はてなキーワード: スタンスとは
十人十色、天上天下唯我独尊、誰一人として自分と同じ人間はいない。
昔から言われ続けているにも関わらず、やっぱり人間はどこか人間を属性や種類に分けたがる。それは愚かなことである一方、経験から答えを導き出してより良くしたいという意識でもあるのだろう。
オタク、という言葉も分類の一つだ。最近はサブカルチャーへの風当たりも和らいで、オタクであることに罪悪感を感じたり、オタクであることを必死に隠したり(私個人としてはさほどオープンにはしていないが)、必死になって人権の為にオタク隠しをしなくてもよい世間の雰囲気がある。そのこと自体に文句も何もない、オープンオタク・クローズオタクに関しては、不利益をこうむらない限りは私は他人にあまり興味がないのでやりたいようにやってほしい。
「短期スパンで次から次とジャンルを変えていく熱し易く冷め易い尻軽オタク」
「一度ハマれば何年たとうが動きがなかろうがしつこく居座り続ける老害オタク」 のことについてである。
別に優劣を決めようという訳じゃない。だからこそどっちもマイナス印象の言葉で綴った。それにざっくり二つに分けたが、それぞれでもそれこそ長さなどで違いがある。じゃあ中間ってなんだよと言われればそれもよく分からない。全部を分ける必要もなく、でもそれでもやっぱりスタンスの違いは確実に”ある”と思う出来事が重なったので、増田に記している。
私の友人には短期オタクが多く、一方私は長期オタクだ。長期オタクの自分から見れば短期オタクは「落ち着きがない」「尻軽」に見える一方で「多くのジャンルの雰囲気を知っている=知識が豊富になることに繋がる」「好奇心の豊かさとフットワークの軽さは多くの場面でプラスに働く」という憧れも抱く。一長一短、単純な良悪でははかれないのがスタンスというものだと思っている。だから、短期オタクであっても友人でありたいと思っている。思っているのだ。
それでもやっぱり、次から次と、これがいい面白い、あれを見ろ、といわゆる「布教」をされるのは、勘弁して欲しいのだ。長期オタク気質をもつ私にとっては、ジャンルにはまるということは、一生追いかけるものになることで、なんならサービス終了したソシャゲについても、あの世界観とキャラクターを愛してしまったが故に、終わった世界であってすらも追って(思い出して)いる。当然私もその時々で熱が高いジャンル、落ち着いているジャンルはある。だが、一度愛したら最後、ふとした瞬間に好きだという気持ちが止まらなくなるのだ。好きになれば手元におきたいものも増え金もかかるし、脳は一つしかない、自分が同時に考えられることなぞ少ないのだ、ジャンルが増えすぎると、困ってしまうのだ。
短期オタクの友人は善意で進めてくる、同じジャンルにいると確かに話題を共有して楽しく話ができる相手だ。なにより友人の発想は面白く、友人でいたいと思っている。そもそも布教と言っても、不特定多数に向けて面白いよ~と主張するなら受け入れられる。でも友人である以上食事を共にしたりする、そのタイミングで直接進められてしまうのだ。時には布教をするために話しかけられたりする。一人だったら諦めもつく、複数人いるのだそういうタイプの友人が。
進められている内容は聞くし、なにより自分の好きな内容について語る人間は得てして輝いており発言が面白い。友人もこんな自分の友人をやってくれているのだ、進めようがやらないときはやらないし、見ないときは見ないと分かってくれてはいる。その時点で恵まれているとも思えるが、それでもやっぱり負担であるのだ。
知り合いの短期オタクの中には、布教の際にかなり強い言葉を使う人間もいれば、前ジャンルに砂をかけるタイプの人間もいる、その行為はどうかとは内心思っているが、まぁ目をつぶろう。長所・短所はものは言いようだし、しょうがない。
もっと煮詰まった長期オタクの人間からすれば、私であっても複数のジャンルを抱えている尻軽オタクだろう。そういう意識もある。
でもたまに、勘弁してくれよ、と友人関係を放り投げたくなる気分になるのだ。結局投げないのだが。
もっと上手に短期オタクと長期オタクとしてのスタンスを乗りこなしたいなぁと思う。
はぁー、なんかいい案ない?
家庭用ゲームではなくオンラインゲームが先にあってそれを輸入したのが各プラットフォームのソレじゃないのか?
だから基本的には「アチーブメント」って言われたら「なんか達成するとなんかもらえる奴。XBOXは特記されなければ関係ない」っていうスタンスでいいはずなんだが…
流石に全員だとは思いたくねーな。観測範囲が悪いだけでまともな人もいると信じたい。
で、
「頭の悪いお前ら蛮族に、進んでるわれらがフェミ、ポリコレというものを教え込んでやろう。感謝するがよい」というスタンスだからしょうがないべ
フェミでないものは人間じゃないかあるいは野蛮人だと思ってるからあいつらは。
結構本気で俺にもそういう考え方であるようにしか見えてないんだが、こういう次元のヘイトを招いてる時点でロビー活動としては失敗なんだよな…。
陣営抗争にしか興味がないバカにはテキの抵抗にしか見えてないんだろうけど、そもそも「大概の人は正しい形に直すことで利益が減少したり不利益が発生するのなら、正しくなくとも現状維持を選ぶ」もんだっていう、歴史的にも何回も証明されまくってる現実を理解できていなさすぎる。そこで高潔さだのを振りかざしたり罵倒の言葉だのを繰り返したって余計に白眼視されるだけであって。
そんなもんで人が動くんなら共産主義だって失敗しなかった。日本だって過去何度も大粛清法が発令された時期があって、それがコケた理由の一つには大概「民間の権限を制限しすぎて反発された」ってのがある。
性的云々は置いといて「TPOにそぐわない」という意見にずっともやもやしてたんだけど、NHK(その他メディア)におけるキズナアイの立ち位置ってデーモン閣下だと考えれば結構しっくりくる人が多いんじゃないかな。
キズナアイ:インテリジェントなスーパーAI(人間ではない)(さほどインテリジェントではない)
閣下:人間界においてフォーマルとは見做されない衣装を纏っている
キズナアイ:人間界においてフォーマルとは見做されない衣装を纏っている
キズナアイ:その衣装を纏った上でNHKのコンテンツに出演している
キズナアイ:2歳
でも閣下にTPOが…と言う人は殆どいない。それはもちろん偉大なる閣下の人徳のなせるところでもあるが、要は人々が「世を忍ぶ仮の姿」という文脈を受け入れているからなんだろう。
いつになるかは分からないけど、キズナアイも同様の文脈が受け入れられた時に「そういうタレント」として認められるんであって、今はその過程なんだろうなと思う。
だからその文脈を持たない人が予備知識なしに見てびっくりするのは理解できる。ただそこで一気に論理飛躍してしまったから炎上してしまったんだと解釈している。
本来であれば文脈の保持者・非保持者の間を仲立ちする言説が必要だったのかもしれないが、今のインターネットは断絶が深まりすぎてそれも難しいんだろうなと半ば諦めている。
で、それはそれとして、衣装の意匠そのものがTPOにそぐわないのだ、という意見もあるだろう。
ノースリーブにホットパンツという組み合わせ自体は確かに軽装だが、件のコンテンツはあくまでノーベル賞のゆるい解説がコンセプトであって、授賞式に出るわけでもないし個人的には許容範囲かなと思う。女性タレントの衣装としてもよくある組み合わせではないだろうか。それらもひっくるめて問題視するのであれば理解できる。
ただ、二次元だから、3Dモデルだから駄目だというのであれば、未知のものに対する感情が許容度を狭めている可能性も考慮してほしいなと思う。
あ、「閣下は好角家としての知見が評価されて起用されている」的なのは勘弁な。
専門知識の有無はタレントに求められる資格ではないと思うし、何より閣下ご自身が事あるごとに角界へのコメントを求められることをあまり快く思っておられないようなので…。
『閣下は相撲専門家として実力と実績=大義があるので。身もふたもないが大義の有無は割と大事だと思うなぁ。あと別のブコメにも記したが、あの格好リアルならかなり露出度高い方だよ…麻痺してるんじゃね? 』
→大義というと大袈裟だと思うが、起用に見合った価値を提供するのがタレントの仕事なので前半部分は同意。
ただ、キズナアイは地上波露出が始まったばかりの新人タレントだと私は解釈しているので、閣下が長年積み上げてこられた光輝燦然たる実績と比較してキズナアイ起用の是非を語るのは公平ではないと思う。
キズナアイのキャリアはまだまだこれから。今後視聴者へ独自の価値を提供できるようになるといいね。
後半部分、個々人の主観によるとしか言いようがない。アニメ的表現に親和性があるかどうかでも見解が変わり得るだろう。
ただ一点、「麻痺」という表現はいただけない。あなた個人の意見を以て、他者の認知能力に問題があるかのような表現を使うことを私は許容しない。
もちろん、キズナアイ批判に対する下品なまぜっかえしも私は許容しない。
あなたはあなた個人として堂々と「露出度が高く、不適切である」と主張すればよい。(これは私の解釈なのであなたの主張とずれがあったらすまない)
私個人としては「露出度は高いが、他タレントと比すると突出して高いとまでは言えず、メディア出演を制限されるほどのものではない」と考えている。
_
『>「閣下は好角家としての知見が評価されて起用されている」的なのは勘弁な。←これずるくない?閣下が評価されNHKに出演できてる部分ってまさにここじゃん。ただのイロモノタレント枠で語るのは片手落ちだよ。 』
→確かにこのスタンスでデーモン閣下について語るのは片手落ちだが、私は今「新人タレントキズナアイ」の話をしている。
これの意図は「専門的知識の有無はタレントの評価に必須ではないということ」を強調するためにあった。
なぜなら、「キズナアイを解説役で起用すればよかった」という意見が散見された際、キズナアイのようなタレントがメディア出演において何らかの専門的知識というハードルを課されるべきではないと考えたからだ。
先程も述べた通り、起用に見合った価値を提供できればそれは知識でもルックスでもトークでもいいわけだ。
それはキズナアイ自身がこれからブラッシュアップして提供していくものであって、
ミュージシャンでありながらベテランタレントでもあらせられる閣下の偉大な実績を持ち出して新人の間口を狭めないでくれというだけの話でさほど深い意味はない。
_
酒は抜けてないけど、返信だけ。
だらだら書いて、自分でもひどいなーと思ったので、ウザいと思ったら、日本のゲームにあこがれてやってきた金髪ツインテールの女子が上気させながら書いてると思っててください。ルーツさんメソッド。
ゲンロン側のお気持ちを想像して書かれても、こちらとしては特にそうですか、としか言えないので、その辺は割愛で。
もともと「この記事には事実誤認がある!」ってゲーマー側が大盛り上がりして、その流れで投げられた電ファミの質問状が
そもそも知りようがない内部情報を元にした指摘と編集方針へのツッコミが大多数のクソの山だったので、
そりゃないだろうというのが元記事の主張であって。ゲンロンの語りが正しいとかそういうことは1ミリも言ってないつもりですよ。
ひらがなの人褒めたけど、あの人にも突っ込みどころがないわけじゃないし。
返信だけと思ったけど、思いついたので、ついでにぶら下げときます。
Twitterではゲンロンを許すなとか未だに言ってる人いて、なんでだろうなあ、あのリスト読んだんやろー?と思ったんだけど、
やっぱヲタクちゃんは自分達が一番ゲームについて知ってるって思ってて、ゲーヲタカースト外から突っ込まれると、すげー嫌なんだろうなという想像はしました。
あと「ゲームの歴史」という正しい一つ史観だけがあって、ゲーヲタカースト上位の長老達がそれを知っている、今回の騒動で、長老達が重い口を開いて語った歴史が正しい。と思っているのではーと。
これも想像。「正しい『ゲーム史』」という言葉はTwitterで見たけど。
それも正しくはあるんだけど、人だし、忘れるし、会社員だし、言えないこととか、ポジショントークとかするじゃないですか。そういうの現実世界でもいっぱい見てきてるじゃないですか。
近年Wizファンのあの人が頑張ったように、歴史なんて調べなおせば変わることもあるもんなので、アマチュアの頑張りも大事だから、
そういう語りとか、語りの際しての細かい省略や間違いを認めないスタンスはあかんでしょうって思うのよね。
なんとか警察ってすこしネガティブな意味合いでみんな言うじゃないですか。
あと業界人も自分のいないメーカーについては結構アレなこと書いとるぞ。
Wikipediaは間違っとる!って書いてた某氏の同人誌にんん?って思うような音ゲーへの記述があったり。
大事なのはみんなで自分の知ってることを気軽に話したり、評論したりできる場だと思うんですよね。
介護施設務めの友達が、めんどくせぇ爺さんの話や、あちこちで出入り禁止になって自分ところにながれついてきた婆さんの話を、ちょいちょいしてるよ。
彼女の施設は、どうも痴呆が進み気味で他のとこがムリな客を引き受けるスタンスらしく、まあつまりそういう人が来る。
誰が相手をしてるって、彼女みたいな人が相手をしているのだろう。
めんどいな~~とか影で常に思われてると知ったら、きっと爺さん婆さんショックだろうが、幸いそれをわざわざバラすことはないようだ。少なくとも、年金の一部を施設に入れている間は。
「この問題を解くには未知数が多すぎるんだ」と思い、判断材料を集める意味あいで夏の終わりからだめもとで就職活動してみたら最終面接まで進んじゃって、どうしよ~となっている
履歴書とか書いたりSPIとかやったり時事問題調べたり専門試験の勉強したりして、あああーーめんどくせーこの時間を研究に使いたい と思って、
(特に、時事問題アプリやってて、プロ野球どこ勝ったとかクソどうでもよくね!?そんなの出すの?と思って一気に嫌になった)
自己PRを書いたり志望動機(もちろんどこでもいいや!と選んだのではなく、いいなぁと思ったところを選んだ。自分の専攻を生かせるところだったので書きやすかった)を書いたりして、自分を見つめなおすよい機会だったと思う。
ぼくの指導教員はそういうんじゃなかったけど、大学教員の中には進学就職カンケーなくとにかく一回シュウカツしてみなさい!というスタンスの人間もいるらしいけどちょっと理由がわかる気がした。
ぼくの実家は超絶貧乏なので、奨学金と家庭教師バイトで暮らしてるんだけど(授業料は全額免除)、学振がとれなかったらマジで死ぬかもしれない。
ぼくは金持ちになりたいと思ったことはないが、のたれ死ぬのは嫌だなぁと思う。
でも研究は続けたい。でも現実問題としてお金がない。(そして業績にも乏しい)
内定前からこんなこと考えてもただの杞憂に終わる可能性もあるが、
このまま博士課程に進んで、社会人になるというのは可能なのだろうか?
世の中の社会人ドクターを見てても、カイシャが薦めてくれたとか、そうじゃなくても入社してしばらくたってからというのが多い。
研究はシミュレーションがベースなので、パソコンがあればできるやつ(実験とかはない)。
まあぼくの指導教員がダメって言ったらダメなんだけど(まだ言ってない。ドクターに進みたいと言って許可はもらった。シュウカツのことは言ってない)。
「世間を騙す」必要云々はそうなのかも知れないが、そもそも世間を騙さねばならない状態自体が弾圧を受けてるといえる。
?
誰も盾になんかしてないが。
単にセンサーとして敏感であると言っただけで、意図もない相手を攻撃する事を正当化はしない。
意味不明。
新潮の件でのスタンスからも明らかなように、私はオタク表現に限って物を言ってない。
それがたかがSNSの味方対敵の場から出て、不特定多数相手の法的処置の世界に移ったときに「反論し続けてきた」事実は大きいんです。
言ってることは綺麗だが、それは表現規制を迫る暴徒に対しての対策にはなってない。明らかに不十分。効果が見られていない。
よくあることなのかも知れないが、かかった分はお支払いしますので!と言われてシステム開発の設計工程を進めてたら、2ヶ月ほどして予算がどうのこうの言い出して、客の予算会議に招待された。
会議ではこちらが事前に提出していた工数見積を説明したが、自称システム開発の専門家という方から、こんなかかんないんじゃない?開発の経験どれくらいあるの?契約書交わして無いのに何勝手に作業してるの?と叩かれ、予算は決まってるので、という感じで200万値切られた。
もうね、理屈じゃ無くて予算なのよ、この項目こんなかかんないんじゃない?と言われて理由を述べてもふーんって感じで、でも予算がねって感じ。
作業着手前に工数見積は提出していて、かかった分はお支払いしますので!と言っていた人にはOKもらっていたし、途中で開発要件が増えた時にはSlackで、かかった分はお支払いしますので!と言っていた人から予算に幅持たせてるので工数増えても大丈夫です!と言われていたのだが、会議では、そんなのは知らん、金が無いからしょうがないじゃん。というスタンス。見事なな手の平返し。
200万は値切られたが残りの400万は払ってくれるようだった。口約束で作業着手したのは反省点だし、こっちだって契約してから着手したかったけど、金策にまだ時間かかるからとか、下期の予算になるからとか、かかった分はお支払いしますので!悪いようにはしないので!とか言って契約しないまま作業させといて謎の予算会議招集、見積にいちゃもんつけた挙げ句、実は予算が無い、と減額を強要。
では、この話は無かったことで!とか言えればカッコいいのだろうけど、もう2ヶ月分作業しちゃってるんだよ。400万でいいから欲しいよって思っちゃう情けなさ。
メールやSlackで証拠は残っているし理不尽なので訴訟も少し考えたけど、自分の大切な人生の時間をそんなことに使うのはもったいないって考えちゃうんだよな。精神的にもキツそうだし。
これはある種の確信を持って書いている。
いろいろ書く前に、私のプロフィールを書いておこう。26才、プログラマーで大学は情報系の学部卒。沖縄で生まれ高校まで過ごし、東京で働いた。
さて、今回の選挙では、必ず佐喜真氏が勝つことに“なっている”。
まず、若い世代は”功利主義”の考えが根強い。とても簡単に言えば、結果さえよければ、途中の過程にはある程度目をつぶるというものだ。あるいは、1人の犠牲と10人の犠牲でどちらかを選ばなければならないなら、1人の犠牲を選ぶというものだ。これをトロッコ問題という。
きつい言い方をすれば、普天間基地がなくなるのであれば、辺野古の海や住民の生活が多少脅かされようとも問題はない、ということだ。
またそもそも、「辺野古はもう埋め立てられているのだし、中止になろうが埋め立てられようが、誰も幸せにならない。だから、すぐに普天間を移すことができる場所を作るのがいいのだろう」という考えも多いだろう。ある種この考えは正当性を持っているかのように見えるが、実際は自民党や基地推進派による「刷り込み」あるいは「意見の誘導」にすぎない。本来であれば、他の都道府県に移すという考えは実現可能だ。しかし、もうそれが不可能かのような雰囲気が漂っているのだ。
基地はない方がいい。これは多くの(基地利権がない)県民にとっては共通の意見だ。しかし、それは基地が70年以上ある中で理想となっている。すでに、生まれた時には空にはF-15EやF-22やKC-135やC-130やCH53やMV-22が飛んでいて、基地はヅャスコやサ●エー(沖縄のスーパー)やメイ●マン並にありふれた施設となっている。このような中で基地を無くそうという意見は、もう理想の域になってしまっているのだ。そのような中、辺野古は埋め立てられ、県内移設の準備は整いつつある。それならば、もう辺野古にしてしまえとある種の妥協に正当性を見いだすのだ。繰り返すが、極右のように「基地をポンポン作れ」というような意見から出てきた意見ではなく、妥協によるソフトなランディング地点に辺野古への移設を見出しているのだ。
ゆえに、若者にとってすでに、辺野古は争点になっていない。その他の経済や子育て、教育に争点を見いだす。この時点で、辺野古を争点にしない分、その他にフォーカスをあてることができる佐喜真氏の意見は魅力的となる。余談が過ぎたが、以上が、若者から見て佐喜真氏が支持される理由の一つだ。それに沖縄は若年層も多い。
二つ目の理由として、デマの問題もないわけではない。特に若い世代はテレビやラジオ、新聞よりTwitterやインスタに接する時間が圧倒的に長い。この点は悪いわけではない。問題は、そのような情報に触れ合っているだけで、(ボットの投稿であっても、)多くの同じような意見が流れればそれを正しいと思ってしまうというリテラシーにある。これを別に佐喜真氏の陣営がやっていると言っているわけではない。佐喜真氏のスタンスからすると、彼に利をするようなツイートなどが多いと感じただけだ。
この点はきちんと、どちらの陣営からも検証するべきだし、今後も注意しなければならない点だ。佐喜真氏の支持者も、デニーの支持者も、相手側の視点に立ったらどうしたほうがいいかを考えなければならない。そうやって双方の立場を尊重することで、民主主義は良い方向に醸成される。
三つ目は、自民の選挙の「うまさ」だ。これは、デニー陣営が「弱い」からではない。自民が「うますぎる」のである。まず辺野古を争点にしなかったこと。ただし、普天間は除去するという。県民に「私たちは辺野古に基地を新設させた」、あるいは「私たちはデニーに投票したことで国からの財源が減らされてしまい、沖縄にとって悪影響をもたらした」といったある種の罪悪感を持たせることもない。
他にも公明党が支持にまわったのも大きいし、基地は利権が絡むため、これらのカネが回ることによって組織票の点で大きな集票効果がある。自民は戦後長きにわたる安定的な政権を樹立してきたことで、経済界に大きなコネがあるのは当然のことであり、なんの問題もなくある程度の票を集めることが可能だ。この点、オール沖縄陣営はある種の「ハンデ」を背負っていることは事実だ。それなのに勝った翁長はすごかった。
対してデニー陣営はオール沖縄の影響力低下にともなって、戦力を損ないつつあった。なんだかんだで、世の中カネなのだ。と言うわけで、最後の理由は、陣営の強さにあった。
最後に、民主主義についてもう一度考えてみたい。勘違いする人は多いが、民主主義は単なる多数派の意見を是、少数派を正しくないとするようなお祭りではない。もし少数派の意見が完全に無視され多数派の意見だけが通るなら、それは「多数派のお祭り」に過ぎない。多数派の意見に対して少数派の意見が顧みられることがなければ、選挙なんて「いくらやっても無駄」というわけである。
アウフヘーベン、止揚という都知事も大好きな言葉があるが、これは弁証法の言葉で、簡単に言うと意見と意見を交換することで、より高次な意見を見いだすということだ。すなわち、タケノコ派とキノコ派が争い、タケノコ派が勝ったとしても、キノコ派の意見も取り入れる(タケノコの下に柄をつけるのかもしれない)ということだ。誤解を恐れずに言うと、多数派もある程度妥協して少数派の意見を取り入れるという考えだ。(うまく説明できずにニュアンスが違うので、詳しくは調べてほしい)
民主主義を履き違え、多数派なので間違いはない、少数派なので間違っている、というような理屈で政策を進めてしまうと、必ず軋轢が生まれて分断となる。この点は間違えてはいけないし、「功利主義」が根強く語られる世の中では、より注意したい点だ。自分がもし少数派であるならどうするかという視点に立つことが重要なのだと思う。
ちなみに、私の祖母に誰に投票したか聞いたところ、佐喜真氏へ入れたという。理由は、「誰に入れたらいいかわからなかったが、書きやすかった」からだそうである。
アイドルマスターシンデレラガールズ(以下デレマス)のアニメ(以下デレアニ)についての基本的な私のスタンスは
卯月を好きにしてくれたアニメだけどトータルとしては合わなかったなあってものなのね。
ただ、あのアニメが好きな人もいるわけだし積極的に貶していこうとか批判してやろうとかは思ってない。
私に合わなかっただけだから。(前提)
で、この前の一挙放送があったので、また人からデレアニを勧められたのね。で、勧められちゃうとある程度意見を求め
られて、私には合わなかったんだよねえとかって話になるでしょ?そうすると、どこがとか聞かれちゃって、
2期の展開が私には合わなかったとか、20話以降の未央についてちょっとついていけないとか積極的に貶したいわけじゃ
ないけどなっていくとさ。本田未央の良さを理解できていないあなたに私が教えて進ぜようとか、デレアニの展開がいかに
計算された上で成り立っているかとかの講釈が始まるの。あれがひじょーーーーーにうざい。
いやいや、だからあれが好きな人は否定しないよ。ただ私には合わなかったんだって。肌に合った人たちで盛り上がっていれば
いいじゃん。無理に合わなかった人に上から教えてくださらなくても結構ですから。
で、そんな感じのことをもう少し柔らかく伝えると、こいつもあの良さが分からん奴だったかみたいに軽く見下した感だしてくるのね。
君はデレアニのアンチを増やしたいのかって思うのさ。何がしたいのかと。
それでもその考察に説得力があるとか、気づかなかったことを教えてくれる斬新な視点だったりするならまだありがたく思えるんだけど、
本田未央のソロ活動宣言がいかに渋谷凛のためを思ってのことかとか、きちんとプロデューサーとも話し合ってるとか、成長してるとか
、この演出はこういう意図がとかわかってるから。分かったうえで演出を優先して進行が犠牲になってるとかが合わないんだって。
私はこの判断に心から落胆し、新潮社という出版社そのものに心から失望した。
まず断っておくが、私は杉田水脈氏の記事(論文とは決して呼ばない)を一切支持しない。
一切、完全に、ただの一行たりともだ。
続く号で発表された杉田氏の擁護記事も、仮に部分的に事実があるとしても一切の論旨に賛同しない。
だが、私は『新潮45』が休刊したことについても深い憤りを覚えている。
杉田氏の記事ならびに擁護記事に批判が集まったあと、新潮社代表取締役の佐藤隆信氏は以下のようなリリースを発表した。
https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180921.html
弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。……
このリリースで佐藤氏は、『新潮45』が差別的な記事を掲載したとは一切認めていない。
まずはじめに言論の自由をうたい、《今後とも》差別には配慮する=今までも差別には配慮していた、としている。
『新潮45』の問題はあくまで「常識を逸脱した偏見」と「認識不足に満ちた表現」(不足に満ちた?)だ、ということだ。
https://www.shinchosha.co.jp/sp/news/20180925.html
会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました。
これらのリリースから、新潮社が何を問題視して休刊に至ったのか、私にはよく読み取ることができない。
「言論の自由」を重要視するならば、「常識を逸脱した偏見」という言葉は矛盾している。
なぜなら、偏見は時に常識の顔をして生活に根付いているからだ。それに対抗しうるのは言論しかない。
「言論の自由」をうたうなら、常識から逸脱したことを謝罪するのは自殺行為だ。
「認識不足に満ちた表現」というのもよくわからない。誰の、何に対しての認識が不足していたのか不明瞭である。
(筆者の、LGBTに対する)認識が不足していたというならば、それは表現ではなく論旨そのものに直結する問題だ。
二度目のリリースの「編集体制が十分でなかった」ことから無理矢理意訳するなら、言論としての質が低かったことがもっとも重大な問題、と理解すればいいだろうか。
佐藤氏はこの問題に関して、何よりもまずはじめに言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立に言及した。
『新潮45』は、私の目には差別的・侮辱的で唾棄すべき蒙昧な文字列だったが、
佐藤氏は質が低いことは認めても、差別的であるとは最後まで言わなかった。
杉田氏の記事およびその擁護意見を、新潮社として「自由と多様性」の一部として認めるならそれでもよい、と私は思う。
だが、それが社としての意見だというならば、そして問題は「質の低さ」だというならば、少なくとも新潮社にはこの問題について「質の高い」意見を示す社会的な責任があったのではないか。
そして、「多様性」を庇護したいのならば、杉田氏および擁護意見への反論も意見として熟議し、「多様性のある」議論を展開するべきではなかったのか。
それこそが「言論の自由」を保証した、出版社としてあるべき姿だと思う。
その範を示すことが、長い歴史と信頼のある大手出版社の役割であり、代表取締役が「言論の自由」に言及した意味ではないのだろうか。
質の高い多様な意見を募るには歴史と信頼と知性の集積が必要だ。そんな出版社はそう多くはない。
けれど、新潮社ならできたんじゃないのか。
今回、新潮社は『新潮45』の廃刊という形での幕引きを図った。
批判に応答もせずに。
言論の自由をいちばんはじめにうたったはずなのに、世間の声に反応して言論の場そのものを潰すという、もっともするべきではないことをした。
しかし、新潮社は本当に、この幕引き以外選択肢はなかったのか。
新潮社でさえこんな風に逃げ出すしかないのなら、我々はいよいよ、批判を躊躇わなければならなくなる。
意見を示す出版社側は、「常識から逸脱した」意見を出すときは『新潮45』のように潰されることに怯えなければならず、
批判する消費者側は、自分自身の批判が言論の場を潰し、言論封殺の謗りを受けることに怯えなければならない。
新潮社は「質の高い」反論をすることも批判を受け止めることも投げ出して、結局真っ先に言及した「言論の自由」を蔑ろに踏みにじった。
私にはそう思える。
そして、そんな愚かな選択を、あの新潮社がしたことに心から失望している。
はじめて買った文芸誌はyomyomだった。
100%orangeのかわいい表紙に、めくると広がるとりどりの物語に心をときめかせて創刊から買い続けた。
新潮文庫の背表紙が好きだった。明朝体の文字だけのそっけなさ。
書店に行くたびあの背表紙群を眺めて、次は何を買おうと迷うのが楽しかった。読んでも読んでも読みたい本が尽きない。頼もしかった。
新書の玉石混淆さにはもう十年以上もうんざりしているけれど、それでも新潮新書には基本的に安心感を感じていたし、学生時代の論文でも、参考文献に新潮社の本を何冊も並べた。
今はただ悲しい。
見かけるのは、そこまで人気のない(偏差値は高くない)と思われる大学だ。
1.行きたいと思う?
そう思わせたいのであれば、かなりターゲットが狭い。
その狭いターゲットが見たところで、
マンション広告に似た、雰囲気重視のあれらの広告に心傾けるだろうか。
2.行かせたいと思う?
私自身2児の子ども持ちで、上は中学生だが、あの広告を参考に行かせたいと思ったことがない。
というより、私は子どもに進路選択を任せるつもりだし、その層の方が多いように思う。
当然、無謀な進路を選ぶのであればちゃんと確認はするけど、最終的には任せるつもり。
なので、子どもの進路を選ぶスタンスの親があれを見て、行かせたいと思うのか、というところ。
だが、子どもの進路を選ぶ親があの手の広告にある大学を目指させるとは到底思わない。
それとも、電車の広告価値が下がってきたから、余り効果のないであろう大学でも宣伝できる価格になってきたのだろうか。
一点効果があるとすれば、認知はさせることができるというのはある。
それを見て、志望校に結び付けるという即時的な効果は無くとも、認知度を上げることで徐々に大学の志望者を増やすといった感じか。
その程度の効果でも良いと思えるほどに電車広告の価値は下がっているということなのかな。
確かにスマホの普及で社内で広告をじっくり見る人も減って、価値は下がったんだろう。
例えば、タバコの規制を強化すればタバコを吸う人の権利は損なわれる。これは事実。
この事実を無視してタバコ規制の強化に賛成するなら、それは事実のみをベースにした判断とは言えない。
事実のみをベースにして判断を下すのであれば、医療費負担の低減という正の作用だけではなく、規制強化による負の作用についても定量的な評価を導き出して、両者を比較検討しなければいけない。
でも、医療費の増大はともかく、規制強化による権利侵害の負の効果なんて、果たして定量的に評価が可能なのか?
結局、政治スタンスが主観に左右されてしまうのは、この定量化のプロセスがあまりにも複雑で、万人が納得し得る結果を得ることが困難なためだと思う。
だからといって、定量的に判断しやすい指標だけを事実と考え、定性的にしか判断しづらい効果については「事実ではなく正しさを主張しているだけ」だと切って捨てるのは、真の意味で事実ベースの判断を下しているとは言い難いと私は思うけれどね……。