はてなキーワード: タブーとは
もちろん補助金停止の様な公権力からの圧力に対抗するのは前提として
今のトレンドは炎上煽りによるクレーム殺到による現場の疲弊と自粛と自主規制なんだよ
菊タブーなんか典型的だしだからトリエンナーレもこじれたわけだ
それなのに公からの権力に逆らうばかり言う人は認識が一周遅れてるし
TPO論で不適切だ!と言うのは天皇燃やした絵を不謹慎だというネトウヨと同類なんだよ
熟議による対応がいるのだろうけどツイートで反応して電凸する正義の暇人が今2番目に表現の自由の敵なんだわ、もちろん1番は公権力の恣意的運用だけど
一連の騒動の個人的な感想としては、会社と従業員間とのあくまで業務的ないざこざがYoutubeという一般の媒体に流出してしまったことが問題の全てであると思う。
本来、演者の所属する組織や会社の内状を外部に公開することは芸能の世界ではタブーのはずで、この騒動ではこのタブーを犯してしまったためにもつれにもつれ両者ともに多大な被害を受ける騒動になってしまった。
ネットの意見や情勢的には、最終的にMEGWIN氏が大人の対応をみせ、ことを収めた。という勢いが多いかと感じているが個人的な意見は少しちがう。
確かに、上記タブーについて先に犯したのはファルコン氏、メテオ氏だと言えなくはない。
しかし、社会的な立場から考えるとMEGWIN氏は会社の代表(経営者)であり二人はそこに所属していた従業員である。
例えるなら、会社を不満退職した従業員がネットに会社の悪口を書くことは当然のごとくあるし、会社はそれを適切に対処する必要があるということだ。
今回の件、二人は最初の動画を出したことでMEGWIN TVという会社に大きな被害を与えた。結果それを挽回するためにMEGWIN TVは会社の内状(2人の勤務態度など)を暴露する動画をYoutubeに投稿したのだが、個人的にはこれは非常に悪手だったと思っている。これは、きちんとした法的な手続きをとり、会社から適切な公開情報を開示した上で本人たちに曖昧な表現や誤解を与える表現を訂正するよう求めるべきだったと思う。(ケースによっては損害賠償を求めてもいい)
しかし、MEGWIN TV側は二人のタブーに対して、タブーで返すというパワープレーにでてしまった。これにより二人の活動にも大きな被害を与え、結果的にMEGWIN TVが二人のチャンネルを潰したような形になった。
二人の言動には曖昧な点がたしかにあり自業自得という考え方も当然あると思うが、あくまで従業員と経営者との会社内でのいざこざである。
これを会社単位で動画としてあのような形で上げてしまうのはやはり違和感があった。
このような動画を出した以上、「内状を全く知らない視聴者を戦力として始める個人対会社の風評被害戦争」という泥仕合になるのは容易に予想できた話だろう。
二人を養護するつもりは全く無く、事実はわからないが筋の通っていないやり取りもあったのだと思う。
しかし法人はいくら個人が無法なやり方で喧嘩を売ってきても、同じやり方で買ってはいけないのだ。
最後の和解動画についても、両者のポジションが違いすぎて全く話が噛み合っていなかった。
MEGWIN氏は最後まで経営者目線で"第三者(視聴者)"に対して冷静に正しいことを発言しようとするのに対して、二人は従業員として不満としてあった事実をできる限り"MEGWIN氏"に認めて欲しいという懇願があったように見えた。
MEGWIN氏は曖昧な点については決して認めず(二人は気持ちを汲んでほしいと思っていただけだと思うが)、終始議論を前に進めることに徹した。
このポジションの違いが、結果としてMEGWIN氏が正しかったという世論を生むのは理解できる。
しかし、個人的にはいくら筋が通ってなかろうが、元従業員がその当時どういう気持ちで、何が不満だったかを理解し、今回のような不毛な結果を生んでしまった原因をあの場で解明し、それに対して「演者としてではなく至らなかった経営者」として二人に謝罪をしたかったのであればあのような態度にはならない気がした。
(そもそも、すでに情勢的にはMEGWIN氏に傾いていたわけであそこまでマウントをとる必要はなかった)
最後にまとめると今回の件は、
Youtubeという場所で利益をいただいている人たち(この場合は三人とも)が、その媒体に公開するにはあまりにも陳腐な「至らない従業員」と「至らない労働環境(経営者)」の不毛ないざこざだったと思っている。
昔からこのチャンネルを見ていて、楽しんでいた一個人としてはチャンネルから離れるには十分な理由になった。
二人をまったく養護する気もないが、従業員の立場としては辛かっただろうがこれからは経営者なので自分たちが嫌だったことを周りにしないように頑張ってくれと思う。
MEGWIN氏は、引き続き経営者として頑張って欲しいが、正直あの経営者としてのスタンスを公開してしまった以上、演者としては見れないなぁとは思う。
学生時代の友人達と会う度、インターネットから見える世界とのギャップを強く感じる。
私達の間には「久しぶりに会ったんだからお互いにとって心地の良い時間を作ろう」という暗黙のルールがあるように思う。
堅苦しい話題なんてタブーで、まるで世の中には政治や経済、環境やエネルギーについての問題は何も存在しないかのようだ。
「今度こんなお店ができるんだって!」
「実はもうすぐ結婚するんだ!」
中身のない若手政治家の発言、元内閣官房参与の告発、月収15万円以下の人々の叫び、ジャパンデイプロジェクトの疑惑、日韓の対立を煽るようなツイートの数々。
私達の住む日本は問題だらけで、しかしそれらが解決に向かうことはほとんどないように見える。
親指が画面を滑るたびに心は重く沈み、
私の心にとって宜しくない。
どうせ私ができることなんて何も無いんだ。
こんな堅苦しい話題を好むような人達の言葉なんてもう読まないようにしよう。
これを機にギスギスしたインターネットの世界からは離れることにしよう。
そう思って画面を消して眠るけれど
次の朝には寝惚け眼で画面を見ている自分がいる。
瞳で文字を追えば追うほどインターネットの論理が脳に染みこんでいく。
でも駄目なのだ。
私は腐女子だが、BL界隈とか、いっそ世の中のオープンエロさがしんどいと思った。
ツイッターにいる腐女子腐男子の人達や、商業BL界隈の人とか、BL可の声優さんとかをネットで見てて、みんなBLのエロとか生身の人間(その場にいる相手)に対する性的消費の話をオープンにしていて、男も女もみんな自分が冗談っぽく消費されることも割と平気そうで、参ってしまった。
私はBLのエロ見ることに後ろめたさがあるし、そういう話の輪の中に入ると顔がカーッと熱くなりそうで、恥ずかしくて、辛い。
あとセックス経験(コミュニケーションとしてのセックス)がろくにない。
私がまずBL以前に、人間関係上での「性」「エロ」に対する免疫がなさすぎるということもあるかもしれない。
世間の人たちはなんで平気で生身の人間の性器に向き合えているのか?
考えてみると怖いし、気持ち悪いし、そんな自分が可哀想でもあり……書いてて悲しくなってきた。
性がタブーになりすぎている。
思えば性の問題に限らずとも、自分のみっともないところや恥ずかしいところを人に晒して受け入れてもらったという経験がなかった。
そこにこの羞恥心の根があるんじゃないだろうか。
そして自分も人のみっともない(と勝手に感じてしまう)ところをうまく受け入れられていない。
私が自然に受け入れられたら、相手も私を受け入れてくれて、仲良くなれてた人もいただろう。
オープンか、興味皆無か、どっちかなら楽なのに。
『彼の「成功」の後追い』が災いだとする理由が説明されない以上、やはり勝手にタブーにしているだけという印象は拭えない。
あとから入ってきた人がこれまでのVTuberより大成することが気に食わない、これは災いだ。と言っているようにしか見えない。
V界隈追ってるなかでも最近一番もやもやしてて、SNSでも今言及が少ないし、自分の意見整理するためにもここに書く。
一言で言うと彼の転生はチート級だ。今まで色んなVがバズるのも見てきたけど、これだけは嫌だった。
彼はその「チート転生」のおかげで2日で十数万人という巨大な記録を打ち立て、ユーザーローカルだと、にじさんじの中位陣を一気に飛び越し現在19万近くの登録者で総合31位に。
彼のことは今回初めて知ったけど、Vになって話題になってからハイポ3本とも見た。ニコニコ馬鹿四天王と言われてるのも知った。昔の動画自体が面白いと言われるのも分かる。
でも、金かけて人脈作って3Dのガワまで作ったのに、ガワ以外そのまま転生は納得いかなかった。ネットワークづくりは上手いけど、タブー視される一線を超えてしまったと思えてならない。
それで今回は幾つかに分けて何故自分が馬犬の「チート転生」について納得できないか幾つかの点を書く。
V界隈で前世の功績を利用してVに入ってきたものはいる。ただ最初にいうが、どれもアバターとは名前や設定などで一定の距離を少なくとも作ってから転生している点は共通している。
A.前世が有名で比較的公然ではあるが、公言せず、本人から匂わせる発言は一切しない (例、葛葉)
B.前世が有名で本人から匂わせる発言はあり、ほぼ公然ではあるが、本人から一切公言しない、もしくは封印させている (例、田中のおっさん)
C.前世が有名で本人は公言せず一切認めていないが、ほぼ公然の状態 (例、ウェザーロイド TypeA Airi)
D.前世は有名ではなく、本人から自分が誰であるか公言しているが、アバターとは名前・設定・外見で差を付け、一定の距離を付ける (例、MonsterZ MATE)
Dはかなり特殊な例ではあるが、魂である本人が話すように、中の人=アバターな関係ではなく、あくまでノットイコールな関係としてアバターとは少し離れた関係となっている。
例えるなら武藤とムタの関係──高坂はしやんが語る、VTuber「MonsterZ MATE・コーサカ」の可能性 https://panora.tokyo/64064/
また彼ら自身は前世が特段有名と言うわけではないという点も述べるべきだろう。
これらA~Dは結果としては、演者である魂と外側であるアバターと紐づいてはいるが、ある程度離れた存在と認識されている。有名で公然としているものもあるが、本人が認めないことも受容されている大きな要因となっているだろう。浄瑠璃で言うところの人形遣いの黒子と人形という関係に近い。
対して馬犬は、今のV文化の2次創作が盛んなニコ動での前世が有名で、本人が動画で自分の事を公言し、アバターには設定や名前が一切ない、ただの美少女のアバターである。距離感は一切なく、人形劇で人形遣いが自身を人形と称して壇上に上がるようなものだ。
彼の今回このような転生をしたことについて、擁護する意見も度々見られた。そんな常識が古いのだとか、勝手にタブーにしているだけとか。この項ではそれらへの反論も含めて、話そうと思う。
どの禁忌も出来たのには何等かの理由がある、それをしたら病気になったとか、事故に見舞われたとか、それをしてしまったために災いが降りかかると思われる・思わされるから出来ることが多い。
では、自分が話しているVの禁忌を破ってしまうことの災いとは何なのか。
V界隈は普通のYouTube(以下YTと呼称)界隈より狭く、必要な機器も多いため経費もかかりやすい。現在Vで1位のキズナアイはYT全体だと21位。V2位輝夜月は168位。V3位ミライアカリは246位である。
力もあり、人脈もあり、名声もある人が馬犬のようにVなら大成できると乗り込んで来たらこの界隈に何が起こるだろうか。
それは彼のマネをして距離感がほぼないアバターのチャンネルが登録者数を一気に伸ばし、それまで地道に努力を続けていた個人勢や、にじさんじやホロライブの企業勢さえ太刀打ちできない状況が成立する事だ。
極論ではあるが、今YT界隈でトップクラスのヒカキンやはじめしゃちょーが馬犬と同じ方法で転生してきたと考えると分かりやすいだろうか。
そこで起きるのはV界隈の活性化ではなく、Vファン同士の衝突や界隈の活力の低下、今まで頑張ってきたVの引退も加速しかねないことなのだ。大変な劇薬である。
だから今まで前世が有名な人は誰もこの禁忌を破ろうとはしなかった。有名声優が魂のVもいたが、大手を振って自身の魂の名で活動しないのはそこが原因であるとみていいだろう。
だが彼は破ってしまった。恐らく数百万近くという潤沢な資金を使い、豊富な人脈を使って美しい少女のアバターを手に入れた上で初手3Dにし、大々的に自身の告知をして様々なネットニュースに載ってさらに拡散された。
ツイートを見るに、彼は興味があってVに足を踏み入れたのかもしれないが、興味を持ったことに夢中で、そこで行ってはいけないことは頭の中には無かったのだろう。「郷に入っては郷に従え」という言葉を誰かが彼に教えるべきだったろう。
世の中様々な常識・決まり事があるが、時折それを破れば面白いとか良くなると言い出す人はいる。
だが間違ってはいけないのが、それは斬新であったとしても、結果成功するとは限らないことなのだ。そしてその常識や決まり事が出来たのには何等かの理由が必ずある。これは常に頭の中に入れておかねばならない。
2の項で紹介した擁護意見には面白い動画が来れば文句がないような意見も散見された。
だが自分は面白い動画が来たとしても、それはかなり頻度が落ちるものであることが考えている。
彼はニコ動活動していた中でVになるまでの11年間に4本しか動画を出していない。最初の動画から最後に動画あげた期間と捉えても8年間で4本。2年に1本しか出していない計算になる。
そして、彼はVとして復活した後も新しく動画上げようとせず、動画は組み立てていると言っておきながら2週間以上経っているが動画の音沙汰はない。
なのに、急に他のVに凸して生放送コラボしていたりするという行動の不一致も見られる。
彼はマイペースに動画を出しているのではと思われる方もいるだろうが、そんなのんびりやりたいなら尚更「馬犬」という名を出すべきではなかっただろう。
自身がニコ動でどう扱われたのか知っているなら、地道にV活動をしていっても良かったはずだ。
登録者を増やすのならば1週間以内に動画を出すのがベストだったろうが、それをせずに視聴者を煽り、動画を出さない言い訳をしているのは、少し見苦しくないだろうか。
無論メインに別の仕事をしている可能性も大きくあるが、尚更煽りや言い訳をするべきではなかったろう。最初から時間がかかるのなら、次の動画がどれ位になるか目安を言っても良かったはずだ。
そんな言い訳をする彼は本気でVTuberをしたいのだろうか、ただ突発的に思いつきでやっているのではと疑いの気持ちの萌芽は出てしまうのは、彼が心からどんな敬意をこのV界隈に抱いているのか、それが分からないのも一因なのかもしれない。
もし本気でやらないのなら、Pとなって一歩引く道もあるのだし、今の状態のまま続けるべきではないだろう。
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以上が自分が言いたかった「納得できなかった」3つの点である。いかがだったろうか。自分は日記は書かないのだが、彼の転生には納得はほぼなかったと言えた。だから書いた。
これに納得できない人もいるだろう。でもこのまま彼の復活をただ讃えるようになるのは嫌だった。
今まで、どの箱問わず好きになったVは何人もいた、デビューも応援した。だけど、彼の転生は今までデビューしたVとは違う物があった。
彼はマロ読むのに忙しくて目を通さないだろうけど、もし目を通したなら一言だけ。
「人の家を土足で踏むようなことはするんじゃない。」
【初めに】
コピーミスで一節が抜けていた。申し訳ない。【】で囲まれた部分が追記である。
【本文】
ビジネスホテルに泊まるときは大抵全裸だし、男女関係なく素っ裸で過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。
そんなことを呟こうものなら、不審者扱いされるのは目に見えている。挙句の果てに、公共の場で脱ぎだして陰部を露出する不審者予備軍と誤解され、警察のお世話になるかもしれない。
だが、よく考えてほしい。ああした人たちは、自分の全裸、特に陰部を見てほしいのであって、裸になりたいのとは少し違う。それに、皆様も思うことはないだろうか。たとえば大浴場に浸かったときの安らぎ。もしもそれが露天風呂だったらなおのこと心が緩み、湯の中に嫌なことが溶けていく思いがしないだろうか。
目の前にどこまでも緑が、あるいは紅葉が広がっていたら。あるいは、絶えることのないとどろきを繰り返す海洋が広がっていたのなら。これほどまでに自由を感じつつ、大いなる存在に受け止められている安心感を覚える場所はないはずだ。何も身にまとうことなく立っていると、海風が全身をそっと撫でていき、普段どれほど重いものを身にまとってきたかを、嫌でも意識させられる。
とはいえ、男女混浴が可能な場所は国内でも限られている。ましてや、近年は混浴のマナーの低下が甚だしく、混浴を取りやめてしまう地域も多いと聞く。ある意味では仕方がないのかもしれない。混浴が誕生した時代とは、私たちの羞恥心の感覚も変わってしまった。
そういうわけで、私は混浴文化がまだ息づいている、ウィーンにまで足を運んだのである。概して、ドイツやオーストリアを含む中東欧の人々は裸体に対するタブーが弱く、混浴についても寛容なである。緯度が高いので、全身で太陽を浴びたいのだろうか。冬になると日照量不足で気分が落ち込む私としては、その気持ちはよくわかる気がした。
もっとも、私は全裸になるためだけにオーストリアに飛ぶような酔狂な人間ではない。
私は建築や美術にも関心があり、この旅行の主目的は、クリムト、シーレ、ココシュカといった人々の作品を鑑賞することであった。なので、脱衣はどちらかといえば、時間が空いたときのおまけである。
日本と同じで、月曜日には休業の美術館が多い。なので、月曜日にそうした巨大温泉施設に向かった。ウィーン中心街からおおよそ三十分ほどのオーバラー駅前の、テルメ・ウィーンと呼ばれるところである。
駅を出ると目の前に巨大な建物があり、そこからは既に硫黄の香りがしている。そうしたところは我が国の温泉とよく似ており、妙な安心感がある。片言のドイツ語で入場料を払い、タオルのレンタルを済ませ、ロッカーに向かった。
ロッカーのカギは電子式で、かざすと自動的に開閉されるというものだ。慣れるまでに時間がかかったが、すぐに便利だとわかった。荷物を持ったままガチャガチャと回すのは大変だからだ。ちなみに、このロッカールームの時点ですでに混浴で、男性女性関係なく着替えている。もちろん、慎み深い人のために個室の更衣室もあるのだが、別料金だ。
ちなみに、温泉施設ではあるがすべて全裸で過ごすわけではなく、全裸なのは奥のサウナコーナーのみである。そのために私は一応水着を持参しており、ついでに防水のバッグも持ってきた。
まずは、せっかくなので水着エリアで温泉を楽しむ。とはいえ、水着エリアは温水プール同然であり、浸かっているとあたたかいが出て風に当たるとすぐに水着が冷えてしまうといった代物である。せいぜい人肌程度であり、温まるには不足である。
これはときどき指摘されることだけれど、日本人の湯加減の好みは、ヨーロッパの人々のそれよりもかなり高いらしい。ハンガリーは温泉大国で知られているが、やはりそこも湯加減はぬるい。ただ、その程度の温度でなければ、ガイドブックで見かけるように、湯につかりながらのんびりとチェスの対局をやるわけにもいかないだろう。
他にも、子供立ち入り禁止エリアというのがあり、ムーディーな照明と共に、カップルや夫婦がぷかぷかと浮かびながら語らっているコーナーがあった。ここも温水プールでほとんど温まらない。日本の温水プールみたいに、塩素臭くないのはありがたいのだが、やはり汗をかかないと物足りなく感じてしまう。
そうしたわけで、水着エリアを堪能した後に移動しようとしたのだが、サウナエリアがどこかわからない。あちこちうろつきまわり、子供に泳ぎを教えているらしい人やスタッフと思しき人物に、「ヴォー・イスト・サウナ?」(サウナはどこですか?)などとつたないドイツ語で尋ね歩くうちに、やっとのことでたどり着いた。
なお、このゲートの先は別料金であり、鍵をタッチして入る。清算は帰りだ。そして、注意書きにはドイツ語と英語で「この先水着の着用を禁じる」と書かれている。なんとも徹底していることだ。私は軽快な電子音と共にその奥へと進んだ。
サウナコーナーは、それほど変わった印象はなかった。ただ、見かける男性が皆素っ裸なので、私も水着を脱いだ。それほどの羞恥を感じなかったのは、一つには周囲には男性しかいなかったからだろう。それに、ここでは全裸が正装なのだ。だったら、むしろ何か着ている方が恥ずかしいのではないか。そんなことを思ったのである。
サウナの入り口には温度が書かれており、四十五度、五十度、六十度、それから九十度に分かれている。ひとまず五十度のところに入ると、既に老夫婦がくつろいでいた。ここで初めて裸の女性と遭遇した。
二人は、私の存在を気にかける様子もなく、くつろいだ様子だった。私も、確かに目の前に女性がいるのだなあ、ということは考えたのだが、気にしてもしょうがなかったので、ぼんやりと天井を眺めることにした。男性で前を隠している人はほとんどいなかったので、自分もそれに倣ったのだけれど、個人的には気持ちが良かった。世間体を気にせずにリラックスした姿でいるのは、何とも言えず心地よい。
ちなみにその老夫婦のいたサウナでは、腰かけるところがチェアベッドのようになっており、仰向けにくつろげるような形になっていた。うとうとしているといつの間にか隣に座った男性が、ペーパーバックで何やら読んでいる。お風呂ではなくてサウナで読書、贅沢この上ない時間だ(もっとも、後で注意書きを見たら、サウナの中の読書禁止、と書かれていたのだが)。
しばらくして、サウナを出てシャワーを浴び、他の温度のところを回ったり、冷水プールに体を浸したりした。日本の温泉は露天風呂がメインで、サウナが複数あるところは珍しい気がするが、ここでは様々なタイプのサウナがあり、存分に楽しめた。
たとえば、スチームサウナというのがあり、ここでは猛烈な蒸気で包まれる。汗が蒸発しないのでなかなかにつらいし、持っていたタオルもすぐにびしょ濡れになってしまうのだが、熱風がきつくないので、肌には優しい気がした。眼鏡をかけていると、何が何だかわからなくなってしまうのだが。
ちなみにこの眼鏡、裸眼で転ばないように、日本でサウナ用の眼鏡をわざわざ購入したもののである。
【ところで、このサウナコーナーには、外がある。サウナなので当然素っ裸で歩くのだが、これが気持ちがいいことこの上ない。芝生の上を歩けば、まるで熱帯民族になったようで愉快だ。そして、歩いた先には小屋があるのだが、そこもまたサウナである。
そこでは、おおよそ温度は九十度で、定期的にスイッチがオンオフになる。オンになると、そこにはタオル一枚のおじさんがやってきて、香りのする水を炉に撒く。そして、巨大なタオルでサウナの人々に熱風を浴びせるのである。
それがまた非常に心地よい。異様な高温のはずで、現に乳首が痛いほどなのだが、それでも不思議と生きている実感が与えられるというか、幸福感と高揚感が感じられる。それは他の人々も同じなのだろう。おじさんのパフォーマンスが終わると、一斉に歓声と拍手がする。ロウリュウ、と呼ばれるものに近いのだろう。
そのあとも、おじさんは一人一人に熱風を送る。そのたびにあおがれた人々は嬉しそうだ。私も、「ゼア・グート。アバー・ゼア・ハイス」(とても気持ちがいいですが、とても暑いです)と、定冠詞の活用が無茶苦茶なドイツ語で応じた。すると隣のおじさんがあおがれたときに「カルト・カルト」(寒い、寒い)などというものだから、思わずその場は笑いに包まれた。
私に向かって風を送るときに、両手を合わせてお辞儀をしてくれた。たぶんタイかどこかと間違えているのだろうが、悪意よりも親しみを感じたので、こちらも会釈した。腰かけるところが熱すぎて胡坐をかいていたので、仏像か何かと勘違いしたのかもしれない。
その後、全身をほてらせながら野外にある二十五メートルほどのプールで体を冷やした。何往復か泳いでから、仰向けになって曇り空を眺めているうちに、これほどの幸せなはないだろうな、と感じられた。何のしがらみもなく、何の規制もなく、ただ存在するだけ。過度な欲望もなく、競うこともなく、誰からも干渉されない時間だけそこにあった。
それに、水着を身につけずに泳ぐと体を締め付けるものが何もなくて、全身を区別せずに流れていく水が本当に心を自由にしてくれる。それに、誰もお互いの裸をじろじろ見たり気にしたりしないのも、気持ちが良かった。あたたかな無関心というか、あるがままの姿を受け入れてもらっている感覚になるのだ。
人間の身体のどこに猥褻なところがあるのだろう、表現の規制は何のためにあるのか、などと大げさな議論が頭の中に形を取ろうとしたが、そうしたものは普段日の当たらない陰部に太陽が差す気持ちよさに溶けてしまった。
そうしたわけで、私は結局三時間以上もそこで過ごすことになった。】
さて、三時間過ごしたので、そこではいろんな人を見ることができた。もちろん、凝視したわけではないけれど、それでも混浴に来るオーストリア人にはいくつかのパターンが認められた。
その一、スポーツマンタイプ。ものすごい筋肉量で、アスリートか何かのようだ。これだけ鍛えていれば、自分の身体に恥ずかしいところなど、どこにもないと言わんばかりだ。ギリシアやローマの彫刻そっくりである。スポーツマン同士で何やら楽しげに話していることが多い。
その二、力士タイプ。非常にでっぷりとした肥満体系のおじさん。人からどう見られているかそんなに気にしていない印象。こちらも堂々と歩いており、楽しそうにしている。
その三、老夫婦。なんというか日本の混浴にもいそうな、のんびりした雰囲気。ときどき湯船の中で抱き合ったり、ほっぺたにキスしたりしている。ちなみに、注意書きには「キス以上のことはしちゃダメ!」「十六歳未満の入場禁止!」と書かれている。
その四、比較的若いカップル、あるいは若い男女。よくわからないのだけれど、「みんなで渡れば怖くない」的な感じで一緒に来たのかもしれない。
ちなみに日本人は私だけだった。それから一人だけアフリカ系の人がいた。それ以外はみんなヨーロッパ系。
で、こうして振り返ってみると、比較的若い人が多い。それでも、私はあまり気にならなかった。というのも、前も言った通りここは全裸が正装なのであり、それについてとやかく言うほうが変だ。確かに、きれいで魅力的な人もいたし、中には私の好みの人もいたのだが、雑踏ですれ違う以上の感慨はなかったし、わざわざ振り返ることもなかった。
混浴について、猥褻だとか下品だとかいう意見があるが、私はまったくそう思ない。そもそも、ここは風呂とサウナであり、いい湯だな、以外の感想はない。たぶん、混浴について批判的な人は、マナーの悪い人と一緒になってしまったのか、そもそもお風呂がそこまで好きではないか、なのではないか。人様のことだから、勝手な判断は差し控えるが。
というか、見えそうで見えない極小ビキニなんかよりも、素っ裸の方がよっぽど上品な気はする。潔いし。隠すから下品だとか猥褻だとか言われるんじゃなかろうか。みんな最初からすっぽんぽんだったら、誰も気にしないだろうし。隠せば隠すほど、そこに注意が向くし、逆説的にそこに注目してくれと言っているようなものな気がする。
それと、全然関係ないけど、女性でも腋毛もじゃもじゃの人は多いのは面白い。話には聞いていたが、実際に目にするとやはり興味深い。陰部がどうなっているかはじろじろ見なかったからわからないけれど、向こうの人は剃っているとはよく聞く。ただ、そんなことも温泉が気持ちいいのでどうでもよい。
そういうわけで、私はオーストリアの混浴を十分に楽しんできた。予想していた通り、とても気持ちが良かった。日本にも類似したサービスがあればいいのに、と思ったが、マナーを一定の水準に保つことは難しいだろう。きっと、ナンパしたりじろじろ見たりする行為が横行するに違いない。一度絶えてしまった、混浴の文化を再びメジャーにするのは、難しいだろう。
プールサイドで裸のまま横になり、夢うつつのまま時間が過ぎていく経験は非常に贅沢だった。しかし、これは今の温泉文化とは、少し違うかもしれない。
個人的には、自分がやりたいことをやったので、満足している部分はある。今後どうするかはわからない。恋人がいないときだったので、とりあえず全裸になってはみたのだが、もしも今後も恋人が見つからず、行きたい場所が思いつかなかったら、どこか別の国でヌーディストビーチに行くかもしれない。それか、趣向を変えて、全裸ハイキングか全裸マラソンかに挑戦するかもしれない。
もっとも、この混浴体験ですっかり気が済んでしまい、数年後には興味すら持たなくなっている可能性もある。それはわからない。
ただ、やりたいことをやってみて、それなりに面白かった。それで十分なのかもしれない。
最後に、脱いではいけないところで脱ぐのは絶対にやめましょう。これだけは強調しておく。
【最後に】
本記事はカクヨムにも掲載されている。私が投稿者本人であることは、カクヨムでは連載中であり、現時点でも未公開になっている部分が含まれていることが証拠になる。
【付記】
ヌードバイクみたいな、ヌーディスト活動経験者の増田は、ほかにもいらっしゃるのだろうか。あるいは、ヌーディズムに関心がある、だけでも潜在的にはどれほどいるのだろう?
【アクセス】
地下鉄U1の終点、Oberlaa駅
リリース当初、まだ検索機能が削除されてなかった時に検索して参加した。
朝、昼、晩と挨拶と食事や天気のちょっとした話題。それだけで十分気晴らしになってた。満足してた。
けれど、オープンチャットから検索機能が削除され、ルームも荒らしを恐れて申請制にしたことで、新規がまったく来なくなった。
投稿者が徐々に減っていく雑談ルーム。増田で知った宣伝ルームを皆に教えてあげようと思った。
で、話題を振った。
「検索なくなって戻らないですね」。
みんな、私同様、他の話題が探せなくて困ってるに違いない。「早く検索もどってほしいね」という返事を期待していた。
無視されたのだ。それも投稿直後に慌てて別の話題を被せるように、数人が日常的な雑談で急に盛り上がって見せた。
みんな普段は別に人殺されて名前報道されても何も言ってないやん
障害者福祉の理念はすばらしい。あってしかるべきだ。しかし障害児のきょうだいは障害児福祉という名の新興宗教に強制入信させられることでハンディキャップを背負うことになるのではないかと思う。自分はそうだったのではないかと思っている。
母親が障害者福祉、障害児のママという絶対善、絶対正義の立場に立ってしまい、絶対に逆らえないこと。
学校やご近所や親戚やテレビをはじめとした差別主義的な社会や世間との板ばさみにされてしまうこと。
世間の偏見が!社会の無理解が!と聞かされながら、ご近所さんにはペコペコし、学校に馴染める子になれと言われるという、矛盾したメッセージにさらされること。
母親が障害児福祉活動の世界に入り浸っていつも知らない人たちといっしょにいるので、分離不安、寂しさを感じること。
障害児が生まれたのはママのせいじゃない、ママはわるくない、障害児タンはみんな天使、では、だれがわるいのか?そうだ長女がわるい!と、母親にとって一番叩きやすい者に矛先が向かうこと。正義や善は悪の存在なしでは成り立たないこと。
長女、上の子が大変なママを支える役割と決め付けられてしまうこと。障害児を抱えるけなげなママが主役の舞台の脇役を演じさせられること。
障害児福祉という、子どもにとって義務感しか与えられないコミュニティに引っ張り込まれること。
きれいなものをきれい、きたないものをきたないと思うこと、障害児の顔や排泄物や言動に不快感や嫌悪感や恐怖心を持つことに罪悪感を持ってしまうこと。
性に対するタブーの意識。障害児タンは天使であって性的な存在ではない。お前も性的な存在であってはならない。年頃の娘を見知らぬ障害者男性と同じ大浴場に入らせる、障害男児が健常女児の風呂をのぞくと、お姉ちゃんはお年頃だからねえ~といって茶化す、知的障害者に痴漢されても誰にも言えないことなど。
恋愛、結婚、出産に対する禁忌の意識。将来おかあさんと同じようになりたいとは思えなくなること。
いくらママのせいじゃない、ママはわるくないといわれても、やっぱり子どものせいでママが悪い母と思われてしまう!という見栄や被害妄想があるので、きょうだいには世間様に恥ずかしくない子であることを過剰に求めること。
上記の虐待行為のためにきょうだいの発達に遅れが生じ、ますます親の見栄や恥の意識のための懲罰を受けてしまうこと。
きょうだいが精神的に困っていても、障害児ちゃんと違って健常児なんだからちゃんとできるはず、ちゃんとしろと叱責を受けてしまい専門機関を受診できないこと。また虫歯が多くなり足の指が変形するなど。
母の障害児のママ仲間が障害児と踏み切りで心中したとき、母は電話で障害児のママ仲間と、かわいそうよ~と言いながらおんおん泣いていました。私はそれを見て、障害児を持つけなげなママドラマがクライマックスに達したんだ、よかったねと思いました。
もし私がもっといい子に生まれていたら、親がいい親だったら、私はやさしい心を持って成長し、親の望み通りに福祉関係の仕事に就いていただろうか。あるいはもしも私がもっと悪い子だったら、結婚出産して幸せになっていただろうか。私は何も選べないまま、どっちにも付けないまま腐っている。選んだのは自分だ。
女性に結婚してるかしてないかを聞くのはタブーとされているのに、男性には平気で尋ねる人が多い。
結婚してないんだ!
どのくらい彼女いないの?
えっ そんなに!? やばっっっっっっっっっっ
そろそろ本気で相手見つけたほうがいいよ?
そう思ってるなら、紹介しろや!!
何とかしたほうがいいよって
そんなん分かっとるわい クソが
女性に結婚してるかしてないかを聞くのはタブーとされているのに、男性には平気で尋ねる人が多い。
結婚してないんだ!
どのくらい彼女いないの?
えっ そんなに!? やばっっっっっっっっっっ
そろそろ本気で相手見つけたほうがいいよ?
そう思ってるなら、紹介しろや!!
何とかしたほうがいいよって
そんなん分かっとるわい クソが
日韓関係がこじれている。戦後ずっとこじれ続けている。竹島、日本海、慰安婦、徴用工...日韓の間に横たわる問題は尽きることはない。「もう謝った」「まだ謝りたりない」これがずっと続いている。
日韓併合から終戦までは35年、しかし南北は約70年分裂したままで、いまだ再統合はできていない。
「朝鮮半島が南北に分裂した時、日本はまだ占領下だった。それを日本に言われても...」と日本人なら当然そう思うし、それが正論だ。だからこそ根深い。
日本は戦争で焼け野原になった後、驚異的なスピードで復興を遂げ、経済大国になった。戦後復興の最大の要因は朝鮮戦争だ。朝鮮戦争で兵站を必要とする米軍に物資を送ることで日本の産業は早期に復活した。米国の都合で復活させられた、とも言えるかもしれない。
日本は西側陣営にとっての極東の後方基地だった。そして前線基地は韓国だった。この役割分担によって、片方は発展を遂げ、もう片方は戦争で発展が遅れた。韓国と北朝鮮は、日本...いや東日本と西日本のifの世界だ。
しかしこの事に韓国人は文句を言えない。「分裂を決めたのは日本じゃないから」というのもあるが、それ以上に根深いのは南北融和が韓国にとってタブーでもあるからだ。
「分裂したのは日本のせい。我々は望まない対立を強いられた」というのは「じゃあ南北で争う必要もないよね」という話ともセットになる。徴兵制で国防を担っている韓国にとってこれはタブーだ。徴兵制拒否者の大義名分になる。
だから韓国は南北分裂について日本を責められない。責められないから別の大義名分で責める。しかし別のテーマでいくら話し合っても、本当の問題が解決されることはない。韓国はいつまでも怒り続け、日本は途方にくれる。
加えて韓国は、北に対する敵国意識と同胞意識を両方抱えている。自分たちの命を狙う敵国と隣接しているという恐怖のフラストレーションと、でも同じ民族で争いたくないという感情を抱えている。
相手が多民族ならフラストレーションを単純なヘイトとしてぶつけやすいが、それをしたくないという感情がそれを踏みとどめている。その一部が日本にぶつけられているという側面もあるかもしれない。