はてなキーワード: 共依存とは
・一時保護所では1人部屋に子ども2人いれたり、食事の時間をこまかく分けたりしてた。
・冬場はお風呂は3日に1回で時間も細かく決めて15分。職員が足らない。
・なぜ定員オーバーか→児童養護施設の空きがない、相談件数が増加しているのに規模が拡大していない。
・一時保護所なのにみんな長期入所になってしまう。緊急保護の受け入れ体制を確保するために、長期の子はできるだけ家庭に帰すことがあった。
・保護するには法の壁がたくさんあり、動けないこともあった。警察はすぐ逮捕できるような案件でなければ動いてくれない。
・親が手放すことを望んでない場合、親から引き離すことは相当大変。訪問しても居留守、強引に動けばすぐに訴えられる。訪問先で保護者から逆に警察を呼ばれることも。
・配偶者の片方に虐待疑いがある場合、もう片方に被害届けの提出やシェルターを利用しての別居など提案してもなかなか動かない(共依存)
・保護者だけでなく、保護した子どもから恨まれることが多い(虐待児が親への愛着があり家に帰りたいということはよくある。)
・児童福祉司はみんな月80時間以上残業して勤務時間外に研修を受けさせられたりしていた。
・一人の職員が100人違い児童を担当することがよくあり、訪問や連絡の頻度も限界があった。
・虐待だけではなく、発達や障害、非行、育児相談なと様々な相談に乗っている
(中学生が公園でスケボーしててうるさい、コンビニに自転車違法駐輪、隣の家の夜泣きがうるさい、妻が子どもを連れて家出、子どもがいじめられてる、不登校など)
・新卒の若い子はみんな使命感を持って入職してくる。大学で福祉を学び、資格も取り、児童相談所で働くことを希望して採用試験を受けた人ばかり。そんな子が半年でうつ病になり休職してしまったりする。
遺伝子くれただけのことは33歳までに全部恩返ししてんじゃないの。
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・その1
清楚 黒髪ロング 可愛い、けど控えめな性格のせいでクラスから若干浮いてる オタクにも分け隔てなく優しい 押しの強いコミュ強オタクに告白されて交際を始める
・その2
地味 メガネ ショート 背丈と声が小さい、顔立ちは普通かやや整っており表情が少ない コミュ障 小説が好きで自分も書く オタク趣味というかインドア趣味で腐女子の友達が居るが自分はそうではない 押しの強いコミュ強オタクに告白されて交際を始める or 図書局や文芸部など、創作活動をするサークルの先輩と交際をはじめる
・その3
顔は普通かやや不細工だが、それなりに明るくて愛嬌がある 兄が居るのか男性向けのオタク趣味を嗜んでいて、ゲームや漫画が好き ゲーセンも通う 気の合うオタク仲間といい感じになってそのまま順調にゴールイン
・その4
彼女は会うとほぼ毎回昔のトラウマの話や会社でつらいという話をする。彼女は友達が少ないし上手くいっていないことも多い。それで彼女には仲が良いある友達1人と私しかいないという話をされる。
そこで、人間関係が辛いなら、撤退するか、言うべきことは言った方が良いというアドバイスを伝えていた。どのくらい響いたかは分からないけど、ある時から嫌だったり疑問に思ったことを伝えるようにしているらしかった。自立に向けた活動もしていたように思う。
しかし、ある日会社行けるなら行ったら?と彼女に伝えたら(彼女は現在会社を休みがち)、実際に行ったが体調が悪くなって早退したらしい。それで、責任を持てないくせに余計な口出しするな、と彼女は怒り別れようとメールで言ってきた。私も了解し、後日荷物を取りに行くと言った。
その後、荷物を取りに行った時に、彼女の人生に口出ししてこないなら今後も付き合いたいと言われた。私は少し考えたいと言ってしばらく会わなかった。
次に会ったとき、私は会うまでに結論を決めきれなかった。彼女に自立して欲しいとかメンタルを安定させて欲しいとは伝えることは伝えたが、うやむやになって付き合いは続く感じになってしまった。
彼女は関係が上手くいっていない友人に辛かった時のことを伝えたりとか、転職活動のことを教えてくれる。でも私がいないとだめそうなことも伝えてくる。それで彼女は別れたらやっていけるか私は本当に心配に思ってしまう。
彼女といると楽しいときもあるし、思い出もある。ただ、メンタルが不安定で対人関係の不調な彼女とずっと一緒にいれるのか、いるべきかという不安と、そんな人だから逆に離れたら心配という思いがある。どうすればいいんだろう
ふと物心ついた頃から母方の祖母と母の仲がものすごく良いです。私が幼稚園くらいの頃からよく私を置いて二人で旅行へ出かけたりしていました。それ以外の時にも祖母と母がほぼ一緒で子供の頃はあまり行事に来てもらえず今では祖母が家を汚したり食べて無くなったものを帰ってきた母が私のせいにします。仕事で日中私が居なくてもです。
おそらく共依存だと思っています。父は単身赴任で年末に帰ってくるのですが昔から物を投げたり軽い暴力を振るわれているのでこう言ったことの相談先が分からず住んでいる地方の女性向けシェルターに事情を説明しお金を少し貯める間だけ住ませて欲しいとメールをしましたが私に問題があるんだと思います、返信は来ませんでした。同じような悩みを持つ方の相談サイト(発言小町など)を読んで気を紛らわしている日々です。今日は久しぶりに仕事が休みだけれど祖母がまた暴れて疲れました。
祖母の事を私のせいにされ否定しても嘘扱いされ続けてもう疲れました。私自身持病があり長時間働けないものの実家を脱出するために貯金をしていますがどうしても耐えられなくて吐き出せる先が無くてここに愚痴らせてください。長々と乱文申し訳ございません。ここまで読んでくださった方がもしもいたならありがとうございます。お目汚し失礼致しました。
わたし男だけど、漫画やなんかでの「お前は俺のものだ」みたいなセリフが大嫌いで
これで嬉しいってのは、相当変態レベル高いと畏敬を抱いている。
自分がどのくらい嫌いかというと、怒りのあまり頭痛がするとか一睡もできないとか
これを彼女にされると、もう顔も見たくないレベルになってしまって、何を言われても
怒りが増幅するばかり、このままではDV共依存でお先真っ暗なので別れるしかないのだが
そんなこんなで、時には寂しかったり誰かをかわいいと思うことはあっても
当然、友人関係も同じで、冗談でも「俺のもの感」を出すようなのとは縁を切ってきた。
そして仕事でも右に同じ。最初の会社は先輩がそんな感じになったので転職した。
基本従順なので、こちらが切れると相手は飼い犬に手をかまれたみたいな顔をして
それがまた怒りを煽るんだな。
2社目もやはり上司が逆鱗を踏んで転職寸前までいったが、何とか配置換えで収まった。
そのあとは、幸い大人な同僚に恵まれて、心穏やかな生活を送っていた。
ただ、時間がたったせいで喧嘩した上司も含め当時を知っている上の人が退職してしまい
わたしが扱いにくい人間であることを知らない人が増えたのが気がかりだ。
若いうちなら上司と喧嘩する馬鹿とか青二才な馬鹿とかで済むけれど
40超えたおっさんが部下に対して「顔も見たくない」とかパワハラそのものである。
あっはっはっは
昔の私のこと書いてあるのかと思った
残念ながらそのうち刃物沙汰になってボロボロになって別れますよ
同性同士というのも一緒、子供がいるってのも一緒
共依存は上手くなんていきませんよ
今の恋人とのことで友人らに相談していた時、「そんな共依存同士がうまくいくはずがない」と指摘された。
共依存という言葉を知らなかった自分は聞き流しながら、ただ指摘した相手の意図することも汲みながら、それでも恋人といることを選んだ。結果、数日後この友人とは関係を断った。
書かれている傾向や原因に思い当たることが多すぎる。
そしてこれが「病」と書かれていることにも驚いた。
過去の話をする。
いとこが多かった。一番離れているので十歳上。年上が多かった。
父方のいとことも、母方のいとことも年齢が近く、比べられて育ってきた。
それでも有名私立に通ういとこと比べられ、定期テストの順位で比べられ、進学先でも比べられてきた。
勉強だけじゃない。
家事の手伝いの具合や、思いやり、アルバイトの出来、容姿、とにかく目に付くもの全てで比較されてきた。
家事の手伝いでBに勝れば、Bのアルバイトの内容と比較され蔑まれ。
自分よりも劣っていた下の妹とは、「思いやり」と「かわいさ」とやらで比較されてきた。
お前はかわいげがない、と。
とうとう自分は心を壊し、高校生の頃一度不登校になり、自殺未遂まで犯した。
けれど心療内科に通うことはなく、親はその原因を知ることはなかった。
期待を裏切った進学をした後、それでもまあ根は真面目なのでそこそこ努力をして、進学先からは考えられないような場所に就職した。
この頃には鬱々とした感情はなかった。
相変わらず出来の良い親戚とは比べられたけれど、あまり気にならなくなっていた。
自分でお金を稼ぐようになって、親の庇護下でのみの生活とは変わっていった。
この時すでに一人暮らしを始めていた自分は、毎日毎時間の罵声、長時間勤務、休日に課される課題で疲れてきっていた。
そして、異性で遊ぶことを覚えた。そういうことをしている時は、嫌なことを忘れられたから。
流されるまま付き合って、セックスして、別れて。この繰り返し。思い返せば病んでいたと思う。
そしてある日、一人暮らしの家に転がり込んでいた相手との間に子供ができた。
ただ、自分の家に転がり込んできたような相手だったから、結婚生活なんてうまくいくはずもなく、早々に別れた。
自分のカードの不正利用をして勝手に三桁万借入していたこともわかった。
「ちゃんと生きなくては」
そう思って、転職し、三年間真面目に働いて、異性との関係も一切持たず、子供と向き合って生きてきた。
あの暗雲としていた毎日からは想像もできないくらい、充実した毎日だった。
ある趣味で、同性の友人ができた。
ただ、オンラインの繋がりだからプライベートなことは話さなかった。
昔からの趣味で、プライベートな話をすると会うことになったり、下手すると恋愛関係を持ちかけられたりすると知っていたから。
面倒ごとを近くに持ち込みたくなくて、プライベートな話はしない、という事をペアになる時に条件として出していた。
だから相手もそれを承知で、相手自身のことを話すことも殆どなかった。
けれどある時から、相手の様子がおかしくなっていった。趣味に顔は出すけれど、憔悴している様子。
ふと、自分がブラック企業に搾取されていた時のことを思い出した。
あの時、だれかが正しく手を差し伸べてくれていたのなら、自分はもう少し楽に生きられたのかもしれない。
そう思って、理由を聞いた。自分から「プライベートなことは話さない」というルールを破った。
これが、全ての始まりだった。
結論から言えば相手も共依存体質。そこに回避依存も併発しているような気もあった。
最初に近づいて、突き放され、どうしてと迫り、相手が折れて泣き、話を聞く。
元に戻ったと思ったらまた突き放され、仲直りして。
付き合っている訳でもないのに、毎日毎日連絡して、喧嘩して、仲直りして、を繰り返していた。
そう自覚したころ、相手から告白された。子供のことがあるから、と一旦断った。
けれど、相手が子供のことも真面目に考えてくれていると分かり、受け入れることにした。
付き合い始めてから、二人での連絡では「異常」な会話が増えていった。
けれど、ひとつ話すのなら、カニバリズムに対する理解や欲求が一致するのが初めてで、ただうれしかった。
けれど過去の恋人たちにそんなことを話したり要求してきたことはなかった。それが異常だと分かっていたから。
ところが、今の恋人なら或いは、と考えて話すと、相手から歓迎の言葉が返ってくる。
むしろ、他に自分が考えていた「異常な行動」について、提案を受けたりもした。
居心地がいい。
相手には自分がいればいいと思うし、自分にも相手と子供がいればいいと思う。
「この人のためなら何でもしてあげたい」という欲求が強い。
だから、相手が嫌がるという理由で十数年続けていた趣味を急にやめ、趣味用で使っていたSNSもやめた。
自分たちが異常であることは、自分たち自身が一番よく知っていた。
だから今までこの欲求を外に出したことはなかったし、理解してもらえるから今の相手にぶつけられる。
二人ともちゃんと「普通のひと」に擬態している。擬態できていると思う。
今、三人暮らしに向けての準備をしている。
ネットで調べると共依存同士の恋愛は危険、うまくいかない、なんて書かれている。
子供に悪影響があるとも書かれている。
自分たちが気にしているのは同性同士のパートナー間で子育てをすることで
子供の心に大きすぎるマイナスの影響を与えないか、ということで、共依存同士ということはあまり問題ととらえていない。
唯一の理解者がすぐ横にいてくれる安心感は、今まで生きてきた中で感じたことがなかった。
この人なら認めてくれる。この人なら求めてくれる。この人ならわかってくれる。
さみしさの表現も、その程度も、不安に感じることも、その解消方法も、手にとるようにすべてわかる。
オレンジの片割れって、この人のことを言うのだと、心からそう思ってる。
心の形がぴったりだから、居心地がいい。
子育てについても、課題はあるものの、この人との間なら大丈夫だろうと思える。
三人で暮らせるなんて、どれだけ幸せだろうと、考えるだけで顔が緩む。
こんなに安心していて、行動を制限されることもうれしいと感じているのに、共依存同士で何が悪いのだろう。
だけど家のことは二人でやるし、共依存同士だからと言って、完全な「する/される」の関係になるとは思っていない。
相手の欠点をカバーすることで、相手が自分に依存することに喜びを覚えてる。
一方で相手は「受け入れてくれる人に依存するタイプ」の共依存。
無理な要求をして、それを自分が飲み込むのを見て安心している。
ぴったりはまっている二人だと思う。
それなのに、どうして周囲がこんなに反対するかがわからない。
でも多分周りから見れば自分たちのほうが「酔っている」だとか「今だけだ」とか、そういう風に見えるんだろう。
戸惑いがないわけじゃない。
だけど、手放せない。
当たり前だが無から有は生まれないし考察も無から生まれない。ぶっちゃけ考察なんて慣れの問題で誰にでもできる。
ある作品に対して、
お前が思う「すごい」はどれだ。そしてどの能力を伸ばしたい。
1に必要な能力は物語論であって、キャンベルでもシド・フィールドでも石川千秋でもいいからその手の本をいくつか読んでみろ。たとえば貴種流離譚という概念を知っているだけでスター・ウォーズやバーフバリとかの作品の捉え方が変わる。
2に必要な能力はキャラクター論で、大塚英志『キャラクター小説の作り方』や新城カズマ『物語工学論』あたりでも読んでみろ。キャラクター類型という概念を前提に作品に触れてみろ。
3に必要なのは作品読解というよりその作品にあてはめうる「テーマ」について持っている自分自身の引き出しの問題だ。ラブストーリーひとつとっても、恋人未満の二人が恋人になる話、共依存関係が破綻するまでの話、三角関係の話、NTRもの、泥沼群像劇等々色々あるだろう。たとえば、コーマック・マッカーシー『ロード』は火を運ぶというメタファーから「受け継いでいく話」というテーマが読み込める筈で、そこからあの世界観において「受け継ぐ」が「世代交代」に繋がるというのは一つ言える。無数に存在する「テーマ」の類型の引き出しを作れ。
4はとにかく数をこなすことだ。小説なら作者の過去作品・インタビューを全部調べて読み込め。映像作品なら監督・脚本・演出その他諸々(全部とは行かないだろうから最低前述の3つ)の過去作品を調べてみろ。できればインタビューも読め。そして過去作品のなかのどの部分がその作品に共通しているのかを読みこめ。
5はこれまでの全部に共通する「演繹力」を磨け。「この設定であれば、この要素が欠けているのはおかしい」という想像を働かせつづけろ。「このキャラクターがこのような性格をしているのには理由があるはずだから、きっと過去にこういうことがあったのかもしれない」「この作品はこの作品のオマージュなので、きっとこういう展開になる」等々、上記で必要な引き出し全部を使っていけ。
二次創作もそれと同じだ。パターンだ。パターンを考えろ。AがBに対して愛情表現をするとする。どういうアプローチが考えられるか。気持ちを言葉にするかしないか、身体的スキンシップを含むか含まないか、そのときに照れるのか照れないのか、笑顔を浮かべるか浮かべないか、言葉にできないならどう表すか、ものを渡すのか、第三者にのろけるのか、色々パターンはあるだろう。考えて考えて考えろ。そのためには読んで読んで読みまくれ。自分のなかに引き出しを作れ。質は量で担保される。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
来週出かけたらとりあえずもうまる子との関係断てば?
なんでそんな自分勝手な人間と付き合ってるのが理解できないしそんな人間と交流してもメリットないどころか自分の株も下がるでしょ。あなたってまる子以外に仲良くしてくれる人いないの?共依存?
実は…って言えばいいじゃんそれでまる子がどう思おうがあなたに責任ないし、それでブロックされるようならその程度の関係だったんでしょ。どうせ向こうもあなたの事「自分に媚びてくれて気持ちいいな〜都合いいな〜」くらいにしか思ってなさそう
ていうかもしそれでまる子が病んでもそこで責任感じたり義務に感じるのはさすがに自意識過剰でしょ。まる子にとってあなただけが唯一味方なの?
自分は毒親育ちの左翼だった。子供の頃から、毒親の影響からか、友達ができない、もしくはできても健全は友達関係ではない
(要するに共依存関係)ので長続きしない、友達付き合いに必要な小遣いとかをくれないとか・・で友達のいない子だった。
20過ぎてから、毒親を自覚してカウンセリング等、受けまくって今では人並みに人付き合いができるようになったが、昔は本当にだめだった。
そんな自分が左翼?になったのは大学から・・最初にサブカル(洋楽)にはまって、友達がいないからカラオケで歌う曲を覚える必要もない。
流行とは真逆の音楽やら映画やらばかり追求し、だんだん政治にも興味を持ち出すと、チョムスキーの本とか読み出した。
大学を出てからも派遣で働きながら、田舎で自給自足しようとかNPO法人で働きたいとか内田樹とか安富歩さんの本とか読みあさり、
そんな自分が35過ぎてから、社会人サークルに参加しまくりだす。
職が変わって週休2日になったのが大きいのだけど、茶道教室、陶芸教室、英語カフェ、読書サークル、等。
思うに私はずっと自分の中学~大学まで友達がいないこと(特に大学では究極ボッチ)を正当化しようとしていた。
ショーペンハウアー曰くに「孤独を知らないものは自由を知ることが出来ない」
でもやっぱりずっと心に欠けてるものがあったのも事実で、それが社会人サークルに参加させてのだと思う。
以前もmixiとか流行った頃とかそういうサブカルや左翼の集まりに参加したけどそれはもともとそっち系の人の集まりだった。
今は、全く思想もなにも関係のないいわゆる普通の方々ばかりだ。
でも参加すれば受け入れてくれるいい人ばかりだった。
そういうアットホームな所に継続して通うようにしてたからなんだけど。
そしてとうとう掴んだのだ、共同体感覚・・と言うものを。そしてアドラー曰く
「共同体感覚を掴んでこそ、人は承認欲求を捨てれるのだ」ということを身を持って体験できたのだ。
毒親に対するカウンセリングを受けてたころ、幼少期のトラウマ(専門用語で言えばインナーチャイルド)は克服できた、
それは街中で見る子供と親の様子を見ることで、ああ自分もああやって受け入れられてれば愛情にも飢えないし、
人を怖いと思う必要もないのだと思えたから。・・としかし青春期のトラウマはずっと克服できていなかった。
どういう学生時代が理想なのかずっと掴めていなかった。それを30後半にして掴んだのだ。
それを掴むと、もう「世の中を変革するために何かをしなくてはいけない」とか
「みんなが右を向いてるとき自分は左を向かなくてはいけない」「自分は何か人より頭1つ出てなくてはいけない」
どれだけ世のため人のためと思っても結局承認欲求だったのだ。
同棲相手が鬱を発症して1年ほど経過しているが、経済力がなく、すべての生活費を相談者が面倒をみている。
親元に帰ることや、親からの経済的支援を考えねばならないのだが、親との関係性が悪く、本人が親元に帰ることも、金銭的援助を求めることも拒絶しているらしい。
その上、鬱発症後、警察沙汰になるような事柄も起こしていて、状況としては最悪だ。
…とそこまで相談されたが、正直アドバイスできるのは「できる限り国の制度を利用しろ」「自分の親に相談しろ」「相手の親にできるなら相談しろ」だけである。
そもそも、精神が不安定な者同士で同棲をするのはやめたほうがいい。
付き合いをやめろということではない。
同棲は、どのような形であれ、それぞれが精神的・経済的に独立していなくてはうまくいかない。
そのバランスが崩れると、自分一人で考える時間を持てなくなるせいか、お互いにとって良くない結末を迎えるパターンがあまりにも多い。
問題なのは、一方的に金銭的・精神的な負担を負わせること。そんな相手と、これから先、どのような未来が描けるというのか。
あまり深く関わりたくないので表面上の話しか聞かなかったが、遠からず共依存状態になるだろう(すでになってるかも)。
相談者自身も大人になりきれない幼稚な精神の持ち主なので、この状況を改善しようと思ったら、相手を捨てるしかない。
人間は本当の意味で他人を救うことはできない。自己を救えるのは自分しかいない。
それでも、本当に相手を助けよう救おうと思うなら、自分の人生を捨てる覚悟が必要だ。
その覚悟もできない人間は、安易に手を差し伸べるべきではない。
大切な人だから、愛している人だから…そんなもの簡単に打ち砕いてしまうほど、他人を助けるのは難しい。
そして、一度差し出した手を引っ込めることほど、残酷なことはない。