小学校の時、いい子であるために、テストで良い点を取ることが最大の目標だった。先生から好かれるために、いつも手を挙げていたりもした。クラスの悪役をこらしめて、ヒーロー気取りだった。誰からも嫌われたくなかった。皆から、いい子だと思われたかった。
でも中学に入って状況が変わった。目と鼻の先にある学校には毎日遅刻してたし、弱い者いじめに加わった事もあった。それまでの立ち位置とは真逆。周囲のせいにはしたくないが、いわゆる悪い友達と付き合ってたりした。
そうしてついには警察にお世話になった。ぎりぎり補導だった。あと1ヶ月遅かったら家裁送りだった。そのとき、母親に泣かれた。俺は見てないけど、父親に言われた。
父親からその事を伝えられながら殴られたとき、初めて自分の愚かさに気付いた。何してんだよ、俺って。これほどにも無いくらい情けなかった。殴られた頬の痛みより、母を泣かせてしまった辛さの方が身に染みた。未だにあの時の事は鮮明に覚えている。たぶんこの先も一生忘れられないだろう。
それ以来、また変化が起きた。幽霊部員だった部活に行き始めた。それまで遊んでいた友達とも付き合わなくなった。勉強も必死にやった。高校受験では、地元ではそこそこ頭の良い学校に入ることが出来た。
高校に入ってから、中だるみ期間もあったことにはあったが、大学受験では最終的には第一志望に合格した。部活もやってないのに、他の奴らに勉強では負けたくないという思いが強かったんだと思う。この時も必死に勉強した。
高校受験と大学受験。この二つの成功体験が今の性格を形作っている気がする。紆余曲折はあるが、実直に、勤勉に励めれば必ず願いは叶う。手は抜いちゃダメだ。諦めるな。報われる時が来る。
そう心の底では思ってる。
自転車で京都から千葉まで帰った時もそう。諦めるな。あと一歩だ。もう一歩先に進めば、って。
でもこの考え方って正しいのか。もちろん誠実に努力をすることは大切。公平公正に、正義感を持って取り組めばいつかは報われる。そう考える時も必要だろう。
しかし、僕は完璧を求めすぎている。「成功したいな、上手くいくといいな」が、「成功しなければ、上手くやらなくては」にいつのまにか変わっている。これは新社会人にとって危険である。失敗にこそ、成長のヒントがあり、次に進むバネになるんじゃないか。
高校受験も、大学受験も、自転車も、必ずゴールがあった。しかし社会人にゴールはない。僕はいままで自分でゴールを設定し過ぎた、そして上手く行きすぎた。
自分が出来るギリギリの目標設定に甘えてたのかも知れない。失敗を知ることを恐れていては、自分の能力以上のことはきっと出来ない。
これからは頑張って結果を出しても評価されなかったり、自分よりも能力が低い上に何も頑張ってない奴がすげー評価されたりして、怒りや嫉妬や憎悪なんかの醜い感情が胸の内で渦巻...
運命はいつか必ず応えてくれるぜ。 世の中に「必ず」って言葉はないんだぜ。 ナポレオンと冬将軍、ナチスドイツもまた同様なり。