はてなキーワード: ぼんやりとは
2022年2月5日22時。某TOHOシネマズ第一スクリーン。
一際広い劇場内に敷き詰められたシートの中心の一席、J-22。
そこに一人の男性が呆けた顔で座っていた。
いや、特徴的なのはその顔だけではない。その両手両足を乱暴に投げ出し、尻は座面からこぼれ落ちそうなほどずり下がり、首は赤子のように垂れ落ちる。だがかろうじて眼球だけは、正面のスクリーンを向いていた。
何を隠そう、俺である。
炎上必至の数々のマナー違反は許して欲しい、レイトショーだからか左右どころかその列には誰もいなかったのだから、誰にも迷惑はかけていないもん、と駄々をこねることも許して欲しい。それになにより、彼は普段はこんなことはしない。映画に限らず定められたマナーを守る善良な一市民なのだから。原因はただ一つ、目の前のスクリーンに映る映像だった。
クソつまんなかった。
本当にクソつまんなかったなあ。
まず、俺は以前、こんな文章を書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20220204190811
上の文章をまとめると「この作品はおちゃらけパロディ映画だと嘘をつかない広報をしているため、シンゴジラやパシリムを期待して見に行き、その尺度で批判しているのはおかしいぞ!」と言うものなのだ。別に「みんながクソ映画って言ってるけど、絶対違うよ!」と言ってるわけではない。
あえてハッキリ言うが、映画を観た後でもこの感想は変わらなかった。シンゴジラやパシフィック・リムとはそもそも土俵が違うので、その点で批判するのはやっぱりおかしい。
が。
それはそれとして、明らかにモチーフ、パロディにしている「特撮」と言うものについてのリスペクトが感じられないとは強く思う。
感じられないどころか、コケにしているのでは、とも。
そりゃあ、怒る人もいるだろうな、と。
パシリム二作とシンゴジラと、ゴジラが光線で空を飛ぶシーン、ラドンもそうだそうだと言うシーン、シェーをするシーンだけ知っています。この知識の質で比較して語るのは不可能どころか怒られかねないので、その視点では今回何も言えない。
あ、あとゼンカイジャーの2021年の放送分は見てました。今年に入ってから終わるのが寂しくて見れてない。おわんないでくれ……頼む……。
話を戻して、「そりゃあ不満が噴出するだろうな」と言うところ以外にも俺の目には悪い点がかなり写った。
ただ、俺はこの映画に対して怒りは抱いていない。
先程貼ったリンクからの文章に書いた通り、俺はクソ映画を見るのが好きなためだ。
なので、クソ映画を見るぞと思いながらお金を払ってクソ映画だなあと思いながら見てクソ映画を観たぞと今に至るため、何も裏切られていないからだ。
さて、これから感想の主題、いい点と悪い点に分けて感想を言っていきたいと思う。
・いい点
「倒された怪獣をどうするか?」という点は「なるほど!面白いところに気がついたなあ」と膝を打つものがあった。既出かもしれないがそれは知らん。
・悪い点
要は他全部。
いやー、酷かったな。
セリフで説明しすぎて不自然になってるし、ギャグは好みはあれど全体的に下ネタで塗れていて、しかも俺は下ネタが嫌いなので聞くたびに不愉快な気持ちになった。画面も凡庸すぎて目が滑る。演出に関しても、「映画を良くするため」のものはほぼないようなもの。
挑戦的なことをしろとまでは言わないが、映画として形を作る最低限のものすぎて、きつい。
「今何をしているのか」が全くわからない。
「今は作戦が始まっているのか?」「今ピンチなのか?ひと段落してるのか?」「あいつ結局どうなったんだ?」「今は結局誰が味方で誰が敵なのか?」が、観ていて全くわからない。
例を挙げる。
【怪獣の死体を水で流して海に捨てる】という作戦が始まり、死体は巨大な水流によって流され始める。
↓
しかし、口へと流れ込んだ水が何かがどうにかなって(不明)、なんと腐敗ガスが怪獣の尻から出てしまった!オナラみたいに!
↓
↓
場面転換、主役たちは別の場所にて沈鬱な顔で別のことを話し出す。ここからさらに数分後、次の作戦の話し合いが始まっているのでどうやらアレは失敗扱いらしいとここでようやくわかる。
……ん?え?は?
作戦はどうなったの?成功したの?失敗したの?失敗したなら、なんで失敗したの?
水流によって死体は「動いた」のであれば成功であり、「死体がオナラした」からって失敗にはつながらない。しかもそれをギャグで茶化しているのでシリアスなシーンなのかもわからない。「少し流れたけどオナラが押し戻しちゃった」とかでもない。なにこれ?
これはこのシーンだけではなく、ずーっとこんな感じなのである。
シナリオの整合性が取れていないため理解できない上に、演出も最低限で目を引くところがない。セリフも説明ばっかりでつまらない。ギャグに関してもクドくて下品で不愉快。うんこチンコゲロチンゲセックス……それが一瞬出てきてクスッと笑わせてとっとと引っ込めてくれるならともかく、つまんないくせに場面が変わってもまだ言ってる。
――この映画に「飽きた」。
脳の処理が虚へ向かい、耳は音を聞き流す。
目の役割は「スクリーンを見る」から「光を見つめる」とタスクがぼんやりし始める。
飽きた。
飽きちゃった。
飽きちゃったでヤンス。
これはとんでもないことである。
信じられない。
今でも衝撃を受けている。
少なくとも楽しいエンタメ作品のテイで作られた映画を観ている俺の心境は、「三回サボった大学の講義に参加している時」と全く同じなのだ。講義ならスマホをいじれるだけまだマシだ。スマホいじるなカス学徒!
同じ映画で例えるならば「2001年宇宙の旅」を観てる時とおんなじなのだ。音も場面も数倍賑やかなのに、おんなじぐらい退屈になっちゃった。
画面を見る気が失せ、後どのくらいで終わるのかを気にし始め、普段なら絶対興味ない窓枠の掃除の手順を思い返していた。
そしてやがて、俺が「捕まえたアルセウス、畑作業させたらギャップで可愛い気もするなあ。農作業に従事してたまに顔を見せるとこっちを観てニコッと一鳴きして挨拶するアルセウス……うーん、可愛いかも」とおおよそ1400円払って映画を観ている最中とは思えない、毒にも薬にもならなければ益体もないことを考えていると、ヒロインが叫んだ。ヒロインが叫んだらクライマックスの合図だ。意識が久しぶりに作品に向かう。
山田涼介が光の巨人になって怪獣の死体を抱えて飛んでいき、エンドロール。
俺の意識は再び虚に沈む。「いや、畑仕事はパルキアもいいかもしれない。水タイプだし」
俺はふと、なんで反響に対する文章を書いて、「三木聡が映画作ったんだぞ!」って言ったんだっけなどと考える。
「あ、そうだ。俺俺だ」
かつて「俺俺」と言う映画があった。星野智幸の同タイトルの小説を原作にしたそれを、俺は原作をいたく気に入り、映画の存在を知って借りたのだ。観た記憶はあるけれど、内容が思い出せない。ただ、ハッキリと思い出せるのは「この映画、何やってるのかわかんないし退屈でつまんない」と言う感想のみ。おんなじじゃねえか、なつかしいな、俺はクスリと笑う。この時映画が始まってから初めて笑った。
劇場が、明るくなった。
いやー、クソつまんなかったな。
ただ、多くの人からの批判を見る、「山田涼介が光の巨人になる」については反感はない。
序盤から「デウスエクスマキナ」と言うワードと「主人公の謎」はちゃんと敷かれていたので違和感はないし、過去の特撮物のヒーローを「デウスエクスマキナ」というものと定義した点はなるほどと思った。「最初からそれをやれ」とも実は思わない。「デウスエクスマキナ」は物語が収集つかなくなって初めて登場する物だから。
だけど、俺がこの映画について興味を惹かれた「この死体、どうする?」というテーマにおいて、やれることをやらずに終わらせた。というのはハッキリマイナスだ。
仮にこの映画がシンゴジラだったなら、「ゴジラを倒したけど、行き場を失ったゴジラの内部のエネルギーが爆発するーっ!」というところでデウスエクスマキナが登場するなら、それは好意的に観れる。
けどこの作品は死体のガス抜きをしただけで発動している。死体の処理の完了まではほど遠い。やれることはまだある、もっと散らかせる。ゴジラの例えを使えば在来線爆弾が当たったくらいのところだ。
これは擁護もできないマイナスだ。作り手側の事情を見せられることほど白けることはない。
総評としては、「映画を構成するすべてが下手くそであり、シナリオのテーマを書き切ることもなければ、そもそも意識や目を引くものが出されることなく、途中で飽きた」となる。
ギャグに関してはかなり個人的なものなので分けるが、「面白くないどころか不愉快だった」となる。
これにて、俺の感想は終わりだ。
俺はネットにおける「叩いていいものだから叩く」みたいな風潮が大嫌いなので、今後この映画についてどうこういうことはないと思う。別に怒りを抱いたわけでもないので。
それに関して、少し思うところがある。
実写版デビルマンが現れてから十数年、この作品のタイトルを出して何かを表現することがとても多くなった。
俺としては、それに強い反感を抱いている。
もし、まだお時間があるとするならば、別に投稿したものも読んでほしい。
では。
バイビ〜。
【余談】
なんて可愛いんだガハハと思っていたら、全く同じことをしている人がバズっていた。
クソが……!
起因は経済的な話。
コロナやそう言った影響で事業が傾きつつあったのは事実だがようは視野狭窄に陥り、投資に失敗し、リベンジトレードで失敗。
(今余裕のある時にも考えてしまうが、リベンジトレードはまだ理解の範囲なのだが、その後の投資は自分でも何故投資したのか理解できない。)
色んな方法でとりあえず生きていける金は用意できたが、前のように仕事に向かう事ができない。
外に出ると苦しくなる。
ストレスもまた凄い事になっているだろうとは思う。
それのせいもあるのか、子供に対して妻のあたりが強い。ように感じる。
その怒声を聞くのがきつい。しんどい。
これは良い。
結局断ったが。
そして、今は決める事が全然できなくなった私がいる。
わかっている。
金もかかる。
経済的な話は病院にかかった日=自殺未遂の翌日に言われ、それから日々言われる。
私は1日も逃避してはいけないのか。
どうしたら良いのかわからない。
また、死への考えが頭を埋め尽くしていく。
しんどい。
元々40万借金があるのはこっそり郵便物を見てたので知っていた。
「返した、あとは手数料」
「昔の手紙」
なーんて見え透いた嘘をずっとついていた。
出会う1年ほど前に借りてる借金のはずだった。言ってくれたら協力するのに、なんで言ってくれないのかヤキモキしてた。手紙には「裁判所に〜」なんてくだりももちろん記載してあった。返済した痕跡は1度もなかった。いずれ、裁判所からの手紙が来るだろうと思った。差し押さえになるかもしれないけれど、この特殊な環境にいるうちなら別にどうとでもなる、あまり追い詰めても良くなさそうなのでよっぽど嘘をつきたいこともあるんだろうと泳がせてた。
私は中身を見ないで、1度旦那に手紙を渡して借金のトータル金額を聞いた。
「40万程度」
そんなわけ無かった。1社目の時点で借金の金額は40万だからだ。ここに関して真実を言う気が全くないらしい。他にも何か言っていたけれど、おそらく全部嘘だ。彼の中で借金の自白自体は初めてなので、進歩したんだなとぼんやり思った。
そこにはどうやら遅延損害金含めて請求金額は120万と記載してある。
もう泳がせられる時間は終わった。
今晩、一緒に弁護士のところに行ってくれないなら離婚するって話をする。
私たち新婚だった。
そういや探してる短歌があってさ。大学の授業で出てきたやつ。うろ覚えなんだけど、
「海との没交渉に佇んでひとり」
って感じの歌。没契約かもしれない、そうするとちょっと感じ違うね。波との、だったかも。終わりは、ひとり佇んで、かも。とか、ぼんやりとしか残っていなくて、正解が分からないんだよね。誰の歌なんだろう。
明治大正あたりの、自由律俳句の流れみたいなとこで出てきたと思うんだよ。河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」と一緒の回に習った気がする。荻原井泉水かな?って思ったんだけど、ざっと見たところ見つからないんだよね。感じはすごく似てる。「かごからほたる一つ一つを星にする」とか、あーそういう感じなんだよなーって思うんだけど。
そんな状態だから当然外で窓ガラスに写り込んだ自分とか写真とかで見る自分はかなりえげつないのに、なぜか鏡で見る自分はそこまで悪くないじゃん?って思えてしまうのが本当に不思議
これみんな言うよね
だから痩せさえすれば自分、そこまで悪くないんじゃ…?といつまでも勘違いし続けてしまう(そもそも痩せてみせることすらできないのに)
結婚願望はもともとゼロだからそこはいいんだけど彼氏は死ぬまでに一度はできたらいいなって夢がまだ捨てられない
好きな男の人がいない状態なら彼氏ほしいと思うこともなかったんだけど、いつからか直に会ったこともないのに恋してしまっている人がいる
完全に別人レベルに超絶美化された美しくて天才的に頭がいいもうひとりの完璧な私が脳内にいて、そいつが私の好きな男の人と(脳内)デートしてる
SNS上で片想いしてるだけだから好きな男の人の姿は見たことすらなく、本人が以前書いていた髪型と身長しか知らないから妄想の中ではぼや〜と顔なしの人型をしているだけ
ボヤ〜とした人型とどこにも存在しない美女がなんかぼんやりしたデートらしき何かを楽しそうにしている
自分でも何してるんだかわからないし子供の頃から脳内に住んでるこの完璧美女像で疑似恋愛妄想するのもそろそろ限界に近くなってきた
自分が本当は美女じゃないのは当然わかっているのにあまりにも長い年月美女妄想を繰り広げすぎたせいなのか、ふとした瞬間にとんでもない本当の自分の姿が目に入ると毎回本気でショック受けてる
仮に痩せたところでただ痩せるだけで美女化なんてするわけもなく、他は何も解決しないわけだからもう他に打つ手なくなるし、そのとき自分はどうするんだろうと思う
原作未読。
基本的にスーパーカブなんだろうと思ってたら、早くから友達に馴染んでゆく天然キャラ主人公。
ここで大きく変化が訪れて世界がちょっとだけ広がる、というカブにあったシュチュエーションもない。
あるのはフェチ描写。そのフェチ描写はこの作品じゃなくてもできるにはできるが、特に必要のないもの。
ただし、明日ちゃんでやることよって清潔感を得る点で違いがある。
それはカブみたいな外面と内面の広がりをもたらすものではない。
むしろ性を無自覚に発露し始める頃合いの危うさをわざと見せているのかな、と感じる。
そんな表現が可能なのは天然だけなので、主人公のキャラ付けは自動的に天然になる。
なんだか危なげなので男不在の女学園設定だし、視聴者が性の成長を覗き見る形になっている。
それでもぼんやりとして数話見てもつかめない。今後は百合(少なくとも百合フェチ程度のもの)やんの?
とも思ったけど多分やらないと思うし。
要するにおっさんになって鈍くなったので訴えたいツボがつかめない。
良さがぼんやりしているという。
先日コロナ陽性となった。
平日は完全在宅ワークなのだが、週末に友人と食事をした時にかかってしまったようだ。
症状は主に高熱と喉の痛みだった。
熱は 3 日くらいで収まったのだが、喉の痛みはなかなかひどく水を飲むにも痛むという有様だった。鎮痛剤が切れると寝ている最中にも喉の痛みで目が覚めてしまう。
だが結局喉の痛みも一週間くらいで完治した。
ただ頭がすこし熱っぽいという状態が 2 週間たった今でも治っていない。
熱っぽいというのはあくまで感覚的な話で、実際に体温を測っても熱があるわけではない。
HER-SYS に入力しなければいけないので毎日体温は測っているが、最近は 35.7 度程度でこれは自分の平熱だ。
具体的には、明確に必要であると判断されるような事以外に取り掛かる気力が大きく減退している。
仕事については、明確に必要かどうかが比較的わかりやすいため現時点では特に影響はない。
しかしプライベートなことについては "明確に必要である" ことなどほとんどないため、何も手につかないという状態が続いている。
病的だと思うのは、プライベートの享楽的なことについても取り組もうという気になれないのだ。
自宅療養中なので外出はできないが、普段やっているような youtube の好きなチャンネルを見る、ゲームをする、映画を見る、ネットサーフィンをするといったただぐだぐだ遊んでいるだけという事すらまともにやろうという気力がわいてこない。
無理やり youtube を見てみたりしたが、以前楽しめていたものにも集中できずにぼんやりしてしまう。
これは最近耳にするようになったコロナの後遺症のブレインフォグというものなのだろうか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/88bb81d237124661b1addeb7da17166d96eaf169
院試から修論の完成に至るまで私を静かに支えてくれたある市販薬に、この場を借りて感謝申し上げる。心情を言語化して他者に伝えることが不得手な私にとって、最大の「理解」者であった。
私は「かわいそう」ではない。裕福ではないが、食うに困ることはない。留年するほど成績が悪いわけでもない。就職も決まっている。友人も恋人もいないが、このことについて思い悩むことはない。趣味も特技もないが、たいていの人はそうだろう。病気や障害に悩まされているわけでもない。私は「かわいそう」な人間ではなかったが、苦しみはあった。あえていうなら、自分が自分の思い通りにならないことが苦しかった。思い通りに話すことができない。思い通りに書くことができない。思い通りにふるまうことができない。理想が高すぎたのかもしれない。伝わらなくてもよい。あなたに伝わらなくてもよいのだ。共感なんていらない。これを飲めば楽になる。なにも解決しなくても、苦しみから距離をとることはできる。医者にかかる必要もない。
これを飲むと勉強がはかどるという人もいるようだが、私にはそのような効き方はしなかった。とにかくぼんやりとする。といっても、お酒を飲んだときの酔い方とは少し違うのだ。これも言い表すのが難しい。お酒よりも緩やかなのだ。制御できる程度の眠気が現れ、ちょうど手を動かして作業できるだけの意識だけが残る。苦しみはなくなる。インターネットを飛び交う罵詈雑言を見ても心は穏やかなまま。のろのろと作業を進める。苦しみを遠くに追いやって、愚にもつかない原稿を生みだして、そして昏々と眠る。それでよいのだ。それ以上の何が望めるというのか。
生きる意味はない。だからなんだというのか。意味があろうとなかろうと生きているという事実に変わりはない。ならば少しでも楽に生きたい。希死念慮よりはるかに前向きな気持ちだ。この気持ちを支えてくれた小さな粒に感謝する。
でも、pairsみたいなマッチングアプリは違う。
遊び目的の既婚女性をうまく見つけ出し、まるで恋人のように付き合う。
もちろん、寝る。
それもいいかもしれないなー。
って考えると、30代の恋愛してから結婚したいとぼんやり考えている婚活女性を狙うと落としやすいかなと思ったり。
その年でアプリなんかで婚活してるんだから、感覚もゆるいでしょう。
元増田はしらんけど。
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昔の人が満足してたとは思ってないよ。そりゃ昔だってもっとこうならいいのにって思う人はたくさんいるでしょ
自分以外の誰もが持ってるように見えてしまうというか、見える範囲が広くなってしまったのではという感想よ。
みんな持ってるように見える・何を持っててどう楽しんでるのかがよく見える、だから余計に諦めきれないんじゃないかなと思ったわけ。
ジョーカーになれとかもね、羨ましいから持ってるやつを害するていう思考は自分には理解できない。別に害したところで自分の手に入るわけじゃなし。余計虚しくなりそう。まあ理解できないのものを理解する必要もないし、それがどうしても自分の人生に必要だって人もいるんだろうが。
そもそも人生が平等だって思想が蔓延りすぎたと思うんだよな。んなわけないじゃんって感じ。
クローズドになっていくというか、場がどんどん区切られていくのかなあとは自分も思う。そっちの方がいいよな、知ることは大概苦痛を生むと思ってるから。
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結局『自分には手に入らないものがある』というある種の分別というものは、見えないからそう思える側面があるのだと思う。
ネットつーか今ここで想定してるのはTwitterとかインスタなどの、他人の日常を手軽に覗き見できるツールについてなんだけども、こういうものが発達するとぼんやりしてた世界が鮮明に、それこそ手に取るように見えてしまって、見えてしまったからこそ『自分もああなりたい』の欲望がいや増すのであろうなと思うわけである。
これまで見えてないし想定もしないし諦めるしかなかったものが、可視化されることで『自分の手中にないことがおかしい』までいってしまうんだろうな。
普通に生きてりゃみんな何かしら天秤にかけた結果諦めるようなことを繰り返してるわけだし、どうしても手に入れたければがむしゃらにやって、それでも無理なものは無理だったりするわけだ。
楽な仕事で一攫千金とか、モテる努力はしないが彼女彼氏を持っていないことが許せないとか、そういうのって『無理なもんは無理』の領域だと思うんだよなあ。
でも検索ワードひとつ入れたら普通にそれを手にした人々が、なにやら楽しそうにしているのがめちゃくちゃいっぱい出てくるもんだから現状がおかしいという認識になるんではなかろうか。
自分は化粧したくないし痩せるのもめんどくさいし、毛を剃るのも怠い、その上性格が悪いので、よっぽど気にしない上で自分を好いてくれる人が出現するという奇跡が起きない限りパートナーを持つことは諦めている。まあでもそんなもんじゃん。顔面もブスの類だしね。彼氏欲しいなあと思っても、現状をどうにかする努力と彼氏欲しい欲を天秤にかけたら努力したくない方に傾くんだわな。
仕事もそう、いい歳して大したスキルもなければ愛想がいいとか政治が上手いとかそういうわけでもない、その辺にいるただのおばちゃん。自慢できることなんてほぼない。早く死んじゃいたいけど親より先に死ぬのはさすがに……あと痛いのも怖いのも苦しいのもやだな……という消化試合っぷりである。心残りがあるとすれば積読くらいのもん。
感染者が増えてきてまた外出れなくなってきたし、まったく恋人ができる兆しもないし、
なんかもう色々とダルい。
楽しいことももちろん色々とあるけど、常にぼんやりとした不安が付き纏ってくる。
生きる気力があんま湧いてこない。
続きはwebで
のことではなくてですね。あれは作られた引きが気にならないしそういや最近見ない気がする。
私、ウマ娘にはまったく興味がないのですが、テレビでもアベマでもニコニコでもCMがじゃんじゃか流れているんですよ。
「君の愛馬が走り出し~」って歌詞なんすかね。愛馬じゃなくてアイドルかもしれん。ウマ娘は馬じゃないらしいから愛馬なんて言葉はなくてアイドルかも。知らんけど。そこはどうでもいい。
走り出して、なんなんだよ!「し」と接続したら続いて「~する」とかなるだろぉ!?
すげー中途半端じゃん!歌詞としてもその部分で請求できる点あんまりなくないか!?走っただけだぞ!?
なぜ、そこを選んだし。いやまさか語尾がしのキャラの曲じゃあるまいな?もしそうならカンカンだし!ししし!
実際のCMは「走り出し~(フッフー)」っちゅう合いの手が入るんだけどそこ削るなり編集するなりで続きいれろよ!とも思うんだよ。タレントのフッフーは確保できてもその後の数秒は確保できないんか。
毎回気になる続きをフッフーでごまかされるようで嫌だ。
こんな文章書く暇で調べろとなるが知りたいという興味が微塵も無い。そういうんじゃなくてわざと不完全にしたものをどしどし流し込まれる不快感。おまえのCMにニケ像的魅力はねぇよ。
もしセブンイレブンのデイドリームビリーバーが「ずっと夢を見て」や「僕は」や「そんで」で切られたら同じようにイライラしてたと思うわ。
コロナ禍じゃなければ多分、危ないですって連絡が事前にきてたんだと思う。
それでもまだ生きてる内に会いたかったなぁ。
入院前に会った老人ホームで車椅子に腰掛けて、こちらを見てくれる祖母はちっちゃかった。
この日が生きてる内に会える最後かもなぁとぼんやり思ってたけど、振り返るとやっぱり最後だった。
私も母も隣の市に住んでいて、コロナ禍での病院の規定上、面会は一度もさせてもらえなかった。
受付だけ済ませて車内で待ち、タブレットを受け取ってほとんど返事も目線も返ってこない祖母を少し見ただけ。
しかもそれも一回。
小さな頃、ほとんど祖母に育てられていた期間があって、とある宗教を信仰している祖母はよくその教会に私を引き連れた。
教会にいくと祖母には祖母の仕事があり、事務所のようなところに籠もるので私は寂しかった。
同じような子どもたちもいたけれど、私はあまり人と仲良くなるのが得意ではなく、誰ひとり好きでもなかった。現に今でも誰一人として顔も名前も覚えていない。
私はその宗教を信仰していなかったし、神だ教えだは興味がなかった。
それでも少年部に属されることになり、何度か導師(式典においてメインで読経する位置)もさせられた。祖母は鼻高々って感じだったのを覚えてる。
属しているかと言って全員が全員式典などで導師をできるものじゃないんだろうと思う。
高校生にもなれば自らの意思で参加不参加を決められたので、(祖母的には出てほしかっただろうが)基本的にそういったものは以降すべて不参加にした。
そんな宗教も祖母が亡くなったことでもう完全に抜けさせてもらえると思う。母も私も信心深くなければ御布施も払わないタイプなので。
あぁでももっと、行ってあげたら良かったのかなぁ。
おばあちゃんがそれで、喜んでくれるのなら。
おばあちゃんがお墓参りのときに作ってくれる鬼まんじゅうが好きだった。蒸しパンと呼んでいたが、多分鬼まんじゅうだったと思う。
おばあちゃんがよく作ってくれたヒメジの酢漬け、何故かいつも口内炎があるときに作ってくれるから、よく泣きながら食べてたな。
祖母の家に泊まって迎えた日曜日の朝、「ピザにしてあげようね」と作ってもらえるピザトーストが大好きだった。
なんか食べ物の話ばっかりだな。
皮のたるんで柔らかい腕が好きだった。冷たくてぽってりしている耳たぶが好きだった。「ただいま」と言う時のイントネーションが好きだった。(中一高で完全に“ヘタリア”と同じだった)
今考えたら軽度の認知症が出始めた頃、週に一回くらい祖母の家で一緒に食事を摂っていた。基本的に祖母が食事の準備をしていくれていたのだが、一度、私が食べたいからという理由で筑前煮を作ったことがある。
「おいしいねぇ。これで○○ちゃんもいつお嫁に行っても困らんねぇ」
これを50回位言われた。
当時私には恋人がいたが、最悪なことにその恋人には妻子がいた。
ごめんね、お嫁には行けないかも。
内心でめちゃめちゃ泣きながら「大げさすぎん?」って言いながら祖母の倍食べた。食べたくて作ったのですごい美味しかった。
妻子がいる人とお付き合いするのは本当に最低なのだが、一番最低なのは妻子がいる身分で新入社員に手を出したそいつだと思う。あとこの世にいるご結婚なさってる方々、指輪嵌めろマジで。知らなくて好きになったあとだともう狂ってるから遅いんだよ。
言い訳はこの辺にしとく
あの世がもしもあるなら、どこも痛くなといいな。
輪廻転生をすることがあるのなら、次はおばあちゃんのなりたいものになって、幸せに過ごしてもらえると嬉しいな。
火葬ボタンを喪主に押させるのって酷だね。震える母の背中を見ながらそう思った。
思い出すといつもちゃん付けで呼んでくれてたなとか、眠りが浅くてすぐに起きてしまうのに何故か毎晩ラジオをつけて寝ていたこととか、こたつで眠る私に毛布をかけてくれたこととか、思い出すのは些細なことで、そしてちょっとずつ美化されてる。
ちょっとうまれが複雑な私に思うところとかたくさんあったと思う。叔母に幼少時首を締められた私としては叔母を擁護する家族に思うところもあったし。
頭悪そう。
仕事が捗る的な普通の日本語としての「捗る」と、「色々と捗るぞ」というネットスラングが使われるようなシチュにおいて捗る部分だけ抜け出して使われる「捗る」は、字面は同じでも表現しているニュアンスや、使われる場面が微妙に異なる。
似たようで違うものを、「昔からあった」と否定する人も、「そんなことないわ!あの頃から使われだしたんだよ修正主義者が」と憤る人も、どっちもぼんやりした認識しかないせいで混同していることが頭の悪さの所以だ。
例えばだな、
A「Bさん、このツールを使えば作業が捗りますよ」――みたいな表現では、本来の意味の捗るだろう。
A「B、まだそんなことやってんの?このツール使え。捗るぞ。」――みたいな表現では、十中八九2ちゃんスラングの方の捗る用法だろう。
Aがスラングを知らずに後者のセリフ回しをしてしまう可能性もゼロではないが、知っている者同士であれば少なくとも「こいつスラング風の言い回ししてんなw」と感じるはずだ。
このようにスラング化した方の「捗る」では、情強たる俺が愚昧な者どもに俺の知るスマートなソリューションを伝授してやるぜ的な、若干の傲慢さを帯びたオススメゴリ押し感が漂うフランクでひょうきんな物言いをしたい場面で使われるわけ。
それに一般的な「捗る」を使う時は、○○が捗る、というように何かに掛かっているものだ。一方でスラング風に使われる捗るは、具体的に何が捗るかは明言しない傾向にある。
元ネタが"色々と"捗るだから、直前に話していた問題を対象に含むのは当然だが、他にもあんな意味やそんな意味でもハッスルできてしまうような表立って言いにくいことへの示唆も兼ねる場合がある。なので「何が」捗るかは言わず、単に「捗るぞ」としか言わない。そういうユーモアを含めた表現が可能なわけ。
読んだの結構前なので、割と忘れてる。
キャラ名とか覚えられないので、特徴で書いてるけど許して。
連載時に母と妹がハマっていたので、自分も読んでいた。こういう陰のある話は好きなので、普通に楽しく読んでた。設定とかストーリーは面白いなと思ったけど、キャラはあんまり好きにならなかった。特に透についてはマジで好きでも嫌いでもなく印象という印象が無くて、逆に怖い。(ユキやキョウもあんまり印象にない)
透の友人のヤンキーと電波とか牛くんのほうが思い入れがあるレベル。
別にフルバに限らないけど、少女漫画は行動とか心情とかに自分の考えと距離感があってそれが引っかかる事が多い。
父がハマっていたので自分も読んでた。これは普通にほかの男性にもおススメしやすいと思う。基本的にスポコンだし、シュールギャグ的な感じもあって飽きなかった。
色んなアニメや漫画でパロディにされてる作品でもあるので、そういう意味でも読んでて面白い。特に月影先生ライクなキャラはそこそこ見かけるし。
ガラスの仮面に限らず、ある程度(少年、青年漫画含む)古いスポコン漫画は価値観がイカれてんな~って感じる。
最終話まわりとメガネの女が絡む所以外は面白かった。お弁当を通じた社会性みたいなのはテーマとして読んでて感心したし、主人公のメガネと無口の女の子が一緒に暮らしていく中で距離が近づいていくのは良かった。それが良かったからこそ最終話周りはクソなんですけど。
悪かった所で言えば、メガネ女と、主人公ノメガネに対する周りの態度に作者の影がチラチラ見えた感じがして気持ち悪かった。
良かった所は凄い良かったし、悪かった所は本当に悪いアンバランスな漫画。
これは割と最近にアプリで読んで面白かったから単行本買って読んだ。
ものすごく特別な事が起きてるわけじゃないんだけど、小さなことの繰り返しで四人が家族になって行ってるのは凄い良いな~と思いながら読んでた。
物語が大きく動く前に終わってしまって惜しかったとも思う。ただ、最悪な展開にならずに終わってくれてよかったと思う気持ちもちょっとある。(高杉さん家と若干被ってる感じがしたのでそのせい)
強くて優しい男は男も好き。主人公のゴリラは好きだったけど、ヒロインの女の子は別に好きでも嫌いでも無かった。イケメンは作中で一番好き。
基本的にギャグ調で進んでいって感傷的になりすぎることが無いので読みやすかった。
良い意味で中高生向けっぽい感じがした。(そういう意味では最終話あたりでセックスしたっぽい描写があったのは驚いた。少女漫画だとその辺の敷居が低いっぽいのは感じてるのでメイン層には問題ないのかも)
ぱっと思いついたのはこのくらい。
少女漫画あんまり読まないのもな~と思って一時期ちょっと読んでたけど、結局読まなくなったし、積極的に読む気もないな。
少女漫画特有のフォーマットやコードが正直、あんまり合わないなと思った。そのコードが入ってるんだろうなぁと思うと今後もあんまり手に取る気にならない。
ぶっちゃけ少女漫画って少年漫画の対じゃないんだよね。感覚的にはなろう漫画とかジャンプ漫画って感じ。なろう漫画やジャンプ漫画は特有のコードやフォーマットがあるので、それがあるのが少女漫画って感じがする。
ツイッターを何となく眺めていたら、スロウハイツが活動休止するというツイートが流れてきた。私はもう長い事邦楽ロックが好きで、自分が大好きだったバントとの別れは何度も経験してきたけれど、それがまた来てしまったんだなとぼんやり考えた。沢山のバンドを見てきて感じた事、星の数程いるバンドの中で音楽を続けてゆくバンドはこの世に本当に一握り、そして自分がどれだけ好きでも売れるバンドはそれよりもっともっと少ない。悲しいけれどそれが現実で誰かが言った「推しは推せるときに推せ」と言う言葉、名言だと思う。それぐらいバンドは儚い。
私がスロウハイツに出会ったのは何時だったろう…。3、4年前かな?たまたまYou Tubeのオススメに出てきた「本当に辛くなってしまったあなたへ」のPVを見て、今の世の中にこんなバンドがいたんだと衝撃を受けた。私はスロウハイツのメンバーより歳上で人生の中でドン底に落ちた様な時期もあったけど、昔よりはそれなりに諦めも覚えて大人になって、ずっとある心の空白に顔を出させない様に表面を繕えるようになった。そんな私の心の空白を埋めてくれるような曲がスロウハイツには沢山あった。こんなにもせきららで真正面から向き合ってくれてでも押し付けがましくなくて、そっと寄り添ってくれる、こんな音楽があるんだと。ずっと捻くれた感情のまま生きてきたから、安直な応援ソングとかに白けてしまう人間だけど、きっとスロウハイツの音楽に救われてる若者が沢山いるなって素直にそう思えたし、嘘がない音楽だと思った。それからCDは手に出来る物は全て手にして、ライブにも足を運んで(ババアなので若者が沢山いそうで躊躇したけど生でどうしても聴いてみたかった)曲のままの真っ直ぐなフウマさんがそこにはいて、傷だらけで歌ってるのに私達に寄り添ってくれる不思議な感じがした。そしてなんと言っても私は山田さんのギターがめちゃくちゃに好みで、若いのにメロディアスなフレーズを沢山持ってて、音作りも最高でいつもライブでは山田さんのギターを耳で追った。スロウハイツの初ワンマンも行けて、沢山売れると良いなぁと思ったけど現実はそはんなに甘くはなくて、その内に世界が一変してしまって、私は小さなライブハウスに行く事が怖くなってしまった。職業柄、遠出やそう言う場所には行くなと言うお達しが出て、万が一の事があった時に責められるのが怖くて足が遠のいていった。そうして中々スロウハイツのライブに行く事が出来なくなって、今回に至るのだか、やっぱりもっとライブに行けば良かった…と言う気持ちは拭えない。もしこんな世の中になってなければとかもしスロウハイツが売れてたら続いたのかとか色々考えたけど、結局そんな事は私が考えても仕方がない。スロウハイツと太陽は活動休止する。その前にワンマンライブをやってくれると言う。それが今ある真実。どんな事があっても行くしかないと思った。
久しぶりにアポロベースに入った。アポロシアターの頃から通ってたけど、段々と新しい音楽からは遠ざかっていって、自分が昔から応援しているバンドのライブへ行く事が中心になっていたのでアポロベースになってからはスロウハイツを見る時しか入らなかったななんて考えながら開演を待った。
久しぶりに狭いライブハウスで観るライブ、そして久しぶりに観るスロウハイツ。1音鳴った瞬間、「あぁこれだ」って思った。ダイレクトに届く音、曲、声、久しぶりに味わう感覚。そしてスロウハイツは変わらずそこにいた。
東京ノスタルジアから始まって、ファンが聴きたいなって思ってる曲を沢山詰め込んだセットリストに感じた。そして私が大好きなautumnとそれだけのことも聴けた。本当に本当に嬉しかった。特にそれだけのことはめちゃくちゃ辛かった時期に何度も何度も聴いては救われた曲で、泣くつもり全くなかったのに自然と涙が溢れた。フウマさんが紡ぐ言葉が、鳴らされる音楽がそこにあった。この日のライブが嘘偽りなく今まで観たスロウハイツのライブの中で一番良かった。活動休止補正とかそんなの全くなく、演奏も歌も素晴らしくて歌が届くってこう言う事なんだなって思った。
アンコールでやった最期の歌、フウマさんが歌では嘘がつけないと言っていたのがとても伝わる真摯な言葉が歌に乗って届いた。とある大好きなバンドが解散した時、CDプレイヤーからは何時でも僕達の音楽が流れますって言われてそんなの意味ないんだ、もう新しい曲は一生聴けないじゃんって思ったけど、今なら分かる。もう新しい曲は聴けないとかライブ見れないとか寂しい気持ちはあるけど、彼等が紡いでくれた音楽はずっとここにある。しんどくなった時に再生ボタンを押せばそっと寄り添ってくれる。そしてスロウハイツは解散じゃなくて活動休止だから何時まででも待てる。これってすごく希望だと思う。いつかまたライブハウスで生のスロウハイツの音楽を聴ける日が来るといいなと強く思う。
シミズフウマ様
本当に沢山沢山スロウハイツの音楽に救われてきました。もしかしたら沢山の人に届く曲じゃないかもしれないけど、届いた人にはスロウハイツの音楽が救いになったり、大好きになったり皆にとってすごくすごく大きな存在だったと思います。フウマさんの書く詞は嘘がなくて、いつでも真っ直ぐに向き合ってくれてる気がしていました。辛い時何度も何度も支えてもらって、仕事で追い込まれて少しの間休職していた時もそれだけのことを繰り返し繰り返し聴いて勇気をもらいました。これからも沢山フウマさんが作った曲達に支えてもらうと思います。私達に素敵な曲を沢山届けてくれてありがとうございました。
山田楓記様
山田さんのギター、本当に大好きです。ライブではいつも山田さんのギターを耳で追っていました。ギターのフレーズを聴きながら音に酔う醍醐味を味あわせてくれてありがとうございました。美しい響きでスロウハイツの曲を彩るギターが生で聴けないのは寂しいですが、希望は持ってこれからも沢山沢山スロウハイツの曲を聴きます。上手く書けないけれど、本当に山田さんのギターが大好きです。
たきた様
たきたさんのドラムはスロウハイツを後から支えてるようにいつも感じていました。どことなく儚い雰囲気になってしまいそうなスロウハイツの曲達をロックへと導いてる感じがしてライブハウスでたきたさんのドラムを聴くのが好きでした。