はてなキーワード: 情動とは
まぁ正確には最低限の社会性と情動的共感性と道徳を持ち合わせていない女ですかね
その一方で女性Aの弁護団はAが「傷つきやすい少女」だったことを強調し、「操られ、自ら堕落していった」としていて、イアンに「暗い場所へと連れて行かれることになった」としている。また、弁護団はAがイアンを追っかけていた「熱狂的なファンではなかった」としていて、現在では自身の所業を「深く自責している」と法廷に訴えた。
イアンがAの子供を犯そうとしているビデオについてAの国選弁護人ジョナサン・フラーは「被告人(A)は子供の母親であり、ビデオを観て窺われるのはこの映像が過激なのはここで行われている性的行為そのものよりは、この映像にこの年齢の児童が母親とともに映っているということです」と述べた。
「現在被告人が嘆かわしく感じていることはまさにそのことであり、そうしたことに及んだことを、母親であれば当然のことですが、深く反省しています」
その一方で女性Bはイアンの熱狂的なファンだったとことが明らかにされていて、警察に逮捕された時にもBのiPodにはイアンの画像が1200点保存されていたという。Bの国選弁護人クリスティーン・レインは被告は「極度に未成熟な女性」で、産後鬱に悩まされ、イアンと出会った当時には人格障害にも見舞われていたと説明した。
昨年の夏に被告Bとイアンとの間に交わされた会話の抜粋も法廷で読み上げられ、その中でBが「あなたはすごい人よ、あなたはイアン・ワトキンスなんだから」とイアンに伝えたのに対してイアンは「そうだ、俺はそうなんだからおまえとおまえの娘は俺のものだ」と答えたという
『ザ・サン』紙の報道によればイアン・ワトキンスは今回、厳重な警備を誇るウェイクフィールドの刑務所から21歳の母親女性と手紙の交換をしていたことが報じられている。
問題の女性は16歳からロストプロフェッツのファンだったとのことで、イアン・ワトキンスから手紙で愛していると告げられたことから、刑務所まで彼に会いに行ったのだという。イアン・ワトキンスはその女性に対し、彼女の2歳の子供が彼女の性行為を見ていたというジョークを飛ばしたことが報じられている。
報道によれば、母親はイアン・ワトキンスと連絡を取っていたことを児童福祉施設から注意され、子供は児童福祉施設の保護下に置かれることになっている。
「我々はうんざりしています」と英国児童虐待防止協会の広報は明かしている。「イアン・ワトキンスが引き続き取り入る行為を行っていることに、完全に困惑しています。彼が過去に虐待した子供たちへの侮辱ですし、監視のあり方についての深刻な問題が生じるでしょう」
リンカンシャー出身のシングルマザーは、2016年に初めてイアン・ワトキンスへ手紙を書いたのだという。
「彼女に返信が届くと、そこには愛してると綴られていたのです」と彼女の友人は明かしている。手紙を受け取った彼女は2016年11月にイアン・ワトキンスの元を訪れたのだといい、当時の彼の容姿は以前よりも約25キロほど太り、髪の毛は白髪になって歯は腐敗しかけていたという。報道によれば、イアン・ワトキンスは彼女に対して「セックスの最中に娘が部屋に入って」くるかについて質問したのだという。
警察が彼女から押収した携帯電話やパソコンからはイアン・ワトキンスと依然として連絡を取り合っていることが明らかになり、2016年12月には彼女の携帯電話やパソコンを停止させられている。彼女は1月に子供が保護下に置かれたことを伝えるためにイアン・ワトキンスの元を訪れているほか、今年3月にも訪れている。
DVと同じでこういうの結婚する前にわからなかったはずないやろって思う
ただ、殴る蹴ると違って、こういうのは『まぁまぁ大目に見て』されがちだよな
ネットではこういう生きづらいちゃんが大手を振るってるが、現実じゃマジョリティーじゃないぞ
結婚生活が続いても下記みたいになりそう(家買ってって騒ぎそう。増田の転職や退職許さない妻になりそう)
子なし夫婦、44歳の夫が急逝。 専業主婦の妻「遺族年金これだけ??私はどうすればいいの??」
あと、四六時中、男女論、どっちが育児・家事負担すべきか?ってやってる人らが認識すべきは下記だと思う
いなかったことにされてるのは誰からもセックスの対象にならない絶対不細工とか言う想像上の生物ではなく、
最低限の社会性と情動的共感性と道徳を持ち合わせていない女だぞ
普段HIPHOPある程度聞く人間だけど「アイドル」を聞いて(「アニソンにしては」という補正はもしかしたら有ったかも知れないが)「結構イケてるじゃん」と思ったので、一部の「アイドル」のラップパートがダサいって批評が出たときにちょっと驚いた
もちろん何がイケてて何がダサいかなんて人それぞれだし、本職のラッパーの楽曲でさえ分かれるんだから変な事ではない
ただ評価してる人も居るよ、ってことを書いておこうかと
(たまたま見かけた増田 anond:20230704093349 に触発されて、自分なりの見解を書いておこう、というのもある)
まず「アイドル」のどの部分をラップパートと考えているかを明記しておく
俺が特にイケてると思ったのはイントロの「無敵の笑顔で荒らすメディア~完璧で嘘吐きな君は」の部分
同じフロウが2番の「はいはいあの子は特別です~全てがあの子のおかげな訳」までで繰り返されて、直後の「ない、洒落臭い~誰よりも強い君以外は認めない」で別のフロウに切り替わる
で、また「得意の笑顔で沸かすメディア~そう嘘はとびきりの愛だ」で元のフロウが戻ってくる
なんか「ない、洒落臭い~誰よりも強い君以外は認めない」の部分だけをラップパートだと思ってるっぽい人が居たので、まずどこをラップパートだと思ってるのかの共有が必要だと思う
で、俺が主に評価してるのは「無敵の笑顔で荒らすメディア~完璧で嘘吐きな君は」等で繰り返される部分のフロウ
偏見だけど、アニソンのラップパートって抑揚もフロウも碌にない、いかにも「ラップです」(とHIPHOPをあまり聞かない人がイメージしそうな)平板なラップが多い気がするんだけど
「アイドル」を聞いたときは「ちゃんとビートに対して自分なりにアプローチしてフロウをつくってるじゃん」と思った
ここで「フロウ」について、HIPHOPをあまり聞かない人向けに、雑に簡単に分かり易い例を挙げると
CHICO CARLITO prod. by DJ Fumiya|Red Bull 64 Bars
https://www.youtube.com/watch?v=u5hgGrh5aVI
これとか聞くと分かり易いと思う
Redbullの64barsの中でも評判のいいこれは、フロウ巧者のチコ・カリートの面目躍如って感じで色んなフロウが出てくる(途中でMummy-Dが明らかにくらってるのが気持ちいい)
ループするビートに対していろんな方向からアプローチしてるこの曲を聴けば、1つのビートでもいろんな乗せ方があって、そこにラッパーの個性が出てくることも分かってもらえると思う
で、その上で再度アイドルを聞いてみてほしい
まずイントロのラップパートを聞きながら、頭の中で後ろで鳴ってるビートだけ取り出す、このビートに対するアプローチとしてどんなフロウがあり得るか?
当然色んなフロウが可能で、「アイドル」で選択されてるフロウが唯一の解でないことがわかるはずだ、なんならスタンダードというか無難な選択でもないと俺は思ってる
そこが俺が評価してる点で、「アイドル」はちゃんと自分のフロウを選び取ってる、し、そのフロウも割と面白い
個人的に「ない、洒落臭い~誰よりも強い君以外は認めない」の部分は平板なラップに近くて好みじゃないんだけど、この部分で表現したいであろう情動を表現する上では悪くない選択かとも思う
惜しむらくはフロウがほぼこの2種類しかないことだな、ビートに対してもっと別の複数のアプローチがあれば、「アイドル」を評価してない人達の評価も変わるのでは?と思う
ちなみに「アイドル」のフロウはリンクを貼ったチコの64barsのビートにも(速さを変えれば)合うと思ってて、それも例に挙げた理由のひとつ
つーか、チコの64barsに速度変えた「アイドル」のイントロのフロウが混ざってても全然違和感無いし、むしろアガらね?と思ってる
アニメ映画の「犬王」、Amazonプライムで見れたから見た。ある程度前評判通り、良い部分もそうでない部分も。という感想。
湯浅監督のファンなので、相変わらずアニメでしか表現できないだろうイマジネーションの視覚化や、流動的な作画が多く見られるところは好き。動きのダイナミズムという点では文句がない。
一方で、室町時代の前衛的な音楽表現としてロックはどうなの?というミスマッチ感。べつにエレキギターの音が入っても全然いいんだけど、ロック自体がいま既に古いというか、やり尽くされたフォーマットになっていて、和楽器とのコラボも特に珍しくなくて、しかも過去のロックのオマージュ的な見せ方が多いとなると、なんだか気恥ずかしい感じがあるのは確か。
そういうロック歌劇シーンが大部分を占めているから、物語の情動部分、特に終盤、犬王がどういう思いや考えで足利義満にこうべを垂れるのか、踊り続けたのかは端折られた感が強かった。歴史的にわからないんだろうけど。
つい最近TwitterでボカロP的な人が「曲を聴いてもらいたいだけなのにイラストやら動画やらでお金がかかって大変だよ😭」というようなツイートをしていた.
それを見て次の2つのことを思った
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画にお金をかけなくても(ある程度は)聴いてもらえるのでは?
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは?
そして最後に『3. MVと音楽は別物の創作物である』という個人的な主張について書く.
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画に金をかけなくても(ある程度)聴いてもらえるのでは? について
まず前提として,各種の動画投稿サイト上で"曲自体に魅力はないがMVが良いから高い評価を得ている音楽"ってあるだろうか?
全く存在しないことはないだろうが,少なくとも私は知らない.
一方で,"MV自体が高い評価を得ていなくても曲は高い評価を得ている音楽"なら比較的たくさんあると思う.
なんならMVと言いながらもイラストや画像を載せているだけだったり,曲に合わせて音の波形のようなものがうねうね動くだけの動画でも良い曲というのはごまんとある.
こういった事情を考慮すると,自分が作った曲をたくさんの人に聴いてもらおうと思った時にMVが優れている必要はなく,ただ良い曲を作ることだけに注力した方がよくない?と言いたくなる.
もちろん,優れた曲を作った上で優れたMVが用意できれば,話題性が出てより多くの人に聴いてもらえるといったことはあるだろうが,それはMVが特段優れたものではなくても(もしくは,そもそもMVなんかなくても),ある程度の人に聴いてもらえるようなクオリティの曲を作れるようになってからでも遅くはないように思う.
むしろ,明らかに素人感丸出しの曲なのに,お金の力を借りてMVだけクオリティの高いものを用意しても,動画の視聴者はなんか違うな...となってしまうだけではないだろうか.
MVが曲の評価を高めるという側面はあれど,それはあくまでも曲そのものが魅力的である場合に限られると思う.
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは? について
最近のボカロ音楽は,音楽と動画のセットで話題になるという傾向が顕著である,というよりむしろMVがないけど話題になるような曲の方が少数派なのではないだろうか.
それゆえ,特に最近のボカロリスナーであればあるほど曲にはMVが付随しているのが当たり前であるという認識が一般的になっているように思われる.
そしてそれに伴って,ボカロ曲の作り手たるボカロPの創作欲求の源泉として,"作った曲を聴いてもらいたい"よりも"作った曲のMVを観てほしい"というものの占める割合が増えてきているのではないだろうか.
もちろん,純粋にボカロで曲を作ってそれを聴いてもらえることが第一であり,別にMVなんか必要ないという作り手も大勢いるだろうことは承知している.
しかし,仮にツイ主がそういった考えであれば,そもそもお金を払ってまでMV制作を依頼することにそこまで固執することはなかったのではないだろうか?
まず,前提として私は音楽をよく聴くが,MVを観ることはあまりない.
その理由を端的に言うと,私は音楽を聴きたいのであり,動画を観たいわけではないからというのに尽きる.
個人的な話だが,つい先日私の好きなバンドが数年ぶりのアルバムを発売するにあたり,YouTubeでそのアルバム内の1曲についてMVを公開した.
公開時にはアルバムはまだ発売されておらず,私は早くその曲を聴いてみたかったのでMVの動画を再生した.だが,あくまでMVを観てはいない.
その時はPCのブラウザでYouTubeを開いていたのだが,動画の再生ボタンを押した瞬間にブラウザから別のウィンドウに切り替えることで,あくまでMVは観ずに音楽を聴いただけであった.
こんなことをしていると,なぜそこまでしてMVを毛嫌いしているのかと言われそうだが,私はMVが嫌いなわけではない.
優れたMVを観て良いなぁと思うことも感動することもある.ただ,それは純粋に音楽を聴いて良いなぁと思ったり感動したりするのとは,情動の発生要因に違いがある.
具体的に言うと,MVを観ながら聴いた音楽には,その音楽についての印象に視覚情報が関わってくる.一方で,MVがなければ,音楽を聴いた時に及ぼすのは純粋にその音楽を聴くことで得られる聴覚情報のみである.(厳密に言えば音楽を聴いている時に目を開けていれば視覚情報はシャットアウトできないがそれは無視する)
それゆえ,私はMVを観ることによって,音楽を聴いたときのイメージに視覚情報が含まれてしまうことが嫌でMVを観なかったのだ.一般的に人間にとって視覚情報は聴覚情報よりも強い影響を及ぼすため,MVを観ながら音楽を聴けば,次に同じ音楽を聴いたとき,その音楽のイメージには少なからずMVの視覚情報から得られた印象が含まれているはずだ.私にとってはこれが好ましくないのだ.
音楽を聴いた時に音楽の全体的な印象として,または特定の音色に関してそこに色彩感覚を知覚する"共感覚"というものがあるらしい.例えば「この音は薄い紫色」だとか「この音楽は白っぽい感じがする」だとか.
私はこの共感覚を持っているとは言えないが,でも曲の中にはなんとなく,本当になんとなくだが色彩感覚であったり,風景(薄い緑色の草原の中を風が吹き抜けている様子だったり,石畳の歩道や教会のある中世の街並みをセピア色のフィルターを通して見た景色だったり)を連想したりするものがある.
これは本当にボンヤリとしたものであって真に共感覚を持っている人の感じ方とは全く異なるものだと考えている.しかし,ボンヤリとした形であれ,音楽という聴覚情報から視覚情報が想起されるという人は自分以外にも少なからず存在するものだと思っている.(具体的な根拠はないですが...)
このような,音楽を聴いた時に何らかの視覚情報が想起されるというのが私が音楽を聴くことが好きな要因の一つであり,また私の好きな音楽というのは,聴いた時に頭の中にイメージや風景が浮かぶものが多い.こういった感性を持っている人がいたら多分共感してもらえると思うが,MVを観て音楽を聴いてしまえば,その音楽の色やイメージのようなものは間違いなくMVで使われていた色やイメージにひきづられてしまう.
つまり,MVを観ることによって,MVを観ることによって得られる視覚情報からの楽しさが得られる代わりと言っては何だが,今後そのMVの曲を聴いたときのイメージが視覚情報から得られたイメージに大きく影響を受けるという代償を負っているとも言える.少し大袈裟な言い方な気もするが,事実である.
よって,私にとってMVというのは視覚と聴覚の両方を同時に刺激する存在であり,音楽というよりはアニメや映画といったものに近い創作物であるという印象がある.
例えば,映画と音楽という創作物について考えてみると,音楽は映画を構成する一部分ではあるが,これら2つの創作物を同じ土俵で評価・議論したりするのは違和感があるだろう.
それと同様に,MVと音楽という創作物もそもそも別種のものと捉え,区別するのがより自然な見方ではないかと考える.
にも関わらず,現状では多くの人がMVと音楽というものをあまり区別することなく,「音楽の良し悪しや評価 = そのMVの良し悪しや評価」と考える人が多いように思えて違和感を感じている.
『情動的共感性が高く、認知的共感性が低い人』は、他人が悲しんだり苦しんだりしていると、
自分も辛くなるし、何とか助けたいとはなるが、相手がなぜ悲しい・苦しいのかがよく分かっていない or 極端に興味が薄い
デリカシーがないとかマッチョとか空気が読めないとか呼ばれる言動をする
根気よく学習すればなぜ悲しい・苦しいのかは理解するが、本質的に他者視点が無いため、一事例ごとの理解で応用は効きにくい
『認知的共感性が高く、情動的共感性が低い人』は、他人が悲しんだり苦しんだりしていると、素早く的確に理解して相槌を打つが、
なんで自分が迷惑をかけられなきゃいけないんだとか、どう批判・攻撃しようかなとか、どう利用しようかなとしか考えない
他人にどう思われるかで悩んで鬱になったり外に出られなくなる人もいるくらいなので、
他者視点がある人・ポンコツでも他人が何を考えているか推察する機能が搭載されている人の方がマジョリティーだと思うぞ
なおサイコパスは認知的共感性が高いけど情動的共感性が低い人のことを言う模様
何を『認知的共感性』と定義するかにもよるが、<相手の言動や行動から相手の気持ちを"推察する">を認知的共感性と定義する場合、
ヤベー奴扱いされるので『自分と他人は違う』を理解している"フリ"はするが、
経験による学習をもってそれらしく振る舞えるよう可能な範囲で努めているだけであり、
『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも単純に最初から搭載されていない
それ故にだいたいみんな(自分と)似たような思考・知識だろと素で思って生きている
もちろん、遺伝子と成育環境がほぼ同じの双子ですら別個体になるのだから、
『だいたいみんな(自分と)似たような思考・知識だろ』が事実では無いことを"学習"はしているが、
微塵も腹落ちはしていない・・・・・・というか、そもそもそういう『自分と他人は違うを理解する機能』が元から搭載されていないので、
過去に経験して学習した事ならともかく、学習したパターンから少しでも外れると、
無意識にだいたいみんな(自分と)似たような思考・知識だろ視点で考えてしまい、何度でも同じような失敗をする
あからさまに人より出来ないことが多かったのと、自分の年の平均よりも金を稼がないといけなかったのと、出生地ガチャで勝利した、
この欲張り三点セットのおかげで、強制的に出来ることだけすることになった結果、お財布面では特に困っていないが、
なんか色々アレである
どう考えてもワイの『情動的共感性』は死んで無いが、思いやりがない人間だと言われること多いし、
じゃあクールで思考を読み取りにくいヤツなんだな!と言えばそんなことは微塵もなく、むしろ逆で、
カードゲームや格闘ゲームで余裕でボロボロになる程度には読まれまくる模様
じゃあ、お前ら仕事でもワイの意図読んで動いてくれや・・・となるが、そこは途端に『ワイくんが何考えてるかわからない』 をしてくるので非常にイラつく
どこまでいっても他者視点が無いので、プライベートを優先して省エネ横着してワカラナイデースしてるのか、単純に理解する能力がないのか、判断が付かない
まぁ判断が付かないことを考えても仕方がないし、エリートじゃない人の部下やチームメンバーはどのみちエリートじゃない凹凸のある方々なので、
どちらでも問題ないようにフローを組むで終わるが・・・ふぅ・・・・
若かりし頃の話だ。ちょっと語らせてほしい。気持ちの整理がついたのだ。チャンスは今しかない。
当時、大学四年生だった俺は、いわゆるネトウヨに堕ちた。就職活動に失敗し、大学院受験にも失敗し、にっちもさっちもいかなくなり、卒業後はフリーターとして生きる未来がほぼ確定していた。
悲しいかな、自惚れが強い性格だった。ネット上で言うのは最初で最後になるけど、十数年前に慶応義塾大学で法律や経済のことを学んでいた。専攻は不動産登記とか、土地や建物の取引関係がメインだった。成績はまずまずで、サッカー部(※厳密には違うがサッカー部という名称を使う)では補欠だったけど全国大会に出た経験があったし、就職活動が失敗することはないと思っていた。、結果はこのザマだ。
日系企業を主に受けていた。第一志望だった総合商社はもちろんのこと、メーカー系もマスコミ系も金融系も20〜30社受けたけど、ぜんぶダメだった。大手も中堅もすべて。中小企業の内定は取れたが、プライドの高い俺はすべて辞退した。
面接まではとんとん拍子なのだ。大学名がよかったからだろうか、エントリーシートを適当に書いても、SPIの勉強をしなくても、とにかく面接までは辿り着ける。しかし、内定を取ることはできなかった。
今思えば、あの時の自分程度の実力では、まともな会社から内定を取ることはできなかった。30代半ばになった今の率直な感想だ。確かにサッカーはできたけど、精神はぜんぜんなってなかった。今やっている『ブルーロック』のアニメでいうと、実力のない馬狼照英みたいなものだった。
で、結果がネトウヨだった。大学四年の秋〜25才頃までなので、約三年ほどネトウヨに堕ちていたことになる。
今では黒歴史だ。『国民の知らない反日の実態』とか、圧倒的眉唾感のサイトがあるだろ。ああいうのを見て、中央省庁にテンプレメール送ったり、韓国人や中国人の応援をしてると思われる国会議員をディスったり、mixiやGREEで反日活動を認定されたアカウントに突撃をかけて垢停止になったり、とにかくクソみたいな人間だった。
今思えば、いろいろと失ってしまって自暴自棄というか、自分も他人も大事にしない状態だったんだろうなぁ。当時の俺は。
ここで、大学時代に読んだ本を引用したい。約二千年前の、ローマのネロ帝の家庭教師ポジだったセネカの書いた『生の短さについて』だ。
長いけどすまんな。先に要約しておくと、苦しい立場に陥った人間は何かにつけて逃避行動に出る、みたいなことが書いてある。なにげに、現代の異世界転生ブームを予見している感がある。特に『オーバーロード』なんかの異世界転生+光属性の人間が死にまくるようなコンテンツが流行る理由がわかった気がする。
すごく長いけど、可能な限り要約してここまでだった。
さらに、さほど移り気ではないが、その一貫性が恒心のゆえではなく、懶惰のせいであり、自分の意欲するとおりの生を送るのではなく、始めたとおりの生を送る者も、この範疇に加えるとよい。症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その由って来る因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全には満たされない欲望である。望むだけのことを思い切ってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、すべてを希望に託す場合がそれに当たる。そのような人間は常に不安定で流動的であるが、何事においても中途半端な者の必然的な結果である。彼らは自分の願い事を手立てを尽くして達成しようとして、不名誉なことや困難なことまでみずからに唆し、強いるが、苦労が報われなければ、願いが叶わなかった恥辱感に苛まれ、しかも、歪んだものを望んだことを嘆くのではなく、望みが徒労に終わったことを嘆くのである。そのとき、彼らは挫折した目論見への後悔の念にも、また、新たな目論見に着手することへの恐れの念にも捉えられ、その精神には、欲望を制御することもできず、かといって欲望を満足させることもできないために、出口を見出せない心の動揺や、思いどおりに展開しない生への躊躇、断念したさまざまな念願の中で無気力になっていく心の沈滞が忍び込むのである。苦労の挙句の蹉跌に嫌気がさして、閑暇の生や孤独な学問研究に逃げ場を求めたとしても、こうした心的状態はどれもますます耐えがたいものになる。公人としての務めを果たそうと意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見出せる慰めがわずかなために、そうした閑暇な生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。世間的な仕事に奔走しているときにまさにその仕事から得ていた喜びが取り去られると、みずからの家に、孤独に、取り囲む壁に耐えかね、一人取り残された己の姿を嫌々眺めるのは、それゆえである。落ち着き場所をどこにも見出せない精神の揺れ、そのような精神への倦怠や不満、そしてまた無為の生に耐える悲しくも病める忍耐は、ここに起因する。そうした状態の真の原因を認めることを恥じて、羞恥心が責め苦を内に向け、心の片隅に閉じ込められたさまざまな欲望が捌け口もなく互いを窒息させ合う場合がとりわけそれに当たる。そこから生じるのは、悲哀や憂鬱であり、また、希望を抱いた当初はどちらともつかない不安な状態に置かれ、やがては挫折を嘆く悲哀を味わわされる、千々に乱れる不安定な精神の揺れである。無為の生を厭い、自分にはすることが何もないといって嘆く人々に特有の例の感情、他人の栄達を蛇蠍のごとく憎む嫉妬心は、そこから生じる。不幸な無為の生は嫉みを育むからであり、自分が進展できなかったために、誰もが滅びればよいと望むからである。この他人の前進への嫌悪感と自分の前進への絶望感からは、次には運命に怒り、時代をかこち、片隅に退嬰し、みずから招いた責めにくよくよと拘泥し、そうする己の姿に辟易して嫌気がさすまで考え込む精神が生まれる。実際、人の精神は生来動きやすいものであり、動きへと向かう性向をもつものである。そのような精神にとっては、みずからを刺激し、どこか(別世界)に連れ去ってくれるものなら、どんなものでもありがたいと思う。その才知を世間的な仕事にすり減らして嬉々としている最悪の人間(の精神)にとっては、なおさらそのようなものはありがたいのである。ある種の腫れ物は潰してくれる手を求め、触れられることを喜ぶし、身体に出来た汚い疥癬は引っ掻いてくれるものなら何であれ歓迎するが、それと何ら異ならず、さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。
そんなわけで今回、若かった頃の俺がやってしまったネトウヨ行動を取り上げて、自分を断罪したい。ネトウヨ活動では多くの人に迷惑をかけてしまった。ふたつだけ取り上げるが、どちらも個別案件だ。まずは、この一件から。
それは、2011年だった。当時、ツイッターを始めたばかりの俺は、タイムラインとか、検索のやり方とか、連携の仕方とか、いろいろと勉強していた。そんな折、『炎上』というキーワードが眼に入った。炎上自体は何年も前からネット上で起こっていたのだが、自分が直接関心をもったことはなかった。
なお、この頃の俺は、都内のサイゼリヤで働く一介のフリーターだ。毎日、レンジやオーブンやIHヒーターで厨房仕事をするのが仕事だった。ムカつく年下の女社員から、「増田さん慶應卒なのwwwマジすかwww」みたいな感じでディスられていた。
それで、ある時ツイッターで見たんだよ。炎上の場面を。有名ホテルに芸能人が来ていた時、そこのアルバイト従業員が「芸能人の○○が二人で泊まるみたい」とかなんとかをツイートして、「客の個人情報を暴露すんな!!」みたいな恰好で炎上したのだ。俺は、それを間近で見ていた。
当時は、炎上騒ぎに参加する人間が実は少数である、という科学的知見はまだ得られていなかった。本当に多くの人間が炎上騒ぎに参加しているのだと思っていた。それで、当時はストレスが溜まりまくって、シロクマ先生でいうと承認欲求に飢えた若者だった俺は、誰かを炎上させたいと心に決めた。
自分でいうのもなんだが、知能が高い自信があった。中味はクズだったが。それから毎日、俺は炎上の種を探し、それらしいものを見つけてはツイートしていったけど、ぜんぜん炎上に至らなかった。ダメだった。
何週間か経って、もうダメかなと思いかけた時、あるツイートが目に留まった。プロフにアディダスの社員であることを明記している人物が、あるツイートをしていた。要約すると、都内のアディダス店舗にアディダスがスポンサーになっているサッカー選手が訪れたのだが、その人の容姿を侮辱するツイートをしていた。
「これだ!!」
と思った。俺だって小学生の頃からサッカーをしていた。サッカー選手を馬鹿にするのは許せない。
サッカーの試合で、「いまだ!!」と思う場面がやってきたとするだろう。この時、「いまだ!!」の「い」の場面で行動を起こす必要がある。「いまだ」と心の中で叫んだ時にはもう遅い――
そんな、大学時代のサッカー部のコーチからのメッセージを思い出した。実際、俺のルーレットスピンは大変狭い界隈ではあるが知られていた。三人抜きをしたこともある。その指導を正しいものだと信じて努力した結果だった。
そして俺は、そのアディダス社員の行動を咎めるツイートをした。
……その次の日、俺は大好きなハムスター速報を観ていた。ツイートのことは忘れていた。そしてある瞬間に、マウスをクリックする手が震えたのを覚えている。
それはもう、見事な炎上だった。アディダス社員はボコボコに叩かれまくっていた。コメントの数をカウントしてみると、軽く数百はいっていた。
ツイッターを確認した。俺と同じ時刻にツイートをした人間の数は、確か二人だったと思う。1人は準アルファツイッタラーと思しき人で、フォロワー数がけっこういた。でも、確認できた中では俺のツイートが一番早かった(その二人、もしかして俺のツイート参考にしたんじゃね!?)。いや、絶対とは言い切れないが。そのはずだ。※俺のツイートは削除済み。
あの時、俺は世界で一番賢くって、一番運がよくて、一番強い人間なんだ!! と心の底から思った。全くそんなことはなく、ただそういう運に当たっただけだった。
その日から数日、ハムスター速報に夢中になっていた。その記事ばっかり見て、コメントが貯まっていくのを観ていた。今では思う、俺がやったのはクソみたいな行為だ。具体的には、畑の隅に捨てられた白菜の欠片だ。茶色いカビが生えてしまって、もはやハエすら寄ってこないほどに腐りきったカス野菜だ。そんなレベルに堕ちていた。
だから俺は今日、ここで謝罪したいのだ。俺の行動が原因のひとつで、炎上を招いたかもしれなかった。俺だけが原因ではないけど、でも、あの時ツイートをしなければ運よく炎上を回避できていたか、あの子は若気の至りで済んだのかもしれない。
あともう一つで謝罪は終わりだ。気が付いたらけっこう書いてるな。ここまで筆が進むとは思ってなかった。
同じく20代の頃、ニコニコ動画にハマっていた。ようつべよりニコニコ派だった。で、その中のサービスのひとつにニコニコ大百科というのがある。端的にいうと、wikipediaがもっとバーリトゥ―ドになった感じだ。なんでもあり感が満載のネット百科事典ということになる。
ここに電通の記事があった。やはり『国民の知らない反日の実態』などのネトウヨサイトを巡回していた当時、なにかやってやりたいという情動に突き動かされることになった。例えば、一集団内の駒として、都内某所で花王不買運動とかのネトウヨデモに参加するんじゃなくて、もっと大きいことがしてみたかった。
それで、ニコニコ大百科にある電通の記事を編集することにした。当時は、スパッとした端的な記事内容だったのだが、俺が編集を終える頃には、圧倒的ネトウヨ臭の漂う記事へと変貌していた。
こんなことをしていいのか、という認識はなかった。ただ、電通は反日企業として認定されていたから、鉄槌を下すべきだと信じていた。俺を役員面接で落とした逆恨みもあった。
さて、編集後はとんでもないことになった。コメントの数が増えたのだ。それまでは10件くらいしかコメントが付いていなかったのが、その後1年間で百件以上のコメントが付いた。
内容はお察しのとおりだ。俺と同じネトウヨ連中か、または『国民の知らない~(略)』が引用元だから信じなくていい、みたいな二極的なことになっていた。
残念ながら、要編集記事に指定されてしまった。その解除には約五年を要した。俺は、編集してから一年も経つ頃にはネトウヨ活動に興味を無くしていた。もうどうでもいいと思っていた。
というのも、内定を得たからだ。しがないファミレス店員だったが、数年間フリーターとして努力し続けた俺には、わずかずつではあるが、社会人としての力が身についていた。準社員マネージャーみたいな役職があったのだが、アルバイトでも正社員の仕事をやらせてもらえる。それで、組織の下部階層における事務管理とか、オペレーションの指揮とか、コーチングやティーチングを学んだ。それが活きて、就職に成功したのだ。
あの時、俺を馬鹿にして、「あんた、それで慶應卒すかwww」とほざいていた女子社員も、俺のことを見直していた。あの時からはいろいろあって、なんやかんやで一緒にご飯に行くようになっていた。内定を得た時には交際していた。公園デートの帰り道、俺の方から「ねえ、付き合おうよ」と言ったのだが……おっと、けれどもこれは別の物語だ。いつかまた、別の時に話すことにしよう。
それで、ネトウヨの道から遠ざかった。ネトウヨを卒業したのだ。
今は、都内のどこかでカタい仕事に就いている。この物語の舞台はずっと都内だ。思えば、勉強自体はできるのだから、これが一番効率のいい道だったのだ。この道は、父親に教えてもらった。マジで感謝している。やっぱり、こういうところだけ要領がいいのが俺だ。2023年3月になった今も、人として生きるにあたっての知性というか、そういうのが足りない人間なんだと感じる。成長していない。ネトウヨを脱出できたのと同じく、いつか成長を遂げることで、こういう気質をゼロにしたい。
終わりに、この日記を書くにあたっては、大学時代に書いたサッカー部や私生活の日記とか、フリーター時代にサイゼの卒店式でもらったみんなの寄せ書きとか、mixiやtwitterのマイページとか、公務員試験の学習記録とか、とにかくいろんなものに触れて自分を振り返ってみたつもりだ。
ネトウヨにならない方法は簡単だ。毎日の食事と、朝に日光を浴びて仕事に向かう、ただこれだけで解決するものと信じている。
つまらなかったのなら申し訳ない。ほんの少しでも、あなたの暇つぶしになれたのなら嬉しいと思う。読んでくれてありがとう。
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お気に入りに入れてた人がいたらごめん。