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はてなキーワード: 小学校とは

2023-01-13

anond:20230113145901

そうだね

税金代表に公金は社会を維持するための保障なのだから、例えばその他の社会インフラに回る予算が減れば多くの人々の取り分が減ると言えなくもない

小学校グラウンとの整備や、信号1基、浄水場設備、あらゆるものが誰かの取り分だろう

親が私にしてくれたことを思うととてもじゃないけど子供はいらない

物心ついたときには母親はいつも疲れていた。

なぜ疲れていたか、それは私がいるせいで世話をしなければならないかである

物心ついたときには父親はいつも仕事で不在だった。

なぜそんなに働いていたか、それは私がいるせいで金がかかるからである

とにかく私は手間と金のかかる女だった。

別に港区女子とかではない。

とある政令指定都市中央区女子だ。

まれてくる前に障害が発覚、生まれから中学生まで継続して医療と手術が必要であると判明。

まれてきたあとに持病2つが判明、一方は治療してなんとかなったものの、もう一方は現在アラフォー)になっても治る見込みはない(多分死ぬまで無理)

ミルク自力で飲めない病気だったため、母親は気が狂いそうになりながら私を育てたようだ。

もちろん乳飲み子のとき記憶はないが、当時の日記発見したが、典型的なうつ病患者日記だった。

3歳頃から記憶があるが、母親は常に私の世話を焼き、常にピリピリしていた。

小学校に入ってからも世話を焼く地獄は続き、中学からは塾に通い出したため今度は教育費という課金が始まる。

医療費だけで数百万単位の出費をしたのに、さら中学受験のために数百万追加である

手間と金を湯水のように使った私は、なんとか社会人になることはでき、結婚することはできたが、自分がその手間と金をかけて自分の子供を育てることなど恐ろしくてとてもじゃないが考えられない。

親に虐待されていたわけでも、愛情をかけてもらえなかったわけでもなく、めちゃくちゃ愛されていたし大切にされていたと思う。

子供はいらない、などというと親が毒親だったのでは?とか思われがちだが、めちゃくちゃいい親であったと思う。

正月母親に「子供は考えてないの?」とついに聞かれたので、

「お母さん見てたら、私はお母さんみたいになりたくないし、なれないなって思ったんだ。めちゃくちゃ疲れてたし大変でしょ?

から育ててくれたことには感謝してるけど、自分がやるか?って言われたら絶対やらないって物心ついたときからずっと思ってる。

中学の頃にはっきり決めて、40歳近づいた今でもその気持ちは一度も揺らいだことはないよ。」と答えた。

ただ、それだけのこと。

母親理解できないらしく育て方間違えた、と号泣されたけど、

過労死寸前の管理職を見ていたら出世したがらないのと同じ話なんだけどな。

育ててくれたことには感謝してくれるけど、親が見せた「子育て」というコンテンツ地獄コンテンツしか見えなかったんだよ。

それはどうやっても変えられない事実なので、母親に泣かれ、父親に平手打ちを食らっても、今更どうにもならない。

anond:20230113094959

からだがアベレージで見ると白人黒人の方が圧倒的に上やとは思う

小学校近くにあるんだがドッジボールやってて黒人の子供いたんだが

体の動きがやばかった。バネとしなやかさがマジでレベルが違うと感じた

暴力的漫画現実犯罪傾向に影響があるから規制すべきだとは思うよ

昔、多重人格探偵サイコって漫画流行ったとき

巷では猟奇殺人が爆流行りして社会は大混乱に陥ったよね?

小学校の生徒が同級生の脳に花を植えてそれを学校の花壇に植えたりとか

ヤリチン男が孕ませた女の腹引き裂いて子供取り出して代わりに電話入れたりとか

そういうのが毎日毎日起こって社会はもうめちゃくちゃになったじゃん

2023-01-12

ブクマカたちが嫌いな”地方都市”の”公立小学校

小学校ピンキリなんだよな。別に公立からって全部が全部動物園みたいな感じではねえわけ。

おすすめなのは制服指定されてる学校ですかね。金がかかる?そんなン知らんわ、友達作ってお下がり貰え。

スカートめくり流行っていた」とは、どの程度の流行だったのか?

https://anond.hatelabo.jp/20230111233833 や、同ブコメを流し読みして思ったこと。肯定/否定意見に加担するものではなく、単純な疑問として。

自分小学校の頃にたまごっち流行ったくらいの年齢。スカートめくりをしていた人の記憶が1人だけあるけど、自分1年生そいつ2年で詳細は分からず、しかもごく短期間だった気がしてる。
多分、テレビか何かで知識仕入れて、一瞬そいつの中で流行った、って感じじゃないかな。

ついでに言うと、当時はブルマ全盛期で、スカートの下はほぼ全員がブルマを履いていたので、多分スカートの中身を見たいという意思は全く起きなかったと思う。
なお自分は、小学生の時に見た野球拳番組で興奮してたので、当時からエロに対する意識/知識はあったと思う。

んで、前述のたまごっちだけど、えらい流行した記憶があって、パクリ商品が大量に作られて、その一つで自分も遊んでた記憶がある。
流行った、っていうとこのくらいな認識なので、「スカートめくり流行った」というのは、このたまごっち並みに流行した感じなんだろうか。

wikipediaの「スカートめくり」を読んだら、自分の該当する平成以降にはやっぱり下火になってたっぽい。
他にも検索して調べてみたけど、どの程度の規模感で最盛期に流行たかは、結局分からなかった。

和菓子を買う

先日、将棋の中継をみていて、おやつタイムがあることを知った。

紹介されていたお菓子がおいしそうに見え、そうして用意された特別お菓子で一息入れるのはとても良いアイデアに思えた。

これは是非取り入れたいと、近場においしい和菓子屋さんがあるので、さっそくさっき出向いてきた。

和菓子はヘルシーでおすすめ。できれば町の和菓子屋さんがいい。町の和菓子屋さんは洋菓子より当たり外れがない気がする。

家で机に向かっていると暖房を付けていても足元から冷えてくるから、外も寒いだろうと、コートマフラー手袋で行ったが、歩いているうちに結構暖かくなってきた。

日が落ちるのがまだ早いので、伸びた影に入ると少し寒い

和菓子屋に入って、こんにちは挨拶したら奥から店主が出てきた。茶饅頭いちご大福、栗蒸し羊羹を頼んだ。

正月なので、松竹梅それぞれをテーマにした練りきり(?)もキレイで欲しかったけれど、食べ慣れた味をチョイスしてしまった。

会計をしていたら、背後で人が入ってきた。2組もいる。目立つところにある店ではないので、普段自分以外のお客がいるのを見たことがないのだが、お店はこういうことがある。客が客を呼ぶ。

帰りは大回りに道をまわってみた。ちょうど小学生の下校時刻らしく、子供をつれたママさん達が立ち話していた。さっきのお客もそうしたママさんだったろうか。

歩くうちに、うっすら汗すらかいてきた。

家についてポストを開けた。ぶっちゃけ今週入って開けてなかったのだが、底の方に年賀状をみつけた。姪っ子からである

去年小学校に入ったばかりのはずなのに、とてもしっかり漢字を書けている。習ってない字も全然あると思うのだが、住所から宛名から自分や妹の名前も、一字一字とてもしっかり書いているのに驚いた。

眺めながらいちご大福を食べた。栗蒸し羊羹もこれから一つ食べて、また夜まで頑張る。

成人式に行ってきたら思っていたよりもよかった@東京23区

はてな匿名ダイアリーに限らず、インターネット上のブログ全般に対して初めてです。

タイトルのように某東京23区(どこかは秘密です)の成人式に行ってきました。比較的閑静な住宅街が広がる地域です。いろいろと感じたことがあったのでそれをこの場で書き残そうと思います

まずは軽い自己紹介

小学校中学校は区立。

高校は家から少し離れた高校地元からの知り合いや友達はほぼ消滅

大学高校と同様。

地元友達は片手で数える程度だが存在していて、そのうちの一人は頻繁に会う。

元々、成人式には行くかどうか悩んでいました。というのも上記のように友人がそこまで多い方ではなかったので、わざわざ行って寂しい思いをしてもなあと考えていましたが、行かずに後悔するよりも、行って後悔する方がまだましかなと思い、行くことを決定。

当日は上記の頻繁に会う友人と一緒に会場へ向かう。

会場の最寄り駅まで向かう際の電車では男女問わず、一目で成人式に行くのがわかる格好で「今日成人式があるんだ!」と予め感じる。

会場の最寄り駅に着くと、人が多すぎてビビる

会場の敷地に入って、5~10分くらいで中学校の友人に再開。髪型が変わりつつも、当時の面影があり、すぐにわかる。めちゃくちゃ懐かしいし、会えてうれしい。この時点で成人式に来てよかったと感じる(単純)

その後、再開した友人と話しているとちらほらと同じ中学校の友人と再会。(小学校だけ一緒だった人はほとんど再開せず)

写真を撮る。

その後、式典の会場へと向かう。偉い人の話自体ほとんど誰も聞かず、私たち含めてみんな、お互いの近況やら思い出話やらを話していた。

私も3,4人で集まって話してた。

とはいえ、私は式典のライブ配信を別の教室で見るという形だったので、話せていたがホールで直接見ていた人はおしゃべりもできず、息苦しかったのかも。

式典が終わると、敷地内の屋外でみんな友人を探していた。私もここですぐ帰るのも折角来たし、あれかなと思い、当時の友人や知り合いを探した。

初めはあまり見つからなかったが、徐々に発見する。男女問わず一緒に写真を撮った。私が当時とあまり変わっていない(?)らしく、向こうからよく声をかけられた。

私はというと、男性女性も「ごめん、誰だっけ?」状態で、マスクをとってもらったり、名乗ってもらったりして初めて気づくこともしばしば。それでもすぐにわかる人も多いか不思議もの

会場を後にしてからは、電車で友人たち5,6人と帰る。

同窓会はどうやらあったらしいが、会いたい人とはしっかり連絡先を交換したのと、そもそも自己紹介で述べたとおり、仲の良い人も限られるので不参加。

以上、当日の流れでしたが、感想としては以下のとおり。

①やっぱり会えば当時のテンションで話し合える

久々に会ってどういうテンションになるのかは私自身、怖かったが意外と当時のテンションで話せた。

裏を返せば、その当時のスクールカーストが保持された状態とも言えるのかな。

②行けば意外と楽しい

私自身がいじめられていたり、クラスで浮いていたりしたわけではないのでという譲歩付きですが、みんな久々の再開という事で好意的な態度。そもそもハレの日だから、怖い怖い雰囲気ではない。

「今何しているか?」ということはほとんど興味がない感じで、むしろ当時を懐かしむ雰囲気

③来てない人も(当然)いる

の子絶対来るだろうな、と思っていた人が来ていなかったらしい。まあ、大学高校での集まりを優先する人もいるだろうし、これは当然かな。

最後に。

いろいろ書きましたが、地元の人とまとめて再会する機会は成人式同窓会くらいしかないので、成人式自治体が用意してくれて、みんな招待されるものこれくらいなので、行った方がいいと思いました!

ケンタッキーオリジナルチキンって昔はもっと大きくなかったか

久々に買って帰ったら可食部全然なくなっててなんじゃこりゃってなったわ

でも俺が覚えてるキラキラしたケンタッキーオリジナルチキンの思い出って

保育園とか小学校低学年時代のことだから、俺が小さかった分

相対的チキンが大きく感じていただけかもしれない

せっかくチキン食ったのになんかおセンチ気持ちになってしまった

anond:20230111233833

ワイ50代でギリギリマチ子先生マンガ本みたことがある

歳離れた兄貴がいる家に遊びに行って読んだとかだと思うので

ワイと同年代でも実物見たことない人の方が多いはず

少なくともワイの頃は小学校スカートめくりなんてなかったし

中学高校はなおさらなかった

水泳の着替えを男女同じ教室でやってたような時代だし

スカートめくりたいなんて誰も思ってなかった気がするんだよな

anond:20230112091241

でも実際には妊娠出産を機に仕事を辞めて専業化する女は普通にいる。

いかどうかは知らん。知り合いや同僚の話を聞く限り一定数以上いる。

だいたいの人は子供小学校上がったらパートかなんかで働き始めるらしいけど、この場合パート労働元増田氏のいう専業主婦と実質同じではないだろうか。

まああんま気にすんなよ。

気楽にいこうぜ。

anond:20230112061720

そうなんだよ

そういう事件に遭う確率自体は低くても、被害者になってしまった時にあまりにも救いがない

ていうか小学校担任にいたずらされる位だと結構確率高いんだよな

本当に嫌だ。自分の子供には理不尽を味わわせたくない

推しの子がどんどんかぐや様みたいなノリになっていく

原作赤坂アカって極めてタレント的な目線の人で、一般の、ファン側の考えが全く無いんだよね。かぐや様のときから

今回のアイドル仲間が週刊誌にすっぱ抜かれるという最新話でも、「ストーカーしてくる記者が悪い!!」というある種開き直るという展開。ここからかぐや様のように、自分達を邪魔する記者たちに対して一泡吹かせてやろうという流れでしょ。芸能界大御所なんかも出てきて、タレント側で結束して記者側に圧を掛けるといったやり方かもね。

かぐや様も白銀圭も学内においてタレント側の人間であり、同じく学内権力を持つ御曹司ら(タレント側)と結束して困難に対抗していくという流れだった。

赤坂アカ作品にはこうした共通項があって、極めて自己中心的自身(タレント側)の正当化ばかりするところにキモさを感じてしまい苦手である。(同時に面白さでもある)

こうした己の圧倒的正当化により無茶苦茶やるという話で思い浮かんだのは宗田理の「ぼくらの7日間戦争」だ。小学校の仲良しグループがうざい教師ボコボコにするという話で、読んだのは同じく小学生ときだが流石に先生側が可哀想過ぎて、自分達に酔っている「ぼくら」側をキショイな〜〜〜と思ったのを覚えている。

このノリは化学調味料みたいなもの面白いのだけれでも、用法を間違えるととんでもない量のキショみが生まれしまうので注意が必要だと思う。かぐや様の後半で人が離れたのはこれが理由でしょう。推しの子では気を付けてもらいたいですね。

というか近年のインフルエンサー(youtuber,vtuber)に感じるしんどさもそこにあるのかもしれない。彼らが生放送で行った発言は即座に切り抜かれて「実は〇〇してる人、無能です…」みたいな動画が出来上がる。今から真理を言っちゃいますよ…みたいな体で腹の底で思ってることが大衆開陳されてるのをみたとき、例によってキショイな〜〜〜と思ってしまう。

あれか、自惚れによる内側の開陳キモいのか。それはまた別の話か?分からなくなってきたけど、世の中キショキショのキショが多いというはなし。

今日、30歳になるオタ。

俺も、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、千葉県船橋あたりで生活していた。千葉県カスだ。東京まで微妙距離のせいで、逆にオシャレを履き違えているやつらだらけ。茨城ゴミ共もいるおかげで、余計に田舎者ムードは高まっていた。特に地元船橋民が嫌いだった俺は、三国志大戦などをやるためにわざわざ津田沼エースまで行っていた。今思うと津田沼津田沼ゴミみたいな街だったが、船橋よりはマシというところだろうか。あと、俺はオタなので秋葉原微妙に遠いのが嫌だった。総務線で一本とはいえ微妙に遠い。かといって千葉のオタショップはやはり、品揃えの面で大きく劣る。飲食店は何一つとしてとりえのない、個性のない「退屈な街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があったのか覚えていない。競馬場はあって、薄汚いおっさんが娘の給食費無駄にするために通ってきていた。市立船橋高校スポーツが盛んで、イキリ散らした民度の低いカスみたいなスポーツマンたちが船橋不快な街に育て上げていた。あと、船橋高校のゴミもももっと渋幕とかに行けばいいのに頭いいような面してイキリ散らしながら歩いていた。自然豊かといいつつそれは小室かい飛び地の話で、友達がそのへんの団地に住んでいたのだが、子供心に「こんななにもねえ田舎に住んで何が楽しいんだか」と考えつつ、スマブラをやりに行っていた。俺も競馬場に通うおっさんたちと同じ、人生無駄にするのが好きな人間だったと言えるだろう。

小学校の時は色んな道徳教育を受けた覚えがあるが、ある日、うちの親戚のおっさんが登壇して「阪神淡路大震災記憶」を語っていた。俺は幼心に、いや、お前関西住んでたっけ?と思ったが、無事に講演は終わり、無意味感想文などを書いた。のちに親戚の集まりで、おじさんは講演会の人が来れなくなったので代打で登壇したと聞かされた。「わかりゃしねえよ」とのことだったが、まあどうでもよかったのでそんなもんか、と思い今日まで忘れていた。俺と震災には深い結びつきがあったと言えるだろう。

高校生にもなると、俺は自由だった。エスカレーター式の東京学校入学していたので、誰も受験勉強なんかはしていなかったのである。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。そう。割れ厨であるエロゲ音楽無料あるいは格安で手に入れてくれることは後輩の俺達にもすぐに知れ渡った。サブスクの走りみたいなものだ。ちなみに、その先輩は生徒会長だったので、なんか体育祭で頑張った的なスピーチをしていたことを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

震災当時、俺は秋葉原にいた。試験も終わり、余裕綽々でカードショップ萌え萌えスリーブを買い漁りに行っていたのである。その時、震災が起きた。スリーブはあたり一面に散らばり、混乱の中、店員さんに言われ、店の外に出た。駅に行くと、そこには人が沢山いた。だがしかし電車は動いていなくて、そこで東北で大震災があった、という情報を聞いた。

震災なんてものはどうでもよかった。ただ、俺の心配は家に帰れるかどうかだった。録画していなかったのだ。その日、放送される「まどか☆マギカ」を。深夜だしリアタイ視聴余裕という慢心があったのだ。しかも、当時は確かものすごく盛り上がる10話の放送を控えていた時で、まどかを見られるかどうか、というのは俺の死活問題であった。あと、まどマギとか略すやつは当時のオタ仲間の間ではにわかの象徴だった。

さらなるハプニングが俺に起きた。ゲームのやりすぎで俺のガラケーは充電がなかったのだ。その上、萌えスリーブを買いすぎていたせいで、財布には100円の金もなかった。コンビニで充電器も買えやしない。もちろんクレカキャッシュカードなんて持ってなかった。電車が動く気配はない。俺は、仕方無く歩いて帰ることにした。ぞろぞろと、他の帰宅難民秋葉オタクたちと共に。

途中で、公衆電話を見つけたので、並んで家族に無事である旨を伝えた。だが、当時オタバレを嫌っていた俺はプライドから、録画を頼むことはできなかった。まどかマギカくらいで何を、と今の世代は思うかもしれないが、当時はまだオタ差別は著しく、まどかマギカなどという萌えアニメを見ていることがカミングアウトできなかったのだ。

数駅くらい、歩いたところで俺の体力は尽きた。帰るのがダルくなったと言ってもいい。周りの人間たちから漏れ聞こえる被害状況を聞くに、心のどこかで動くと思っていた電車も、動かないことがわかってきたからだ。俺は近くのスーパーでなけなしの金でバナナを買って、フードコートの水を飲んで飢えと乾きを満たした。まどかマギカの10話が見られるかが心配で、その次にそもそも今日、どこに泊まるんだ?という思いがあった。

ということで、俺は近くの駅のポッポ屋さんに聞いて、避難所小学校を紹介してもらった。たどり着いたのは、夕方ごろだろうか。そこには、俺と同じ帰宅難民リーマンが何人かいた。俺が一番若くて、寝床マットレスを運んだり、先生たちの手伝いをした。教室備え付けのテレビで、炎に燃える気仙沼を見て「関係ねえな、明日仕事行かなきゃ」と語っていた、リーマンのおじさんの茫漠とした表情をよく覚えている。夕飯は乾パンだった。

夜。少し冷静になって。俺は件の割れ厨の先輩のことを思い出した。学校近くの公衆電話からまどかマギカの録画を頼むために、俺は駆けた。「大丈夫だよ増田くん。MBS版はもう放送されてるからね。違法うpされたデータ回すよ」。先輩は、相変わらず元気そうだった。俺は大いに安心して、また気仙沼火事を見に学校に戻って、ちょっとまた先生たちを手伝い、制服のブレザーをかけて、教室で眠った。

翌日、なんとか帰宅したが、普通にまどかマギカは10話以降放送延期になった。あ、あと親戚が2人ほど死んだ。例の阪神淡路スピーチをした親類もそこには含まれていた。

そして大人になったある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東北出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。親戚や家族が死んだこと、放射線関係差別されたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は東京から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。俺も被災者から分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。歩いて駅まで帰ったんやぞ、まどかマギカのために。と嘘をつくと、彼は気まずそうに「なんやアンタ」と呟いた。

彼は俺より少し年下だったから、もしかしたらまどかマギカのことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。劇場版から入ったにわかかもしれないし。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

俺は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った千葉ゴミクズだったと信じている。そもそも秋葉原から遠くなければ、俺も簡単帰宅してまどかマギカの録画云々なんて悩まなくてよかったし、千葉のオタショップの品揃えさえ充実していればよかったのだ。

俺も、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、Z世代氷河期世代両方から馬鹿にされる「最悪の世代」だと言われている。確かに地震は俺にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まあ今になるとまどかマギカとか大した作品じゃねえな、と冷静な評価を下すこともできる。でも、震災の時にふと過ったあの感情を、たまに思い出したり思いださなかったりするのだ。リーマンってなんで震災翌日も働くねん、という。

まああれだ。震災は一時のスリルというエンタメとしては面白かったが、アニメ放送延期からわかるように日常生活に大きな影響を与えるのは間違いない。

そして、俺は思うのだ。

震災さえなければ、もしかしたらまどかマギカの叛逆篇の続きも出てた未来もあったのかもしれない、と。

とはいえ、おかげでシン・ゴジラやすずめの戸締まりといった名作も生まれたのだから、イーブンといったところではないか…と。

2023-01-11

公立小学校男児の上位6割は将来希望すれば結婚できるだけの素質がある

私立国立小学校じゃなくてもね

まだまだ日本未来を諦めないでほしい

今日、30歳になった

私は、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地優雅建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町長田六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパス自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校勉強するのかな、なんて思っていたものだ。

私が小学校にあがる前のある日、父とふたり大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれ名前の中には、地元教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。

小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生お話を聞いた。ある年の学校新聞1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。

高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

高校卒業すると、私は自分実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっとたかもしれないな」と思った。

大学卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。

ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。

彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校社会教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

私は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビル2021年高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダン茶色ファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。

私は今日、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、阪神淡路大震災記憶とともに生きる「最後世代」だと言われている。確かに地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっとたかもしれない。地元同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。

記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これから阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。

全く見当がつかないようだから、男を殴る女について具体的な事例を教えてやろう(これが一般的とは言わない)

大前提として持って生まれ性格差みたいなもんはあって、男だろうが女だろうが、程々理性を持つ頃には人を殴らない奴は殴らないし、殴る奴は殴る。

そして言うとおり、子供、というか未就学児童年齢なら男女関係なく普通に手を出し合ったりする。

で、あくまで具体例として、俺が知っている「男を殴る女として定着してしまった」ケースを教えてやろう。

  

「ぴえん」

  

だ。

どっちが悪いとか先に手を出したとか関係なく、殴られたことによって泣いた場合小学校低学年あたりから露骨に男側が一方的悪者にされがちなのである、というか、された。

(これが未就学児童だったらけっこう男女平等保育士さんとかに叱られたりするのだが)

その結果、冷静に大人の目から見る限り、男の子に対してそうとうに酷い扱いをした上でちょっとでも反撃されたら「ぴえん」で相手悪者にするというパターンを悪い意味学習した女がいた。

そいつは、そもそも元々の性格もわりーだろという感じの女の子ではあったが、その上で「ぴえん」を身に着けたらもう無敵だ。

キトーに手を出しても相手が悪いことにできるんだからな。

その女、小学生時代までしか知らんから中学以上でそれなりにまともになった可能性もあるだろうが、小学生時代は本当に男の子からしたら最低最悪の女だったよ。

実際、男の子たちの間ではめっちゃ毛嫌いされていた。女の子の間でどういう扱いだったか知らんけど。

全部がそんな感じだとはまったく思わないけど、具体的な事例としてごま塩程度に覚えておいてくれ。

anond:20230111070059

男女以前に

人を殴ったり殴られたりなんて小学校中学校最後だが

みんなそんな修羅の国に生きてるの?

231月10日

午後、路上にて。

小学校4年?くらいの三人の男児たちの会話。

A「違うって、お前の好きな子だって

B「みづき?」

C「リサリサ

最近の子達は好きな異性の話もこんな感じでオープンなのかぁと感心してたら

少し離れたところでオッサン歩道から車に対して怒声をあげる「ゴルァ!」

男児たち皆駆け出し

オッサンに殺されるぞ、逃げろ〜」

と去っていった。

夜、コンビニにて、20そこそこのカップルの会話。

女「(イチゴ菓子コーナーを見て)あーもーイチゴの季節かー。●くんはバレンタイン何が欲しい?」

男「(よく聞き取れない)」

女「手作りクッキーねー」

男「(小声で)手作りが、一番、美味いから」

女「でもねぇオーブンがないと。ね、オーブンレンジが装備されてないから。オーブンレンジがいるんだよ、あれ」

平和で微笑ましい会話だとその時は感じたのに、こうして文字に起こすとお互い思うところありそうな会話に見える不思議

2023-01-10

anond:20230110184506

家族が温かくても幼稚園小学校クラスに溶け込めなければそういう考えになるぞ

ソースは俺

無職障がい者が平日の昼間からロウロするのはやめて欲しい

という願いを叶えてくれるという意味で、障害者雇用代行は非常に意味のある事業だと思う。

そもそも我が国において「障がい者を無理やりでもいいので労働に組み込もう」という法律が生まれたのは、国民が「無理矢理でもいいので障がい者労働をさせて欲しい」という願いがあるからだ。

ぶっちゃけこれは「国民全員で折半して障がい者社会人ごっこをさせている」という状態である

結果として手間暇がかかる上に金もかるという二重苦なのでそこだけを考えれば無駄である

だが、それを上回るメリットがあるので評価されており存続しているのだ。

そのメリット

障がい者社会性を失いにくい環境に閉じ込めておける

社会を恨んでいる可能性が高いものが人目に付きにくいタイミングで大量の空き時間を持つことを避けられる

の2点だ。

これは相互に補完関係にあり、最悪のケースである「暇な障がい者が、暇に明かして変なYoutubeを見まくり反社会性人格覚醒し、無限の空き時間反社活動を繰り返し、障がい者であることを盾に自己正当化し、反省もせずに反社行為を続ける」を回避するのに大いに寄与する。

この状態になった障がい者対処するコストを考えれば、「とりあえず小学校レベル(最悪幼稚園レベル)の空間に押し込めておいて、生ぬるい社会性に染め上げたまま人生を終えてもらう」というのはかなり賢い施策である

ただし、企業の側がそれを援助する体制を整えるのは今の貧しい日本社会では簡単ではない。

複雑化した上に責任追及も激しい現代社会障がい者を組み込むのは用意ではなく、それはもはやある種の専門的な技能業務となってしまう。

まりは、障がい者雇用の代行を専門とするビジネス需要は大いに高まっているのだ。

これが実際には一切の社会貢献を行わず単に税金を盗み取るような業界であるなら非難されるべきだろう。

だが実際には、障がい者雇用本来目的である障がい者社会性を失うことのない空間への封じ込め」は成功している。

つまる所は、社会必要とされることを実行してそれによって正統な利益を得ているだけなのだ

なぜこれが問題になるのだろうか?

雰囲気世論を切ったつもりになるのは止めてほしいね

anond:20200311165317

この元増田の思う理想広告は「金つん文化つくりつつなるべく広く(好意的な)人だけに届かせること」だったんだろうけど、

多様化マッチング社会において標準的文化にすべて好意的な人ってのはもういないわけ 

男女が違うだけで石鹸広告不快みえたりする、男でも女でもない人はさら不快広告範囲が広い

でも今文化を広めてる人はいる、もっとも手広くやってるのは「趣味創作」してる人々だと思うんだよね

二次創作のすごくいい人が「趣味でこれをやってるなんて信じられない!」って本つくると原作漫画ガンガン売れるし

醤油ラーメン同人誌が何種類も(カレーラーメン特化誌とかが)コミケで売ってるし

あらゆるもの検索による最初マッチング後はプッシュ型じゃなくてプル型になってるのでプッシュ型のもの、おしつけがましい広告なんかもういらないんだ

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逆に、趣味というか個人の感想的なもので「わきまえない・すみわけない童顔萌絵広告類」を毎日のように「批判」してるひともたくさんいるし

批判されたことが気に食わなくて批判揚げ足取り?やり返すためにクラウドお金あつめて勤め先に告げ口したり都を訴えてる人もいる

当然ながらニュースバリューとしては泥仕合なんてクズしかないんだけど一部の人にとってはとてもたのしプロレスらしい

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広告が完全に文化だったなら、いまごろとっくに教育になりおおせてるはずだろ、それも大学という選択じゃなくて基礎である小学校でも。

でも基礎である小学校で教えていた「文化」のうちそろばん習字なんかも「もう趣味いいんじゃないの」って格落ちしてるわけ

新聞を読むこともNHKニュースを見ることも「趣味」にちかい個人選択になってるのだし。

金融というかフールペナルティネットについては教育しようねということになってるけど子供貧困に直結してないし。

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たまたま一時期洗脳的な能力をもちあわせていたからといって「広告(旧来型の、マスメディアに出稿するタイプのね)」って一体なんなんだろう。

新聞テレビも出稿してもそもそも新聞テレビ可処分時間を割く人がどんどん減ってるんだし。https://togetter.com/li/2040678

そんな時代広告が、Youtubeにかろうじてのこっている「どんとぽっちい」や「カーカキンキン」、「風がかたりかけます」、といった名作以上の存在になれるわけがない。

今のお子さんはどんな文化を共有しているか

大人になってこどものころテレビでみたCMが懐かしいというだろうか?

いや、ゲームが懐かしい、ユーチューバーが懐かしいっていうだろう。

まあ、オリンピック開会式に組み入れた文化宣伝とか、スポーツ実況の合間にはさまる程度なら邪魔だなーとおもいながらしょうがなくみてくれるとおもうけど。

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だれがこれから消費者可処分所得可処分時間の行き先を決めるのか。

少なくとも、テレビタイムラインに頻繁にながれてくる見当はずれな「プロモーション」ではないとおもうよ

(あれ右上:をおして興味がない非表示ってやりつづけたらとうとう写真家自身がただできれいな待ち受け用写真配信してくれるプロモーションが頻出しだして

アート産地直送タイムラインにあらわれだしたんだよね

それは広告文化としてのこるんじゃないかとおもうけどリツイートされればされるほど個人資金がきついだろうからどうなんだろね)

あとは日本語の怪しい中国通販サイト(開いた瞬間ワクチンソフトカンカンカンカン!となる)とか

広告クズっぷりは痛感してるけどむしろ完璧じゃないところがおもしろネタでもあるね

結局のところどんなに旅行を推されてもコロナ仕事があればいけないわけで

地方住みの俺のタイムラインにどれだけうまそうでも東京グルメを出してくればまた「興味ない×」だ

グーグルがこないだ広告アレしたからビングもアレだからダックダックゴー枠が強くなるんじゃないとかそんなもん

政府広告教育以外プッシュ型文化はもういらないんだと思うよ

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とりあえず長いこと下り坂にいるのも疲れたんじゃないのかな、お疲れ様でした

もうすぐ長女が小学校卒業する

もうすぐ長女が小学校卒業する。

10年か11年前、僕は今よりもっと若かった。

新卒で勤めた会社を辞めて個人事業を始め、

事業軌道に乗り外注だけでは手が回らなくなり、

オフィスを借りてアルバイトパートをたくさん雇った。

サラリーマン時代より労働時間が増え、忙しくはなったが、

とにかく時間自由が効いた。

クライアントへの訪問ついでに髪を切ったり、

服を買いにいったり、むしろプライベートに使える時間は増えた。

嫁はすでに第一子の長女にかかりきりで、

朝家を出て深夜まで飲み歩いている旦那に構う暇はなさそうだった。

仕事時間と体力を割いている分、収入は増えた。

使える金も増えた。

週末はタクシーで遠出して家族寿司焼肉を食べた。

それで責任果たしている気になっていた。

飲み歩くうちに新宿ホストの連中と仲良くなり、

その中の何人かとバンドを組んだ。

ホストの稼働時間は午前1時以降が勝負だ。

逆に言えばそれまでの夜の時間バンド練習に付き合ってくれる彼らは都合がよかった。

ライブは盛況だった。

客の9割は若い女の子だったと思う。

ある時からバンドを見に来た女子大生と頻繁に会うようになっていた。

それを境に、仕事にも家族にもバンドにも身が入らなくなった。

渋谷駅から少し歩いた場所マンションを借り、家には帰らなくなった。

昼過ぎに出勤して夕方にはオフィスを出る生活が続いた。

嫁には会社に泊まる、と嘘をついた。

大学生時間がある。

僕はできるだけ彼女時間を割いた。

それでも不満そうだった。

メンヘラ、という言葉を知ったのはそれよりもずっとずっと後のことだ。

奥さんと別れて」

青年実業家

IT経営者

バンドマンでスポーツマン

都合のいい女、

都合のいい関係

それでいて優しい家族愛。

全部ニセモノだった。

酔っ払った時の豚骨ラーメンみたいなもんだ。

追い詰められた僕は

あろうことか

彼女選択した。

僕は今よりもっと若かった。

広末涼子に似た風貌巨乳に勝てなかった。

嫁は言った。

「わかった。私は実家に帰るから、この子あなたが育ててね」

いろいろと我に返った。

次の週、女子大生彼女に別れを告げた。

彼女は笑いながら罵詈雑言を僕に浴びせて、僕の前から消えた。

もうすぐ長女が小学校卒業する。

まれてきてくれて、ありがとう



https://anond.hatelabo.jp/20140618183147

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