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はてなキーワード: 修学旅行とは

2024-10-16

陰キャラでも修学旅行楽しめたし幸せだったのだな」

と思うべきなのか

陰キャラでも修学旅行を楽しめてしまうようなアレな学校に行っていたので社会適応ますますまずくなっている」

のかどっちなのだろうなあって……

どっちもなのかもしれないなあって

anond:20241016164410

ワイのときはそれまでそれぞれ違うクラスブイブイ言わしとった奴二人がたまたまその学年で同じクラスになりたまたま()新幹線で隣どうしの二人座席レイアウトされて静電気の季節でもないのに火花が散っとったのを見てわーい対消滅しろーザマミロと低く見の見物しとったがかくいうワイちゃんは「よかったオレも毎年ボッチだから修学旅行のこと考えてユーウツだったんだ、オマエと組んでもらうわ助かった!」と言うとったくせに旅行本番になってドタキャンしよったオタク仲間のせいで修学旅行中はずーっと隣は空席のままで過ごせたやで😢

anond:20241015165830

修学旅行とか、林間学校臨海学校遠足

学外行事はいつも、気を抜くと誰からも声を掛けられず孤立してしまうので、

声を掛けても断ら無さそうな人に声かけて、一緒に行動できてるフリばっかりしてた。

先生からみたら、おそらく孤立してない子にみえて、実際は誰とも仲良くなってないみたいな。

anond:20241015165830

なんか修学旅行の前に、みんなと喧嘩して無視されて、必死にごめんなさいしてた気がする

なんで無視されるようになったんだろ

anond:20241015165830

学校生活全般ストレスに耐える修行みたいなもんだと思ってたか

修学旅行みたいなイベントごとはストレスが少なくて相対的に楽しかったな

一番ストレスが大きかったのは二人組とか班を作らされる授業

修学旅行の班作りもストレスだったが、一度決まってしまえば

他人ことなどどうでもいいというのが学生時代自分精神レベルだったので

同じ班の人間にどう思われているかなどは興味がなかった

高校では沖縄に行ったが、余り者が集まったクソ班に所属したため

せっかくの沖縄で一日中ゲーセンに入り浸り、自分ゲーセンに使う無駄金は持ってなかったので

ずっと見てるだけという苦行を味わったが、普段学校生活よりは遥かにマシだった

修学旅行でお弁当としてくばられた広島お好み焼きがくっそまずかったの思い出した

ソースに対して薄い小麦粉の焼いたやつと味のしないキャベツ焼きそばが大量で正直もう食べたくないなってなった

その十数年後に広島で食べたお好み焼きは本当に美味かったからまじであれ何だったんだ....

2024-10-15

anond:20241015222819

ちなみにこん時修学旅行中に担任と一緒に新幹線地元帰って親のとこ連れ返されたけど形式的に登校禁止とか処罰は受けても親も担任あんま怒っとらんかった

その後いじめっ子の親のとこに謝罪言っても怒鳴られたけど10分くらいで帰ったのは覚えとる

それくらい頭かち割ったいじめっ子はその親含め問題視されとったわけや

anond:20241015165830

修学旅行最悪すぎて、廃止されたら行かなくていいその世代の子供に嫉妬してしまうからなくならないで欲しい

anond:20241015165830

そんなにイヤな思い出は残ってないから、そこそこ楽しかったんだと思うなーw

内容的にはあまり覚えてること無いんだが...

唯一思い出せるのは、高校修学旅行で、オレは陰キャから加わってなかったけど、スクールカースト上位の陽キャ男女たちが、奈良平城宮跡の芝生の広場で、10何人か隊列を組んで、YMOの「ライディーン」だったか曲に合わせて整然とダンスをするっていう「イベント」を計画して、何週間か前から校内でしっかり練習までして万全の体制で臨んで、それなりに達成して喜び合ってた姿を、ポカーンと見てたなぁ...w

修学旅行って何したらクリアなの?

やっぱセックスなのか?

anond:20241015215011

わかる

リゾートで癒され旅みたいな修学旅行じゃなくてよかった

anond:20241015185852

この話、えらい壮絶やな!

修学旅行が「修行」っていう表現、まさにその通りやなって感じたわ。

特に小学校の時の体験は、最初から波乱やん!

クラスメイトが「ワイ担当」って、もうその時点で帰りたくなるのも無理ないわ。

バスで泣き出して、結果的帰宅してしまったっていうのも、めっちゃ切ないけど、当時の心境考えたらわかる気する。

中学不登校で、修学旅行に行かんかったってのも、「トラウマ」になってるのが伝わってくるわ。

でも、高校生になってからバイト先の社員旅行とか、通信制高校修学旅行は、少しずつ違う経験もあって、成長の片鱗が見える感じやな。

特に最後通信高校修学旅行Facebookで再会したっていうところがちょっと救いやん。

厳しい「修行」の中にも、人とのつながりがあったってのが、ええ話やわ。

anond:20241015185852

増田の話がどこまで本当かしらんけど、大抵の修学旅行って1日目は建前上の見学みたいなの入るのでは?

anond:20241015165830

激しく車酔いするので

遠足修学旅行もれなくバス出発してすぐ市内も出てないうちからゲロ吐きまくり

到着しても疲弊してボロボロ

楽しいけがない

俺が親だったら行かなくていいって言うけど

当時は参加することに意義があるみたいな雰囲気

拒否権はなかった

anond:20241015165830

修学旅行って、教師への負担が大きい行事だよな。

働き方改革の一環で無くなったりするんだろうか。

修学旅行とは、精神を鍛える修行である。

楽しいとか、楽しくないとかそう言う問題じゃないんだよ。

わかるか?

わかれ。

小学校

小学4年から不登校相談室に通う子どもであったワイ。それでも相談室はそれなりに楽しくすごしていました。

そうしてやってきた小学6年生、何をとち狂ったのか修学旅行に参加すると言ってしまい、引き返せなくなってしまい参加した。

まずいきなり「今日増田くんも参加してくれます。はくしゅー」みたいなノリで迎えられて既に帰りたくなった。

後で知ったことだが、学級会で不登校のワイをどうやったらちゃんと受け入れられるかという会議がもたれたらしく、それによってワイ担当という謎の係ができて、かれらを含む優等生構成された班にワイは投入されたワイ。

彼らに囲われた状態で、バスの一番前の先生荷物置場の後ろ窓際という場所に配置された。

周りの子は、何か凄く気を遣ってくれたのは分かったのだが、当然ながらコミュ買い故に不登校であったワイ、さら教科書水没事件便所ちんこショー、校庭トイレ閉じ込め、ライターあぶりうんこまみれ事件などの数々の記憶走馬灯に流れてパニックを通り過ぎて固まった状態であるワイになにができるわけでもなく、最初バスの中で泣き出し、伝説を作る。

その後はその優等生構成された班は無視され、先生の隣に席を移した後も泣き続け、バスの中を極寒状態にしたため、高速バスから新幹線駅に着いたところで、親が呼ばれ脱落、引率の先生と一緒に駅で待ってそのまま帰宅した。

その後、学校には行かずに卒業している。

中学校

中学三年間をまるまる不登校で過ごしたワイだったので、当然修学旅行には行っていない。

行くわけも無く、しっかりトラウマになっていたのであった。糸冬

あ、修学旅行っていうか学校にも言ってないやあはは

高校生 バイト先の旅行(番外編)

高校通信制高校に行ったが、遊ぶ金欲しさアルバイトを始める。早朝5時から、朝9時までと、夕方3時から5時までと言う謎シフトで働いていたが、これはなかなか楽しかった。

このコンビニ本業ホテルをやっている企業オーナーをやっていて、そのホテルでは社員旅行があり、ワイも是非来ないかと誘われた。

金は店長が出してくれるという。学校には修学旅行ないんでしょ? いい機会だから参加しなよ、とかいって。

ホテル従業員と3組に分かれて、研修旅行という名目もあって2泊三日、近くの景勝地リゾート旅館であった。

が、である

バスの中で、誰も隣に座らなかった。会話することが多かったパートさんはみな子持ちであり、泊まり社員旅行など参加するわけもなく、周りは誰も知らなかった。

当時からデブであったワイ。隣に誰も座るわけもなく、孤立していたが、ひたすら本を読んでいた。

部屋が4人部屋であった。そして、なんと同世代がいいだろうという謎の配慮のもと、同じオーナーコンビニで別の店にいる同世代の子どもを含める4人部屋になったのだが、

残りの3人も概ねワイと同じコミュ害系であり、さらに引率の大人もいない状況でどうしたらよいのかわからず、部屋ではひたすらに持ってきた本を読んでいたと思う。

会話もなかった。

さらに、田舎会社社員旅行である、だいたい飲みながらバスにのると言うようなノリであって、後ろでは酔っ払い大沢害しているような状況であったがため、1人ではかわいそうだろよべということになって、なぜか呼ばれておっさんから回れ続けると言う状況で後は記憶がない。

なお、翌年以降は誘われなかった。

高校生 修学旅行

通信高校にも修学旅行は一応あった。とはいっても日帰りのバスツアーに毛が生えたようなもので、近くの山にあるお寺と温泉をまわるようなものであった。

一応ホームルーム単位が出るため、参加したのだが、参加者が多く、補助席まで出される次第であった。

そのため、隣にも座ったのだが、隣に座ったのが子持ちのお姉さんであり、無茶苦茶テンションが高かった。

そいてひたすら愚痴愚痴愚痴

最初は同居していたけど堪えられなくなってアパートに出たのに何故か孫をミニ毎週やってきてうざいとか、勝手おもちゃとか買うからとか

旦那はいい人だけど給料が安いから私が働いてかせいでやってるとかそんなあれこれ色々詳細に。

なるほど、修学旅行とは修行の修であったかと、思ったのであった。

ただ、この修学旅行が一番楽しかったと言えばそうかもしれない

この時に出会った連中とは後にFacebookで再開し、グループを作って、お盆かに飯を食いに行く会が出来ている。

anond:20241015165830

小学生修学旅行京都):男女2人ずつのグループ太秦映画村お化け屋敷に入ったとき、あまりの怖さに4人で全力疾走したら「館内で走らないでください」って館内アナウンスで怒られたこ

中学生修学旅行富士登山):気になってた子とずっと一緒に登山したこと

高校生修学旅行広島):親友新幹線発車直前に広島焼き食いに行って新幹線乗り遅れたこ

こんなもんやで、つまら

修学旅行が楽しかったはてな民っている?

多分いないよな

いないって言ってくれよ!!


追記

割と楽しかった人多いんだね!

嬉しいような悲しいような!!

うわわーーーん!!!

2024-10-07

ガスト観光客とは無縁で静かに静かなランチを送れるはずだったけど

最近めちゃ人が多い!

アジア団体客に欧米かどこかの人たち!

そして修学旅行生とかもいる!

おまえら修学旅行にきてまでガストかよ!って思ったりもする。

賑わってていいけれど

たまに席がないときがあって悲しい。

これって

気にしすぎ?

2024-10-06

anond:20241006165404

修学旅行ならその言い分も分からなくはない。

普段ちょっとした作業なら問答無用で端から順に切り分ければいいのに。

anond:20241006164235

揉めないように出席番号順にしようとしたら、一軍グループ保護者が集まって抗議しにきたって話は聞いたことある

修学旅行は一生の思い出なんだから友達同士で回らせてほしいとのこと

2024-10-02

東海道新幹線開業60周年

私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線開業して30年以上経った90年代

母方の実家があるため静岡病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。

そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶

当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。

全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピード新幹線新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。

こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系ホームに滑り込んでくる。

これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。

そんなわけでしばらく新横浜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。

ある時、静岡祖父旅行企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさ九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父神奈川まで来てくれた)

500系運用は決まってのぞみ静岡は停車しない。

フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。

空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。

何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜ホームに降り立っていた。

そこから中学修学旅行京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女京都に行ったり。

そして現在に至る。

三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったもの電車マスコンハンドルを握って仕事をしている。

JR東海新卒普通に落ちた。

恨むこともないし、社会人になり親友名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。

飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。

車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母距離は遠くなっていた。

そして、今年の正月祖父が亡くなった。

仕事中に訃報を伝えられ、品川から東海道新幹線に乗り込んだ。

予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。

流れる車窓を眺めながら、祖父との思い出が駆け巡る。

新幹線に乗り愛知万博家族みんなで行ったこと。

静岡ホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。

社会人になった後に神奈川祖父母が来た時、帰りの切符グリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。

祖父との思い出の節々に東海道新幹線が出てくる。

母は、修学旅行では寝台特急長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。

現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆ど目的地へ行くことが出来る。

私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。

会いに行こう、をテーマ曲に。これから日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。

そう思って文を締めます

東海道新幹線開業60周年

私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線開業して30年以上経った90年代

母方の実家があるため静岡病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。

そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶

当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。

全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピード新幹線新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。

こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系ホームに滑り込んでくる。

これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。

そんなわけでしばらく新横浜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。

ある時、静岡祖父旅行企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさ九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父神奈川まで来てくれた)

500系運用は決まってのぞみ静岡は停車しない。

フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。

空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。

何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜ホームに降り立っていた。

そこから中学修学旅行京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女京都に行ったり。

そして現在に至る。

三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったもの電車マスコンハンドルを握って仕事をしている。

JR東海新卒普通に落ちた。

恨むこともないし、社会人になり親友名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。

飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。

車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母距離は遠くなっていた。

そして、今年の正月祖父が亡くなった。

仕事中に訃報を伝えられ、品川から東海道新幹線に乗り込んだ。

予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。

流れる車窓を眺めながら、祖父との思い出が駆け巡る。

新幹線に乗り愛知万博家族みんなで行ったこと。

静岡ホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。

社会人になった後に神奈川祖父母が来た時、帰りの切符グリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。

祖父との思い出の節々に東海道新幹線が出てくる。

母は、修学旅行では寝台特急長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。

現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆ど目的地へ行くことが出来る。

私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。

会いに行こう、をテーマ曲に。これから日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。

そう思って文を締めます

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