当時信長の頭の中には、東国&東北を徳川家康に、
中国&九州を羽柴秀吉に任せる構想があったらしい。
そして柴田勝家は上杉の抑えで北陸方面を。
すると秀吉と同勢力をもつ光秀はどこに置くかということになるが、
光秀本人は、もし京都近辺の坂本城、丹波亀山城を召し上げられるのであれば
四国征伐を希望していたらしい。
たしかにこの方法であれば4人の有力大名が均等に分散できる。
しかし信長は光秀に秀吉の部下となることを命じた。
その時点では中国平定が目前になっており、
中国を光秀、九州をそのまま秀吉に当たらせるつもりだったのだろう。
しかし光秀はすでに60歳を超えていたといわれ、
当時の平均寿命からすれば老人である。
そのような人間に中央を外れ、百姓出身の秀吉の下につけ、
という命令はもはや限界があったのだろう。
実際、本能寺の変の後に自分の味方をするような事前調略は皆無であり、
衝動的な行動だったことがわかる。
もし信長が四国方面に「切り取り次第」を命じていたら、
本能寺の変は起きず、長曾我部は光秀が平定し、
数年後には秀吉が九州と島津を平定していただろう。
あるいは、中国の担当を光秀と正式に交代させておけばよかったと思われる。
ちょっとした命令の仕方ですべてがくるってしまったのかもしれない。
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