はてなキーワード: スポーツ特待生とは
この年度の末で学校教諭を辞めている。ラストイヤーである。思えばあっという間だった。上の秋季大会の後も、大なり小なり大会があったが、目立つ成果はなかった。
実力というよりは、柔道部全体の精神力、やる気、気合いの問題だった。センスがありそうな子はいたが、『本気』になり切れない。なぜかはわからないが、若者特有の殺気に満ちた闘志というか、「目の前の相手を殺してやる」という滾(たぎ)りが見られない。
特に、格上相手に戦う場面がそうだった。勝つとか負けるとかじゃなく、全力でぶつかってみせようという気概を感じない。
そんな中で、T君はじわじわと実力を伸ばしていた。この頃だと、ベンチプレスは140kgを上げるようになっていた。
柔道の動きはボテボテとした感じだったが、それでもサマになってきていた。高校から柔道を始めた関係で、高一の頃が特に弱かったらしい。当時は、毎日のように先輩や同級生から千切っては投げられていたという。
シゴキ以外にも、いろいろあったようである。当時の先輩連中からは相当イジられていたらしい。T君の同級生の柔道部員が、確かこんな内容を回想していたっけ。
「おいチクビ。何を寝とる。はよ畳の上から立て!!」
「今、こいつに筋肉ドライバーしてやったら、首めっちゃ抑えて転がっとるしwwwww」
「いつまで畳で寝とんな。早う起きんとチクビねじ切るどっ!」
「チクビ君さあ。今度の公式大会の時に、絶対シャイニングウィザードしてよ。武藤敬司好きなんやろ」
※本当にやって反則負けになったらしい
「プロレス好きなんだって?これからダブル大外刈りするから付き合ってくれ」
彼が弱かった頃は、部内でもやられたい放題だったようだ。しかしこの頃、高三の手前になると、彼は部内で№1になりつつあった。皆、彼に一目置くようになっていた。当時、部のキャプテンだった100kg超級の子と乱取りをしても吹っ飛ばされない。
それでも基本的には、いじられキャラだった。先輩からも後輩からもいじられていた。しかし、彼はどんな時でもリアクションを欠かさず、スマイルで彼らに応えていた。
そういえばT君は、毎日必ず昼休みに柔道場に来て、一人で弁当を食べていたっけ。一人飯には理由がある。弁当を食べた後に、ヤツは筋トレを始めるのだ。ベンチプレスを始めとして、腹筋に、背筋に、あとは自転車のゴムチューブを柱に括り付けての打ち込み練習、あとはシャドー柔道か。さすがにカマキリは相手にしてないと思うが……。
昼休みに柔道場に行った折、彼を何度も見ている。ベンチプレスが一番好みのようだった。自分自身が成長する実感とでも言えばいいのか、月ごとに最高記録が上がっていくのが面白かったのだろう。
柔道界の公式回答としては、高校生に器具を用いた本格的な筋トレをさせるべきじゃない。この時期(小中~高校生)は、技術に磨きをかける時期だ。ベンチプレスその他で測れる筋力は、試合ではそんなに使わない。柔道に本当に必要なパワーというのは、柔道をすることでしか身に付かない。すなわち組み手の練習とか、立技・寝技の乱取りを通じてしか、そのスポーツに必要な『体力』は身に付かない。
しかし、T君には時間がない。彼にとっての柔道は、おそらく高校で終わりである。時間がなさすぎる。だったら、ひたすら筋トレに励む道があってもいいんじゃないか。当時はそんなことを考えながら、昼休憩中のT君のトレーニング風景を眺めていた。
高三の四月時点で、彼の体重は約78kgだった。一年前はボンレスハムのような体形だったが、スマートになっていた。何より、当時のT君は部内で一番やる気があった。何事にも一生懸命だった。鍛えがいがある。
さて、高三最後の公式戦は六月だった。ここまでには仕上げたい。幸い、四月にあった市内大会では、彼は5位入賞を果たして県大会出場を決めていた。順々決勝では、昨年の秋季大会で当たった強豪校の選手に内股で一本負け(空中一回転半させられた)だったが、そこから2回勝って5位になった。
柔道場での立ち技の乱取りでは、納得いくだけの投げを打てるまでひたすら稽古を続けた。T君に対し、組み手の位置は自由にさせて、技も全部受けてやる。その代わりクオリティは一切妥協しない。俺が納得いくまで休憩すらさせない。
「おい、T。苦しくっても、苦しそうな顔すんな。相手にバレんぞ。ビビってるとな、わかんだよ。相手によ~!!」」
すると、唇を引き締めるようにしてT君は、距離を取ってこちらの様子を伺っている。
ああ、これは。技に入るのを狙ってるな。相手が高校生だとすぐにわかる。
「技に入るのを狙うな。狙わなくていい。(お前の反射神経だと)無理だから!! とにかくたくさん、技をかけろ。連続しろ、連続。ちゃんと技は繋がるから。お前の感性でいいんだよ。考えるな、感覚でやれ」
実際、高校レベルの試合だと技が下手くそでもいい。とにかく数。連続性が大事だ。
ただやはり、T君は運動神経が鈍いようで、へっぽこな大内刈りに小外掛けや、ボテボテとした払い腰しかできなかった。ヤツが俺に珍しく内股をしかけると、「ポフッ」という効果音とともにヤツが弾かれる。そんなレベルだった。素人未満である。
「今のお前の柔道、ほかの選手と乱取りやってるのと違うじゃん。俺用の柔道か~、そのへっぽこなのはよ~」
T君の柔道は、俺と乱取りしてる時はモードが違ってる。まるで、何かの専用の練習でもしてるようだった。
ヤツはまた内股をしかけてくるが、全然効いてない。運動神経とか、技に入る姿勢の問題じゃなくて、組み手が下手くそ(≒柔道着の握る位置がおかしい)なのだ。いいところを掴めてない。せっかく自由に組ませてるのに。
ただ、T君に組み手争いを教えるには、もうタイムオーバーである。「思いっきりイイと感じるところを掴め!」くらいしか教えていない。
だが、連続して技を掛け続ければ可能性が見えてくる。うまく相手が転がれば、彼が得意とする寝技に移行するラインも見えてくる。
「オーイ、てら。何止まってんだよ! 動け、動け。変数作れ。チャンスがないと思ってんの、お前だけだよ」
彼はヘロヘロになって大内刈りを放つのだが、俺に効くはずもなく。間隔を取って、釣り手と引き手(※柔道用語は適当にググってほしい)を上下にブンブン振り回したなら、ジャイアントスイングみたいになって、T君が畳をゴロゴロ転がっていく。築地市場の床面を滑っていくマグロのようだった。
「オーイ、俺お前よりも軽いんやぞ。吹っ飛ばされてどうすんだよ」
T君が立ち上がると、顔が真っ赤になっていた。熱中症の人でもこうはならないだろう。それくらい真っ赤だったよ。
ゆっくりと俺に近づいてくると、釣り手の方でパンチするみたいに組み手を取ろうとしてきた。それを弾いて、逆に奥襟を取り返してやった。すると、ヤツも負けじと奥襟を取ってくる。
「力比べで俺に勝てるか」と思ったが、ヤツも結構強かった。睨み合ってたが、T君の耳まで真っ赤になってるのを見た。
この頃になると、彼の耳は潰れていた。餃子耳というやつだ。努力の証である。大半の柔道選手は餃子耳にならない。本気で寝技を練習した証である。
こんな光景を見ながら、ある漫画のセリフを思い出していた。 技来静也が描いた漫画作品の、確かこの場面だったはず。
……呼吸(いき)を乱すなセスタス 恐怖心を意志の力でねじ伏せろ 怯えは判断(よみ)を狂わせる 恐れは疲労を増幅させ 病魔の如く五体を蝕む 眼を逸らすな! 敵の刃を見極めよ 胆力こそ防御の要だ 殺意と向き合う勇気を持て
拳闘暗黒伝セスタス 2巻より
俺だって、中学生や高校生の頃は、練習が恐ろしいことがあった。寝技の最中に、殴られ、蹴られ、締め落とされ、「殺される」と思ったことが幾度となくある。だが、試練を乗り越えるだけの胆力を身に付けないことには、いつまで経っても二流以下である。
こういう感覚は、今時のZ世代みたいなやつがあるじゃん。ああいう子達には伝わらないんだと思う。「○○が上手になりたい、強くなりたい」って? 本当にそうなりたいなら、命くらい投げうってみせろ。
2024年現在だって、野球でもサッカーでも、バレーでもテニスでもゴルフでも、スケボーでもブレイキンでも、将棋だって囲碁だって、その道で超一流の奴はな、自分の命かけてその道を歩んでんだよ。
立ち技が終わると、次は寝技だ。T君が強敵相手に勝とうと思ったらこれしかない。それくらい、彼の運動神経は絶望的だった。立ち技の才能がない。当時のT君が「生まれつき運動神経が切断されてるんです」と言ったら、信じたかもしれない。
柔道場の端にある、寝技の乱取り開始を示すタイマー(ブザー)が鳴ると、俺はさっそく横四方固めでT君を押さえつけて、右拳の先を太ももに突き立てた。するとT君は痛がって、俺の腹を突いて逃れようとする。
「お前、俺に力で勝てんの、勝てんの? 勝てないでしょ!? 頭使わんと、ほら。前に教えたやろ? 逃げ方を……」
横四方固めで抑え込まれた状態のT君は、腕をなんとか両者の間に差し込んで、背筋で跳ねて逃れようとした……それが正しいやり方だったら、そのまま逃がしてやる。それで、また瞬間的にヤツに覆いかぶさって、抑え込みに持っていくのだ。T君は逃げる。ひたすらそれを繰り返す。
俺の抑え込みから逃れたとしても、T君がこっちに向かってこず、亀の姿勢になろうとすると、すかさず両手で奴の柔道着の胴と太腿を掴んだ。
「よいしょっ」と持ち上げると、奴の体がひと時宙づりになった。そのままクルリとひっくり返して、横四方固めでまた抑え込んだ。今の選択はアウトだ、敵前逃亡である。この寝技練習では、攻撃行動以外は認めない。
寝技になると、T君がたまに覚醒する。俺の動きがわかってたみたいに、例えば、真上から抑え込もうとした俺の膝をピンポイントで蹴っ飛ばして、転がして、そのまま上に乗ってしまう。
俺は両足をヤツの足に絡めてガードするのだが、巧みに外して、抑え込みに持っていく――縦四方固めが完成した。
こんな具合で、いい動きをした時には認めてやる。褒めるんじゃない、認めるのだ。そいつのパワー、気概、実力を。褒めるってのは、親が子どもにやるものだ。コーチと選手って対等な関係だろ。
T君は膂力(りょりょく。腕の力)があるうえに、寝技のセンスがあった。寝技というのは、ガッチリ決まると体力差に関係なく勝利できる。当時まだ20代半ばだった俺の体力はT君をはるかに上回っていたが、それでも抑え込みから脱出できないことがあった。
ただ、悲しいかな。彼にあるのは寝技だけだった。立ち技は本当にダメだった。まったく才能がなかった。
せっかくパワーがあるのに、釣り手で相手の奥襟や背中を掴むことは皆無であり、いつも前襟だった。運動神経がないから、せっかく神業的なタイミングで大内刈りや払い腰に入ることができても、相手を投げるに至らない。遅すぎるのだ。
ただ、彼はよくやっていた。性格やキャラクターはいじられ系芸人のそれだったけど、リアクションはよかったし、部員みんなから好かれる存在だった。そういう雰囲気をもった人間だった。
時期は半年ほど戻る。
いつぞやの試合でT君を内股で吹っ飛ばした名門校の選手と、ラーメン屋で同席したことがある。T君と俺と、あの選手N君が一緒になったということは、おそらく試合の帰りだったのだろう。
あれは、福山駅の駅舎の外に入っているラーメン屋だった。名前は忘れた……なんとか吉だったはず。そこで、T君にラーメンをおごってやろうとして、カウンター席がいっぱいで4人掛けのテーブル席に通された。
そしたら、おかみさんが来て、「相席でもいいですか?」と言うのだ。それで待っていたら、N君ともう1人の柔道高校生が向かいのテーブルに付いた。2on2の相席Styleである。
そのN君だが、痩せ気味で精悍な顔つきをしていた。体形は相当細身で、背丈は185くらいか。T君と同じく81kg級の選手である。もう1人は、100kg超級とおぼしき超アンコ体系の子だった。棟田選手以上の丸々とした感じだ。
2人とも、耳は完全に潰れていた。どちらも社会人に近しい貫禄があった。眼光が鋭い。スポーツ特待生で高校入るような奴って、雰囲気からして違ってる。
俺の耳もやはり潰れている、大学卒業して釈迦人デビューするにあたり、手術で直すという選択肢もあったが、餃子耳の方がハクがつくと考えていた。T君の耳は、この時潰れかけだった。
会話、どんなだったかな。そうだ、N君がT君に話しかけてきたんだ。
それでT君も、ラーメンを待ちつつ水を飲んで彼と話をしてた。
思い出せる範囲だと、こんな会話だった。覚えてない箇所は端折っている。
「高校入ってやっとるよ」
「そうなんだ。やっぱりこの辺の学校は、そういう子が多いのかな」
「えー、すごいやん」
「親に無理やり。両親とも柔道してて」
「それで、ここまで強くなれたんや。すごいね」
「内股めっちゃすごいやん。カミソリみたい。サクッと相手が飛んでくよね。マジですごい」
「伝家の宝刀な。あれだけは自信ある。けど、強いヤツは世の中にいっぱいいるし。俺もまだまだよ」
「自分、N君には一生敵わないな。多分。こないだの試合、内股で空中5回転しとらんかった?」
「(テーブルを叩きながら)してた、してた!! なあ~」
※隣の高校生が関心なさそうに頷いていた
「もっと勢いが強かったら、会場の窓ガラスを突き破って護国神社に落ちとったよ」
このあたりで、俺のイラつきを察したのか、N君の隣の高校生が彼を小突いた。
「T君さ。今度オレと試合するのいつになるかな」
「冬に県に繋がる個人戦がなかった?」
「それ、無差別級だけだろ。あの大会は、ベスト8までは全部うちの高校が占めるし、そこまで登ってこられる? それにベスト8が決まったら、例年それで市大会は終わり。解散。1位から8位の順位はうちの監督が決める」
「えー、そういう仕組みなん?」
ここで、隣の高校生がN君の肩を叩いた。
「そう、そういう仕組みな。次の試合は春しかない。あと1回だけのチャンス」
「うん、当たるの楽しみにしてる」
「そんなんされたら、自分死ぬし!! ボンレスハムだし、チャーシューだし、畳をバウンドしちゃうよ」
「楽しみにしてる」
ここらへんの場面で注文したラーメンがきた。それで、あとは皆黙々とラーメンとか餃子を食べて、解散した。
あの店は、とんこつラーメンのアレンジ系が美味かった。当時はよく利用してた。もう軽く十年以上は行ってない。残りの人生で行くこともないのかもしれない。
※書いてるうちに思い出した。福山駅前の八十吉ラーメンである。
ただ、あの頃のT君とは、できれば一緒に行きたくないな。財布的な意味で。
当時、たまに2人きりでご飯をおごってやることがあったけど、あいつ、ラーメン替え玉4杯+チャーハン+から揚げ+餃子5人前とか食べ切っててビビったわ……食欲が凄まじい。ラーメンが4杯で終わりなのは、その頃にはスープが無くなるからだ。
俺はその半分しか食えなかった。食欲においては、完全に俺の負けである。事実だ。認めるしかない。
そんなこんなで、最後の公式戦までの日々は風のように過ぎていった。
この匿名ダイアリーを書くにあたり、約二十年前の記憶を思い返している。正確じゃない部分はあろうけど、そこまで間違った内容でもないはず。一部ではあるが、当時の記録媒体を基にして書いてることもある。
あの日々は、けっこう幸せだった。柔道部の成績は悪かったけど、気合いが入った部員も出てきていた。そういえば、あの時そういう行為をした女子マネージャー(妹)も、あれから特にトラブルはなかった。これまでどおりの、柔道部顧問とマネージャーの関係だった。いや……ごく稀にプライベートで会うことがあったか。
何度か変なことがあった。双子の姉の方と柔道場の入口で談笑してると、妹の方がやってきて一緒に話に入ったのだ。不自然なタイミングで。無理やりに近い。それは、姉じゃないもう一人のマネージャーと話してる時もそうだった。
ちなみに姉の方は、マネ子に比べると若干明るい性格だった。俺ともT君ともほかの部員とも仲良くやってた。天性のコミュニケーション能力があるタイプだった。底抜けに明るいわけじゃないけど、不思議と安心感のある、温かみのあるキャラクターだった。
マネ子の態度は、上記を除いては普通だった。何か月かに一度は、俺も含めた部員みんなにお菓子を作ってくれたし、バレンタインデーには手作りチョコレートくれたし、大会前には率先して雑用を命じてほしいと志願したし、俺の誕生日にネクタイピンをくれたこともある。
私学だし、まあいいかと思ってもらってた。あの子の財布は大丈夫かなと思ったが、月のお小遣いが一万円と聞いて納得した。友達と遊びに行く時などは、母親から別途お金がもらえるらしい。医者の娘は違うな……と、月四千円の小遣いで寮暮らしをしていた高校時代に想いを馳せたっけ。
別に、妹の方とまたセックスしたいとは思わなかった。「したい」という欲求はあったけど、でも教師としての責任感が勝ったのだ。 訂正;間違った記憶でした…
ただ、俺という人間は、やはり異常だったと思う。ちょっと性欲が強いのは間違いない。そちらの方には正直だった。あとは~~子どもの頃に柔道や陸上をしてたのだが、絶対にうまくなりたい! という情念が強くなりすぎて、体を痛めて指導者に怒られることがあった。夢や目標に対しては猪突猛進だった。
性欲、性欲……と、今思い返してみて、人としてよくなかったと思えるものを最低3つは思い出すことができた。ひとつだけ、あれはまだ5才か6才の時か。両親が忙しい家庭だったので、日常の世話は祖母が見てくれていた。いつも、祖母と実妹と一緒に寝床についていた。
いつからだろうか。動機は定かではないが、まあ原初の感情とでも言おうか。夜に寝床にいる時、暗闇の中で祖母と一緒に寝ている時に、祖母の衣服を脱がせていた。「ねえ、ばあちゃん。服、服脱いで」と無邪気に笑って、祖母の服を脱がせていた。それで裸にする。
そして、お互いに裸になって、抱き合って布団の中で眠るのだ。抱き合うだけじゃなくて、ほかにも明らかに色々してたけど、やはり幼子とはいえ異常な行動だったと思う。
妹に対してもそうだった。妹に対しては、ほぼ毎日のように服を脱がせていた。妹は「いいよ」と言ったこともあったし、「いやだ」と言うこともあったけど、お構いなしに服を脱がせた。祖母が近くにいても関係なかった。とにかく脱がせて、納得いくまで裸で抱き合っていた。原初の感情だった。
愚かなことだった。反省している。でも、あの時の感情は本物だった。あの時、まだ小学生ですらなかったけど、俺は「女を抱きたい」と確かにそう思っていた。リアルだった。
次です
子どもの頃から俺はおかしかった。別に、変な子どもとか言われたことはない。むしろ褒められることの方が多かった。学校の成績はイマイチだったが、運動や芸術の成績はよかった。
自己紹介は必要最小限にしたい。今は四年制大学でスポーツを教えてる。幼少期から柔道をやっていた。中学校の全国大会で結果を出して、スポーツの名門高に進学して、同じく名門大学に進学して、卒業後はパチンコ機器のメーカーに入社(スポンサー契約)してプロになった。
※柔道にプロ制度はない。あくまで「それ」で食ってるという意味。
回想を始めたい。パチンコメーカーの次の転職先を主題に据えて話をする。
新卒で入社した、そのパチンコメーカーとの契約期間は3年だった。最終年度になると、次の道を考えないといけない。一応、次期も残れるだけの実績は出したものの、新しい、次のステージに挑戦しようと考えていた。柔道は、野球やサッカーに比べると現役でいられる時間が少ない。体をたくさん動かす分、選手生命が短いのだ……。
当時は、全日本の強化選手(A指定)だった。合宿にはフルで参加していて、オリンピックに出場する連中とも交遊があった。あの頃は、井上康生が全日本の主将を務めていた。彼が不在の時は俺が副として動くこともあった。ウザいかもしれんが、ちょっとくらい自慢させてくれよ。こういう場で文章を書く機会は滅多にないんだから。
※ところで、この日記はとても長い。ゆっくり読まれることを推奨する。
次のステージについて悩んだ結果、選んだのは……学校の先生だった。大学時代に保健体育教諭の免状を取っていた。いざという時に潰しが効くようにと、大学時代のコーチが勧めてくれた。今でも感謝してる。
どこの学校にしようか思案したところ、やはり地元がいいと思った。出身高校の柔道部の監督に相談したところ、広島県の東の端っこにある高等学校が指導者を探しているということだった。
さっそく面談のアポを取り付けてくれて、その高校の現監督と面会すると、すごく驚いてた。まさか強化選手が高校教師に転向するなんて思ってもみなかったんだろう。
トントン拍子に話は進んで、その翌年度から、俺はその高校の保健体育の教諭(兼柔道部顧問)として赴任することになった。
指導者としてのミッションは『古豪復活』だった。その高等学校は、昭和40年代まではすべての体育会部活がインターハイで活躍していた。
だが、『何か』があって進学校路線へと方針転換し、スポーツ推薦枠を徐々に減らしていったところ……平成に入る頃には、ほぼすべての部活が市内大会ですら勝てない状況になっていた。それでいて、進学校路線にも失敗していた(学内の最優秀者の進学先が広島大~関関同立くらい)。
そんな状況で、柔道部を立て直すのが俺に課せられたミッションだった。正直難しいと思われたが、チャレンジする価値はあると思っていた。
とまあ、そんな経過で柔道部顧問としてキャリアスタートを切ったものの、部内はひどい状況だった。柔道部も地区大会止まりとは聞いていたが、冗談抜きでレベルが低かった。心・技・体以前の問題である。
部員の多くが高校から柔道を始めていたし、運動センスが抜群の子はいなかった。そして、柔道の何を教えても、どれだけ丁寧に教えてもダメだった。心構えは、まあいいよ。徐々にハートを鍛えていけばいい。ただまず、基礎体力の時点で問題があった。
例として、ベンチプレスだと80kgを上げられる子が1人しかいなかった(それは乳首が大きい子で、皆からのあだ名は苗字2字分+チクビだった。当時は高二)。ほかの子は概ね40~60kgといったところか。マトモな高校選手であれば、体重70kgくらいの子でも……ベンチ100kgは難しくとも、訓練すれば半年以内に達成できる。
800m走にしてもそうだ。なんと、150秒を切れる子が1人もいなかった。ゼロである(参考までに、当時26だった俺の記録がほぼ130秒。高校の頃は118秒がベスト)。
こんな状況で、この部員達約15名(+女子マネ3人)を、最低でも中国大会まで導かねばならないという……正直、難しかった。柔道のプロとして言わせてもらうと、不可能に近い。
難しいのはそれだけじゃない。どれだけ心構えを説いても伝わらなかった。なんというか、やる気とかいうレベル以前に、人としての器量というか……そういうのが圧倒的に足りてない。
困難な物事でも、ひとまず取り組んでみるとか、目標達成のために努力を積み重ねるとか、そういう志をもって挑んだ経験がないのでは? と感じるような子ばかりだった。
柔道部の子だけじゃない。学校全体でそうだった。本校は、「中高一貫教育により、6年間を通して自ら考え、自ら動き、目標へと達するだけの力を陶冶できる人間を育てる――」と入学パンフレットで謳っていた。そんな生徒は皆無だった。惜しい子はいたのだが。
校則は厳しかった気がする。月イチの全校集会の後、生徒らが体育館前でクラス単位で並ばされて、髪型や制服など、生徒指導担当の教師陣が細かいチェックを行う。俺の出身校も、服装やマナーは厳しい方だったが、ここまでではなかった。
こちらの高等学校の偏差値は、40~45くらいだった。そこまで高い方ではないが、かくいう俺も、中学や高校のテストは平均50点未満しか取れなかった。里香なんかは14点だったこともある。国語濃緑濃緑すら怪しかった……。
柔道に青春を捧げていた。それ以外はどうでもよかった。勉強の成績は最低だったけど、高校も大学も、ほかのスポーツ特待生と一緒に先生方の温情で卒業させてもらった。
でも、確かにバカだったけどさ。当時、柔道関係の書籍は年に五冊以上は読んでたし、毎月発行の『近代柔道』だって、全ページの隅々まで目を通してた。
何が言いたいかというと、向上心である。たとえ下手くそでも、誰かに馬鹿にされようと、負けまくったとしても、そんなの関係ない。もっと上に行きたい、勝ちたいという気持ち。向上心がない若者に未来なんてあるか。
俺は油断していた。百年以上もの伝統がある高等学校だったら、多くの生徒はきっとポテンシャルがあるに違いないと高を括っていた。見通しが甘かった。
それでも一生懸命に教え続けた。暖簾に腕押しだったけど。指導を続けたのだ。怒りを我慢する場面は多くあった。指導者として悔しい思いもした。
当然、結果は出せなかった。他校との合同練習も、ローカル大会・公式大会の結果も散々だった。おおよそ、彼ら柔道部員はこんな調子だった。
・試合の度に勝敗分析シートを作るよう求めたが、半数は作らない
※ベンチプレス80kgのチクビの子。最後は設備の測定限界の160kgまでいった。
俺のストレスは有頂天だった。我慢できないところまで来ていた。
なぜ、こいつらはやる気がないのだろうか。成績がいいとか、地頭があるとか、機転が利くとか、そういう能力の話ではなくて――"生きる力"とでも言えばいいのか。そういうのがなかった。
ストレスを抱えていた折、ついにやってしまった。あれは秋頃だったか。県大会があったのだ。高三が引退した後、最初にある十一月の新人大会だった。
大会は二日間あって、初日は団体戦予選だったと記憶している。当校の成績はひどいものだった。リーグ戦があって、出場校が4校ずつに分かれて戦うのだが、普通に全敗だった。最初に戦った学校は、数年に一度は全国優勝者を出すほどのレベルだった。全員もれなく数十秒以内に瞬殺された。
チクビの子は、四十秒くらいは戦えていた。対戦相手は、彼と同じ高校二年生で、81kg級のスラッとした体形の選手だった。俺の記憶だと、ケンカ四つでガッチリと組み合った後、チクビの子がバタバタと大内刈りをしかけた。全く効いてなかった。
その直後だった、内股で吹っ飛ばされていた。相手の右脚が彼の股下に入ったのを捉えた次の瞬間、その肉体が空中二回転半して畳にめり込んだ。
ほかに戦った2校も、全国レベルに準ずるところだった。そのうち1校は、毎年安定して県内ベスト4に入る伝統校だった。もうひとつは、偏差値70の私立高校で、全国有数の進学校である。なんと、この学校は週に2回しか柔道の練習をしないらしい。それでいて、団体戦も個人戦も、毎年ほぼ県内ベスト8に入る成績だった。
この2校には、当然コテンパンにやられた!……いいところがほとんどなかった。三部トーナメント行き確定である。一日目の全試合が終わった後、怒りの気持ちを我慢しつつ部員全員に静かな檄を飛ばした。惨めな気分だった。
成果があったといえば、上のチクビの子(T君)が1回だけ勝った。体重も相手の方が重かった(T君は当時85kg、相手は100kg級)。人生で初めての指導者としての喜びだった。
彼は寝技が得意だった――厳密には、運動神経が絶望的だったので寝技しか残ってなかった。寝技には運動神経は関係ない。ほぼ努力で上手になる道ができる。相手と密着している分、計算がしやすいのだ。立ち技だと、コンマ数秒の遅れで技の威力に変化が生じる。
毎日の練習では、何度も何度も得意のパターンを繰り返した。俺が何回抑え込んでも、関節を極めても、締め技をかけても、決して諦めなかった。送り襟締めや袖車締めで落とした(※頸動脈の圧迫で意識がなくなる)回数は50回を超えている。
夏場にあった合同合宿だと、T君が他校の選手に寝技で抑え込まれている時、竹刀で背中や太腿を何十発もぶん殴ったっけ……「どうしてそこで力を抜くんやっ!?」と何度も指導した。
T君はそれに応えた。土中から這い出たばかりのカブトムシとか、成虫になろうとして藻掻いているハナムグリの芋虫みたいだった。精いっぱい、本気で動き回っていた。とにかく、妥協だけは絶対しないように教えた。
振り返ってみると、彼に柔道を教えていた期間は一年半もないんだな。たったそれだけである。ヤツは諦めなかった。妥協することはあったけど、俺の指導に最後までついてきた。
そりゃあ、T君が情けない試合をした後だと、ブン殴ったことが何度もあったよ。鈍くさいし、柔道はボテボテしてるし、平々凡々の才能だった。でも、あいつはスゴイ奴だったよ。柔道を選んでなければ、別の道でインターハイに出ていたかもしれない。
さて。県大会一日目が終わって、部員一同は広島市にある古びたホステルに宿泊することになっていた。ただ、女子マネ×3と引率教師である俺は別のホテルになった。
一応は、監督の意見だった。この3人は一年生で、最初の泊まりなので配慮が必要ということだった。最初の宿泊が、あの年季が入ったボロホステルというのは、確かに……と俺も感じた。
女子マネ3人のうち、2人は双子だった。二卵性だから顔はそこまで似てない。お医者さんのご子息と聞いていた。このうち妹の方(マネ子とする)は、相当マジメな子だった。よく気が利くし、頭の回転が早いし、学業成績は最優秀である。学内では清楚キャラで通っていた。実際、練習前には必ずお茶くみをしてくれる。
ほかの2人にしても、こんな弱小柔道部のマネージャーを半年も続けてる時点でひた向きだと思う。普通だったら辞めてるよ。半年間でほとんど勝ててないんだから。県大会の個人戦だって、誰一人として出場できなかった。
責任を感じていた。柔道部が結果を出せない原因は俺にだってある。それが申し訳なかった。それで、姉妹のうち妹の方だけ、俺の宿泊部屋に呼んで話をすることにした。
この不甲斐ない状況について話を聞いてみると、彼女も思うことがあるようだった。会話をしたのは数十分である。
マネ子は、半分涙を流していた。こんな子がマネージャーで本当によかった。
ところで、俺がいた高校の柔道部は、全国でも上から数えた方が早かった。いわゆるガチのところである。女子マネージャーなど存在しようがない。いや、男子校だから本当に存在しようがないのだが。
気が付くと、マネ子の髪を撫でていた。それから何を思ったのだろうか、そのままグイっと彼女の頭を、俺の肩のあたりまで引き寄せた。変な雰囲気になってた。マネ子は無抵抗だった。左手で胸のところまで引き寄せると、暖かい感触があった。
その子の顎を右手の指先で持ち上げるようにして、キスをした。抵抗はなかった。ベッドの上に押し倒して、後は流れだった。体のいろんなところをキスしながら触っていったけど、本当に無抵抗だった。たまに、俺の肩を猫の手でちょんと押すくらいだった。そのままずっと、ペッティングみたいなことを続けた。
このくらいの年齢の子って、あんまり柔らかくはない。女の子はやわらかい、といった世間のイメージは正しくはない。柔らかいのは大人の女性である。未成年はそこまで柔らかくはない。
などと思いながら、ちょっとずつ服を脱がしていった。その時のマネ子は、体操服のような簡素な恰好だったのを覚えている。すぐに脱げた。
胸は大きくない。でもきれいな形だと思った。お互い、完全に裸になる前に明かりを消した。それから、肢体のいろんなところに触れたり、舐めあったり、くすぐったりした。マネ子は、俺に合わせて動くこともあったし、微動だにしない時もあった。全体的に反応は微かだった。
ひどいことをしている認識はあったが、それでもセックスの相性はよかったと思う。彼女は、最初の方は緊張してたけど、少しずつほぐれてきて、会話をしても大丈夫になった。お互いに唇をすぐ近くまでもってきて、囁くように会話をした。
マネ子は気分が乗ってきたみたいで、行為の最中にいろんなことを言ったり、いろんな体位をやってくれた。最後の方はイチャイチャとしていた。会話を思い出してみる。
「持ってる。財布の中」
「なんで持ってるんですか笑 彼女さんいるんですか?」
「いないよ」
「えー、だってH慣れてるじゃん」
「慣れてないよ。下手くそだろ」
「……ほんとですか?」
「うん、本当」
「うそだー」
「本当だよ」
マネ子にまたキスをすると、態勢を変えて、ベッドの中で真上に乗っかった。
顔を近づけて、両手でマネ子の頬に軽く触れて、しばらくずっと舌を絡め続けていた。舌を抜いた時、彼女がまっすぐ延ばした舌先で唾液がうねるみたいに躍動した。それから、マネ子にまっすぐに乗っかって行為をした。俺はマネ子を知ったのだ。
行為が終わると、この子は暗闇の中で俺の眼をずっと見つめていた。俺はそのままベッドを出て、もう一度、財布のところまで歩いていった……。
次の日の朝、初めてあの子を見たのはホテルの朝食をとるスペースだった。ビジネスホテルよりは少し立派なバイキング方式だったっけ。
マネ子は、別に何でもないって顔をしてた。当時の俺は若かった。罪悪感はそこまでなかった。マネ子は本当に普通の様子で、俺や、マネ子の姉とも普通に会話をしてた。
この子たちとの朝飯を済ませてから、サッとチェックアウトをして、みんなを(広島市内の実家から借りてきた)自家用車に載せて会場に向かった記憶がある。
大会二日目は、これまでの中で最大の成果だった。リーグ戦で全敗した関係で、三部トーナメント行きになったのだが、なんと……ここで優勝してしまったのだ!! 嘘ではない、事実だ。ノーシードからきっちり4回勝って、優勝トロフィーを手にした。
T君が活躍したのもあるが、ほかの選手も本気で頑張っていた。あれだけ練習したというのに、リーグ戦での完全敗北が響いたのだろう。心に火がついたといっていい。三部トーナメントの出場校について、選手の半分ほどが白帯だったのもある。
柔道の場合、一試合の時間が野球やサッカーといった団体スポーツに比べて短い。試合に必要なスペースも100㎡以下である。このように、各校の試合回数をできるだけ多くする配慮ができるのである。
ここでいったん切る。
次です
そこで私の妻が仲良くしている一般的にママ友という保護者がいるようで、夫婦の何気ない会話にも「そういえば今日オガワさんがね」とたびたび登場する
妻からの話は「オガワさんの娘さんはほかにスイミングとピアノと英会話もしてるみたいでね」という子どもの話や、「少し前に家を建てたから、今度娘も連れて遊びに行くことになった」という、どこにでもありそうな取り留めのない話が多く、聞き流すことが多かった
つい先日、そのオガワさんが私と同い年だったと興奮気味に話す妻が「もしかしてパパと同級生じゃない?」と言い出し、私の中学の卒業アルバムを探し出してきた
しかし、やはり結婚で名字が変わっていて、下の名前も特徴が特にないありきたりなものだったらしく、顔写真からオガワさんの面影を探し続けていたものの、結局のところ卒業アルバムでは見つけることはできず、また明後日に会った時にあらためて聞いてみるということでその日は落ち着いた
そして次の習い事の日にいろいろと聞いたところ、オガワさん自身は隣市の出身とのことで同じ中学ではありえないことがわかった
しかし、オガワさんの旦那も私と同い年で、しかも生まれてこの方ずっと今の地域に住んでいるから、おそらく同級生ではないかということだった
その情報を持ち帰ってきた妻は再び卒業アルバムを取り出すとオガワさんの旦那を探し始めた
なににそこまで執着するのか、なにがそんなに気になるのかがわからないまま調べた結果、同級生に「オガワ」は3名見つかった
一人目は割と穏やかな性格だった印象の「小川くん」で、思い返せば成人式で再会して以降、今の地域で見かけた記憶がない
二人目は運動部でそこそこの成績を残した「小川くん」で、たしかスポーツ特待生で市外の寮がある高校へ行ったはずだ
そして三人目は、地元でも悪い意味で有名だった「緒川くん」で、いつも幼馴染と二人で不良のようなことをしていた子だった
ママ友のオガワさんから「うちのパパも子どものことになると甘くてー」と聞いていたことと、同じスポーツをしているという理由でおそらく二人目の小川くんが旦那だろうと妻は推理していた
オガワさんの旦那以外の残り2名の現在を私は知っていたため、すでにどのオガワか気づいていたのだ
妻が候補に挙げた小川くんは、関東の会社に勤めながら、社会人リーグのような立ち位置で現在も競技を続けている
そして、おとなしい小川くんは、実は職種が近いこともあり、数年前からSNS上で繋がっていて、今なお独身であることを確認していた
中学時代にいじめや校内暴力、万引きに自転車泥棒、あげく原付を無免許で乗り回し、高校へ進学するほどの学力もないまま、祖父母の家業を手伝うことになったと聞いていた
成人式の日には白の紋付袴で会場に現れ、ステージによじ登ろうとして係員に羽交い締めされた状態で退場したり、地域の祭りでは相変わらず不良ぶって年下を引き連れ歩いていて、「あれはいつまでたってもタワケだ」と近所の評価は相変わらずの緒川くんだ
そんな彼が結婚し子を成し、今では父親として生きていることを知った時は軽くめまいを起こした
そして、しばらくすると緒川くんの娘が習い事で孤立することが増えた
誰かが気づいてしまって話が回ったのだろう
きっといつかはこうなるだろうと思っていたから、妻から孤立している話を聞いた時に緒川くんの正体を話した
「だから距離を取れとは言わない。因果応報なのかもしれないが、奥さんと娘には関係のない話だから」と態度を変えないように伝えた
これが3ヶ月前の話
孤立し始めてすぐにママ友のオガワさんの耳にも旦那の過去の逸話が届いたようで、離婚を視野に入れて夫婦間で何度も話し合いをしたそうだ
もともと姉御肌の雰囲気をもつオガワさんは旦那の過去を恥じ、それでも過去は変えられないから、せめて今の評価なら変えられるはずだとという結論に至り、今も名字は緒川さんのままだ
緒川くんは妻と娘を失う可能性に接してようやく過去の蛮行を反省したとのことだった
もし娘が同じようにいじめられて暴力を受けたらどう思うかと叱責されて目が覚めた…というようなことを緒川さんが言っていたそうだ
結婚して子どもが産まれてようやく理性や知能、想像力を獲得できたようだった
因果は巡る
巡る先が己ならまだしも、愛するものに還ることもあるのだ
過去に人に言えないようなことをした人には、深く肝に刻みつけてほしい
の話の前に、俺の故郷の増田県の話から始めよう。俺が増田県を出て埼玉に一人暮らしを始めてもう干支が一回りした。今年も甲子園には私立増田清栄高校が出る。7年連続18回目。わかってる、あのクソ高校の野球部ときたら関西下りのガイジン部隊の巣窟で、クズ高校だった清栄の偏差値を上げるためのコマセでしかない(しかもちゃんと偏差値は上がったから見え透いたコマセも効くものである)。スポーツ特待生と一般生徒は校舎すら別、ありゃ、2つの高校に強引に看板を掛けてるだけだ。地の人間なんか3年に1度ぐらいアリバイのように3塁コーチに立つぐらい。それでもまあ、甲子園が始まれば俺も増田県で産湯を遣った人間である、なんだかんだで結果ぐらいは気になる・・・
同じような感覚が、俺の中で「ネット発」というやつにある。いや何、原作は初っ端だけ商業の網に運悪く引っかからなかったけれど、彼は創作エリートで、こんな場末でぶつぶつ言うぐらいしかできない俺とはくらべものにはならない。でも増田清栄の連中に感じる数倍ぐらいは「俺たちの」感がある。ならばその夢の晴れやかだか無惨だか知らない終わりを見に行かなければならない、という訳だ。
しかし、こういう状況だと作る側はしんどい。少なくとも原作からは言った連中からすれば、動画になったとはいえ結局その2時創作にならざるを得ず何をしても「解釈違い」と叩かれる可能性はある。その中であえて新キャラをぶっ混んで1エピソード(と言えばいいんですかね)を敢えて入れてきた勇気はその成否は別として褒めておきたい。入れてきたとしても、全体に通じる「足を引っ張る悪人はいない」という守るべき最低限の線はキチンと踏んでいる。某ネトラボはその点を激しく排撃していたが、もとからそういう「おかゆ」である。その点を看過してわざわざ「おかゆじゃん」というのは明らかにお前は黙ってろ案件ではあるまいか。こういうのでいいんだよこういうので。おまえは試写室で硬くて暗い映画でもメモ取りながら見てろ。
さらにいえば、追加エピソードは極めて現在的で、かつ意表の付き方はなかなかいい。そして作中ジーンの言を借りて”俺がこれが必要だと思ったから足したんだよお前がどう思ったとしても”と開き直る。下手な言い訳より余程好感できるというものだ。この追加によってこの映画はちゃんと、そして最大の眼目でもある「90分にする」という目的も達している。この映画もう一つの興味は、ちゃんと予定の尺を作れるかという点だ。その曲芸を破綻なくこなし通した、というのは十分に称賛に値しよう。
もう一つ、この追加でプラスになったのはミスティア描写だろう。原作(但し1巻のみ)では単なる後背の完璧超人であったが(初見の時いつ裏切るかと思っていた)、削られた部分を考えてもそれを超えてきた。
ただし、原作寄りの見方をすれば時系列の切り替えはあまりに映画的にしたいという欲が見えすぎる。原作的な同時並行でもよかったのではあるまいか。
一番気になったのは、編集シーン。あれ、全盛期にそれをメタに皮肉った「num1000って大体こんな感じ」というフラッシュ動画に見えてしょうがなかった。PC上のる編集シーンなんてどうしたって絵にはならないけどね。これを頂点に、随所に「あと一歩でありがちなダメ邦画」に陥る剣ガ峰に立っている感が目立つ。
もう一つは、アニメ的描写なのか「ココすごいシーン」というのを絵だけで何とかできず、記号的に処理した(のか、記号自体がありうるリアリティラインなのかが微妙ではあるが)のはあまり頂けない。原作はうまく黒澤したけどあれをアニメでやるわけにもいかなかった。
とはいえ、その致命的な一歩を誤って踏み出さなかったバランス感覚があって本当に良かった。綱渡り師はちゃんと彼のロープを渡り切った。ここらじゃしばしば綱渡りは失敗する。中にはハッパ決めすぎてロープからテメェが落ちたことにも気づかない莫迦までいるからな。
気楽に前向きハッピーに、ってのは悪くないし、その目的にほんのちょっと我意を混ぜ込んだにしては手際よく90分にまとまってる。エンドロールも含めて、こまめにくすぐるサービス精神も旺盛。郷土の出世頭を仰ぎ見るこちとらとしては、拍手喝采大団円だ。それでいいじゃないですか。こういうのでいいんだよこういうので。
まあ、佳作と言っていいんじゃないでしょうか。
タイトルが覚えづらいと困る
俺がもう1人いるなら観なくていいとおすすめする
よく主人公の声優の演技の仕方がどうとか叩いてるガキコメあるけどそこは全然どうでもいい
演技の1つだし主人公の個性だからそこでどうこう言うのは素人、プロはそこじゃない
要約するとつまらん
クラス評価が低いと現金代わりのポイントが支給されないってことが
何話やるのか調べる気にもならないけどこんなネタで終わらせて続き気になるのなんてリアル中学生・高校生でしょ
今のところ続きが気になる伏線もないし、本当に2話に繋げる要素ってこの1点だけ
キャラは正直言って魅力ない、主人公は無個性にすることで話が成り立つかもしれないけど
巨乳ヒロインの何でもいいから友達増やしたいってのも行動が薄っぺらすぎる
薄っぺらいというのは視聴者の想像を超える行動が1つもないってこと
9年間もぼっちを続ける、反対に同じくらい人気者を続ければ
一般的な感覚と大幅にズレてくるので視聴者の行動を超えてくるものがある
それが何一つなくて本当に中学生・高校生が思い描いた奇抜キャラノートみたいな行動しかしない
俺様キャラが早速出てきたけど絵に描いた餅みたいなキャラだった
無個性主人公もいいけど無能に近いので別にこいつでなくても話回るよなってのが強い
つまりこいつの行動は脚本有樹の行動であってキャラの自発性・リアリティじゃない
なので話が進んでも好感持てない
話を戻すが実力主義と言いつつもクラス替えなし、評価はクラス単位ってそれは全体主義だろ
Aクラスでも落ちぶれるやつが出てくるのにAのままだと実力不相応じゃないのか
現実世界は転職すれば環境はころころ変わるのに1つの環境に固執するのはなぜ?
このあたりタイトルと既に食い違ってるからここで納得できるネタがないなら心も頭も話から剥離する
どうすんのこれ
あとエリート校に入る曲がりなりにもエリートの生徒たちが10万円支給で浮かれすぎ
そんな名門に入るやつは親も金持ちだからもっと小遣いもらってんだろ
Dクラスは貧乏学生だけど勉強できるから入ったとか金持ちもいるとかの描写必要
10万円で日用品含む生活費なら浪費もできんと思うしこの辺りが違和感バリバリ
あとスポーツ特待生じゃないエリート校入ったばっかの勉強してきたやつが
10万円の誘惑くらいですぐに授業まともに受けなくなるとかねえよ
私がただ髪を乾かしているのを見かけた父親に「お前、相変わらずブスだなあw」「ブスでも一丁前に色気づいておめかしかw」と言われたので、
「ブスなのはお父さんの遺伝子のせいだよ」「お母さんのクローンに生まれたかった」と言ってしまった。父親は黙った。
ブスと言われることには慣れている。小3か小4くらいの頃からずっと言われているから。
でも色気づいているみたいに言われたのが我慢ならなかった。そういう風に見られないようにしているのに、そう言われたことが許せなかった。
おしゃれして可愛く見られようだなんて思ってない。そんな勘違いはしてない。人をできるだけ不快にさせないよう、清潔感には気を配っているだけ。
それをそういう風に受け取られたのが本当に悔しかった。ただ髪を乾かしていただけなのに。
生乾きで寝てしまうと、寝癖がついてしまって、だらしない見た目になってしまうから、しっかり乾かしていた。ただそれだけのことなのに。
父親は、私のことだけでなく、弟のこともからかったりけなしたりする。
弟は成績が悪い。でも、小学生の頃から熱心にスポーツをやっていて、スポーツ特待生で私立高校に進学した。大会でもそれなりの結果を出している。
父親は、そんな弟の長所に言及しない。その私立高校が県立高校の滑り止めとして有名なことを引き合いに出し、成績の悪さをからかうだけ。
弟が父親にからかわれている姿を見るのは、見ていてすごく悔しい。父親への怒り、憎しみでいっぱいになる。
弟は何を言われても聞き流しており、表情一つ変えない。その対応が一番賢いのかもしれない。でも私は煽り耐性が低すぎるのか、どうしても苛立ってしまう。
母親は、身内の贔屓目を抜きにしても美人だと思う。檀れいのような、個性の薄い、正統派の整った顔をしている。
弟は母親によく似ていて、男なのに吉瀬美智子に似ている。正直うらやましい。子供は異性親に似るとよく言うけど、私が母親に似たかった。
でも内面まで似たかったかと言うと、そうでもない。母親は父親の言うことに逆らわず、目の前で子供が笑いものにされていても、全く庇ってくれなかった。
父親は中小企業の経営者をやっている。おかげで子供時代から裕福な暮らしをさせてもらった。
私が比較的偏差値の高い学校に進学できたのも、教育に投資をしてもらったからだと思う。そういう点では父親に感謝している。
もしかすると、弟はできるだけ父親の世話になりたくなくてスポーツ特待の道を模索したのかもしれない。
私は弟のように筋を通すことが出来て居ない。経済的に依存しながら、あのような暴言を吐いてしまった。
「お父さんのせいでブスになった。お母さんのクローンに生まれたかった。」という気持ちは、クローン技術を知った小学生の頃から思っていたことだった。
しかしそれが父親の全否定になることもわかっており、父親にどんなにからかわれても、その言葉だけは口にしないようにと思ってきた。
でも怒りにまかせて言ってしまった。
それまでは、何も言い返さないで来た。睨むような目で見てしまったことはあるかもしれない。
意図的に睨みつけたわけではなく、感情が表情に出てしまうようなことはあったと思う。
でも言葉にしたのは初めてのことだ。
父親は何を思っているんだろう。私を追い出す気だろうか。
大学生だからバイトはできる。しかし一人暮らしをしつつ、学費も払うとなると厳しいから、奨学金のお世話になることになるんだろうか。
どちらにしろ、これからの一生を一人でどうやって生きていくか、本気で考えないとな。
家族会議したことで、薄々感づいていたことがはっきりした。