はてなキーワード: 駄々っ子とは
実を言うと、普通のプログラマはオブジェクト指向以前のプログラミングも理解できないんだけど、あれらはまだ手続き的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。
それまで手続き的な要素+宣言的な要素だったプログラミングが、関数型プログラミングへと移行する時に手続き的な要素を切り捨てたのね。より純粋な手法に進化するために。
だから、それまで手続き部分だけを受け取って喜んでた普通のプログラマは急にわからなくなりヒステリーを起こした。
だけど、プログラミング上級者はオブジェクト指向以前にも宣言的な部分しか見てないから普通のプログラマが何を騒いでるのかわからない。
普通のプログラマって、部品化の凄いやつが関数型プログラミングになるとか勘違いしがちだけど(staticおじさんもその変奏)、全く質の違うもの。
部品化って、重複コードをひすたらサブルーチンに括り出すようなもの。副作用がある。
日本のSIer(日立NEC富士通とか)って教養がない極東の田舎者だから、副作用を理解できない。すぐに「部品化」を持ち上げる。怖いんだろう。自分に理解できないプログラミングが。モナドですら大多数は理解できないんだもの。あんな教科書的なものですら。
とにかくアジアってIT後進国なのね。トップの日本ですらこうなのだから。"NTT"データがHaskellでレガシーシステムを脈絡なく解析してホルホルしてるレベルだもの。
まず日本に生まれた時点で、関数型プログラミングを理解するには圧倒的に不利。こんなこと言うと、「普通のプログラマにもわかやすく説明できるのが一流ダー」みたいな恥ずかしい駄々っ子が沸いてくるけど、プログラミングって歴史上一度も大衆を相手にしてないので。
OSSの恩恵で、普通のプログラマもコンパイラを無料で使えるようにになっただけで泣いて喜ぶべき。
そしてあれは、将来のスポンサーとコミッタの入り口としてやってるの。1000人に1人、将来コミュニティに貢献する人材がいるかもしれないと信じて。
シリコンバレー住人にもOSSコミッタにもなれない普通のプログラマはまあ、おこぼれで"文化的"コスプレしてQiitaでもやればいいんだと思うよ。
この増田にしても、低能先生にしても、「自分は理不尽な仕打ちを受けた」→「だから自分も誰かに理不尽な仕打ちを与える権利がある」みたいな認知の歪みがどこからくるんだろう。
いじめで受けた心の傷は(自分の体験から考えても、おそらく一生)消えない。
でも、そこから回復するには「見知らぬ誰か、自分とかんがえの違う人をひたすら攻撃すること」ではなく、まず「自分が望む幸せを得よう」と思うことなんじゃないのかな。
誰かを攻撃することにのめり込むって、多分脳内物質とかも関係してると思うけど、リスカみたいな自傷行為の一環なんじゃないのかな。
誰かの足を引っ張って、自分と同じ境遇にしたら、この増田は幸せになるんだろうか?
こう書くと「お前が幸せだからだ!憎い!上から目線!」とかって言われそうだけど。
少なくとも他人に攻撃したり、呪詛をかけてる状態を幸せだと自分は思わないから、そういう意味では幸せだけど、社会的な地位で言えば鼻くそみたいなものだよ。
ネット上の見知らぬ誰かを叩いたり攻撃したり、勝手に恨みを募らせるより、自分の足で自分を幸せにしようって思わないといけない。それを放棄してるのは単なる駄々っ子。
あの日武道館で『輝きのエチュード』を聴きながら、左隣りの人も右隣の人も、嗚咽を漏らして泣いていました。私も泣いていて、まともにサイリウムを振ることすらできませんでした。会場中から鼻をすする音が聞こえてきました。でも、こんな企画をやられてしまうと、あの武道館は一体何だったんだろうと、そう思わざるを得ません。
別に「卒業」したはずの歌唱担当が『アイカツ』のイベントに登壇することに文句を言いたいわけではありません。「あなたたちは卒業したので来ないでください。歌は全部声優が歌います」なんてことになったら、それこそひどい話です。だからそういうことではなくて、「5周年」にかこつけてイベントを乱発すること自体が問題だと思うわけです(というかもうすぐ6周年じゃないですか?)。「思い出は未来の中に」ではなかったのか。「同じ光のなかこれからも 迷わないでわたし歩いていける」と、あの日誰もがそう思ったのではなかったのか。「心に集めるたくさんの永遠」とは、「いやあアイカツは素晴らしいね尊いねいつまでも終わらないね」と定期的に執拗に確認しないと消えてしまうような「永遠」だったのだろうか。これではまるで、星宮いちごのアメリカ行きを無理矢理引き止めているみたいではないか。なんでも弁当もスターライト学園も全部放ったらかしにして、無理矢理マスカレードをステージに立たせているようなものではないか。霧矢あおいが、光石織姫が、星宮りんごが、一体そんなことをするだろうか。大げさかもしれませんが、そう考えてしまいます。
東日本大震災が起きたあの日を契機に、『アイカツ』は「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」を目指してきました。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」と。
——その後、ゲームおよびアニメの企画は、どうなったのでしょう?
(加藤陽一)大きな転機になったのが、東日本大震災です。コンセプトを固めている最中の2011年3月に、東日本大震災が発生しました。地震が起きた瞬間、僕は東京・浅草のバンダイ本社で『アイカツ!』の会議に出席していたんです。地震で電車が止まったので、車で来ていた僕が3人に声をかけて、皆を送っていくことになりました。TVで原発や津波のニュースを見ながら進むうち、都心で車も動かなくなっちゃって。結局浅草を出て、皆を送って23区内の家に帰るまで12時間位かかりました。そのとき一緒にいたのが、アニメ『アイカツ!』の若鍋竜太プロデューサーと企画スタッフです。車に缶詰状態で、8時間から10時間ぐらい、地震の影響を目の当たりにしながら、皆で『アイカツ!』のことを話しました。まるで合宿みたいな濃い時間でした。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」という話もその場で出て。それを受けて書き直した企画書の内容が、そのときの僕らの思いを込めたものだったんです。
——どんなふうに変わったのでしょうか?
ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになったんです。「トップアイドルを目指すスポ根サクセスストーリー」の部分はそのままに、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」と、企画をブラッシュアップしていきました。この段階の企画書に書いてあることは。現在のところほぼすべてが、作品内で実現しています。あの震災が、『アイカツ!』という作品にとっての転機だったと思いますね。
そして『アイカツ』はたくさんの人を「温かくて前向きな気持ち」にし、たくさんの人が前へと進みました。「今日が生まれかわるセンセイション」、「いつだって、ここから、あたらしい夢 どこにだって行けるよ!」。『アイカツ』を観たたくさんの人が「素敵な明日」を迎え、「未来向きの今」から未来へと全力で走り出したはずです。『アイカツスターズ』もそうです。あれだけの作品を前にして、前作とは別の方向へと舵を切るなど、並大抵の覚悟ではできません。巴山萌菜さんもそうです。私は詳しい動向を追ってはいませんが、TVドラマ『賭ケグルイ』のOPを歌っていたようですし、ワンマンライブもやっていたと思います。STAR☆ANIS/AIKATSU☆STARS!から卒業し、自分の決めた道で頑張っています。
それが、何故こうなるのでしょうか。別にイベントをやるなとは言いません。「卒業」した歌唱担当を呼ぶなとももちろん言いません。ただ、何故今なのか。10周年や20周年まで待てないのか。これではまるで、私たちに「明日を信じる力、未来への夢」なんかないのだと言わんばかりではないか。全く「未来向き」じゃない、完全に過去を向いている。私にビジネスの知見はありませんが、商業的に考えてもこんなやり方では長生きできないと思います。
昨年9月、甘粕試金氏によって『この幼形成熟の世紀に』と題された原稿が公開されました。当時それを読んだ私は「言いたいことはわかるし何も間違ってないと思うけど、アイカツのファンダムはそんな人ばっかりじゃないのになあ」とかなんとか思っていました。でも、どうやらもうそんなことを言ってはいられないみたいです。
『アイカツ!』が放送終了して新シリーズ『アイカツスターズ!』が始まった今『アイドル活動!』よもう一度とばかりに『アイカツメロディ!』が来ることの意味は、先述の原稿の論旨で言えば「和声」的解決を意味することになり、『アイカツ!』も円環的時間の気持ちよさによって欲望を生産する作品だったという結論にならざるをえなくなる。それを証し立てるきっかけになったのが「シリーズ5周年記念企画」の楽曲だったという事実は、フランチャイズの圏内にある作品がファンク的時間を持つことの不可能性をも証明してしまったのではないか。このことに私はほとんど嘔吐せんばかりになってしまったわけです。
「なんで和声的ならダメなの? 気持ちよければ良いじゃん」という問いに答えるには、それだけで一つのまとまった原稿が必要になるのでここでは書きません。フランチャイズに話を絞りましょう。ここ数年で最も忘れがたいフランチャイズ批判、高橋ヨシキさんが『ローグ・ワン』を前にして発表した「幼年期の終わり 〜さようなら『スターウォーズ』〜」を部分的に引用します
観客が耽溺し続けること自体を難ずる権利はぼくにはありません。〔中略〕それでも、観客を「耽溺させることを目的に」商品を作り、供給することは邪悪なことではないかとぼくは思うのです。
〔中略〕
なぜなら、それは観客を消費者へと変え、幼児化させ、駄々っ子のように振る舞うことを是とするものであり、その駄々っ子の口に好物を際限なく突っ込み続けることで、彼らを判断能力を失った中毒患者へと変える行為だからです。
〔中略〕
「前へ!」というのは、ルーカスだけでなく、どのようなクリエイターにとってもいちばん重要な姿勢だとぼくは信じています。その先に何があるか分からなくても、あるいはそれがどういう評価を下されるにせよ、とにかく 「前へ!」。これはクリエイターに課せられた祝福でもあり呪いでもあるのですが、「前へ!」という大前提は旧三部作でも、またプリクエルでも(プリクエルは実は後退していたわけではないとぼくは思っています。何度も言いますがコンセプトに対してエクセキューションが貧しかったのがまずかった)、そして部分的ではあれど『フォースの覚醒』にも共通していました。前へ!
〔中略〕
ところが『ローグ・ワン』は「もはや前に進む必要などない」という、ルーカスフィルム/ディズニーの宣言のように、ぼくには見えました。なぜ前に進む必要がないのか? なぜならそれを誰も望んでいないからです。誰も、 というのは『スター・ウォーズ』世界に耽溺することに慣れきった観客のことです(ぼくも含みます)
〔中略〕
興行的に、『スター・ウォーズ』が「前へ」進む必要がないことを『ローグ・ワン』は証明してしまったのです。
Crazy Culture Guide Vol,30-30,5(http://www.mag2.com/m/0001673228.html)
SWシリーズにまったく思い入れを抱いていないうえに『ローグ・ワン』も(ドニー・イェンがドン・キホーテ役をやっている映画なのだし)楽しく観ることができてしまった私は、当時「はぁ、そういうものなのかなぁ」程度にしか読めなかったのですが、少なからず前のめりに接してきた『アイカツ!』5周年企画に際して、これらの文章は「あっ、この状況を言ってたのか!」という今更の得心とともに蘇ってきました。「前へ」進む必要がないこと、それは「和声」的時間に閉じること、フランチャイズの体系に閉じること、円環的時間=手回しオルガンの歌に耽溺しきることを意味してはいないか。ベケットらを念頭に置いて「終わる必要がない」作品だと言うとき、それは「終わりが永遠に引き伸ばされる」作品の偽装された姿を言っていはしないか。それこそがフランチャイズの罠であり病ではないのか。という疑惧と危惧が一斉に襲ってきたわけです。これは単に「前に書いた文章と矛盾しちゃった」から狼狽えているのではありません。「あれっ、自分は《これ前にも聴いたことあるわ、良いわ〜、知ってるわ〜、延々と続けられる正当な伝統、良いわ〜》みたいなことに気持ちよくなりたくてこの作品を支持してたのか? そもそもこれってそういう気持ちよさを是とする作品だったか?」という、本質的な足場が揺るがされたことに原因があります。それも公式の「5周年記念企画」によって。
甘粕試金『この幼形成熟の世紀に』(http://petrushkajp.blog.fc2.com/blog-entry-165.html)
「アイカツ!シリーズ5thフェスティバル!!」を楽しめる人を悪だとは一切思わないですし、主催者がダメだとも思いません。もちろん、私が正しいとも一切思っていません。私も何かの手違いでチケットを手に入れたら、それはそれでそれなりに楽しめるんじゃないかと思います。そりゃあ声優と歌唱担当が揃ったら嬉しいです。生アフレコなんてしたら最高です。そりゃそうです。ただ、あの日「車に缶詰状態」で「合宿みたいな濃い時間」を過ごし、それを受けて書き直した企画書は、そこに込められた思いは、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」とは、こういう類のものだったのか。木村監督がプロットを書いた「大スター宮いちごまつり」のMCの「みんなの今日が、明日が、少しでも素敵になったらいいな」とは、「いつでも何度でも集まって際限なく盛り上がれる。いつまでも終わりを引き伸ばせる。ずっとここにいられる」という意味だったのだろうか。『アイカツ』が3年半、『アイカツスターズ』が2年かけて描いてきたことは、そういうことだったのだろうか。どうしたって、そう頭を悩ませずにはいられないわけです。そして、“「終わる必要がない」作品だと言うとき、それは「終わりが永遠に引き伸ばされる」作品の偽装された姿を言っていはしないか。”。このことは、常に考えるべき問題であると思います。
でも、ツイッターを見ている限り「歌唱担当戻ってくるなら純粋に楽しめばいいじゃん」「そんなにヒリつくことじゃなくない?」という人が多数派を占めているようです。だから私がおかしいのかもしれません。「めんどくさいオタク」なだけなのかもしれません。なので、「アイカツ!シリーズ5thフェスティバル!!」に行かれる方には、純粋に楽しんで来て欲しいと思っています。皮肉でも嫌味でもなく、本当にただ純粋に、楽しい時間を過ごしてきて欲しいと思います。アイカツファンの方々——あるいは演者やスタッフの方が読んでいないとも限りません——、お気を悪くされた方がいたら、本当に申し訳ありません。拗らせたアイカツファンの戯言だと思って、どうかご容赦ください。
まず最初に。
はちゃめちゃ長文だ。誤字脱字もある。
いい年して駄々っ子のようだとも自覚しているが、ここはそういう場所だと聞いたのでただ吐露していく。
私は母親が苦手だ
ありきたりな話だと思うが母親が苦手だ
私は生まれた頃から生粋のおじいちゃんおばあちゃんっ子だった。当時祖父母の家と自宅が目と鼻の先の距離だったこともあって、小学校に上がるくらいまでは自宅で過ごした記憶しかないくらい祖父母宅にほぼ住んでいた。
初孫で初めての女の子だったこともあり、蝶よ花よと祖父母は可愛がってくれた。頻繁に遊びに来ていた親戚も可愛がってくれた。それが母親は面白くなかった。
それもそのはずだ。自分にとっても始めての子供を姑に取られてしまったのだから。
この事が私と母親の根っこに未だに深く残っているのだと思う。
私も母もお互いへの接し方が分からず、当たり障りなく過ごしているうちに私が小学生に上がる頃祖父母宅とは遠い場所へ引っ越すことになった。
その辺りから徐々に、いや今まで溜め込まれていたものが少しづつ外へ出てくるようになってきた。
母は怒りを頻繁に爆発させた。
親は怒るものだというが、母の怒り方は常軌を逸していたと思う。
何に怒っていたかは分からない。職場や外で何か嫌なことがあったのだろう。そういう日は玄関を蹴りながら開け買い物袋から自分の荷物から全てキッチンに投げ捨て包丁でまな板をグサグサ刺し続けるのだ。
初めて目にした時はこのまま殺されるのかと思い体が動かなかった。今さらながら蛇に睨まれた蛙とはこの時の様な状態なんだと思う。
まな板にいくつもの刺した後が残るころ、気が済んだのか笑顔になり『うるさくてごめんねーごはん作るね』と言うのだ。いつも通りに。笑顔で。ついさっきまで包丁でまな板を刺していた人がだ。
この頃から母はやばい人だな逆らわないでおこうという生存本能のようなものが植え込まれていた。
他にもテーブルを蹴る。物を投げ捨てる。大声を出す様な事はわりと頻繁にあった。
母の出した料理に少しでも微妙な反応(上記の通り逆らいたくないので間違っても不味いなどは口にしてはいない)をすると食べなくていいと食事途中であっても膳を下げられた。なので食事中は大げさに『おいしい!今日もごはん作ってくれてありがとう!』とまるで『いただきます』を言うように言っていた。
幸いなのはどんなに起こっていても私や妹たちには決して手を出さなかった。なのでここまで書いておいてだが虐待されたとは微塵も思っていない。少し他の母親と違うだけだ。
まず始めに書いた私を小学校上がるまでほぼ祖父母に取られてしまったこと。
父がクソなことだ。
我が家が比較的裕福ではないこと、は父がクソなとこに繋がるので父の話をさせてもらう。
父は私たちを養うためにあまり家にも帰らず必死に働いてくれた。それは大人になった今有り難みが心の底からわかった。労働して家族を養うってものすごい大変だ。
それでも父はクソだった。
パチンコに入り浸り、出会い系をして、一回り下の子と不倫をして、借金を残して蒸発した。
父の話は以上だ。
あれだけ書いたが、私は母を恨んではいない。感謝している。父が蒸発しそれでも働いて私たちを育ててくれた。私が母と同じ状況になったらもっと駄目な母親になると思う。少しやばいけど尊敬する母だ。
それでも苦手なのはいまだに変わらない。
そんなことがあって、女手一つで育ててくれた母親にむかってと思う人もいるだろうが苦手なのだ。
嫌いではない。人として反りが合わない。
子どもの頃の母の言動がいまだに忘れられないというのもある。トラウマというには大げさだが、自分に向けられていないにしろ母親が包丁を振りかぶっている姿というのは忘れたくてもなかなか忘れられないものである。
例えばパチンコ店で働く親戚に対して、あんな所で働いて恥ずかしくないのかと言ったり。所謂『オネエ』が嫌いで、女の武器を使って姑息だと言ったり(そもそもLGBTにあまり理解がない)。階段でベビーカーを持ち上げて登っているお母さんが居たので手伝おうとしたら『私がベビーカー使ってたころは自分で持つのが当たり前だったんだから今の人たちも苦労しなきゃいけない。手伝わなくていい』と私の手を止めたりもした(そこで母に逆らいたくないあまり手伝わなかった私も同罪だ)。
それから、母に面と向かって『お前を育て直したい』と言われたことがある。
もちろん母なりに考えていて悪意のある言葉でなかったと思う。そう信じたいが、それを言われた子どもの気持ちは?
それを言われた瞬間に『今のお前は失敗作だ』と言われた気がした。
弁解させてもらうと私はいたって真面目な子だったと思う。ずば抜けて優秀だった訳ではないがほどほどの成績を取り。校則違反を犯した事もなく。教師からの評判もいい地味で真面目な子だった。働く母に変わり夕食を作り家事を手伝った。今思えば幼少期に埋まるはずだった信頼を必死で埋めようとしていたんだと思う。
それでも言われたのは『お前を育て直したい』だった。
少し他と違う、少し変わった母でも信じようと思っていた気持ちがそこで切れた気がした。
崩れたんじゃない。切れた。
母への想いがそこで終わった。
尊敬はしている。育ててくれた恩も感じている。だけど終わっている。
母は今再婚して、義父となった人と暮らしている。私も妹もみな家を出ているので母の現状の暮らしがどうなのか詳しくは知らない。
義父が地方の出身で将来的に地元に帰るので、母も付いていくのだという。
あの人の人生は幸せだったのだろうか。これから幸せになれるのだろうか。
私はあの人から産まれてあの人に育てられたのに、もう終わってしまったからそんな事をぼんやり思うしか出来ない。
ごめんなさい。
育て直せればよかったね。
癇癪持ちで辛い
定期的に凄い癇癪じみた怒りがやってきて、理性が無くなりかける
人との会話時の何気ない一言や過去の嫌な事がフラッシュバックした時、自分でもわからない激しい感情が湧き上がる
そんな時、脳内では「今ここで駄々っ子みたいに暴れたい」とかそんな事しか思い浮かばなくなる
怒りを忘れたり、聞き流せる人って羨ましい
俺はすぐに発火して飛びかかりそうになるし、その後も心の中で燻り続けていきなり変なタイミングで爆発する
爆発したらもうダメだ、早口でまくし立てて相手が困った顔や怖がった顔、呆れた顔で黙るまで止まらない
場合によっては殴りかかったりすらする
カウンセリングや薬とか色々試したけど駄目だった、未だに人と付き合う時にこれで変な空気にしたり最悪COされたりする
俺は池沼なのかもしれない
どうせ子供なんて出来ないし、そもそも嫁になる女なんていないだろうけど、
天文学的な確率で結婚して子供が出来たら、確実に虐待親になるんじゃないのか
子供の何気ない一言や泣き声ですら、虫の居所が悪いときに聞くと今すぐその子供にマウント取って顔面潰したいとか思う事あるし(でも出来ないチキン)
というか彼女出来ても同じだわ、DVモラハラ野郎になるわ絶対
生きてちゃいけない人間なんだろうな、俺は
http://b.hatena.ne.jp/entry/hakata.ed.jp/highschool/_common/pdf/20171002.pdf
について。校長の文章に不可解さを覚えている人が多数いるようなので解説してみたい。結論から言えば、「SNSにアップした生徒を更に強く指導する必要がある」という見解は十分ありうる。というか、教育現場の判断としては十分正しい。
今回の件、講師が新任だということで納得したが、一般人として見るなら大変気の毒な先生に見えるとは思うが、教員として見るならあの対応は未熟の誹りを免れない。動画を見る限り、クレームをつけている生徒を無視して授業を継続しようとしているようだが、実際に店舗などでクレーム対応に従事した経験のある人なら分かるとおり、この「黙殺」という対応は悪手だ。相手が社会的経験を積み忍耐力が十分以上にあることを期待できるかあるいは力関係で圧倒的に弱い相手に対してなら有効かもしれないが、いきり立って席を立ち教壇までやってくる生徒には、明らかにそのどちらも期待できない。ここは、少なくとも授業を止めて相手と向き合い、一対一で目を見て、相手に椅子に座るよう指示し、その上で話すなどの対応が必要だった。にも関わらず、相手を黙殺した上に、背中まで向けるとは!!
…そこから見るに、今回の件は、おそらく普段の人間関係などからくる油断もあったのだろう。生徒も、怒りに我を忘れて暴力をふるうというよりは、ただ駄々っ子が親に手を挙げるような甘えたつっかかり方に見える。このことから、普段から冗談に任せるように背中を叩いたりパンチの真似をしたり(そういうことをさせては絶対にいけないが)するようなコミュニケーションがこの二人の間にあったのではないかと想像する。講師の側では生徒とコミュニケーションをとっていたつもりだったかもしれないが、それは実はマウンティングである。生徒の中には、「相互に信頼や敬意を持ち合う」といった人間関係を形成できず、ただ身分の上下や力の強弱といった人間関係しか理解できない生徒もいる。新任(身分が低そう)や気の弱そう(力が弱そう)な「センセイ」に、からかうようにマウンティングをしかけてくるのは、大体そういう生徒だ。そして、それは今回のようにエスカレートしたとき「暴力事象」として大事になってしまう。が、本人としては普段のマウンティングが少し行きすぎたという程度のつもりなので、改めて「暴力をふるった」と言われても十分指導が行き届かない。想像でものを言うことにはなるが、こういう場合も、実は指導者の側の未熟のためにこういう事態に立ち至っているのである。
ここまで述べたことは、この講師の先生を責めたいという趣旨ではない。本来責任を負うべき立場にはない講師の先生がこういう生徒に対応しなければならないほど大変な現場なのだろうし、それだけに教諭と管理職の方々は、いっそう忸怩たる思いでこの事件を受け止めているのではないかということを言いたいのだ。
今回の動画を見て、大半の方は「修羅の国の暴力教室」みたいなイメージを受けたのだろうか? 警察沙汰にしろ、とか、厳しく現実を教えるべき、みたいな意見を見るに、多分そうなのだろう。だが、個人的にはこれは「やや指導規律の甘い学校で、かつ講師が若いため生徒をコントロールし切れていない教室の状況」であり、極論すれば「ごくありふれた」日本の高校の一風景に過ぎないように感じる。全国どこでも、学校の指導規律が数年間甘くなり、そこに生徒をコントロールし切れない(個人の資質能力だけでなく「講師」や「新任」という肩書きも含め)教員が配置されれば、簡単にこの風景は現出する。おそらく生徒指導のプロフェッショナルな先生なら、このビデオを見て「そりゃそうなるだろうよ」と思ったことだろう。
要するに、これは「起こりうる/よくあること」なのだ。この生徒は持って行きようによってはまだ「なんとかなった」生徒だし、教員も「もう少しなんとかしないといけない」、その意味で忸怩たる思いを抱える、それが教育関係者の実感ではないだろうか。これは「教育の悲惨な現状」などではなく、いわば「ケアレスミス」に近い、教育現場によくある失敗の一事例なのだ。自分自身のちょっとした認識の甘さ、生徒把握の甘さ、指導規律の緩み、態度や言葉の綾のせいで、大丈夫だと思って対応していた生徒が突然牙を剥いてきて、あわや大事になりかけて慌てる……それなりに経験のある教育関係者なら、一度や二度は目にし経験しもしてきた風景なのではないだろうか。
そう考えるなら、教育関係者の目線が、暴力を振るった生徒と講師の方にではなく、今度は周囲でこれを笑っている生徒たち、そしてビデオを撮影しネットにアップした生徒、そちらにある大きな問題に向かっていく、ということも理解できるのではないか。なぜか。まず笑っている生徒たちは、激昂している彼が「次に何かしたら退学」と言われていることくらい知っていただろう(そういう話を内にとどめておくことの出来る子はああいう荒れ方をしない)。多少荒れた学校であっても、そういう生徒が教員につっかかっていったら、普通は何人かの生徒がそれを止めに入らなくてはいけない。なのに、止めるどころか「笑って放置」されている。つまり、彼はクラスメイトに完全に見放されているということだし、クラスメイトはそんな彼が高校をやめることになるだろう状況を見て無視ならまだしも冷笑し、(こう言ってよければ)自分たちの気晴らしネタとして消費している。クラスがこのような状況にあるというのは、率直に言って担任によるクラス運営の失敗だ。あのクラスの担任は今頃泣きたい気持ちでいると思う。「あの教室の生徒全員を指導しなくてはいけない」と喝破したブコメもあったが、おそらく教育関係者と推察するその意見、真にもっともである。少なくとも、あの場に自分の子どもが座っていると想像したら、誰しも自分の子育ての失敗を真剣に疑うのではないだろうか。
そうして、件のSNSに投稿した生徒である。彼のことを「内部告発者」扱いしている人が多いが、これは失礼ながらただ事件を外部から眺めているだけの立場からの意見と感じる。この生徒は、上に上げたようなクラスの一員であって部外者ではない。彼はこの状況を、他のクラスメイトのように無視し冷笑するにとどまらず、積極的にネタとしてインターネットに放流したのである。ネタとしてそれが炎上するであろうことは想像に難くない。単純にその場でネタとして消費する以上にやっていることは悪質である。それだけではない。彼はその行為によって、暴力を振るった生徒の退学を世間に宣伝し、振るわれている教員を晒し者にし、それらをネタとして消費しているクラスとクラスメイトの退廃を笑いものにしているのである(しかも自分は姿を見せずに)。彼が善意の人であることは期待できない。なぜなら、彼もまた、使うはずのない授業中にiPadか自分のスマホを取り出して撮影しているのであるから。自分のやっていることは件の生徒と同じ行為だということを、彼が認識していないはずがないからである。その意味で、この生徒はそもそも件の生徒を馬鹿にしたり批判したりする立場には全くない。にも関わらず、暴力をふるった生徒、教員、クラスメイトを嘲り傷つけるような行為を行っていることになるのだ。
このことを彼が自覚しているかどうか分からない。だが、自覚していようがしていまいが、彼のやったことはそういう行為だということに「なる」。彼はこの後も学校生活を普通に送るはずだが、それだけに、自分がどのような行為をしたことに「なる」のか、厳しく彼には自覚を求める必要がある。でないと、クラスメイト、退学になった生徒、そして件の教員が彼をどういう目で見るか、理解できないことになってしまう。
我慢の効かない子どもが保護者にかんしゃくをぶつける行為と、一時のかんしゃくを世間に永遠にさらして笑いものにする行為と、どちらが罪深いか? 人によって感じる罪の軽重には差があるかもしれないが、「より自覚が少ない」という意味で、後者をより「厳しく指導」することは、教育的判断としては十分ありうることである。でないと、この生徒のこの後の学校生活は真に悲惨なものになりかねない。
以上を踏まえて、考えてみるとどうなるだろうか。校長が的外れだとか、更には「馬鹿」だとか気楽に罵っている方々には、こういう教育現場の緊迫感は遠い世界の話なのだろうとは思うが、今回の件に関する学校のこの声明から、事件の正確な分析、原因への理解とともに、今後行うべき対応をしっかりと考えていることが伝わってくるのではないだろうか。更に言えば、上で上げたような事件発生への「無念さ」も。それと共に、このようにモノがよく分かっている人がいてもこういう事件が起こってしまうほど、学校が大変な状況にあることについて、どうしていけばいいのか少しだけでも考える人が出てくれれば、この文章を書いた意義があったことになる。
今回の件は、大事にするような話ではないし、できれば速やかに消え去ってくれればよい。暴力を振るった生徒、振るわれた先生だけでなく、あのクラスの生徒、ネットにアップした生徒のためにも、それを祈っている。
長々と拙文におつきあいいただいたことに感謝したい。筆の走った部分も多々ある。また、こうして文章を書くこと自体が晒し上げの一種というご意見、これもごもっともである。
それらを含め、ご批判は甘受したい。
(追記)
福岡県内の中学校で、男子生徒(14)が、男性教員(46)の顔を拳で数回殴る暴行を加え、顔面打撲の傷害を負わせた
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171003-00010010-nishinpc-soci
ワンピース好きのDQNはアニメオタクを見下していた。アニメオタクだけはワンピース好きのDQNである自分より下でなければいけなかった。そして、ワンピース好きのDQNの代わりにいじめられるべきだと考えていた。
ワンピース好きのDQNは、極端に自分がマイノリティになることにおびえていた。自分はマジョリティ側の人間であり、自分の考えは常識であり、そのことをアピールしたかった。常にそうしていないといつ周りから白い目で見られるのかわからなくて怖かった。周りの目気にしすぎて自縄自縛になりそのストレスで自分より弱いと思い込んでいるアニメアイコンをさげすむようになった。
ワンピース好きのDQNが言うには、ワンピースは現実的なテーマを取り扱っているから許されるがアニメオタクは幼稚で現実逃避をしているから許されないという謎の理屈を述べていた。このように、このワンピース好きのDQNはとにかくアニメオタクを見下したくてしょうがないようだった。
いじめに怯えて一番過激に弱者をいじめる人の話があるが、このワンピース好きのDQNはまさにそんな感じなのだ。ほかの一般人らしい人がドン引きするほど、一生懸命アニメオタクのキモさや現実の見えてなさを語った。
また、このワンピース好きのDQNは誰も聞いてもいないのにアニメオタクに向かってワンピースの素晴らしさを語りだした。絶対に一般人にはこういう話できないんだろう。アニメオタクを馬鹿にしているからこそ饒舌になったのだろう。、仲間か自分より下とみなしてる人相手の時だけ饒舌になっていった。
ワンピースにもアニメにも興味のない一般人から見ると、どちらも同じくらい気持ち悪いと感じたようだった。
ワンピース好きのDQNは「僕はオタクだけど常識を持っていて現実認識があります」というのをアピールしたくてたまらないようだった。だから僕はいじめられないんだと。 そういうウソを信じるために、どうしても気持ち悪いからいじめられても仕方ないアニメオタクという存在が絶対に必要だったのだろうってことが透けて見えてきた。このワンピース好きのDQNが一生懸命語れば語るほど、周りの人はこのワンピース好きのDQNは現実逃避してるなと感じるのだった。
当然だが彼のイメージは嘘まみれでツッコミどころ満載だ。最初は筋道だてて話してるつもりだったようだが、しゃべればしゃべるほどぼろが出てきて、たくさん突っ込まれてにっちもさっちもいかなくなったら「俺はともかく世間は許さないぞ!それが常識だ!もっと周りの目を気にしろ」という典型的な太宰メソッドで話はじめた。 ついには、「俺がアニメオタクは気持ち悪いと言ったらとにかくアニメオタクは気持ち悪いんだ。アニメオタクはみんな現実が見えてないやつなんだ」とわめきだした。もう理屈もクソもない。単なる駄々っ子である。
周りの人間は「おいワンピース好きのDQNよ、成熟していて現実が見えている」はずの大人の態度はどうした、と思いながら彼の奇行を眺めていた。 ワンピース好きのDQNはずっと周りの目線を気にしているといっていたが実際は何も見えていなかった。 この人はあくまで内在化した自分の脳内にしかない視線しか気にしない。実際に周りがどう見ているかなど全く気にならなかったのだろう。それはみじめなものだった。
最初はワンピース好きのDQNの話を聞きながらイライラしていたアニメオタクだったが、だんだん哀れに思えてきた。多分それだけずっと周りの目を気にして来て、その目線に合わせることばかり考えてきたのだろう。もう自分でもその周りからの目線に立ち向かおうだとか、そこから離れようということができなくなってしまったのだろう。自分を曲げてでもその目線に合わせることに必死で、ついにはおかしくなってしまったように思えた。
結局誰もワンピース好きのDQNの話をまともに聞く気がなくなり、適当に相槌だけ打つようになると、ワンピース好きのDQNは満足して好きなだけしゃべり、そしてさっと帰っていった。残った人たちは「あいつはもうだめだな」「どうしてこうなるまで放っておいたんだ」とため息をついたのだった。
「じゃあ辞めりゃいい」に関してだがいやまあ俺も正直そう思うんだが
どんな無能でも鍛えりゃ所得を増やすことはできる気がするが、お前の言ってる通りできねえんだろう
って事はそいつらの能力はどうしたってそこ止まりであると仮定する。やれば出来る奴はまあやってくれよ社会のために
さっき言ったとおり、幸福な社会のためにはそいつらにも充分な金と自由が得られることが不可欠だ。金がじゃんじゃん回るんだから
異論はないだろ? 即ち誰かが金をやらなきゃならん
国に大量のそいつらを扶養出来るだけの金もねえ、いやまあ大隈重信みたいに金バンバンすりゃわからんでもねえがあかんだろ前例的に
つまり「お荷物になってる奴ら」をあんたらみたいな経営者が金与えてやる必要がある
ってそういう話をしてんだよ、全体的な話だ。あんたの利益はそんなに考えてねえんだよ
まあ「ホワイトな会社であるという名声」「従業員からの熱い愛情」とか色々特典はつくけど、現在の法整備や社会システム的に
それよりブラックやったほうがまあ何倍も金はいるだろうねえ多分
んで「甘い汁は全く吸ってない」ってお前さんその個人資産って能力の低い労働者を賃金安くこき使って得られた金じゃねえか
他の所より利益との差額が大きいってのにその論調は話にならんぜ
給料を安くできるってかなりのコスト削減になるんだから「安く長時間使える労働者」って所に甘い汁を吸ってるぜ
駄々っ子の論調だが全体の幸福的にそれが道なんだよ、かつては年功序列の精神がそれを主導してた
あんたの所みたいな会社がブラック的要素が理由で潰れてくれりゃ無能への金回りがよくなるんだ
夏になると思い出す。つき合っていた彼氏が戦争について肯定的だった。
でもどういうロジックでそういう立場だったのか、ぼんやりとして思い出せない。
19歳当時、私は絶対に、戦争はないほうがいいと思っていたから
彼の言っていることなんて理解しようとも思わなかったせいだろう。
彼は東大の学生で、政治学を学んで学者になりたいと言っていた。
戦前の軍部の司令官や、戦後の警察について好きで、とても詳しかった。
「戦争はあるべきで、やらなきゃいけないと思うよ」と言っていた。
私が、「関係ない人も巻き込まれて死ぬのに?」とか、「それがあなたの大事な人だったらどうするの?」と言うのを
駄々っ子をあやすように「いやあ。あったほうがいいし、やらなきゃいけないんだよ」と言っていた。
どういう立場だったんだろう。
軍・警察オタ(たぶん)だからか、大学一年生にありがちな選民的な意識の高さゆえか。
頭の良い人だったので、政治学的な大きな必然性とか必要性からあんなことを言ってたのだろうか。