はてなキーワード: ストックホルム症候群とは
そういうのも残念ながらあるだろうし、まったくもって遺憾ではあるのだけど
むしろ若い人ほど自民支持って言うじゃん?あれがどうしてもわからない
搾取される側がする側を支持するって何なの?ストックホルム症候群なの?
自民公明の支持母体であるネトウヨ/創価学会というのは、低学歴低収入の負け組で、格差社会で搾取される側である。しかし彼らは何故か自民公明を支持していて、この格差を固定化する為に票を入れてしまう、というのはすごく皮肉な話だと思う。
どのような文化の、どのような国家でも、景気が悪くなると市民が右傾化し始めるというのは良く知られた事らしくて、生活に困窮した人ほど排他主義・国粋主義に染まってしまう。「外国人に仕事を奪われる」「移民は不当に優遇されている」「自分はこんなに苦労しているのに福祉の対象にもならない」という被害者意識が肥大し始める。在日特権を許さない市民の会とかいう団体が「日本人は差別されています!」と叫んでいたのを覚えている人も多いだろう。テレビで連日ニッポンスゴイデスネ番組が流されていたのも根っこはこれで説明がついてしまう。
安部の言う「戦後2番目に長い、いざなみ景気を超える好景気」とは、実際にはただ貧困層から富裕層に富が移動しただけだった。しかしここで搾取される側の貧困層・中間層が、安易な保守に回り、安部自民を支持してしまっているのは、冒頭に書いた通り全く皮肉なことだと思う。まるで人質に取られた人たちが犯人を擁護してしまう、ストックホルム症候群のような、強烈な闇を感じるのだ。
ミステリーにおける最重要人物と言えばやはり犯人だろう。そして作中で犯人に深く関わる主人公が、犯人に共感を覚え、最後には奇妙な絆で結ばれる、というのは定番ながら熱い展開だ。
だが、そこに水を差す馬鹿がいる。「何故、自分を殺そうとした相手のためにそこまでする? それはストックホルム症候群というやつじゃないのか?」などと訳知り顔で語るアイツだ。死ねボケナス。ストックホルム症候群という言葉には、人の内に生じた共感の情を頭ごなしに否定する悪質さがある。
犯罪というのは非日常だ。そこでは普段よりも本当の人間性が剥き出しになる。犯人が自分の動機や身の上を正しく理解してほしいと思っていることは多いし、犯人を追う主人公はそれらを深く知ることになるだろう。そんな関わりの中で得た感情や情報を重視することの何が非合理だろうか。
人間は自分の心理を専門用語で分類されると謎の敗北感を感じ、まるでその感情が浅ましいものであるかのような印象を与えられる所がある。しかし実際のところ、そんなことで感情の価値は下がらないし、その感情を否定しなければならない理由にもなりはしないのだ。言葉に惑わされず、自分の心を大事にしてほしいものである。
ディズニーって「ディズニーの王道」を時代に合わせてどんどん新しく書き換えてるんだよなあ
「ディズニープリンセス=恋愛」これすら捨てにかかってる
アナ雪のアナは真実の愛=家族愛であってクリストフやハンスへの愛はメインではない
最近の実写リメイクラッシュも作品の魅力は活かして昔の価値観を刷新してやるって意気込みを感じる。
(やり過ぎだろってのもあるけど)
翻弄されるだけだったアリスは剣をとってハートの女王を追い出し
一方的な呪いの被害者だったオーロラはマレフィセントに真実の愛を取り戻させる
「願えば夢は叶う」と幸せが与えられるのを待っていたシンデレラは「勇気と優しさ」を持って自ら王子に正体を明かす
美女と野獣のベルは元から「ガストン夫人なんて冗談じゃない」って言い放つキャラだった
(強い男と結婚する事こそ女性の幸せという価値観に逆らっている)
なのに最後は王子と普通に結婚しちゃってそのへんうやむやなんだよね
さらにはストックホルム症候群と言われてしまうこの作品が実写化でどうなるのか楽しみ
香山リカは我那覇さんを「マイノリティに過剰に同化してしまった哀れな存在」
として扱うけど、いち沖縄県民の私に言わせりゃハァ?だ。
基地反対派こそ本当はマイノリティで、今の沖縄は賛成とまではいかないけど「容認派」がほとんどだと思う。
「自分たちは基地によっていやな思いをしてないor恩恵を受けている」
「でも基地によっていやな思いをした(主に老人の)反対派を思いやって口には出さない」「というか沖縄でももめたくない」
みたいな考え方で、賛成とは言わないけど容認する人たち。
近隣住民の「騒音を立てないで」の張り紙を不気味なカカシ?で隠したり
在日がどうとか、どうでもいいけどあれをやる人間たち全てがどうかしてると思う。
こういうこというとヘイトだとか差別だとか抑圧するマジョリティだとか言われそうだけど、もう笑ってしまう。
あれが同じ県民で、すべての沖縄県民がそれにくくられると思ったら、ものすごく嫌だった。
沖縄を離れて、報道されるのを見るたび、「みんながみんなこんなんじゃないのになぁ」と悲しくなった。
もしそれがなんらかの作為的な行動であれば、それを画策した人間に私は腹が立つ。
というか、沖縄県民でも直接いやな思いをしたこともない人間が何をしているのだ、あそこで。
沖縄県民の前に日本人であるというような言葉に、ああ、そうなんだよなぁと思った。
彼女を応援している!という人も多いし、それを表明しなくても「よく言った」と思ってる県民は多いと思う。
沖縄のメディアは、我那覇さんを取り上げないしなぜかそちらを少数派にしたがるけど、我那覇さんの主張、またはその一部に納得・同感する人は多いのだと思う。
「マイノリティ集団には必ず抑圧するマジョリティに過剰に同化する人がいる。抑圧者にとってそういう人はたいへん都合がよく、一時はチヤホヤされる。「ほら、当事者だってこう言ってる」と使えるから。「アイヌ利権を主張するアイヌ」「在日叩きの在日」、そして沖縄にも。利用されてるだけの悲しい人。」
この香山リカ氏の主張に猛烈に腹が立ったのはなぜだろう。
お前が何を知っているのか。
というかマイノリティの過剰に同化しチヤホヤされ利用されているのは自分ではないのか。反差別のアイドル著名人として、利用されているのはないだろうか?
「私は違うわ。いけないことはいけないもの。自分の意思で主張し戦うわ。私は正しいの」か?
我那覇さんと何が違うのか?相手側の意見を聞く姿勢があるだけ我那覇さんのほうがよっぽど人としてできている。だからレッテル貼りをして逃げるくらいしかできないのか。
我々をストックホルム症候群の被害者のようなものだと思っているのか?
沖縄は、マイノリティなのか。私たちはいつまで抑圧されたマイノリティであるべきなのか?
特に基地を憎んでいないのにそれに反対することが正しいことなのか?
自らの意思をもって基地を容認・賛成し、主張することは哀れな被害者の成れの果てだともいうのだろうか。
私には、実際に目に見える障害がある。
たとえば、片脚がないと想像してほしい。それにほとんど近い障害だ。
自分の人生をその状態で生きてきた私は、今やそれも自分の個性のひとつだと思い、もはやチャームポイントだと思っている。コンプレックスはいまやなく、それを活かした仕事をしている。そんな自分を愛している。
片脚がない私たちは辛いんです!バリアフリーを!理解を!寄付を!と叫ぶ同じ障害をもった人もいる。それが悪いことだとは思わないが、自分と違う考えを持っているんだと思う。
そんな私に言う人がいるのだ
「片脚がないと不便だよね。かわいそうに」
「片脚がないことを嘆くことが普通なのに、大丈夫だなんて強がっちゃって。本当は大変でしょう?嫌でしょう?」
私がその時、どんな気持ちになるのかわかるだろうか。
こういうふうに言われたら、どう思うだろうか。
「障害があることも受け入れる?そんな自分を愛する?まぁ、頭がどうかしてるんじゃないのかしら」
「私の知っている人は障害者の人権向上のためにデモをしているわ。あなたはなぜしないの?」
「彼らの切断した脚を出して同情を買うパフォーマンスが嫌い?このレイシスト!彼らは闘っている弱者なのに!」
「あなたみたいな人のせいで本当に困ってる障害者が言われるのよ。「あんな風に生きてる人もいるのに」って。その引き合いに出されてチヤホヤされて利用されて、かわいそうな人ね。あなたはかわいそうなマイノリティであるべきなのに」
彼らは、自分たちがしていることがそういうことであるとは気づかないのか。
真っ当に自分なりの価値観で、自分を愛して生きていきたいだけなのに、言われるのだ。障害のない人に。何故か高いところから。
「差別はよくないわ。弱者へのヘイトはよくないわ。それをわからせるためなら(自分が決めた)レイシストは排外するわ。あなたは弱者だから喜んでくれるわよね」
バカじゃないだろうか。
今の沖縄を愛し、基地と共存しようとしている人間を、迎合しようとしている人間を、
誰にそのように言う権利があるのか。
私は、沖縄が好きだ。基地があり、ステーキやハンバーガーやアメリカンファッションが名物になり、休日にうろうろしている米軍人と笑顔で挨拶を交わす。私が生きてきた沖縄は、そういう場所なのだ。そういうが沖縄は好きだ。そういう人間がたくさんいる。
一部の人間からは「アメリカに染められ反対派を愚弄する国賊」だろうが、この多様化の時代に私や、同じ考えの人の愛するもの・主張をなぜ鼻で笑われなければならないのか。
狭い良識と偏った考えで、己に正義があると思い込み、弱者の味方ですというような顔をして良識人面している、本質を何も理解していない、理解しようともしない、自己愛にまみれた反差別の皮をかぶった差別主義者は、誰なのか。
どうせ彼らから見れば、この投稿も「ネトウヨが沖縄のふりをして書いたヘイト記事」「過剰にマジョリティに同化した哀れなマイノリティ」なのだろう。
そういう考えでいてもいいと思うが、真っ当に暮らす人間の邪魔をしたり傷つけたりしないでほしいのだ。多分話通じないけどさぁ。
ぐちゃぐちゃになった。書捨て。
ああ、買癖「だろ」
ああ、買癖「だろ」
虐待を受けていた少女が誘拐され、誘拐犯と暮らすというストックホルム症候群を描いた漫画を読みました。
この漫画は現実にあった誘拐事件を元にしていると言われており、
今も事件のトラウマを乗り越えて生きていこうとしている被害者が現実にいるにも関わらず、
その人を踏みにじり、面白おかしく茶化してあざ笑うような内容です。
現実の被害者などどうでもいいから都合よく消費したいという魂胆が見え透いており、読んでいて吐き気がしました。
このような漫画を許容し、愛好する消費者達も作者と同様の倫理観しか持ち合わせていないクズ共であり、
オタク文化がいかに邪悪で醜悪なものかをまざまざと見せつけられました。
編集部は売れれば何でも良いというのか。企業の社会的責任を無視した判断には神経を疑います。
作者はあくまでフィクションだと言い張って逃げようとしていますが、
幾らフィクションだと言い訳した所で、誘拐事件の被害に遭った弱者達を傷付けている事に変わりはありません。
帰宅したら知らない男が私のお気に入りの包丁を握って、チキンソテーを作っていた…
のではなく包丁で脅され犯されました。
調書の作成などをする日々が続きました。
起訴するための書類には、私が話した内容を元に刑事が私の気持ちを考えて
「犯人にはできるだけ重い刑を望みます」といったことが書かれますが
正直なところ判決の内容には興味がありませんでした。
奴のことが許せないだとか、不幸になれだとか、そのような感情は不思議と全くありません。
奴が牢の中でイイ子にしているかどうかのレポートが定期的に送られてくるのですが
評価が悪いとがっかりします。どうか更生してほしいと思うのです。
私は自分よりラクして幸せになる人を見ると不快になるようなイマドキの卑屈な人間なので
犯人に対してこのように偽善的な感情をいだくことが、自分でも意外です。
犯されたことが平気なわけでもありません。
抵抗しても絶対に敵わない男との力の差を感じたときは、例えるなら
「さっきまでおとなしそうに走っていた白いセダンを抜かした途端に
赤いランプを点滅させる脅威の存在に変貌して追いかけてきたときの絶望」
よりもずっとずっと深い絶望です。
ストックホルム症候群(犯人に対して好意的な印象を持ったり協力的になること)でもありません。
怪我を負ったことに加え、財布を取られたことや引っ越しを余儀なくされたこと
しばらくの間行動に制限があったこと
報道によって周りに詳細を知られたこともショックでした。
奴が懲役何年の有罪判決を下されようが、私には一銭の得にもなりません。
当時は理不尽で仕方ありませんでした。
法のもとに裁かれるというのはそういうことなんです。
それはどうしようもないことで、私が得しないなら、これ以上なにもマイナスにならないよう
よく逃げ延びた! 生き延びて、人生を取り戻せてよかった。でも本当に歯噛みするほど悔しいと思う。大切な人生の時間。当然自分のものである貯金も人生の対価なのだから。
改めて驚くのは、このかたみたいに頭が良くて自分の仕事と収入があり、多くの友人がいても、DV男の洗脳にはまってしまい、抜け出すのに半年かかっているということ。
DVストレスに晒されれば、誰でも無力感やストックホルム症候群や陥るのだということ。
本当に学校教育でDVに対する対処や病院や公的相談機関の利用法を教えるべきだと思う。
貴重な体験談をありがとうございます。この日記はきっと何人もの女性を救うよ。
なんとなく書いた増田に案外コメントつけてくれる人がいてちょっとびびってる
サディストにはハイレベルなマゾヒストがいるのかななどと思った
そういうことじゃないのかな? 違ったらなんか恥ずかしいからトラバはしない
ちなみに職業SMについての疑問ではなかったですそれはお仕事だから というかどちらかがお仕事じゃないと成立しにくいのだろうか
勧めてもらった漫画は名前は聞いたことある気がするけど読んだことはないので本屋で探してみようと思う
この疑問自体は結構長い間燻っていて「自称SはだいたいM」が持論です
なぜだかなんとなく精神的なつながりがあっちゃいけないような気がしていて
つながりにもいろいろあるんだろうけれど少なくともなれ合っちゃいけないんだろうなとか
ふと思ったのだけどMの人はSの人が本気で自分を害する気がある状態じゃなくても満足できるのだろうか?
お互いにこの人は自分の本当に嫌がることはしないとかこの人はこうされるのが好きだからこういうことをしてあげようとかそういう信頼関係が築かれているのかな
なんだかやっぱりSの人が損なような気がしてきた
Mの合意を得ずにSがやりたい放題やったら暴行とか傷害にしかならないもんな
でも本格的なやつはそういうのもあるって書いてる人もいたのでそういうのもあるのか
信頼がない場合M側にとっては単なる恐怖でしかなくなってしまうのかそれともその恐怖自体がより高位のエクスタシーをもたらすのかなどと考える
そういえば「AVの観すぎ」っていうコメントがちょっと面白くて
なんでかっていうと見たものがAVじゃなくてイラストSNSに溢れている二次創作BLだから
あれらの作品群を描いている作家がAVを観るのかよくわからないけれど どちらかというと二次創作BLの中でそういうものを見て再生産しているように見える
ちょっと気付いた気がする
「残虐な行為が主目的で相手が嫌がっているどうかよりも自分の興味が優先される」
「Sキャラを自称して人間関係で人に命令しやすく汚れ役を回避しやすいポジションを得ようとする」
「素直になれずついきつく当たってしまう(愛情表現が暴力になっているように見える)」
なんかが自分の中でごちゃっとしていてうまく整理できないからいけないんじゃないか
一番下なんか全然Sじゃないし個人的には下から2番目に酷いことをしたくなる
上から3番目までをどう切り分けたらいいかわからないのと相手が悦ぶのがいいなら別にSMじゃなくていいんじゃないのと思ってしまうから
なんとなく2番目が自分の中のSのイメージに近いんだけどプレイのイメージは1番目に近くて それだとSは満たされないよなあって
ストックホルム症候群とはまた違うんだよね?
誘拐監禁事件があると、よくストックホルム症候群という言葉が出てくる。
この用語って、一般常識になるほど有益で役立つ言葉ではないと思うんだよ。
せいぜい高校生クイズとかアタック25とかの、知識を競うようなクイズ番組で自慢できるくらいだろう。
ところが実際のところ、かなりの人が知っている言葉だよね。
たしかに、被害者が加害者に親近感を抱いちゃうって、普通なら考えられない興味深い現象だから、一度聞いたら覚えてしまうってのもあるだろう。
でな、俺は心配していることがある。
実際には珍しい事例なのに印象は強いもんだから「誘拐→ストックホルム症候群」って短絡的に連想されているんじゃないか?
それで異常な奴が「誘拐すれば好かれる」みたいに考えはしないか?
そこまで単純でなくても「条件さえ揃えれば好意を持たれる」なんて考えはしないか?
Qiitaに書こうかと思ったけど、言いたいことも言えない、こんな世の中じゃ。
モバイルファースト、APIファーストな文脈でハイブリッドWebをやってきた目からすると、サーバーサイドでHTMLを生成してページ遷移させるなどという90年代調のクラシカルな発想を基本に据えるフレームワークはとても斬新に思えました。HTMLをゴリゴリ生成するなんてよほど特殊な最適化をしようとするのでなければそもそも発想として出てこないです。それでいてDSLやメタプログラミング等のテクニカルな技法が宝石のように鏤められている様はまるでエジプト時代の骨董品を見るかのような趣がありました。turbolinkなどは、かつて表計算ソフトに出しゃばっていたイルカを思い起こさせる味があります。かつて慣れ親しんできたSPAが星のように遠い存在になりました。
Web界隈の人々がモデルだとかアクティブレコードだとか"MVC"だとかを非常に具象的に話す様を見るにつけ、お前らどんだけPofEAA読み込んでるんだよと畏怖していた時期が僕にもありましたが、どうやら彼等はRailsのクラスやディレクトリという特定の実装について話していただけだったようです。Modelという概念もこれだけ肥大化してしまったら、オリジナルな概念で彼等と会話するのは諦めるべきかなと思いましたし、Railsの"MVC"をアンクォートして語るのはもはや害悪であるとすら感じました。
Rails界隈の人がよく「Railsの流儀」や「正しい"MVC"」というのを口角泡を飛ばして議論しているのを目にするのですが、おそらく外に広がる不条理で火傷を負って快適なRailsの世界に引き篭もった結果としての一種のストックホルム症候群なのだなと思いました。いまやAjaxとかWebsocketとかWebRTCとかを組み込もうとする至極真っ当な方法論がとてつもない高難度に見えてきます。設定よりも規約、というのも一つの方向性だと思いますが、ドメインやサービスレイヤの名前空間を構築しようとしたりコードジェネレーションしようとしたりしただけで地獄のようなCircular Dependency罰を受けてしまったので、自分がとても間違った事をしているような気がしてしまいました。とはいえConcernsに特別な名前や役割を与えられても正直しんどいので、皆が皆libにゴミを放り込んでいく様子にも納得がいきました。
RailsをAPIサーバーとして使おうとするとまずビューが無くなってMとCだけになりますが、いわゆる"MVC"の文脈で育ったエンジニアがなぜ息を吸うようにFat ControllerやFat Modelを作ってしまうのかという事が良く分かりました。多くのRailsのリファクタ手法と称されているものはクラスを書くファイルを分割する事以上のものでは無いように思えたので、Rails使いを大きめなAPIサーバー案件に回すときはセットポジションでDDDの青本を投げつける必要が有るなと思いました。
ビューとコントローラを結合させた場合、結合テストはCapybaraとかのBDDでマークアップサイドとの干渉を恐れながら強い気持ちでメンテしていくしか無いのかなと思いました。おそらく脳に電極を埋め込んでいるか、緑色のランプを見るだけでハイになれる特殊な人にしか生き抜けない闇が垣間見えました。コントローラを薄くしてサービスレイヤを挟めばその辺りもうまくいけそうな気がしましたが、ビューからヘルパーやモデルがいくらでも透けて見えてしまうという状況では裏側の完全性に自信を持つ事は難しそうでした。
ビューがRubyを叩いて永続化レイヤと直接コミュニケーション出来るというのはとても生産性が高いのだろうとは思いましたが、こうして出来たパーシャルやら何やらをデザイナーとどうやって共有するかを考えると頭痛が痛くなりました。おそらく適当に切り出して綺麗な空間をassets以下に構築した上でpublicにRPCのような窓口を備えたゴミを量産していくのかなと思いましたが、もっと綺麗な方法はあるのかもしれません。でもきっとRails案件に関われるデザイナーはRubyもバリバリ書けるに違いないはずなので、ここが問題になる事は無いのだろうなと思いました。
RESTはとても美しいパラダイムではありますが、そもそもHTTPがさほど美しくないので歪んだ空間には目を背けるか勝手解釈を与える事で人は初めてRESTfulを名乗る事が出来るのだと思います。GETがbodyを(公式には)持たないという事について美しい説明を与える事は出来ないでしょう。サーチAPIはどうしますか。ステータスコード足りなくないですか。401エラーはどうしますか。そしてRESTはあくまでリソースを抽象化する美しい概念なので、アクションや副作用については貧弱です。動詞が足りないですし、一般動詞に狭義の意味を与えてドキュメントするのは二度手間にしか見えません。PUTには冪等性があるべきみたいなこだわりは家の猫にでも説教してればいいと思います。というわけで、REST的な設計を拝借することはよしとしても、「○○はRESTでは無い故云々~」みたいな注文はやめて頂きたいものです。
とか言わないで欲しいです。こういう時にセットでPHPをディスって悦に浸るのは知る限りRubiestとPythonistaと中学生だけです。それにこれはあくまでサーバーサイド初心者の感想なので、想像するにこれ系のFWは多かれ少なかれ似たような不満を抱えるものなのかなと思います。というわけで、おそらくこれから選択肢がある限りはRailsを使い続けると思います。
で、でたーーー
意味不明な文句を言っておいて最終的に何も言えなくなって論点を無くす事で逃げるクズ。
あんたがもし元増田でなくてもあんたが出てきてからでも十分言えることだからな?
両者は同じメンタリティ。被害者はストックホルム症候群だよな。
ってのは何を意図してるか、あんたの読み取ったことを教えてくれよ?
これはつまり、マネージャーというのは完全に自分の人生を犠牲にしてるのにそれを野球部員や世間によって正当化され
間違った方向に進んでるのに本人もそれでよしとしてしまっている、と言う話だよな?
違うか?
で、それがカイガイガーによって、アメリカではーって話があって、それに対するブコメに対して文句を言ってるわけだ。
だから、その「アメリカではー」がそもそも論おかしい、と言う指摘は何も論理的におかしくないことだと思うが?
着いて来れるか?クズ君?
で、それによって元記事は全部否定されるので、それに対して文句言ってるブコメは何もおかしくない、と。
それのどこがおかしいか説明してみ?
また、変な方向へ逃げるなよ。
まっとうに答えてみろ、放射脳。
かれこれ、少なくとも5年以上はまともな食事を取っていない。
晩は4種類のメニューのどれか(チンジャオロースー・きのこの炒め物・麻婆茄子・レトルトの餃子)と決められていて、
他のものは食べられない。
理由は、専業主婦の母が更年期障害になって料理をしなくなり、その上で自由に台所を触るのを禁じたため。
私は大学生だ。高校は、全生徒が大学に進学するのが当たり前ということになっていて、
それ以外の進路を希望すると指導室行きになる学校だったため、就職という選択肢はなかった。
父と母と私の3人家族。父は単身赴任していて好きなものを食べられるから、私のことなんて知ったこっちゃないのだ。
父の口癖は、「お前さえ黙っていれば家の中は丸く収まるんだ」。
朝ご飯と昼ご飯は、私は食べること自体が禁止されていて、お湯を沸かしてカップラーメンを食べることさえ許されなくて、
それでも食べない訳にはいかないから、大声で罵倒されながら、「すいません、すいません」と体を縮めて食べる。
一方、母は、朝ご飯はサークルKのチョコクロワッサン、昼ご飯はローソンのシャキシャキレタスサンドという規則になっている。
買ってくるのは私。母は一歩も外に出ない。
それらの商品が売っていなかったりすると、手に入れられるまで、いつまで経っても家に入れてもらえない。
晩ご飯は、先述の4種類のメニュー(つまり、フライパンで作れる簡単な料理)だけで、私の食べたいものを好きに作ることはできない。
「火を使うと暑くて汗をかいて嫌だから」という母の都合で、調理は私。どんなに疲れていても、私。
のろのろしていると、母の手や足が飛んできて、怒鳴られて、殴られて、蹴られる。
料理する時間は6時半という決まりで、だから門限があって、友人たちが飲みに行く背中をいつも一人見送っている。
台所には、いたるところにほこりが積もっている。食器棚にも、鍋にも、お玉やフライ返しにも、分厚い綿ぼこりが積もっている。
母は精神科に通院していて、幻聴が聞こえるらしい。その幻聴の内容や、母が便秘だの下痢だのというシモの話を、嫌な顔一つせず聞きながら、食事を取らなくてはならない。
実は私も精神科通いだ。ロヒプノール(睡眠薬)がないと絶対に寝られない。
今日した両親とのやりとりを書き出してみる(土日なので、父がいる)。
すると母が飛んできて、
「うわー、くっさい!なんてことしてくれるの!」
と騒ぎ出した。
いつもなら、ここで「申し訳ありません」と頭を下げる。
「電子レンジぐらい自由に使わせて。くさいとか汚いとか言わないで」
すると今度は父が飛んできた。
「お前ーっ!養われてる分際で何を言っとるんだ!!
ここにあるもんは全部俺のもんだ!
俺が外で働いてやってるんだ!
文句があるなら、家も学費も自分でなんとかしてみろ!
ったく胸くそ悪い!!(ほぼ一字一句再現)」
くさいって言われたら、嫌でしょう?」
とたずねてみたが、
と言われた。
豚汁は隅の方でこそこそ食った。
「養ってやってる」。小さい時からずっと言われてきた。
「養ってやってる」と言いながら、父は私の尻や足を触る。
例えるなら家庭内キャバ嬢という感じだ。
通学中の電車の中、夜寝る時の布団の中、父と母にされた仕打ちがぐるぐる回る。
小学3年生の時、父に包丁を突きつけられて、刺されそうになったこと。
その後、「あんたみたいな出来損ない、誰だって殺したくなるわよ」と言った母。
父に足首を掴んで11階のベランダからぶら下げられたこと。それを冷ややかな目で見ている母。
海に行くのを楽しみにしていたのに、母がカッターナイフで浮き輪を切り刻んだこと。
「俺は仕事があるんだ!出世できなくなったらどうする!」と怒鳴って、
何故か航空ショーを見に行ってしまった父。
買えなくて家に入れてもらえなかったこと。
それから。「大学受験の邪魔になるから」と言って、父が私の文鳥を殺したこと。
あの子の口から、血か内蔵かよく分からないオレンジ色のものが出てきて、目を見開いたまま死んでいたあの姿。
「文鳥ちゃんはあなたに勉強しなさいって教えるために死んでくれたのよ」とうっとりして目を輝かせた母。
来年、就活が始まる。就職したら家を出る、それまでは耐えなければ、と思うが、その前に折れてしまいそうだ。
ジプレキサを処方されているのは母であって私ではない。
ここに書いたことはほとんど事実だ。嘘だったら本当に嬉しいけど……
両親の作ったルールにも穴があるので(金銭管理がいい加減な家庭で助かっている)、
その隙を突いてこっそり飲み食いしたり、時たま起こる父の気まぐれでかろうじて生きている。
パソコンとネットは、リビングに置いてある父のやつを、勉強用(レポート書いたり、大学で配布されてるWeb問題集解いたり)という名目で借りている。
骨折以上の大ケガさせられて初めて「虐待だ」って言うもんだと思ってた。
これぐらい普通じゃないの?女ってこういう扱い受けるもんじゃないの?
だって、家で何か食べてると怒鳴られるけど最終的には食べてるし、大学だって行かせてもらってるし。
自分がどんなに怒ってても悔しい気持ちになってても、親の前ではへらへら笑ってなきゃいけないから、
なんかストックホルム症候群みたいになっている。
父や母も機嫌いい時は優しくて、急にケーキ買ってきたりして、
次の瞬間血相を変えて物を投げつけたりしてくるから、何が何だか分からなくなってしまう。
『母がしんどい』は本屋で立ち読みした。買ったのがバレたらヤバいので、自立してから買いたいなと考えている。
大学の保健室や相談室には、去年の5月くらいに相談に行ったよ。
今通院してる、保健士さん?がいる大きな精神科の病院でも相談した。
「かわいそうだね。頑張ってね」で終わりだった。
なぜ、こんな家にしがみついているかと言うと、私が無能で愚図でのろまだから。
せめて大卒にはなって最低限の専門知識を付けておかないと、まともに生計を立てられそうにないから。
普通の女の子みたいに要領よく何ごともサッサとできたら、高卒でも食っていけるのに。
「どうしてお前は普通の子みたいに要領よく何ごともサッサとできないの!?」「サッサとやりなさいよ!サッサと!」母の口癖だ。
もしかしたら、大学を卒業しても就職できなくて、風俗に沈んだりその辺で餓死したりするのかもしれないけど、
我慢して大学を卒業したら、その可能性は減るかなー減ったらいいなーと思う。
就職担当の先生には、なるべく遠くの企業に推薦してくださいとお願いしてある。
「昔から女性がする仕事だとされてきたような仕事は、たぶん君向いてないんじゃないか」って。
問題は変わらない。
あるブログに書き込みかけて承認待ちになっている長文がある、それを入れようかと思ったけど、それはちょっとやめる。
その方は、啓蒙的と言うか割と理屈が通用するところにいらっしゃる方のようで、そのような事も書けるのだろうなと思った。
こういう問題を考える時、現実との兼ね合いという問題が出てくるような気がする。
現実との兼ね合いって、理想が比較的通用する世界というか階層(ほんとはあっちゃいけないのかもしれないけど、人間は平等なのだからw)と、そうでなく現実にまみれた階層
うまく説明できないけど、地域性もあったりするかもしれないし、一概には言えないと思うけど
いや、言葉が悪すぎる、なんて言えばいいんだろ???
その前に、ストックホルム症候群というのを、ご存知だろうか?
ぐぐってみればすぐわかると思うけど、ストックホルムの銀行が強盗に襲われて、立て篭もりなどあって、犯人たちと銀行員が接触があったら、銀行員が犯人たちを庇うような心理状態に陥ってしまったというようなエピソード。
これは、特殊な環境下での特殊な心理として、片付けられてるけど、実はそうでもないんじゃないかと思う事がある。
生存を希求する本能や生存を第一義に考える心理の表れとして、特殊な環境下で生き延びるために、そのような心理状態に陥ったのだ、という事になってる。
通常の言葉で言うと近いのは、強い者におもねる様な心理、だろう。それがもっと強烈に本人たちさえ意識できないような状態で起こった、という事だと思う。
このような犯罪者を好意的に見るような事には、特殊な環境でなければ陥らない、というのも本当だろう。
しかし、人間の中に、生きのびるためには強い者におもねりたいという心理や、本能のようなものが入っているからそうなるのだろう。
そういう心理は、ストックホルムの銀行内だけじゃなく、常日頃から日常的に活用されているような気がする。
勝てば官軍とか、金や権力のある人や、社会的地位がある人が、《エライ人》のように見えたり、VIPって感じに見えたり
あぁ、思い出した、こういう言い方は?
「人は生活を守ってくれるものを、庇う考え方をする」とか「人は倫理より欲望を優先させる生き物」
ある程度教育を受けて理屈に合った事をやってれば良い人と、プロ奴隷みたいに生きなきゃいけない人
何の力も学もない庶民は、その場面場面での強い力みたいなものを、無意識に読んでしまうんじゃなかろうか。
親についても、批判について、すごく話がややこしくなってるのは、ある種の人々にとっては、親というものに対する子供の側からの批判というのが、現実的な力対(VS)力や立場ない状態での理想みたいに見えて、それでごにょごにょ思うんじゃないだろうか?(色々なケースがあるから全部自分に置き換えなくて良いと思うんだけど、なぜか書いてる人がすごく思いいれてた)
自分の中で、ストックホルム症候群のような状況ではないから、それほど顕著ではない矛盾みたいなものに、何となく気付いてしまいそうな刺激だから、エマージェンシーシグナルみたいなものが体内を駆け巡るみたいな
ちょっと違うかな
あるブログに(はてなじゃない)書こうとして承認待ちなのは、里親批判に里親のエゴの部分を指摘すると、里親側から反発がありブログ上で議論が白熱して、里親側も○さんに敵意丸出しですね、とか書いていた過去のエントリのやり取りを見たところ。
里親と言っても、露骨な虐待をしてる人ではなく、里親全部を非難される事に反発を感じていたり、里親志望の人たちで、里親志望の人にきつい批判をブログ主がしたら、別の里親だった人が敵意丸出しと書いていたというところでした。
それを見て思ったのは、エゴのない愛情はないので、身内のエゴだと許されるが、里親だとそうも行かないのだなぁという事でした。
里親は公費が給付されているし、一般の養育里親には実親に虐待された人が託されるわけではないし、実親と暮らすまでの間、託される場合もあるから、そりゃ身内と一緒にしてはいけないんだけど
そう思ったのでした。
身内のエゴでも、本当はおかしいんだけど、そういえばなぜなんだろう?と考えたら
里親制度がおかしいという事は本当は実親制度もおかしいのだろう。(理想を言ったり、神経質な見方をすれば)
おかしいけれども、エゴが身内だという事で、限度にもよるだろうけど、ものすごい暴力とかはっきりと虐待がわかるような状態じゃないと、かなりの部分馴れ合いのうちに、なあなあで済まされて行ってるんだろうなぁと思いました。
理想的な愛情を持つ親もいるでしょう、冷静な親もいるでしょう。余裕がある親もいるでしょう。
しかし、現実との闘いで傷ついた親たちには、なかなかその余裕がなかったりする現実というのもあるのかもしれないと思いました。
増田です。
私のその人格は決して「人格統合の推奨」はしません。そればかりの判断は「主人格であるK(私)が決めることだ」と私を立ててくれています。
つまり、良きアドバイザー役・唯一の相談相手、という「役割」を請け負って存在している人格が主人格を否定して、人格自身が持っている権限を逸脱した言動を示唆するのはなんだか考えにくいです。
ISHは私に常にこういっていました「私(ISH)はこの子(いつもISHは彼女のことを「この子」と呼称してました)のために、良いと思う行動と判断をします」と、常に善意に満ちていて、誠実、冷静な話し方とアドバイスをしてくれていました。ISHは彼女のことを常に心配をしていて、「統合」という結論に達したと話していました。もちろん、ISH独断で決めたわけではなく、他の交代人格と話し合ったと言ってました(反対したISHのことを嫌っている人格には反対されていたようでした)。
演技ではないかとのことですが、私にはなんとも言えません。
彼女は前からカウンセリングや投薬をしている時期がありました。
ISHは主人格を否定しているというより、彼女が幸せに生きていく手段を合理的に優先しているといった感じでした。
彼女にとって不合理なことは一切教えてくれませんでした(前の彼氏の時の状況をきいたことがあるのですが、「あなたにそれを話す必要はありません」とはっきり断られました。)
僕が、もっと彼女のことを愛してあげ、寂しい思いをさせなければ、統合の必要はなかったのだと思います。
彼女は僕から「世界で一番愛して欲しい、自分のことだけを見て欲しい」と常に言っていました。私が前の彼女がいたという事実(付き合い始めのころ、彼女に聞かれたりして
何気なく話してしまったことをずっと引きずっていました)に3年間悩み続けていたようです。私はある女性アーティストのことが昔から好きなのですが、曲を聞いたりライブにいくことが苦痛だと言われ(付き合いはじめは、好きなアーティストだと言って一緒に聞いたりしましたが、だんだん本性がでてきました)、彼女の前で聞かなくし、ライブも行かなくしましたが、彼女はいつも「あの女(女性アーティストのこと)のことを一番愛している、殺してやりたい」といつも
言っていました。僕が「歌声が好きなだけで、顔も性格も好きじゃない」と何度も言っても聞く耳を持ちませんでした。
彼女は「ISH」をはっきりと認識してはいませんか?「ISH」という存在を利用してその真似を行い、彼女は「自分自身に対する貴男の愛」を試したんじゃないかと感じます。
私と、私自身のそのサポート的人格との接点は初め、交換日記のようなところから始まり、小さい頃から見ていた夢の中に顕れる誰かという解釈を得ています。そういう意味ではその人格を認識出来ていますが、実際に他の人とどう接しているのかまでは分かりません。
ISHを含め、他の交代人格のことを主人格は認識していませんでした。
また、交代人格がでてきている間は、記憶が飛ぶので、ISHは経過した時間を常に
気にしていました(丸2日、主人格がこもってしまったことがあったのですが、
ISHになんとか戻してほしいと懇願して、主人格に聞いてもらったことがあるのですが「この子はもう外にでたくないと言っています」とでてきてもらえませんでした)
なので、交代人格がでてきている時間が長くなると、主人格の記憶と時間の概念に
食い違いがでることがありました。私は演技ではないと感じていました。
また、印象的な出来事ですが、彼女はトイプードルを飼うのが昔からの夢だったようで、付き合って半年の時に、お迎えしました。同棲している間は、息子として
お互い愛情を注いでいました。ある時、小さい女の子の交代人格が初めてでてきた
時、女の子は「かわいいワンちゃんだね、おいでおいで」と手を出したのですが、
トイプードルは非常に警戒して後ずさりをしました。私たち二人には普段は
絶対見せない行動だったので、動物には違う人だと本能的にわかるのかと
思いました。
心が「安定する」事はあっても「つよくなる」事はないんじゃないかと。
それに、ケースとして人格統合した結果、主人格だと思われていたメインの人格に安定するのではなく、ごくまれに副人格だと思われていた人格に安定してしまうこともあるようです。後者の場合、「自分は●●だ」と今までと同じ副人格として名乗りをあげることが多いようですが・・。
それを考えると、文中の「彼女」は人格統合した後も主人格として名乗りをあげているんですよね?でも、文中にあるような変わり方は私は聞かないです。
人格統合の話はかなり長い時間話あった(ISHや他の交代人格もふくめ)ので、
「強くなる」とも言われたのですが「安定する」とも言っていました。
彼女は統合後も主人格として名乗り上げています。ただ、統合の時に過去の
虐待の記憶も統合されたようで(統合前は、虐待の記憶の欠落がありました)
文中は「かなり」と表現していますが、私の主観ではあります。ただ、あまり
泣かなくなったのが一番印象的です。
願わくば、貴男が暴力被害の証拠を集めて、「彼女」を警察につきだす事を切に思います。
加えて、貴男もメンタルケアが必要な状態に陥っている可能性が高いと感じました。いわゆる「ストックホルム症候群」に類する状態じゃないかと。
情けない話ですが、未だ彼女のことが好きです。もし、彼女がやり直したいと
泣きついてきたら、間違いなく許します。
ストックホルム症候群のこと少し調べました。たしかに非日常的な毎日と、
激しい愛情表現の快感があったのは確かです。同時に、彼女のことをどうしても
守りたいという一心でした。この3年半、彼女の仕事が終わったら、1日も
欠かさず車で迎にいき、迎に行く時に飲み会があってもお酒は絶対に飲みませんでした。職場でいじめられて、仕事中に泣きながら電話してきたときも、早退して会いにいったりと、あきらかに普通の恋愛ではなかったと思います(今まではこんな恋愛はしたことがありませんでした)。こういうことをする自分に自己陶酔していると言われても仕方ありませんが、自分の頭の中は彼女で一杯で、何を差し置いても、彼女のことを最優先し、自分の時間の大半を彼女に浪費してしまいました。
解離性同一性障害というか境界性人格障害の人は、一度嫌いになると、どんなに
好きだった人でも生理的に受け付けないくらい嫌いになると見たことがあります。
僕の友人の中に、彼女も「Nさんは、博識で素敵な人だね」といっていた友人が
いたのですが(私も彼女との付き合いを差し障りのない程度の相談していました)
Nさんが彼女に「増田くんばっかり攻めるんじゃなくて、自分のことも見直したらいいよ」と冗談ぽく説教されたようですが、それ以後、親の敵のように態度が
豹変しました。私は彼女のことを優先してしまい、大切な友だちを一人、自分から
無くしてしまったのです。他の嫌いな友だちも自分から疎遠にしてしまいました。
今思うとなんて馬鹿なことをしたと思っています。。
カウンセリングには本当に行ってこようと思います。
28歳♀さんのお話を聞くことができ、救われる想いがしました。
もっといろいろな話を聞きたいと感じました。
http://anond.hatelabo.jp/20100829132535
28歳の♀です。
乖離性同一障害を私も持ってます(・・・と思われる。というのは、統合を進められることが怖くて受診できないです。なので、そういう診断がありません。)
文中の彼女の症状がとても私の様子と似ていました。また、「ISH」とかいう存在とかもなんか、似たような役割を持った人格がいます。
確かに、私は気がつくといろんな事を自分がしていたようです(暴れ回った、部屋を荒らした、自傷行為を実行途中だった、部屋で混ぜたら危険の洗剤を混ぜてた、スロットでメダルをカチ盛りしていた、財布に大金が入っていた、大量に買っていたおやつのストックが一晩にして食い散らかされていた、セックス中に明確な殺意を持って現彼氏を殺そうとした、セックス中に奴隷を志願しだした、言葉が解らなくなって幼児のように鼻水垂らして泣いてた、等)。これらは現彼氏の会話から出て初めて知ったことも少なくありません。
幸い、なのかどうなのか定かではありませんが、人格形成に関連のありそうな期間についての記憶が3年ほどありません。
文中の「彼女」がいうようなISHみたいな私の人格が教えてくれたには、「思い出されるのも忌々しい転落した廃棄物の期間だった」らしいです。
他の人に話したら「それ何てエロゲ?」って言われそうな濃い内容です。
ただ一つ、文章を拝読していて、ひっかかった事があります。
私のその人格は決して「人格統合の推奨」はしません。そればかりの判断は「主人格であるK(私)が決めることだ」と私を立ててくれています。
つまり、良きアドバイザー役・唯一の相談相手、という「役割」を請け負って存在している人格が主人格を否定して、人格自身が持っている権限を逸脱した言動を示唆するのはなんだか考えにくいです。
彼女は「ISH」をはっきりと認識してはいませんか?「ISH」という存在を利用してその真似を行い、彼女は「自分自身に対する貴男の愛」を試したんじゃないかと感じます。
私と、私自身のそのサポート的人格との接点は初め、交換日記のようなところから始まり、小さい頃から見ていた夢の中に顕れる誰かという解釈を得ています。そういう意味ではその人格を認識出来ていますが、実際に他の人とどう接しているのかまでは分かりません。
私は自分の「人格統合」や、乖離が起きる原因を探るために、心理学を勉強しました。
乖離が起きるがゆえの同一性の障害。これの要因はわかりました。でも、豊富な経験を持つ専門家ナシでの「人格統合」に起こる結果を予想して述べること、また実行することが私には妙なことと感じます。
心が「安定する」事はあっても「つよくなる」事はないんじゃないかと。
それに、ケースとして人格統合した結果、主人格だと思われていたメインの人格に安定するのではなく、ごくまれに副人格だと思われていた人格に安定してしまうこともあるようです。後者の場合、「自分は●●だ」と今までと同じ副人格として名乗りをあげることが多いようですが・・。
それを考えると、文中の「彼女」は人格統合した後も主人格として名乗りをあげているんですよね?でも、文中にあるような変わり方は私は聞かないです。
3年もお付き合いがあったということなら、彼女も貴男に対してそれなりの気持ちを持っていたとは思います。
本当に乖離性同一障害であったならば、「人格統合」も真実ならば、彼女のかつての副人格がメインとして安定してしまった可能性もあると思います。
しかし、なんにせよ、貴男と「彼女」はお互いが普通の関係ではありません。
「彼女」という寄生害人物が貴男を食い物にしているだけ、が文章から読み取れる現状です。
貴男の「彼女が好き」だという感情も彼女に洗脳されているという可能性もあり得ます(「好き」という感情に洗脳・コントロールする事は難しい事じゃないそうです。特に異性の場合はキスやセックスといった「性行動」と結びつけることでさらに感情を強くすることがあるとか)。
正直、文中の彼女にはムカっときました。
願わくば、貴男が暴力被害の証拠を集めて、「彼女」を警察につきだす事を切に思います。
加えて、貴男もメンタルケアが必要な状態に陥っている可能性が高いと感じました。いわゆる「ストックホルム症候群」に類する状態じゃないかと。
心理学は専門的に勉強はしたけど、私は医者じゃないので↑は私が感じた予想であり診断ではありません。
しかしながら他のコメントで、「君自身もカウンセリングに通いなさい」と書いていらっしゃる方の真意はそれ(ストックホルム症候群のおそれ)だと思います。私も同意です。
普通の心療内科や精神科ではこういった類のカウンセリングはほとんど行われていないと思います(診断、投薬がメインのところがほとんどのため)。
もし、カウンセリングを受ける気があるならば、弁護士や警察関係者から紹介を受けた機関に行くといいです。
32歳なんて、まだこれからです。
貴男の傷がこれ以上深くならないうちにどうか、勇気ある行動を。
本省からうちの大学に出向している40歳ぐらいの独身課長が、飲みながら話していたこと。
「いや、ほんとに本省というのはむごい。毎日、毎日、午前様で働かせておいて、残業代もでない。
こっちにきてから、10キロ太りましたよ。それだけ、人間らしい生活ができているってことですよね。
すばらしい。
本省は、公務員で、行政を司っているはずなのに、労働3権は守られていない、人権無視のところですよ。」
と、愚痴りながら、この大学に出向したことで人間として落ち着いてきたかを語る課長。
ここまでは、あー、へー、本省は大変なのねーですむのだが、
「けど、そんな生活が続きますとね『おれがやらなきゃだれがやる!おれこそが日本の教育を支えているんだ!!』って意識になるのですよ。
そういう意識が、ここの人にはないですよねー。責任感をもっともってほしいな。本省は忙しい分、そういう気持ちがあったもの。」
と、いかにうちの大学の事務屋がノホホンとしているかを愚痴りだす。
そこで、おれは引っかかる。
その責任感って、ある種のストックホルム症候群というか、共依存というか、追い詰められて追い詰められて、発狂する寸前だけど、それを必死に抑えるために出てくるような責任感ですよね。
一歩間違えば、すぐに人間として壊れちゃうギリギリって事ですよね。
つまり、病んでるってことですよね。
その教育を司って、いろんな施策を考える「人」が「病んでる人」だとするならばさ、
その人たちが考える「教育」ってなんか「ゆがんだ・病んでる」ものになるんじゃーねーの??
そんな「ゆがんだ・病んでる」教育で、ちゃんとした人間を形成することができるのかね???
試験区分で区別するのは良くないが、所詮は下級役人の国家2種の人間が、そんな病んだ状態で、狂った頭で考えているような「日本の教育」が、全部ではなくても一部は施策になって、なんとなく垂れ流されていく。
それって、本当に大丈夫なのか???
教育って短期的な施策をうてばいいというよりも、長期的などちらかといえば思想的な問題だからこそ、余裕があり、叡智を持つ人間が、大きな目線で考えていかないと、日本ってよくならないんじゃないか??
って、愚痴を聞きながら、怖くなった話。
ちなみにうちの大学はそういう病んだ人間が定期的に本省から来て、功名心にはやってわけわかんない学内改革をするので、教員と地元組がぶち切れています。
なので、学内の雰囲気悪いです。
ごめんね、学生。