はてなキーワード: うごとは
こういうふうに言われることがめちゃくちゃ多くてだんだん反・反・反ワクチンくらいの立ち位置になってきましたね(基本的なワクチンは打ってるはずだし、仮に子供ができたらワクチンを打ってもらうけど、今の過剰な反ワクチン叩きはおかしいという立場)。
そもそも自分の身体に何を入れるか決める権利があるのは自分だけなのに何でワクチンは強制してもいいと思えるんですか? いや、効果の有無とかそういう話は聞き飽きました。なんびとも身体に針を刺して不愉快な物質を注入されなければならない義務はないし、むしろそれから逃れる権利を有する、っていうごくごく当たり前の自由と人権の話をしましょう。
公衆衛生と公共サービスを共有してるんだから、「社会的な秩序」が嫌なら山奥に行って生きればいいと思うわ。
後段、問題はそこなんですよね……義務教育の時代から「みんなで一丸になって頑張ろう!」みたいなのが嫌いで体育祭とかではなるべく手を抜いてた人間なので、おんなじ圧力かけられたらおんなじ反応しちゃいますわ……なるべく手を抜くしむしろ抜け道をどんどん探してやるぜ的な……
本気でやってひどい結果だと恥ずかしいもんな、気持ちはわかるぞ
個人営業のお店とかはね……仕方ないというか、元々「客を理不尽に選別する自由」を持ってる人たちっすよね。極端な話、阪神ファンの店主が巨人ファンの入店お断りってやるのも自由でしょ。だからマスク強要が理不尽だなと思ってもそこは尊重すべき点かなと思います。お店の自由なので。
でも、そういう理不尽な選別が許されない公共交通機関とかでの理不尽な強要にはNOと言っていきたいっすね。
まあ都心部でマスク無しで地下鉄乗りまくってるけど咎められたことなんて一度もないですけどね。地下鉄以外でも知らん人から物言いつけられたことはない。映画館でマスク外して知人と会話したときも別になんも起きなかったっすよ。仮にそういうのに遭遇したら都知事選では平塚に入れてやろうと思ってたけど特に何もなかったんで宇都宮に入れました、はい。
映画館でマスク外して会話とか、ガイジすぎて関わりたくないだけだろ
そもそも論として私は去年までと同じ暮らしを送ってるだけですが。
去年まではなにも後ろ指を指されることのなかった当たり前の社会生活をしてるだけで社会不適合者扱いされる風潮、端的に言って狂ってるので積極的に抗っていきたいっすね。
去年までと状況が明らかに違うのに、それに合わせられないってのは社会不適合者だろw
状況や環境を無視して「前までは大丈夫だったのにおかしい!」って言うのってパワハラセクハラを正当化させる年寄と変わらんよな。
自分は鬼滅の刃アンチでもファンでもないものである。が、鬼滅にクソデカ感情ポエムをしたためる者である。
にわかファンでいられなくなった者として、アンチにだけはなりたくないものとしてポエムを書いて去ろうと思う。
黙って去れよと自分でも思うが、なんか大げさなテンションでお別れを世界に発信しないとずるずるひきずってタチの悪いアンチになりそうなのでクソデカ感情の供養として誰かがみてくれるんじゃないかという期待と誰も見ないから大丈夫という慢心のバランスが最高なはてなに投稿させてもらう。
まず初めに、作品及び制作陣、宣伝も含め関わる全ての人におめでとうございますを述べる。正直ここまでのコンテンツになるとは思っていなかったので、凄いとしかいいようがない。おめでとうございます。
次に、鬼滅の刃に初めて触れたのは去年くらいで、その後もファンだったかといわれると怪しいし、ファンが闇堕ちしてアンチになろうとしているというある種同情できる立場でもない、本当になんだお前という立ち位置の者でしかない。我ながら苦しんでいること自体が意味不明だ・
私にとって、鬼滅の刃は動物園で大事にされているうつくしく高級なうさぎのような作品でした。一見同じようなうさぎはいるけれど、一線を画す上等な毛並みで手入れも一級品。柄も独特で動きもダイナミック。動物園まで見に来るにふさわしい素敵なうさぎでした。新聞の一面を飾ってもおかしくない、どこに出しても恥ずかしくない立派なアニマルだったのだ。私は特別うさぎが好きではなく、詳しくもなかったけれど素人目にもその評価はゆるぎなかった。でも、世界で数頭しかいない絶滅危惧種とかではなかった・。
アニメも一挙で見て漫画も借りて読んだけど満足感と共にブラウザを閉じて、Twitterを空けてキーワードを打ち込んだり連続ツイートをしたりすることはなかった。
いい作品だと思う。でもどうしても、ワンピースやBLEACHやジョジョと同じカテゴリには入れられない。
それらの作品の持つ、本当に世界がもう一つあるような、悪魔の実やスタンドや斬魄刀といった架空物が実在の遠い国の首相の名前と同じように一般名詞として存在感のあるものと感じられる気分にはなれなかった。面白いとか面白くないとかそういう問題じゃなくて、コンテンツとしての質量の大きさが違うのだ。現実の世界観を侵食してしまうような、作中世界の物理法則や法律や人種差別問題が好き嫌い以前に自然に頭に入ってしまうような、そんな性質の作品だと思えないのだ。もっと素朴で、たまに頷くような、そんな作品だった・
全く関係ない作品だけど、ちょっと前に終わったサンデーのムシブギョーとかと同じ立ち位置だった。大きなヒットはしなかったけど、メジャー少年誌に載るにふさわしい面白さで、派手じゃないけどグッとくるシーンがあって、キャラのことを穏やかに愛していられた。
でも、今の鬼滅の現状を見ると視界がぐるぐるしてとてもとてもいたたまれない気分になる。
高級ですばらしい兎を、そろそろ種の存続が怪しいホワイトタイガーとして売り出しているような違和感。
そんなに無理をしなくても立派な価値があるのに、これこそ当世イチのスーパーアニマルでござい、と売り出しているようなちぐはぐさ。
そういう売り出し方やマスコミを批判するつもりにもとてもなれない。不景気きわまる昨今、ここで売らなきゃどうするのかとすら思う。迷惑だとかしつこいとかいう記事を見るたびに、難民船のSOSに文句をいう様なものではないかみたいな感想が出る。理性がたしかにそう叫んでいるのだ。
でも、それでもジブリを越えるかもといわれると宇宙を背景にした猫のような顔になってしまう。
そんなことを考えている自分も嫌だ。好きか嫌いかならいいものの、それとは別に「作品としての格」みたいな厳然とした基準を勝手にもっていたことを痛感する。
スラムダンクと黒子のバスケが比較された時、どちらも素晴らしいといったのはきれいごとだったのだと、今は思う。
自分は黒子のバスケが大好きだ。初めて単行本を買い、はじめて二次創作を書き、コラボ商品を欲しがり、劇場へと足を運んだ。今でも心の大事な部分を占めている作品である。しかし、もしも黒子のバスケがニュースで「スラムダンクを越える」と言われていたら、きっと同じような気持ちになっただろう。個人的に思い入れがあるぶん、もっと苦しかったかもしれない。ファンの誰かが「スラムダンクよりすごい」というたびに「それは作品の為にならないからやめてくれ」と思ったのは、謙虚さへの希求ではなく比べられたら困るというある種の逃げだったのだと思う。
私はこのところおかしい。もはやニュースから紅蓮花が聴こえれば耳を塞ぎたくなり、緑と黒の市松模様が目に入ればブラジャーファンアートだとしても笑顔にはなれない。
バラエティにゲスト出演する花江さんの笑顔すら、もう穏やかな気持ちでは見れない。
土曜プレミアムの特別編は二週ともフルで見た。いい作品だった。一緒に見ていた初見の家族の質問にも逐一答えて、CMに入れば解説をした。最後まで楽しめた。どうだ私はファンなのだと胸を張れるんじゃないかという気分になった。でも、翌朝のニュースで鬼滅を見ると、やっぱりくるしかった。
自分にはもうこの熱狂の内側に入ることはできないのだと実感して、さびしさが半端ない。妬ましさと惨めさで、ファンの泣けたという素朴な感想まで胸が痛くなる。
進撃の巨人も、鬼滅と同じようなキャンペーンの経緯で見た。ハマったか、好きだったか、と言われるととても楽しませてもらったけどファンといえるほどのめりこみはしなかったと思う。でも「とんでもないぞ」と思った。好き嫌いじゃなく、えらい生き物が発見されてしまったと思った。世界が変わってしまうのも仕方ないと納得せざるを得ないような、そんな理不尽なエネルギーを持つ作品だった。
鬼滅にはそれはなかった。何度見ても、高級で毛並みがよくてすてきなうさぎだった。それから何度も鬼滅の話題のニュースを見て、うさぎの毛並みすら褪せてみえるようになってしまった。
グッバイ鬼滅。自分の知らないところで幸せになって、というとおかしいのでみんなを幸せにしてください。いつかこんなめんどくさい気持ちが死に絶えたら何らかの形で気持ちよくお金を落とします。
嫌なんですよ。嫌なものは嫌なんですよ。
別にマスク自体は嫌じゃないですよ。去年までは花粉で鼻がムズムズしてるときとか普通につけてましたよ。マスクつけてかぶれるとかも特にありませんよ。
春先、ちょっとメンタルが弱ってたんですよ。でもそんなの、適度に遊びに行って人と交流して図書館に入り浸ってイベントに通ってとかやってれば自然と治まるくらいのメンタルの落ち込み具合だったわけですよ。
なのにそれを全部奪われた。
狭い部屋に閉じ込められた。ギスギスした環境で暮らすことを強いられた。テレワークの普及でただでさえ遅かった通信回線が激重になって、ネットすらできずそんな場所に軟禁された。死んだメンタルのままで何ヶ月も過ごすことになった。ぶっちゃけ軽く病んでましたよあのとき。
だから、もう、これ以上何かを奪われたり何かを強制されたりするのは嫌なんですよ。
私をあんなふうに閉じ込めた連中の言うことなんて絶対聞きたくないんですよ。
マスクをつけろという圧力がはびこっているのなら私はマスクを外しますよ。マスクが嫌だからじゃない、マスクが強制されているから外すんです。
これが仮に帽子をかぶれという圧力だったら私は髪をむき出しにして往来を歩きますよ。眼鏡をかけろという圧力なら裸眼で街に出ますよ。視力クッソ悪いけど。
私は去年通りの生活を続けますよ。鼻がムズムズしているわけでも咳やくしゃみがすごい出てるとかでもないのなら別にマスクはつけないっていう生活を続けますよ。
それが抵抗ですよ。私のメンタルをボロボロにした連中へのせめてもの抵抗ですよ。私を軟禁したやつらへのささやかな叛逆ですよ。
もちろんわかってますよ、あのひとたちも善意でやってたんだってことは。あのひとたちはあのひとたちなりに必死だったんだろうなってことは。
でもそんなのボロボロになったメンタルとズタズタになった人間関係とポシャった仕事の前では何になるっていうんですか。
許せない。私をあんなふうに閉じ込めたやつらのことは許せない。いや許してもいいけど、あいつらの言いなりになって行動に制限を受けるのだけは我慢ならない。
だからマスクは基本的につけてませんし、接触確認アプリも入れてません。嫌なものは嫌なので。
自分がコロナにかかったらこれまでの判断を後悔する日がひょっとしたら来るのかもしれないけれど、少なくとも今の私は、圧力に屈さずノーマスクを貫くことで自分を支えてる今の私は、熱もなければ咳もしてないのにマスクをつけようという気にはなれない。
数年後くらいにはマスクと和解できる気分になっているのかもしれないけど、残念ながら今の私のメンタルはまだマスクを許せていないので。
っていうか、繰り返しになるけど、許せないのはマスクじゃなくて、マスクが象徴している監禁の記憶なんですよね。あの閉じ込められた悪夢の日々の記憶が薄れない限りユニバーサルマスキングには協力できないなぁ。
こういうふうに言われることがめちゃくちゃ多くてだんだん反・反・反ワクチンくらいの立ち位置になってきましたね(基本的なワクチンは打ってるはずだし、仮に子供ができたらワクチンを打ってもらうけど、今の過剰な反ワクチン叩きはおかしいという立場)。
そもそも自分の身体に何を入れるか決める権利があるのは自分だけなのに何でワクチンは強制してもいいと思えるんですか? いや、効果の有無とかそういう話は聞き飽きました。なんびとも身体に針を刺して不愉快な物質を注入されなければならない義務はないし、むしろそれから逃れる権利を有する、っていうごくごく当たり前の自由と人権の話をしましょう。
後段、問題はそこなんですよね……義務教育の時代から「みんなで一丸になって頑張ろう!」みたいなのが嫌いで体育祭とかではなるべく手を抜いてた人間なので、おんなじ圧力かけられたらおんなじ反応しちゃいますわ……なるべく手を抜くしむしろ抜け道をどんどん探してやるぜ的な……
強制されるのは嫌と言うのは分からないではないが、わざわざ逆を行こうとする必要はないのでは。マスクをつけるのが嫌なのはよく分かる。
別にわざわざ特別な行為をしているわけではないですし……去年と同程度のマスク消費量で暮らしてるだけです。つまりごくごく普通の、当たり前の日常生活を送っているだけ。わざわざ能動的な行為なんてしてないっすよ。
マスク着用のところを非着用で入ろうとして揉めるとか
個人営業のお店とかはね……仕方ないというか、元々「客を理不尽に選別する自由」を持ってる人たちっすよね。極端な話、阪神ファンの店主が巨人ファンの入店お断りってやるのも自由でしょ。だからマスク強要が理不尽だなと思ってもそこは尊重すべき点かなと思います。お店の自由なので。
でも、そういう理不尽な選別が許されない公共交通機関とかでの理不尽な強要にはNOと言っていきたいっすね。
まあ都心部でマスク無しで地下鉄乗りまくってるけど咎められたことなんて一度もないですけどね。地下鉄以外でも知らん人から物言いつけられたことはない。映画館でマスク外して知人と会話したときも別になんも起きなかったっすよ。仮にそういうのに遭遇したら都知事選では平塚に入れてやろうと思ってたけど特に何もなかったんで宇都宮に入れました、はい。
飛行機で降ろされた人?
元々海外にはよく行くのとメーデー民なので飛行機で基本的な自由が制限されることは諦めてますね。空港と機内ではおとなしくマスクつけます。
でも飛行機でマスク拒否して降ろされたマンのニュースには同じマスク拒否マンとして同情と連帯の気持ちが湧いてきて市中では積極的にマスクを拒否していこうなというお気持ちが高まるというか……
所属する共同体への貢献とか、チームプレイみたいな行為のことを、この手の人たちは「同町圧力が」「強制が」「全体主義の足音が」とか言う。
そもそも論として私は去年までと同じ暮らしを送ってるだけですが。
去年まではなにも後ろ指を指されることのなかった当たり前の社会生活をしてるだけで社会不適合者扱いされる風潮、端的に言って狂ってるので積極的に抗っていきたいっすね。
映画館でマスクせずに会話するのなんて去年までは当たり前だったでしょ。その程度のことでガイジ呼ばわりしてくる人の方がどうかしてますよ。まあこっちに関わってこないのならどう思ってようがその人の自由ですけど。私も別に積極的にあんたらに話しかけたりはしないので。
んじゃあ「生きろ」って強制されたら死ぬんですかね、的な極端なことを言いたくなる程度には「ああただの我儘か」で斬って捨てたい案件/自分が感染するのは勝手だけど「他人に感染させる」リスクは考えてくれ。
じゃあ私がメンタル病みそうになったのもただのワガママってことですか。あまりにもクソ野郎の言い分すぎて「マスク拒否に正当性を与えてくれてありがとう」としか言えないっすね。
っていうか、私が風邪をひいたときもインフルエンザにかかったときも水ぼうそうになったときもおたふく風邪をもらってきたときも水虫を発症したときもなんかのウイルスで死ぬ寸前の状態になって病院に担ぎ込まれたときも、誰も私に感染させた人を責めなかったし、病気にかかってそれを他人にうつしてしまった人もあくまで被害者であってなんら責められるべきではないというのが良識的な態度だったはずなのに、なんで私が自分のメンタルを守るために普通の暮らしを送ろうとしたら「他人に感染させるのか!」って責められなきゃいけないんですか? 理不尽 of 理不尽。こういう犠牲者非難には絶対に屈しない。人権を守るために徹底的に闘いぬいてやる。
大口叩いてる割には本気の怒られが発生する場所(飛行機、個人店)ではマスクするとか日和ってるな。大丈夫そうな所でだけマスクしないマンやって勝った気になってるとかダサすぎるわ。
いや、個人店ではしてませんけど。よく行く個人店でマスクしてなくて怒られが発生したことはないし今後もなさそうなんで安心してノーマスクで通ってますね。あくまで民間のお店には巨人ファンを断ったりピアスしてるやつを退店させる自由はあるよね、という原理原則を確認してるだけです。
たっくさん書いた後に「空港と機内ではおとなしくマスクつけます」って書いててズコッとなった。わがまま通せそうなところでは通そうとし、絶対無理なところでは長いものに巻かれとるやん。
上で書いたけど、コロナ前には旅行やら何やらで年に何度か飛行機乗る生活してたんですよね。で、もともと飛行機っていうのはコロナ以前から
という2つの条件があるから、別に1つや2つ制約が増えたところで気にならないわけですよ。っていうか諦めモード。年に数回の非日常経験のために自分の自由やプライバシーが制約されるのはある程度仕方ない、嫌なら船なり列車なりそんな偏執的に身体検査とかされない乗り物に乗ればいいんだし、という話で。
それに対して1年で300日以上過ごし日常的に使う街や施設でこれまで享受できていた自由が享受できなくなるのは受け入れられない、という話です。そんなにわかりづらい?
長期間マスクすると呼吸に支障あるので、それが必要な所にはもう行かなくなった自分には、メンタルが耐えられないと言いつつ何時間もマスクして飛行機に乗れるというのは嘘八百にしか見えない
たまにしか乗らない飛行機の中や空港で当たり前の自由が制限された非人道的な扱いを受けるのは慣れてるしそんなもんかと耐えられるけど日常的に使う地下鉄や商業施設でそんな扱いを受けるのは慣れてないし耐えられないし慣れるつもりも耐えるつもりもないという話なので……
監禁とかよくわかんないんだけど、強制が気に入らないというのなら卒業式の起立斉唱やら戦争中の飼い犬供出にも抵抗するんだろうか。だったら応援します。
卒業式の国歌斉唱を強制するのは明確に反対で、戦時中に非国民呼ばわりされてでも全体主義に反対した人たちのことは尊敬してますね。まさかたかだかマスクをつけずに電車に乗る程度のことで先人の衣鉢を継げることになるとは思いもしませんでしたが……
献血には定期的に行ってますけど、もしも仮に赤十字が「来てくれた人ありがとう! 献血できる人は献血してくれると嬉しいな!」じゃなくて「来て当然。来ないやつは社会不適合者」みたいな態度を取り始めたとしたら献血行くのやめますわ。当たり前でしょ?
こういうのはレアな難病でマスクがつけられない人みたいなものだと思えばいいのでは。徒党組んでマスク反対集会をするわけでもなさそうだし。
クラスターデモに参加しなかった最大の理由は「デモとかするときは顔バレとか嫌だからなるべくマスクを着けたい」というコロナ以前からの考えと完璧に衝突するデモだからですね。どんなに良い目的であっても素顔をさらしてデモ行進とかするのは抵抗がある。でもまさかマスク反対デモにマスク着けていくわけにはいかないので……
お返事じゃなかった…
車通園非推奨だったけどやってたという話?
車通園じゃない親の存在にフリーライドした自覚あるのかなあと思った。
以下詳細をグダグダ書く。
ええと、「(おそらく都内、もしくはそれに準ずる立地の幼稚園に)自分は車通園しており、黙認されていた」というご主張です?
私の経験でもそういう方はいました。全員が車通園するのは、都内では近隣の正規の駐車場や黙認できるスペースのキャパから言って物理的に困難なので、園から禁止された車通園をするのはごく一部の方でした。
なんだか車通園じゃない親は安全配慮が足りないという意見のように感じるのですけど(違ったらごめんなさい)、車通園じゃない親の存在にフリーライドしたので車通園が可能だったと自覚してるのかどうかだけ、知りたい気がします。
あと、何で自分の経験談に噛みつかれたっぽいのか分からん…こういうケースが多いよって書いただけで、私は都内ではどうしてたか書いてないのに…。
私は特に熱心なVtuberのファンというわけではない。活動を欠かさず追い続けている特定のVtuberがいるわけではなく、ましてグッズやイベント、投げ銭などの有料コンテンツに金を払っているわけでもない。自分が作業やゲームをするときBGM/BGVとして、また暇なときや眠れないときなどに気に入った配信者(Vtuberに限らない)の動画を流したりする程度だ。
そんな私がVtuberの配信を見るようになったきっかけになった子が卒業するらしい。
彼女を知ったのはVtuberの身内のゲーム大会で、まだ1年も経っていないのではないか。その集団の中でも有名なVtuberを切り抜き動画で何人か知っている程度だったが、大会での彼女の快進撃には注目せざるを得なかった。
自身の思い入れのあるキャラクターたちを相棒として選び、彼らを活躍させて勝つため対戦相手を分析し、準備した結果導いた勝ち筋を通して勝利を重ねて行ったのだ。
彼女より登録者が多かったり、有力視されていたりする対戦相手に対しても勇敢に戦い勝利して行く姿は、見ている私をも熱くさせ、すぐに虜になった。それはかつてニコニコ動画などでも見ることができたような感動を思い起こさせるものだったのだ。
その後は時間が合えば彼女の配信を見るようになったが、その雰囲気が心地よいものだった。
他のVtuberも見るようになったが、配信の回数を追うごとにVtuberなのか演者そのものなのかよくわからなくなってくる人も見受けられる中、彼女は彼女自身が考える見せ方にとても気を遣っていたように思う。
彼女の場合も、どうしても演者のパーソナリティが漏れてしまうこともあり、私はそれも含めて好きだったのだが、彼女はそこを見られることはあまり好んでいなかったように思う。
また、私が知ったきっかけの大会に出ているように他のVtuberとの交流もありながら、流行に乗るだけではなく、どちらかといえば一定の距離を取ることもあり、自分のやりたいことをして、視聴者とやりとりしつつ配信するスタイルも魅力的だった。
あるいは小学校のときに仲の良かった同級生が転校したときのような、清原が引退したときのような、そんな寂しさだろうか。
しかし、同級生は25年経った今でも(おそらく)どこかで人生を送っていることだろうし、清原は引退しようが逮捕されようが、「NoシャブNoライフ!」と叫ぼうが、その後に送っている人生を知ることができる。
より近い感覚としては、親が突然余命宣告されたとき、または少しの間会っていなかった友人が急死したときのそれかもしれない(画面の向こうのVtuberに対して親を引き合いに出すのはどうかと思われるかもしれないが、私は世間一般に比して親のことをあまり好きとは言えなかったので、まあ適当な塩梅なのではないかと思ったのだ。)。
つまり、Vtuberの卒業とは突然の死なのだ。それについては過去に散々議論はされているものと思うが、私はそう感じた。「言葉」ではなく「心」で理解できた、と言うべきか。
しかし、卒業の知らせがショックであった一方で、彼女が「卒業」という選択をすることができたのはある意味幸福であるようにも思う。この業界(と言うほどに私は詳しくもないが)、突然の活動休止や謹慎、その後の引退や契約解除になるケースも珍しくない中で、彼女は自分の見せたいことをやりきった結果として、というかそれを完成させるために「卒業」へ至ったようにも見えるからだ。
活動の中で垣間見える演者の人柄を見るに、これまでの人生必ずしも順風満帆ではなかったのではないかと(邪推ならいいのだが)思えることもあった。それが良い方向に向かうよう努力している様子も伺え、内心それを応援していた私としては、演者の人生がより良い将来に繋がってほしいものだ。
🐈ねこです。
寒くなってきたね。
銅の鉢底の金網と、
鉢底の軽い石もきたので
銀葉ミモザ
おととい来てた3つの苗を植えました。
可愛いぞなー。
咲くのは何年後じゃろうという感じ。
鉢いっぱいに根を張って伸びて欲しいニャン。
ごはんは
おいしゅうございました。
寒くなってきたんで
おなべ美味しい季節ですね
いいなぁって。
具材が安い時に考えよー。
正直、そういうことにしておけばLGBTを擁護しつつロリコン叩きができるからというご都合主義で生み出された言説にしか思えないんだが。
それも有り得そうな気はするな、それならロリコンも同じ様に扱えばいいのに、とも思うが。
そもそもLGBTは先天的でロリコンは後天的というポリコレ(なのか?)勢の語る前提自体がイマイチ感覚的に納得できないのだが、この言説には確固たるエビデンスはあるのか?
正直、そういうことにしておけばLGBTを擁護しつつロリコン叩きができるからというご都合主義で生み出された言説にしか思えないんだが。
ありがとう 僕の足 何年も がんばってくれて
こいつが俺に接触しようとした 3年前 死ぬかもとおもったけど
まぁ死ぬだろう
うごかなくなってきた
もうしょうがない
おまえぐらいだよ なかまは
日本語においては「架空の物語=フィクションであるストーリーのなかの配役(主人公だったり脇役Aだったり)」って意味で
主につかわれている。とくにキャラ、キャラと短縮形でよばれるときはその使われ方が多い。
架空の人物だと絵師によっては正面と横向きとで髪型がくいちがう(cf.ドラ●もんのスネ夫)なんてことが普通に有り得る。
でも記号で共通性があれば同一キャラとみなされる。「口と前髪が尖っていてツリ目でcvが関智●の小学生男子がドラ●もんにでてたらそれはスネ夫」
そのとき資料集をトレスとか、作画監督に統一的な絵がらになるように修正でもされていないかぎり
だから二次創作でキャラを描くときはただちに著作権侵害とはいえない
(余談だが二次創作と二次的著作物とは根本から違うと解釈すべきだとおもう。法文よんでみろ)
そんで増田のいうリアクション集ってのも一応内面の設定に関する話ではある
内面なんてものは外見とくらべるとあまりとっちらかったことにはできない
たとえば意思の疎通がめちゃくちゃ難しい、理解できない理由で勝手に怒ったり泣いたりしているキャラクターをつくったとしても人気がでないからだ
逆に恋愛に奥手な高校生くらいのよくあるキャラはトラックにひかれて転生するやつみたいな定番になっている
どちらにしても、このキャラはこういう外見でこういう内面をもっているはず、というのは膨大な枚数のセル画にcvつけたりして視聴者を洗脳することにより脳内にリアルに描き出される幻=脳内映像=裁判所のいう「アイデア」だ
鉛筆をもって手をうごかして脳内のもやもやを紙に吐き出して、始めて著作権の土台に立てる
「損をしない投資」を教えてもらって以来、ここ10年くらい金が減らないどころか増えていってる
最初は投資だけで毎日のつつましい食費がまかなえてた程度だった
それが月日を追うごとに光熱費、交遊費、家賃までもがまかなえるようになり、今となっては給料の倍以上の収入になった
趣味といえば1本しか持っていない安いギターで好きな曲を弾いたり、FF14で1日1~2時間ほどフレンドと遊んだり
サブスクで音楽を聴いたり、簡単な料理をするくらいなので月額3千円にも満たないし
服はZOZOでベーシックなものをそろえる程度なので月1万円程度で収まる
日本は不景気で明るい未来が見えないと言われてるが、全く実感がわかない
毎月、使い切れないほどの金額が貯まっていく
数年に1回スマホやノートPCを買い換えるときに20万円ほど出費するが、貯まっていく貯金と比べればすずめの涙程度だ
投資をすすめたいわけじゃない
金の使い道が全くないことの漠然とした不安に悩んでいるということを書き殴りたかっただけだ
数十年後、どれだけの金が貯まっているのだろうか?
そして、使われないこの金は死後、国の金としてどんなことに使われるのだろうか?
物欲が満たされない人たちは何を買っているのだろうか?
※コロナ関連の話です。ご自身や周りの方が辛い思いをされた方もいらっしゃると思います。
まだ若かったのに、昔たくさん吸っていたタバコのせいで、肺へのダメージが回復できませんでした。
父は無口な人間で、自分たちはあまり親しい関係性の親子だったとは言い難いと思っています。
それでも、父との数少ない思い出が頭の中をぐるぐる回って、また、多趣味だった父の
やり残した様々な夢を思うと無念で、この悲しみが癒える日は果たして来るのか、真っ暗な夜の中
その方は仕事の関係で出会ったそうなのですが、長い間、公私ともに親しくしていたそうです。
父の入院中もSNS経由で自分に連絡をくれ、父と自分たち家族を非常に心配してくれていました。
そして父が他界した数週間後に届いたそのメールは、その方と父の共通の友人の方たちで集まり、
屋外での会食という形でお別れ会のようなものを開催したというご報告でした。
(正直な所「コロナで亡くなった人を悼むのにわざわざ感染リスクのある会食なんか開かないでくれよ」
とも思いましたが…屋外ではあったようですし、葬儀も家族だけで行いましたので、故人のために何か
したいという気持ちを持っていただいたのでしょうという風に前向きに解釈しています)
そのメールには動画が添付されていました。父がSNSにアップしていた画像を
スライドショーのような形式で張り合わせた動画で、中にはかなり古い画像もあり、この方と父の間には
こんな思い出があったのだなと思いながら見ていました。
そしてその動画の最後に並んだ数枚の画像を見て、自分の目を疑いました。
それはおそらく会食時に撮られたもので、先程まで自分が見ていた父の写真が、
今思い返しても手が震えるくらい怒りが湧いてきます。
コロナにかかるまでは健康だった父。父の体を火葬した時、とても辛かった。
棺を火葬場の炉の中に送り、小一時間後に骨となって出てきたときの光景はまだ記憶に新しく、
思い出すのも辛くて涙が出てくるというのに。
どうして、その父がもう一度焼かれなくてはいけないんだ?
写真に写っていたのは、まだまだ元気で人生を楽しんでいる父だったというのに!
写真を焼くという行為について自分がイメージするのは、例えばニュースで流れるどこかの国のデモの映像で、
一部の過激な民衆が敵対勢力のトップの人物の写真を火にかけるとか、そういった侮辱的なものです。
父の友人たちが何を思って写真を焼こうと思ったのかは分かりません。
ですが、その行為は、自分の目には決して父を悼むものに映りませんでした。
気が狂いそうなほどの怒りをなけなしの社会性でなんとかなだめ、父の友人には
父の写真が焼かれているという光景に傷ついたこと、とてもではないが冷静ではいられないのでこれ以上の
やりとりを控えさせていただくこと、生前の父に対する友情への謝辞を述べ、すぐに連絡先をブロックしました。
普段あまり怒ることがなく過ごしているため、今も胸にくすぶるこの感情を
これからどうするべきか全く分かりません。
心の整理のためにこの文を書いていますが、着地点が全く見つかりませんでした。
時が経てば、この怒りは少しずつ収まっていくものなのでしょう。
わたしたちが子供の頃に読んだ図鑑には最古の鳥類として始祖鳥が載っていました。
ところが近年、中国から大量の羽毛恐竜が発見されたことで次第に恐竜と鳥の境目がわからなくなっていきました。
「小学館の図鑑NEO新版恐竜」をひらいてみるとかつて私たちが始祖鳥と呼んでいたそれは
アーケオプテリクスという名前となりドロマエオサウルスのなかまとして紹介されています。
(余談ですがのびたの新恐竜ではこの図鑑が参考にされたのかなと思っています。この図鑑は映画内にも出てきていて、もっとメタなことをいうとドラえもんとコラボをしているので)
新恐竜ではドラえもんの舞台を中国に移し、そこで発見された羽毛恐竜が・・・という話なのですが
最近の知見を取り込んだのだな、というのが私の印象でした。始祖鳥を無視したわけではないのです。
また、恐竜から鳥への進化の方向は一方向ではなくそして単純ではなかったようです。
長い歴史の中、鳥に近づいたり恐竜に近づいたり絶滅したりを繰り返していたんですね。
ジュラ紀にも鳥がいたし、白亜紀にもキューやミューのような羽毛恐竜がいたのです。
そして必ずしも鳥に似ているから鳥に近いというわけでもないらしく、面白いですね。
あのブログはお詳しい方のようなので、おそらくここまでとっくにご存知の上で
「白亜紀後期にたくさんいたはずの他の真鳥類はどうなったのか?」というご指摘だと思うのですが・・うーんどうなったのでしょうね?
いちおう、キューがなぜ特別視されていたかというのは映画の描写によると
キューが現生鳥類の直接の祖先(のひとつ?)で、キムタクこと未来の研究員さんがずっと追っていた研究対象だという話みたいでしたが。
どうも未来の古生物学の研究員さんは博物館ではなくタイムパトロールに所属して各時代に駐在して研究をしている?!みたいですごいですね・・あの人家に帰ってるのかな
話を単純にするために真鳥類や他の羽毛恐竜については映さないようにしていた、触れないようにしていたのかもしれません。
最後の「鳥がいなくなっていたかも」という発言は、あれ他の真鳥類は絶滅するの??と思いましたが「まあ未来人がいうことだからな!!」でわたしは流してしまいました。みなさんまじめですごいですね。
昨日のジャニーズで盛り上がってた若い子諸君、知ってるか?オールスター感謝祭って昔はクイズ番組だったんだぜ。
昨日のアレを見た人たちってあれをどういうジャンルの番組だと称するのでしょうか。
そもそも「オールスターって何」というところから始まるんすよ。昔の感謝祭は本当に色んな有名人が出てた。若手俳優、大御所芸人、国会議員、プロ野球OB、力士、ニュースキャスター・・・本当に各界の著名人が「賞金のために」出てたんですよ。1問正解で数百円の賞金が加算されて行って、ピリオドチャンピオンになると何十万円も貰えて、さらにボーナスクイズに正解するとまた賞金がもらえる・・・まさに景気のいい時代に「普段TBSに出演してくれる芸能人に感謝する」ために作られた番組。
で、近年視聴率も落ち続けおまけに不況になった。いつの間にか赤坂のスタジオには200人来なくなり賞金も減った。ここまではまだ許容範囲だが、クイズをやらなくなった。クイズ番組なのにクイズやらなくなった。じゃあこの番組は何?
別に春秋の改編期にやる特番だしドラマ、新番組の宣伝にめっちゃ力入れるのは良いんですよ。最近創設された新企画のアーチェリーも数々の名勝負を生み出してきていいなって思ったんです。でもその他が蛇足すぎる。くだらねぇスタジオ企画とかそういうの求めてないんですよ。おまけに昨日の「このあと誰誰は○○するでしょう?」とかいうクイズにもなってない謎コーナー、あれマジで引いた。つまらない面白くない以前に引いた。あの企画なんだよ。確実にモニ○リングが絡んでるだろ。なんであいつらにやらせたんだよ。そもそも感謝祭にそういうの求めてないし、そんなこと次回以降も続ける気なら「オールスター感謝祭」を名乗らないでほしい。29年前に当時のスタッフと島田紳助がこれ見たら泣くぞ。まあもう次回やる気なんてないんだろうけど。
「もう自分の見たい感謝祭は帰ってこないんだろうな~」って思いつつも毎回見てしまう自分も悪いのだが、地面スレスレにまで下げたハードルを蟻のようにくぐってくるのやめてくれ。こっちは極限までハードル堕としてるんだぞ。くぐるなよ。
ていうか数十年見てきて昨日は本当に途中で見るのやめた。「史上初のスタイルでお届けします!」史上初って何?結局過去の焼き回しとコロナの流行を理由に手抜いてるだけじゃん。前から手抜いてたけど。「史上初」要素、どこにもなかったんだけど。
別に人少ないのは良いよこういうご時世だし。もっと人呼べよなんて言わないからさ、せめてもうちょっとまともに見れる「クイズ番組」やってくれねえかなぁ。
ていうか今のTBS上層部って「クイズだらけの感謝祭はつまらない」って本気で思ってそうだし、俺のこの意見も「今の視聴者層とあなたの考え方は合ってないので、嫌なら見なくて結構です」って言われると思う。俺が老害なのは自覚してるし今テレビマンの考え方と全く違うのは分かってるけどさ、俺は悲しいんだわ。時代の流れなのかな、これ。
で「最後くらいは見るか、誰優勝したか気になるし」って思って23時半にテレビつけたら例の「このあと誰誰は○○するでしょう?」とかいうクイズにもなってない謎コーナーまだやってんの。嘘でしょ。「このあと誰誰はスタッフを助ける?助けない?」じゃねえよ、助けられるのはお前たちの方だろ。
昔はこの時間帯にぬるぬる相撲やってたな~とか、最近だと大逆転ピリオドとかあったな~と昔の感謝祭に現実逃避をしながら今回も島崎和歌子の「My life is...」を聴いてこうしてグチグチと文句を垂れ流している。