はてなキーワード: 自責の念とは
去年の3月に別れた元カノのことがふと懐かしくなってしまい、連絡をとってしまった。
向こうは向こうで新しい生活をしているというのに本当に迷惑極まりない。
もちろん返信はない。
LINEを開くと去年のクリスマス前にアルバムをすべて消去したのであろう跡だけが残っていた。たぶんブロックされている。
すごく自己中なクズだと我ながら思うのだが、どうせこんな風に他人同士になるのならもう少し別れ際にしっかりと話をすりゃよかった。今更自責の念と後悔で胸がいっぱいになった。たぶん彼女はこんな気持ちの比じゃないくらい辛い思いをしたはずだ。今からでもたくさん傷つけてごめんと謝りたいけれどもはや不可能。二度と話すことも顔を見ることができないというのが辛い。
俺にとっては初めての彼女だった。言う資格はないけれど、楽しい思い出をありがとうと最後に言いたかった。たぶん「死ね」と返されると思うが。この後に及んで自分を良く見せたいと願う俺はもしかしたら自己愛性人格障害なのかもしれない。
このぐちゃぐちゃでどうしようもない気持ちを吐き出せる場所はここしかなかった。
もうこんな思いを二度と味わいたくない。
人生悲しすぎる。全部俺が悪いんだけど。
「VTuberから見たお気に入りファンのランキング」というのはどうしても可視化されてしまうのは、どのVTuberでも同じなんだなあ。
毎回かならず切り抜きが本人にRTされるファンと、一度も反応されたことがない切り抜きしつづけるファン。
VTuberが疲れている様子なときにツイートを巡回していいねされれるファンとそうでないファンという格差。「俺は推しの癒しになれていないのか」と自責の念に囚われる。
VTuber側は、ファンのツイートに反応をするのは「気まぐれだよ」「平等だよ」などとうわべではみんな口をそろえて言うけど、どう見ても平等では無いんだよなあ事実。そりゃあ人間だもの。その不平等さは仕方ないと頭ではわかる。頭ではわかるんだけど。
グッバイ。
辛いけど否めない。
でも(配信見るのを)離れがたいのさ
その”単なるお気持ちの表明”が発端でこうなってるわけなのだが。
自分で火つけておいて「こんなに燃えるとは思ってなかった。ちょっと暖を取りたかっただけだ」って言われてもな。
「男が喜ぶような絵」と言って男側に火種を飛ばしてきたのもそっちだし。
公式の中の人を「普通じゃない気持ち悪い」と叩き出したのもそっちだし。
良いと思うなら自信を持って続けろ、って言うけど、だったら何故わざわざ火をおこすのか。マッチに火をつけるのか。
良いと思って実行した企画が批判されたら謝罪する以外にどう対応しろというのか。
良いと思うのならやればいいじゃない、でも私は気持ち悪いと思うから気持ち悪いと言わせてもらうわね、炎上したでしょほら私が正しいじゃない謝罪以外になにか無いの??
ってなんやねん。
良いと思うならやればいいと言いつつその実自分が嫌だと感じるものを許容してないじゃないかお前らは。
わざわざ発言して、火をつけなければいいのに火をつけて、延焼したらあーあ結構こうなっちゃうのね、ってなんやねん。
それでも自分たちがやってることに気づかないの?
っていうかいつも思うんだけどあんたらの人生って自分が良いと思うことしか存在しなかったわけ?
必ず自分が好きなものを提供してもらえるって言う思い込みはどういう人生を歩んできたら生まれるわけ?
毎度こういう燃え方と対立が生まれるのはあんたらのそういうところが原因だよ。
火をつけたのは自分なのに、火をつけた正当性を主張したり、燃え広がる方に問題があると言い出したり、こういう燃え方はおかしいと燃え方にイチャモンつけてみたり、火をつけたくせに火を付ける気はなかったとか言ってみたり、いや私は別にいいと思うんだけどねとか言ってみたり。
可燃物の直ぐ側で火起こしたらそりゃ燃え広がるだろ。
火をつけて遊びたいなら安全なところでやるとか後始末の準備するとかあるだろ。
何も考えずに無作為に火をつけるその癖を直さないといつまで経ってもも同じ結果しか出ないぞ。
まぁそういう自覚もないだろうけど。
わかるわかる
まず「自分は一体これまで何をやってきたんだ・・・?」という自責の念に駆られる
↓
「いや自分はこんなもんだから」と自分を過小評価し納得させようとする
↓
「そもそも自分のやりたいことってなんだ?」と思い、やりたいことメモを見返す
↓
メモからやりたいこと(たいていリリースしてみたいサービスなどをメモってる)をやろうとする
↓
環境構築、チュートリアルで満足し、ちょっと深く調べないといけないことになると投げ出す
↓
「自分のやりたいことってゲーム、増田、5ch、Twitterとか無料で楽しめるものだった」ということにして現実逃避をする
これを繰り返して毎回ショボショボの進捗しか埋めてない
大手中学受験塾に通って中学受験をして某難関中高に進学、その後某地方国立大学の医学部に進学した。
自分も実家のある東京都郊外→中高のある山手線の内側→大学のある地方都市と移ってきて、増田の感じているような格差を多少は感じてきた。地方都市は、23区外はあまりにも軽視されていると憤りを感じたこともあった。もちろん増田はそういった格差を私とは比較にならないぐらいずっと切実に感じていると思う。増田の気持ちが分かると言うことはとても私にはできない。
私は恵まれた環境で得たものは多かったが、失ったものも多かったと思っている。
通っていた中学受験塾はスパルタ指導で、問題が解けないと講師が物を投げたり大声で怒鳴り散らすことは日常茶飯事。おまけにクラス替えの熾烈な競争に晒されて精神を病んでしまう人がたくさんいた。
かくいう私の弟も中学受験塾に通って、講師からも親からも怒鳴られながら一生懸命勉強したにもかかわらず中学受験に失敗してしまい、それ以来自己肯定感を完全に失ってしまっている。母親も所謂ママ友からマウントを取られたり、良かれと思ってした中学受験で弟が完全に自己肯定感を失ってしまったことへの自責の念から精神的に不調になってしまった。その後更年期に入ったこともあって未だに本調子とはいえない。
中高の同級生には親から教育虐待のようなことをされている人が相当数いて、宿題をやらなくて頭から牛乳をかけられた、問題集を引き裂かれたなどという凄惨な話をよく聞いた。自傷癖がある人、不登校になってしまう人、摂食障害の人も少なくなかった。
私自身、自分は恵まれた環境で育ったのに地方国立大学の医学部にしか入れなかった価値のない無能な人間だという思い込みに囚われている。一時期精神的に不安定になってしまったこともあった。
人の2倍恵まれた人間は人の2倍優れた人間になってようやく一人前である。
それに、そこまで辛い思いをしながら勉強しても、テストで良い点をとっても、神になれるわけでもなく、結局みんな生まれて生きてただ死んでいく。
Q. 心臓マッサージが必要かの判断を正しく行なえる自信があるのか?
無い。
道端で倒れている女性がいて呼びかけに応じず、酒くさくて顔が上気しているが、万一瀕死だったらどうしようってとき。
一応口元に耳を近づけてみて呼吸の有無を確かめてみる。呼吸が微かだったら救命に入る。
ミスは起こるだろう。
でも、瀕死でないのに心臓マッサージをしてしまった場合は、AEDが「必要なかった」と教えてくれる。
心臓マッサージが原因で殺してしまうこともありうる。そのときはAEDが蘇生してくれるだろう。
呼吸が充分だと判断したのに実は瀕死だった場合、後の警察が気づく。
気づかずそのまま死んでしまった場合… 後悔することになるだろうが、何もせず立ち去って後に「あのとき彼女を見殺しにしたかもしれない」って後悔よりはマシである。期待値の問題だ。何もしなかった後悔は何もしなかったら 100% 発生する。
Q. 万一を防ぐためなら他人の肋骨を折ってもしょうがないと思ってるのか?
思っている。
命を助けるために必要なリスクだ。比較するとミスで殺した後悔よりは肋骨を折った後悔の方がマシである。訴訟を起こされたら闘う。
Q. どうやって勇気を得たのか?
救命活動の話を見かけるたびに自責の念にかられる。あのときの頭から血を流して倒れているバイカーが脳裏によぎる。
この場を借りてお前らに忠告したいのはこのことだ。お前らは「女性だったらリスクがあるから助けない」って言ってるけど、「助けないリスク」を過小評価している。
「ヒトを見殺しにした経験」は事あるごとに、人の生死の話題が出るたびにフラッシュバックする。
パーティとか幸せそうな状況に入るたびに、頭の中で仮面を被っているような離人感を感じる。
“でもここに紛れ込んでるオレは人殺しだ”
「自分はヒトを殺せる人間だ」って認識が長い時間の中でおれ自身の成長を歪め、冷淡で残酷な性格を形成した。価値観の多くの場所にツメ跡がある。“まあオレ自身ヒトを殺したことあるし、このくらいの悪はいいか”
サイコパスなんかになりたくなかった。これは勇気なんかじゃない。アタマの中でアラームが鳴るんだ。
「今度こそ絶対助ける!!」
「今度こそ絶対助ける!!」
「今度こそ絶対助ける!!」
1日でも寝れなかったり寝れなかったせいで起きれなかったりするとおわりじゃん
さらに泣きつくと、運動しろ、ブルーライトカットしろ、寝る前に風呂に浸かれ、ホットミルク飲め、二時間前から寝る準備に入れ
いや、そんなの続かないし
で毎晩9時ごろには眠気が到来してないことに絶望しながら、寝れなかったらまた努力が足りなかったと自責の念に押しつぶされながら眠れない夜を2時間ぐらい過ごすじゃん
暗い部屋でじっと横になってるとどんどん思考が鬱々していくじゃん
あーもう無理だと思ってスマホ弄ってまた寝付くのは明け方じゃん
月曜なんか寝ずに迎えることが9割だし自律神経ホルモンバランスぶっ壊れて生理周期がめちゃくちゃだし食欲ないから体重落ち続けてるし
生活にも健康にも支障をきたしてる上に、自己肯定感もどんどん失われていくじゃん
週末も生活リズムがおかしいから出かけられないし、人とも疎遠になってくじゃん
そりゃあお医者様としては安易に睡眠導入剤に頼らせたくないと心からの親切で薬を処方してくれないのかもしれないけど
この生活をもう何年もやってる身としては、睡眠導入剤に依存してでも普通の生活リズムを取り戻したい
どんなに優しい精神科医でも、睡眠に関しては努力しろって言ってくるんだよな
その1
「傷ついた」はないとして、「傷つけた」はあるのだろうか
その2
「親に愛されたいが愛してもらえない3歳児が、わざと他の兄弟を愛する様子を見せつける親に抱く不満」と、
「宝くじがはずれた不満」は異質に思える。
どちらも生涯他言しないものとして、前者を表現するのに「傷ついた経験」と私は使いたくなるが、後者にはならない。増田なら前者に「傷ついた経験」とするのはなぜ嘘の表現なのか、解説できるのではないか?
その3
少女漫画に詳しいのなら、「わざと傷つけようと画策する描写」と、「傷つける事を目的としない加害描写」を両方読んだことがあるかもしれない。イメージでもかまわない。もしあったら、両者の違いを解説してほしい。
以下、ダラダラと脈絡なく。
「傷ついた」と表出することで他人をコントロールしようとする行動はありふれているが、それが主題なのだろうか?いやそうでもなさそう?
「不満」は、「ムカつき」も「傷つき」も経由しなくても解決できると思うので、はじめの方でこの3つが一緒くたになっている?のは違和感があった。
増田の主張が正しいとして、増田以外の「傷ついた」と思ったことのある人が多数を占めるだろう世の中に、増田は何を望むのだろう?
考え方の誤りを認めさせたい?
同じ考え方の人が居るか知りたい?
ただバーカ言いたい?
それとも世の中ではなく、「私は傷ついた」と増田に言った特定の誰かを想定している?
これらのどれでもない…?
誰かのトラバかブコメにあったけど、「自責の念を抱くようになった原因が他者にある」のが「傷つき」では、というようなのを見た。これは、「原因はあの人だ」と思うのが傷ついた本人の場合は確かに「他者のせいで自責する不満」とも言える。
しかし本人が自責の念を抱いた原因について意識していない場合もある。その自責は傷つきを含まないのか?
まあこれは、傷つきと自責が関係あると増田が言ったわけじゃないから、考えても仕方ないけど。
不満があっても傷つかない場合と、不満を傷つきと捉える場合が同一人物の中で両方あると思うけれど、その差はなんだろう?
理不尽さの違い?
不満解消可能性の違い?
自責の有無?
尊重されてない感の有無?
これは不満をムカつきと捉えるかどうかについても同じか?
増田の言うことは、そうだなあ、と思うような、そうかなあ?と思うような、もう少し考え方を詳しく知りたみがあるので、私のイメージする色々な「傷つきシーン」に「不満」や「ムカつき」を代入して想像してみているのだが、イマイチすっきりしない…。
推しは知らない。
.
もう何もなかったかのように明るく振る舞い、それどころか自分のしたことを未だにネタ化しようとしている様子が見受けられる。
自分が家庭に、ファンに、関わってきた作品にべっとりと泥を塗ったことについては、あの「数週間ファンからの声や周囲からの叱責、そして自責の念などに追い込まれ、ストレスでちょっと痩せる刑」をもって一切の罰を受け終わったと思っているんだろう。
表面上はその通りだ。
だから罪だったはずの出来事も笑い話にしようとすることができる。
(ちなみにあれ、推しは全然気を遣ってないけど、周りの方々が反応に困るからやめたほうがいいと思うんだよな。)
.
.
一方、ファンの心の中では、推しが執行猶予中である場合が少なくない。
期間は人それぞれ。
一日の人もいたし、一週間程度見た人もいたし、私のようにはっきりとした期限を決めず、だいたい一年くらい見ようとしている人もいる。
あの頃楽しかった思い出は本物だし、まだ楽しめそうな予感は0じゃないから。
第一、推しが本業で魅せる仕事は最高で、本来ならば揺るがない。
.
.
しかし、執行猶予中にファン一人一人の中で無事期間満了しようが死刑執行されようが、実際の推しには全く関係ないし分からないだろう。
分かる必要はない。
それだけだ。
そして、私にとってはそこが問題だ。
.
あの頃の私と一緒になって楽しんだあの人が、この人が、現在進行形でチクチクと針に刺されるように苦しみを味わっている。
私はそこに、友達として、ファン同士として、どうにか寄り添えないだろうか。
そして、心の中の裁判官をどう処理したらいいだろうか。
.
こんな状況じゃなけりゃ、急いで会いに行ったのに。
そもそも親は私のことを小さい頃からずっと「バカ」と言い続けてきたし、ブスな上に努力もせず、ボーッとしてる上に人付き合いが苦手でいじめに合い……周りから奪われる自信と、それをはねのける自分の精神力の無さが原因だと自分では思っている。
親や周りの人間への怒りと、自責の念が交互に出てきて、ずっと頭の中でグルグルと回って動けなくなる感じ。
自分の場合は、「過去の自分辛かったよな。あんな環境でよく頑張ってたよな。偉いよな。」って心底思えたら、一歩先に進めた。
誰かのせいにするでも無く、自分のせいにするでも無く、全部仕方なかったことだけど、そこには確かに頑張って耐えていた自分が居たと認めること。そんな自分を労ってあげること。
もし次メンタルクリニックに行く機会があったら、幼少期〜思春期にこんな辛い体験をした、という視点で話してみたらどうだろう。
大人になって起こる不適応は大体生育歴に原因が潜んでるって最近はもはや常識だし、医者やカウンセラーもちゃんと聞いてくれると思うよ。
仕事が普通にできて(多分そこそこの企業)彼氏がいて近々結婚する
はー羨ましい
これで欠点ないのか?ってなるけど本人が欠点だと思っている部分は別に欠点でもないんだよな
そこに関するトラウマもあるけどそれ以外は全てに置いて恵まれてると思うからもうトラウマなんてあっても変わらないんじゃないかと思う
ちょっと前までは苦手なことを頑張ろうとするヒロインが可愛いなあと思って読んでたけど
軌道に乗り始めて?からの生活がすごい自分との落差を感じて読んでてしんどい
たかが漫画のキャラクターなのになんでこんな思うんだろうと考えたけど
一つは自分が成人して性格以外のスペックが比較対象に入ってきたから
彼氏や親、友人などの関係性や勤めている企業や仕事内容やポジション、同僚など
あと成人して漫画読むと学生や子供が主人公の漫画ってもう微笑ましいんだよね
あー頑張ってるな、とかちょっと意地悪するタイプでもそういう時期だよね…とか自分が通り過ぎた年代だから同じ土俵に立ってない
でも成人してるキャラクターだと同じ土俵に立ってるから、スペックの違いや差を感じてしまう
性格的な悪さを感じられないし、欠点も欠点として機能してなくてただただ良い性格のキャラクターが良い生活を送ってるだけって言う
嫉妬するんだから自分の生活に満足できてない部分があるんだよな
鬱々してないで満足できてない部分を変えていけばいいんだよ
でもセックスに関しては一人ではできないからそこはもうどうしようもないじゃんね???
だらだら書いたけど多分一番良いなーと思ってるのはそこだ
胸大きくて彼氏から誘われていて、していても多分大きな問題がなさそうな部分が羨ましいんだよ
関わり合いや歩みがちょっとリアル寄り?かなと思うけどセックス関連は別に問題ないよね
フェチ部分が先に押し出されてるからなのか知らんけど実はそこまで気持ちよくないとかそう言うネガティブなリアルな部分はないんだよね、ファンタジーだな
作者をずっと男性だと思ってたけど女性なんじゃないかと言う意見を見て目から鱗だった
ヒロインに対するフェイチズムから男性かなと思ってたけど彼氏の聖人具合から、そっちに理想を落とし込んでるならあり得るか
ヒロインも嫌味がないけど彼氏も一部モブからの評価はあれだけど仕事できるイケメンだから
変な部分で落としつつ、ヒロインの最大の理解者で経済力もあり仕事もできるイケメンなんだよな
最近漫画の中では連載の中で最大かもしれない修羅場があったけどそこも読んでて別に最後はハッピーエンドなんだよなって思って白けてしまった
現実だと相手の考えなんか分からなくて、喧嘩していた時にそこから別れに繋がるかもしれないって言う不安があるけど
あの漫画だとヒロインが自責の念から閉じこもってしまって、そこを彼氏が納めつつ解決に向かうだから
ヒロインなりに頑張っているんだろうけど、なんかすごい周りの人が良い人だなあと思ってしまって、創作だなあと…
最近はてブで若い男性が女性を誘う時に立場を利用したことに自責の念を覚えているという話で盛り上がっていたけど、世の中がこういうふうになると出生率が下がるなーと思った。
自分は40代既婚子持ち男性なのだが、若いときは男女のこういうのってかなりグレーな領域で「イヤよイヤよも好きのうち」とか「押して押して押しまくれ」などという悪習がまかり通ってたんだよね。現在ではそういう悪習はタブーになって女性の権利が向上しているということはとてもいいと思う。ただ、恋愛のシチュエーションでリスクを取る事によってコトが進むというのはよくあることなんだよね。リスクを取って他人の領域に入っていくということが罰せられる世の中ではまともな神経をした若い男の子は恋愛は割に合わないと思っちゃうよね。
だからといって平成の時代に戻って男が女性を性的な目で見てちょっかいを出すというのは許されないとも思う。恋愛のニュアンスに頼ったグレーゾーン的なアプローチは無理なのであれば、何らかの形でルールを作ったほうがいいのかもしれないね。自分が恋愛市場のステージに上っていて「受付中」のようなサインを示すことによって男性も変なことを考えずにアプローチできるのだと思う。
人と人との関係性が時代とともに変わっていくので恋愛にも新しいルールが必要だと思う。そうしないと日本に人が生まれなくなってしまうと思う。
自分の考えをこうやって文字に起こすことすらごく最近まで出来なかったし、未だに喋って自己表現するのは苦手なレベル。
参考になるか分からないけど、自分が母に対して思ってたことを書いてみます。
中学の頃メンタル落ちて不登校になった時、母に「今何を考えてるの?」ってとても優しく聞かれて、なんて答えたらいいか分からなくてずーっと固くなって俯いてたなぁ……って思い出したな。
増田は「何でも言ってごらん」って言うと娘さんのプレッシャーになるかな……って考えて自分を抑えてて偉いね、いいお母さんだと思います。
人間の社会ってコミュニケーションで成り立ってるから、それがまともに出来ないのって本当にコンプレックスだし辛いんだよね。
血の繫がってるはずの母親は喋るのめっちゃ得意なのに、何で自分は出来ないんだろう……って自分を責めたり。
病院に付き添ってくれて、自分の代わりに医師と勢いよく話しているのを聞く度に、感謝はしてるんだけど、自分のダメっぷりを見せつけられているようで同時に悲しかったりもしたな。理不尽な話だけど。
将来のことを考える時、同性の親の姿を見て自分の未来を想像することも多いと思うんだけど、母が余りに自分と違うので(自分はまともな大人になれないのでは……)って思ってたっけ。
てか今でこそ「あの頃の自分はこんなんだったなぁ」って言語化して振り返れるけど、当時の自分の感覚としては、なんか胸の真ん中にギューッと締め付けられるような痛みが常にわだかまっている……って感じだったな。
今の自分は駄目だ、正しくない、何とかしなきゃいけない……っていうプレッシャーと一緒に、何だかよく分からない辛くて悲しい気持ちがグルグルと回ってる……そんな感じ。
思い出語りは程々にして、自分の経験から学んだことをまとめてみる。
一つ目は、娘さんの言語化能力が今とずーっと同じとは限らない、ということ。
人は時間や環境といった様々な要因で成長するものだし、ある時突然声変わりするみたいに時期が来ればいつの間にか出来るようになってた、ってことも起こり得る。
てか自分がそうだったかな。ある時ふと「あれ?前より出来るようになってるな」って気付いたみたいな。まあ今も苦手なんだけど、苦手なりに成長はしてる。
ただ、上に書いたとおり私は「喋れない自分を責める」ことに長年労力を割いてしまったので、そのせいで必要以上に遠回りしたかもしれない。
二つ目は、自己肯定感を落とさないように……ってそれが簡単に出来たら苦労しないんだけどさ。
長い間苦しんだなりに得たものはあった、って思ってるつもりだけど、貴重な若い時間を自責の念に費やしたのは勿体無かったのかな……って後悔することもある。
当時の自分に何て言ってあげたら自信が持てたかな……「喋りが不得手でもちゃんと社会で生きている大人は沢山いるから大丈夫だよ」って分かったら安心したのかな……。
一番いいのは「この人は自分に似ている」と思える大人に出会って、その人がちゃんと社会適応していて、「ああ私もあそこを目指せばいいのかも」って思えたら少し自信になるのかな。
最近読んだ女性ASDの体験記にはすごい共感したので、もしかしたら参考になるかも。
長い上にまとまりが無くてごめん。
母と私は余り似てなかったけど、母は私を見捨てずに奮闘してくれて、そのこと自体が一番の支えになったと思う。
文章から増田が娘さんの辛さを何とかしてあげたいっていうのはめっちゃ伝わってくるので、その想いがあれば大丈夫と思います。
大したアドバイスになってないけど、ほんの少しでも参考になれば。
心療内科に通っては辞め、通っては辞めていたが、「薬を飲んでいるとようやくつらい思いをせずに生活を送れる」ことに気付いたというか、そうしなければ生きられない人間なのだと諦めがついた。通院8か月目。たしか。
心療内科ではなく、精神科にいけば根本的に直してくれるんだろうか?カウンセラーさんは、本職の方には申し訳ないが「考え方を矯正する」もしくは「話を聞くだけ」のイメージ(2,3回通っただけ)なので頼ろうと思えない。でも友人の勧めでとても良い方がいるそうなので、経済的に安定したら受ける。経済的にという単語を出したが、自立支援制度を使っているので医療費は1割負担に軽減させてもらっている。(カウンセリングは自費&高額)
いまは、1日3回各1錠の精神安定剤と、夜寝る前に抗うつ薬(躁うつ病向け)、そして睡眠導入剤を服用している。
薬を飲まない素の状態は、記憶がある限り幼稚園の時から30歳近くのいまも変わらず、「なにも悲しくない、つらくないのに、ただひたすら悲しい、つらい」ために涙が止まらない日が週に何度もあり、授業に出ていても、料理をしていても、電車に乗っていても、ウォーキングをしていても、野菜を食べていても、いつ何時でも涙が出る。
そして常に頭の中が騒がしいのだ。毎日同じことを考える。
「涙が出るが訳が分からない」
「なにもないのになんでこんなにつらいのか」
いわゆるライフハックは知っているし何度も試したし、友人おすすめの動画ワーク(いろいろノートに書きだす系)もやってみた。敏感な人向けの本も読んだし、総括すると「そのままの君でいいんだよ」な本も読んだ。
でも、申し訳ないが、どれもわたしには当てはまらない。自責の念だとか、他人のあれこれが気になるとか、そういう具体的なものではないのだ。わけもわからずパッシブで涙が出る。
いまは一日3回定期的に安定剤を服用しているからなんとかなっているが、これ(最大量)でも涙がでてしまう場合は頓服として処方されている液体の安定剤を追加で飲んでいる。これを飲むと落ち着く気がするというか、「私的最終手段を使っているのだから安定しないはずがない」と思って自分をなだめている。
最近傷ついたことと、まあそうなんだけど改めて言われるとショックだなと思ったことがある。
傷ついたことは、「あなたは薬を飲めばスッキリするけど、相談されたこっちはそうじゃないんだよ」
改めて言われてショックだったことは、「常に薬を服用しない人の気持ちはわたし(健常者)には理解ができないから、アドバイスができないんだよ」
そりゃそうだ、としか言いようがない。
だれならわかってくれる?親は「気の持ちようだ」と大学生のときの私に言い張ったのでもう二度と相談しない。
手術して治るものなら、費用を工面して治してハッピーなライフを送るのに。
薬を飲んでいても泣けてしまう自分が本当にわけがわからない、そして薬を飲まない素の自分は社会生活を送れないのだからいったいどうして生きなければいけないのか、と思う。毎日「なぜわたしは生きなければならないのか」と思う。
さめざめと泣きながらこれを書いている。Tシャツが涙で湿ってしまってもう拭えない。
追記:
創作意欲というのは不思議なもので、ひとたび無くなってしまうとそれが滾っていたころの気持ちというのはどうにも思い出せないものです。
そもそも、創作意欲というものがあったのかさえ分からなくなる。それはとても不思議な感覚で、毎日のように絵を描いていた右手がぱったりと何も描けなくなります。
それが創作意欲の枯渇なのか、もっと根本的な問題があるのか私には分かりません。そういう、新鮮で鬱屈とした日々を半年ほど過ごしてきました。
元々絵を描くのは好きで、それこそ子どもの頃から絵を描いていました。クラスでも1番か2番みたいな、特別上手くもなく不快なほど下手でもないという程の画力でした。
同人誌も作ったし、お金をもらって絵を描いたりもした(もちろん少額ですが)。そういう経験はとても楽しかったし、自分の絵で人が喜んでくれるなんて初めての経験だったのでただただ嬉しかったのを覚えています。
それが、ここ半年くらい全く絵が描けなくなってしまいました。それだけなら良いもの、今まであまり抱かなかった鬱屈とした感情を大いに抱くようになりました。
それまでは上手い絵を見ても良いな~と思うくらいで、お手本にしようと思っていました。何か月でここまでう上手くなりました!みたいなツイートを見てもすげぇ自分も頑張ろうと思えていました。
最近はそういうものを見ても、どうして自分にはこんな絵が描けないのかという自責の念を抱くばかりです。また、常に作品の粗を探すような見かたをしてしまうし、自分にそんな能力ないのに批評家気取りの感想を抱いてしまいます。
今までそういう感情が絵を描くことによってうまく発散されていたのかなーなんて思ったりします。これからはこうやって文章でも書こうかな、これを書いてて楽になってきたし。
どうして絵が描けないのか、というか創作的なアイディアが浮かば無いのかの原因はいくつか候補があります。
1について。私は現在就活目前といった感じで、ほんとは絵を描いてる場合ではありません。その準備、果ては卒業後に生きていけるのかという漠然とした不安がやばいです。
調べても調べても果てが無いし、もう卒論できて内定貰うまでこの不安は消えないしどうしようもない。
2、ずっと家にいて友人も数日に一回通話するだけ。一人暮らしなのでマジで一生一人で考え事する時間が多い。前から一人より人と話すほうが好きだったので割とつらい。
3、絵を描く理由の一つに絵で食うというのがありました。ここ数か月で自分にはそういうのは向いていない、というか、絵を描く上で何を表現したいのかみたいなことを考えるようになってしまいました。
それが無いとこの先絵を描き続けられそうにないという。そういう考えが先行して、前みたいにパッションだけで絵が描けない。べつにおっぱいが大きいだけの絵でもいいんです。頭では分かっているけれど自分が描く意味が分からない。
好きなアニメのキャラをただ描くという、簡単にできていたことが今となってはとてつもなく難しい。
これが一番大きくて、自分が描かなくていいんじゃないかという考えがどうしてもよぎって手が止まります。前みたいに自信満々に描けるようになるといいんですがね。
取り合えず、毎日のように絵を描いていたのに、何か分からんが突然描けなくなった話でした。こういう日々が初めての経験なので、このスランプみたいなものから復活できるのか、筆を置くことになるのか分かりません。絵を描かない自分が想像できないのです。今がそうなのに。
なんか新しい趣味を始めようか、小説でも描いてみようか。就活しなきゃとか色々考えて課題やって一日を終える日々を送っています。5000兆円とは言わないけど内定貰えればとりあえず不安は一つ無くなるのでそれをめざすしかないのかな~。
それで、ちょっと今朝のNHKの「はね駒」の弘次郎を思い出した。
娘のおみつが出産で弱ったからだをいやすため、実家に戻っていたが、
嫁ぎ先の吉川家の姑は、おみつを肺病と疑う。
肺病のうわさもひろがっていることから、と
嫁入り道具を送り返して離縁を言い渡されてしまう、
そのことを知ったおみつは、ショックから病気が悪化し、亡くなってしまう。
橘家は、打ちひしがれてしまい、しばらく、おみつロスの状態が続く。
おみつの父の弘次郎はそうした吉川家への非難とはまったく正反対の境地に至るのだ。
橘家当主の弘次郎はいう。そもそも、おみつを嫁に出した自分の責任だと。
また、武家のプライドに固執し、普段から人付き合いを憚ってきたことが、
弘次郎は、おみつの墓前でちょんまげを切り落とし、ざんばら髪にしたうえで
突然の決断ではあるが、並々ならぬ弘次郎の思いが伝わり、一家は上京を即断する。
大変、興味深い。
跡継ぎを生む道具としてしかおみつを扱ってこなかった吉川家のふるまいは、
現代の価値観からすると、なおさらひどく感じるが、しかし、当時としてもおそらく
子供を産んで弱った母親を離縁させ、息子に再婚させるなどという姑のふるまいは、かなり非常識だったに違いない。
しかし、弘次郎は、吉川家に対して、一切そうした批判をしなかった。
おみつが病にふせっているときに元気づけるために、
生まれたばかりの赤ちゃんにおみつを会わせてやってくれ、と懇願しに吉川家にいったときに
長女のおりんがずっとついていなければいけないと心配するほど、グダグタになっていた。
そんな弘次郎だったが、
小刀を抱えておみつの墓前に向かうシーンで、もしや自傷行為か、と思わせておいて
心を入れ替えて上京する、という、なんともポジティブすぎる決断をすることになった。
東京で、何をする、ということも何も決めていない。決めているのは、ただ家族で上京するということだけ。
動揺するおりんに弘次郎はいう。
おまえにとっても東京のほうがいいだろうと。
弘次郎は、こうして、吉川家を一切非難せず、変わるべきなのは自分だ、という境地に至る。
本当に、このシーンは、はね駒の見どころの一つだと思う。
私も実家では結構理不尽な思いをしてきましたが、いまは穏やかに過ごしているので、参考になればと思い書きます。
実は、親への恨みというか、複雑な思いは、実はまだ残っています。
「あんな大変な思いをしたのに、なぜいま私に甘えられるのか」と思うこともあります。
しかし、親への複雑な思いを忘れらない自分を、許すことにしました。
思えば、親にまつわることで悩む時間のほぼすべては「世間一般のように親を大切にできない」だとか「親に対して、なぜ酷い態度をとってしまうのか」という自責の念に苦しんでいました。
親といえども他人ですので、こちらから働きかけても相手に影響しません。親の行いが、子の自分に影響をもたらすのは、まだ自立していないためです。
自立した今、安全面でも経済面でもこちらが影響を受けることはありません。
相手のことを許せないなら、許せないでいいのです。それがあなた自身です。でも、あなた自身のことは正直に受け入れた方が、おおかた楽な場合が多いです。
そろそろ自分を許してあげませんか?
僕ヤバの楽しみのひとつは埋め込まれた考察ポイントの答え探しなのだが、いくら考えても検索してもスッキリした答えが見つからない事も。
その最たる1つが
という事で、未だに完全に納得できる説明を見つけられずにいる。
超重要アイテム・ミルクティーが登場したのは職業見学編の最後。
マンガ編集部見学を経て市川の新しい面を知った山田が市川への意識を強めていくなか、
「飲み物くらいはいいだろ」と市川が差し出したのがミルクティーだった。
手渡されたペットボトルがミルクティーだと気付いた山田は自分でもわかるほどに赤面、顔を上げられなくなってしまう。
この瞬間山田が恋に落ちたのは「片想いの終わりに」と言うのりお先生のコメントもあって間違いないと思うのだが、一体このときに何が起こったと言うのだろう?
「ありがとう」でも「優しいね」でも「嬉しい」でもなく「緊張まじりの驚き」。
もし市川が正体を隠した殺人犯でミルクティーが決定的証拠なら、
と気付いてこんな顔をしそうな表情。
要するにこの場面では何か重要な事に気付いたのだろうし、目一杯顔を赤くしている事から「市川が私を好き」か「私は市川が好き」のどちらかだという事は間違いなさそうに思える。
山田が恋を自覚するのが karte.30 という前提を踏まえれば消去法で「市川が私を好き」と気付いたと考える他ない。
さらに問題なのは、なぜそういった気付きがミルクティーを見た事で引き出されたのか?という事。
「飲み物くらいはいい」「ミルクティー」の合わせ技で市川が職業見学の朝の山田達のやり取りを気にかけていた事は分かる。
なんならツイヤバの「好きなものクイズ」を覚えていたとしてもいい。
だとしても、それだけで市川が山田を好きと確信するには弱すぎる。
ミルクティー?
→え?なんで知って?
→赤面
くらいのステップを踏みそうなところを、
ミルクティー?
→ 赤面
なのだ。ありがとうの一言をいう間もなく、一瞬で気が付いてあの表情。
例えば「君オク」にそういうエピソードがあるという類の。
このとき山田が気付いた事が、まったく想定外な事だったらどうだろう。
例えば、山田はこの時初めて「ご自由にお使いくださいティッシュ」の主が市川だと気付いた、とか。
顔を伏せて落ち込む山田は涙を流しており、それを不器用な優しさで励ます様子は karte.15 を連想させなくもない。
山田はあのティッシュを大事に取っておいているし、もし誰の仕業か気づいていないのだとしたら「紫のバラの人(古!)」的に心の拠り所にしているかもしれない。
でもこの説は当然ダメ。
ティッシュが市川の仕業と気づかないと、そもそも山田が市川に心を開く理由が無くなってしまう。
とりあえず、ミルクティーは市川がいつも山田を大事に思ってきた事の表れ、と言うことにして何とか飲み込んでいるが、このモヤモヤを晴らせる日は来るのだろうか。
情報求む
特に室屋光一郎との関係において筆者は腑に落ちない部分があったため仮説を立てまとめたものが当記事になる。
そして当記事は不倫の良し悪しや今後の活動について記載するものではない。
筆者が見てきた茅原実里と受け取ってきた彼女の想い。それを信じ続けたいという希望と祈りだ。
参照:
・『涼宮ハルヒ』茅原実里、不倫愛6年と「新たな男」 (Yahoo!ニュース)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200512-00010000-flash-ent
https://lineblog.me/minori_parade/archives/2285051.html
-------
ライブにも足を運び続け、音楽活動をはじめとした彼女の芸能活動を10年以上は追っている。
それを踏まえたうえで読んでいただけると良いだろう。
長年彼女の行動を見てきたが、彼女は常に真っ直ぐで素直な人間だ。
誰よりも人の気持ちを慮る彼女だからこそ人を惹き付ける魅力があり、多くのファンが彼女と共にいるのだ。
そんな彼女であれば不倫の事実や相手に対する配慮はもちろん、迷惑がかかるであろう人たちのことを考えないはずがない。
また、多くの人に迷惑をかける行為をしていたことや自分の立場の認識、自責の念を長い期間持ち続けていたのであれば、茅原実里は茅原実里として存在し得ないと考えられる。
彼女はそれほどまでに真っ直ぐであり、多くの縁に感謝をし、その想いを届け続けていたのだ。
もちろんそこで芽生えた感情がそれ以上であった、という話で片付けることもできるがどうも納得ができない。
少し前置きが長くなったが、以下より筆者の考える仮説を年表に沿って記載していく。
-------
茅原実里はこの段階で「不倫とは良くない」程度の認識であり、迷惑のかかる人たちや事の重大さを分かっていなかったと考えられる。
人として、という話については当記事では触れないが本人にもその意識はあった、というよりその程度の意識しか無かったのだろう。
「そっか~私も芸能人なんだ~」などとラジオで喋るような彼女が到底芸能人としての自覚があるとは思えないのである。
芸能人として活動している中で迷惑のかかる人物や状況についての想像ができていないのと考えられるのだ。
にわかには信じがたい仮説であるとは思うが、そもそもそういった精神論や常識が十分に教え込まれていないとも考えられる。
そもそもavex時代に転科があり担当の瀬野大介は初のマネジメント担当であった。
後に瀬野大介の立ち上げたリンクアーツ、茅原実里の個人事務所と2019年にホリプロに所属するまでは大手事務所には所属していなかったのだ。
「すぐに離婚する」「最終的には問題無いから大丈夫」などの言動で茅原実里を安心させ、罪悪感を削ぐようなことを伝えていたとも考えられる。
室屋妻子は東京外で暮らす
●2016年始め
●交際終了後
FLASHの室屋光一郎談によると「過去に妻をとても傷つけ~」とあるため、交際が終了した後に一度妻と話し合ったのだろう。
FLASHが上記2点と不倫事実 (証拠、証言) を掴んだうえで事務所 (ホリプロ) へ確認を行ったと考えられる。
また、FLASHに室屋光一郎のコメントが載っていることから、不倫事実などを直接本人に確認しているのであろう。
ここで説明を受けることにより事の重大さや問題の大きさを茅原実里自身が正しく認識する。
直前すぎるが、事前に伝えられ事の重大さを認識していた場合、一般男性と出かける、自宅に招くようなことをするとは考えられない。
また、彼女がその事実を受け止めながら5月10日以前のように通常通りブログの更新などをできるかと言われると甚だ疑問だ。
参照:
https://lineblog.me/minori_parade/archives/2283940.html
「当時を振り返ると、私がしてきたことは、どれだけ時間が経ったとしても、当然許されることではありません。ご家族のみなさまには深い謝罪の気持ちと、自責の念を持ち続けています…。」
「事務所からこの連絡を受け、事実と向き合いながら、これから先、応援してくれているファンのみんなの心や、生み出してきた作品達、お世話になっている事務所やレーベル、ファンクラブ、各関係者のみなさま方に傷をつけてしまうことが、どんな言葉にもかえられないほど辛いことだと感じながら過ごしてきました…。」
などより、今になってやっと当時を振り返っていること、事務所から連絡を受け改めて事実と向き合っているようにも感じる。
-------
以上、少なくとも数人の間では納得できる仮説が立てられたのでここに記載させていただく。
最後に改めて記載するが、これは今回の報道や茅原実里を正当化するものでもなければ事実に良し悪しをつけるものでもない。