はてなキーワード: 家裁とは
親父の父親(自分から見たら祖父)が亡くなって、相続が発生した。
こう言ってはなんだが、親父の兄弟はみんな一癖二癖ある連中なので、親父は面倒を嫌い相続放棄をしたいと言い出した。
それはいい、制度の事もよくわからないからこっちに調べてくれと頼むのもいいさ。けれどもね、調べた結果こうして欲しいってこっちが言ってるのに
「なんでそんな金を払わないといけないんだ」「なんで俺がそんな事しなきゃいけないんだ」っていちいち噛み付くのやめろよ。
そもそもお前の相続なんだよ、俺は一銭ももらえないの。それなのにわざわざ調べて、後に禍根を残さない様にってやってやってるのよ。
家裁に却下されたら、次は2週間以内に高裁に即時抗告の手配をしなきゃいけない。もう面倒くさい、死ぬほど面倒くさい。
そもそも被相続人の死後に口座から入院費出したら、相続したとみなして相続放棄できないかもって日本の法律って本当にアホなのかと言いたい。
数年前からネット上(主に2ch)で出回ってる「悪魔の離婚マニュアル」っていうのがある。その中で子供の連れ去り、でっちあげDVが推奨されてる。
これを実行されると、ベルトコンベア式に負けが決まるというか、抵抗できない状況に追い込まれ、相手の要求を飲まざるを得なくなる。痴漢冤罪なんかと同じ構図が、離婚においても存在してるのは事実だね。弁護士連中もよく心得てて、これに近い行為の指南や手引きが行われていると予想する。このパターンでこうなればこうなるしかないっていう勝利の方程式がしっかりできてしまってる。この辺の、配偶者による子どもの誘拐・連れ去りなんかは大手のニュース記事にもなってたりするので、国民の認知度は低いけど相当数の事例がすでに存在してると思う。件数についてはソースがなく想像でしかないけど離婚件数そのものから考えるに交通死亡事故や自殺より発生しててもおかしくはない。あの増田はそういう問題提起がしたかったのだろう。わたしは未婚だけど、リアルに身近な事例で遭遇済み。だからこそこれを書いてる。弱者を守るためだった法律が、ちょっと人格や人間性がアレな女性にまんまと利用されてしまっている。今はスマホがあるから、だれでも離婚の手はずやマニュアルにアクセスできるし、離婚したいママ友同士で相談しながらこういう情報が共有されてたりするんだろうね。
結婚にそんなリスクがあると知ったら、男性は消極的にならざるをえないのでは。日本の少子化はますます進行する。
↓そんな恐ろしいマニュアルをわざわざ増田で拡散させるのもどうかと思うが、これ以上悲劇を増やしたくないのであえて書いておく。もっと社会問題として世間で認識されますように。
2 :離婚さんいらっしゃい:2015/12/04(金) 01:13:41.14
悪魔の離婚マニュアル
- 離婚で親権と監護権を取りたかったら、必ず子供を連れて別居する
- (一方の配偶者名義の預貯金を含め)預貯金全額と車と家の権利書など必要な物は別居時に全て持ち出す
- 離婚届は相手の目につく所に残しておく
- 相手が面会交流調停や審判を申し立てても徹底的に拒否・無視すべし。履行勧告を受けてもとにかく無視する。配偶者が子供を虐待したとでっちあげ、子供に「向こうの親に会いたくない」と言わせ、精神科・外科医師の診断書を提出して拒否する。かつ養育費の請求だけはきっちりやる
- 配偶者の行動には常に目を光らせる。ちょっとでも子供に近づいたら誘拐と騒ぎ立てて警察に通報する
- DV法は徹底的に利用すべし。接近禁止命令を勝ち取るのが最良
- 少しでも有利な条件を勝ち取って離婚するために、子供は人質・報復の道具として徹底的に利用すべし。悪口を吹き込んで配偶者への恨みと憎しみを刷り込み、「100%向こうが悪い」と家裁にアピールする。うまくすれば慰謝料もガッポリ取れる
- 交際相手がいるなら、「この人がお前の本当の親なんだよ、あいつはお前の親になりすまし私を脅して家を乗っ取ろうとした極悪人」と嘘を吹き込むのもよし
- 離婚に応じない相手には「DVを認めて離婚に応じれば子供に会わせてやる」と迫るべし。認めたら「暴力を振るう男に子供を会わせる事はできない」として面会拒否の口実にできる
- 離婚が成立したらすぐにその交際相手と子供を養子縁組して、親権を持つ親を作っておく。こうする事で元配偶者と子供の縁をほぼ完全に切る事ができる。相手が裁判所に訴えても「もうあなたの子供ではないから」と門前払いにしてくれる
- 将来のためにも、相手の事は二度と立ち直れなくなるくらい徹底的に叩きのめすべし。相手が自殺するまで延々と手紙やメールや電話で嫌がらせするのもよし。もちろん、自分を受取人にして生命保険はしっかりかけておく
一番古いオリジナルというか出典がどこかはよくわからなかったけど。これは2017年現在でも通用する手法だと思う。関連する法律は特に改正されてないからね。
都道府県知事が、自らの病識のない精神疾患を発症し、不適切が疑われる専決処分等を頻発するようになったらどうなるかという架空の想定につき思考実験をしてみる。
なお、あくまでメモなので、根拠条文等は記さない。後述の指定に従って使ってみようかな、という人は、自力でしらべるように。つかこの記事自体間違ってるかもよ?
ではまず、前提として、病識のない精神疾患の治療にあたっては、当該患者の人権に対する制限は最小限度にとどめられなければならないことは言うまでもないであろう。「四の五の言わせず座敷牢へぶちこめ」的な乱暴な意見には、筆者は断固反対する。
しかし、都道府県知事の職責は重大、かつ職権も非常に強いことから、専門医および一般人の殆どがその発症を疑うような状況下であれば、既に地方行政は混迷著しい状態におかれているであろう。かかる事態においては、当該患者から知事の職責を剥奪することもやむを得まい。本人の精神衛生においても恐らく負荷軽減の必要があるケースが多いのではないか。
さて、この場合、まず、「都道府県知事に事故がある場合」として、副知事等がその職務を代理することが考えられる。(副知事が存在しない場合も考えられるので、「等」としておく。)
疾患であるのだから、その認定は医師(専門医)によるべきであろう。
ところが、患者本人が同意しなければ、そもそも専門医の診断を受けることはできない。
例外的に、自傷他害のおそれがある場合(不適切な公権力の行使を間接的な「他害」と呼びうるかについては不知)であれば措置診察が可能であり、その結果措置入院が必要ならそうすることになるであろうが、自傷他害のおそれがない場合には措置診察に付するわけにもいくまい。
あるいは、他の疾病に罹患し入院治療を必要としているにもかかわらず、本人が(精神疾患に由来する愁訴を前提として)診察は受けるが入院を拒むといった場合においては、精神保健指定医の同席による医療保護入院が可能であろう(さすがに家族等も同意するであろうし)。入院は「事故あるとき」であろうから、精神疾患であると否とにかかわらず、副知事等が議会と一体になって粛々と不信任手続を進めればよい。
ただし、あくまで医療保護入院は必要な期間に限られるから、当該他の疾病によっては時間との戦いになる。
しかし、そうした特殊な事態でもなければ、本人の同意を経ずして確定診断名を出す(しかも、本人の同意なくその診断結果を公表しなければならない!守秘義務!)というのはほぼ絶望的である。
「成年被後見人の申立ではどうか」…残念ではあるが、それでどのような結果が出ようが、直接に知事の職位に影響はない。わが国では成年被後見人であるか否かに関わらず被選挙権が認められている以上、公職選挙法に基づく自動的な失職はないし、形式的には後見人の権限は財産に関することに限定されているはずである。もっとも、判断能力を欠く常況にあると家裁が認めた人物の名において下される行政処分に対しては、不利益を被る側から当然山のように異議申立てがなされることとなろうが、これとても知事の失職には足りない。
結局、地方自治法の本則に立ち戻って、リコールか議会による不信任決議、とならざるを得ないであろう。
では、リコールだが、こちらは地域事情もあるためなんとも言えない。
鳥取県と東京都では集めるべき署名の数に差がありすぎるし、署名の有効性確認のための事務手続に至ってはもうなんというか。
とくれば、議会による不信任だが、この場合、患者たる知事が黙っているだろうか?仮に地方公共団体の吏員が、「対抗する方法はないものか」と問われたら、職務に忠実に「議会解散という方法があります」と言わざるを得まい。ということで、議会は刺し違える覚悟で不信任を突きつける格好になる。
ところが、議会解散に伴う選挙だからといって、解散前と同一人物が再選されるとは限らない。その辺はフツーの地方議員選挙である。とくれば、前回薄氷を踏んだような議員は、正直いって議会解散には及び腰にならざるを得ないだろう。その中であえて知事の首に鈴をつける議員(団)がいるか?という話であろう。
…結局、住民の圧力に耐えかねた議会が不信任を突きつける(それもそうとう及び腰で)しかない気がするが、その間に失われるヒト・モノ・カネ・労働力・行政への信頼たるや…
考えたくない。
#本記事は、フィクションのネタ、または学術論文のネタとしての使用は自由です。但し、直接リンクはご勘弁ください…。また、上記目的以外の目的での利活用は禁止します。引用に名を借りた部分的/全面的転載も禁止しますので、
不在通知の代わりに入っていたのは郵便局のロゴが入った白と赤の封筒だった。
本人限定受取郵便と仰々しいモノにしては何も変哲もない紙封筒だったけど、玄関先の明かりに翳してみて思わず声が漏れたのは、自分の名前と住所が手書きで書いてあったからだと思う。
ダイレクトメール、年賀状、最近では結婚式の招待状。大人になってから気づいたらポストに入っているLINEでは届かない便りに時々目を向けるようになった。葉書の、真ん中を大きく占める写真に押し出されるようにしてちょこっと書いてある直筆の挨拶にふと目を細めて書いた相手を思い出す瞬間が好きだったから。
だが、自分の名前が直筆で書いてあるのは意外と少ない。めっきり減った私の年賀状は、新年の挨拶の方は書いてあっても表はプリンタだった。それでいいのかもしれない。名前を書き間違えるのに比べれば。名前はシンプルな人の方がよほど少ない。旧体字の細かい差分は自分の名前だからこそよく分かると自己体験が告げるのだ。筆不精な人には泣かせる字だろう。それでも何となく期待していつもちらっと宛先を確認しては、あ、ヤマトのB2ラベルだと送り状の形から入ってぶり返す運送業宿命の仕事熱に落ち込むのだった。
そっけない止めはねにどきどきした。
こんなに気持ちが昂ぶるのは久しぶりだ。
祖母が死期を悟って、遺言ともつかぬ自分も忘れていた小学校の頃の思い出を送ってきてギョッとしてしまったのはまだ、記憶に新しい。手紙の宛先に書かれた自分の名前は家裁の調停委員をしていた往年の祖母を思わせる、堂々とした字だった。赤ペン先生を続けるうちに次第に丸みを帯びていった母の字で書かれた住所とのちぐはぐさに失笑したのを覚えている。祖母は多分、もう自分の名前しか思い出せなかったのだろう。
祖母の手紙の裏側に、古き良き青き時代にもらった手紙も入っていた。まだ、捨ててなかったのか……苗字が微妙に間違っていることに気づいた。あの頃はコレが許せなかったと今更思い出した。あの時の狭量さを今でも引きずっていることに気づいて、思わず顔が引きつる。
もう一度、郵便局の封筒を見返した。どっちかというと収まりが悪い頭でっかちの苗字を窮屈に納めたような名前からは、書き慣れてなさそうな緊張感が伝わってきた。縦書きだから漢数字と教わってきた身としては妙に印象に残る半角数字。しかし、伸び伸びと書いたのだろう、住所の番地は6と9が寄り添うように背中を丸めているようで可愛いらしかった。
封筒の表裏を為つ眇めつ眺めて、ファイル棚を探すだけで1時間が過ぎていた。ペーパーナイフはどこにしまっていたかな。また探し物が始まった。
今調べてみたが精神的暴力は家裁での保護命令申し立ての対象ではないらしい
http://www.courts.go.jp/tokyo/saiban/minzi_section09/dv/
難儀やのう…
枯れ専の友人がいた。
旦那さんは親子くらい歳の離れた人で、旦那さんとは旦那さんと同世代の人が集まる趣味で知り合った。
結婚してからも密かに片思いしてた人はみんな旦那さんと同世代。「官庁街は目の保養」と熱く語っていた。
旦那さんはお堅い仕事に就き、集まりの中でも尊敬される立場にいたけれど
予想に反して知り合うなり手を出されたみたいであっという間に子どもが出来て結婚。
「いい歳した男に情をかけるからだ」と親族から批難されたそう。
話を聞いていると、旦那さんは確かに酷いんだけど、
その世代の男性の夫婦像としては平均的だったんじゃないかなという気もした。
旦那さんは同世代の女性か、他国アジアの女性とだったら上手く行ったんじゃないかな。
旦那さんは、年下で何の資格もなく、就業経験もなく世間知らずな彼女を
でも蓋をあけたら未熟な彼女は子育ても家事もどうしていいかわからないことだらけで
旦那さんの色に染まろうと一途にけなげに必死になるなんてことはなかった。
旦那さんの方も年長者だからと自制を働かせて粘り強く家族を守るというようなことはなく
家庭に関することには最後まで世間知らずなままだったみたいだ。
彼女はその後旦那さんの退職を機に「本当にやった復讐」を地で行く長期的で綿密な計画を立てて実行。
家裁関連何も知らない旦那さんは赤子が手を捻られるように身ぐるみ剥され
老いた親族と共に文字通り放り出された。
周りを見てると、おじさんになればなるほど同世代をおばさん扱いする傾向が強いように思う。
若い女の子なら順応性があるから自分色に染まってくれる、自分が仕込めるとどこかで思ってる。
でも価値観を共有できるかどうかは養育や社会的背景が大きいわけで
それを考えたら同世代か少し上くらいの相手の方が大騒ぎしなくてもわかってくれることが多いと思う。
肉体的には娘のようで、内面的にはバーのママみたいで、家事能力は祖母なみの女性がいれば別だけど。
それか「中国嫁日記」の月さんみたいに昭和的価値観を自ら大事に思って育った他国の女性と家庭を持つとかね。
彼女は新しい恋人のやさしさと柔軟性に感激していたけれど、会ってみたら
「これはもしかしてただの優柔不断男子なんじゃないか」と思ったが言えなかった。
お金も社会的立場もなく、家事能力も乏しくのらりくらり嘘をつくやんわりした息子みたいな人だった。
今度は彼女が逆の立場で歳の差ドリームに幻惑されているんじゃないかと思った。
先に断っておくが、このエントリでは当事件の事実関係や市や学校の対応、ネット上の意見などに一切関与せず、「いじめ」と「自殺」について個人的な意見を述べるものである。
滋賀県大津市で起きた男子中学生の自殺を巡って世間に様々な声が上がっている。
Twitterを眺めていても、数は少ないながらも多種多様な人たちが共存する僕のTL上ではこの件を巡って、「いじめ」あるいは「いじめと自殺」を巡って活発な意見交換が行われており、日々感服するばかりである。インターネット上において「いじめ事件」が大々的に取り上げられるのは何も昨今に限った話ではない。何年も前から日本の各地で痛ましい「いじめ」についての事件が起こるたびにインターネットではそれについて激しいレスポンスが生まれてきた。それらは基本的に「いじめ」について批判的な意見なのだが、時にそれらは過剰すぎるといっていい反応に発展し、自称「正義の味方」たちが暴走したりすることはあるいみネット界隈においては日常茶飯事であった。僕自身は事件の経緯や事実関係などとはまったく別に、それらの激しい反応が巻き起こるたびに辟易したことを覚えているが、ここ数年でその状況は大きく、とは言わずともかなり変化したと考える。一昔前なら、こういった痛ましい事件が起きた場合、インターネット上での反応はほぼほぼ一種類だった。すなわち、「いじめた奴をぶっ殺せ」である。もちろん、言葉や表現、論調や論点の違えど、その大体は「いじめた奴をぶっ殺せ」だった。もちろん、感情論で言えば、そうだ。だが、はっきり言ってしまうが、今回のような「自殺」というキーワードが俎上に上がるほど苛烈で、悲惨な「いじめ」の事例に関して言えば、そんな短絡的な方法では問題の根は解決しない。
それはなぜか?
答えは単純である。
たとえ「その子」をいじめた連中が全員死のうが、少年院送りになろうが、ネットで晒し者になろうが、
いじめられた「その子」はもう大概「普通の人生を普通に生きる権利」を奪われているからだ。
何年か前に話題になった「いじめられているキミへ」の寄稿文らしいのだが、思うところあるので引用させていただく。
死なないで、逃げて逃げて
あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。
あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。大人だって、会社がいやになったら、会社から逃げているのです。
次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。
そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。 それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。
はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために、「遺書」を送るのです。
死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。
だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。
あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。
僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。
どうか、勇気を持って逃げてください。
「いじめられる方に問題がある」
最早時代錯誤過ぎて目が泳いでしまうようなおサムい台詞だが、これはわりと最近まで(ここ重要)いじめられっ子に対する教師や親の言葉として一定の説得力を持っていたことは悲しいことながら事実である。
んなワケねーだろボケ!!
「いじめられる方に問題がある」
→まず、これは最も頭が悪い意見だ。が、実際のところ「なぜいじめが起きるのか?」という答えに対して、ほとんどの人間がこの馬鹿みたいな空虚な言葉を目を伏しがちに言うのである。いいか、それは断じて違う。なぜかといえば、この論理は、「いじめられる」と「問題がある」というふたつの出来事が、あたかも因果関係があるかのように触れられているという点だ。「あの子には問題がある」→「だからいじめられる」という理屈だ。だが、こんな馬鹿な理屈があってたまるだろうか。確かに、人間だれしも社会的な人間関係を営むに際して「問題」を抱えているものだ。「空気が読めない」とか「性格が悪い」だとか「ええかっこしぃ」だの、はっきり言って枚挙に暇なんかない。そして、その「問題」を抱えていない人間も、この世界には一人もいない。誰だってできる限息がしやすい場所、陽の光があたりやすい場所にいたいと思うし、少なからず利己的になることだってある。もしくは、そもそも人間関係を営むことについて不得手だったり、嫌いな人間だっている。それは「社会的な(笑)」観点から言えば問題なのかもしれない。気に入らない人間だっているかもしれない。はっきり言えばムカつくかもしれない。だが、それだって仕方のないことだ。どうやっても自分には受け入れられない性格の人間というのは存在するし、そういう人間とどうしてか同じ空間で過ごさなくてはいけない場合だってある。そういう場合はもう、仕方のないことだから、適度な距離をとって「うまくやる」しかない。それはもう、どうしようもないことだ。だが。だが、である。
「(自分にとって)その人に何らかの問題があったから」といって、その人をいじめていい理屈なんかこの世界のどこにもないんだよ。
仮に、ものすごく性格がよろしくなくて、みんなに鼻つまみ者にされている人がいたしても、それははっきり言ってしまえばその人の「問題」だ。
社会的な営みをする以上、共同体において「邪魔」な存在というのはどうしても出てくる。それも仕方のないことだ。
もっと具体的に言えば、共同体において「ぼっち」の存在が生まれてしまうのはごく自然なことであり、それ自体は何の問題もない。
何のことはない、単にその人がその共同体に「合わなかった」だけの話だ。その「問題」ということについてだって、現実世界側のインターフェースが引き起こしたバグのようなものだと考えればたいしたことはない。コミュ障? キモメン? んなことは別に「問題」じゃない。もしそれで自分にコンプレックスやルサンチマンを抱えている人たちがいるのならば、もう素直に意識を別に向けるべきだ。今はインターネットという素晴らしい道具があり、その他にも数えきれないほどの環境や世界がある。はっきりいって現実世界なんかあまたある世界の表層のひとつにすぎず、僕達が保持している肉体はたんなるいちインターフェースに過ぎないわけである。だから、「あ、ここ自分には合わないな」と思ったらさっさと身を引いて別のコミュニティなり世界なりを探すことが自分にとっても相手にとっても健全だ。
だから、もし「いじめ」られている子がいるのであれば、その場から黙って去ることが最善の索なわけである。
僕は、「いじめられる方に問題がある」とも、「いじめる方に問題がある」とも思っていないので、「いじめ」が起こりそうな状況になったらデウス・エクス・マキナよろしく「席替えたーいむっ!」とする方がいいと思っている。
ならばこそ、すべての「いじめ」は上記の引用文のように「逃げて逃げて生きる」ことをすればある意味解決するのではないかと思われる方もいるだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。というか、そんなにこの問題が単純であればこんなに酒によった勢いでエントリを書いていないわけで、ここからが本題である。
問題は、「逃げて逃げて生きた」として、その子が「普通の人生を普通に生きる権利」は依然として不当に奪われたままであるという点にある。
確かに、いじめられて、その結果自ら命を絶ってしまう事例があったとしたら、そんな悲しい話はない。
だが、それにもまして「逃げて逃げて生き抜いた」としても、そんなものは「死ぬ」のちょっと手前くらいの選択肢であり、最後の手段なわけである。
一口に「逃げる」と言っても実に様々な手段がある。
不登校になる、引きこもる、グレる、転校する、引っ越す、留学する……いろいろだ。
だが、どれにも共通しているのは「確実に人生が狂った」という厳然たる事実だ。
もし「いじめ」なんかがなければ、「その子」の人生が外的要因によって狂うことはほとんど無かったはずだ。
自分の命に対する自衛手段として、上記のどの手段をとったとしても、その子の人生はその時点を以てルナティック・モードにとつぜんモードチェンジする。
不登校にしろ引きこもりにしろ、その延長線上にあるのは学校の中退であり、すなわち人生の落伍である。「学校を辞めたくらいで『人生\(^o^)/オワタ』だなんてとんでもない!」とおっしゃるかたもいるだろう。じゃあ逆に言ってやる。あなたも、今の仕事なり学校なりを今すぐ辞めてみろ。転職のあても、転校のあてもなく、たったひとり殺伐とした世界に取り残されたとして、「よーし! 人生これからだぜ!」と思えるというのか。ただでさえどん詰まりの袋小路に迷い込んだこの現代日本で、大卒の就職率が5割だとか6割だとか言われている時代に、無職の高校(中学)中退者が「普通の人生を普通に生きる」ことができるというのか? 立場を変えて発言しよう。僕が中小企業の採用担当だったのなら、昼食無職職歴なしの人間なんか、なにがどうあっても採用したくない。感情論なんかじゃない、ごく合理的な数理的な判断だ。
転校だって引越しだって、かなりハードルの高い「逃走手段」である。というのも、なによりもまず、家族の協力が必要不可欠だから。
親御さんだって、もしかしたら仕事を辞めざるを得ないかもしれないし、お金の問題だってある。少なくとも「普通の人生を普通に生きていたら」かかる必要のなかった負担を負わなくてはならない。要するに、この時点で「いじめ」というのは「いじめっ子」と「いじめられっ子」の問題ではなくなるのである。ちょっとした「ムカつき」や「面白半分」が、一人、ないし数人、いや、ともすればもっと大規模な人間の「普通の人生」を狂わせるのだ。これが「いじめ」が「普通の犯罪」なんかよりも数段質の悪い点だ。「窃盗」であれば、早い話盗まれたお金が戻ってきて、犯人が警察に検挙されればひとまずは解決する。「器物損壊」だって、家裁か何かで妥当な損害賠償が請求されればそれ以上の発展はない。被害者にとってはたまったものではないが、少なくともそれ以降は「普通の人生」を送ることは可能だ。だが、「いじめ」に関しては――はっきり言ってしまうが――いかなる手段をもってしても、すでに起こってしまった「いじめ」を、それが発生するより前の状態に復元するのは不可能だ。いや、これについては語弊がある。「いかなる外部からの干渉をもってしても」いじめの根本的な問題は解決などしないのである。教師がいじめっ子に謝罪をさせたり、クラス替えをしたり、退学や停学処分をしたとしても、「いじめっ子」が「いじめ」たという事実は消えやしないし、「いじめられた子」が「いじめられた」という事実だけは覆しのしようがないし、取り返しも、補填も、まったくできやしないのだ。
「いじめた側が、本気で反省して、その後の人生のすべてをかけていじめた子が『普通の人生を普通に生きられる』ように全力で奉仕する」
より陰湿化が進む現代のいじめにおいてこんな奇跡みたいなことが果たして起こるのかどうか、僕は知らん。多分、99%の確率で起こらないだろう。
世の中の90%のいじめは、「なんとなく」「特に理由なく」「おざなりに」して、審判のホイッスルなくして「終わったっぽい」感じで終わる。
理由は分からない。とりあえず、台風が温帯低気圧になって北海道の上の方に消えて行くように、いつの間にかなくなってたりする。
残りの9%は「いじめられた子」の自殺なり「逃走」によって終わる。なんとも救いのない話である。
もしあなたがいじめられていることに対して何か負い目を感じているのであれば、とりあえずそれは忘れてください。
自分がいじめられることに対して、「仕方ない」だとか決して思わないでください。
あなたも生きている人間ですから、人間関係について至らない点、至らなかった点だっていくつかあるでしょう。
ですが、はっきり言いますが、そんなことで、地球上の誰一人だってあなたをいじめていい理由なんかにはならない。
あなたが、あなたの人格や過去の行動、家庭環境や趣味嗜好、思想信条によって、いじめれていい理由など、これっぽっちも、ありません。
そして何より、あなたは、「普通の人生を普通に生きる」権利を持っています。
そりゃあ、誰もがオリンピックに出たり、アイドルになったり、東大に入ったりはできないのも事実です。
ですが、本当はそんなことはどうだっていいんですよ。
あなたは、学校帰りに友達とマックに行ってダベっていいし、家に集まってモンハンをみんなでやっていい。
絵を描いて褒められていいし、ご飯が美味しいと感じていい。かわいい女の子を、かっこいい男の子を好きになっていいし、告白して振られて泣いたっていい。
好きなアニメを見て、好きな本を読んで、好きな場所へ行って、眠くなったら寝て、眠くなくなったら起きて、生きて、生きていいんです。
普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供ができて、普通に生きて、普通に生きて、普通に死んでいいんです。
もし普通が嫌なら、人一倍頑張って、自分が特別だと思える人生を手にいいれればいい。
ですが、それ以前に、あなたは、およそこの国の人間が「普通だ」と感じているあらゆることを手にする権利を持っています。
だから、あなたは自分を責める必要などまったくない。あなたは何も悪くない。もっと言えば、あなたをいじめた人間すら、悪くないのかもしれない。
僕には起こってしまった「いじめ」を解決する魔法のような手段はしらないし、これから起こるであろう「いじめ」を未然に防ぐ奇跡のような手段も知らない。
だけど、あなたが、「いじめられて損なわれた」からといってあなたが「普通に幸せと感じられるような人生」を生きる権利を失ってしまったわけではありません。
だから、自分勝手なことを言えば、本当はあなたは「逃げて、逃げる」必要なんてないんだ。表面上は「戦略的撤退」をする必要があるかもしれないとしても、
あなたの人生が「嵐のような不運」によって損なわれ、汚され、失われる必要などない。
それどころか、あなたは、その「普通の人生を普通に生きる権利」を人一倍、もっともっと今まで以上に傲慢に、尊大に主張していいんですよ。
「いじめられた」ことを理由に、あなたが自ら自分の可能性を閉じてしまう必要なありません。
もっと自分勝手に、生きればいい。でも、引きこもってもいいことは「何も」ないので、何かしらのキッカケで外にでるといいと思うよ。
そんでいまいじめてるお前。
まー今のお前なんかには分からないだろうけど、お前のやってることはおよそ人間がなす行動のうち、もっとも悪辣で、非道で、無意味なことだからな。しかし人間ってのは残酷だよな。自分の利益にならないことでも、何かのキッカケさえあれば、人を嬉々として苦しめることができるんだからな。俺はお前のことなんか知らないし、お前の生い立ちや人生観なんか知らない。お前が何かお前の中で正当な理由をもって「それ(とあえて言う)」をやってるとしても、それも知らん。だが、結果としてお前はお前と同じ、一人の人間の「普通の人生を普通に生きる権利」を「奪いかけて」いるということを考えろ。今日お前が美味しいと感じた夕食、今日お前が面白いと感じたテレビ番組、今日お前が楽しいと感じた帰り道。その子のそれら全部を、他ならぬお前が奪おうとしているっていうことを考えてみろ。俺はお前なんかに同情しない。お前の中にどんな理由があるにせよ、それはお前が「それ」をやる理由にはなりえない。なんの妥当性もないし、なんの解決手段にもならない。だからといって、お前が考えてること、感じていることがまったくの間違いであるとも言えない。だが、「それ」と「これ」とは別問題だ。お前の中でいかなる繋がりを持っていたとしても、それは、本質的なところで無関係だ。だから、やめとけ。お前がそいつのことを嫌いならそれはそれでいい。だったら関わるな。何もするな。意識を別のところに集中させろ。暇だったら黙ってオナニーでもして寝ろ。そんで、もしお前がかつていじめられっ子だったのなら、なおさら、やめろ。お前にも色々な事情があるのか知らないが、それはもう忘れろ。許さなくて良い。ただ、忘れろ。それ以外は何もするな。そんで、自分の好きなことだけ考えてろ。好きな本だけ読め。好きな音楽だけ聞け。好きな場所にだけ行け。好きなやつとだけ絡め。だから、決して「それ」を生きるモチベーションなんかにするな。そんな人生、悲しすぎる。
どうか気負わないでください。それを自分のせいだと思わないでください。
自分を無力だと嘆かないでください。自分を卑怯者だと罵らないでください。
何か特別なことをする必要なんかないんです。ただ、黙って、普通に、普通に接してあげてください。
いじめられている子が何より苛まれているのが、「ひとりぼっち」という孤独感です。
どんな暴力や陵辱よりも、「ひとりぼっち」というのは辛いです。
誰も味方がいない、誰も自分のことを助けてくれない、そういう状況こそ、危険です。
過剰なことなど何も必要ありません。ただ、声をかけてあげてください。
人の目が気になるのであれば、メールでも、なんでもいいです。
とにかく、その子を孤独にさせないでください。その子が、そこにいていいことを、示してあげてください。
コンセプト上できないという話と、現状できないという話は別物だし、じゃぁ、グレーだからやっていいか?といわれると、親からの要望みたいな話で持っていかれることもある。
ほとんどの自治体の青少年育成条例では18歳未満の人間が18歳未満の人間とセックスしても罰しないことになってる
http://paro2day.blog122.fc2.com/blog-entry-77.html
相手が13歳未満だったら強姦罪で捕まえることもできるけど、13歳以上ならどうあがいても無理
http://q.hatena.ne.jp/1122713044
一応、今でも不純異性交遊という名目をつければ家裁に送ることはできるけど、家庭裁判所は不純異性行為に対して審判しないという決定をくだした
それ以来、警察は不純異性交遊に関しては及び腰になってるし、それに関しては送致しないという決定を下している
ここまで来てるのにコンセプト上は可能と主張するのは無理があるだろw
小学校の時、いい子であるために、テストで良い点を取ることが最大の目標だった。先生から好かれるために、いつも手を挙げていたりもした。クラスの悪役をこらしめて、ヒーロー気取りだった。誰からも嫌われたくなかった。皆から、いい子だと思われたかった。
でも中学に入って状況が変わった。目と鼻の先にある学校には毎日遅刻してたし、弱い者いじめに加わった事もあった。それまでの立ち位置とは真逆。周囲のせいにはしたくないが、いわゆる悪い友達と付き合ってたりした。
そうしてついには警察にお世話になった。ぎりぎり補導だった。あと1ヶ月遅かったら家裁送りだった。そのとき、母親に泣かれた。俺は見てないけど、父親に言われた。
父親からその事を伝えられながら殴られたとき、初めて自分の愚かさに気付いた。何してんだよ、俺って。これほどにも無いくらい情けなかった。殴られた頬の痛みより、母を泣かせてしまった辛さの方が身に染みた。未だにあの時の事は鮮明に覚えている。たぶんこの先も一生忘れられないだろう。
それ以来、また変化が起きた。幽霊部員だった部活に行き始めた。それまで遊んでいた友達とも付き合わなくなった。勉強も必死にやった。高校受験では、地元ではそこそこ頭の良い学校に入ることが出来た。
高校に入ってから、中だるみ期間もあったことにはあったが、大学受験では最終的には第一志望に合格した。部活もやってないのに、他の奴らに勉強では負けたくないという思いが強かったんだと思う。この時も必死に勉強した。
高校受験と大学受験。この二つの成功体験が今の性格を形作っている気がする。紆余曲折はあるが、実直に、勤勉に励めれば必ず願いは叶う。手は抜いちゃダメだ。諦めるな。報われる時が来る。
そう心の底では思ってる。
自転車で京都から千葉まで帰った時もそう。諦めるな。あと一歩だ。もう一歩先に進めば、って。
でもこの考え方って正しいのか。もちろん誠実に努力をすることは大切。公平公正に、正義感を持って取り組めばいつかは報われる。そう考える時も必要だろう。
しかし、僕は完璧を求めすぎている。「成功したいな、上手くいくといいな」が、「成功しなければ、上手くやらなくては」にいつのまにか変わっている。これは新社会人にとって危険である。失敗にこそ、成長のヒントがあり、次に進むバネになるんじゃないか。
高校受験も、大学受験も、自転車も、必ずゴールがあった。しかし社会人にゴールはない。僕はいままで自分でゴールを設定し過ぎた、そして上手く行きすぎた。
自分が出来るギリギリの目標設定に甘えてたのかも知れない。失敗を知ることを恐れていては、自分の能力以上のことはきっと出来ない。
「預金者死亡時に、預金の存在が気付かれにくい」というデメリットがあるらしい。
通常の銀行であれば、「通帳」という紙媒体があるので、気付かれやすいのだが、
今はまだ問題が表面化していないが、数十年後には、
ネット銀行で膨大な量の「休眠口座」が発生するんだろうなあ・・・
★家庭裁判所の相続相談件数は18万件で、全死亡者の15%にも達するらしい。
で、家裁にまで「もつれ込む」のは相当にトラブルがこじれた場合なので、
「些細な相続トラブルまで含めれば、相続トラブルはもっと多い」との見方もある。
★例えば、兄が「隠されていた通帳を見つけた!」と喜んで報告すると、
弟は正直に喜ばず、「実はもう1通通帳があって、それも兄は見つけたが
その事実隠してるんじゃないか?」と疑心暗鬼になることがママあるらしい。
「相続の発生額=50兆円」らしい。
日本の死亡者数が約100万人だから、1人当たり平均5,000万円である。
もし法定相続範囲を直系卑属に限定し、又直系卑属不存在な相続が全体の
20%程度あると仮定すると、
「法定相続範囲の変更で、10兆円を国庫帰属させることが出来る」ことになる。
争族財産の総額は、18万件×5,000万円=9兆円
9兆円もの金額が、最終相続者を決定できずに宙ぶらりんになっていることになる。
仮に「争族の場合、最終相続者決定に、通常相続より1年余分にかかる」
仮に金利1%と仮定したら、9兆円×1%=900億円だ。
「カネは天下の周りモノ」の観点で言えば、9兆円を死蔵させることで、
毎年900億円は社会的に損していることになる。
又、争族に費やすコストもバカにできない。
家庭裁判所裁判官や弁護士、そして当事者が、争族のために人件費やら交通費やらを掛けることになる。
仮に1件当たり総当事者の総コストが50万円掛かっている、と仮定したら、
18万件×50万円=900億円/年、ロスしている。
金利900億円+人件費等900億円=1,800億円、損していることになる。
この「争族」を避ける社会整備を進めれば、社会的メリットは大きい。
実際問題、やつらはそんなに無茶はしないよ。
そう、実際はどうあれ、本当に訴訟だ何だはしないんです。(家裁に行きかけたケースは過去あったらしいけど委細は知らない)
ただ、そういう知識っぽいものを高圧的にちらつかせてしつこくしつこく、窓口の若い子やおばちゃんをいじめ倒す。
とりあえずは客だから、訴訟なんかになるわけないと思っていても邪険には扱えない。もっと他にしなきゃいけない仕事があるのに時間だけがこそげ取られていく。
近くを通る他の客は不審げに見て行くし、上席の者が出てきても簡単にはひっこまない。邪険にしようものならそれをネタにしてやるぞ、という姿勢がアリアリで、とにかく追っ払うのに時間がかかる。結果おばちゃんは無駄に疲れ果てるし、若い子は不必要に落ち込んでしまう。
まぁ最終的にはその人個人の人格や性格の問題なんだけど、これをやっているのが『弁護士』であるという現実にげんなりした、という愚痴でした。
【追記】
「差別」といったらこんなのも見つけた。書いたのは大学の先生みたいな人らしい。
「まともな施設もあるかもしれない」などと言っている余裕は、少なくとも僕はないと思う。そのくらい酷い。まともな職員がどれほど努力しても、多数の児童を24時間365日完全監視することは不可能であり、学校でのいじめが発見困難であるのと同様に(あるいはそれ以上に)、児童間虐待は防止できない。「養護施設は子どもの地獄」と表現する人もいる。そして、職員の中にも不埒者が混ざっていて事前に完全にチェックすることができないとすれば、この問題は決して防ぐことはできない。これは職員のモラルに起因するというよりも、「施設」というものが持つ構造的な問題である。
もちろん、一時滞在施設として必要な場面はどうしてもあり、廃止すべきだとは言わない。しかし、里親とつなぐことを前提にした「一時的なもの」として位置づけられるべきであるし、運用においても相当の改善が必要だ。
※ たとえば、何らかの事情で親と離れて暮らす子と措置されてきた虞犯少年・少女を、何の工夫もなくまぜこぜにしているというのは虐待を誘発しているも同然である。最低限分離すべきだし、虞犯少年・少女は虞犯にいたるだけの荒んだ状況があるはずなので、専門的なケアが必要である。現状では、そうした対応は驚くほど不足している。
「虞犯少年」(「犯罪少年」「触法少年」じゃなくて「将来法を犯す【かもしれない】少年」のことな)は普通なら家裁が児童自立支援施設に送致する、で、保護観察所の保護観察下に置かれる。21世紀の日本で「何らかの事情で親と離れて暮らす子と措置されてきた虞犯少年・少女を、何の工夫もなくまぜこぜにしている」施設の話なんざ聞いたこともない。もし具体的に「この施設がそういうことをやってる」と知っているなら、あらゆる手段を使ってガキどもを人権侵害から救うために世間に訴えろよ。そんな告発があったという話もついぞ聞かない(児童養護施設内の虐待の発覚や告発自体はうんざりするほどある)から、たぶん「児童自立支援施設(旧救護院)」と、事情があって保護者と暮らせない児童が行く「児童養護施設」を混同してるだけなんだろう。「児童養護施設にいたことのあるガキは虞犯少年少女かもしれない」と世間様に広く知っていただき、連中を店子にしたり雇ったり保証人になったりするときにはご用心を、「普通の家庭で健全に育った」坊ちゃん嬢ちゃんたちと「何の工夫もなくまぜこぜに」したらとんでもない悪さをする危険もあるから、交際や結婚させるのもお奨めできません。くれぐれもお気をつけて、と、注意を喚起したいわけだ。
それはやっぱり「差別」と言わねえか? ついでに「虞犯少年少女」だからってモンスター扱いしていいわけか?
里親側の言い草には反吐が出る。でも、それは俺が健全な家庭で普通に育てられなかった愛着障害児で被虐待児で潜在的虞犯少年だからだ、と連中はきっと言うんだろう。「良い子を育てる健全な家庭」なんざ使徒に踏み潰されちまえ
玻南ちゃんダメ?…名前受理されず、最高裁へ : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091101-OYT1T01018.htm
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20091103/1257210744
ブクマで盛り上がっていたので気になって調べてみたら、知らなかったことが色々と。ブクマでも一部書いたのですが、せっかくなのでこちらに書いておくことに。個人的には色々思うところはあり、id:good2ndさんの言いたいことも分かるものの、「ルールはルールだから教」という切り口では火に油を注ぐところもあると思ったので、事実関係を中心に(…と思っていたら、最後にぐだぐだ書いてしまった)。
子の名前に使用することのできるルールとして出発点になるのが戸籍法第50条で、これは以下の通り。
第五十条 子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
○2 常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。
この規定をうけて、使用できる漢字が限定的に列挙されているとのはご存じの通り。これを読むと、それ以外の漢字は人名に用いることは不可能であるように思われるし、実務上もそれ以外の漢字を用いても受理されません。したがって、このルールが例外のないルールのように読めるのですが、それがそうでもないらしい。
今回の事件は、最近多様な名前がつけられるようになってきて生じてきた問題なのかとおもいきや、以前からこの手の問題はあったということが分かります。ちらっと調べた限りでリーディングケースっぽかったのは、東京家裁昭和48年11月30日審判(家庭裁判月報26巻5号102頁)で、「悠」という命名が問題となった事件(なお、悠の字はのちに人名用漢字に追加、現在では常用漢字)。
若干長めに引用しますが、この審判では「家庭裁判所の判断によって表外漢字を名前に使うことが認められる余地がある」との判断を行い、結論としては悠の字の使用を認めています。
そもそも当用漢字表なるものは、これを定めた昭和二一年内閣告示三二号が、その「まえがき」に示すように、「今日の国民生活の上で、漢字の制限があまり無理がなく行なわれることをめやすとして選んだもの」であつて、現代国語を平易に書きあらわすための基準を示すものであり、人名用漢字別表も同様の趣旨で当用漢字表に追加されたものである。もとより戸籍法五〇条によつて委任された同法施行規則六〇条が、子の名に用いるべき漢字を当用漢字および人名用漢字に制限したのは、わが国の国語政策に即応した妥当な処置であつて、戸籍事務担当者の裁量によつては表外漢字を子の名に用いた出生届の受理を認めないものとする実務の取扱いも正当である。しかしながら当用漢字表制定の趣旨は前示のとおりであり、表外漢字を一切使用禁止とするような強力なものではないし、戸籍法五〇条の趣旨も、同法が戸籍事件について市町村長の処分につき家庭裁判所に不服の申立をすることを認めていることからみて、個々の場合に、家庭裁判所の判断により、表外漢字を子の名に用いた出生届の受理をも、実情に即して認容する余地を残したものと解するのが相当である。現に、実務においては襲名等による名の変更許可の場合は、表外漢字の使用が認められる取扱いである(昭和二四年一一月一五日民事甲第二六六六号回答)。
そして、より最近では「琉」の字が問題となった、那覇家裁平成9年11月18日審判(家庭裁判月報50巻3号46頁)があり、ここでも上記の判断が踏襲され、
という判断の下に、琉の字の使用を認める判断がされています(なお、琉の字も現在では人名に用いることができる)。
というわけで、子の名に用いることのできる漢字のルールは、基本的には戸籍法第50条のルールでなのですが、それ以外の漢字を用いる余地が全くないわけではない。家庭裁判所の判断で認められる場合もあり、それで認められた例もある。そして、今回の件では、家庭裁判所で認められなかったので、高裁、最高裁の判断を求めた、という話です。ようするに「使える漢字が限定列挙されているので、例外など認められる余地がなさそうに見えるが、必ずしもそうではない」というのが一点目。
ブコメで問題視する人が多かったのは、親のエゴで無戸籍という重大な不利益を来していることをどう考えるのか?という点。id:good2ndさんはそりゃ親のせいではないだろう、というご意見。この点は、子の命名権を、どのように法的に構成するか(親の権利と考えるか、子の権利を代理しているものと考えるか)など、いろいろあると思うものの、以上の家裁の審判例をみていて気づいたこととして、<いずれの事件でも出生届自体は提出されている>という点は、事実としてあるようです。
「悠」の字に関する事件では、
申立人は、やむなく「名未定」として出生届出をしたが、「悠」という字は、「悠遠」、「悠長」、「悠然」、「悠々自適」等、日常的な単語に多く用いられ、読み方も一般的なものであつて、人名にこの文字を用いることは、生活能率および個人の幸福に何ら支障はない筈であり、同区長の不受理処分は不当である。
という記載が判断中にあり、また「琉」の字に関する事件でも、名前未定として出生届が提出され、戸籍の記載がなされた旨の記述があります。さらに、氏名欄の名の部分を空欄として住民票が作成されていたものの、海外渡航の必要が生じて旅券の申請をしたところ、受理されないという事態が生じていたことが、問題となった理由の一つであったらしい。
実務上も、子の名の欄は空白でも受理するという取り扱いであることは、各自治体の戸籍担当のウェブサイトなどでも確認できます。一般的には、子の名前をまだ考え中であるという場合が多いのでしょう。今回の件では、どういう経緯で無戸籍のままになってしまったかは短い新聞記事からは分からないのですが(「しようこ」のような事例もあるので、現場は想像つきません)、法的に争っている間に、一方的に不利益を被ることを避ける方法は、一応ある模様。
事実関係を中心に、と書いたものの最後に少しだけ。id:good2ndさんの矛先は「子が無戸籍状態になってしまっているのを「親の我侭のせい」というその発想」に向かっていますが、より広く言えば「なんかめんどくさい親!」という感覚の意見に向けられたものなのでしょう。
id:Gakkuri-Kanabun_09 裁判・制度変更等様々なコストとかけてまで変える価値は無いと考える人間が結構いるんだろ。お上ではなく我々の社会が譲歩するという意識があるのかも。クラス会で変な提案する奴うざいみたいな?
的な。
そもそも名前に用いることのできる字が制限されているのは、名前は社会で用いるものである点に由来する(戸籍実務においては、一般人には想像つかないほど色々めんどくさいことがあるのは承知しています)ということのようですが、他方で名前というものは(漢字は表意文字なので、その表記も含めて)、個人のアイデンティティの中核的な構成要素の一つであるということも言えるように思います。
ブクマでもありましたが、そう考えると、
という考え方は当然あり得ると思いますし、(書いていたら当初の想定より遙かに長くなってしまったので引用しませんが)「琉」の字に関する事件では、憲法上の問題としていくつかの主張が整然となされています(憲法上の主張はすべて退けられ、「琉」の字の問題として認容されましたが)。
私自身にはこの件について思い入れがあるわけではなく、子の名前はおよそ何も考えることなく、用いることのできる範囲から選んで名前をつけてしまうと思うのですが、
id:hit-and-run なんでここまでして「玻」にこだわるか他人には理解できない。でも他人には理解できないからってそれを求める自由がないなんてことがあるか!
というコメントが批判するように、「制限を緩和すると自分や社会に問題が生じるから」というのではなく、既存の枠組みに対して自分には価値のないことを主張すること自体を門前払いの対象とするようなコメントが多かったことには、驚き、若干の危惧を覚えました。「悠」や「琉」が認容されるに至った判断で考慮されていた事情をみると、今回の「玻」は微妙なところな感じもしますし、制度論としては、ただちに、「自由に名前をつけるという人格的利益は重要だから制限をすべて撤廃しよう!」という話にはならないと思いますが、そうした考慮とは次元がかなり違うようでしたので。
また、
id:buyobuyo No!といってくれるこういう人がいなければ悪法や悪慣習や悪環境がそのままになるのがこの国なんだよ。こういう人の努力にフリーライドしているくせに、こういう人を叩く奴は…
という指摘のように、声を上げることはみんなのためになっている、という点もあるのだと思います。こういう人がいなければそのままになるのは、この国に限ったことではなく、そういう風にできているのではないかと。特に名前に「悠」の字がついている人などは、そのあたりのことをどう考えるでしょうか。
「この名前は変えてよし」という改名許可リストがあるっつーより、その名前を変えなきゃいけないほどの大きな事情があることの方が大きいかな?
判例集で見て覚えてるのは、「オオナラ」さんと「サカナヤ」さんあたり。
「大楢」って字だったと思うんだけど、読み方によって「オナラ」みたいだってことで。
とりたてて珍名ってほどじゃないけど、ご本人が過去にからかわれて大変に苦労されてきたとか代理人弁護士が優秀だったとか個別的特殊事情が大きいんじゃないかと思う。
「肴屋」さんは、ご本人の仕事もサカナ関係で、本名を名乗ってるのに信用されない・子供がいじめられてる等不利益がデカイってことで。
本人の仕事がサカナ関係じゃなかったら認められづらかったと思う。
肉屋だったら、それはそれで認められたかもだけど、これもやはり背景事情が大きく影響してるってことで。
どちらも一応珍名事例ってことになってるけど、背景にある実生活への不利益が色濃く反映されてる。
簡裁地裁の過払い返還訴訟なんかはテンプレで機械的に大量処理するスピード勝負だけど、
氏の変更とか扱う家事審判はあまりテンプレ使わずけっこう具体的に真面目に考えてくれるようなんです。
この種の具体例は一見バカみたいなのが多くて笑っちゃいそうになるんだけど、
わざわざ家裁に申し立てるほどにご本人が苦労されてきたことを思うと、軽々しく扱うのは、、、ね。