不在通知の代わりに入っていたのは郵便局のロゴが入った白と赤の封筒だった。
本人限定受取郵便と仰々しいモノにしては何も変哲もない紙封筒だったけど、玄関先の明かりに翳してみて思わず声が漏れたのは、自分の名前と住所が手書きで書いてあったからだと思う。
ダイレクトメール、年賀状、最近では結婚式の招待状。大人になってから気づいたらポストに入っているLINEでは届かない便りに時々目を向けるようになった。葉書の、真ん中を大きく占める写真に押し出されるようにしてちょこっと書いてある直筆の挨拶にふと目を細めて書いた相手を思い出す瞬間が好きだったから。
だが、自分の名前が直筆で書いてあるのは意外と少ない。めっきり減った私の年賀状は、新年の挨拶の方は書いてあっても表はプリンタだった。それでいいのかもしれない。名前を書き間違えるのに比べれば。名前はシンプルな人の方がよほど少ない。旧体字の細かい差分は自分の名前だからこそよく分かると自己体験が告げるのだ。筆不精な人には泣かせる字だろう。それでも何となく期待していつもちらっと宛先を確認しては、あ、ヤマトのB2ラベルだと送り状の形から入ってぶり返す運送業宿命の仕事熱に落ち込むのだった。
そっけない止めはねにどきどきした。
こんなに気持ちが昂ぶるのは久しぶりだ。
祖母が死期を悟って、遺言ともつかぬ自分も忘れていた小学校の頃の思い出を送ってきてギョッとしてしまったのはまだ、記憶に新しい。手紙の宛先に書かれた自分の名前は家裁の調停委員をしていた往年の祖母を思わせる、堂々とした字だった。赤ペン先生を続けるうちに次第に丸みを帯びていった母の字で書かれた住所とのちぐはぐさに失笑したのを覚えている。祖母は多分、もう自分の名前しか思い出せなかったのだろう。
祖母の手紙の裏側に、古き良き青き時代にもらった手紙も入っていた。まだ、捨ててなかったのか……苗字が微妙に間違っていることに気づいた。あの頃はコレが許せなかったと今更思い出した。あの時の狭量さを今でも引きずっていることに気づいて、思わず顔が引きつる。
もう一度、郵便局の封筒を見返した。どっちかというと収まりが悪い頭でっかちの苗字を窮屈に納めたような名前からは、書き慣れてなさそうな緊張感が伝わってきた。縦書きだから漢数字と教わってきた身としては妙に印象に残る半角数字。しかし、伸び伸びと書いたのだろう、住所の番地は6と9が寄り添うように背中を丸めているようで可愛いらしかった。
封筒の表裏を為つ眇めつ眺めて、ファイル棚を探すだけで1時間が過ぎていた。ペーパーナイフはどこにしまっていたかな。また探し物が始まった。
文章へったやな〜!