はてなキーワード: ストックホルム症候群とは
本省からうちの大学に出向している40歳ぐらいの独身課長が、飲みながら話していたこと。
「いや、ほんとに本省というのはむごい。毎日、毎日、午前様で働かせておいて、残業代もでない。
こっちにきてから、10キロ太りましたよ。それだけ、人間らしい生活ができているってことですよね。
すばらしい。
本省は、公務員で、行政を司っているはずなのに、労働3権は守られていない、人権無視のところですよ。」
と、愚痴りながら、この大学に出向したことで人間として落ち着いてきたかを語る課長。
ここまでは、あー、へー、本省は大変なのねーですむのだが、
「けど、そんな生活が続きますとね『おれがやらなきゃだれがやる!おれこそが日本の教育を支えているんだ!!』って意識になるのですよ。
そういう意識が、ここの人にはないですよねー。責任感をもっともってほしいな。本省は忙しい分、そういう気持ちがあったもの。」
と、いかにうちの大学の事務屋がノホホンとしているかを愚痴りだす。
そこで、おれは引っかかる。
その責任感って、ある種のストックホルム症候群というか、共依存というか、追い詰められて追い詰められて、発狂する寸前だけど、それを必死に抑えるために出てくるような責任感ですよね。
一歩間違えば、すぐに人間として壊れちゃうギリギリって事ですよね。
つまり、病んでるってことですよね。
その教育を司って、いろんな施策を考える「人」が「病んでる人」だとするならばさ、
その人たちが考える「教育」ってなんか「ゆがんだ・病んでる」ものになるんじゃーねーの??
そんな「ゆがんだ・病んでる」教育で、ちゃんとした人間を形成することができるのかね???
試験区分で区別するのは良くないが、所詮は下級役人の国家2種の人間が、そんな病んだ状態で、狂った頭で考えているような「日本の教育」が、全部ではなくても一部は施策になって、なんとなく垂れ流されていく。
それって、本当に大丈夫なのか???
教育って短期的な施策をうてばいいというよりも、長期的などちらかといえば思想的な問題だからこそ、余裕があり、叡智を持つ人間が、大きな目線で考えていかないと、日本ってよくならないんじゃないか??
って、愚痴を聞きながら、怖くなった話。
ちなみにうちの大学はそういう病んだ人間が定期的に本省から来て、功名心にはやってわけわかんない学内改革をするので、教員と地元組がぶち切れています。
なので、学内の雰囲気悪いです。
ごめんね、学生。
うん、残念ながら好きだったと思う。つき合ってた人は。
途中からストックホルム症候群みたいになってたときもあったけど笑
元彼氏もさることながら、その男友達のことは本当に人として大好きだった。
私がなんかしたんだろうけど、惜しい人をなくした。
女に対してコナかけている数が多いからではないのかね。
さらに言うなら、肉体派の連中は「落とせる女」に対する嗅覚が鋭いように思う。
「落としにくそうな女」にはあまりこだわらない。
落とせる女を狙い撃ちにすればそりゃくっつく可能性もあがるってもんで。
付き合う前からDV男かどうかなんてわからないんだよ
すでにストックホルム症候群に足をつっこみかけてるのさ。
ぎりぎりDVではない細かなジャブを振るわれることによってね。
脳筋にもまともな奴はいるし
周囲のサンプル見るかぎりじゃ割合的には変わらないと思うけどな。
ストックホルム症候群(ストックホルムしょうこうぐん、Stockholm syndrome)は、精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。
犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情するなどし、人質が犯人に信頼や愛情を持つようになる。また「警察が突入すれば人質は全員殺害する」となれば、人質は警察が突入すると身の危険が生じるので突入を望まない。ゆえに人質を保護する側にある警察を敵対視する心理に陥る。このような恐怖で支配された状況において、犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより、協力・信頼・好意で対応するほうが生存確率が高くなるため起こる心理的反応が原因と説明される。
上述のように、ストックホルム症候群は恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作(セルフ・マインドコントロール)であるため、通常は人質解放後、犯人への好意は憎悪へと変化する。
1973年、ストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、犯人が人質を解放後、人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったという事件から名付けられた。
Wikipediaから引っぱってきた
有村さんは他人に「脳をやられた」「ストックホルム症候群」「抑圧移譲」言ってる前にこれを読むべき。
一つの過程に過ぎない記号に誇りを抱くことがおかしいとは思わないのか。
誇りを持たなくてはいけないとすると、そこにあるのは保身だけだ。
ストックホルム症候群を知らないのか?
それがどんなに正しくない現状だとしてもね。
「実際は助けてくれるかどうかわからないけれども最後には国にすがるしかない」、みたいな切迫した気持ちが変質して国への自己同一化を促してるんじゃないかな。ストックホルム症候群ってそういう防衛機制じゃないっけ。
『家庭内ストックホルム症候群』というのがあってだな…
もともとストックホルム症候群っていうのは、人質が犯人を好きになってしまう現象のことで、ストックホルムで起きた事件がもとでこう呼ばれているのだけれど、なぜそういうことが起きるのかというと、人質は犯人に気に入られたほうがより生き延びられる可能性が高まるので、自衛として犯人を好きになってしまうのね。
で、これと同じ現象が家庭内でも起きているということが発見されて、『家庭内ストックホルム症候群』と呼ばれるようになった。この場合は子供=人質・親=犯人の関係ね。子供は自分ひとりでは生きていけないので、親に気に入られるかどうかが自分の生死に関わっている。そのため、本当は嫌いな親や親の態度でも、無理矢理にでも自分に親のことが好きなのだと思い込ませるようになるんだよ、無意識に。
ま、http://anond.hatelabo.jp/20081020121703がこれかどうかは知らん。ただこういうのもあるよっていうだけの話。
ニイルという人が、世界でもっとも悪い母親はわが子に向かっていつも、「あなたはお母さんが好き」と聞く母親であり、世界でもっとも悪い父親はわが子に感謝を要求する父親であると言っているが、まことにその通りである。
自分で勝手に生んでおいて、そのうえ感謝を要求されたらたまらない。しかし、無力な赤ん坊として生まれた以上、親の要求をはねつけるわけにはいかない。生きていく唯一の道は親の要求を受け入れることである。
そして次第に親の要求を内面化し、自分のなかでそれにさからうことができなくなってしまう。そのようにいったん倫理化されたものは、末永くその人を内面から支配しつづける。
極端な場合には、たえず感謝をしていなければ生きることが許されないような気持ちになる。そしてひっきりなしに感謝の念を示すことになる。感謝の要求がつよければつよいほど、感謝することなしには自分は許されない存在であるとより強く感じる。
やがて子供は、どうすることがもっとも親を喜ばすことになるかと心をくだくようになる。どうしたらもっとも感謝の念を強く示せるか、そして親に気にいられるかと苦労しはじめる。
自分の好きな人が自分を思ってくれるほどには、自分が相手を思えない。
その理由には二つあると思う。一つは、幸せに馴れてしまった。一つは、目に見えないものを追っている。
あるとき否応なく気づかされるんだが、幸せって、それがそこにいつもあることに、いつの間にか馴れてしまうんだよな。いつもそこにあって、いつも嬉しそうに笑っていて、いつも大した変化の起こらぬ、安らかで穏やかな平和の日々。私が前に付き合っていたかわいい子とは、そんなものはなかった。いつ別れるか、いつ衝突するか分からぬ戦々恐々(大げさか)の日々。だけど気の合うときはとても気が合って何もかもうまくゆくから、うまくゆかない時間のことを帳消しにしてでも付き合っていたかった。それって、つまり、ストックホルム症候群とか、DV被害者が加害者と別れられぬ心理と同じなのじゃないかと、あとになって思うが。その印象が強烈であればあるほど、それによく似た実体のない影を追い求めてしまう。
二つ目には、ないものねだりをしているということ。いまこの手の中にある幸せに飽き足らず、この手のなかにないあれもこれもそれもと、意地汚く欲しがってしまう。だけどモノは手に入れるまでの期待に胸ふくらます時間がいちばん楽しいのであって、手に入れてしまえばモノはモノでしかない。人間はモノではなく自分の意志と意思を持っているけれど、私やあなたには、「自分の思い描く理想の恋愛ができる相手」という記号をもったモノのように、見えるのかも知れないね。
私がひとにこのことを相談したとき、大体うえに書いたような返事をもらいました。それで、だいぶ私は納得することができました。私はいまの幸せに馴れてしまっていて、その幸せに変化のないことを疎ましく感じ、邪険にしてしまっているのだな、ということに。
加えてその人は、こんなこともいいました。相手を失うことを考えて、それでも何も感じないのだったら別れた方がいい。相手を大切にできないのなら別れてあげるのが優しさだ。けれども、何か背筋が寒くなるような、温かいものを失ってしまうような気持ちを持ったなら、それはあなたがその幸せに甘えてもたれかかっている証拠であるから、その幸せを無下にしてはいけないと。
私はそれを受けて、やっぱり、今の男のことがとても大切だなと思いました。今の男があまりに自然体で、あまりに構えがなく、だからこっちもほとんど気を張りつめたり、身構えたりすることがなく、まるで家族を相手にしているような気安さなので、その男に対する愛情の正体が、惰性か同情か気安さか、自分で見えなくなっていたようです。
私は、いまの相手のことがとても大切です。それでもまだ昔のかわいい子のことを思い出してしまうのは、それはやっぱり、ないものねだりなんでしょう。手に入らぬからよく見えるだけで、手に入れてしまえばまた、緊張と不安と弛緩の連続の日々が待っている。それでも諦めきれない。でも諦めねばいつまでも前へ進めない。だから、この過去への執着は、ただのないものねだりなんだと自分にいい聞かせています。いい聞かせて続ける恋愛。それが本当に正しいことかどうか、私には判断がつきません。
キーワードより
いろいろあるなー
「どうしてそんなことを言うの? お母さんは太蔵が結婚をして、子供を産んで、
その子供を育ててくれるために、今あなたを育てているのよ」
こんな事言われたら俺グレそう
でも何故でしょう、こんなに幸せなのは?
あんまりに辛いけど、その事態を続けていかなければならないから、脳が「幸せだ」と思い込んでるだけじゃね?
ストックホルム症候群的な感じで