教養プログラム参加には指導教員の許可は不要と思っていた。
当然、私が無断でやったことにも気づいていない。
講座の受講や留学には指導教員の許可として記名押印が必要である。
指導教員は許可などした覚えがないのに私が勝手に受講を始めてプログラム修了まで至っている。
しかしながら、それを立証する証拠がない。留学の応募書類などを開示してもらうことはできるがこれでも立証は難しい。
(なお、卒業生については事務局が学位・単位の修得状況だけ保有し他は破棄するため、現在は教員による立証は不可能)
私を呼び出して話を聞こうにもいくらでもすっとぼけられてしまう。教授会の開催も私の修了間近と追及する時間的余裕もない。
もし事前に立証できているなら、学科内のエライ教授に話をつけて懲戒処分に持っていけるはずである。
とはいえ、私がこんなことをしていようとも指導教員自身や研究室には何の実害もない。
それに、ヒエラルキーの非常に強いアカデミックの世界だ、こんな不確かなことで騒ぐのはもったいない。
下手に騒いだせいでお偉いさんに目をつけられるとキャリアが台無しだ。
特に、私を大学から追い出さないといつまでも居座られる。ならば研究成果が不十分でも修了判定を出すしかない。
(一応、学生を放置することで在籍可能期間を満了させて除籍に持ち込むことはできそうだが、問題になるのだろう)
大学教員は如何に予算を取ってきて研究成果を出し出世するかが大事。
こんなことどうでもいいし、私がやったことについて調べるのも面倒。
帰国後は残りの単位を修得し、国際教養プログラムの認定要件をクリアした。
学内カウンセラーの方に仲裁してもらい、無事研究室にも戻れた。
研究室には指導教員とは別にもっとエライ教授がいたが、私が不在にしている間、何の前触れもなく退職した。
私以外のメンバーにも退職日や理由などを事前に知らされなかったそうだ。
そういえば私が研究室に入る前、その教授は「近い将来指導教員を独り立ちさせる」と言っていたので、それ絡みだろうか。
研究室に来なくても研究を進められるようになった。連絡は口頭でなくチャットソフトを使うことになった。
研究や生活面、あらゆることでこちらを詰めてきたはずの指導教員も対応が事務的になった。
今までは研究報告でさんざん貶されていたところを、提出したらすぐに「よいと思います」と言われるようになった。
高圧的に命令してきたところが、丁寧語で提案するような口調になった。
「どんなことよりも研究を優先せよ」だったのが、「やりたいことがあるならそちらを優先した方がよいです」と言うようにもなった。
ただ、「発言が二転三転する」と言われたのが心外だったのか、何度も「研究ですので変更もありえます」と言うようになった。
発表資料も何度も突き返されたところを、指導教員が大枠を作り、こちらはデータだけ書き加えればよいことになった。
雑用当番やゼミ会、研究室行事も免除となり、学部生に準じる夏休みももらえた。
修士論文は序論として先行研究に続いて自分の研究背景をまとめ、あとは研究報告書を要約していけば完成した。
その代わり、
・私の研究ポスターや発表実績を外部(研究室ホームページや研究棟の廊下など)に公開しない
・修了間近に私のデスクを片付けに行ったら、そこが荷物置き場になっていた(最も、研究室を飛び出す前からよくこうなっていたが)
など、私をいなかったことにしたいようだった。
学位記授与式を過ぎ離籍しても、就職先への出社日前日まで研究をさせるところだったが、私は修士論文を出した時点で解放された。
(本当はこれ、部外者を研究に従事させているので万が一のことがあった時を考えるとマズいことなのだが…)
結局、修士の学位記と認定証、そして「修了おめでとうございます。さようなら」とそっけない言葉をもらい大学から去った。
(なお、博士課程については、1年次後期の時点で指導教員直々に「テメーはダメだ」と言われたので断念していた)
何のつもりか研究室からの寄せ書きもくれた。数人はメッセージなしか当たり障りのない内容だったけど。
一応研究ノートとかは返してないが、こちらも特におとがめなし。まぁ「門外不出にする価値もない」ってことなんだろうけど。
研究室に感謝する義理もないので、研究室のパソコン内のデータや研究実験用ソフトなどを全消しするプログラムを仕組んでおいた。
バレにくくするため、研究室を去ってから数か月後に全消しプログラムを作成してから消えるパッチファイルだけ入れておいた。
全消しプログラム生成からさらに数か月後、そのプログラムが作動しパソコンがダメになるというわけだ。
今頃どうなっているか気になるが、今は部外者で研究室とも仲が悪かったため覗きに行くことができないのが残念だ。
ところで、私が去った後の研究室や専攻の方針がどうなったのか気になるところである。
私のような学生のニーズに最大限配慮した研究・進路指導をするようになったのか。
いや……これは「同じ原因から起きた二つの事象に、因果の関係を見出す」っていうパターンの誤謬だと思うわ。
同じ原因ってのは「遺伝子の歪み」だと思うのよね。
①遺伝子が歪んでいる→正しい設計図で顔面が作られてない→顔の形が左右非対称だったり全体として形が歪→容姿が醜い
②遺伝子が歪んでいる→正しい設計図で脳みそが作られていない→思考力の低下や情緒の不安定が発生→コミュニケーションに問題が起きる
この二つが同時に発生しているだけだと思う。
確かに「コミュ障なことにより発生する苦痛が顔に張り付いて歪んだ顔面に」みたいなのも考えられるんだけど、ソレ以上に生まれついての、もっと言えば産まれるより以前の段階でのバグが全体に影響しているんじゃないかなと。
実際、コミュ症かつ顔が醜い人って、大抵の場合遺伝すると思うのよ。
この人変な人だなーと思ってたら親も変な人だし、子供も同年代の他の子とくらべて問題が多いっていうか。
でも意外と遠目からみた家庭環境はそんな問題がないというかむしろまともよりなのよね。
生まれつきヤバイ人が結婚は出来る程度の普通の人間になるための努力を繰り返してきた血筋っていうのかな。
まあ悲しい生き物としか言いようがないわけだけど、こういう遺伝子の人がいわゆる「突然流行した99%が死ぬ感染症に何故か耐性があって人類を存続させる次世代のマザー達」みたいなタイプなのかなって。
遺伝的多様性の維持という意味ではこういう人達が子供を残してくれるってのは人類という種族の存亡を考えるとプラスだと思う。
まあ「人類が存続することって別に大事じゃなくね?」って価値観で見ちゃうと死滅してくれた方が良い気さえしちゃうかもだけどね。
本当に結婚失敗した。本当に後悔してる
なんにも楽しくない。ただ同居してるだけ
自尊心なんてかけらもないから、付き合えれば誰でもいいくらいのメンタルだったんで、
アプリとかでいいね押してくれる人ととりあえず付き合ったのが運の尽きだった
初めて会って瞬間、タイプじゃないと思ったけど、
とにかく付き合えればいいやと思って、付き合って
途中こっちが嫌だなと思う言動が合って、止めてとかいったけど、
短気だから天の邪鬼だからと言い訳されて、付き合うってそういうものかなとか思い込んで、
また異性と付き合える自信ないから、なんとかなだめすかして、言いなりになって我慢して
結婚すれば何かが変わるかもと思い、確たる自信もないまま結婚して、本当に失敗だった
毎日毎日仕事行く前は、行きたくない、あーあとか、不機嫌丸出しで、一緒の空間にいるとうんざりするし、
それならとこっちが嫌だと思うことを伝えても、全てお前が我慢すればいいとか言って
爆弾が破裂しないように事務的な会話だけして、いざ喧嘩すると怒鳴り合って一方的に不満ぶつけて謝らせて、
こっちが行ったことには、そっちが我慢すればいいとか、何も謝らようともしない
別れるとかしても、見捨てるの、生活保護受けるとかなんとか、もうめんどくさくなってきた
ほんと、メンタル最弱同士がくっついてしまって悲劇でしかない。調べると共依存みたいな関係に近かったようだ
はあーーーーーーーー
登記情報提供サービス使えば数百円で閲覧できるので便利。
あくまで、一般社団法人事務的観点からだけど、ちょっと不備がある気がする。
・ 貸借対照表はHP上に公告しておかないとまずいのでは。。。?
法人の公告方法は「電子公告により行う。https://www.colabo-official.net/」となっていた。
公告方法を登記簿に書いてあるので、「貸借対照表を事務所の掲示板に張っておきました」というのは通らない気がする。
・ 登記簿記載のURLはドメイン失効しているので、早めに修正しないといけないのではないだろうか。。。?
URLは2020年くらいから新しいものに変わっているっぽいので、2年くらい更新してない可能性がある。
まぁ別に大罪犯しているわけではなかろうけど、毎年数億円のお金(公金も多い)が出入りする組織なのできちんと事務的管理をしておかないと、まずいだろう。。
不必要なメールは消すようにしていても、いつの間にかすごい量のメールが溜まっていく
たまに昔のやりとりを確認しなきゃいけないけどワードでうまく引っかからない時なんかに期間設定で検索したりする
例えば2017年の○月○日~○月○日のメールを検索、みたいなやつね
すると、もう写真だとか自分で書いてる日記とかなんかより、ずっとリアリティのある記憶が蘇るのよ
そんで当時の事とかをブワーっと思い出したりしてなんか懐かしいような切ないような涙が出ちゃう
大したメールはないよ、カードの支払いの情報、医者の予約案内、当時ハマってた関連のお店の宣伝メールとか
自分はマメじゃないので後ほど消しておこうと思ってそのままだったのがけっこう残ってて、そういうのが日時を基準にして並んでる
これが、あーそうかこの頃こんな感じの生活だったよなってすごく思い出せるのよ
仕事系はアカウント分けてるのでプライベートのほうではほぼ出て来ないし、知人友人との連絡は携帯が多いからそんなにない。
ただなぜか家族や当時の恋人なんかとの、なんでそれわざわざメールでやり取りしたの?みたいなしょうもないメールもたまに紛れてる
なんかね、それらの「残す事が目的ではなかったメールの数々」これに泣かされちゃう感じわかります?
日記もつけてるんだけど、自分の書く日記って自分が思うこととかばかり書いているので客観的な情報量が少ないんだよね
人によっては淡々と毎日の出来事とかを事務的に書く人もいると思うから、そういうのだとまた違って感じるのかなとも思うんだけど
こういうのなんていうんだろう、自分自身が残したいと思っていなかったところから不意に突かれる感じ
例えばさ、誰かを思い出す時に想像してなかった角度で思い出す時ってあるじゃん
生前おばあちゃんが読んでた小説を田舎帰った時の暇つぶしに何気なく読んでみたら、ある一文に線が引いてあって「増田ちゃんと似ている」と走り書きのメモが書かれてるのを発見しちゃった時とか
そういうのってすごく心が動かされる(これは実話)
それの自分自身版っていうか、過去の自分への思いが溢れちゃう感じなんだよね
好きだった人とのやりとりとかはもっと他の形で残してたりもするんだけど、そういうのはむしろ笑えるというか、自分こうだったなあ、、とか恥ずかしかったりもなるんだけど
ただの日常、生活の部分がこうやって記録として残ってるのを見た時、うわあ生きてるな~って感じがすごく強くて
なんかどう書けばいいのかわからなくて文章めちゃくちゃなんだが、自分、めっちゃ存在してるやん って感じてちょっと感動したんだわ
あとはLINEをブロックしたら終わり、今親友と絶交しようとしてる。
私と親友は中学の時に出会った。同じクラスで、デフォルトの席が同じだった。当時オタク道に片足突っ込んでた私は推し作品がある親友とアニメやラノベについて語り合い、お互い影響し合って、いつもおすすめし合ってた。
それから10年、私と親友は何回か大きなケンカをしたけど、なんだかんだ流したりして、ずっと親友だった。
という感じ。
なぜ他の友達とは違うのか。私は共有した時間の長さだと思う。少なくとも私にとって親友は家族の次に私のことを知ってる人だ。
なぜなら、何かあるたびに話したから。夜、虫が出て大変だったこと。朝の満員電車で面白いLINEを打つ人を見かけたこと。今日のランチは学食のラーメンであること。Twitterで更新された推しの情報でテンションが高いこと。
推しとかどうとか関わらず、何でも共有したから、いつも会話が楽だった。何も説明しなくても「この間の〜」で通じる。
だけど、そんな私の性格と違って、親友は秘密主義気味だったと思う。中学の時、テストの点は隠すものだと知ったのは親友が頑なに隠していたから。何年も経ってから、親友は自分の姉を「ねね」と呼んでることを知った。可愛いと思ったのに、私の前では全然話題にしてくれなかった。恥ずかしいと言って。
親友がどの大学に行ったのか、実は今でも知らない。ずっと隠されているから。
なんとなくのエリアはわかるけど、特定できるほどの情報はない。
就職先は流石に教えてくれたけど、一度も家に招待されたことがない。私の家には片手じゃ数えきれないくらい来ている。だけど家が汚いから、片付いたら、とこの10年間一度も招待されなかった。
私たちの間にはそういう根本的な価値観の違いがあって、でもずっと仲良しだった。それはやっぱり、趣味が似ていて、そして何より何でもかんでも共有したからだと思う。
新しい作品に出会ったときはまず、親友にお薦めする。大抵最初は拒否されるけど、なんだかんだ強制的にみることになって一緒に沼にドボンする。でもいつも推しが被らないからランダムで喧嘩することもない。あらゆるイベントに一緒に行った。
楽しかった。いい思い出しかない。だけど、本当は毎回少しずつ不満があったんだと思う。その理由はいつもお金だった。多分お互い、少しケチな性格なんだと思う。そもそも学生だったし、好きなものが多くてお金がカツカツだったから。食事しても、長年の習慣で1円単位で計算した。「5円くらいいいよ〜」とはならない。
きっかけは親友に誘われた劇。私もこの作品が好きだったけど、その当時は冷めてた。親友は「宮城まで遠征したいからついてきてほしい。チケット代出すから」と言ってきた。
チケット代出してくれるなら…まあ旅行だと思えば…と考え、承諾した。
でも親友は推しに熱が入りすぎてて、全3公演全部のチケットを取った。3公演も出してもらったら4万くらいになる。親友は社会人だけど、4万がどれだけ大きい出費なのかは理解できる。
「1公演なら出してもいいよ」本当は冷めてたので1公演も出したくなかったが、1公演だけならと思った。
公演はすごく楽しかった。冷めてたけど、家に帰ってから毎日曲を聴いて、配信を見ていた。親友には報告していない。
遠征中、何か大きな出来事があったわけじゃないけどとにかく空気が重かった。
これまでもあった価値観の違いが、旅行で顕著に出て、そして崩れたんだと思う。
そして3ヶ月ほど経ち、2人で好きだった作品の映画が公開された。
この間何回かやり取りしたけど、もう以前みたいな親しみがない。
私は、今まで生活を共有したかったのは自分ばかりだったかもしれないと思った。友人は別に趣味の話をわざわざ私にしてこない。私が切ったら、この長くて深いと思ってた関係性も終わるんだな、と感じていた。
映画を一緒に見に行くほど気持ちがない。それでも、素晴らしい作品だったから親友は絶対好きになると思った。それで、好きだった昔も思い出して、幸せになってくれればいいと思った。
私はムビチケを持ってなかったけど、友達の1人からムビチケをわざわざ買いとって、コードだけもらった。
「腰重いだろうと思った。無料なら行きやすいでしょ」なんて、プライドに邪魔されて全然優しく伝えられなかった。
2週間後、ようやく返信がきた。内容は
「こんばんは。腰が重いのもあるけどなんかもう色々あって映画を見に行く元気が出なくて勿体ないのでムビチケは自分で使ってくださいな。ありがとう。」
プライド高くて優しくムビチケを渡せなかった私が悪かったかもしれない。無料なら見るだろ、とたかを括ってたからショックだった。
親友がいたから楽しかったのは事実。でももう、その楽しさをリピートするためだけに優しくできない。
これから先、虫が出たら誰に報告すればいいんだろう。
昼ごはんのカップラーメンが美味しいって誰にいえばいいんだろう。
親友と同じくらい親しい人ができた時、またプライド高くてケチになってお金の問題で揉めて、絶交することになっちゃうのかな。そういう不安がある。
だけど、きっと学校とクラスが一緒で席が隣じゃなかったら私と親友は親友になってない。価値観が全然合わないから。むしろ、何回もケンカしたのによくここまで交友が続いたよ。
これから先の未来を共有できないから親友が幸せになれるか勝手に心配してる自分がいる。こうやって文章をしたためてるのも、未練たらたらだからだ。
それに、私ではもう自分が正しかったかどうか判断できない。私が1人大バカで親友を失いかけてるのかもしれない。よくわからないから人生で初めてネットに何かを投稿してる。
これをしたためてる間にも「やっぱり絶交」と「やっぱり仲直り」が何回も頭をよぎった。だけど、楽しかった思い出の裏に不満が常にあったことにもう気づいてしまったから。
来年私が遅れて新社会人になるこのタイミングで、交わらない道にお互い行くのもアリな気がする。
さようなら、これから数年は貴女のこと、忘れられないと思う。将来振り返った時に、本当に楽しかった思い出だけが残ってますように。
事務的にしてくれるんですかね。
私の働いてる係は、上司が3人と、私と同僚の5人。
うちの係の上司は怒鳴る等の指導が主で、3年連続で若手社員を退職まで追いやっている、会社の中でも厄介な係。
実際に同僚は怒鳴られる、見捨てる発言をされるなど、よく耐えてるね…状態。
でも花形係で、上司3人もバリバリ仕事できる実力派だから、解体もしない。
私も配属が決まった時には、どうして…と思ったのが正直なところだけども、周りに「あなたなら大丈夫」「あなたなら多分あんまり言われないよ」と、無責任なことを言われることが多かった。
結果としては、たまに怒鳴られることはあれど、前任者や同僚と比べると怒られていないし、今のところ自分でもうまくやれていると思っていた。
でも、うまくやれているのも、上司3人のいじりに耐えたり、常に上司の機嫌を伺って立ち回っていたからで、何か1つ報告するにも、相手の機嫌やタイミングを見計らってしなければならなかった。
なにか損害が出たわけではないが、報告しなかったことに対して、今まで滅多に怒られなかった係長にも怒られ、ほかの上司2人にも今日は一日声をかけられず、無視。私から話しかけてもないけどね。
それで、今日何か糸がプツンと切れた。
今までこれより激しく怒られたこともあるし、それで涙を流したこともなん度もある。
怒られたからではない。
今回上司たちからこのような対応を受けて「今まで、係が楽しくなるように、係以外の課員も嫌な気持ちをしないようにと、常日頃周りの機嫌を伺ったり、常に明るく道化役になっていた日々ってなんだろう」と思った。
正直、怒鳴られる、無視されるなどと時代錯誤な職場なのはわかっているが、今の職場は絶対に辞めたくない。
本来の私はとてもノリが悪く、大人しいインキャで、人と話すのは正直苦手だが、ここ半年間1人で頑張ったと思う。
おそらく、上司3人は明日にはすぐにいつもどおり機嫌が治るだろう。
だが、もう愛想を振り撒きたくない。
私をいないものとして扱うのかな。