はてなキーワード: 資本論とは
クリスチャンになると自然と自然科学に興味が湧く(ダジャレ事故)。
光文社からたまたま出てたダーウィン『種の起源』が分かりやすく面白かったため、自然科学の古典を読んでいきたい。
あと社会科学系の本ばっかり読み過ぎて飽きてきたのもある。
『星界の報告』の新訳。望遠鏡で観た星空の様を感動と共に書いた本、らしい。あと地動説が論じられてるとか。
ニュートンの『プリンキピア』を中学高校レベルの数学で平易に解説した本、らしい。別にこの本じゃなくてもいいんだけど、要するに『プリンキピア』に何が書いてあんのかをざっくり知りたい。
チャンドラセカール『「プリンキピア」講義』なる本も定評があるらしいが、難解らしいので警戒している。
図書館で解説だけ読んだら、あの難解な宮沢賢治の内容がものすごく分かりやすく解説されていて驚いた。本作はその解説(読み方)に従って作品を配列した全集。
といってもどう見てもキリスト教に引っ張られた解釈(「完全な自然と不完全な人間の対比」)で、どこまで鵜呑みにしていいのか分からんけど。
ちなみに有名な『雨ニモマケズ』は、昔からキリスト教っぽい詩だなぁと思っていたのだが、モデルの男と目されている人物(斎藤宗次郎)がクリスチャンらしい。ホントかどうかは知らんが興味深い。
ブコメで勧められたのを検索してたら発見。人生をやり直したいという主人公に神が答えるシーンがものすごく良い。
ドストエフスキーのデビュー作。といっても彼が社会主義者で、ゴリゴリのクリスチャンになる前の作品。なぜか光文社から新訳が出た。
どうも金と愛の話らしい。
クリスチャンになる前はマルキストだったので、この本には昔から興味があった。
古い訳で分厚くでかい本しかなかったので敬遠していたのだが、このたび何故か新訳された。マルクスブーム万歳である。
ついでにヒルファディングの『金融資本論』も新訳してください。
とりあえずこんなところ。
http://anond.hatelabo.jp/20160901192115
>昔の若者は、このような現実を知らぬまま、理想主義に向かっていったが、いまだとネットによって辛い現実を知る、ということだ。
「昔の若者」がいつの若者を指してるのか分からんけど、たぶん『資本論』読んでた世代のこと言ってるんでしょ?
あの本の中で描かれてる現実は、今の増田やTogetterとそんな変わらんよ。ぐっちゃぐちゃの泥沼地獄が書いてある。
結局、現実のひどさを知ったうえで、じゃあどうするの?っていう支柱となる思想が今の世代には無いのだと思う。
無いから、攻撃の矛先を韓国や中国、「自虐史観」、在日に向けるネトウヨに走る。
昔はマルクス主義という支柱があった。その差。
思いつく順に列挙すると、
(1) 今の人生がとにかくつらくて、悩みを解決する処方箋が欲しかった。
(2) ジブリ作品、フィンチャー作品、『資本論』を観たり読んだりしたせいで(+周囲の人間を見ていて)、消費社会・競争社会の価値観に疑問を持った。それ以外の価値観が欲しかった。
(3) 本屋で偶然、内村鑑三(高校日本史で不敬事件の当事者として出てくる)の聖書注釈に出会ってこれが分かりやすかった。
(4) ニーチェとドストエフスキーを読んだせいで、神を否定するとヤバいことになると漠然と思っていた。
(5) マクグラスの『科学と宗教』を読んだことで、現在の科学水準でもキリスト教を否定し去ることはできないということが分かった。
(6) 何より、読んでみたら聖書の一節一節が心に刺さりまくった。
辺りかな。
[追記]
(8) (4)と関連するけど、植松聖の事件を見て、「結局重度障害者が生きる意味(≠殺してはいけない理由)はあるのか」という問いについて、神なしではうまく答えられないことに気付いた(異論はあるだろうが)。
個々の資本家が善人だろうが悪人だろうが、彼らは、競争によって他の競争者たちと同じ労働慣行に従事することを強制される。諸君の競争者が労働者の寿命を縮めるようなことをするならば、諸君もそうせざるをえない。
資本家にとって自明なことは、労働者は彼の1生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。
人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも──そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと──ただふざけたことでしかない!
ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りする。資本は、外気や日光を吸うために必要な時間を取り上げる。資本は、食事時間をけずり、できればそれを生産過程そのものに合併する。
俺より頭良さそうなお前がそこまで強く勧めてくれるなら信じてもう一回観てみる事にする。
そうじゃなきゃこんなとこで吐き出した意味もないし。
資本論は俺の頭ではキャパオーバーしそうだからお前の言ってくれてるような初心者向けの解説書みたいのを探すのがいいんだろうな。
でも、やっぱり本当にそんなことが答えになって生きるのが辛くなくなるのか、疑問に思ってしまってる俺がいる。
若い頃に観たからかも知れないけど、お前が勧めてくれてる映画もなんか暗い結末だった印象しかないし。
俺は今がこうなってしまっている理由とか、そういう答えが知りたい訳じゃないんだよ。
生きるって生物として当たり前の事すら辛く苦しい事だ、って感じてしまうような現状はどうしたらいいのか、その回避策を知りたいんだ。
観てんのかよ。『ファイトクラブ』のタイラー・ダーデンの言ってる言葉はほとんどお前の抱えてる悩みについての言葉だよ。よく注意してもう1回観てこい。
あと『セブン』なら、ジョン・ドウとサマセットとミルズの悩みとお前の悩みは共通するところがある。それぞれのキャラが悩みにどう対処しているのかに注意してもう1回観てこい。
『資本論』なんてお前の悩みについて3000ページ以上も書いてくれてんだぞ。感謝して一字一句残らず読め。今なら入門書も山ほどあるしな。
資本論読んだら生きるの辛くなくなるの??
『資本論』読みなよ。大体お前が悩んでる原因が書いてあるよ。あとデヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』と『セブン』を観ろ。話はそれからだ。
オープンなネットはイケハヤのような、SEOが小器用なだけの頭の薄っぺらい人間たちがうっほうっほやってる世界になりつつあるよな。
https://www.facebook.com/taizoson/posts/10153788960804492?pnref=story
僕には経営者としてかねてからの疑問がある。ほんとは違うと思いたいので、誰か下記の僕の意見に反論してくれませんか。
かつて世界を席巻した日本の電機メーカー、先日取締役会で揉めたコンビニの最大手、安くて高品質と市場を席巻したカジュアル衣料メーカー、テレビショッピングでいちばん有名な会社、プロ経営者を雇ったがクビにした教育産業の最大手、そして通信などで成長した日本で最も有名なIT起業家の会社など、最近後継者についての話題がすごく多い。
事業を大きくした創業者は、会社の成長もさることながら後継問題がいちばんむずかしい、とよくおっしゃる。「企業は存続してこそ社会に貢献できるのだから、100年続く会社になるように企業文化を創っていきたい」と皆さん口をそろえる。中には徳川幕府だって300年続いたのだから、うちも300年だと言う方もおられる。誰とは言わないが(笑)
なんで?
なぜ存続してこそ社会に貢献できる(=存続しないと社会に大きく長く貢献できたと言えない)、と言えるのだろうか。
存続はしていてもたいして貢献してないことだってある。「売上は社会に貢献して顧客からもらえた対価なのだから、売上が伸びてるあいだは立派に貢献してる証拠じゃないか」「雇用を生み出し続けてるのだからそれだけでも貢献しているじゃないか」などの声を聞くのだが、それはその会社がなくなって別の新しい会社がそれを担ってもいいわけで、「存続してこそ社会に貢献できる」というテーゼを論証したことにはならないと思う。
つまり、存続することと、社会に貢献することとは関係があまりないと僕は思うのだ。それどころか、長く続いている大企業は、分業と縦割りとルールの細分化が進んで制度疲労を起こし、「自己疎外(=働けば働くほど、自分でやっていることが自分のものと感じられなくなっていくこと)」を生み出しているようにしか僕には見えない。
スタートアップ原理主義者の僕には(笑)、必要以上に大きくなりすぎた企業は「自己疎外製造装置」にしか見えないのだ。だからといって共産主義に近い社会主義を礼賛しているわけではもちろんない。ほんとはいろいろ考えているのだが、この文脈においては、単に「アンチ大企業主義」と分類されても僕は全然差し支えはない。
昔であれば、大資本・大組織でないとできない大きな仕事が存在しただろう。しかしこれからの時代には大企業のアドバンテージというのは実はあまり(個人的には「ほとんど」)ないと言っても過言ではないと思っている。
そしてそれは、人工知能とロボットの発達によって、愕然たる事実として現在よりもさらに鮮明にあぶり出されるはずだ。
僕はそのように思っているのだが、僕が違う(それとこれとは関係ない)と思っている、
「企業は成長し続けて大企業となり、そして長期間存続し続けることこそが社会に大きく貢献することなのだ」
ということを誰か力強く理論づけてもらえませんか。
http://www.tez.com/blog/archives/post5052.html
スタートアップがより大きな力を得てより急速に成長するためにも、より大きく、より長い繁栄をして、企業価値を大きくすることを目指すことが必要だと考えられますし、その場合の繁栄の鍵は、いかに「情報処理のハブ」の地位を確保し続けるか、ということに集約されると思います。
だから、企業がより大きく、より長い繁栄を目指すことは、否定されるべきではないと思います。もちろん単なるステークホルダーの思考停止ではなく、他の(「信用」を担保する)理由があるからこそ、大企業として長期間存続し続けるわけですし、社会に大きな影響を与える企業として長期間存続し続けようという意志のないところに大きな企業価値が生まれることは無いはずです。
孫 泰蔵 「信用資本論」とでもいうべきとても示唆に富む論説ですね。
まず、信用という機能の本質が「思考停止」だからこそ信用は一定の「慣性」を持つ、というのにハッとさせられました。経営者もそこに働く従業員も、会社を長期的に存続させるのが是、というところで思考停止してるなといつも思ってたのですが、それは外部からの信用という思考停止ともリンクしているのだということに気づきました。
また、長期的に存続しうる形態としては「メタ」な存在しかないだろうと私も考えていました。しかし、その際に長期的に「メタ」として存在しうる価値やアイデンティティーってなんなんだろうなあと思うのです。資金であればVCなどでも十分提供できるわけで、スタートアップが嗜好する資金以上のなにかを持ってないといけないわけですが、それはなんなのだろうとずっと考えています。そこも「信用」なのかなあ。
そして、「大企業が自らの存続をあきらめることではなく、既存の『信用』に新たな『信用』がぶつかって倒そうとすること」が「古い組織の制度疲労を打ち壊し社会全体を活性化させるのだ」というのはまったく同意です。
しかし、現在の日本では挑戦者がまだまだ全然少ない状況です。この状況を打破したいのですが、能力的に優秀な人が、挑戦者になって打倒するのではなく、むしろ後継者になりたがろうとする人が多いこの状況(例えば、兄がやってる「アカデミア」という後継者育成機関にすごい優秀な人がいっぱい来てるんです!あんたたちは孫正義の後継者なんかじゃなくて起業家を目指さんかい!と心のなかでいつも苦々しく思ってるんですよね(笑))をどうやったら打破できるのかなあと思案しています。
既存の信用にぶつかって倒した新たな信用の成功事例をつくるしかないですよね・・・そっか、俺が頑張ればいいのか。頑張ります!
孫 泰蔵 ありがとうございます。
そして「そこも信用」なんだと思います。
話がややこしくなるので本文には入れなかったのですが、日本では米国のVCは全部が全部イケてると思われがちですが、実は逆にファンドのうち上場株式のindexをアウトパフォームするものはわずかで、9割前後はindexを下回っています。つまり米国とはいえ、ほとんどのVCファンドは「上場株index投信を買った方がマシだった」ということになってます。しかし米国の上位5%のファンドは常に高いパフォーマンスを上げています。
リスクの高いベンチャー投資でなぜ長期にコンスタントに高い成果が上げられるのかという理由は、まさにVCが行うべきことの本質が「信用の供与」だからじゃないでしょうか。例えば「セコイアが投資したベンチャー」は(もちろん背後に技術トレンドの調査やきちっとしたDDがあることに加えて)「セコイアが投資してるんだからイケてるんだろう」という期待が働くからこそ、いい経営陣やいい従業員が集まり、いい投資家が付き、いい取引先やいい顧客が付くので、結果として本当にいい会社になってしまうという「予言の自己成就」が発生しているのではないかと思います。
ポートフォリオで多数のベンチャーに分散投資すると、仮に失敗したベンチャー成功したベンチャーをならしてポートフォリオ全体として利益が出たとしても、必ずしも「あのVCが投資したベンチャーはイケてる」という期待は働きません。「投資したベンチャーを全社必ず成功させるぞ」という長年の努力をすると、そうしたミダスタッチ(「魔法」)が使えるようになるんじゃないかなと思います。
ベンチャーは先進的であるがゆえに、単独でポツンと存在しても、それがいいものか悪いものか、一般の人にはわかりません。「世の中で最も大きな情報の非対称性が発生するもの」だと言えます。だからこそ、そういう「信用」を供与する投資家が増えることこそが、現状を打破する大きな力になると思います。
亀山 敬司 俺も「会社を続けるために稼ごうぜ!」と言ってるけど、社会貢献とは関係ない。会社が続いて大きくなると俺が楽しいからやってる。だから「辞めたあとは俺のこと忘れていいから勝手に楽しめよ」と社員には言ってる。会社なんてただの人の集まりだし、くっ付こうが分裂しようが、べつにDMMの名前が残らなくてもいっこうに構わない。
300年続けたいとか言ってるやつは、何を続けたいと言ってるのかわかんないけど、ピラミッドでも残したいんじゃない?亡霊の自己満足だね。
昔は「社員の未来を雇用をどうやって守る」とか思い悩んでいたが、「過保護で要らぬお世話だな、いい歳の大人は自分で考えな」になってきた。とりあえず後継者は立てるだろうが、そこからは別の会社だから残りたいかは自分で決めなって感じ。
大企業が長く続くのは、良し悪しで言えばちょっと悪し。ゆとりが有り過ぎると頭が悪くなるし、いい気になっちゃうし、内戦に明け暮れる。良い点は、まずしいスタートアップが時々見上げながら「俺もいつかあの大きなビルに入って、きれいなおねえちゃんを秘書にするんだ」と俗っぽい夢を見させてくれる。
悪い部分が大きくなれば勝手に自滅するので、自然に任せといても大丈夫。
そもそも社会貢献も基本はやっぱり自己満足だね。経済成長や新しいテクノロジーが社会を幸せにするとも限らないんだし、自分たちの活動が徳か悪徳かもよくわからん。でも、こんなふうにいろいろ考えるのは、自分だけのことを考えた自己満より、マシな自己満だよね〜!
http://anond.hatelabo.jp/20160604173035
上掲の雑文についたコメントの中に、「自分も『聖書』と『資本論』を読んでみたい」というものがあったのですが、ガイド無しでいきなりこれらの本にぶつかると、誤読する可能性が高いと思い、追記させていただきました。
まず、『聖書』についてですが、これは新共同訳のものを普通に読んでもらえれば大丈夫です。スマホ用アプリの中に聖書が無料で読めるものがあるのですが、訳が古い(?)ため、分かりにくいです。
読んでいてよく分からない点があれば、各種文献に当たるか、詳しい人に聞くと誤読せずに済みます。私は『新共同訳 旧約聖書略解』をよく参照していたのと、牧師さんがYouTubeでやっている聖書解説をよく観ていました(布教活動みたいになるのでURLは伏せます)。
次に『資本論』ですが、これは読んでいると言うだけで偏見を受ける本なので、必要がないならあんまりお勧めはしません。
それでも読むという場合、注意点があります。それは、『資本論』は全3部が有機的に繋がった本だということです。第1部で残された謎が第2部第3部で解決されたり、また、その逆もあったりするので、注意が必要です。読む場合はきちんと第3部まで読み通さないと、確実に誤読します。
この点、『資本論』をいきなりそのまま読んでも挫折するので、多くの人は入門書か解説書の世話になるかと思います。こういった本の中には、残念ながら、著者が第1部しか読んでいないと思われる本が多いです。第1部だけ読む場合、『資本論』の意義はきわめて矮小化されてしまいますので、第3部まで解説された(つまり著者が全ての体系を押さえている)本を選ぶのが肝要です。特に、インターネット上の『資本論』について書かれたサイトはほとんどこのたぐいのものなので、信頼しない方がよいです。
それと、私の表現が悪くて、あたかもビジネス本と『資本論』が同内容かのように思われた方が散見されたのですが、もちろん両者は異なります。そもそも書かれた目的が異なるので相違点を挙げていけばきりがないのですが、一つ言えることは、『資本論』は金儲けに伴うグロテスクな部分(ビジネス本の多くはこれを伏せているか、気付いていない)を明らかにしているところが大きく違います。
大学を出てサラリーマンとして長年働いてきたが、過労とうつで半年間休職することになった。
まとまった時間ができたため、前から気になっていた『資本論』(大月書店の赤い奴で、8巻は読めなかった)と『聖書』(新共同訳で旧約のみ)を、ともに入門書・略解を引き引き必死に読んだ。
そこで驚いたのが、これまで好んで読んできた、自己啓発本やビジネス本の類が、ほとんどこの2冊の縮小再生産であることだった。
特に顕著なのがビジネス本で、ベストセラーになった本の数々が、資本論で書かれていることをひっくり返す(つまり資本論で批判されている資本家の振る舞いをする)ことを勧めているだけだった。
知人に資本論を読んでいると言うと白眼視されることが多かったのだが、そいつが件のビジネス本を好んで読んでいたりするのを見ると、何だかなぁと思うことしきり。
くだらない本に金と時間を費やすのではなく本当に価値のある本を読もうとか、何事も中身を見ないで批判するのはやめようとか、色々学んだ日々だった。
追記
お子さんの疑問は真っ当で、問題は以下の2つに切り分けられると思う。
②従業員はなぜ何十年も働いても働かなくてもいいほど豊かになれないのか。
このテーマは150年も前にマルクスが悩んだテーマで、これを考える上で(その考えに賛同するかどうかはともかくとして)『資本論』に触れないわけにはいかない。マルクスとかいうとソ連とか共産党のイメージで、めちゃくちゃアレルギーある人が多いと思うけど、マルクスもそんなに間違いばっかり言っていたわけではないので、まぁ話だけでも聞いてくれ。
ということで、以下お節介ながら、この問題についてマルクスがどう言っているのか書いていく。
まず①の問題だけれども、その答えは「会社が金儲けを目的とする限り、その事業に終わりはない」ということになる。なぜなら、
からだ。つまり会社はいくら金を稼いでもそれをやめることはないし、その手段である事業もやめることはないということだ。
ではなぜ貨幣蓄蔵の欲望が無際限かの理由は2つあって、(ⅰ)ひとつは他の商品(車、電化製品、衣服、食料品などなど)に比べたときに現れる貨幣の特殊性にある。
想像してみてほしいのだけれど、これらの商品はいくら溜め込んだところで自分が使うにも持て余す(ベンツが百台あっても置き場所や維持費で大変)し、他の商品と交換するのにも限界がある(ベンツ百台を売りさばくにはそのためのお店や人員やらを用意しなくちゃいけなくて大変)。
しかし、貨幣についてはいくらあっても困らない(銀行に預ければ利子まで付いてくる!)し、他の商品といくらでも交換できてしまうのだ。
そして、(ⅱ)理由のもうひとつは、貨幣自体に社会的権力が固着していることにある。これはいちいち具体例を示さなくても分かると思う。
以上2つの理由から、会社は金儲けをやめないし、そのための手段である事業も可能な限り永久に続くことになる。
この問題についてはマルクスが資本論第1巻を全部費やしているテーマなので、とてもそれをまとめる能力も、専門家じゃない人にそれをわかりやすく伝える能力も俺にはないのだが、ポイントは2つある。
ひとつは、資本家(ここでは会社)は従業員を豊かにするために事業を行っているのではないということだ(それなら何のため?と思った人は上のマルクスの言葉を見よう!)。
そのため会社は利潤を上げるため、従業員に支払う給与をどんどん下げるインセンティブが働く。究極的には、従業員が一日中働いて、次の日また元気に出社するのに必要な額(つまり食費や睡眠をとるための費用)さえ支払えばいいという発想が生まれる。
「労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる1日労働することを妨げはしない。それゆえ、労働力の価値と、労働過程において労働力が増殖させる価値とは、2つのまったく違った量なのである。この違いこそ、資本家が労働力を買った時にすでに彼の念頭にあったものである」(『マルクス・エンゲルス全集』〔大月書店刊〕254頁)
つまり、給料が低く抑えられがちな以上、従業員はいくら働いたところで豊かになんかなりっこないわけだね。
もちろんこれには例外があって、最近話題になったカルビー会長の言葉(「従業員はただの道具ではない」「給料を増やし社員の待遇を良くするのは一番大事」)が思い浮かんだ人もいるかもしれない。マルクスはこういう良い資本家すらばっさり切り捨てるのだけど、問題が複雑になりすぎるのでここでは触れない。気になる人は『マルクス・エンゲルス全集』〔大月書店刊〕の353頁を読んでくれ。さらに興味のある人は、「モンドラゴン協同組合企業」でぐぐるとちょっと面白いかもしれない。
従業員がいくら働いても豊かになれない理由の2つ目は、従業員は通常、資本を持たない点にある。
つまり普通のその辺の人は金を稼ぐのに自分の労働力を売るしかなくて、そこから得られる給料も上に書いたように低くなりがち。そしてそこから生活費や子供の養育費を差っ引くと、もうほとんど手許に金は残らない。運よく給料が人より高かったり、奥さんが家計のやりくりのできる人で貯金が出来たとしても、それを増やす手段は資本家に比べれば全然ない。
中には株式投資をすればいいんじゃない?とか会社を興せばいいんじゃない?と思う人もいるかもしれないけれど、投資に成功する人が少ないことや、会社を興すにしても起業に多大なお金が必要(参入障壁)なことに思いを致せば、そう簡単じゃないことが分かると思う。
以上2つのポイント(もちろんマルクスは他にも色々言っているんだけど)から、従業員はいくら働いても豊かになれないし、働くことを止めることなんてできないんだね。
ちなみにトラバの中に、
というコメントがあったが、これもマルクス的には間違い。なぜなら、
だからだ。つまり、機械は資本家(ここでは会社)が利益を上げるためにしか使用されず、労働を軽減するために使用されるのではないということだ。歴史的事実としても、産業革命以来さんざん技術革新が進んできたのに、人が一切仕事をしなくて済むようにはならなかったでしょ?
以上長々と書いてきたけど、冒頭に書いたようにお子さんの疑問は至極真っ当で、これまで哲学者や経済学者が延々悩んできたテーマでもある。
上に書いてきた(というか俺が強引にまとめた)マルクスの主張については異論も色々あって、明らかに間違いだと分かっている点もあるのだけど、考えの取っ掛かりとしてはいいと思う(解決策も一応示されているしね)。
そこから最近話題になったピケティ『21世紀の資本』なんかを読むと考えがより深まると思う。
というわけで、こんな長い文章を読んでくれてありがとう!そういうもんだと割り切らず、がんばって考えて、お子さんによりよい将来を作ってやってくれ!
「本当の」名作はなんて言葉を使う本当おじさん達は今頃本文も読まずに反論を書いていることだろう。
そうでない最低限度賢明な諸君なら分かるだろうが全く何にも知らない人間には良い物は届かない。
マルクスの資本論は間違いなく名著だがこれを小学生に渡しても10分で眠りにつくだけだ。
はてなにいる大抵の受け手は年100冊(当たり前だけど漫画と教科書問題集は含まない)も本を読まないような低リテラシー集団だ。
彼らが望むのは強烈にスパイスと化学調味料を効かせたギトギトのジャンクフードを思わせる品性下劣かつ感性低俗な刺激的駄文である。
彼らの方を向いてやろう。
こちらの記事(http://anond.hatelabo.jp/20150928163536)、
(http://anond.hatelabo.jp/20150929000832)
なんだか私についていくつもエントリー(?)がついてまして…
いやはや、こんな思考の駄々漏れみたいなものにたくさんの人にお付き合いいただけて頭が上がりません。
少しだけ書きたいことが出ましたので2つほど追記を…
まず一点目。
前回の2つの記事についてご指摘がありましたが、これは私の自分語りです。
客観的に見れているか?と言われますと私は首を縦には振れません。
それを理解していただければ幸いです。
更に申し上げますと、前回の2つの記事は、『私がこの時、こうだったから、私は楽になれた。』
その、たった一例を出したに過ぎません。
誰でも彼でも救ってくれる、万能薬のような魔法の言葉を言われたわけではありません。
当たり前ですね、状況がまず違うのですから、そのことを他のコメントを見ながら痛感しています。
未熟者でお恥ずかしい限りです。
しかし、それでもあんなに簡単な言葉で私が今まで生きてこれたのも、また事実なのです。
だから一番近くで、犯人のような人や、私のような人を見てきた人だけが
助けてあげられるのかもしれない。とも思うのです。
でも近いからこそ、それが出来ないのかもしれないとも思います。
親しい人ほど、無様な姿は見せられない、という心境とでもいいましょうか…
難しいですね、これは私がベストアンサーを出せる問題ではないように思うこの頃です。
さらに前の記事では、こうしたらいいなどと厚かましい意見を述べてしまいました…
私と考えが似ていらっしゃるとのことで、
色々と関連したもの(動画など)を拝見させていただいたのですが、
私の思慮の浅さが露見するばかりで…
こんなに深い考えをお持ちの方に間違われるのは大変恐縮するばかりです。
この方のお言葉にハッとさせられたのですが、
「自分という存在」は「他者」に認められて存在が成り立つということです。
当たり前のことですが雷のような衝撃を受けました。
私は何も選んで生まれて来ていない。性別も容姿も親も何もかもです。
それを私だけの一存で好きになるのは難しいことですね。
というか私には不可能に近いです。
じゃなきゃ、自己肯定感がこんなに低いとウダウダ悩んでません。
だって好きで選んだものじゃないんですもの。しかも絶対に逃れることなんて出来ない。
そしたら、すんなり好きになれなくて当たり前です。
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私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、
人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、
【カール・マルクス、岡崎次郎訳『資本論(1)』(国民文庫一九七二年)一〇二ページ。】
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一九〇二年の本のなかでさきのマルクスと同じようなアイデアを定式化している。
すなわち、かれは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」として、
このような自我のありかたを「鏡に映った自我」(looking-glass self)と呼んだ。
他者と関わり他者の鏡に映った自分を認識することによって自我が形成されるのだ。
【C.H.Cooley, Human Nature and the Social Order,1902,p.184.】
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だからこそ私は他者を排除して自分を語ることが、どうしても出来なかったんだと思います。
人の目が気になってたまらないのも、きっと、ここら辺からきているのかな…
私という存在を求めてほしい気持ちがあるからこそ、他者からの無条件の肯定に焦がれてしまう
でも得るのはとても難しい…
ムムム…ここら辺はまだまだ私の中で考えていく必要がありそうです。
さすがその道に長けた方のご意見は納得させられるものばっかりです。
とても勉強になりました。南直哉さんのことを教えてくださった方、ありがとうございます。
気になる方は動画などもいくつかネット上にアップされているので、ぜひ拝見してみてください。
二点目は、エントリーについて少し触れさせていただきたいと思います。
◯『憎しみも怒りもなくふるわれる暴力』とエントリーを書かれた方
私はまずDVの話はしていません。
同じような「劣等感」からくる事件を持ち込むならまだ分かりますが
例えとしては、いささか整合性がなく、乱暴なようにさえ感じます。
そして加害者と被害者の言い分は別です。ごっちゃにしてはいけません。
もし、この言い分を使いたいなら私の発言はどちらかの立場だけに終始すべきです。
なぜなら私は被害者側の立場に立って、今回の話はしていないからです。
そもそも私が疑問に思った問題と、あなたが述べている問題点は相反するものではありません。
私が言いたいのは、犯人のやり口が卑劣だ、という犯行への結果ではなく。
どうして止められなかったのか?という過程へ向けた問いの話だけを今回の問題としてあげています。
分かりやすく言うならば、『起こったこと』(結果)、『今起こっていること』(現在)ではなく
『止められなかったのか?』という『過程』と、
『それはなぜ?どうしたら止められるの?』という『未来』の二点だけです。
むしろここで、ごった煮にして考えてしまって良いような問題ではないと思います。
『加害者擁護に感じる不愉快さは被害者の人権軽視の姿勢』についてのお話も
あともう一点だけ、トリイ・ヘイデンの「シーラという子」という本を引き合いに出されていましたが
これこそ、私が疑問視していたセーフティーネットが上手く発動した例にはならないのでしょうか?
社会という仕組みにある学校が、セーフティーネットとして、シーラという子を助けられたなら、
それはとても喜ばしいことに思えます。
他の場面でなら、彼女の体験はどう使えるのか、考えるヒントがありそうです。
こちらの子方は、いくつか引用を交えてお話させていただきます。
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犯人に自己を投影してしまうからこそその言葉が自分に返ってくるように感じてしまう。
コメントが賛否になるのは当然でどれに感情移入(主体として)するかによって風景が変わる。
コメントする人間は、自分がいちばん近い距離感に対し感情移入する。
であって、本人がこじらせている状態を「くだらない」と言ってるわけじゃない。
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そういう見方も出来るのですね!
私にはない見方でした。ひとつの方向だけを向いてしまう悪い癖です。
そうですね、どうしてあの時、母が「くだらない」と言えてしまうのか
とても疑問だったのですが、すっきりしました。
トラウマ的な部分もあって、私自身がそれに過剰に反応してしまった部分もありました。
こういったトラウマ的な部分は気をつけていても
反射で反応してしまうものなので、中々コントロールするのは難しいですね
そうった意味で言っていたのか、母には後日、確かめてみたいと思います。
ただ、やっぱり事件を「くだらない」と片付けてしまっていいものか…と私は考えてしまうのです。
背景は別々だけれど、同じような事件がたくさん起きているのは事実で、
なくならないかも知れないけれど、減らすにはどうすればいいか
もしかしたら犯人の人生において共通の何かがあるのか、ないのか…
私はそれを「自己肯定出来ない自分」という、ひとつの可能性と結びつけました。
探せばもっと違う可能性があるかもしれない。ないのかもしれない。はたまた、これ事態は関係ないのかもしれない。
それでも考えていくことを放棄したら、なんだかもっと危うい方へと世の中が転がっていくように私は感じてしまうのです。
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今この時の、家族の、学校の、大げさに言えば社会のセーフティーネットが機能していない深刻さ。
それを改善していく必要があるんではないかと強く思ったがゆえに投稿した記事でした。
ここに集約されてる。
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なので、こんなに恐ろしい気持ちを味わっていたらと思うと…と、
だいぶ犯人の側に入れ込んで前の記事を書いたことは否めません。
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問題のある家庭まで補正できるセーフティネットって具体的になんだろう。
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残念ですが私にも分からなくて、具体的なことはひとつも書けませんでした。
本当に何がセーフティーネットになりえるのでしょう?
そもそも、そんなすごいセーフティーネットを作ることって出来るのでしょうか?
家庭が駄目なら、どこでなら救うことが出来るのでしょうか?
直すべき形態はどこなんでしょうか?
殺人は犯人が悪いけれども、もし彼をそこまで追い詰めたものがあるとしたら、
それって何が悪かったんでしょうか?
遠くない私たちの問題なのかもしれないと、私は思ってしまいます。
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劣等感が「リセット」というキーワードと結びついて妄想が膨らんだ。
結び付いたらそれを「くだらない」といった母親の言葉が自分に向ってきた。
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そうですね、少ない情報から「同類だ」と勝手に思い込むのは良くなかったですね。
もっとじっくり考えれば、すぐに私と犯人は他人だと分かりそうなものですが…
そして、私の書いたものを共感してくださる方がいたのも事実です。
割り切れない何がある?それってなんだろう?
そうやって考える自分がいるのも確かです。
そして、私のことを「少ない情報で犯人と自分を同一視するな!」とおっしゃられるなら
「啓発にコロリと引っかかる」という型にはめた発言は訂正していただきたいと思います。
だって、わたしのこと、この2つの記事でしかあなたは知らないんです。
女か男か、はたまた性別も分からない人に、それを言うのは野暮ってものです。
やっぱり、自分の独り善がりで文章を書いてしまいますと、なかなか客観的に立ち返れずにお互い苦労しますね。
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犯人が違う理由を言いだしても増田は投影し続けられるんだろうか。
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「人を殺せば刑務所に入って人生をリセット出来ると思ったこと。」
よく考えれば、刑務所に入ろうという発想はありませんでしたし…
ただ、「小学生から大学生の今まで、自分は何をやっても駄目だと感じていたこと。」
「そのことを考えると夜も眠れず苦しかったこと。」
この二点は確かに私の味わった挫折感によく似ているので、
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自分の人生の責任も、運命を変えるのも、残念ながら自分でしかない。
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その通りですね。自分の人生をどうやったら大切に出来るか、自分なりに模索している最中です。
ただし、ご自分の人生へ責任を取るのなら『この記事だって誰の責任も取らない。』のではなく、
やはり言ったという事実には責任を持たれたほうがいいと思います。
持てないのでしたら、それこそ私などに発信せずに匿名でやってください。
私は匿名という時点で、心苦しいですがあなたと同じ土俵には立てません。
この発言をすることで周りへかかる迷惑を考えた結果の匿名ですので、
その点に置いては私は自分の発言に責任を持とうと思っています。
◯自分は自分であるというただ一点で何よりも尊い。についてエントリーを書かれた方
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「こうやれば楽に生きられるかも」なんてものは何も書けないと思う
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そうですね。そんな素晴らしい答えがあったら私も悩んでいません。
どうかその考えることを大事にしてください。
とてもいい環境で育てたのですね。それはあなたの財産であり、誇りになると思います。
どうかその世界をつくってくださった人を大事にしてあげてください。
そうして、きちんと悩めるあなたなら、誰かのために手を伸ばすことが出来るでしょう。
うらやましい限りです。手探りでは、なかなか及ばないところも多く、歯がゆい日々です。
でも、どうか私みたいにこれがいいと決めつけて傲慢にならないでください。
きっと時と場合によって回答は常に変化してしまうでしょうから。
時々、休みつつ、問題に真摯に向き合っていくことが大事なんじゃないかと思う今日この頃です。
ということを受け入れ始めることが出来てきたように思います。
その「尊い」という感覚は、きっとあなたがおっしゃるように他者との間にしか見つけられないものです。
そして、時にものすごく得ることが難しい。
「自分を愛せないのに、どうして他人を愛せようか」ということです。
そして、これが未だに誰かの胸を打つのは、この言葉が響く人が確かにいる証のように感じます。
書いてくれてありがとう。私の考えるきっかけになってくれて、ありがとう。
きっと苦しい状況はすぐには変わらないけれど、起こしてもらえるのってすごく大きな力になる。
あなたの人生を曲げない範囲で、どうか他者を労ってあげてください。
私もあなたのようになりたいです。ほどほどを忘れずにね。
以上で追記は終わりです。誤字脱字はご愛嬌の範囲でお願いします。
そして、私の個人の思う所を書いたという点だけは、重ね重ねですが、どうかご了承願いたいです。
この一連の記事を書く前は私は魔法のような一発で解決する答えがあるんじゃないかと
心のどこかで思っていました。
でも、たくさんの意見に触れてそうじゃないと気づけた。
きっと、現状を少しでも良くするためには、どうすればいいか?
それを柔軟に考えていくのが大事なんじゃないかと思えました。
これが現時点での結論です。
きっとまた四苦八苦して変えて、いかなくてはいけないのだと思います。
この投稿は、私の疑問の声であるという点を汲んで、少しでも考える機会になったら
これほど書いてよかったと思うことはありません。
長文、失礼いたしました。