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はてなキーワード: 「心」とは

2015-11-20

いい加減受け入れなければならない

友人に子供が生まれた。名前には「心」が含まれ「心」と書いて「こ」と読ませる。

例えるなら「増心」を「ますこ」と読むような感じだ。

遠いところの話と思っていたが、周囲に出産ラッシュが訪れる中で、とうとう身近にも来たなと思った。

個人的にこの「心」用法には違和感があって受け入れがたい。「子」でええやんと思う。

しか自分の子供でもなく、名付けの相談を受けたわけでもないので、とやかく言う筋合いはない。

「そう、増心ちゃんっていうんだね」で終わりだ。

言葉は生き物」だといわれ、ある言葉に新しい意味付与され、それがだんだん受け入れられていく。

今や「心」を「こ」と読ませ、かつての「子」に置き換えることは当たり前になりつつあるのだろう。

いちいち目くじら立てて「子でええやん」と言い続ける(直接言ったことはないが)のは野暮以外の何物でもない。

増心、かわいいではないか。もう受け入れなければならない。

与謝野晶心。

真木よう心。

萬田久心。

大丈夫。受け入れていける。

2015-10-27

エンジェル・ハート生理的に嫌いな心臓患者

エンジェル・ハートドラマ化されて日テレから放送されているらしい。先天性心疾患を持つ者として、エンジェル・ハートは好きになれない。

前作のシティ・ハンターは、ほぼ全部原作を読んだのだが、エンジェル・ハート原作は、心臓移植の話が出てきた途端に、生理的嫌悪感で読めなくなった。

何が気持ち悪いかって、移植された心臓を通じて、故人の気持ちレシピエント(移植された臓器を受け取った人)に伝わってきたりする描写がそこかしこにあること。そんなこと、あるわけないじゃない。

移植された臓器を通じて故人の気持ちが伝わるという設定なら、なぜ、心臓なわけ?腎臓肝臓でも良かったのでは?

その辺りを考えると、結局、医学的には否定されていても、心臓という臓器に「心」が宿っている…と少しは思っているからこそ、心臓移植されたという設定にしたのだろうと事が透けて見える。

それが、気に食わない。

移植された心臓を通じて気持ちが伝わるような描写テレビで広く放送されてしまうと、「心臓には心が宿っている」という大衆幻想を強化することになる。すると、心臓障害を持って生まれ人間は、心にも障害があるのだろう、と思う人がチラホラ出てくる。あるいは、移植された臓器を持つ人間が、ドナー気持ちに背くような行為をしたら、苦しんで当然だ、と思う人がチラホラ出てくる。

結果的に、心臓患者臓器移植レシピエント全体がとばっちりを食うのですよ。ただでさえ、臓器の疾患は、自分からさなければ他人にはわからないことが多い。だから病気職場に隠して普通に会社員として生活している人も大勢いる。ああいう、心臓患者悲劇主人公にするような話が放映されると、患者の側は、「医学の知識の乏しい職場人間にどう思われるかわからない、話したら、『こいつは自分悲劇主人公であると思ってもらいたくて、ゴマをすっているのだろうか』と思われて、自分仕事評価に影響するかもしれない。とりあえず、何かあるまでは隠し続けよう」となる。

正直、大変やりにくい。あの話を作っている作者やドラマ製作者は、心臓患者を食い物にして、儲けているのですよ。

他にも、エンジェル・ハートは、移植観点からも本当に悪影響。日本心臓移植合法的に出来るようにするまでは本当に大変だったと聞く。心臓は、他の臓器と違って脳死状態じゃないと移植出来ないから日本臓器移植法が出来るときに、心臓移植必要とする患者は「人の命を奪ってまで生きたいのか、この命泥棒」ぐらいの事を大衆から言われ、批判されてきた。「日本人死生観脳死ではなく心臓死、心臓が生きている間は日本では人は行きている、だから日本では心臓移植は出来ない」、みたいな論が真顔で流され、昔の心臓移植必要とする子は、アメリカまで行かないといけなかった。そんな中で、ようやく日本でも心臓移植が出来るようになった。

にも関わらず、あんな、「心臓にはやっぱり心があります」みたいな話を放映されたんじゃぁ、話が逆戻り。ただでさえ持っている人が少ない、臓器移植ドナーカードで、心臓移植したくない人が増えるかもしれない。そうすると、助かる命が減る。正直、エンジェル・ハートの作者も、あのドラマを作っている人も、心臓移植必要とする子に死んで欲しいのだとしか思えない。ただでさえ、ドラマお話の中の「心臓病」は、登場人物悲劇的に殺して話から退場させる手段として使われてきた。心臓患者は、そういう悲劇的な話を大衆に売って儲けようとする作家テレビ局のダシ・食い物にされてきた。

もうこれ以上、我々心臓患者を、話のダシに使って搾取するのはやめて欲しい。

2015-10-25

「忙しい」というフレーズ

忙しい。とにかく忙しい。今は●●で忙しいからと、先方から言われて断られる事が多い。

こちらから、お忙しい中恐れ入りますが。とビジネスマナー的なフレーズで使うけど、自らの行動が忙しいとは言わないようにしている。

仕事はお世辞にも能率が良いとはいえず、時間が足りないのは変わりはない。一件片付いたと思えば、また新たな課題を突きつけられる。

それでも、「忙しい」というフレーズは使わないようにしている。

言葉は生き物とおっしゃる方がいますが、そのとおりかなと思う。

「忙しい」の文字を分解すると、りっしんべんに「亡」と分かれる。りっしんべんとは、「心」部首名の一つで、「心部」という。詳細はWikipediaをご参照いただければと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E9%83%A8

すなわち、「忙しい」とは、「心が亡くなっている」ことを表している。

このフレーズを連発している人は、心が亡くなっている(柔軟に表現するなら余裕がない)と思ってもいいだろう。

最後に、「亡くなる」の対象語が「生きる」となるが、これにりっしんべんを加えれば、「性」となる。

「性」行為したい。

2015-06-25

Fate SN UBW 20メモ でもにっしょん

昔、ある出会いがあった。

おそらくは、一秒すらなかった光景。

されど。

その姿ならば、たとえ地獄に落ちようとも、鮮明に思い返すことができるだろう。



その先が地獄だとしても前に進むと決めた士郎と

その先が滅亡と知っていても王になると決意したセイバー

やっぱりこの二人は似たもの同士だと改めて思ったなあ



本編のアーチャーの詳細の中で「なんのペナルティもなく固有結界を使いこなし」という一文があったが、本当に消えかかった身でも発動可能なくらい消費が少なかったんだな

わりと初期の頃このペナルティがどれくらいのものなのかと議論されていたがまさかこんなところで結論が出ようとは



HAの『たとえ地獄に落ちようとも思い返すことのできる光景』をまさかUBWで見れようとはなぁ………

アーチャーが契約した“かつてのセイバー”に対する思い入れ出会いの強さがしんみりと来たぜ

……だからこそ、歯痒いものを感じる

セイバーの聖杯に対する願望、そして自分の内にある鞘の存在を知るほどの関係に至っていたのに、なんで彼女を救えなかったんだ馬鹿野郎………!!



この世界の士郎は先にアーチャーを見たからこそ、アーチャーの様にはならないんだろうな。

守護者の立場が確定したアーチャーはもう抜け出せないけど、後悔だらけの自分とは違う道を示す自分を見たわけで。

本人にはもう救いはなくても、可能性を感じられるだけマシ、なのかなあ。



問おう、貴方が私のマスター

カットが入っててまたいいわ。あのシーンて確か本編士郎じゃなくて

本編アーチャーの過去編だったよね。

セイバーの表情もとても良かった。



そういえば士郎はよく「借り物の理想に執着してしまった愚かな男」って言われてるけど、どっかの誰かさんが言ったように「借り物の理想を持たない人間はいない」んだよな。そして自分も元だけど「借り物の理想」をもった人間に該当する。

何年か前、ある人の実況動画をみて、その実況者がプレイしたゲームの素晴らしさに憬れて、自分もそのゲーム製作者のように素晴らしい作品を造りたいと思うようになったのよ。

でもいつからだったか覚えてないんだけど、自分の抱いた理想が「そのゲーム製作者のように」ではなく「自分だけの、自分にしかできない作品を創りたい」という理想に変わったたんだ。

つまり何が言いたいかっていうと、全ての理想に対するanswerは「他人から受け継いだ借り物の理想を借り物の理想のままに終わらせるか」と「借り物の理想を自分だけの理想に変えられるか」という二つの結論に帰結するんじゃないかなといいたいんだ。



新規の人のコメントで「袖がないアーチャーの服は『涙を拭くことができない』ことを表していると思った。」っていうのを見てめちゃくちゃ納得した。



一晩たって落ち着いて考えてみると、この一番大事なシーンを時間の制限ついたアニメにしっかり合わせて分かりやすく構成してると感心するわぁ…

原作やったのがだいぶ昔でアーチャー言葉にひたすら対抗して打ち合ってたイメージあったけど、ちゃんとその苦しみを理解してその上で対峙するって段階を丁寧に丁寧に描写してたのがほんとよかった、特に同情なんてしないけど心が欠けそうになるってシーン。

あと原作やった時は二人にしか目が行かなかったけどセイバーさんめっちゃ辛そうだな



挿入歌の「傷だらけの硝子の心が」の部分でボロボロの士郎が映って、「忘れかけた熱をともす」でアーチャーに切り替わってるんだよな

偶然かもしれないけど、なんか感じるところがあった



ある意味では士郎にとっても(桜関係や横暴なところを除けば)そういった持ち味を持った慎二も愛おしい日常象徴だったんだな。だからこそHAでの殺し殺されるっていう緊迫した感じや魔術に対する毒気が抜けて、これから間桐家から出て一般人として再出発しようと語る慎二と士郎のやり取りは(セイバー&桜√で死んでることを考えると)胸にくるものがある。もしHAが映像化したらぜひ入れて欲しい。



理想に執着しているのであって助ける相手に執着していないと言っているのだと思う

衛宮士郎幸福のために邁進する者ではなく、もっとあいまいなものを守ろうとしているに過ぎないと

だから誰を救うのかも定まらない

それは特定の誰かを助けるために必死になれる人間(たとえば士郎のために真剣に怒った凛など)に比べれば動機が弱い

自分の欲望ではなく願いのために戦うから薄っぺらいんだとエミヤは言いたいんだと思う

じっさいは薄っぺらいどころか士郎は折れる気配すらないと悟るんだけど



今思えばアヴァロンって必ず誰かを救ってくれる要なんだよね…士郎の命が切嗣によって救われただけじゃなく切嗣自身も士郎と出会い救われたし、SNでは後にセイバーが士郎と忘れられないあの夜に出会って彼女自身が救われるきっかけになったしさ。皆の架け橋のような存在だよね。

数ある宝具の中でも、特にアヴァロン(全て遠き理想郷)は尊いものに感じるな。



エミヤに「その先は地獄だぞ」と言われた後の士郎の微笑みが素晴らしかった。

自分の理想の根底にかつての自身の願いがあったことに思い至っての、自身の理想が空虚な借り物でなかったことへの安堵、かつての自分と同じようにたとえ未来自分から進む先が地獄だと告げられてもその道を進むことをやめようと思わない「自分」と言う人間の性への苦笑、そしてこれからも理想を追い求めていくという決意、それらがあらわれた絶妙な表情だった。

「士郎は人間の振りをしたロボット」とよく言われていたけれど、実は士郎も自分自身のやりたいことを追い求めたれっきとした人間だったんだな。



士郎の始まりは切嗣との出会いでも「正義の味方」という借り物の理想ではなく大災害の地獄の中で願った「誰かを助けたい」という思いだった

今回の話は視聴するまで不覚にも自分ですら忘れていた事柄を士郎と一緒に再確認させられたエピソードだった

これまで士郎は「人間のフリをしたロボット」や「士郎が人間になれるのはHFだけ」っていう意見が多かったし、自分もそう思っていたところがあったけど

今回の回想を見て、改めて以前にきのこが語っていた「士郎という人間は大災害に遭わなくっても最初からああいう人間だった」や「士郎は成長しない主人公」という言葉通り、士郎は最初から士郎以外の何者でもないと改めて気付かされた

今回のUBWはアーチャーが忘れてしまった大切な事を思い出す物語であると同時に、視聴者が「衛宮士郎衛宮士郎という一人の人間である」っていう原作をした時には分かっていたことを思い出す話じゃないのかな?

そういう風に思わせてくれるufoときのこの演出は本当にすごい

ある意味ではこれまでのfateの総決算ともいえるの名エピソードでした 



Fate/stにおいては近くにアーサー王がいるとオートリジェネが入る便利装備

もう一つ便利機能があるがこれは別の話

アーサー王物語にて、策略でアーサー王決闘させられたある騎士がすんでで相手の正体に気がつき

鞘をアーサーに返却、同時に鞘の加護が消滅してしまい、治癒しきっていなかった致命傷が元で死亡してしまった

と、本来なら死亡しているであろう傷でも命を繋ぎとめてしまう能力がある

もう一つの便利機能、害意判別といいアーサー王物語におけるエクスカリバーの本体はこっちなんじゃないかとの声も



上手く言葉に出来ないけれど、ダイバーのようだった。

忘れてしまったモノを思い出す為に記憶(うみ)に潜り、あの地獄、あの原初の光景の中にある大切なモノを手繰り寄せる。

Fateは偉大な英霊同士のバトルが目玉なのはよく分かるし、派手だから目に付きやすいし当然だと思う。

でもやっぱり、こういった『人間の想い』を丁寧に織り上げる物語こそが、Fate真骨頂だとPC版をプレイした時からずっと感じてた。

次話の『answer』もだけど、これから終局まで続く怒涛の展開に期待!



ユニクロ士郎は前編通してやるともうこれしかねぇって感じになるからね、仕方ないね

個人的に士郎のユニクロについては、端的に士郎の特徴を現してる気がする。

服装って現代では(昔からそうではあるが)自分をよりよく見せたいとか人と異なる服装をして自己個性を出したい、または同じ服装をすることで一体感を味わいたいといった意味で使われると思う。でも、士郎にはそういった人より優れた自分を見せたいという“自己”には乏しい。士郎がユニクロ着てることからそういう風にも読み取れるんじゃないかなぁと自分は思ってます。



凛の「アイツはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる。」

20話視聴後の感想はまさにこの心境だった

衛宮士郎というキャラクター創作物の中でも一番好きなキャラかもしれん



違うアーチャーも言ってただろ

「助けたいから助ける」そこに理由がないから偽善だって言ってる

普通の人は大切な人だからとか誰かを助けるに足る理由存在する

でも士郎は見ず知らずの人すら命がけで助けてしまう

でその理由を挙げるなら死にそうな誰かを助けたいという理想しかないんだよ

間違ってない願いだけど人間として致命的に欠けている



総てを見通す魔術師は、選定の剣に手を掛ける少女に忠告した。

「それを手にする前に、きちんと考えたほうがいい。それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」

地獄を見てきた男は、荒野を目指す少年忠告した。

「おい、そこから先は地獄だぞ」

剣を抜くカットもそうだけど、この辺りもまた対比になってるなぁ



元から、「今、願ってる主体」が士郎以外の誰かだったことはないよ原作でも。

切嗣への憧れから始まってるから「所以が」借物だってだけ。

これ、普通物語なら「始まりがなんだろうとこれは俺の心だー!」になるんだけど

そこで、「もう借物だとか自分の心だとか、理想が理想である前には超些細ですし」

までぶっとぶのがUBW。

「笑いたかっただけ」みたいな話は、普通キャラにとっては深刻なんだけど

衛宮士郎二人にとっては、自分が偽善呼ばわりされるなんて大した話じゃないから

話さくさく流れて理想の話になっちゃうんだよね。

「笑いたかっただけ」は作中である意味投げっぱなしだから

そこを凄い脳内で拡大してる人が出たりする。

それこそ、「士郎は切嗣の行動をなぞってるだけ」とか。

原作にそんな描写どこにもないんだけど。



士郎は切嗣に「憧れた」わけだけど、

それはつまり、「ああいうものに憧れを抱く、善しとする価値観」を

士郎が元々持っていないと始まらない。

それを考えると、もうちょっと複雑なんだよねその辺り。

アーチャーの「幸せそうだったから憧れただけ」を真に受けるのはナシだしな。

「実は贖罪」もそうだけど、UBWであいつが殊更露悪ぶって口にする言葉

鵜呑みにしたって始まらない。

それよりは

>「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。

> その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」

> 素晴らしい、奇蹟なんだって事を。

の辺りを読み込んだ方が未だヒントになりそうな。



UBWの荒野は、アーチャーが辿り着いたものの象徴だから

 どうやら相手は、自分の記憶を流し込まれているらしい

→じゃぁもっと決定打になるものを見せてやろう

っていう意味じゃないか? UBW展開は。

「お前の辿り着く先はこの不毛の荒野だ」を文字通り目に物見せると。

あと、演出的には、Ufoはアーチャーと士郎を背負う空(特に雲)で表すそうだから

多分answerが凄いことになる。

UBWは心象世界だから、心象のぶつかりあいをビジュアル化する装置になりうるんだよ。

まさかここにきて、「アーチャーのUBW展開はローコスト」という設定が

演出上の最強のカードになろうとは。



某動画サイトでのコメントアーチャーセイバーを間接的にdisってるwwって解釈してるから違和感ある。

あそこのシーンのセイバーアーチャー言葉に傷ついてるわけじゃなくて自分と同じような道を歩んだ士郎の成れの果てのアーチャーを痛々しく思いながらも自分と似た願いを持つアーチャーを否定しきれない葛藤も持ちながら二人の問答の答えがどうなるか見守ってるんだと思う。



ホントそれ。そもそも願いが間違いなだけでセイバーの在り方自体はFateの全編を通して否定しえないものとして書かれてる。

SNから入った人はセイバー√で初めにそれを理解するんだけどそれをZeroで盛大に全否定したもんだから

そこから入った連中はセイバー=否定される、していいキャラとして認識してるから大問題。

虚淵のネームバリューもあって被害は甚大よ。



士郎って、熱血少年ぽいパーツそろったデザインだし、

たまに絵に起こしてもらうと、ゲームのCGイベントは戦闘だし、

パッケージイラスト起用でも戦闘系だしで、

「いかにもうおおおおおとか言いそう」なとこが対外的には押されがちだったけど

基本「己と向き合い自分の心を形にする」人間だから

実は「動」だけじゃなくて「静」の面も強いんだよね。

しろ「静」が本質って気もする。

その「静」に支えられるから熱さもあるって感じ?

今回の、内面でのアーチャーとの静かな対峙で

「静」の面が凄いクローズアップされたと思った。

自分はこれが見たかったんだよね。



とりあえず、「以前の記憶がない」は「ほほをつたう」と矛盾してると思う。

士郎、思い出に浸るのを自分に禁じただけで、普通に記憶はあるぞ。

> 何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、

> 誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。

> ……あの日の前に戻れて。

> 何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。

一度心が死んだってフレーズが印象的なんで、

マジで大火災が0才状態と思われてたりするけど。

士郎って割と元々ああよ。



衛宮士郎アーチャーと士郎に分かれて真剣に自分の将来を模索するお話まじ熱い

アーチャー自分が辿った選択ではろくな道筋にならないと力説する

士郎は自分が進む未来は「選べる道」ではなく「選びたい道」を進もうとする

幾度の面談を経て衛宮士郎は見つけづらい険しい道筋を見つけて答えとする

自分会議(物理)は死ぬほどストレスたまりそうだけどその分効率の良さが半端じゃないな



今回のエピソードは、アーチャーの月下の誓いに対する「呪い」という言葉

あまりにそのまま伝わり過ぎていることに対する反論的な意味もあるのかな……と思った。

余人から見れば呪いととられかねない歪なものなのは確かだし、発言したのが未来の士郎と

いう点もあって、「信憑度が高い」と取られても仕方がない部分はある。

だが、そうじゃない。そんなものは、アーチャーレトリックに過ぎない。

「月下の誓いに至るには、大火災のさなかで救いを求める自分がいて、生存者がいないと分かりながらも

助けようとした切嗣がいた。だからこそ、救われない人間をこそ救おうとするエミヤが生まれた。呪いなんて、忘れてしまったアーチャーの後付だ」というように。

ここら辺、原作やってても勘違いちゃう人間がいるし。これをより説明的にしたことを指してデチューンと言ってたのかもね。

なんだかんだ分析してるが、初見じゃもうボロボロ涙でて凄かったよ。そうだよ!そうだよ!と絶叫しちまった。



価値観っていうと語弊があるのかもしれないが

とにもかくにも「心」はないと憧れも発生し得ないってところは

押さえておいてもいいのではと。憧れって心の働きなので。

災害中の描写から、衛宮士郎連続性を断つ描写は作者したつもりないと思うんだよな-。

っていうか、原作描写をそう読まれちゃったことを踏まえて再構成したのが

今回アニメ描写って気もする。



んー、言いたいことは分る。確かにもっともだ。

だが、「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」だと

極論すると、士郎以外の誰であっても

上記二条件を満たせば、士郎の如き人間になるってことだろう。

実際問題、それは非常に考えづらくないか?

なんで士郎がああまで凄まじい人間になっちゃったのかって言ったら

やっぱり元々「何もできないのに謝って楽になるのはだめだ」と

涙を呑んで歩き続けるような真っ当すぎて真っ直ぐすぎる子供だったからで、

そういう心をベースに憧れが発生したからだろう。

「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」

を強調し過ぎると、なんっかその辺拾えてない印象になる。



VSって原作時からして情報量凄い上、

大事そうな話をよく読むとさっくり投げっぱなしにしつつ

「え、そこ?」ってとこに落ち着くのな。

よく考えたら何故その話が理想に落ち着く、みたいな。

読み甲斐があるといえばそうなんだけど、お陰で

「借物」が「心がない」と誤解されたり

「笑いたかっただけ」が一人歩きしたり、

ある意味衛宮士郎の誤解の発祥源でもあったわけだが

今回、物凄い分かり易くバッサリまとめてきて、色々衝撃だった。

始まりは憧れ、でも根底に在るのは願い って、きのこだなぁおい



思い出したよ、くっそながい文章アホみたいにぶっ通しで昼夜読み続けてここの所で「なんて尊い大馬鹿野郎どもだ」ってボロボロ泣いたの。

嗚呼、あの当時原作プレイした俺は幸福だった。



今回は素晴らしかった。

なんというか、エミヤシロウというキャラクターの魅力を再確認できたよ

人間なら誰であれ死に絶えるような地獄の中で意味もなく切り捨てられる小さな命をこそ守りたいと願った少年が、その地獄の希望をくれた人から受け継いだ理想によって、その最も救いたかったものを切り捨てて大多数を救うものになってしまったんだからやるせないよなあ

士郎が本当に凡人なら、途中で折れるんだろうけど、地獄の道行を後悔なく駆け抜けることができてしまった心身の強さに物悲しくなる



一応補足しとくけど、兄貴ディルでは置かれた状況が全く違うから

兄貴ディルを比べてディルをけなしている人はそこらへんを忘れているし、あえてどちらがより酷いかといえばディルの方が遥かにひどい状況だったんだよなぁ

そりゃ恨み節の一つも吐きたくなるだろって納得するくらいに

仮にディルが戦闘続行を持ってて、セイバーと切嗣を倒してケイネスたちを救えた後に消滅したなら恨み節は残さなかったろうし

もし兄貴ディルと同じ状況だったら、恨み節はともかくとしてやはり憤怒の形相で怒っていたんではなかろうか

それに主君に忠を尽くすってディルの願いも、強い奴と全力で戦いたいっていう兄貴の願いも自分本位な願いという意味では同じだからディル兄貴同様、立派なケルト英雄だと思うけどなぁ



士郎が人助けをしたいのに、元々法政志望してたことが昔から疑問だった。救急隊とか医者とか、もっとわかりやすく人助けできる仕事があるのに、と。

でも、きっと士郎はそんな自分の手の届く距離だけに留まるミクロ人助けではなく、社会の仕組み全体を変えるようなマクロ人助けをしたかったんだろうな。

そう思うと、世界と契約したのも、膨大な力で社会全体をよりよくできるという期待を持ってたのに、実際は何の権限もないただの末端の処刑人でしたっていうオチに涙せずにいられない。

なんて愚かで、なんて愛おしいんだろう。大人しくレスキュー隊にでもなっていれば良かったのに。でも身の程を超えて、それより上を、人類の幸福の根源を求めてしまう士郎だからこそ、愛せずにはいられない。

大河になってアーチャー馬鹿馬鹿って言いながら思い出してくれるまで思いっき抱きしめたい



俺もそんな風に思っていたけどFateを深く考察するようになってちょっと考えが変わった

士郎が最も助けたいのは苦しみ足掻いてなお幸せになろうとする人なんだよね

だからもしかしたら罪を犯しても尚幸せになろうと苦しんでいる人をこそ助けたいと思っていたのかも

分かりやすい消防隊員や警察官を目指さないのは

本人に自覚が無くても無意識にそう感じていたのかな?と思った

だからあのゲリラ少年を始めとする人々はアーチャーにとっては助けたい相手だったんじゃないかって

指導者はともかく実際に戦っている人達は思想に関係なく自分家族が食べていく為だったりするし



>>「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」

>原作ではこう

>>自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。

>>いけないのか。自分気持ちではないから、それは偽物なのか。

それ、別に矛盾しなくない? 

士郎は元々恐ろしく真っ当な子供で、「『誰か』この地獄を覆してほしい、みんな助かってほしい」

っていう願いを持ってた。

でもそれは、救いのない、誰も彼も死んでいく現実をつきつけられて

意味をなさなくなった(これを「心が死んだ」作中では表現する)

そして、その地獄にあって未だ生存者を探す、

「『自分で』地獄をどうにかしようとする」切嗣に会って、

士郎は、「助かりたい」「助かってほしい」という情動すらボロボロになった己の心では

抱けなくなってたその思いに涙したわけだろう。



SN切嗣では強すぎて物語にならないのは分かるけどだからといってケイネス一人に原作で語られた外道戦術使うのはちょっと弱体化させすぎやな(せめてもう一組くらい・・・

会話の制約があったとはいえ、セイバーをあからさまな無能騎士道中にしたり、切嗣に明らかにおかしい戦争は英雄のせいだ論を抱かせるのもちょっとな(過去編から考えても切嗣が恨むようになるのは魔術師のはずだし、セイバーがあんなに騎士道大好きなはずもないから、明らかに話の都合のためにそうなったようにしか見えない)

これはもうちょっとやり様があったのじゃないかと思ってしまう

後やっぱりなぜ切嗣は火災の犯人になったのだろうか?

虚淵さんが言峰大好きだったから変えたんじゃないよな流石に

ナタリアとの別れによる正義への絶望故郷での事件等の過去編がよかったから余計にそこらへんの矛盾や弱体化が気になってしまうな



横からだけど、「士郎は正義の心を元来から備えていた」と思われる描写は今回、原作、前回のアニメでも見えたりしてるよ。

・泣きながら災害のなかを歩いた。その時、周囲から「助けて」 と声が聞こえてきた。止めてくれ、オレにはそんな力はない。という感じの描写

・そして今回の顔。泣いてはいるけど、泣き顔ではない。

「誰か助けて」ではなく、「助けられないのに助けを求められることに対して謝りながら、歩き続けた」

スマホからだと書きにくいな…



俺は

「たしかに、始まりは憧れだった」

「けど、根底にあったものは願なんだよ」

「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」

「(切嗣)誰かの力になりたかったのに、結局、何もかも取りこぼした男の、果たされなかった願いだ」

って解釈した

根底にある願いは切嗣に会う前から持っていた



コメントを見て思ったけど、確かに「こんな地獄を覆して欲しい」っていう表現は、今まであの手この手を尽くして地獄を覆すために努力してきた切嗣の願いとしては受動的すぎるかなって思うんだよね。だからこれはやっぱり地獄を前に何も出来なかった子供士郎の願いなんだと思う。



車の傍の死体

暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。

トンネルの中の死体

暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。

荒野の木の周りの死体

暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。

世界との契約

暗転[赤い画面に黒い文字で]――いずれ辿る、地獄(りそう)を見た。

という事?



そうじゃなくて、

地獄を見た。

地獄を見た。

地獄を見た。

――いずれ辿る、理想(地獄)を見た。

ってこと。



いや、原作ではとてもそうは見えなかったけどな。

実力的には1/10しか戦闘能力出せない状態でも圧倒的に士郎<アーチャー

そして勝負のついた最後の一刀もアーチャーなら余裕で防げた。けれど防がずに士郎の攻撃を受け入れたってちゃんと理解出来る用になってる。

セイバーも「アーチャー…何故……」って疑問を口にしてた筈だし。

だからこそDEEN版でそこが分かりづらくて不満点になってるんだし。




セイバーが辛そうなのは士郎達が殺し合ってるのに見てる事しか出来ない辛さだと、思うけどな。

彼女はずっと士郎の生き方は危ういと言ってたし、実際に破滅したアーチャーが士郎を殺そうとしてるんだからそりゃ辛い。

士郎とセイバーは似たもの同士だから士郎やアーチャー気持ちセイバーは理解できるだろうしね。



挿入歌にあるSTARDUSTって星屑もそうだけど「夢を見るようなロマンチック気持ち」という意味もあると知ってショックを受けたよ。星屑はまさに「願い」の記号だけどそれだけじゃなく、地獄と知っていても夢を掴みにいく士郎の熱い気持ちも表しているようでAimerさん、なんという言葉を選んでくれたんだ。ついでに、

Dustは赤く燃えるStardustから零れる欠片=士朗

Ashは色も熱も失った灰塵=アーチャー

Judasエミヤシロウを最後には殺してしまう裏切り者=理想

として歌詞を見ると本当にアニメ映像とリンクしていてもうこの歌が大好きになってしまったよ。本当になんてすばらしい物をつくってくれたんだこの人たちは。



士郎自身は無自覚だけど、彼の行動がひたすらトライアンドエラーを繰り返して道を探すやり方だからじゃないかな?

普通の人は Permalink | 記事への反応(2) | 14:43

2015-05-23

※冒頭のお詫びとお断り検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。

お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NA文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやき投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)

『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分感情文字にして確認してみたいと思います

RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。

でも、と、その余白をわたし想像します。

家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しまたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRR裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。

しかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RR部隊の勝機を完全に奪った…。

RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRR「悪」として描いてはいません(むしろ宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。

SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間矛盾二面性を丸ごと生きているのでしょう。RR覚悟悲壮であるとすれば、そのような自分気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RR祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。

ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。

SSは、RR名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別感情も抱きません(し、そのようなクールRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。

そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。

このSS創作風景に、作者NA自身創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。

先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在のものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)

その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!

「獣」と書いていますが、つまり世俗社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差しします。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」解放すべく死を願うも、それを押しとどめるもの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。

ところで、世俗社会的価値観(=知覚や意識)は、SS「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存価値観にとって、おめおめと生き恥さらすような人生を続けることを求めますSSの抱く既存価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存価値観=知覚や意識で)自分定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思いますSSSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈いつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在のものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和時代から当時を見つめる、超越的な作者NA視点でもあります

ここで描かれたSSの姿は、作者NA解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたし勝手に補ってみました。)

そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思いますNAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRSSSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)

からこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思いますRRSSが抱えた宿命の重さも悲壮覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います

作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分必要ものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だからわたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます

最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなた真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなた否定するものではありませんこと、ご理解ください。)

自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じていますあなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手ファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています

h_s

2015-04-09

http://michikusadiary.hateblo.jp/entry/2015/04/09/162033

もし仮にそういうことがあったとしても、いきなり身体を反応させているわけではないですよね?

見目麗しい女性を見る⇒「おっ!かわいいキレイ)だな!」と思う⇒性欲がわく

どう考えても、このぐらいのプロセスは踏んでいるはずです。

青字にした部分は、身体ではなく「心」で感じたことですよね(頭で考えたといってしまえば身体の問題かもしれませんが)。

こんなプロセス踏んでるだろうか…。

しろ、「かわいいな」と思っていなかったのに性欲がわいてしまって、「性欲がわいたということはかわいいのかも」と後付けで心が動いてる気がするが。

2015-04-06

ヴィパッサナー瞑想とはなにか

瞑想とは何か・・・上座部仏教徒にとって、瞑想とはなにかというテキスト的な役割を果たすのは清浄道論です。しかしながら、より実践的な瞑想方法を学ぶためには他の仏典が参照されることもあります。今回は清浄道論でない仏典を参考にしつつ、より具体的に、瞑想とはどんなことをすればいいのかを見てみましょう。

さて、ヴィパッサナー瞑想の詳しい紹介に入る前に・・・そもそも、ヴィパッサナー瞑想はなぜ行われるのでしょうか。それに関して、例えば古代仏典であるMaha-satipatthana Sutta(大念住経)にお釈迦様の言葉があります

以下はブログ多摩丘陵林住記様による和訳版より抜粋

比丘たちよ、ここに一つの道がある。その道とは、人々を清め、悲しみと悲泣を乗り越え、肉体と精神の痛みを滅し、聖なる道を得、涅槃を観るための唯一の道である。それは「四つの念住」である

・この四つとは何か ? 比丘たちよ、比丘は、努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「身」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「受(感覚)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)受であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「心」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むことである

努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「法(ダンマ)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むことである

すなわち、ヴィパッサナー瞑想をすることによって、知恵(insight あるいは understanding)が強まり、「自身」という存在をより正しく知ることができるのです。そして、その道を極めることによって、最終的には悟りすら得られる瞑想です。

それでは、ヴィパッサナー瞑想とはどんな瞑想なのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想・・・といったときに、もっとも有名なのが呼吸を対象とする瞑想です。この呼吸瞑想はどこで紹介されているのかというと、やはり古代仏典である、ānāpāna-sati(アーナパーナサティ)に記されています。このānāpāna-satiは、日本では安那般那念という名前で知られています

wikipedia - 安那般那念

Anapanasati Sutta(Thanissaro Bhikkhuによる英訳版)

さて、安那般那念の該当部分を見てみましょう。ここにはこう書いてあります。(以下はwikipediaから抜粋

Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。

これは呼吸瞑想を紹介する部分です。

しかし、瞑想について具体的に紹介しているのはānāpāna-satiだけではありません。Maha-satipatthana Sutta(大念住経)にも瞑想方法が紹介されています。ここには呼吸瞑想以外の瞑想方法が紹介されています。それを引用してみましょう。以下は英訳版Maha-satipatthana Suttaから引用と、私による(英文の)和訳です。

"And how does a monk remain focused on the body in &amp; of itself?

では、比丘たちよ、比丘はどのようにして、体そのもの気づきを保ち続けるのでしょうか?

"There is the case where a monk — having gone to the wilderness, to the shade of a tree, or to an empty building — sits down folding his legs crosswise, holding his body erect and setting mindfulness to the fore [lit: the front of the chest]. Always mindful, he breathes in; mindful he breathes out.

ここにある比丘がいます — 彼は森へ行き、木の陰へ行き、あるいは空家に行き — 腰を下ろして足を組みます。背をまっすぐに伸ばし、そして気づきを(胸の)前部へと向けます。そして、常に気づきをもって、彼は入息します。気づきをもって、出息します。

"Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.' Just as a skilled turner or his apprentice, when making a long turn, discerns, 'I am making a long turn,' or when making a short turn discerns, 'I am making a short turn'; in the same way the monk, when breathing in long, discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long' ... He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'

長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知ります。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練します。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練します。あたかも熟練したろくろ工、あるいはその弟子が、ろくろの紐を長く引っぱれば、「私は紐を長く引っぱる」と知り、紐を短く引っぱれば、「私は紐を短く引っぱる」と知るように。これと同じように、比丘が長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります・・・「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。

"In this way he remains focused internally on the body in &amp; of itself, or externally on the body in &amp; of itself, or both internally &amp; externally on the body in &amp; of itself. Or he remains focused on the phenomenon of origination with regard to the body, on the phenomenon of passing away with regard to the body, or on the phenomenon of origination &amp; passing away with regard to the body. Or his mindfulness that 'There is a body' is maintained to the extent of knowledge &amp; remembrance. And he remains independent, unsustained by (not clinging to) anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in &amp; of itself.

このように、比丘は内部から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、外部から体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、内部・外部両方から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、比丘は体に関する現象の発生に気づきを保ちます。体に関する現象の消滅に気づきを保ちます。あるいは、体に関する現象の発生と消滅に気づきを保ちます。あるいは、比丘の「体が存在する」という気づきは知識と想起(注1)の範囲で保たれます。そして比丘独立を保ち、世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when walking, the monk discerns, 'I am walking.' When standing, he discerns, 'I am standing.' When sitting, he discerns, 'I am sitting.' When lying down, he discerns, 'I am lying down.' Or however his body is disposed, that is how he discerns it.

さらに加えて、比丘が歩いているとき、この比丘は「私は歩いている」とはっきりと知ります。立っているとき、この比丘は「私は立っている」とはっきり知ります。座っているときには、「私は座っている」とはっきりと知ります。横たわっているときには、「私は横たわっている」とはっきりと知ります。あるいは、体がどのような状態になるのであれ、はっきりとその状態を知ります

"In this way he remains focused internally on the body in &amp; of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in &amp; of itself.

これが比丘が体そのものを内部から、あるいは外部から、あるいはその両方から気づきを保つ方法です。そして・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのもの気づきを保つ方法です。

"Furthermore, when going forward &amp; returning, he makes himself fully alert; when looking toward &amp; looking away... when bending &amp; extending his limbs... when carrying his outer cloak, his upper robe &amp; his bowl... when eating, drinking, chewing, &amp; savoring... when urinating &amp; defecating... when walking, standing, sitting, falling asleep, waking up, talking, &amp; remaining silent, he makes himself fully alert.

さらに加えて、比丘が前に進むとき・戻ってくるとき、この比丘自身に完全に注意を払います。何かに目を向けるとき・目をそむけるときも同様に・・・手足を伸ばすとき・曲げるときも同様に・・・自分外套コートなど)を運ぶとき自分の上着・お椀を運ぶときも同様に・・・食べるとき、飲むときに、噛むとき・味わうときも同様に・・・排尿するとき・排便するときも同様に・・・歩くとき、立つとき、座るとき、眠りに落ちる時、起きるとき、話すとき沈黙するとき比丘自身に完全な注意を払います

"In this way he remains focused internally on the body in &amp; of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in &amp; of itself.

これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。あるいは体そのものを外部から・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。

基本的には上記がヴィパッサナー瞑想だと考えればよいでしょう。このヴィパッサナー瞑想近代指導者たちに、さまざまに解釈されています

注1 ここで、「想起」という言葉は「思い出す」という意味です。

http://surleconomiejp.blogspot.jp/2015/04/blog-post_5.html

2015-01-08

anond:20150108133705

平日のお昼にデパートに入っている「とんかつまい泉」で、おばあちゃんがトンカツ食ってる

齢は関係ないと思うよ

健康診断の結果が怖くて油もの「心」が避けているだけだよ

2014-12-26

[][]トンデモ医師のことを調べたら想像以上にトンデモ

※身ばれや訴訟リスク回避のため、この投稿では核心に言及しません。

協力していただける方や、具体的な行動を起こす場合にすべてお伝えします。

事態発覚

私の身内の信奉する医師がどうやらトンデモさんらしい。

内科診療を行なうクリニックだが、その医師の著書によると「私を直感的に信じることでどんな病気でも治る」とのこと。

エネルギー治療と称する自由診療を行なっている様子。

ある日、実家から数百万円分の領収書が出てきた。

領収書名目トンデモ医師への献金や、医師家族代表を務める法人への寄付等。

またあろうことか、死亡時に全財産トンデモ医師に遺贈する旨の遺言まで出てきた(きちんと公証役場で作ったもの)。

これらの支払いの理由について身内本人と話し合ったところ「私は先生に生かされている」「前世のお詫びをした」とのこと。会話は終始噛み合ず、金銭のことよりも正常な思考能力を失っていること、「心」を持っていかれていることに心底驚いた。

ここで初めて、トンデモ医師によるマインドコントロール実態に気が付いた。このクリニックは医療を笠に着たカルト集団であると。

被害回復は困難

身内本人との話し合いでは解決が見えず、行政機関宗教問題に詳しい法律事務所などに相談

しかし双方合意で支払われている以上、司法に基づく対処は行なえず、金銭被害回復には本人の「お目覚め」が必要不可欠とのこと。

騙されるアホに騙すアホである。よく聞く話。

しか患者健康不安を逆手に取り、常識から逸脱した影響力を与え、多額の金銭を奪い取る所業、許すまじ。泣き寝入りしてたまるか。

私はトンデモ医師のことを徹底的に調べることにした。

事態は斜め上の方向へ

トンデモ医師は週に数回、怪文書メール配信している。

メールは「先日の地震は◯◯(患者個人名)の意識が悪いから起こりました」「神がいるとしたら私が作ったのです」等、一般的には毒電波と呼ぶに過ぎないような内容。

これらに記載された患者個人名は400名程度になる。

そのほかに明日がない」「再発が回る」「寿命が切れる」等の怪文書は多数送りつけられているものの、「お金を払わないと死ぬだろう」「助かりたいなら◯◯円払え」といった直接的な言い回しは無い。

脅迫行為に際して刑法に触れる証拠を残さぬよう、意図的にはぐらかしている様子がうかがえる。

そしてトンデモ医師とある大物政治家(と、その弟子)を熱烈支援していることが見えてきた。

その支援方法は「日本を良くするためには誰々の当選が不可欠です」とか「誰々に投票しましょう!」といった健康的な内容ではなく、

「大物政治家に100万円以上の政治献金を行うことで特別治療参加資格として認める」

といった実に直接的で大胆な内容。

そこで試しに大物政治家資金団体の収支を調べてみた。

平成23年度の政治資金収支報告書(興味のある方は調べてみてください)

なんと個人献金収入だけで1億6,000万以上。

ちなみにその年の他の議員の例を挙げると、

安倍晋三 晋和会 758万円

石原慎太郎 石原慎太郎の会 1,821万円

徳田毅 徳田毅政経研究会 214万円

1億6,000万円という数字いかに異常である理解していただけるだろうか。

さらに前述した400名程度の患者の氏名と、大物政治家の収支報告書個人献金名簿を照合してみたところ、患者の多くが献金名簿に記載されていることが判明。確認できただけで

5,276万円

となった。


付け加えると、私は収支報告書と長時間格闘したので感覚で分かる。

トンデモ医師による実際の数字への影響はこの倍額以上である

みなさんにお願いしたいこと

情報拡散してください。問題解決について一緒に考えてくれませんか。id:NATROMさんにはぜひお伝えしたい。→コメントありがとうございます。実はなとろむさんの「トンデモさんリストhttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/00000109に当該医師関係のある名前があり、なにかご存知かと思いご連絡しました。医師の主張はオカルト寄りなので、今のところなとろむさんのお知恵をお借りする段階ではなさそうです。

また被害について思い当たる当事者の方がいたら連絡をください。

問題点を追及していただけるメディア関係の方がいたらご一報お願いします。カルト問題政治とカネ、ニセ医学詐欺と多方面検証必要と思っています

政治家については恨みもなにもございません。というより知ったこっちゃないです。財布に入っているお金がどこからたかくらい誰だって知ってるはずでしょ。悪事に加担していないならちゃん説明してください。

騙される方にも非はある。でも騙す方が圧倒的に悪い。

トンデモ医師天罰ではなく人の裁きが下ることを信じて。

2014-12-07

http://anond.hatelabo.jp/20141207214956

1.政治宗教経済など

小室直樹の本。これほど分かりやすい説明はないと思う。

岩井克人の本。21世紀資本主義論。

ジャレド ダイアモンド。銃・病原菌・鉄。

2.人間とは

前野 隆司。脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説

金子邦彦。生命とは何か 複雑系生命科学へ。

藤田一照。現代坐禅講義

3.すべてを含むマンガ

宮崎駿風の谷のナウシカ

源氏物語とか古典理解出来るようになりたいが…

2014-09-28

理性の恋心

失恋した。

告白もしてないし、ましてはっきり断られたわけでもないけど、

雑談の中で「私は誰かを好きになることがない人なんで」

的なことを、わざわざ言われた。

結構気が合って、たまにからかわれるくらい、

たから見てもすごく仲良くしてて、

これは行けるだろうと踏んでいた矢先のことで。

でもやんわりと「お断り」されたんだ、ってことが、

理性では分かっているのに、

理解はしているのに、

心の奥底ではまだ彼女のことが好きで、

諦められない。

でもって、それからずっとお腹が痛くて頭も痛い。

あんまりひどいのでカウンセリングを受けた。

どうやったら心の奥底に残る彼女への想いを断ち切れるのか。

結局一回では解決しなくて、もう一度行くことになったんだけど、

今回の分の最後カウンセラーの人がこう言った。

あなたは心の症状と体の症状が一致してるんです。心と理解とは違うんですよ。分かりますか」

最初はよく分からなかったけど、論理的に考えてみた。

まず「体の症状」は、失恋による痛みそのものだ。

そして「心の症状=体の症状」で、

「心≠理解」だとすると、

失恋による痛みを受けているのは「心」であって「理解」ではない。

ああ、そうか。逆だったんだ。

心の奥底でこそ、失恋したことを分かっているんだ。

からそれが体の症状として現れたんだ。

でもやんわりと「お断り」されたんだ、ってことで、

はっきり断られたわけでもないからと、理屈を付けて分からないふりをして、

理解しないで、

理性の方がまだ彼女のことが好きだと、

諦めずにいるんだ。

「理性では失恋したと分かっているのになあ」なんて、

欺瞞もいいところだった。

から方針を切り替えなくちゃいけない。

屁理屈をこねて一向に諦めようとしない自分の理性を、

説伏しないといけない。

っていうのは発見だったんだけど、

理性を説伏したところで心の痛みは癒えないよね。

どうすんの、これ。

2014-09-24

CHAGE&ASKAの"On Your Mark"について

CHAGE&ASKA名曲On Your Mark

[MV] On Your Mark / CHAGE and ASKA https://www.youtube.com/watch?v=3Obh9kg6o_U

 CHAGE&ASKA「PRIDE」J-POPきっての名曲です。それについては先日、ライヴ聞き比べの記事を書きました(http://anond.hatelabo.jp/20140923002713)。

 しかCHAGE&ASKAには「PRIDE」と肩を並べる、もう一つの壮大なバラード存在することを忘れてはいけません。それが「On Your Mark」です。この曲はCHAGE&ASKAの15周年記念シングル曲であると共に、アルバム「CODE NAME.2: SISTER MOON」のラストを飾る曲です。また、数億円を費やして宮崎駿にPVを作ってもらった曲でもあります。そのPV短編映画扱いで「耳をすませば」と並んで上映されたこともあるので、そちらでご存じの方も多いかもしれません。

 「On Your Mark」は間違いなくCHAGE&ASKA代表する名曲で、「SAY YES」や「YAH YAH YAH」が忘れ去られても、この曲が歴史に埋もれてしまうことはないでしょう。相方CHAGEは、数あるASKAの曲のうちでも「On Your Mark」をもっとも好きな曲だとどこかで言っていましたが、それも頷けますCHAGE&ASKA全盛期を告げる初めの曲が「WALK」「PRIDE」だとして、「SAY YES」「YAH YAH YAH」といった名曲を連発した全盛期を経たのちの「On Your Mark」は、それら名曲群をじゅうぶんに締めくくるに全く恥じることがない傑作だと言えるでしょう。

 前回は「PRIDE」ライヴ聞き比べというマニアックな作業を公開しましたが、今回は「On Your Mark」の楽曲分析というこれはこれでマニアックな作業を行ってみようと思います。というのも、比喩に富んだ歌詞に、転調を次から次へと重ねていくこの曲をどう解釈すればいいのか自分自身からなかったからです。以下、個人的思い入れ解釈しているメモ書きです。

冒頭の転調について

 静かなシンセピアノから曲は始まりますASKAは決して楽観的には聞こえない調子で「On your mark」(位置について)と歌います。すると、曲は変ホ長調から嬰ヘ長調に転調し、ベース八分の「ダンダンダンダン」というリズムが刻まれます。まさに、走り出したがごとくに。

 J-POP分析するときに調性を云々言うのは的外れと言われるかもしれないが、決してそんなことはないと思います変ホ長調ベートーヴェンが「交響曲第3番(英雄)」で用いた「荘厳の響き」の調性、そして嬰ヘ長調は♯が6つ付いて、複雑で混沌とした響きを持つ。例えば、マーラーが「交響曲第10番」のアダージョで用いたのは嬰ヘ長調であるチャゲアス変ホ長調の調性を探すと「PRIDE」や「Sons and Daughter~それよりも僕が伝えたいのは」を挙げることができますベートーヴェン英雄」と同じく、どちらも荘厳の印象を私たちに与える曲です。しかしながら重要なのは、「On Your Mark」はこの荘厳の調性からすぐに転調する(=外れる)ということです。すなわち、この曲は、はじめから英雄からの「除け者」であり、「PRIDE」のように素朴かつ豪胆に歌い上げることさえ禁じられたものの歌なのです。したがって、「On Your Mark」ははじめからかなりひねくれた性格をもつ曲なのです。この冒頭の転調を聞いて、たしか私たちはどこか言い知れぬ複雑さを覚えるのではないでしょうか。

 それでは、歌詞を見てみようと思います

歌詞について

そして僕らは いつもの笑顔と姿で

埃にまみれた服を払った

この手を離せば 音さえたてない

落ちてゆくコインは 二度と帰らない

君と僕 並んで

夜明けを追い抜いてみたい 自転車

 「いつもの笑顔と姿で/埃にまみれた服を払」うというのは、強がりの笑いです。いろいろケチをつけられるが、それを「いつもの笑顔と姿」で何気なく払うのです。そして、大切なものを失う時(落ちてゆくコイン)、それは音さえたてません。静かになくなっていきます。「私」はそれさえも「いつもの笑顔と姿」で見送っていきます

 次に出てくる「君」というのは、むろん共に走っている人でしょう。この「君」が男性なのか女性なのかは不明です。つまり友情歌なのか恋愛歌なのか分かりません。周りの友人に尋ねてみましたが、「君」は男性だという意見女性だという意見ではっきり分かれました。私は「けれど空は青」等につながる男性同士の友情歌だと認識しています。実際、宮崎駿もこの曲を使ってCHAGE&ASKAの二人を主人公としたPVをつくっていますし、CHAGE&ASKA自身のことを歌っていると考えるのがもっと自然解釈だと思います

 「夜明けを追い抜」くというのは面白いイメージだと思いますASKAは「晴天を誉めるから夕暮れを待て」で、今晴天のように売れている自分をみんなチヤホヤしてくれているけど、「夕暮れ」時に誉めてほしいと取れるような歌詞を作っています。また「太陽と埃の中で」という曲もあるように、ASKAにとって太陽とは特別ものです。朝の冷たい風を切り、太陽という「絶対」に向かって自分の力で進んでいくのです。灼熱の太陽でもなく、沈みゆ太陽でもなく、夜明けの冷たい太陽というところが面白いところです。この冷たさが、決して順調ではないレースOn your Mark=位置について)を予感させます

 ところで、完全な偶然だと思うのですが、PVと同時上演された「耳をすませば」に、まさに「夜明けを追い抜いていく自転車」の描写がありますね。気になるところです。

On Your Mark いつも走り出せば

流行風邪にやられた

On Your Mark 僕らがそれでも止めないのは

夢の斜面見上げて 行けそうな気がするから

(夢の心臓めがけて 僕らと呼び合うため)

 このサビに入ると、また転調し、調性はイ長調になりますWikipediaによれば、「陽気で牧歌的であると同時に「輝かしくはあるが、非常に攻撃的」であり、「気晴らしよりは、嘆き悲しむような情念表現に向いている」という。調性の特徴にあまり拘るのはよくないかもしれませんが、この両義性は重要だと思います。それについては後述します。

 AメロBメロ比喩の激しさに比べるとサビは解説的になっていて分かりやすいと思います風邪にやられて駄目になりそうになるけど、「夜明けを追い抜く」ように、「僕ら=君と僕」は「夢(=太陽)」が頂上にある「斜面」を見上げて、いつか「夢(=太陽)」に行けそうな気がするのです。

そして僕らは 心の小さな空き地

互いに振り落とした 言葉夕立

答えを出さない それが答えのような

針の消えた時計の 文字を読むような

君と僕 全てを認めてしまうには

まだ若すぎる

 調性はまた嬰ヘ長調に戻る。

 この歌詞面白い所は「心」存在する位置です。通常、「心」というものは、個人のうちにあるものです。しかし、ここでは、「心」とは、「僕ら(=君と僕)」の二人が共有している「場」なのです。だから、二人はある程度「全てを認めている」といってもいいような深い関係にあることが分かります

 そんな「心」にある「小さな空き地」。この空き地からは、「NとLの野球帽」で歌われたような、工業地帯にある寂しげな空き地を思い浮かべます。そうした空き地は、基本的には大人たちの目の届かないところにある子供たちのテリトリーであり、遊び場です。一番の歌詞にある「そして僕らは いつもの笑顔と姿で埃にまみれた服を払った」というところにも感じるものですが、どことな童心にかえっているような気がします。そんな秘密の遊び場で、二人は喧嘩をしてしまます(「互いに振り落した 言葉夕立」)。「夕立」という言葉から、たんに喧嘩をしていることだけではなく、「空き地」で喧嘩が終わった後に「夕立」に打たれながら無言で立ち尽くしている二人がいる、という場景を私は思い浮かべます

 その場景が次の「答えを出さない それが答えのような/ 針の消えた時計の 文字を読むような」という言葉につながっていきます。二人は夕立に打たれ髪がびしょ濡れになりながら、互いに見つめ合います。二人とも、本当はお互いのことを分かり合いたいと思っていますしかし、二人は何も言いません(「答えを出さない それが答えのような」)。時計の針が消えてしまい、永遠に続くような気まずい沈黙があります。「永遠の謎」がそこにはあります。相手が何を考えているのか分からず、また自分自身が何を求めているのかも分かりません。やはり、「全てを認めてしまうにはまだ若すぎ」たのかもしれないのです。

 以後、サビが多少の変化を伴ってリフレインされる。分かり合うことな不可能なのかもしれないけれども、それでもOn Your Mark(位置について)! 「走り出」すしか解決方法はないのです。

 曲のラストは、冒頭と同じようなピアノシンセの静かな曲調になります。ここでは調性はイ長調である最後に歌われるのは

そして僕らは

です。この「そして僕らは」というのはきわめて両義的です。というのは、そこにあるのは希望だけではなく、苦しみや失敗も内包されているからです。イ長調の調性が「牧歌的であると同時に「嘆き悲しむ情念であることが特徴であるように、僕らの行く道は「希望であるのか「失敗」であるのか、最後まで種明かしされることはありません。しかし、決して「僕ら」は走ることをやめません。ここに「On Your Mark」のもっている奥深さがあると私は思います。行く先がどうなるのかは決して分からないけれども、苦しみを背負って、夢を目指していつまでも走り続けるのです。

追記──宮崎駿PVについて

 コメントをもらってジブリPV版について思ったことがあるので付け足します。

 「On Your Mark」のPVは、ご存じのように原発事故放射能事故主題としています。その主題設定も手伝って、近年ふたたび注目されています宮崎駿は「タイトル歌詞をあえて曲解し悪意に満ちた映画に仕立て、いつか来る未来に生きる」ことをイメージしてPV製作したと言います。どう「曲解」したらこ歌詞から原発の話になるのか今まで分かりませんでしたが、その答えは「夜明け」という言葉にあることに気がつきました。「夜明け」というのは「太陽」の出現を意味します。ところで、「原発」という装置は、原子核分裂反応から巨大な力を得ています太陽原子の分裂ではなく融合によって光り輝いており、厳密には太陽原発の力は全く異なるものではありますが、しかしながら、原発は「地上の太陽」と形容されることも多く、文化的コンテクストにおいて原発太陽は密接に結びついています宮崎監督が「原発」をテーマにすべく「曲解」したのは、まさに「夜明け」という言葉に他ならなかったのではないでしょうか。「On Your Mark」の歌詞だけを見れば、正直なところ、反核運動よりも原発肯定親和性を持ちます(すなわち、吉本隆明立場に近いのではないか、と私は思います)。宮崎駿はそれを見越した上で、「原発事故が実際に起こった世界でもOn Your Markと言うことは出来るのか?」と問うたのではないでしょうか。映像を見れば分かる通り、宮崎監督は「できる」と考えたのでしょう。しかし、当時と今では世界が違います。今の私たちはまさに宮崎監督のつくった世界の中にいるのです。その世界において、私たちは「On Your Mark」を聞いてどう感じるのか、「On Your Mark」と言うことができるのかと、再び考える時にあるのではないでしょうか。

2014.9.24 18:45

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