はてなキーワード: 体感とは
ほとんどすべてがデザインのためのデザインで必然性はまったくないでしょ
本体の色に加えてどこかに使われるシルバーや、差し色的な別色にプラ素材の黒系があちこちににあって色もすごく散らかってうるさい
車メーカーの立体化されたエンブレムが前後ろと、おなじく立体感された車体グレードのロゴマークが車体のどこかに乱暴に貼り付けられていて、しかもこの二つは本体色にかかわらず画一的にシルバーが多い
車メーカーのデザイナーはちゃんと脳みそついてんのか?惰性で生きてんじゃねえぞ
窓ガラスには整備点検などを表すシールが貼ってあり、リアガラスには環境なんちゃらとかのシールが何枚かあって一昔前の和製ノートパソコンのようだ
それは、何もしないことだ。
最近やっと分かってきたんだ。
それ以前に人間という生物として自分のことを捉えなきゃいけなかったんだ。
何もせず過ごす時間は何よりも大切で、有意義で、生物の基礎として譲ってはならない時間だったんだ。
他の哺乳類、霊長類を見てみろ。彼らは圧倒的に、何もしていない時間が長い。そこに気づきを得るべきだ。
動物と人間は違う、などという考え方はただの驕り高ぶりにすぎない。
何もしない時間のことを休息と呼ぶなら、睡眠も似たような文脈で語られることがあるが、それとは別だ。
十分な睡眠も当然、何よりも死守すべき時間のうちの一つではある。
脳のデフラグタイムである睡眠も大事だが、それをハードウェアのデバッグとするならば、
何もしないでいられるほど、日常のタスクやら何やらに追われずに済む時間。
精神の安定は、何もしない時間をきっかけに始まる自省によってもたらされると考えられる。
自省を「する」という感覚ではなく、ぼーっとすることが自省に「なる」のだ。
自省というと説教臭い印象が出てしまうが、言うなれば、自分の輪郭を正しく認識するための時間だ。
そういう機会を失ったまま毎日をすごし、それを何年かつづけると、人間は壊れる。
たいてい肉体よりも先に精神が壊れ、最終的には自殺へ向かうように脳が動き出す。
思うに、鬱になった時点でやっと何もしない時間を得られても、ほとんど手遅れなのだ。
不適切なコードの上に不適切なコードを何重にも重ねたスパゲッティコードが、
致命的なエラーを吐きはじめた時にやっと手直しを始めようと思っても、ほぼ諦めざるを得ないレベルに困難なのと同じなのだ。
これは、休日にしっかり休息をとる、という話ではない。
おそらく、睡眠と同じように毎日必要な時間なのだ。野生動物のように。
1日に何分、あるいは何時間、どれくらい必要かは分からないが、長ければ長いほどいいだろう。
これ以上何もせずにいられない、と自発的に動き出す気になるまでは、ぼーっとするべきだ。
これは個人的な体感なのだが、睡眠の場合、前日にたくさんの経験をした密度の濃い日ほど、多くの睡眠時間が必要になる。
それと同じで、たくさんの情動を抱える人、精神が揺さぶられた日ほど、多くの何もしない時間が必要になるのではないか。
その点でいうと、このサイトに書き込んだり閲覧したりという行為は、人によるがいたずらに情動を激しくする行為と言っても過言ではない。
してほしいが自分はしたくないの絶対的な価値観はすごく同意する
さらに私はその口唇で陰茎に接触する行為の一般化が初期の体験からすでに
ありがたく先人の尊さと貢献の重みを素直に感じる大切な経験であった
現在もそれを幾回と重ねようと敬意を忘れることなく眼前の異性に感謝を耐えさせない重要な要素となりえている
上半身と下半身の全く異なる協奏は性行為について着衣や各種状況における変異性を体験として楽しむ
いつからか、はてブでアイコン未設定な人のブコメでのクソリプ的なコメント、記事に対する暴言などが目立つようになってきた気がする。
アイコン設定している人でもそのようなブコメを書く人は当然いるので体感でしかないけれど。
クソリプ書くような人の他のブコメを見ると、だいたい別の記事でもクソリプやら暴言やらやっかみやらをしているので非表示にがんがんしていっている。
イメージ的にはYahoo!ニュースでコメントの酷さと近しくなっている。
Yahoo!ニュースのコメントの酷さは、対応されていた記憶があるので、アイコン未設定な人のブコメの酷さと相関関係あるのだろうか?
物心ついた頃から、精神疾患の名前がつくもののいくつかに乗っ取られ、それを必死でひた隠しにし、自分を騙し、なんとか生き延びてきた。
病気はすべて私の妄想が産んだ被害者意識で、なんらかのメリットがあるから治らないのだと頭で分かっていても、今でも発作的に昔のトラウマが蘇り、みるみるうちに身体が支配されてしまう。
自分を理解できていないから、当然まわりのだれにも理解してもらえなかった。
傷つくことが怖すぎるから、
人との関わりが怖すぎて社会の中で生きられなかった。
誰も信じられないのに、承認欲求が暴れていた。
私は自分が嫌いだった。
そして他人も皆嫌いだった。
またとないチャンスだと思い、勇気を出して自分から抱きついてセックスした。
少しだけ、自分が好きになれた。
容姿端麗で、才能も資質も人とは違う、目を惹くものを持っていた。
光に虫が集まるように、彼のまわりにはいつも人が集まっていた。
女に囲まれるのは当たり前で、経験人数なんてとっくに数えることをやめていて、
しつこく聞いたら、ちゃんと答えてくれた。
ヤリチンは、まさに私が喉から手が出るほど欲しい「承認」を受け続けてきた人だった。
青春時代がすっぽり抜け落ち、恋愛もコミュニケーションも失敗し続けた私は、ダイレクトにコンプレックスを刺激され、嫉妬心がグラグラ煮えた。
これは彼の女性関係に対してではなく、彼自身に向けられた羨ましさだ。
「みんな君のことが好きだよ」と友達に言われていた、というエピソードを聞いた時、私は、劣等感からくる彼への憎しみで頭がおかしくなりそうになった。
こんな人生があったのか!と。出来れば知りたくなかったと思った。(今でもたまに思う。)
ただ驚いたのは、私たちは似ているところがあったということだ。
一際目立ったり好かれたりすることで、
たくさんのひとの、勝手な理想や期待を押し付けられてきたんだろうと思う。
たくさんの人が彼に恋愛感情を抱いていたとしても、彼自身を守り安心感をくれるものではなかったのではないだろうか。
そして彼も、誰も幸せにしてこなかったのだろうと思った。
ヤリチンは心を閉ざしていた。
自分の気持ちは伝わらないし、そんなことはどうでもいいと思って生きてきたようだった。
自分でない自分でいる状態を強いられ、求めるものと求められるものが食い違い続けるの状態は、とても不安定で、心が満たされないことだと思う。
それを不特定多数とのセックスで埋められるなら、私からしたらこの上なく羨ましいのだけれど、本当は欲しいものが手に入らない飢餓感が続くだけだし、彼自身も女性たちの気持ちを無碍にしたことを悔いており、幸せなことではないのだな、と自分を納得させるように考えた。
彼もまた、自分が嫌いだったのだろう。
私のように、他人を嫌う気持ちがあるのかはわからないけれど、人を信じることに恐怖心があるようには感じた。
真逆の人生を歩んできた私たちは、少しお互いのことが理解できたように思えた。
正確には、私は傷つくことを恐れすぎて、時間が経つほどに自分の劣等感を通してでしか彼を見られなくなり、彼の意図や感情を無視した。
彼はそのことを悲しんでいたのだろうけど、それも口に出さず、私に気を遣い、心を閉ざしたままだった。
私が弱さを振りかざしたせいで、自分だってつらい、という気持ちを我慢させてしまったことには後悔がある。
すごく感謝したし、大げさに言うと、彼に対しては生まれてきてくれてありがとう、という気持ちが生まれ、自然にそれを自分に対しても与えることができた。
損得勘定や条件のない関係性の中で、お互いが強く関心を持ち、認め受け入れられるという安心感は、
私が欲しいものだったし、今まで感じていた寂しさの正体を明確にした。
一緒にいるときは、お互いに影響を受けまくった。
私のようなタイプは人と自分の感覚と同一視しがちで、他人の思考に侵食されていく自覚はあったが、
意外にも、信念を貫いているように見える彼もまた、受け取りやすい体質だった。
皆、不安で揺らいでいるのだな、と思った。
愛があるとかないとかどうでもいい。
相手はヤリチンなんだから、私なんてただ流れては消えていく、女の一人で構わないと、今では思う。
人として、女として生きていてもいいと、自分を認めることができた。
勇気を出して、自分から抱きついてセックスしたことのご褒美だ。
物理的に離れることになり、会わなくなってようやく、自分がいかにセックスに溺れていたかに気づいた。
それが、承認されている感覚を助長させ、必要とされている実感を何割増しにもさせていたということも、それにしがみついていたということも。
最近、身体の繋がりがなくなったことへの不安感が、ようやく抜けた。
同時に、自分と彼との間に境界線を引くことができるようになり、自分と比較せず彼の人生を俯瞰的に考えられるようになり、気持ちがとても楽だ。
許斐先生がTwitter始めてから盲信して崇めてる人ばっかりになってつまらないよね。
「昔はみんなたしけ(笑)って言ってたのに最近はそういうの言えない。昔のTwitterは楽しかった」
「たしけ()」呼びとか空耳テニミュとか、楽しみたい人は楽しめば良いよ。
馬鹿にするような呼び方や違法アップロードして笑いものにするのは正直不快だったけど、それも先生が拒んでないなら良いよ。
好きにすればいい。
でもその「おふざけ」を私たちにまで強要しないでくれ。私たちにまでたしけ()呼びを強要しないでくれ。
去年のサマバレやディナーや、最近だとカップヌードル関連のこととか、先生の言動を不審に思うこともあるだろう。
先生のファンである私でも「そこはちょっと別の言い方した方が良かったんじゃないかな」と思うことは時々ある。
私たちは今までテニスの王子様にたくさんのものを貰った。色んなハッピーを貰ってる。
99のハッピーを貰っておいて、1過失があったら「こんなことをするコンテンツは信頼ならない。もう嫌い。でも今まで関わった時間がもったいなくて腹立たしいから黙って離れたりなんかしないで叩いてアンチ活動する」っておかしいよ。
そこは「今までありがとう。ばいばい」か「そこは訂正した方がいいよ!」となって欲しい。
たしけ()呼びも空耳も好きにすればいいし、先生批判も作品批判も好きにすればいい。
でもずっと黙って我慢してた私たちが「実はたしけ呼びも空耳も嫌いなんだ」って呟くことくらい許して欲しい。
「昔はみんな楽しくたしけ()って呼んでたのに」じゃなくて「ふざけた愛称でもそこに何がしかの愛があるのは分かっていたから黙って我慢していた人が我慢せずに済むようになった」だけなんだよ。あなたの楽しさは誰かの我慢の上に成り立っていたものなんだってことわかって欲しい。
極端な例えになってしまうけど、18歳まで優しく厳しく健康的に育ててくれた親が18歳の誕生日に「選挙権持てたね!じゃあ次の選挙山田さんに投票して!お父さんが世話になってるから!」と言った時に『選挙法違反だ。こんな親に育てられて恥ずかしい。こんな親嫌いだ。こんな親とは二度と連絡を取らないし、選管に通報してSNSで晒して他の知り合いにも教えて社会的にバッシングして孤立させよう』って発想にならないと思う。
悪いところは注意しようor考え方が合わないからちょっと距離をおこうorそこは賛同できないけどこれまで受けた恩は返す。というあたりが妥当でしょ。
2~3年の通り過ぎて消えていくコンテンツじゃないんだよ。約20年お世話になり、またこれからも続いて欲しいコンテンツの生みの親なんだよ。
貶し愛みたいな愛があるの分かるよ。私はそれをしたいとは思わないけど、そういう身内ノリ的なものが楽しいことは理解出来る。
ただ、貶し愛がストレートなファン心理より上だとは思わないで欲しい。もちろんストレートなファン心理が貶し愛より上ってこともない。ただ愛の表現方法が違うだけだ。
「たしけ()って呼ぶ人がいなくなって窮屈」「駄目なことをしても擁護意見ばっかりで反吐が出る」
そう思うのは自由だけど、どうして呼ばないのか、どうして擁護意見が多いように見えるのか考えて欲しい。
もちろん盲目的に許斐先生を盲信して先生がおっしゃることは100%正しい!とか言う人もいる。そういう人はどうかと私も思ってるよ。
でも、ただ「貶し愛が得意ではない」「悪いことは悪い。毎日美味しいご飯を作ってもらってるのに味噌汁の味が1回濃かったくらいでちゃぶ台ひっくり返すみたいな恩知らずなことをしたくない」という人の方がずっと多いと思う(私の周囲の体感でしかないけど)
今日の味噌汁は味が濃いね。次から気を付けてね(指摘)とか、お湯少し足していい?(サポート)とか、味噌汁作るの苦手ならインスタントも美味しいよ(作品外のことは編集その他に任せる提案)とか、そういう当たり前の意見が突飛な熱烈信者やアンチに押されて見えなくなってしまっている。
要は
(1):たしけ()呼びが許されなくなったわけじゃない。我慢していた人たちが嫌だと言える世界になっただけ。呼びたければ呼べばいい。これ以上こちらに我慢を強いないでくれれば良い。
(2):20年も世話になってるコンテンツには多大な恩がある。一緒になって叩かない人を全て一律に『盲信的な擁護』と思わないで欲しい。間違いに対する対処は指摘や叱咤、解決策提案、今後の動向見守り等が妥当だと考えているだけ。
ということが言いたかった。
「ミスしたら批判だけでなく叩きも甘んじて受けなければならない」
そういう考え方ももちろんあるだろう。
そうじゃない考え方もあること、知って貰えたらいいな(と思って書いたけどこれをその人たちが見ることはなさそうだなぁ。まあ、テニプリに限らずどのコンテンツでも言えることだと思うので目に止まった誰かの思考材料になれば幸い)
ひと月半経ったが、就職活動やろうと思っても何から手を付けていいのかわからない。
転職回数が今回で4回目の三十路男、資格は大卒と自動車以外ほぼ無しなので、「もう無理だよ」となげやりになってしまっている。
同居している家族には心配かけたくないからエア出勤して、役所などからの連絡は先手打って届かないようにしているけど、もう限界だろう。
そもそも、ざる頭なので仕事の積み重ねが出来ない事と、周りとの軋轢をため込んでしまい、(周りから見て)礼儀正しく大人しいのにいきなり爆発してしまう性格がこの状況を生んだのだ。
マニュアル化が徹底されていて人を大事にしてくれる(らしい)アメリカか、大きな工場を持っている(つまり、入りやすいかもしれない)ロシア辺りで工員をやって、日本に工業の伝道師として凱旋する事も考えたのだが、そもそも70年前とは状況が違うだろう。(「日本車はハイウェイで走れない」という事実もあり、自動車教習でもなるべくシャカリキに回すようにしたが、ハンコばかりが増えていき退学させられた事も鑑み。)
かといって、このまま貧しい日本にいるのも何だし、捕虜に良くしてくれたという先人の体験を考え、「失敗の本質」や上流層育ちの速水螺旋人さんや上坂すみれさんが凄く立派な国とか言ってることも考えるなら亡命や片道切符も良い選択肢だとは思う。
いや、馬鹿じゃないのか。捕虜と放浪者は丸木舟と水牛の死体の関係と一緒で、似てはいるものの体感的には別のものであって、一旦娑婆から離れてしがらみ全部リセットしてデカイ事やって立派になって社会復帰するなんて私には出来ない。
たとえ要介護であっても親なりに世話してくれ、期待を裏切り続けたが、それでも私が見捨てられない家族を捨てていくなんて出来ない。なんて恐ろしいことなんだろう。
そもそも世界に口を広げられる人と市井の人とは厳密に線引きがなされていて、俺があれいやだこれいやだこれいいあれいいなんて言っても「は?」の一言でおしまいだろう。フィクションとは違って。
でも地方都市の郊外暮らしで年金と安月給でなんとか生活しているなんて、客観的にみればもう人生破綻しているようなもの。
だいたい、ネットではキモカネとかなんとか議論があるけど、思っていることを言葉にするなんて難しく骨が折れることだし、言葉にできる人は当事者とはとても思えない。
シロクマ氏も精神科医だし白饅頭氏も青識氏も口が上手いし少なからず立派な人だ。私は静かに消えていくしかないのさ。
みんな、ごめん。
ツクヒは普段から不機嫌が服を歩いているような人間だったが、この日は特に虫の居所が悪かったようだ。
体調が完全に回復していないのだろうか。
それとも昨日は寝入りが悪かったのか、はたまた寝起きの低血圧か。
朝食を食べ損ねたからなのか、朝の占い番組の結果がダメだったのか、エレベーターが中々こなかったからなのか、通学路の信号で尽く足止めをくらったからなのか、気温がいつもより低めだったからなのか、湿度が高かったからなのか、変なところで足をつまづいたからなのか、苦手な先生が話しかけてきたからなのか。
結局のところ理由は分からないけれど、当の本人すらよく分かっていないんだから、俺に分かるはずもない。
でも分かっていることだってある。
何かを指摘して、それが結果的に合っていても間違っていても、火に油を注ぐ可能性がある。
「どうしたの? 随分とイライラしているね。食生活が偏っているんじゃない?」
対立は決定的となった。
「御託は結構」
ツクヒは、ペットボトルの飲み口部分を握り締め、既に臨戦態勢だ。
俺たちはそれを止めようとはしない。
いま、あの場にいるのはツクヒじゃなくて、俺たちの誰かだったかもしれないのだから。
「ブリー君。どうしても断る理由があるのならいいけど、ないのなら受けて立った方がいい」
「ブリー君には自覚がないようだけど、これは必然的な戦いなんだ」
「もう、分かったよ。やればいいんでしょ。でも、何でペットボトル……」
気圧されたブリー君は、渋々といった感じでペットボトルを握り締める。
このペットボトルを武器にして戦う慣習は、学校の生徒たちによって作られた。
なぜこんな方法が生まれたかというと、「怪我をしにくいため」。
そして何より「子供のケンカに大人がしゃしゃり出てこないようにするため」だ。
だけど、これは両方とも大人の言い分だ。
お年玉と一緒さ。
身勝手な大人は、その“お年玉”を子供たちが与り知らぬところで使う。
そんな状態で、もうどうにも止まらないことが起きた時、子供だけの社会で何ができる?
大人たちが毎日どこかでやっていることより、遥かに平和的なケンカだ。
なのに、出しゃばりな大人たちは大きく騒ぎ立てるんだからバカげている。
同じ人間として扱っているようで、内心では子供たちを見下しているんだ。
だから、違うレイヤーに平然と土足で入り込み、その干渉が正しいとすら思っている。
そんな大人たちに、俺たち子供の世界を侵略されるのはゴメンだ。
そうして当時の子供たちは、子供たちによる子供たちのためのルールを自然と作っていった。
それは時代によって形を変えつつも、今なお残り続けている。
このペットボトルによる戦いも、その一つってわけだ。
そして今、その火蓋は切られた。
「おい、ブリーどうした! 腰が入ってないぞ!」
「いや、だって、ぼくはこれ初めてだし」
「ビギナーであることを言い訳にするな。オレはこの容姿のせいで、10戦10敗だ」
「それ、きみが弱いだけじゃ……うっ、脇はやめて」
今回使われていたペットボトルは、エコタイプだったので柔らかめ。
しかも、二人とも運動神経がよくないから、勝負の内容は凄まじく泥臭かった。
「さっきからお前は、口だけか!」
「ぐっ……ぼくは間違ったことを言ってない」
「“間違ったことを言ってないだけ”だ! お前はそれをウィルスのようにバラ撒く! だからみんな近づきたくないのだ!」
それでも俺たちは見入った。
ツクヒがブリー君に投げかける言葉、振り下ろされるポリエチレンテレフタラートによる一撃。
それらは、いつか誰かが実行していたに違いない。
それがツクヒだったというだけだ。
「オレはまだまだギブアップしないぞ!」
「こっちだって!」
ブリー君も雰囲気にあてられて、ペットボトルの振りが本格的になってきた。
「いいぞーやれー!」
「チャイムが鳴るのはまだ先だ! 頑張れー!」
ドッジボールをしていたときよりもエキサイトする、とても自由で豊かな感覚だ。
「あなたたち! 今すぐにやめなさい!」
だけど、終わりは突然だった。
俺たちによる俺たちのための闘争は、より力のある人間によって簡単に介入され、無理やり組み伏せられる。
それをしたのがルビイ先生だとは思ってもみなかったけど。
個人サイトの話をするといつも思い出す。
多分、その時のトレンドで左にずっとメニューが並んでいるのがかっこいい時代だったんだ。
「フレームページがTOPページだと駄目」という噂が流れて(これなんでだったんだろ?当初はGoogleもそこまでメジャーじゃないからSEOもそこまで気にしなくてよかったしフレームページにコンテンツがなくてもサイトディスクリプションを設定できたはず。)
みんなこぞって「ENTERページ」を作るっていた。
もちろん、それ以外にもR18禁のサイトのゾーニングにも使われたが、エロサイト以外でENTERページがあるのはほぼフレームをつかったレイアウトだったと記憶している。
ENTERページっていうのはこういう感じだ。
増田のページへようこそ!
~
ENTER
まぁ細部は違うがこんなもんだ。
愉快的に荒らすような連中がどこにでもいて、ちょっと掲示板を荒らされて、それでも反応してしまう奴がいる。
利用規約に書いてあるのに…。
読んでないと絶対に入れないようにすればいいんだ!と。
そうなると以下のようになる。
増田のページへようこそ!
~
上記の内容に同意できた方のみ一番上の文章を読んでからお入りください。
ENTER
ページにはいるには
の「ここ」を押すのが正解で、読んでいれば入れるという仕組みだ。
じゃぁ、読まずに「ENTER」を押すとどうなるか?
利用規約も読めないんですか^^;
~ 思いつく限りの罵詈雑言 ~
とっとと帰れ^^;
こうなる。
盛りすぎ!と思われるかもしれないが、ほぼこんな調子だった。
今はENTERページ自体をみなくなったため、この文化はなくなった。
それでも、俺はお気に入りに入れてたページを開いていつものようにENTERから入ろうとした時、いきなり罵詈雑言を受けるという仕打ちを何回も受けたことを忘れられない。
2匹飼っている猫が両方とも時々餌を食べた後に吐いていた
猫は元々嘔吐するものだと聞くし、猫たちの体調も別に悪くなさそうだったので様子を見ていたが
猫はツンツンした草などを食べて、その刺激で毛玉などを嘔吐して胃から出すという
すると、それなりの長さがあって、かなりツンツンしている煮干しもまた、嘔吐を誘発し得るのでは?
新井紀子は最初は重要な問題提起をする人ととして出てきて、しかしだんだんと評判が落ちて今では痛い人扱いだ。
これはインターネット以降に出てきた人のほとんどがこの末路をたどっていると思う。
例えば菊池誠だって最初は重要な問題提起をする人として現れてだんだん痛い人になっていった。
古市だって最初は統計データと実地取材から若者論を書く人だったんだ。
ちょっと有名になると何でもかんでも放言する痛い人に、今の時代はみんななっていく。
で、これは個人の資質の問題じゃなくて、おそらくツイッターのアルゴリズムやフォロワーが数値化されることに原因がある。
これは体感的なものだけど、フォロワーが3万人を超えたあたりから、人はだんだん痛くなっていく。
本来なら留保すべきことを根拠なく言い切って、反論を「たいしたことない意見」として切り捨てるようになる。
これはきっとツイッターの仕様そのものが、自尊心を肥大させて人を痛くする傾向があるんだ。
それをちょっと前まで何の注目も浴びてなかった、人前に出ることを訓練していない人が浴びちゃうと、こういった変質を招いてしまう。普通の人がフォロワーが増えてしまったときの変質を考えると、芸能人はすごいなって思うよね。
もっとみんなこの問題について考えるべきなんだ。SNSのアルゴリズムが人の振る舞いに影響を(悪い意味で)与えちゃってるんだよ。しかも本人もその取り巻きも、そのことはまったく自覚していないんだ。
同胞よ、反応があって嬉しい。おれは野良の哲学愛好家だ。知的生命体の邂逅を描いたSFが好きだ。人類学が好きだ。歴史が好きだ。地学が好きだ。知的な駆け引きが好きだ。研ぎ澄まされた統制術が好きだ。肉体的限界を超えようとする挑戦が好きだ。地道な研究による技術の発展が好きだ。ユーモアが好きだ。人類の英知が好きだ。親が好きだ。兄弟が好きだ。兄弟の家族も好きだ。妻が好きだ。質や量を問わない様々な情報の統制機構がおれだ。おれは公私があって、人格を持っている。特に説明のない語は、現代日本語の辞書をググってなんとなく多数派なふわっと一般的な意味で捉えてほしい。誤解の可能性のある語や別の定義を仮託したい語は、云々とは、と書く。
早口っぽくて申し訳ないが、これはまもなく命を失う可能性のあるおれ個人の遺書であり、遺伝子であり、知性の漣を発生させる小石であり、財産相続であり、ディープインパクトであり、ネット上の記号であり、図書館のガラクタであり、くだらない承認欲求の衝動的発露なんだ。紙媒体にも書いたが近親者しか読まないだろうし、読まない可能性もある。肉体的末裔を遺せない知性的個人としては私(し)を遺しきれないと思ったんだ。悪く言えば知性的通り魔だ。すまない。
野良なので語の定義がガチャガチャだ。批評してもらえると嬉しい。
世界とは、場、範囲。すべての社会。ここでいうすべてとは、意識上、無意識下のみで、不可知を含まない、限定的な意味。社会とは、複数の個人の集まり。まるで機械のようにふるまったり、大きな個人のようにふるまうこともできる。個人とは、人類のうち、外的要因を受けて認知し、内的要因を加えて表現し、社会と取引する主観。個人は社会の主であり、友であり、子でもある。個ではなく個人とした理由は、時代的背景として保留したい。肉体的生命、人間、新人、ほ乳類、動物、生物とその無生物的ふるまい、無生物の生物的ふるまい、ミーム、知性体、人工主観、共有された主観などを考慮する必要性もあるが、保留したい。主観とは、客観に対する語であり、subjectや主体とは別け、現代日本語的に理解してもらいたい。機械とは、入力に応じて定まった出力を行う機構。
平和とは、状態。穏やかで、かつ調和が保たれている状態。穏やかとは、①不信、不満、不可逆性、不確実性を内的要因に含まない、個人の状態。②主体性をもち、共感しうる、個人の状態。③肉体的闘争の無い、社会の状態。不信とは、信用や信頼のないこと。不満とは、欲求や権利などが満足しないこと。主体性とは、意識上の表現を実現する能力や可能性。肉体的闘争とは、個人の臓器や器官の機能を減退させる、個人対個人、個人対社会、社会対社会の干渉現象。犯人逮捕、子の虐待、直接的死傷者が出る国家間戦争などを含むガバガバ定義。闘争とは、場の範囲を別ち干渉し合う現象。関連して、個人的闘争とは、感知と認知と表現の隙間や意識と無意識の隙間や主観と肉体の隙間などの、個人の内的な場に起こりうる干渉現象。教育、先入観の体感的獲得、気分障害、倫理観などを含むガバガバ定義。思考は個人的闘争である。意識とは、感知して統制できる一部の主観。調和とは、①主体性をもって個人たりうることを保証し合う社会。②内的要因と表現された自己疎外が正の関係にある、個人の状態。
狭い意味としては、調和の①の意味、複数の個人つまり社会が、互いを外的要因として認知し合い、内的要因を加えて表現し合うことに合意した状態。広い意味としては、調和の①の意味に加えて、穏やかの③の意味を含める。別の意味としては、すべての個人の人権が実現する世界の状態。世界平和の観測者は個人である。おれとあなたの世界平和は別だろうが不可知だ。
体感での話だが、日本で育つ養子は劣等感や、渇望感、コンプレックスをいだきやすい。有名人に養子や養子を育てている(と公表している)人が少ないことや、日本社会が血のつながりを重視することが関係しているのだろう。
典型的なパターンは、自分を養子に出した生物学的な親に執着して養親家庭に反発し、渇望感や疎外感を深めてしまい、非行に走ったり、社会性に問題が出てしまうというもの。
日本から、養子がいなくなることはない。様々な事情で養子は生まれ続けてる。例えばアメリカでは、もちろん不幸な養子もいるが、幸せそうに暮らす養子の率が日本より明らかに高い。どうすればああいうふうにできるんだろうなあと、今日も考えてる
こちらの世界では何一つ取り柄のない平凡なつまらない人間であることが重要なのだよ。そうでなければ読者が一体感を持てない。そういう何一つ取り柄のない平凡なつまらない人間でも異世界に行くことによって無双することができると読者が夢想するのだ。
はてなユーザーもやはり人との交流に飢えているということだろうか。もはやインテリ気取りすら存在せず、群れてわーきゃー戯れたい大衆しか残っていない。由々しき事態だと私は思う。
たしかにアンケート増田という安易な交流手段によって手軽に孤独感を紛らわすのは気持ちがいいかもしれない。人と繋がっている気がするし、スターをもらえれば自分を認めてもらえたような気持ちになるだろう。しかしこういった行為は徐々にはてなユーザーからなけなしの知性をもぎ取っていく。ネット上で比較的知的なSNSというイメージのあるはてなだが、アンケート増田によって確実に知性が剥ぎ取られていっている。
アンケートの内容はどうだ。ほとんどがアニメ、漫画、映画、ラノベ、アニソン等々、オタク好みの話題ばかり。まるで専門性がない。大衆にヒットするというのは非専門的であるということだが、知的なSNSというスタンスのはてなでこの程度のアンケートしか盛り上がらないのはどういうことなのか。「海外サイトがブクマされてないはてなで今更何言ってるんだ」たしかにそうかもしれない。はてなにはインテリなどほとんどいない。ウィキペディアや入門書、新書で得た知識で知ったかぶるような知的コンプレックスを持った落ちこぼればかりだ。
なぜか知的なSNSはてなでもアニメや漫画やラノベに詳しい人たちが知識人として尊敬されている。専門性を持たないただ大量消費するだけのオタクがもてはやされている。彼らは専門性を持たないからネットのどこかで見たような誰かの受け売りでしか語れない。サブカル知識だけは大量に吸収しているが、彼らは考えが浅い。というか考えることを完全にやめて知識を吸収することだけを続けている。物事の皮相しか捉えることができない。彼らは広大な表面で生きている。世界の深みに触れようとしない。すべては一問一答式の知識の配列でどうにかなると思っている。すべてを軽く捉える。すべてを冷笑する。なけなしの知性を大量消費社会に捧げてしまった人間にとって世界に謎は存在しない。すべてが解決済みだ。だが、世界は解決していない。それが真実だ。大量消費という麻薬によってオタクは考えることをやめ、現実の世界から目を背けた。
アンケートに意味はない。なぜならアンケートとは大衆による人気投票だからだ。真の知識人と考えることをやめたオタクの一票が同じ扱いをされる世界だ。そんな世界に真の知識人がいつまでも残っているだろうか。ばかばかしくなってそんな世界からは去ってしまうだろう。結果的にアンケート増田の流行によって、考えることをやめたオタクだけが選別され残ることになる。はてなは何も考えない空間になるだろう。「これはひどい」「炎上」タグをつけて勝った気になり、世の中を冷笑してかっこつけるオタクだけが残るようになるだろう。そこは考えることをやめたオタクにとって最高に居心地の良い世界だ。はてなにおいて「小説家になろう」が一定の評価を受けているのは、はてな自体が「俺TUEEE」的言論空間になっていることと相性がいいからだろう。大量のサブカル雑学を摂取して、膨れ上がった脂肪を見せ合って、「俺たちすげー」をやっているわけだ。ますます考えることをやめたオタクが熟成されていく。その一体感は危険なのだ。
アンケート増田には参加するべきではない。一歩離れて、アンケート増田に参加しているはてなユーザーを観察する側に回ってみることをおすすめする。最初は彼らの一体感に憧れを感じるかもしれない。自分もそこに混ざりたい、スターもらいたい、そう思うかもしれない。そこでぐっとこらえてしばらく安易な一体感から離れてみてほしい。そうすると見えてくるものがあるだろう。そのとききみは人間として考え始めるのだ。