はてなキーワード: ストックホルム症候群とは
こんな教師の言葉が心に刺さるとかなんとかネットに上がってますが頭おかしいんじゃないでしょうか?何処からどう見てもクソ教師ですし、自分の命を最後
まで大事にできない人間に教育なんかできないしその狭窄した思いにつきあわされる生徒の多くもPTSDを発症するレベルの虐待ドラマだよあれ。そもそも自分が
私はT式コーチングというものが本物かどうかを入念に調べながら実践し、それに関わるコーチング理論にも徹底的に手を出し、当然一月万冊にも辿り着いた。
彼らが主催するセミナーのようなものにも時々顔を出していたので、ビ・ハイアの従業員も知っていた。
私自身はコーチとしての資格などは持ってはいないが、T式コーチングの理論はそれ自体は決して悪いものではない。
私は100%盲信している訳でもないが、本来の使い方をすれば素晴らしい効果を発揮するものであると感じている。
しかし、S社長(以下S)の解説するコーチング理論を精査したところ、T式のものとは少し違い、独自の解釈、理論で展開されている。
だがそれ自体がコーチングの理論からすれば大きな勘違いという程でもなく、本人すらも気づいていないかもしれないが、根源がT式とは違うコーチングをやってるなーといった感じだ。
実際、いまいち腑に落ちなかった部分をSの解説で理解できた事もあり、彼にネット経由で直接感謝を述べたのだが、私の予想とは違うリアクションが返ってきた。
これを機に、その内容とは裏腹に、私は彼に対し人格的な違和感を抱く事になった。
私の見解では、Sはめちゃくちゃ外ヅラは良いのたが、その本性は超自己中心的人間。
自分を天才だと思い込んでいる人物であり、普段からの発言は嘘と本当の事を混ぜ込んであるので、非常に巧妙にまるで全てが本当の事だと思わせる話術もある。
更に、上手いことをやれば何をやっても許されると思っている。
知識人やコーチ連中も含め、恐らく周りのほぼ全ての人間が彼を信用し、凄く良い人だと思っていた事だろう。
よって知識人と言えども、今回の事態を受け入れられず、混乱したまま擁護に回ってしまったのではないか。
その点、コーチのU氏のスタンスはとても冷静で、元々今回の騒動の主要な人間関係を知っていた私は、彼の主張によりほぼ全容を理解できた。
この度の大下氏の主張は、恐らく社内でのSは彼の言う通りの人物像なのだろう。
コーチングの知識があるにも関わらず、事実それとはかけ離れた非人道的なSの振る舞いは、決して許されるものではない。
相互監視などはストックホルム症候群を応用した手法にすら思えるし、他にも読書で学んだ洗脳の手法も従業員に多用していたのだろう。
また、報道はされていないが、Sと大下氏は大学時代からの20年来の友人でもあるはずなのにこのような仕打ちとは、Sの非道さが際立つ。
そして、ただでさえ怪し気な雰囲気が付き纏うコーチング業界にとっては、これは大変な痛手であり、大きな誤解も生まれる。
もちろん世の中にはコーチングと謳ってはいるが、インチキ紛いの連中も実際にいる。
たが、Sのやっていた事は当然それ以下で、彼が勝手に師と仰ぐT氏にとっても大きな迷惑である。
事実、独自の理論を称えていたのでT式とも呼べないのだが、彼の巧妙さの真骨頂はそこではない。
その並外れた営業スキル(外ヅラの良さ)で彼らに近づき、友人としてすっかり信用させていた。
私はそのコーチの方々とも会った事があるが、人間的に信頼もできる方達だと感じた。
私が唯一違和感を覚えたのは、やはりSだけだ。
また、T氏の一番弟子と言われるAコーチが、ビ・ハイアへコーポレートコーチングを行っていたという。
残念ながら防ぐ事はできなかったが、これを機にA氏は流石にSの本性を見抜き、離れたのではないかと推察する。
もしかしたらそれに加え、Sがコーポレートコーチングの契約に反した行動なども露見したのかもしれない。
A氏のコーチングを受けていたにも関わらず従業員が自殺するなど、その通りに実践していればどう考えても起き得ない状況だからである。
今回の件で、A氏以外のSに関わったコーチが公式の認定コーチから排除された問題は、T氏からすれば謹慎のようなものではないかと思う。
勿論除名は謹慎と比べるまでもなく重い処分ではあるが、やはりT氏としては動かない訳にもいかないだろうと、同情の余地もある。
とは言え、私は関わったコーチにも非があったとは思えない。
やはりSがずば抜けて良い人を演じるのが上手いのだと思う。
表向きには良い人、裏の顔は冷酷、もしかしたら本物のサイコパスなのかもしれない。
それを見抜けなかったコーチや知識人はある意味被害者でもあるが、それに反し彼らの社会的影響と責任は大きい。
ただ、その現実を受け入れられず擁護に回っているとしたら、そこには同情の余地はない。
今回の騒動は、本来民事裁判などではなく刑事事件となるべきだと私は感じるのだが、その行く末を見届けたい。
それとともに、他のコーチング理論ならいざ知らず、少なくとも利他的である事を取り入れているはずのT式のコーチングには罪がない事も加えて主張したい。
はてな村ってストックホルム症候群に似た何らかの一体感が醸成されてるのかな
現実の誘拐監禁事件を下敷きにした作品であり、賛否両論だと聞いたので、
クジ〇ックス先生的な(失礼)陰惨な性犯罪を賛美する内容を、中高生が熱烈に支持するマッポーめいた状況なのかと思い、
どんな内容なのかweb版をざっくりと読んでみることにした。
作品自体の内容としては、まず誘拐というのは完全なミスリードというか誇大広告であり、無知なJCがハイエースされてダンケダンケされ、ストックホルム症候群に陥っていく…
というような内容では全然なかった。実際の事件との関係性も(少なくとも物語上では)全く見いだせない。
男側も色々病んではいるのだが、そもそもハイエースしてない上、少女の自殺を阻止したり、レイプ被害から救おうとするなど、むしろヒロイックに描かれている。
同棲してるのも、家族が少女を虐待しているので、帰る家がないためだ。少女が未成年なので犯罪は犯罪なのだが、成人同士ならおそらく罪には問われないだろう。
作品を批判する友人に聞いたところ、実際の朝霞市の誘拐事件発覚当時、これが短編として公開されたのが原因であるらしいと分かった。
作品冒頭の誘拐犯が少女に優しくし、しかも少女は家で虐待されているという描写しかなかったので、事件当時、下種の勘ぐりで色々被害者が批判されていた内容を、そのまま肯定するセカンドレイプとして捉えられたものらしい。
今現在、冒頭しか読まないで批判してる人は論外としても、当時からの批判者にとっては、その後の作品の流れで、実は誘拐監禁など全くしてなかったということが判明しても、
それは単なる後付け設定に過ぎず、寝技に掛けられたようなもんで、壮大な言い訳を聞いているに過ぎないということのようだ。
そのため、公開当初にこれを見て衝撃を受けた人と、後から知って話の全体構造を知った人とでは、まるで受け止め方が異なってくる。
このあたりの事情が分からないと、擁護側と批判側の話は食い違ったままになるだろう。
私は人の善性を信じたいので、作者は何も考えていなかったか、またはセンセーショナルな効果を狙って冒頭だけを無邪気に公開してしまっただけと思いたい。
あるいは、あまりに無神経な短編になってしまった事に気づき、責任を取る意味で物語の続きを書き、実際の事件とは関係がなく、誘拐監禁なども起きてはいなかったのだと明示したものと信じたい。
しかしそれだけで批判がやむことはないだろうから、漫画が完結した時、またはドラマが放送された時にでも、きちんと詳細な釈明を述べるとよいのではないかと思う。
女子をストーカー男が監禁して結婚の約束をする話題の漫画を読んだ。
もうちょっと書く。
この作品が叩かれてるのは言うまでもなく「朝霞の誘拐事件で被害者叩きしてた連中の言い分をそのままなぞっているから」で、
擁護派の言い分は大きく二つ。
(擁護派同士で殴りあえばいいのに。結局関係あるのかないのか)
関係してないわけねーだろ。事件のあとにあの設定でニュース見てないわけねーーだろ。
百万歩譲ってニュースもツイッターも2chも見てないで、朝霞の事件のこと全く知らずにあの漫画書いたとして(発表ツイッターだけど)、
漫画の発表の数ヵ月前に酷似した事件が起きてると知ってノーリアクションなのおかしいだろ。
フィクションでーす、って言い張ればなんでも許されると図々しく思ってるからしれっと描き続けてるんだろうが。
で、後者について。
「時間が経過していたらいいのか」
「関係者が没していればいいのか」
たとえば東京大空襲や原爆を粗雑に描かれたら、やっぱり怒るだろう。
と、考えると、やはり問題はあの作品がむちゃくちゃ薄っぺらくてつまらないことに尽きるのではないか。
つまらないというのは、つまり、物語に厚みがなく熟慮されていないということだ。
誘拐によるストックホルム症候群であっても、
ストーカーにならざるを得なかった男と少女の共依存であっても、
たとえ「正しくない」内容であっても面白いはずだ。
「正しくない」人間を描いても魅力的なはずだ。
描く対象に、真摯に向かい合った作品ならば、正しくなくても面白い。
そして、そこに至るまで考え抜かれたストーリーは、
クソしかいない世界で、比較的クソではない誘拐犯と少女が微笑み合う。
そこになんの真摯さも感じられない。
感じられるのは「だからこの誘拐犯は悪くないんだよ~」という言い訳がましさばかりだ。
と、書くと、「それはお前の主観だろうが!」「面白い面白くないは誰が決めるんですかー!」と言いにくる奴はいるだろうけど
そしてこれは優れていない作品だ。
それはもう断言して構わないだろう。
つまり、「中学生くらいの女子をうっとりさせる」という点においては
それは理解できる。
「面白さ」とは別ベクトルで、金を出させるに値する価値だと思う。
砂糖をぶちこめば甘くなり、甘いものを食べたい人にとっては価値がある
みたいなことで、
それは軽薄な単なる「消費」ではあるが、サブカルチャーとして正しい姿勢でもある。
だが。
しかし、この作品に限っては、前述の「朝霞の事件に関係していないわけがない」からこそ、
その軽薄な「消費」に巻き込んではいけない。
ごく真剣に、誘拐犯と少女のことを考えに考え抜いた「面白い」作品ならば、
それを考える間に、実在少女の心情に、家族に思いが至るだろう。
その上で苦渋の取捨選択をした上でストーリーが組み立てられるだろう。
そこに真摯さがあれば、いたずらに誰かを傷つける作品にはならず
仮に誰かの傷に触れたとしても、その批判を作品として真正面から受け止めるだろう。
しかし実際にはこの作品は単なる萌え要素をぶちこんだ消費でしかないから、
つまらないし、フィクションだと言い張って逃げるし、批判を正面から受け止めることができない。
人を傷つけてまでやることか。これが。