はてなキーワード: 自慰とは
「○○駅で人を殺す」とネット書いた人が捕まるのは、みんな殺されるのが怖いから。生存権に対する脅迫だから。
往来で包丁を持ち歩く人が怖いのも同じ。
だけど、こと幼児に対する性犯罪となると想像力が豊かなはずのオタクはみんな白痴になるんだよね〜。
女子供の性犯罪被害や恐怖なんてどうでもよくて、自分が気持ちよく自慰できるほうが大事なんだよね〜。
幼稚園児のころオッサンに公園の茂みに連れ込まれて舐めろと言われたこっちからすると、幼女のパンチラをオープンSNSで好む連中なんか脅迫者でしかないわ。
鉄道系の愛好家を標榜する人々は当初、インターネットを通じて、比較的、社会的上級層とされる大学生・大学院生や社会弱者、在日外国人を巻き込みながら、自然発生的に活動してきました。特に鉄道を集団で消費する事で、オタクといわれる層から支持をうけながら、「鉄道文化」として集散発展しました。特に非モテ・非高所得者が集まり、ありもしない社会問題を叩くことで、少数派の権利という名の正義を振りかざし、自己のアイデンティティやレーゾンデートルを維持させる社会の掃き溜め装置としての役割を担ってきたといえます。これは、冷戦期のソ連や中国が、学生や知識人を買収したスターリンや毛沢東の出現の時代と全く同じように、大政変渦といわれる日本において、鉄道趣味が露悪な消費で左翼の憤懣を持つ層の心を鷲づかみにしている事に酷似しております。
さて、時代の掃き溜め装置として自然発生しネットを通じて異常増殖したこの集団は、昨今、テロリスト対策およびスパイ規制強化以降、非常に苦しい状況に置かれている左翼や、その配下の学生団体の格好の標的となりました。特に欧米や日本の有名な鉄道愛好家などは、ユーチューブなどでも公開されているように、左翼団体の配下の学生団体と行動を共にするようになってきました。テロリスト対策法およびスパイ規制強化による暴力集団対策の制限を受けない、文化運動の形をとった新たな左翼の手先となって進化しているわけです。
新興宗教=左翼のフロントと結託して文化運動の名の下に、一般人を利用して文化活動をし新たな左翼ビジネスを展開して寄付などを通じて集金装置となっておるわけです。現に、多くの鉄道ファンが宗教トラブルや左翼トラブルを起こしている事は有名な事実であります。日本の私鉄は宗教系の企業である事はネットでもガンガン流れていることも証拠です。
日本の鉄道趣味は左翼にとっては金ズルでありつつもトカゲのシッポに過ぎません。よく些細なことで警察沙汰を起こしていますが、基本は親車社会勢力=右翼連中を抑える力として彼らの力を利用し、たいがいの迷惑行為に目を瞑り泳がせている状態です。
結局は左翼に丸め込まれて、血をすわれるのは、こうした連中を支持し献金している一般人です。彼らが時々いい事をするかもしれませんが、品性が全くありません。本当に鉄道を愛するのであれば、他者を認める度量が器が合ってしかるべきです。20世紀の鉄道趣味はそういう大きい器がありました。それに比べたたら今のこの連中がやっている事はストレス発散の自慰行為や若気の至り行為以外でもありません。昔のヤンキーや反社系の似非右翼と何一つ質が変わらない低レベルです。文化人の品格を考える意味でも革新系の代弁者として本当に相応しいもの達であるかどうか、よく思慮すべき対象です。
無理ないよ。
性的嗜好を持っていてもそれを抑えてそいつのための行動をすることはそんなに難しいことではない。
個人的におすすめすることは、一日三回自慰をすることだ。あとは別の嗜好を持ってそっちで満たしてると、もとからの嗜好は多少弱まる。
児童型ラブドールに反対する意見のうち、「表現物としてそれが存在することが、児童を性的対象とすることがあたかも当然であると人々にイメージさせる要因になる」という意見について、思ったことを書く。
(「人を傷つける欲望を内心に抱くこと自体が間違いである」という意見については、「日本国憲法第19条を読んでね」で片付けられるので触れない。)
まず、「表現物として児童型ラブドールが存在することが、児童を性的対象とすることがあたかも当然であると人々にイメージさせる要因になる」というのは、まあそれは事実だと思う。
「万引き」という言葉の表現があるゆえに、「万引き」という[行動/犯罪]を[一般的な/軽微な]ものと少年に誤認させてしまうのと同じ。
この世に生み出された表現は、程度の差はあれ絶対に意識に影響を与える。
だからゾーニングが必要なわけだけど、年齢による区分だけでは、どうしても表現物と現実との区別が付けられない人間を排除できない。
でもそれはなんだってそう。よくある喩えだけど、包丁を扱ってよい年齢の人間がみな包丁を正しく使えるわけではない。
しかしながら、結局その表現物が現実の犯罪被害を拡大するか抑制するかについては証明のしようがなく、
[証明された/証明されうる]因果関係がない事柄について、“感覚のグラデーション”がどこにあるか、を主張しあうのはあまり意味がないと自分は思う。
どのカレーの辛さが好きかを言いあっているようなもの。わかり合えるはずがない。
ただ、特に女性の反対者の意見を見て感じるのは、男性の自慰行為の本質を理解していないゆえの、“感覚のグラデーション”の偏向
(児童型ラブドールのターゲットが男性であるという前提に立って、敢えて「偏向」という言葉を使う)があるのではないかということだ。
射精後の性欲の減退を感覚として体験できる人間と体験できない人間では、男性の性処理に関して“感覚のグラデーション”に差が出るのは当然である。
そもそも全ての(正確に言えば全てに近い)自慰行為はバーチャルなセックスであり、ラブドールは性的対象のイメージを脳内に喚起するためのひとつのファクターでしかない。
また、精巣の中身を掃き出したいという欲求と、イメージする対象と性行為をしたいという欲望は、隣り合ってはいるが違うもののように感じる。
つまり、男性の自慰行為はそれ自体でバーチャルに完結したものであり、ラブドールの否定はある意味で全ての自慰行為の否定なのだ。
……なんかもう深夜のテンションで書いたから特に新しいことも言ってないし言ってることよくわかんないですね。
要するにオナニーして精子出して賢者タイムになったことのある人間なら「そりゃオナペットのイメージが補強されたら性的欲求満たされて現実の性被害は抑制されるんじゃない?」という感覚を持つよね。
寝ます。
性欲を消したいと思い、女性ホルモンに近いと言われる大豆イソフラボンサプリを飲み続けたところ、体の感覚が変わって怖くなった話。
昔から性欲が邪魔だった。オナニーを2日我慢すると体が震える。ペニスがイライラして、射精の事しか頭になくなる。かといって、放出したらしたで思考力は低下し、強烈な眠気で意識は飛び、あらゆる事に対する興味が消え失せ、ネットサーフィンをする芋虫になる。小学4年生で性に目覚めて以来、性欲は自分の人生の妨げであった。自分と同じように、性欲に支配されてきた人も多いだろう。性欲に動かされた人は、異性を求め、何だかんだ結ばれて次の世代を生み育てる。だが、自分の場合はそうはいかなかった。 現代では、魅力的でない男性が女性に性欲を向ける事は、犯罪とまではいかずともモラルに反するのである。
そもそもの話として、性欲は必要なのか?要らないのではないか?いや、性欲は人間が種を保つためには必要ではある。子孫を残すためのセックスへ向かう動力源として、性欲は必要である。
では、性欲は自分にとって必要なのか?これはNoだ。もし自分が将来子供を持つことが出来るなら、性欲はあると良いだろうが、自分にはその可能性は無い。自分は女性を嫌いではないが、女性は、自分のことが嫌いである。だから自分も、異性の肉体は好きだが、異性は好きではないとと思うことにした。異性との人間関係を維持するコストは大きすぎるし、リターンはつまらない話を気を遣いながら聞けるくらいだ。酸っぱい葡萄の話は知っている。失恋をした訳ではない。話題が逸れるのであまり語らないが、もう無理なのだ。ともかく、自分は異性と関わる可能性がない以上、子供を持つこともないだろう。結局、自分にとって性欲は必要ないという結論に至った。
さて、邪魔かつ必要ない性欲をどうしようか。除去できるものなら除去したい。そう願っていたところ、突然その日は来た。
大豆イソフラボンを聞いたことがあるだろうか。これは、大豆に含まれるポリフェノールの一種で、女性の美容に効果があるとされている。その原理は、大豆イソフラボンが女性ホルモンと似た働きをするからだそうだ。話は変わって、女体化、いわゆるメス堕ち界隈では、女性的な体になるために女性ホルモンを摂取することが知られている。女性ホルモンの摂取により、男性的な生殖機能や性欲は減退するそうだ。
これらを組み合わせると、大豆イソフラボンを過剰摂取すれば、性欲を抑えることができることになる。もちろん医学的に直接の根拠がある訳ではない。人の生殖能力を奪う実験など、倫理的に許可されるはずがない。
思い立った自分は、すぐに大豆イソフラボンサプリメントを購入した。Amazonで1500円でこんなにも簡単に去勢グッズが手に入るとは思いもしなかった。1日1錠のサプリメントを、朝、夕と飲んだ。
効果は絶大であった。ペニスのイライラは無くなった。爆発するような性欲は無くなった。爆発的な食欲も減った。朝勃ちも無くなった。オナニーはまだ1日1回しているが、以前のような勃起力はなく、射精の勢いは非常に弱々しくなった。実験は成功だ。性欲は確実に減退した。休日を自慰に耽って溶かすこともなく、ペニスと戯れているうちに朝日が昇る心配も無くなった。
が、少し怖くなった。自分の生殖能力は大丈夫なのだろうか。大豆イソフラボンの過剰摂取が原因で精子が作れなくなるかもしれない。しかし、問題が顕在化するのは、自分がつがいを作れた場合であり、その可能性は非常に小さい。だから問題は、問題ではない。大丈夫なのだ。
処女を失い、オナニーが気持ちいいのだと気付き、暇な夜はネットの海でオカズをふらふら探すようになった。
割と性欲と好奇心が強いので、色々なジャンルのエロコンテンツに触れたが、SMが一番興奮した。
初めの頃は、イケメンにちょっと意地悪される程度のものが好きだったが、次第に深みにハマり、今は剃毛や落書きプレイをよく見ている。痛みを伴うものより精神的に服従を感じるプレイが性癖に刺さる。
そして、今、とてもやってみたい。彼氏も1年ほど途切れ、SMコンテンツを眺めながら自慰に耽る日々の中で、体験してみたい気持ちがどんどん大きくなっている。
だが、実際どうすればできるか、と考えるとなかなかどうしてハードルが高い。
まず、彼氏を作って自分のマゾヒズムを打ち明けるのには抵抗がある。
恋人には、ある程度対等な関係性を求めているし、虐げられた数時間後に笑顔で一緒にイタリアンのランチ、とかできる気がしない。
そもそも、普通に出会って恋愛関係になった彼女がセックスのときに体に肉便器と書いてくれなどと頼んだら破局案件ではなかろうか。
では、プロに頼もうと思っても、現住所は県全体が田舎と言っても過言ではない地方都市である。
一応県庁所在地だが、ネットで検索してみても、SMバーも女性用風俗もない。出会い系や掲示板は初心者には流石に怖い。
そんな我が街だが、男性用の風俗は結構色々あるみたいだ。SMから熟女、ニューハーフに至るまで検索すれば一通り出てくる。純粋に羨ましいと思い始めている自分がいる。
東京や大阪に行けば、女性用のSM風俗もあるようだが、交通費・プレイ費用・宿泊費等考えると10万円近くなりそうである。私の現在の生活水準では、欲望にブレーキをかけるには十分な金額だ。
そこに今回の新型コロナである。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、この時期に自分の欲望を満たすため、都会に行ったり知らない人と性的接触を持ったりするのは褒められた行いではない。
八方塞がりの私が、満たされる日は来るのだろうか。
p.s 男性への羨望から煽るようなタイトルになってしまったが、書き始めてパッと思いついたので、私の素直な気持ちなのだろう。そのままにしておく。
「小児性愛のカジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛のカジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛のカジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体がセクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的に断罪することはマジョリティの傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。
批判者が「小児性愛のカジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。
「娘の成長を見てくれ」と言って筐体で遊ぶ小さい娘さんの写真を2枚貼ったツイートにも、リプ欄で「えっちです」ってのがあったんだけど、こういうコメントを気軽に送れちゃうのも社会で小児性愛がカジュアルになりすぎた結果だと思うんだけど— E (@nice_comp_net) May 29, 2020
しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラの一種であり、「対象が児童だから」問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛のカジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛を批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存の議論焼き回しである。
小児性愛と成人性愛の本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代の倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である。児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義と児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である。
「児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値な命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャル、さらにはアセクシャルを自認する人々からも批判が殺到した理由はそこにある。
「(実在児童を対象としない、無機物を対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているからである。
前節では、問題の本質は「小児性愛のカジュアル化」ではなく、「性愛のカジュアル化」であると言った。では「性愛のカジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボンの荻野さんも以下のように言っている。
逆に、実質、ポルノとしてマーケティングするものであるのなら、18禁でなくとも、広告だけでなく、表紙の陳列やらまで含めて、賢明にどんどんゾーニングして頂くというのが、多分最適解なんだけどねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) November 13, 2019
その理由としては例えば、①性的プライバシーの問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題を内包する言動」こそを「性愛のカジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。
①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要な概念である。実際、他人の自慰を制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)
「男女を問わず、自慰は最も内密の行為である。誰の権利も侵害せず、自分の性的趣向と欲望を満足させる行為であり、性的自己決定権の領域に入っている。女性を卑下するという理由で自慰道具を禁ずるとしたら、女性を卑下せずに可能な自慰行為とは何なのか?」 pic.twitter.com/3lyXymSaF0— NPOうぐいすリボン / Uguisu Ribbon Campaign (@jfsribbon) May 29, 2020
話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートなものである。故に、他人の性的領域に、物理的にも精神的にも安易に踏み込むことは許されない。「性愛のカジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしまう効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人のプライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体が話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別は曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペースを尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛のカジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。
②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年にポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。
ここまで、「性愛のカジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易に断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。
荻野さんは次のようなことも言っている。
いわゆる2次元系の性表現が、本当に純粋に「ポルノ消費」されてるだけなら、こんなには揉めてないんだよね、というところを、表象を批判する側だけでなく、擁護する側もなかなか自覚できないというのが、この話の味噌なんじゃないかねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) October 22, 2019
ここで、各国のゲイ・パレード、プライド・パレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。
https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html
https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver
https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/
https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E
やはり、非常に過激でセクシーなファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?
彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体が政治的意味合いを持っているのである。それ自体が政治的表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したからである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのままに表現した、アイデンティティそのものなのだ。
とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインクの配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなたが独善的な基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである。
さらに言えば、政治性とポルノ的であることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別は不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである。
誤謬を見出して批判することは容易である。しかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。
先週、職場からの帰り道、路上で私のことをじっと見つめながらちんちんをしごく65ぐらいの男性に遭遇した。
幸い近くには交番があり、遭遇した旨を伝えてパトロールを強化してもらえることになった。
突然だが私は痴漢モノのAVが大好きである。痴漢モノのAVをpornhubとかで見て普通にオナニーする。
私は生理前にめちゃくちゃムラムラする体質で、そういう日は正直1度のオナニーで4回イく。ギリギリのラインまで触るような整体や、電車の痴漢プレイにも憧れがあって、情報収集のためにOK娘のtwiterアカウントも持ってた。
しかし職場への通勤は電車を使わないため、満員電車に遭遇することはなくOK娘として活動することは実際にはなかった。もしも通勤で満員電車に乗るような環境下だったら普通に埼京線の先頭に好んで乗車しに行っていたかも。
もうここでリアルとフィクションの境目がなくなっていた。私女性なのにね。
実際に私をおかずに路上で自慰行為をした現場に遭遇して、キモキモ案件だった私は、この気持ちをどこかに吐き出したくて仲の良い人に電話をかけようとした。
女の友達にかけようとしたけどそれはやめた。女の子って人生で少なくても1回は、ちょっとした性被害には会うものなんだよ、男は知らないかもしれないけど。
女の子にかけて、私の話が引き金になって昔あった被害を思い出させちゃったら嫌だなと思って、男友達にかけることにした。
男友達にかける直前「私の被害の話で、男友達が興奮したらどうしよう、流石にないと思うけど...。でも痴漢って興奮するものかもじゃん??」と本当に一瞬だけ思った。結果友達は真剣に怒ってくれて、心のイラつきは治ったからよかったんだけど。
私は痴漢のことを、すごく卑劣な行為、犯罪と思えていないんだなぁって。現実世界での痴漢は本来許されない行為なのに、痴漢OK娘予備軍の私は痴漢を愉快なことだと思っている節が自分の中に少しでもあったことに気づいて凹んだ。実際痴漢に会って怖かったし。
痴漢OK娘アカウントがあることで、痴漢しても良いんだって男の認知を歪ませる要因作りに加担していること、そのせいでどこか知らない場所で性被害に会った女の子が怖い思いをしているかもしれないと気づいて、帰り道では結構反省した。痴漢OK娘とオナニー紹介をしていたアカウントは消した。
それが去年、社会人になり、職場の先輩のことを好きになってしまった。
きっかけはクールビズ。それまできっちりした服装だったのに、いきなりラフなポロシャツ姿を見せられて、ギャップにどきっとしてしまった。
爽やかなルックスと裏腹に、結構濃い目のギャランドゥーとバッキバキの腹筋。
細身と思ってきたら、細マッチョだった。
爽やかで穏やかな単なる先輩に男を感じてしまった。
でももちろんあちらにはその気はなく、飲み会などでも、奥さんの惚気話といかに子どもが可愛いかを聞かされてる。
好きだけど、希望はないのでなんとか気を紛らわせようと、忘れようと頑張ってきた。
最近はコロナの自粛のため髪が切れていないらしく、目にかかって鬱陶しいらしく、
いつもは前髪を下ろした自然な感じなのに、今週からは前髪を上げてきっちりとセットするようになった。
それがもう色っぽくて仕方がない。
もう我慢できない、好きすぎる。
もう、好きというか、私のことは好きでなくてもいいので抱いてほしい、
とにかく彼の男性器を見たい、触りたい、入れてほいとかそういう方向になってきた。
恋愛経験がないので、こういう時どうしたらいいのか全くわからない。
そして私は彼以外に抱かれたいとは思わない。
自慰では処理しきれない。
こういう時はどうすればいいんでしょうか。
もちろんこのみんなは自分自身も含む。誰でも構わない、無差別に、注意していたとか気を抜いていたとか関係なく、みんなコロナで死んでしまえばいいと思う。
毎日毎日毎日毎日ニュースでは新型コロナの話題がない日はない。避けようと思っていても、普通に生活していたら嫌でも新型コロナの話題が目に、耳に、脳に届いてしまう。twitterだって、おすすめの隣はトレンドだったはずなのに、いつからCOVID−19なんてカテゴリができたのか。LINEニュースもyahooニュースも、トップページの一番最初に新型コロナ関連情報まとめなんて作って、そんなもん牛にでも食わせておいてくれ。目に入るだけでイライラする。
テレビの中でもインターネットの中でも、国に政府に都道府県知事に市町村長にあれをやれこれをやるなだからダメだぼくのわたしのかんがえたさいきょうのしんがたころなたいさくはこれだって、馬鹿も休み休み言ってほしい。国も政府も首長もそれを支えるスタッフも暇じゃない。そういうのはチラシの裏か便所の壁に書いておいてくれ。目障りなだけなんだよ。
それでもアホは口を閉じることをやめないから、飽きもせずに金金金金10万円100万円マスクマスクマスク金金消毒液マスクマスクマスクマスクって、せっかくお母さんがお腹を痛めて産んでくれたのにその小さい脳味噌とロクなことに使われていない口を他のことに使うことはできないの?その指先を少し動かす労力は、なんでもいいからとりあえずそれ以外のことに使うべき。ウンチを拭くのに使ったって、まだそっちの方が有意義な使い方だよ。
さらに、こういうときだからこそおうちじかんを素敵に♡みたいな投稿がSNSに溢れている。何がこういうときだ。社会の混乱に乗じて自己肯定感を高めようとするな。他人の不幸で飯を食うな。曖昧にみんなでがんばろうなんて、軽々しく言うな。その「みんな」の範囲を明示しろ。結局自分のお仲間しか入っていないんだろうが。わたしとわたしの仲良しが幸せになりますように、くらいはっきり言えないなら、適当な言葉で誤魔化して偽善者ぶるんじゃないよ。やらない善よりやる偽善?他人の迷惑を考えられない人間はすっこんでろ。医療関係者にエールを⭐︎も同様。忙しい医療関係者は、君たちの自尊心を満たすだけの自慰行為のような投稿を見ている時間はないんだよ。この現状に対して本当に真摯に真剣に向き合ってくださっている人間を、「自分には無関係だけどそんな人たちのことまで考えて応援できるボク/オレ/ワタクシの器の大きさ」アピールのために使うんじゃない。気持ち悪いんだよ。
テレビ番組だって、収録を中断しているものは過去の総集編を流したり、新しいドラマが始まらなかったり、リモート出演だとか、わざとらしく距離をとって見せてみたり、いやいや君たちつい最近まで「体調が悪くても仕事を休めないあなたに」とか言っている薬のコマーシャルばんばん流していたじゃない。特に冬になるとその手のものは増えていたような気がしたのだけれど。どうしたの掌返したの?芸能人が亡くなるたびに涙と過去の映像を織り混ぜて流して、芸能人以外が新型コロナで亡くなるニュースは少し顔をしかめてみせる顔芸で乗り越えて、そういう度に生命は平等じゃないんだって思い知らされる。知り合いが亡くなって泣くなとは言わない。でもその涙を仕事にしてお金もらうのは違うんじゃない。プライベートで泣けよ。仕事で泣くなら、全ての死者に平等に涙を流せ。
毎日毎日浮かれポンチのお祭り騒ぎで、結局みんなみんな、非日常に当てられてくらくらしているだけだ。しょうもないことで馬鹿みたいに騒ぎ立てて、いつもと違うライフスタイルとやらを発見して、これまで出来ていた当たり前がなくなる生活を美化して、その不便を何とか乗り越える自分に、自分たちに酔っている。ポストコロナとかアフターコロナとか適当な言葉を作っては各々好き勝手喋っているけれど、新型コロナが流行しようがしまいが、昨日今日明日と72時間あれば大体のことは変化するし、時間は基本的に不可逆なので、変化してしまったものは大体元に戻らない。たとえば仲の良かった二人が喧嘩をして仲直りするのは、関係が戻ったのではなくて喧嘩を経て仲の良い状態に更に変化したのであって、仲直りをしたところで喧嘩がなかったことにはならない。事実としてあったわけだから。でも毎日ってそういうものでしょう。大なり小なりの変化を重ねて、いつしか大きく変わった自分になる。それが人生なのではないでしょうか。それは新型コロナがあるとかないとか関係なく。
今この瞬間も新型コロナの流行を理由に本当に大変な思いをしている方がたくさんいらっしゃるのは分かっている。けれど、社会全体の雰囲気が、なんだか楽しそうにしか見えないんだよな。例えるなら、高校生の時、学校祭の準備のために毎日夜遅くまで学校に残って、少しずつ生徒皆がハイになっていったような。例えば、仕事で大きな案件を抱えて、毎日毎日徹夜を繰り返すことで少しずつ感情のリミッターが外れていくような。
生まれてこの方他人を恋愛感情で好きになったことがなく、もちろん性的感情を抱いたこともなかった。
色々調べて、アセクシャルという言葉を知ったが、しばらくは受け入れられなかったが、昨日になって受け入れられるようになったので増田に書いてみる。
アセクシャル(Aセクシュアル)とは無性愛のことで、他人に対して性的感情を抱かない性的指向のことだ。
解釈によっては性愛だけでなく恋愛感情も含む。私は男に対しても、女に対しても恋愛感情を抱かない。
恋愛をしたことがなく、他人と付き合ったこともないので、運命の人とやらに出会っていないからとかそういう可能性もなくはないが、とりあえずアセクシャルと言っておけば現状に納得がいくんだから別に後々誰かに恋愛感情を抱いて実はアセクシャルじゃなかったと撤回してもいいと思っている。
性的指向なんて決めるのは自分なんだから、誰かにそれは勘違いと言われる筋合いはない。
私がしばらく受け入れられなかった理由の1つ目は、そもそも恋愛をしたことがないんだから男が好きか女が好きかも決められないのではないかと思っていたからだ。
両方と恋愛してからでないと恋愛ができない、性的感情が抱けないなんて決められないのではないか。
だが、そもそも恋愛ができない体だと受け入れてしまえばこれはそんなに大きな問題ではなかった。
付き合う以前に、好きにならない。何も進展しない。
万が一好かれたとしても自分にその感情がないのに試しに付き合ってみよう、とは思えなかった。
人と付き合おうと思わない、誰からも思われないのは私の見た目にも問題があるのかもしれない。性格かもしれない。
だが、こんなふわふわした人間と付き合うなんて相手の時間を無駄にしてしまうようで忍びないし、アセクシャルだと認めてしまえば「他人に対する恋愛感情がないのだから仕方ない」で納得できる。私が。
実に都合がいいと、受け入れた今なら思う。
私は幸い毒親に育てられることもなく、親にはこんな私に金をかけてくれたことに感謝しているので、親孝行をしたいとは思っていた。
孫の顔を見せることが最大の親孝行だと思っているので、それは叶いそうにもないのは申し訳ないが、これも「アセクシャルなんだから仕方ない」と納得した。
生まれ持ったものはそうそう変わらないと思うので、仕方ないと思う。それなら諦められた。よかった。
受け入れられなかった理由の2つ目は、私は恋をしている。
他人に恋愛感情を抱かないのは、現実に限った話で、二次元のキャラクターに所謂ガチ恋をしている。もう10年近く片想いをしている。
夢女ではないのでそのキャラクターとどこで出会ったか、どっちから告白したか、デートはどこへ行ったかなどの妄想はしたことがない。
私の好きな人は私のことを知らないし、私は好きな人と知り合いですらないからそんな妄想するのはおかしくないか?と思う。だが片想いをしている。
他人のために無茶をするくせにそれを隠そうとする不器用でかっこつけなところが好きだ。考え方が好きだ。好きな人の幸せを祈ることができるその人が好きだ。
私は恋をしている。永遠に片想いで、好きな人が一生私のことを考えることはないが、私は恋をしている。
二次元のキャラクターとはいえ、恋をしているなら恋愛感情があるのではないかと思ったが、それが二次元のキャラクターを認識している以上、どちらかというと異常性癖にあたると思う。
フェチとか、性癖とかと同じものだとしたら、現実の人間に恋愛感情も性的感情も抱かない無性愛と私の片想いは両立すると思う。
だからアセクシャルだと受け入れられた。受け入れられても恋をしたままでよかったから。
受け入れられなかった理由の3つ目は、有り体に言って、私は自慰をするからだ。
AVも観る。18推シチュエーションCDを聴く。AVは無理矢理シチュや複数も嫌いではないし、シチュエーションCDは和姦が専ら好きだ。初夜が特に好きだ。
道具を使うことはないが、そういったもので性欲を解消している。
これが一番ネックだった。自慰をするということは性欲があるということで、なら無性愛は当てはまらないのではないかと思った。
しかし、無性愛者も自慰をするケースもあるとネットで見た。この衝撃は大きかった。
私は確かに自慰をするが、現実の誰かに犯される妄想をするわけではなく、女優が気持ちよさそうだとか、シチュCDの男が気持ちよさそうだとかでしている。
対象が自分ではない。だが自分の性欲を解消している。それでもアセクシャルだと言ってもいいらしい。
シチュCDは自己投影をして聴くこともないので、シチュCDの男が現実にいたら、というのも愚問だ。私は良い女を好きになって行為をしてるシチュCDの男が好きなんだ。私じゃない。
自慰をしてもアセクシャル。だって現実の人間には恋愛感情も性的感情も湧かない。
だから受け入れたこれからも好きなシチュCDを嗜んで良い。これは本当にありがたかった。
喧嘩が苦手で、こまったことがあっても、いつもニコニコしてしまい、怒るなんてもってのほか。
初めては、幼稚園の時だった。
その時はよくわからなかったけれど、小学校に入ってもう一回して、すごく気持ちいいと思った。
あらゆるところで、した。スカート越しに性器を指で触った。でも、どういう行為なんかは分かっていなかった。
誰もいなかったので、いつものようにした。
ドンドン!窓が鳴っているのを見ると、担任の先生が私をじっと見ていて、首を振っていた。
次の日、授業が終わったら呼び出された。
若い女の先生で、なんでそんなことしてたの、将来困るから、癖になるから今のうちにやめておくように、と色々言われたが、私はなぜか分からないけれど、したら駄目なことなんだと思った。
でも、みんなはしていそうにない。これは私が発見した行為なのでは??
その時伝記ものを読み漁っていた私は、将来伝記ものに載ったりするかもー、とか気楽に考えていた。
結果、駄目なことと思いつつも気持ちよくてやめられず、罪悪感をもちながらより一層ふけるようになった。
癖になって…という私を担任は困った顔でいつも見ていた。
泣きながらこれね、旦那と浜辺で拾ったの、と言ってクラス全員に貝がらを渡してやめていった。
中学生に上がっても自慰行為がどういうものか分かっておらず、高校でオナニーという単語を初めて知って、
女の人もオナニーするんだということを知った。
こういう奴って自慰を知らないの?
全てから心を閉ざしている主人公に急に明るい女の子が語りかけてくる、という受け身男の願望を垂れ流したような序盤から、喫茶や焼肉屋など「食」に関係する場所をめぐりつつ比喩をばらまいてゆく。この美女が勝手に迫ってくるという自慰はさくらが彼を旅行に誘うというご都合な展開を見せる。更に彼女は風呂上がりにお酒を持ち出して、それぞれの理解を深めたりもする。いったいこのキャバクラの同伴を何時間見せつけられたら良いのだろう、という気分になってくる。問題はこの女が男を誘えば付いて来るに違いないという確信で動いているフシがあること。これはあざとい。元彼に殴られた際も彼女は彼をかばうくらい過保護に振る舞う。もうこうなると彼女の心を癒やすためというより、非常な犠牲を払って男に奉仕しているようにしか見えない。観劇中何度となく「視聴者なめてんのか」「こんな女いねーよ」という台詞が発作的に飛び出してしまう。そもそも恋愛と死というありふれすぎたメロドラマをどう料理するか腕が問われるはずなのに、なんのひねりもなく死の病にかかった彼女に「切ない」というストレートな感情が吐露されてゆくのが可笑しい。病気の彼女という自慰要素を使って心を開かせて、あまつさえ自分を変えてもらおうなどと、何者にも劣る噴飯ものの発想と言わざるを得ない。1:11:20付近に「こんなに愛されてるんだ」と彼女はいうが、この場所など誘い受けの極地という他ない。あそこまで誘われて引っかからない男なんているのだろうか。つまりこれは膵臓を病んだ女が男を一本釣りする話でしかないのだ。しかもこの女、作者の腕の無さから突然刺されて殺されてしまう。
素晴らしいスタッフと作画の安定感、ありえないくらいご都合主義の下らない原作というミスマッチが生み出した不思議な作品。ポップコーンを食べつつ、もののついでにだべりながら文句を言い合って見るスタイルが極めてお勧めである。少なくともそうした視聴方法ならば時間を損したとまでは思うまい。むしろ作者の筆を折らせたいというアグレッシブな思いにまで発展するのだから、ここは一つ視聴者のメンタルに影響を与えたという意味でも「素晴らしい」というべきではないだろうか。