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はてなキーワード: 描写とは

2022-10-28

anond:20221028175210

女性だけど別に違和感あるほどの描写を感じなかったからどのへんかって聞いてるんですけど…

anond:20221023213723

うーんこれは普通モテた人が想像で書いてる感じがしてリアリティがないなぁ。

モテないなら容姿気にして体型とか化粧とかオシャレとか気にするはずなのにその描写がまるっと無いのはファンタジー

anond:20221028145849

まぁTV放送やめてサブスク限定配信にすればこの手の揉め事全部解決する気はするな。

サブスクなら「ヌード」とか「性的描写」みたいな警告付くし、どんなにエグいエログロ描写やっても何の問題もないから好き放題できるしWin-Winだよな。

2022-10-26

anond:20221026221032

アイアムヒーローは、「終わり方に期待できない」とわかっている方がむしろ楽しめる漫画だと思う。

終盤で説明とか解決とかオチとかあるわけではない。

起承転結じゃなくて、起承承承のマンガ

その場その場の描写表現を楽しむためのマンガと割り切って読めば、けっこう楽しむことができると思う。

ダイヤのA全話無料から読んでるんだが、これ面白いの?

ぶっちゃけ言っていいっすか。

キャラ多すぎて話がどれも薄いからつまんねーっす。

クリス先輩と御幸先輩のライバル関係みたいのだけは面白かったんですけど、主人公投手2人のエース争いみたいのとか在り来りな展開が淡々とやってくるだけですげー退屈ですね。

よく言えばひたすらに王道かつオムニバス的なんでしょうけど、私からすると個性がなく個々の描写が薄いって感じですわ。

他の人気野球漫画バーテンダー渾身の一杯とするなら、これはサイゼドリンクバーみたいなもんっすね。

子供に受けてるんですかね?

全部アナログで一人で描いてる漫画家先生に「このシーン背景描写も含めて好きです!」的なファンレターを送っていたのだけど、その漫画家先生がここ半年くらいは背景アシスタントを雇っているのではないかという可能性が浮上してきた。

先生以外が描いているところを激褒めして、「私じゃないんだが…」と嫌な感情にさせていないか不安である

anond:20221026102123

モブ、背景、捨て置かれるゴミクズとしての描写裾野があるからこそ素敵な男性キャラバリエーションかになってるわけで

女性キャラの素敵な頂点を多様性かにするには裾野を広げるしかないと思う

メスにさせられることはあってもその逆は無いよね

ノンケの男がゲイに掘られてメスにさせられるみたいな描写あるけど、逆に女がオスにさせられるってことはないよね。

いやそういえばちょうど今やってるうる星やつらにそんなキャラたか

2022-10-25

悲報ブクマカラーメン赤猫にドヤ顔コメントするも外れる

ラーメン赤猫32話のブコメ

id:ks1234_1234

32話。面白いんだけど、テンポインディーズ枠のころと違う。ついた編集さんの手入れなのか。でもこれは安定してみなに受ける「わかりやすさ」なんだと信じる。さて、いいジャンしよう

id:pikopikopan

最初だけかなと思ったんだけど、ブコメにもあるようにストーリーの作り方インディーズの頃と変わったね。キャラ描写は前の頃とは変わってないし、ねこねこ展開で可愛いんだけど

それに対して作者がコメントした。

テンポが違うとか編集さんの介入が入ってるとかいう方おられますけど

なんにもつくりかた変わってないです…

https://twitter.com/angyaman/status/1584447413439594496



恥ずかしいね

2022-10-24

チェンソーマンを読みました

人に勧められてチェンソーマンを読みました。たしか面白い。でもその面白さは、ある程度情緒を育んできた大人が、登場人物たちや作者の意図しているのかしていないのかわからない精神的浅さをスリリングに楽しむ、みたいな方向に昇華して生まれものでしょう。

デンジ動機も、マキマの心理描写のなさも、他キャラクターたちの全く一面的性質も、突然出てくる詰めの甘い設定も、すべて浅いししょうもないけど、それがなんやかんやうまいこと噛み合って生まれ浮世離れした感じにヒヤヒヤニヤニヤして楽しめる。藤本タツキはどこまでそれを自覚してこれを描いてるのかなあ。ぜんぶわかっててやってるならすご〜く良いよね。他のも読んでみたい。

なのに、終盤愛に関する描写が出てきました。嘘でしょ?

そりゃ普段しょうもない人間のしょうもなさを悪く言うなんてことはしません。しょうもないってのはそもそもそんなに悪いことじゃないし、しょうもある(笑)側の人間自分はしょうもありますよみたいな顔して気持ち悪い選民思想を抱くほうが異常。恥づべき行為なのは間違いない。

でもここで愛についてまでしょうもなさで侵すのはやめてほしかった。愛に対してだけは誠実に表現してほしかった。ずっと幼いうちに解決したはずのしょうもなさへの嫌悪嫌疑が沸き立つ。愛について描写はあれだけだけど、じゃああれが愛の全貌だなんて藤本タツキは思ってるんだろうか。愛を正しく理解したいと願う人間が、愛についてまでいい加減なことを書くだろうか。どっちにしろ藤本タツキがわからない。チェンソーマンを勧めてくれた女の子になんて感想を言えばいいかなあ?その点でずっとモヤモヤが消えない。

愛のわからないお前らが!って煽りたいんではないんです。でもたぶんそうなるよね。悲しい。

2022-10-23

理彼くん漫画問題過程を丁寧に描写したらただの恋愛漫画やんけ→こういうのでいいんだよこういうのでになるけど、実際問題空気を読むのが苦手」「他人気持ち推し測るのが苦手」な人が結婚まで辿り着くのって十分な一大ストーリーになると思うんだがみんな恋愛漫画きじゃないのかな

鬼滅の刃嗅覚人間の本性その他の話(2)※末尾に追記

(1)anond:20221023223518からの続き

 いくら視覚的な識別手段機能しない状況下で重要な働きをするとはいっても、これらの三感覚によって人間は、本当に相手のことを知ること、理解することが果たして出来るであろうか? 例えば、聴覚によってパートナーの本性を知ることが、人間に出来るであろうか? 正直に言えば、私はそうは思えない。

 例えば、和漢朗詠集などに収められている和歌に次のようなものがある。

 「いつはりの 無き世なりせば 如何ばかり 人の言の葉 嬉しからまし(もしも、この世界に嘘[ウソ]というもの存在しなかったならば、どれほど素直に、想い人の口にした言葉を喜ぶことが出来ることか)」

 二人きりの閨(ねや)で同衾して、耳元で甘い愛の言葉を囁かれても、それでもなお。これは、そういう歌ではないかと、私には思える。あるいは逆に、愛の言葉を幾ら紡いでも、想い人がこの歌のようなことを言って信じてくれない。そういう人の役割を演じて詠まれたとも考えられる。

 このように、視覚が働こうが働くまいが、嗅覚聴覚・触覚が働こうが働くまいが、それらの感覚によって得た情報から築き上げるパートナー像は、畢竟、想像産物であって、実像とは異なるところがある。したがって、引用した箇所に示した小松和彦言葉想像力による夢幻世界における営み」という記述は、現実を的確に表現した、極めて正しいものであると言える。

 ただし、そのような現実を突きつけられた時に抱く感慨が、男と女との間で大きく異なるのではないだろうか。

 視覚的な情報を強く志向する男という種族は、その視覚の働かない状況下で、代替手段として精一杯に駆使した嗅覚聴覚・触覚によって得た情報を元に、必死で作り上げたパートナー像という理解が、単なる想像産物に過ぎないと言われたら、大きな心理的ショックを受ける人が大多数なのではないだろうか。

 それとは対照的に(と言っても私は女性ではないから、あくまでも私の[それこそ]想像に過ぎないのであるが)、女性の多くは、昔の人でも現代人でも、仮に「視覚によってであろうと、嗅覚聴覚・触覚によってであろうと、あなたの得たパートナー像とは、あなた想像産物に過ぎませんよ」と言われたとしても、案外あっさりと「そうでしょうね」と言って受け止めることが出来る人も少なくないのではないか。そのように私には思える。

 もし仮にそうなのだとしたらの話ではあるが、それは「覗き見の禁忌」の本質として小松和彦も指摘した、あの「『本来女性の姿』を晒すことの禁忌」によって、多くの女性日常的に、好むと好まざるとにかかわらず、化粧その他の余所行き用の装いを強いられる経験、すなわち「今現在(明かりの存在する状況下≒現世)の我々が互いに見ている/見せている姿は、そもそも仮の姿である」という経験を積んでいるからではないだろうか。だから、上で述べたような「想像力による夢幻世界における営み」と言われても、女性の心の中では男性のようには齟齬や混乱を生じ難いのではないだろうか。

 もしかしたら「虫愛づる姫君」の中で言われる「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という言葉は「本当の自分他人に見せること/知らせることが許されないのは、辛いことである」という抑圧の面と同時に「本当の自分他人に見せずに/知られずに済むのは良いことである」という解放の面をも併せ持つ、アンビバレント言葉なのではないだろうか。

 『鬼滅の刃』の作者である吾峠呼世晴は、女性作家であると推測されている。だから、ここで私が言うような「嗅覚聴覚・触覚により相手(人間)の本性を看破・把握する[できる]というのは、畢竟、幻想に過ぎない」ということも「女は本当の自分を隠さざるを得ないように強いられている」という現実も、先刻承知の上で作品執筆したものと思われる。

 『鬼滅の刃』の主要な女性キャラクターには、胡蝶しのぶ、栗花落カナヲ甘露寺蜜璃のような「本当の自分他人に見せられない/見せられなかった」という女性たちが登場する。その中でも、胡蝶しのぶの印象深い場面として、竈門炭治郎の鋭敏な嗅覚によって「何か怒ってます?」という言葉を掛けられ、彼女の心の裡に秘めていた鬼に対する強い怒りと、その元となった深い哀しみの感情が察知されるという場面がある。この描写には「虫愛づる姫君」の「人に見えぬぞよき」という言葉類似する、女性のアンビバレンスが込められているように私には思われる。亡き姉の生前笑顔溢れる姿を理想像として、それを模倣して演じているとはいえ、胡蝶しのぶには、甘露寺蜜璃や栗花落カナヲとは異なり「本当の自分」を隠すべき強い理由は、さほどないようにも思えるが、しかし、それでも何らかの理由で思いを隠したかったのであろう。その上で、他人から隠したいという思いと他人に知って欲しいという二つのアンビバレントな思いを、胡蝶しのぶは抱いていたのではないだろうか。炭治郎に本当の感情を察知された時の胡蝶しのぶの表情には、そのアンビバレンスが顕れているように見えたと言ったら言い過ぎだろうか。そんな胡蝶しのぶに似た女性は、現実世界にも多数存在するように思われる。

 そのような思いを抱いて生きざるを得ない女性たちに対する、救済の思いを込めて、嗅覚により心の本音を察知するという描写を『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴は生み出したのではないだろうか。

 それは虚構に過ぎないかもしれないが、それでも「この世界と人よ、斯くあれよかし」という、慈しみを込めた虚構である

 そして、そのような虚構には捨て得ない価値があると、私は思う。何故なら「過酷現実を知っても、それでもなお」という、表現者としての覚悟のようなものを感じるからである

(了)

(2022/10/25追記)香り嗅覚による本性の察知・看破または偽装について論じるならば、珠世様の血鬼術にも言及するべきであった。完全に失念しており、これは初歩的なミスである。お恥ずかしい限りである

鬼滅の刃嗅覚人間の本性その他の話(1)

 世間流行の移り変わりとは無関係に、私は度々『鬼滅の刃』の原作単行本を読み返しているのだが、またも同作を読んでいる。

 ここ最近の読み返す切っ掛けの一つとなったのは、例によって金関丈夫の『木馬と石牛』である。何度目だ。

 ひとまず最初に紹介しておく金関丈夫論文は「わきくさ物語」と題する一篇である

 これは、腋臭(わきが、えきしゅう)や体臭肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、その相違について、人類学的な統計データに基づいて西欧人と東アジア人の腋臭体質の多寡(出現頻度)を比較するとともに、東西文学作品や文献に於ける腋臭体臭に関する記述比較したという内容である。今さら気づいたが、論文題名は『若草物語』のパロディである

 金関丈夫の論旨を大雑把にまとめて紹介すれば、次のようなものである。「人類学的に見て、西欧人の集団では腋臭体質の人の出現頻度が高く、日本中国などの東アジア人の集団では出現頻度が低い。それに呼応するかのように西欧では、身体臭い肯定的に捉えて讃美する詩や文学作品が見出される。それとは対照的日本中国では、身体臭いを讃美する文学作品記述は見られない。ひどい体臭の人が周囲から疎んじられるといった、否定的記述内容は見出される。日本文学においては、田山花袋の『蒲団』など西洋文学の影響を受けた近代の少数例を除けば、体臭文学存在しなかったのではないか」云々。これも今さら気づいたが『大衆文学』の駄洒落である

 それはともかく、かのナポレオン愛人に宛てて「近々戦場から戻るから風呂に入らずに待っているように」と手紙を書いたという有名な挿話を知っていると、金関丈夫の主張にも頷けるところがある。

 しかし、体臭文学に関して言えば、確かに金関丈夫の言うとおり国文学の中では劣勢なのかもしれないが、嗅覚のものは、時代の変遷や題材の違いによる差異はあれども、国文学においても大なり小なり着目したり描かれたりしてきたのではないかと思う。源氏香(※)のような遊びが生まれたぐらいなのだから香り匂いを味わうことの悦びを昔の日本人も持ち合わせていなかったわけではないだろう。それにまた、腋臭のような刺激的な匂いに対する肯定的記述が見られないからといって、体臭のものに対する愛好癖が日本人の間に存在しなかったとまでは断言できまい。好ましくない体臭に対する認識があったのならば、好ましい体臭に対する認識があってもおかしくはない。したがって、いま少し詳細な再検討必要ではなかろうかと思われる。[※注:源氏香は、室町末期以降の遊びであるが、源氏物語各巻の見出し源氏香の記号が付記されるようになったのは明治以後のことらしい。また、その記号は、組合数学テキストで例として挙げられることもある。]

 とまあ、こういった具合に「わきくさ物語」を読み直したことが切っ掛けで、嗅覚について色々と思いを巡らせていたところ、竈門炭治郎のことも連想して『鬼滅の刃』を再読し始めたという次第である

 ところで、上に述べたとおり、私は金関丈夫の主張に対しては批判的な考えを抱いているわけだが、そのような批判的思考は私の独創ではない。以前に読んだ本の記憶から「はて、国文学でも、それなりに嗅覚重要視されていたはずではなかったか?」と思ったので、金関説にも疑問を抱いただけなのである

 さらに、その時に本で読んだ内容には『鬼滅の刃』を妙に連想させる記述も含まれていたと記憶していた。そこで本棚を漁ってみたところ、それらしきものを再発見した。次に、それを紹介しようと思う。

 『鬼滅の刃』の主人公たちである竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人が持つ優れた感覚は、それぞれ、炭治郎=嗅覚、善逸=聴覚、伊之助=肌感覚(触覚)である。炭治郎や善逸は、相手人間か鬼か、人間であれば善人か否かを、これらの感覚によって看破できることは、漫画を読んだりアニメを観たりした人ならばよくご存知のことと思う。

 この三感覚と同じ取り合わせを、私が目にしたのは、小松和彦の著書『神々の精神史』(講談社学術文庫)に収録されている「屍愛譚(しあいたん)をめぐって 伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の冥界譚を中心に」と題する論文の中であった。

 まず、私が『鬼滅の刃』を連想させるもの記憶していた箇所を、少し長くなるが同論文から引用しておこう。

 「男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかからかに創り出されるイメージの、想像力による夢幻世界における営みであった。そして、日本女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。」

 奇しくも、小松論文の中で三つの感覚が挙げられる順序は『鬼滅の刃』の物語主人公たちが登場する順序と一致している。果たして吾峠呼世晴は、小松和彦論文著作を読んでいたのかどうか。真実は分からないが、そういった想像をしてみるのは楽しいことである

 さて、小松和彦論文は、国文学などにおいて見られる、妻・夫・愛人などに先立たれた人が、パートナーの亡骸を屍姦したり冥界を訪れるという物語記述について論じたものである。その中でも題名のとおり特に、亡くなった妻のイザナミ恋しさに黄泉の国を訪れたイザナギ物語、そこで語られる覗き見の禁忌、その侵犯について考察している。

 死して黄泉の国の住人となってしまったイザナミは、自分を現世に連れ戻すために訪れた夫イザナギに対して「それでは、現世に戻れるのかどうか、殿内に入って黄泉の神と協議します。私を待つ間、決して中を覗かないようにして下さい」と言い残して黄泉殿内に籠もる。しかし、妻と黄泉国神との協議が終わるのを待てなかったイザナギ禁忌を犯し、黄泉の国におけるイザナミの変わり果てた姿(肉体が腐敗して蛇に集られている有り様)を覗き見てしまったがために、彼女は現世に戻ることが不可能となり、二人は別れざるを得なくなる。

 この禁忌を犯す場面において、イザナギは彼の御髻(みみずら)に挿していた湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を抜いて、それに火を灯してから黄泉の国の殿内を覗き見るという筋書きになっている。この灯火を焚く必要があったということは、つまり黄泉の国でイザナギイザナミが語り合ったのは、闇の中であったことを示している(そうでなければ、黄泉の国で最初に再会した時点で、イザナミの肉体的変貌にイザナギは気づいていたはずである)。ここには、現世でも黄泉の国でも何ら変わることのない「男女の愛の営みや語らい(ピロウトーク)は暗闇の中でこそ行われる」という形式がある。

 小松和彦論文でも指摘されていることであるが、日本イザナギイザナミの冥界譚やその他の屍姦譚・屍愛譚には、中国大陸の物語から影響を受けた節が窺える。小松論文でも紹介されているが中国東晋時代書物『搜神記』における屍姦譚の一例として、次のような話がある。

 美しい女性結婚した男が、妻から「私は普通人間ではないので、結婚してから三年経過するまでは、夜、明かりで私の姿を照らさないで下さい」と言い渡され、それを守りながら夫婦生活を送り、二人は子まで設けた。しかし、どうしても夫は我慢が出来ず、ある夜、明かりで照らして妻の姿を見てしまった。彼が目にした妻の姿は、腰から上が普通人間女性で、腰から下は干からびた白骨というものであった。妻は「私は死者であるが、あなたが、あと一年だけ我慢して私の今の姿を見ないでいてくれたならば、完全に蘇生することが出来たのに。しかし、あなたが禁を破ったがために、最早それは叶わなくなった」と言い残し、形見として袍(うわぎ)の端布と二人の間に生まれた子を残して、男の元を去ってしまった。その端布を持って嘆き暮す男のことは、スイ陽王(スイは目偏にオオトリ旁)の知るところになり、袍の端布が王の若くして亡くなった娘姫のものと同じであったこから、娘姫の葬られた墓を暴いたとの嫌疑で男は取り調べられることになった。男が語った事の経緯を信じられない王と家来が、娘姫の墓を検分したところ、墓暴きに遭った形跡も認められず、念のために墓内に入って棺も確かめると、袍の裾が棺の蓋の隙間からはみ出ていた。それを見て「さては、本当に墓を抜け出して夫婦生活を送っていたのか」と、王も家来も信じるようになったとの由。この生者の夫と幽霊の妻も、彼らの愛の営みを、妻の申し渡した禁忌を犯さないように、明かりの無い暗闇で行なっていたことは確実である

 イザナギイザナミ冥界譚と『搜神記』における人間・死者婚姻譚との間に共通するのは、妻の本当の姿を見ることの禁忌、それを夫が犯したために妻の蘇生が叶わないという点である

 特に前者の覗き見の禁忌について、小松和彦考察し、その本質は「女性が『ありのままの姿』を公に晒すのは好ましくないという、昔日の社会における男女観・価値観倫理観の反映」であり「女性の本性を覗き見ることについての禁忌」だったのではないか推理している。それを裏付けるかのように、生者であるパートナーに対して自分の本当の姿を見ないように要求する死者の話は、圧倒的に女性要求する側であることが多いのである。また、禁忌を犯した夫イザナギに対するイザナミの怒りの言葉は「吾に辱(はぢ)見せつ」(私に恥を晒させた!)というものであるさらに、類似物語として、豊玉姫(トヨタマヒメ)が出産の時、産屋に籠もり、それを彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が覗き見ると、豊玉姫の正体はワニ(サメ)の姿であったという話もまた、女性の本性を見る禁忌の事例として挙げられる。

 死者にしろ生者にしろ、隠れている女性の姿を覗き見る男の性向というのは、時代を下っても変わらない。例えば『伊勢物語』の「むかしおとこうゐかうふりして」という出だしで有名な最初の一篇でも、田舎には不釣り合いな雅やかな女性が里に暮らしていることを知った主人公(在原業平)は、垣根の破れた所から彼女たちの姿を覗き見る。ずっと時代を下った現代においても、男性向けアダルトコンテンツは、視覚表現重要性を持つことは周知の事実である。このように、イザナギ在原業平の昔から変わることなく、男性は「視覚的な欲求」を満たすことを強く好むと言って間違いない。

 ところで、この「屍愛譚―」論文を再読し、期せずして気づいたのであるが、論文の著者である小松和彦の行なう考察もまた(覗き見の禁忌を論じて考察する必要から、当然のことではあるとはいえ)、やはり「視覚範疇」に留まっている。これもまた、視覚を重視する男の性向の顕れと言えるかもしれない。しかも、上に引用した箇所で「夜の闇の中での男女の愛の営みや語らいにおいては、嗅覚聴覚・触覚が重要である」といったことを述べているのにも関わらず、同論文は、それらの三感覚重要な働きを示している国文学上の具体例を、特に挙げてはいないのである。あるいは、国文学に詳しい人たちからすれば周知の事実なので、態々挙げる必要がないとして言わなかっただけのことなのだろうか?

 とりあえず、男女の機微の話は後回しにして、ひとまず、妖怪識別する手段としてのこれら三つの感覚について、話を進めることにする。

 聴覚妖怪識別に用いる事例は、比較的容易に見出される。例えば、誰そ彼(たそかれ)時・彼は誰(かはたれ)時・夜のように、人間なのか物の怪なのかを視覚的に区別をつけ難い時、相手妖怪が発する声によって正体を見抜くという事例は幾つも見つけられる。カワウソなどの物の怪は、人間から「誰じゃ?」と問いかけられると「俺じゃ」と言えず「おねじゃ」とか「かわい」などとしか言えないので、正体を見破られてしまうという。これは、言霊の力とも解釈できるが、音声(聴覚)による正体識別の事例と考えても許されるであろう。また、仮に人間の方が話し掛けたり問い掛けたりしなくても、妖怪の方から自発的に何らかの独特な声や音を発してくる(アズキアライ・テングダオシのような怪音、ヤロカ水の怪しい呼び掛け声など)ので、それを聞けば正体が分かるという例もある。これらも聴覚による妖怪識別に含めてよさそうである

 触覚の方はどうだろうか? 例えば、厠(便所)で河童などの物の怪に人間が尻を触られるという怪異の話は数多い。そして、それらの怪異譚は「毛むくじゃらの手である」といったような、通常の人間とは何かしら異なる手触り・肌触りの特徴を持つことを窺わせる描写が伴うことが多いように思える。厠が家屋の中では暗い場所に分類されることを併せて考えれば、これも視覚には頼り難い状況下で、触覚により妖怪識別する事例と考えることが可能ではないだろうか。他には、猟のために山に分け入った猟師が、夜になり「これでは鼻を摘まれても分からないな」と独り言を呟いたところ、突然「これでもか?」と何者かの手に鼻を捻られたという怪異譚もある(参考:千葉幹夫『全国妖怪事典静岡県の部)が、これは残念ながら手触りについて伝えていない。しかし、このように暗い場所時間帯において、物の怪に身体の一部を触られるという怪異譚は、枚挙に暇がない。これらも触覚によって人か物の怪かを判断するという事例に含められないか否か、再検討してみるべきかもしれない。

 問題は、嗅覚により妖怪識別する話や本性を看破する話なのだが、残念ながら今のところ、これといった事例を見つけられずにいる。逆に、妖怪嗅覚の方を利用し、何らかの臭いを発するもの人間が用意することで魔除けにするという事例ならば、比較的容易に幾つも見出だせるのであるが。例えば、焼いた鰯の頭を魔除けとする例は有名である。また、今でこそカカシといえば田圃に立つ人形のことであるが、日本神話でオオクニヌシスクナビコナと出逢うくだりに記されているように、本来の古い和名はソホド乃至ソフドである。それがカカシと呼ばれるようになったのは、稲を荒らす鳥を追い払うのに、鳥の死骸を焼いたもの竹竿の先に紐で括り下げて掲げるという風習があり「臭いを鳥に嗅がせる」という意味でカガシと呼んでいたものが、鳥避け人形混同されるようになったかである。上に挙げた鰯の頭も、ヤイカガシ・ヤッカガシ(焼き嗅がし)と呼ぶ地方があり、明らかに鳥避けのカガシと同じである。他にも、山中でタヌキやムジナの類いに化かされたことに気づいたならば、煙管(煙草)を一服すれば妖怪は逃げていくとか、小便をすると臭いを嫌がる妖怪を避けられるとか、人間嗅覚ではなく妖怪嗅覚を逆手にとって利用して払う例は多い。

 小松論文では具体例が挙げられていないものの「視覚的に本性を見ることが禁忌とされた状態特に暗闇の中で、何者かと一対一で対峙する状況において、重要役割を果たすのは、嗅覚聴覚・触覚である」という見解は、説得力を感じさせられるものであることは確かである特に、愛の営みに関しては、そうである人間がお互い裸一貫となって同衾する時、見た目の虚飾は、ほぼ通用しなくなるのだから。したがって、これら三感覚重要性が高まることは、必然であるように思われる。

 とはいえ「思われる」ということと、国文学などにおいて実際にどのように捉えられていたのかは、もちろん別問題であるから、これは検証必要があるだろう。あるいは(素人である私に言われるまでもなく)既に専門家の間では検証済みなのかもしれない。国文学中の、特に男女の愛の営みや語らいにおける三感覚が占める役割について、どのように描かれ、語られてきたのか、可能ならば識者の見解を知りたいものである

―――――――――――――――――――――――――――――

 さて、私は上で、男女の機微の話を後回しにして、妖怪の正体を識別する感覚的な手段の話をすると書いた。そこでいよいよ、男女の機微、すなわち異性のパートナーのことを暗闇の中で知る手段としての嗅覚聴覚・触覚の三感覚について論ずる順番がやって来た。といっても、上の文章を読んでもらえば分かるとおり、専門的な知見を私は持たない。そこで、識者の見解とは無関係に、今の私個人が思うところを書くことにする。したがって、これより以下は全くの駄文である

文字数制限のため分割したので、続きは⇒anond:20221023224411

44歳処女の末路という作品

https://www.pixiv.net/artworks/72648745

この人の作品は本当に凄いな

可愛い絵柄で、不美人な女の性欲と承認欲求という誰もが直視したがらないテーマを生々しく描いている

プロデビューしてメジャー媒体に載せられて、タコピー原罪のように話題になってもいいレベルだと思う


こういうふうに非モテ女性の性欲を描写した漫画には、私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!もあるが、

あれは途中からソフト百合漫画シフトしていったし、当事者からの「本当の喪女はこんなんじゃない」という声が強かったからなー

でも実際には女にも性欲はあるし、こういうふうにそれが満たされなくて異常行動をして周囲からハブられる女性絶対にいる筈なんだよ

この漫画で凄いのは、主人公の性被害体験を、主人公にとって全面的な不幸としては描いていないところ。

そこが山岸凉子天神唐草とも違い、現代的な深みを出していると思う。

薬で身動き取れなくされて、気持ち悪い男からAVと違う」などと屈辱的な事を言われレイプされて妊娠しても

『既婚子持ち』というステータスを得て他の女性と同等の立場に立った事に安堵を感じるという絶望的なまでのリアル

(続編を見るとまともな子育ては出来ていないし、高齢出産という事で周りから嘲笑われているが)。

一昔前と違い、女はとにかく結婚して子供を産むのが偉いし妊娠出産子育て社会を挙げて支援すべしという世の中になっちゃったから

残念なのはクライマックスのシーンに性描写が含まれるせいでR18になっている点だな

前後の部分だけを読んでもストーリーは繋がるが、睡眠薬を飲まされてレイプされる最中の嫌なリアルさは実際に読んでみないと分からない

ここをもうちょっとボカして描いていれば天神唐草のように全年齢で出せたと思う

秀和レジデンスってめぞんの響子さんの実家なんだよね

ほぼ数コマしか表示がないけど、高級マンションで、秀レジみたいな描写だった

https://news.yahoo.co.jp/byline/sakuraiyukio/20221021-00319716

anond:20221022121601

謙遜なのかもしれないけど自分のいいところとか魅力について描写されてないか

なんでこんなやつと夫は結婚したのか、

この描写だと容姿と初対面の印象だけで結婚したけど家事もまともなコミュニケーションもできないか

夫は後悔してるんじゃないか、としか読み取れないんだよね

自慢みたいで恥ずかしいのかもしれないけど、

職場ではうまくいかないけどどこどこでは仲良くやってますとか

こういうことは得意ですみたいな描写が少しあるだけで全然違ったと思う

2022-10-22

「生きづらい私は発達障碍者でした」の作劇について

なんか両極端な感想が多いのは、あえて主語を大きくして言うと「男性には忌避される」「女性は受容しうる」物語構成になっているからだと思うな。

https://anond.hatelabo.jp/20221022121601

この感想、読解について少し思うところがあったので書いておきたい。自分漫画よりも演劇とか脚本の方が馴染み深いので。

最初に書いておくと、他人様の人生他所のご家庭に物申せるほど人生を生きてないので、あくまでも"漫画"や"作劇"としての話になるよ。

コミックエッセイとしてどうか?

まず、エッセイなんだから随筆、いわゆる散文であって、そもそも構成パターンが無い。何しても良い。

そういう意味で、例えば三幕構成じゃないとか起承転結が無い、みたいな批判はできない。

別にエログロじゃなきゃいかんとか、カタルシスが無いと、みたいなのも無い。

商業作品じゃないから、売れ線かどうかも無視できる。

じゃあ、何を言いたいのか、それは伝わってるのか、という点だけ気にすれば良い。

その意味で、"ある特定の読者には受容される"お話の流れになっていると思う。

それが、"漫画が読めるハッシュタグ"と銘打つには弱いのがポイントだと思う。

作劇としてどうか

良い点と悪い点をリストアップしてみる。

これはそのまま、忌避される理由、受容される理由になる。

良い点
  • 努力するがうまくいかない、何故か嫌われるという質感
  • 生きづらさが、自分生得的なものだったという表現
  • 過去はやり直せないが、わが子の理解者として生きていこうとする前向きさ

最初に"受容される理由"からだけれども、共感を得られやす物語構成になっている。

多かれ少なかれ自身ではどうにもならない理由で嫌われたり上手くいかないことは、まあ良くある。

そして、それを克服するのではなく、受け入れる、その上で前に進むというのは、前向きなメッセージ性を持つ。

から特に前半の「生きているだけで嫌われる」という部分に共感する人には、とても良いコミックエッセイになっていると思う。

悪い点
  • 職場で虐められる描写のみで始まる
  • わが子への感想が「いじめられそう」
  • 自身の診断結果への感想が「ただ生きているだけなのに嫌われる」
  • 私が悪いわけじゃなかったんだ、さらに、わが子の理解であることができる
  • 祈りを込めて、わが子が笑ってくれれば自分も救われる、と結ぶ

次に"忌避される理由"だけれども、何の解決も行われていないから、に尽きる。

例えば、嫌われる理由最後まで明らかにならない。"生きているだけで嫌われる"ことが自明のこととして描かれている。

空気が澱んできた、という描写も、特に解消されない。なんかよくわからないけど嫌われる、そして虐められる、という流れが覆らない。

そうすると、わが子を見て「ただ生きているだけで嫌われることがありませんように」という祈りは、ゾッとする描写しかならない。

文字通り、祈ることしかしていないから。

なんなら笑顔じゃなくなったわが子と折り合いが付けられない可能性すら感じさせるコマで終わっている。

どういう作劇なら良いのか

コミックエッセイなんだから好きにしたら良いんだけれども)一般受けする形式に寄せる場合ね。

例えば、包丁を突き付けられるっていうのは結構インパクトがある。そんなバイトある?と思うかもしれないけどワリとある

俺は一度角材でぶん殴られたことがある。まあ、工事現場交通誘導に失敗したからなんだけど。

まあ、「ドタマかちわったろか!」みたいなのは、生死に直結してしま職場では結構ある。

から、例えば調理場で色々言われて慌てふためいて、フライヤーの油を高温のまま床にぶちまける、みたいな事故も起こる。

作業中閉めるな」と書かれた札をうっかり見落として、閉めて鍵をかけたうえで、定時に職場自分しかいないので困って鍵を持ったまま自宅に帰り、次の出社日に返せば良いかとノホホンとしていた実例を知っている。(警察沙汰になったが幸い閉じ込められた人は無事)

何でこんな話をしたかというと、「あの包丁を突き付けられたのには、実はこういう前フリがあった」という対比があれば、ずいぶん違ったと思うから

そういう意味では発達障害を持った人にとっては、これは"話を盛る"って部分にあたる。

「私が調理場に入ると、いろんな人にフォローしてもらっていた。それは私だけだったかも」とか。

「手順書や説明書理解できずに、いつも必死努力して自分なりに書類を埋めていた」とか。

事務職無視されるようになったきっかけは、自分では努力しても覚えられないので、同じことを5回ほど聞いた時だったかも」とか。

捏造してでも、「なぜ」を入れることで、「虐めや悪意」が「怒りや失望」に転換される。

忌避と受容

自分のせいじゃなかったんだ、発達障害から虐められたんだ、この子は虐められないと良いな、少なくとも私は理解者だよ。

これは、共感する人もいると思うし、受容されやすメッセージ性を持つと思う。

まったく同様の意味合いで、これがホラーの導入部だと受け取られたり、苛立ちをもって忌避される構造を持っている。

ある人が日本職場で生きづらい特性を持つ、そういう人も生きやすい世の中になると良いね、というのと

その特性職場のどこかに負荷をかけたり、ことによって生き死に関わる危険を持つというのは、同時に満たせてしまう。

でも、件のコミックエッセイにおいては、虐めとして表現され、自分のせいじゃなかったと安堵までされている。

受容の物語が、"自身の受容"以外を一切排除した形で描かれると、忌避感を持たれやすい。

これは、夫や両親、友人や過去の同僚への回想でも良いけれども、他者とのやり取りを通じてその受容が描かれると忌避されることがグッと減る。

例えば、今は特性理解のあるバイト先に行っています、とか。

もしくは職場では無くて人間関係で悩んでいたという前半部に置き換えて、いまは特性理解してもらえるよう人間関係を構築しています、とか。

他者を交えた分かりやすい受容の物語の方が、受け入れられやすい。

物語構成としてどうか

結構な数の物語が、ある障害を乗り越えるもしくは乗り越えられなかった、というパターンを持つ。

前半部で示された障害が「虐め」であり、乗り越え方が「受容」であるなら、オチは「許し」であろう。過去虐めていた人を許す。

前半部で示された障害が「生き方(労働)」であり、乗り越え方が「受容」であるなら、オチは「生き方を変える」であろう。労働以外に生き方を見出す。

まり、「生きづらさ≒虐め」を「受容≒私のせいじゃない」としてオチが「祈り理解者」とすると、次の展開は「わが子が虐められる≒生きづらい(≠私だけはわかってあげられる)」になってしまう。これは「虐め」という障害を、「受容」して乗り越えた結果になっていない。わが子にバトンが繋がってしまっているがゆえに、解消が行われなくなっている。

いまのままだと、わが子にも同じ苦難が待ち受けており、特にそこに救いはない。

(辛い時期に「お前も結婚して子供を持てば救われるよ」と母から言われるのってバッドエンドでは?)

逆に言えば「わが子が虐められる≒生きづらい≒私だけはわかってあげられる」にするのであれば、障害は「誰もわかってくれなくて苦しい≒理解者がいなかった」にする必要がある。

この場合は、「理解者がいない」という障害を「診断結果を受け入れた自分理解者になる」ことで乗り越えて、オチが「わが子には理解者がいる(私はダメだったがこの子大丈夫)」になる。

まとめに代えて

エッセイなんだから自由なんだけど、狭い読者層向けのつもりで一般的な人に読まれハッシュタグをつけると、齟齬が生じて疲弊することがある。

あんまりエッセイ漫画では乗り越えられなかったパターンを見ることは無いんだけど、実は演劇なんかだとそういうのも良くある。

まあ、「失踪日記」とかは乗り越えられていないパターンになるのかな。あれも他者目線が入ることでああ困った人だなあでも楽しそうだなあ関係者の皆さんは大変そうだけど、みたいな可笑しさが生まれていると思う。

そういう意味では作劇とか全無視して、とても良い質感のクソ職場の虐め描写と同じ質感で今の家庭の会話を描き出すだけでも、かなり一般からもらうフィードバックは変わると思う。

一部読者が「私はわかってるよ」とラブレターを出すだけで救われる作者が多いのは事実だけど、やっぱ一般受け狙うなら一般に受け入れられやす構成の方がお得よ。

anond:20221022121601

素人批評ごっこは「自分が知ってる事」だけがすべてだと勘違いする、というサンプル。

皆が散々指摘した「生きてるだけで 嫌われる」の次で結婚して子供産んでるアホな描写のどこに「普遍性」やら「説得力」やらを「読み解いた」んでちゅか?

発達障害グレーゾーンだけど、Twitterの発達漫画が嫌い

当方発達障害グレーゾーン

グレーゾーンって言ってもちゃん検査は受けていて、手帳取得を目的に動けばほぼ確実に取得できると言われているけど、たまたま今就いている仕事気質とあっていてとりあえずはサラリーマンをやれているので、また人生に躓いてどん底に行くような事態になるまでは取得は保留している感じ。

そんな身なので最近はてなでもバズってる某Twitter漫画発達障害女性なんかは割と立場としては近いのかなとは思うんだけど、ただ俺はあの手の漫画気持ち悪くて読めない。

あの漫画増田話題からちょっと気になって目を通してみたけど、初っ端から「うわっ、キッショ!」ってなって流し読みしかできなかった。

近い立場からこそ健常者じゃ言いにくいであろうことを思いっきり言っちゃうけどさー、序盤の職場人達に叩かれている描写とか、あの手の被害者意識がキッツい場面がどうしてもダメなんだよね。

周囲の人間を「発達障害可哀想な私を叩いてくる嫌な奴等」と見てるのがありありと分かる描き方が本当にキツくて、読み進められない。


俺は基本、発達障害だろうが他の先天性障害だろうが、一対一の人間関係において他人迷惑をかけたら恨まれて叩かれて当然だと考えているので、自分が周囲に迷惑かけていることを自覚しながらそれで怒られたら逆恨みして、漫画の中で嫌な奴って風に描写してやろうとする性根は腐ったモノとしか見えないんだよな。

自身自身発達障害寄りの気質が原因で周囲に迷惑かけたことは人生で数え切れないくらいあるけど、原因がなんであれ他人迷惑をかけたら相手に対して申し訳ないという気持ちがまず先立つ。

ごめん本当は半分以上、嘘。内心では「うっせぇ、俺にだってどうしようもないんだからしょうがねぇだろバーカ!!」とかバリバリ考えてる。

でもそれは、「悪いのは自分」と認めた上で、でもイチイチ真正から受け止めていたら精神がもたないか生存戦略として自分勝手に開き直ることを自分に許しているというだけで、「加害者自分」「被害者相手」という構図自体ちゃんと受け入れているよ。

俺達を加害しているのは、俺達を発達障害に生んだ運命とか、神様とか、まあどうしても当たる先が欲しいなら親とかであって、目の前の職場の同僚とか現代社会とかそういうモノじゃない。

俺達はむしろ被害を与えている側。

そういうことが理解できずに、周りを悪者扱いしている奴を見るとハッキリ言ってイライラしてくるんだよな。

(某漫画包丁向けてくる店長みたいなのは迷惑かけられた報復にしてもやり過ぎだと思うけど)

「生きづらい私は発達障碍者でした」を読み解く

「生きづらい私は発達障碍者でした」というタイトルツイッター掲載された漫画がある。名指こそされていないが、この漫画を痛烈に批判したはてな匿名ダイアリー投稿がここ数日、バズっている。

私はこの投稿を見て、元の漫画を知った。この漫画はもちろん描写は拙いし、よく書かれているわけではない。しかし、私は作者に書きたい内容があり、そこにはある程度の普遍性があり、結果としてエンタメになりうると思った。この漫画自分なりに読み解いてみたい。作品と、それに対する酷評へのリンクは一番下に載せてあるので、背景を知りたい方は先に見てみてほしい。

作者は何を伝えたいのか、そしてそれは伝わっているか

この作品は以下の流れで進行していく

1. 若い頃、仕事がどうしてもできない。努力をしてもうまくいかず、職を転々とする。

2. 結婚し、仕事を辞める。子ども生まれる。子どもが成長し、発達障害と診断される。

3. そこから自分発達障害かもしれないと思い、自分もそう診断される。

4. これまでの自分の生きづらさは自分の怠慢のせいではなく、発達障害のせいなのだと知り、気持ちが楽になる。

5. 自分人生はやり直せないが、せめて子どもを同じ発達障害を持つ身として親身になって支えてやれるかもしれない、という前向きな気持ちになる。

まずはっきりさせておきたいのは、この漫画では主観的に(もちろん客観的にも)発達障害を克服する(した)描写はない、ということだ。ライフハックを駆使して職場でのパフォーマンス改善したとか、婚活してなんとかいい男を捕まえて、家事だけして楽に生きられるようになった、という話は書かれていない。批判にあるような(王道漫画における)主人公の奮起・成長・挑戦・勝利などはこの作品に全く関係はない。そもそも作者自身発達障害を克服できていると思っていないのだから

たこ作品に、理解のある彼くん、という要素を見出すのは筋違いだ。そもそも結婚して子供が生まれた、というだけで、果たして夫が発達障害理解があるかすら書かれていない。伴侶ができたか人生が楽になった、という話にはなっていないのは明らかだと思う。

この作品において作者は自分発達障害を克服することはできず、また辛かった過去をやり直すことも出来ないが、発達障害を認め、前向きな意味(同じ発達障害を持つ子ども理解してあげられる)を見出す。これは受容の物語として読むべきだと思う。


ある意味で焦点がはっきりしている(必要な要素しか書かれていない)のでこの物語を克服者・成功者の語りとして読む人は理解できない。以下においてはこの話を受容の物語として読み、その普遍性について語っていきたいと思う。

このテーマ普遍性はあるのか?

あると思う。少なくとも私には感じ入るものがあったし、発達障害もつ人間にとっては十分に共感できる作品だと思う。

私は(診断こそされていないが)明らかにADHDで、中学生高校生の頃には大変苦労した。当時は発達障害という言葉一般的ではなかったので、この作者のように、怠慢であると周囲に思われていたし、そのため自己評価が本当に低かった記憶がある。

この作品を読んで、大人になり、ADHDという言葉を知って衝撃を受けたことを思い出した。自分宿題を出したり、授業に集中できないことは自分が悪いのではなく、あくま発達障害というものだったのだと知ることで、自分過去をやり直すことはできなくとも、何か気が楽になった。また、ADHDのことを知ることで、自分の将来をより良いものにしよう、という前向きな気持ちができた。

このような経験は、発達障害を持つ人間には珍しいものではないと思う。少なくとも発達障害という言葉を知らずに、自責の念に苦しんでいた人には刺さる内容なのではないか、と私は考える。

発達障害文脈を超えた普遍性はあるか?

私はあると思う。どうしようもできないこと(発達障害に限らず)があって、それを克服できないまでも、そのことを前向きにとらえよう、という話は小説映画などによくあるテーマだ。

私の好きな映画に「海よりもまだ深く」という映画海街diaryと同じく是枝裕和監督)があるが、これもまさに上のようなテーマで書かれている。一冊だけ売れた冴えない小説である主人公が、自分人生を受け入れられずあがくが、裏目にでるばかり。母、別れた妻、子どもとの一夜を通じて、自分の上手くいかなさを受け入れ、前向きに背筋を伸ばして歩き出す、というのがこの映画シナリオになる。この映画前後主人公の状況は何もよくなってはいない。ただそのままならない状況を受け入れ、そこから一歩踏み出そうとすることが作品における救いになっている。

この例のように、うまくいかない自分を受け入れ、前向きに歩き出す、というテーマフィクションにおいては特に奇異ではないテーマだ。「生きづらい私は発達障碍者でした」という作品は、描写稚拙で駆け足であるという問題点はあるにしろ、その伝えたいテーマ普遍的で、エンターテイメントとして成立しうる要素があると思う。

終わりに

昨今、強い言葉作品を斬って捨てるという批評がもてはやされる傾向にある。しか作品を読むということはもっと地味で、注意を要するものではないか私自身は何か批評の専門的な教育を受けたわけではないが、作者の意図理解し、誠意をむって向き合うことをしてきたつもりだ。この文章を通じて、作品を虚心坦懐に読み、丁寧な読解を心がける人が一人でも増えればと思う。

以下に作品へのリンクと、はてな匿名ダイアリー投稿リンクを載せておく。

https://twitter.com/fukufuku_diary/status/1581977574023913472

https://anond.hatelabo.jp/20221020011014

またはてな匿名ダイアリーの中で一人、簡潔にいい批判をされている方がいたので、その人の投稿へのリンクもここに載せておく。自分と同じことを考えている人がいたので、少しほっとした。

https://anond.hatelabo.jp/20221020130547

anond:20221021185448

少なくとも人生辛いがコンテンツテーマのはずなのに、突然幸運が降って湧いてそれを幸運とも何も描写せずに「人生辛い~」の話を続けられても何言ってんだコイツ?となるよな

コンテンツテーマ構成のズレの違和感はある

でもその結婚自体別に幸運とも幸福とも認識してないってことなんだろうな

漫画の人だって結婚=怒られなくなっただったし

結婚って不安も期待もあるだろうにその感情がすとんと抜け落ちている

2022-10-21

RPGでたまに「こいつら殺ってるのか……」ってなる話

最近小学生くらいぶりにRPGにはまっててさ

今年の正月にやったクロノトリガー魔物の村の道具屋用心棒的なのを倒したら、「ア、アニキが殺られた……」って言われて

「あっこいつら普通に殺してるのか……」ってすごい今更だけど怖くなった

倒したボス死ぬのはまあいいんだけど、ランダムエンカウントのザコ敵を倒しても死ぬってまあ当たり前だけど結構怖いな

最近やったブレイブリーデフォルトってゲームと、シャイニングレゾナンスってゲームにもザコ敵をちゃんと殺してる描写があって、ふと思い出したから書きたくなった

でもウィッチャー3とかゴーストブツシマとかベヨネッタとかは気にならないんだよな

何が違うんだろうな

anond:20221020144227

釣りだと思って読んでいる

描写に具体性が少なくて妄想で書いてる節が強い

2022-10-20

なら『表現の自由戦士』は間違ってたってこと?

フェミニストです。ウマ娘ときから表現の自由戦士』の態度に疑問でした。

自らの権利物エロ表現を発表したり、逆にエロ表現禁止と決めるのも、どちらも自由行使

かにウマ娘USJも態度は一貫してるね。なるほど。

でもそれなら『表現の自由戦士』は間違ってたってことになるよね?

フェミニストは「女性の権利尊厳」を守るために、必要なら声を上げる勇気を持つけど。

表現の自由戦士』が守護してるのは別に表現の自由ではないってことね。

だって、「なんの権利も持たない外野が辞めさせようと口を出してきた」と仰るけど、クレームを入れるのも表現の自由権だもの

あなたたちが守ってるのは、何?

これからあなたたちをなんて呼べばいい?

anond:20221020105010

表現の自由戦士』の新しい名前

私も考えてみようと思う。

エロ表現の自由戦士

かつて私もこんな風に読んでいたことがあった。

だけど、ウマ娘USJに「このくらい受忍限度だろうが」とか「アウトの境界線曖昧お気持ち」と突っ込んでいかないところをみると、この呼び名は誤りだ。ごめんね。

アンチフェミ

今回もフェミニストの一発言に食ってかかってるし、アンチフェミでいいのではと思った。

でも、スポーツ大会レギュレーションだとか女子トイレ更衣問題で必ずしもTERF、フェミニストの敵側に回ってるわけではないようなので、この呼び名も誤り。

ミソジニー

多くの『表現の自由戦士』が声を上げた女性に対して露悪的に振る舞うので、ミソジニー動機なのではと訝しんでる。でもアツギなどの女性担当者を庇うこともあるので、必ずしも当てはまるとは言えないし、言動の表れる第一活動実態と内心の動機別に判断すべきだ。活躍してるフェミニストだって動機ミサンドリーの人も結構多いし。

フィクション保護主義

ローレンの「ファビョる発言炎上したときほとんど『表現の自由戦士』は反応しなかった。

増田も"権利者"と言ってることから、彼らは著作権に関する何かを重視してるんだと思う。ただ、けものフレンズ2が猛非難されたとき(好きなのに…)まったく『表現の自由戦士』は動かなかったよね。ヘイト創作のようなものも、お祭り騒ぎで楽しんでいたようだ。彼らは、罵倒ヘイト冷笑否定と、やめてほしい・注意・クレーム・怒りを分けて扱う。しかし、萌え絵のこの描写性的消費だ、というレビューには強く反応する。奇妙だ。これは前者のカテゴリーではないのか。

ポリコレ

ひょっとして、フィクション広告も含む芸術に触れるとき、心の中の真面目さを刺激されるのがイヤなのか? それが社会弱者ダメージを与える可能性を考えたくない、とか。ノブレスブリージュを放棄して、マジョリティ既得権益である心理的安全性謳歌したい、と。だとすると『反ポリコレ』の呼称が適切だ。ディズニーマーベルら、著作権権利者が自分たち意思キャラクター多様性をつけようとしたり、アニメ聖闘士星矢キャラ女体化権利者の同意があるにもかかわらず批判された。批判者と『表現の自由戦士』は層が被っているのではないか

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