2.5次元の演劇作品の出来に不満を持つファンが不満の声を上げているようだけど、構図としてはニチアサ系特撮番組で古参と新規ファンとの間で起こっていた諍いと同じ構図に見える。
元々から作品を楽しんでいたファンからすれば不出来に感じたものでも、それを楽しんでいる層が一定数おり、製作サイドからすればそちらを優遇したい。
自分が観測する範囲だと、当時の新規ファンはそう主張していた。
渦中にいる演出家は、故つかこうへいの系譜にある人なんだそうだ。
「元来役者なんて河原者」なんて言い回しを好んだのは唐十郎だったが、つかも同様だった。
お客が望むパフォーマンスが第一で、役者の人権なんて豚に食わせろ、という狂った部分が見えた。
そのために阿部寛は客席の男性(仕込み俳優)とキスさせられたし、女優は頭で大根をかち割った。
それに別の理屈をつける人もおろうが、自分は「客に受けるためなら何でもやる」だと解釈している。
その意味において、客が喜ばなかったのならば、素直に失敗を認めるべきだ。
演出家が自分で言うように、俳優のことを第一に考えているのなら、彼がすべきことは俳優のためにおのれの失敗を認めて、土下座をすることだ。
客に文句を付けるなんてのは、スベった芸人の言い訳と何も変わらない。
ただこのような場合、スベったかどうかを判断するのは、いつも製作サイドだ。
演出家は、不満を持っているファンたちが主張するように、問題のある人なのかもしれない。
それは既存のファンたちの支える力だけでは不足があったからでないのだろうか。
「既存のファンを満足させていけば、このまま安泰だ」と製作サイドは思えなかったんだと考えられる。
顧客を絞って先細りしていったコンテンツは、いちいち例に挙げる必要のないほどたくさんある。
だから客層を広げる努力が行われ、そこに不満を持つ人が出てくるのも仕方のないことだと思う。
ただその考え方は諸刃の剣だ。
原作至上主義の人たちからすれば、2.5次元舞台そのものが世界観の破壊にほかならない。
ドラマ化映画化が手放しで喜ばれないのと同様に、メディアミックスは誰もが喜ぶ展開というわけではない。
それらはすべて「推しを人質に取られた」と感じるファンが出る危険性を持っている。
また演出家が「話題性のために世界観を壊してもいいと考えている」と信じるのなら、批判にはいっそう注意が必要だと自分は思う。
なぜなら、TLで不満が飛び交っているこの現状が彼が望んだものだとしても不思議はないからだ。
現在の言葉でいえば『炎上商法』と呼ぶこの状況だけれど、他の表現も出来る。
かつてそれは街頭劇と呼ばれていたが、それの変化系とも言い換えられそうだ。
つかこうへい以前だが、日本の演劇界に現実と虚構のカベを取ってしまおうと考えた人たちがいた。
例えば街角で喧嘩しているカップルがいれば、誰もがそれをちらりと見てしまう。
それを俳優が演じていれば、それは立派に演劇だと言えるんじゃないか、という具合だ。
街中で堂々と行われたショウは喝采を集め、当時のメインストリームですらあった。
エントリにも入れた人力飛行機ソロモンというのは、彼の街頭演劇の代表作の題名だ。
一般人の生活の狭間で上演された街頭演劇の周囲では、何も知らない一般客に迷惑がかかることもしばしばあった。
突然あらわれた奇天烈な隣人にギョッとさせられれば、それを不快に思うのは当然で、それが問題になるのも仕方のない話だ。
だからその芝居をそのままの形で再演することは、どの演劇祭でも不可能になっている。(今では参加者が寺山のお面をかぶる決まりになることが多い)
ただその混乱そのものに価値を見出すアングラ感、それに酔いしれる観客の気持ちもとてもよく分かる。
そして電脳世界において、今回の炎上がパフォーマンスでない保証はない。
演出家自身が言うように「少人数で炎上が起こせる」のだすれば、騒動が自演であると言い切ることも出来なくなる。
演出家はどのタイミングだって釣り宣言をして、「ショウアートでしたプギャー」というカードを切ることが出来る。
本来であれば最終的に客に受けなければ成立しない言い訳ではあるが、アンチがいう通りの身勝手な演出家ならばそう主張したっておかしくないだろうし、また「そういう役を演じたんだ」と言うことだって出来る。
演劇的な逃げ道が残されている上に、騒動によって新たに興味を持つ人も出てくるかもしれない。
おそらくそこで入ってくる人は、古参の嫌う『マナーの悪いファン』なんじゃないかと想像する。
そしてそういうご新規さんを排除しようとする既存ファンの有り様こそなんとかしたいと、製作側は願っている可能性もある。
もはや古参がどんなにお金を落としていようと、製作サイドからすると客としての旨味はないのかもしれない。製作が観客の新陳代謝を求めているんじゃないか。
逆に「どんなことをしても集客に繋げる演出家」の価値が上がったとしても不思議はない。
そういった意味で、ファンとして批判するならもう少し慎重になった方が良いと思う。少なくとも目的地を見据えて行動すべきだ。
と書いておきつつも、自分はファンでないので自由に書かせてもらう。
俳優のことを第一に考えているならなおのこと、客に責任をなすりつけるべきではない。
それは自分の自尊心という殻を破れずに消えていった俳優をこれからも増やすことに繋がりかねない、危険な思想だ。
つかの舞台で自分が面白いと思ったのは、いつだってその殻を破った俳優たちがいる作品だった。
逆に変に大物が出演してたりすると、弾けた感じにならず、面白い作品とは思えなかった。
つかこうへい自身が演出を行わない「つか作品」が面白く感じられた試しもない。それはつかこうへい劇団においてすらそうだった。
円盤などでつかこうへい演出作品を鑑賞すれば分かるように、彼の作品は俳優の個性と密着している。そのため文字通り「その俳優にしか演じられない役」なのだ。
しかも苦労してせっかく作り上げたキャラクターは、演出家の思いつきで日々全く違う形になっていく。
たぶんこの過程で俳優の自尊心という殻も破られるんだろうと、自分は勝手に想像している。
元々のキャラクターに近づこうと真摯に努力すればするほど、演じる自分自身と離れていく。
それを『かぶりもの』と表現するのは(ことば選びが適切かどうかはさておき)なるほどなぁと思う。
おそらくこの辺のバランスをもっとも巧く取ってる演出家の一人が西田シャトナーだ。
一つの舞台の中で俳優はモブなど別の人格が与えられ、ある程度自由にそれを演じさせる。
演じたキャラ以外の部分も観客に見せられるため、俳優の個性が担保されて、俳優と観客にそれが共有される。
24時間ぶりっこし続けられる女子がいないように、俳優にも自由になる時間が必要なのだ。
さて話題がそれたが、本題に戻そう。
演出家がああも自信たっぷりに「自分は役者たちの将来のことまで考えている」といっている以上、製作サイドも「観客はそうじゃないだろうな」と思っていると認識してもいいんじゃないかと思う。
自分も制作者たちがどれほど努力しても興味を失えば去る観客はゲスだと思うし、でもそれで構わないんじゃないかと思う。
たとえそうじゃないとファンが主張しても、その声を真摯に受け止めてもらえる状況ではないだろう。
騒動がその状況をふまえた上で演出家が自覚的に燃え上がっている可能性は捨てられず、問題が大きくなればなるほど、彼の求心力は高くなる可能性もある。
じゃぁいったいどうすればいいのか?
それは一人一人が「製作者たちにとって『良いお客』ってどんなだろう?」と考えて、それに近づいていくよう努力する以外にないと思う。
本来であれば、製作者たちが客の望むものを提供するのが道理だ。
だけど真のファンであれば、その力関係があべこべになることに不思議がることもないだろう。
どうしても受け入れられないなら観に行かないという選択をすべきだし、それも出来ないのなら自分たちで上演権を手に入れるほかない。
同人誌を描きはじめる動機の一つとして「自分の望むものを書いてくれる人が、誰もいなかったから」というのもある。
それもまた一つの『良いお客』の形だと思う。
それぞれのファンが持つ原作への愛情の深さを疑うつもりは全くない。そしてその愛情に応えて貰えなかった落胆の大きさも、想像するにあまりある。
しかしその不満を演出家を炎上させるかたちで表すことが、真のファンがすべきことなのかどうか。そこについてはもう少し考える余地があると思う。
などつらつら書いてきたが、もちろんこの文章が演出家本人によって書かれたものでないという保証もない。
炎上を含めた一連のやりとりの中で、プロレスが行われているだけと考える人もいるだろう。