はてなキーワード: 固有名とは
プロの方からのご意見はうれしく。ただ、誤解されていると思うんですけど、
とりあえず鵜呑みにするかどうかはおいといて、自分より知っている立場の人が言っていた事として謙虚に受け止めるしか無いんじゃないの。
そのとおりで。ただ、質問状への解答見る限り、お気持ち表明以外についてはゲンロン側も真摯に受け止めてるんじゃないかと。
あと、別に業界人に資料出せとは言っとらんのです。無理だし。そういうのの発掘とか纏めやんなきゃいけないのは電ファミらゲームライター側であって。多分そのへん誤解されてるんだと思いますけど。
この件については電ファミ仕事雑すぎ!って意見です。あとゲンロンそんな間違ってるっけ?っていう。現状見れる資料を基に批評するのって、そんなに変?
あとは恒例のついでのぶら下げ。
上にも書いたんですけど、みなさん基本ゲンロンの人が間違ってるのが前提みたいに言ってて。
そんなに事実誤認ってありましたっけ?と思って、最初の10個の質問だけでも書き出してみました。
(1)
・全体的にマスであるコンシューマ史中心で語られているという宣言がないため、あるいは以後もアーケード、PC、コンシューマという出自の異なる歴史が混じりながら、主語としては「ゲーム」と区別なく語られているため、誤解や批判を招きがちです。
・まぁ、口頭でも話したけど、編集で損してるところは大きいですね。
お気持ちの表明なので、「今後の編集の参考とさせていただきます。」としか言えないやつ。まあここ電ファミも質問としては書いてないのではと思ってるんですけど。
ただ「あまりに雑過ぎる発言が≒事実誤認」ってのは、史観や編集方針の違いと事実誤認を混同してますよね。というかこれからそういうのいっぱいな感じで。
(2)
全体的にマスであるコンシューマ史中心で語られているという宣言がないため、あるいは以後もアーケード、PC、コンシューマという出自の異なる歴史が混じりながら、主語としては「ゲーム」と区別なく語られているため、誤解や批判を招きがちです。
まあ、ここは不用意だし、ちゃんと書いとけよとは思う。コンシューマしか念頭になかったんだろうね。「日本のゲーム消費環境を作りあげた条件をあきらかにする目的で議論をしたい」ということを書くなら数字があってもいいかなと思うんだけど、論旨を明確にするなら許される省略でもあると思う。
(3)
今更なのでしょうが、やはり議論は91年ではなく85年あたりから始めてファミコンやマリオドラクエ、そしてゲームボーイについてもう少し言及しておくべきだったのではないでしょうか。
お気持ち表明 No.2。つーか最初に「事前の相談で九一年をスタートにしようということになったのですが、まずは井上さん、なぜこの年なのか語ってもらえますか。」からつらつらと理由が書いてるじゃん!
マリオとか書いとけってのもわかるけど、それはオタク特有の「アレが書いてない!」って奴じゃん!俺もよくやるけどやめとけ!
あと、ホームコンピュータと家庭用ゲームを混同しとはいえ、ちゃんとプレファミコン世代にも冒頭で触れているし、マリオとかドラクエからの語りよりきちんとしてるとは思うんですけど。
(4)
・具体的な数字が欲しいです。
「家庭用ゲームなるものを」と書いたのは「日本のゲーム消費環境を作りあげた条件をあきらかにする目的」で議論してるからで、家庭でのゲームの需要のされ方に観点を置いた上での発言なんだろうけど、不用意ではあるよね。これは必要な訂正もされている。
ただ、欧州(北欧?)でコモドール爆売れしてたのは近年になって割と有名になったと思うし、数字に突っ込む必要あったかなと。結果、海外研究者に照会した結果に基づいた発言だったわけだし、電ファミの人も勉強になりましたぐらい言ってほしい項目。
あと、これはファミコンが普通に売られてた国の人の感覚での質問だと思うけど、ファミコンのない国でホームコンピュータがどのような受容のされかただったか、という点については、すこし電ファミ側配慮が足りんのでは?と思う。ゲーム機扱いだったかもしれんじゃないですか。わからんけど。
(5)
固有名が欲しいです。
これはまあいいツッコミで、実際蓋開けてみたら、それキャプテン的な奴じゃん!ってなった。訂正はしているけど、まあ事実誤認に等しいのではとは思う。ただここ論旨と関係ないので、そこまで大きな間違えでもないかな。
どうでもいいけど、これ書いてて Robotron 2084 遊びたくなったので、多分帰ったら酒飲みながらやる。ウィキペには書いてないんだけど、SNESにほかのウィリアム作品と一緒に移植されてるので、おすすめー。今なら結構安い。
(6)
アメリカとの対比ならば、アメリカでマーケティング調査のうえで受け入れられるものとして制作されたこと、日本よりも先行してアメリカで販売されたことへの言及がないため、グローバルを語ることの説得力に違和感を感じます
お気持ち表明 No.3。ソニック出すならって意味でこれを指摘したんだろうけど、まあ答えたくないよね。
「ご指摘のポイントが今ひとつ把握できませんでした。」と流したくなるキモチ、すっごい分かる。
これが良くないのは、まあ一般人ならわかると思うんだけど、そこじゃねえよ!ってとこで。
文脈としてゲームマーケットのグローバル化の過程での日本市場との「例外」の話としてちょろっとソニック出しただけで論旨と関係ないし、
そこのディティールをそういう風に詳細にする必要ないだろーと。まあ読めてないってバカにされるよそりゃ。
(7)
直前にアーケードに触れていますが、初期のゲームファンはアーケードファンでもあって、どっちも遊んでいるのが当たり前だったことが理解されていない。
実際、自分の周りはアーケード大好きのPC好きがほとんどで、それが高じてプロになる。(当時のコンピュータ友達のほとんどがソフト屋になって半分以上がゲーム屋になっている)
「アレが書いてない!」No.2!やめとけ!
「もともとゲームは日本よりも海外のほうがマーケットも大きく、また初期のゲームファンはApple II用などの海外製PCゲームを楽しんでいた。」という文に対して
「いや、アーケードも楽しんでたよ」ってまあ、そりゃそうですよね、ってなるけど。なるけど。
直前のアーケードの話は別の発言者の歴史の俯瞰の話であって、それを引いてくる必要もないだろ。
答えようがないし、発言者が何も書かなかったのは、まあ、相手にされなかったんだろう。
これを真摯な態度じゃないってのはさすがにヤクザだと思いますよ。
(8)
編集のしかたの問題だと思いますが、直前の『ソニック』の例、続いて語られているアーケードの『ストII』、そしておそらく91年のSNES発売などを「さらに舵を切った」の論拠として挙げていると思いますが、それには、『ストII』のくだり(後述)やSNESへの言及の薄さによって違和感を覚えます。また全体にかかる話ですが、海外≒グローバル≒北米という言葉の使われかたによって、欧州は? アジアは? という疑問が残ります。
お気持ち表明&「『ストII』のくだり(後述)」がそもそも間違ってるんで、質問者の誤認と思われる。
あと、よく知らんのですが、メガドラ/GenesisとSFC/SNESってアジア用のリージョンコードありましたっけ。帰ったら資料あさってみるけど。
(9)(10)
初耳です
各所で指摘されてるけど、誤認と思われる。http://news.denfaminicogamer.jp/interview/171212 読んだんだけど、これ製作が決まってからのバランス調整の話ではと思うんですけど。
──なるほど。『ストリートファイターII』(以下、『ストII』)の凄さは、あのタイミングでいまの格闘ゲームのフォーマットになるものが、完成形として登場した部分にありますね。それまでのアクションゲームの常識から、どうやって西谷さんは、『ストII』のような2D格闘ゲームの概念を生んだのでしょうか。
『ストII』には「初代の『ストリートファイター』【※】をどのように今風にするか」ということがテーマにありました。だからゲームの作りは『ファイナルファイト』で得た経験を含め、そこから構築していった感じはありますね。
ちょっと言いかたは悪いんですが、あのころのゲームって“ちゃんとしてない”ものも多かったじゃないですか(笑)。「まずはそこを精査しようよ」というところからスタートして、そのうえで「手触りのよさ」や「面白さとはなんなのか?」を突き詰めていったんです。
この騒動でゲンロンDISってるゲームヲタクちゃん、えらいヲタクの尻馬に乗ってマウンティングしたいだけで、元の文章とか質問状とか読めてないじゃねーのー?とか思いますよ。ホント。
そんな感じで。
横増田です。
遅くなったけど、返信をさせてもらう。
正直、「学者」は、哲学や科学(限界があることを含みつつ)という、ある種、とても強い共同幻想の中にいて、アイデンティティにクライシスが無いものだと思っていた。
嫉妬していたから、(無意識に)想像力を働かせなかったと言えるかもしれない。
よく考えれば、そんな一面的でないとわかりそうだが、途中で想像を放棄し、一部の学者のイメージを投影し、それで満足していたっぽい。
「学者」は「西洋人/西洋音楽」と言い換えてもいいかもしれない(向こう側にいる人/ある音楽)。
やっぱり、彼らにはアイデンティティがしっかり確立されていると、無意識に前提していた。
そんな単純でないと、バルトークの話を読んだ時、気づいても良さそうだったけど、気づかなかった。
見えなかった。指摘されたら、見えた。
それが大きな収穫だった。
どうも自己の拠り所をグラつかせる存在に出会うと、過去の偏った経験/イメージをベースに、簡単に攻撃的/懐疑的になって対立構造を作ってしまう。。。
反省する。
それと、
増田が言っていた、自己言及やメタ視点の扱いを恐れる態度。重要だと感じたんだけど、像を結ばなかった。
だから探索してみようと思う。
あと、
素人には通常アクセスできない情報群だったので、ありがたくストックさせてもらう。
これから少しずつ紐解く。
ちょっと雑だけど、返信失礼した!
けど、切り離された人格としてのはてなidの行動は、「ウォッチャー」ってのを振りかざして、煽って煽って、人の心を破壊してきたんだろ。
大勢から寄ってたかってボコボコにされている人間に、高みから石を投げて嗤ってたんだろ?
そんなの、許されるんか?
「ウォッチャー」って、そういうことだろ?
なんとか村の村長とか、深刻そうなフリをしてマウント取ることを悦んでるクマとか、大脳壊れたと罵声を浴びせる某企業役員とか、総会屋2.0とか。ねこらとか。
どうせこんな事書いても、無視するんだろうな。
何がウォッチャーだ。
何が「踊り子さんには手を触れない」だ。
お前らが、人混みの奥から投げた石は、ちゃんと相手にあたって、血は流れたんだよ。
お前らは「祭り」が終わればすっかり忘れるんだろうな。
けれど、傷を負った人間が、忘れられるわけ無いだろ。
ずっとずっと、引きずるんだよ。
「ウォッチャー」を免罪符にして、煽って煽って、「攻撃したのはボクじゃない」ってか。
舐めきってるな、人間を。
ネットで袋叩きにあってる人間は、お前らの単著や、講演活動の肥やしじゃねぇぞ。
フザケンナよ。
むしろ故人を英霊化して、テメェらウォッチャーの所業に、ネットいじめに、免罪符を与えんのか?
それこそ故人の冒涜だ。
18・19歳、自民に4割傾く 立憲民主は高齢層支持多く:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22561000S7A021C1EA2000/
日経の記事が話題になっていて思い出した選挙前のラジオですが、若者の保守化論に関して是非とも紹介したい内容なので途中からですが文字に起こしました。
https://youtu.be/l7_mlqvCB8s?t=15m11s
北田「安倍内閣の支持率が東大生で高いっていう記事が流れてきて、実際そうなんですけど。上がってるんですよ昔より。東大生は強いものに巻かれるんだなって左派的な人から批判があったんだけど、同時に他の大学と比べてみて一般的にどうかっていうと若者全般がそうである。どっかの調査でもありましたけど若者自身が保守化していると言えるのか、現状の閉塞感みたいなものに関して安倍さんの方を革新と見ている可能性がある」
宮崎「読売新聞に早稲田大学の研究所と一緒にやった世論調査があって、50代まで(50代以上の意)は共産党を革新だリベラルだと評価するんだけど50代を境にして(下の世代は)一転して保守的だと共産党を。じゃあ(下の世代にとって)一体何がリベラルかって言うと維新が1番リベラル」
北田「そうなんですよー」
宮崎「維新のイメージって50代を境にして(50代以上からは)保守だと見なされてしまうと。これが典型的に表れているようにリベラルと保守っていう言い方っていうのが世代で違っている。特に50代を境にして全然違っているということになるんですね」
北田「50代までは恐らく冷戦までは通用したような右左とかタカ派ハト派の論理で政党名と繋ぎ止めているんですけど、40代から怪しくなり始めてもう20代30代になると大きく変わってきてしまっている。この状況を踏まえないと従来型の左右というかリベラル、保守という分け方もそろそろ賞味期限というか少し組み替えないといけないんじゃないかと思うんですが、少なくとも左右の対立項が大きくイメージが変わってるのは確かなんですよね」
宮崎「うん」
北田「宮崎さんがおっしゃって頂いたやつは今の中央公論の最新号で高知大学の遠藤先生たちによる『世論調査にみる世代間断絶』っていうのがあるんですけど、今みたいなお話がでています。19歳から29歳は日本維新の会を1番リベラルだと思っていると。先行世代からはなかなか不思議な構図に見える。そのあとも面白い研究をされていて本来であれば社会学者がちゃんとやるべきことなんですが、安全保障、社会的平等、ジェンダーの質問項目を元にどういう軸が区別の指標になっているか因子分析っていう手法でやってるんですけど、そこに3つ出てて安全保障の軸、社会的価値観(女性の社会進出、差別)、第3に税金負担の軽減とか自国利益の強調とか経済的な側面というか自国のあり方のような・・・」
北田「この3つの軸を出されて研究されているんですが、これが綺麗に当てはまらないんですよね。民進党なら民進党とか自民党なら自民党とかパッケージに対応してなくて。経済とか社会的なところで凄く我々から見ればリベラルな態度をとっている若者が、安全保障では我々から見るとタカ派的なことを言っている。どちらも共通してたぶん現状を変えていくというような意識では一貫しているんだと思うんですね。これ分析する側が旧来型の軸に頼っているようではおそらく民意をつかめないのではないか」
宮崎「遠藤さんが取り上げているか分からないけれど、同じ調査の中で50代以下の人に政党イメージについて改革に積極的か消極的か問うているわけよ。1番改革に積極的だと評価されたのがなんと自民党。次が維新。あとの政党っていうのは改革に対して消極的であるという評価。つまり私より下の世代、50代より下の人たちが何に着目してリベラルと保守と言ってるかというと経済体制の改革っていうのが積極的かどうかが鍵になっていると思うのよ。それがなぜそうなるのかというと、20年も続いたデフレ。先輩たちが就職難で就職氷河期で喘いできたのを見てやっと自民党が変えてくれたという実感に根ざしたものではないかという気がするんですけどね。どうですか」
北田「間違いないと思います。民主党の岡田代表だった時代にリベラル懇話会という形で・・・」
北田「今でもです。勉強会みたいなものを何度かやらせて頂いたんですが、その時に簡単な世論調査をしても安保法制で盛り上がる前くらいから分析してても民意は明らかに経済を重視していて、政党支持率と経済政策の推進というのは関係が強いんですよね。一貫してそうなのに何で今ここでアベノミクスを超えるアベノミクスをやるって言わないの?っていう」
宮崎「アベノミクス内部で考えても消費増税はマイナスだったし2013年以降は第2の矢っていうのはちゃんとやってないわけ。GDP比で財政を考えても明らかに緊縮財政になってる。ここを突いてこんなんじゃ駄目だって言うのこそがリベラルだろって私はずーっと言っていて。リベラル懇話会の経済政策提言の中にもそのことが書かれているのに何でリベラルはこれを受け入れないの?」
北田「そこが本当に私も分からないというか。安倍政権のパッケージングとか安保法制とか・・・」
宮崎「そういうのを全部評価するとかまったくなくて、少なくとも第1の矢と第2の矢を評価して第3の矢に成長戦略ではなくて再分配政策をもっと多様化政策を持ってくるべきだ」
北田「アベノミクスを超える財政出動をするぞっていうような、金融緩和についてはあるジゲン(次元?)を設けて消費税についても上げるなんて問答無用な話でそういうジゲン(次元?)をつけて考えていく。再分配の仕方を再考していくっていうのがイギリスでいうとねコービンとか、ポデモスとか世界標準的な左派の普通になってるハズなんですよ」
宮崎「金の問題も重要なんだけどそれは単純に金の問題じゃなくて、そうやって人々の所得が増えていくことによって貧困率だって下がっていくし人間の生き方の多様性、可能性、ケイパビリティ・アプローチですよ。アマルティア・センが言う。それを増やしていくことがリベラルの理念に適っているんだっていう。何でコレが日本では通用しないの」
北田「それを私も聞きたいっていう。あまりにも安倍さんとの対抗軸を立てたいっていうのか強いのか、民進党のDNAの中に刻み込まれているのかどうか知りませんけど、少なくともやるべきことというのは緊縮の話ではないし、アベノミクス全批判ではないハズですよね。政治家だけだったら敵味方の論理で話が分からないでもないんですが、論壇とかに出てるような左派とかリベラルっていう人たちが経済っていう問題を軽く見ている感じというか、経済の問題をを考えなくても他の部分こそが大切なんだっていう。もちろん大切なんですけど、経済の問題が宮崎さんがおっしゃったように人々の可能性とか潜在能力みたいなものの平等を図っていく上で重要な要素であることは間違いない」
宮崎「あなたがね『現代ニッポン論壇事情』の緒言の部分で言ってることがさ、経世済民は思想にして卑しい事柄でも何でもなく自由権と社会権という基本的な人権に関わる重要な社会的行為なのだと。これは本当にリベラルと自認していらっしゃる政治家や言論人に拳拳服膺してもらいたい」
アナウンサー「リベラルの偉い学者さんとかそういう方々は武士は食わねど高楊枝じゃないですけど・・・」
宮崎「食えてるんですよ。あの世代の人たちは食えちゃってるんだよ。豊かさは限界だろうとかさ」
宮崎「そう江戸時代に戻れとかさ。ほんっとに無責任なこと方言するわけ」
北田「でも若い人は絶望してなくて経済指標がよくなったら嬉しいし雇用状況が良くなれば満足度があがっていっていて、それなりに彼らなりに合理的に見ているわけですよ。成熟してこんな成長いらないとか思ってるのは正直な話、若者じゃないんですよね」
北田「バブルでおいしい思いをしてバブルへの絶望みたいのが過度な形で出てるような気はしますけどね」
宮崎「それもあるでしょうね。でも彼らはバブルの受益者だったわけじゃん」
北田「そうそう受益者で、だからこそ割れた時の記憶が強烈なんでしょうけど、だけど、それを20年間散々下の世代が味わってきたわけだから逃げ切りは私は許されないと思います。それと団塊の中でも逃げ切れるの一部ですよ。だから社会保障の問題が重要になってきて財源論だって色んなところで議論が出てるわけ。逃げ切れる成熟しましょうなんていうことは正直申し訳ないけども呑気な話だと僕は思います」
北田「だーれも言ってない」
宮崎「でも2~3%のパイを増やす政策を取らなければだんだん縮小均衡になって1番割を食うのは若い世代。弱者。この人達ですよ」
北田「だから僕は成熟社会論というのは冷たい冷徹な思考だと思いますよ」
宮崎「でもこれがイギリスのギデンズが唱えた第3の道とかさ・・・」
宮崎「だから左派版、新自由主義でしょ。そういうのと一緒に上の世代の人たちの・・・固有名上げるなら民進党の前原さんの頭にね固着しちゃってるんだよ」
北田「前原さん聞いてるなら経済だけどうにか考え直して頂けないでしょうかっていう気持ちが。僕は枝野さんに心配していたんですが、枝野さんがこういうこと言うんだって。ブレイディみかこさんと松尾匡さんと対談している時にニュースが入ってきて、枝野さんがこんなこと言っている!って衝撃を受けて」
宮崎「賃金を上げるために赤字国債発行するとかさ、ここでは私は枝野支持です」
北田「僕もびっくりしましたよ。それが一番求められていることであり、簡単な思考で言うと経済を椅子の数が決まったゲームと考えずに成長していくことによって維持できるっていう、そういうシステムだってことを考えないと公正性とか格差の問題も広がっていくだけと思いますね。だからこれはリベラルというよりソーシャルと言った方がいいかもしれませんね。ヨーロッパ型のソーシャル」
宮崎「ソーシャルって話をすると、もう少し先の話。フォワード・ルッキングしないといけないと思うので言うと、井上智洋って知ってる?マクロ経済学者。汎用AIが開発されて簡単に言うと色んな産業分野に汎用AIと汎用ロボットが広がっていって失業がどんどん増えていくと。そのとき何が必要かというと、経済構造っていうのは消費の部分がなければ成り立たないでしょう。消費っていうものを担保するためには所得を与えないといけない。でも失業してしまったりどんどん賃金が下がっていけば当然消費も縮退していくわけ。それを補填するためにベーシックインカムは必要だと。汎用AIができるかは別にして産業部門で色々使われることによって人減らしがどんどん起こっていくということはほぼ間違いないですよ。その時にどう対処すべきかっていうことを、今この経済政策で、生物学の前適応じゃないけどもやってるような気がするの。今の長期停滞に対処するのならその政策の延長線上でその状況にも対処できる。その観点から言うと消費税って駄目だと思うんだけどな」
北田「だめだめだめだめだめだめ。少なくとも今は駄目で、経済を社会の中でどう位置づけるのかっていうのを考えないといけなくて。公正かどうかっていう比較分析は社会学は得意なんですけど、財源どこかとか国債どうする金融政策どうとかそこがないんですよね。不平等を見つけるのは上手いんだけど、それをどうやったら直せるかって言うと財政を均衡させるしかないって話になっちゃう」
海外の名前なんて完全に固有名じゃなくてパブリック名の組合せだから同姓同名が無数にいる。
けど日本は山田太郎みたいな名前にしない限りパブリックな名前にはならないから、DQNネームにしてしまうとこの世でこの苗字と名前はお前だけってことになる。
個人事業主として何かやり遂げるのであればその名前で良いのかもしれないが、一般人として生活なんて絶対に出来なくなるのでFacebookなんて即特定されて上長から同期までではなくて今までの人生で関与した人々からずっと監視されるような生活になるし。
それだけではなく悲惨なのは、この人の親はこんな名前付けちゃう可哀想な人なんだねと親までバカにされるから。
幼少時にテレビなんて出てみろ、ネットで死ぬまで保管されて幼少時はこんな奴だったと死ぬまでバカにされるんだぞ。
ちなみに自分はパブリックドメインのような名前なので大騒動になるような事件を起こさない限り検索されても消されそうな事案なのでほぼ無敵の人ですわ。
元増です。
なんか、思ったよりも多くブクマが付いたので、補足&言い訳を。
これはあくまでも、私が読んだ相撲マンガの比較であって、世の中に有るおもしろい相撲漫画を網羅して比較しているものというつもりはないです。冒頭にもそう書いていたつもりですが、タイトルにも入れておくべきだったかもしれません。Amazonのレビューを見ても、本の内容がおもしろいかどうかという以外に、本のタイトルと内容の不一致を理由に低評価が付けられる事がよくあって、タイトルと内容の一致は重要というのはよく知っていたつもりですが、どうせブクマあまりつかないだろうと適当なタイトルをつけたのは今思えば失敗でした。すみませんでした。(タイトルと内容の不一致に寄るレビューの不評の例としては、「酩酊すみれさん」 http://www.amazon.co.jp//dp/4785955767/ 参照のこと。ワカコ酒のような内容を期待したらそうじゃなかった的な☆1個のレビューが多数。)
「武装少女マキャベリズム」を推したいだけじゃないの?というのは、まぁ、そうですね。肯定です。ああ播磨灘を読んだ時に、冒頭から仮面を被って登場しているのをみて、これは鬼瓦と同じじゃないか?と思ったのがあれを書いたきっかけなので。相撲好きからしたら、ダシにされた利用されたような感覚があって不快かもしれません。もしそうなら、誤ります。Amazonのレビューでも、そういう理由で低評価にされて入りものが合ったはずですが、何だったか忘れました。
うっちゃれうっちゃれ五所瓦を推す人が多いですね。そんなにおもしろいのなら読んでみます。また、Amazonのレビューの話で恐縮ですが、(試し読みのしにくいネット経由で)おもしろい本を買うにはどういう基準で選ぶべきか考えていて、Amazonの評価が☆☆☆☆☆になっている本を調べて、片っ端から読んでみようとしたこともあったのですが、レビューの数が少ないと一人の評価の影響が大きすぎてあまり参考にならないんですよね。なので最近は、漫画の場合はレビューの「数」を参考にしています。レビューを書くのもある程度手間がかかるので、その手間を考えても何か書きたいと思わせるものは、例え評価が☆☆☆くらいであっても、おもしろい本なのだろうという考えで。ただ、この手法、古い漫画はわざわざレビューを描く人が少ないのであまり参考にはしにくいんですよね。なので、古めの漫画でおもしろいのものを薦めてくれるのはありがたいです。五所瓦、読んでみます。
【創作系譜論】同士いましたか。後で、見に行きます。私は、周期表をつくったメンデレーエフからインスピレーションを受けたのですが、固有名はつけてないですね。
漫画の要素として、描かれていることに注目するのは簡単なのですが、描かれていないこと、当然のことに注目するのはそう簡単では無いのです。その点、こういう表を作ると、相撲マンガの主人公には男が多いという当然のことに気がついたり、マワシの描き方に特に特徴は無いということに気がつけたりするのが、気付きが面白くてたまに表を作ってますね。で、おもしろい気付きを得るには、一部に異質なものを入れるのがコツで、相撲の表で言うなら武装少女が明らかに異質。でも、こういう異質なものを混ぜることで見えてくるものもある(場合もある)と考えています。なので、ダイレクトマーケティングの要素がないとは言わ無いですが、100%そのために入れているという訳でもないことはご承知おき頂きたく存じます。
追記:id:showgotch(技術教師)さんご本人から、元増田記事を書かれたのは別人であるというご連絡を頂きました。当初、誤った推定でこの記事を書いていたために、showgotchさんに不要なご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
なお、元増田記事が投稿された日、showgotchさんはお誕生会を開かれていたそうです。そして、せっかくのお誕生会から帰ってこられたときに、自分が元増田記事を書いたと思われたことを「不愉快」に感じられたそうです。それを含めて、元増田記事の投稿者だと勘違いしたことをお詫びします。そして、お誕生日おめでとうございます。
以上:追記おわり
コウモリ(Rlee1984)です。ご質問を頂いたので、お返事いたします。
①技術教師のid:showgotchさんが、こういうブログを書かれる。
→ http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20140228/1393606968
②コウモリ(Rlee1984)について書かれている部分があるので、そのブログにコメントする。
③コメント欄で幾つか話す。
④id:showgotchさんの記事とコメントを見た誰か(不明)が増田に、無リンクでの投稿をされる。
→ http://anond.hatelabo.jp/20140302105919
A、該当記事のリンクは上記の通りです。念のため、以下にも再掲します。
B、元増田記事での引用から抜けている部分を以下に引用します。
C、元増田記事に対して、返答が必要と思しき箇所のみ簡潔にご返答いたします。
①引用元のブログ記事と自分のアカウントを隠蔽し、リンクも貼らず、任意のコメント欄だけを抜いた形での増田投稿による文脈操作は、良くないと感じます。
②繰り返しになりますが、僕は個人攻撃やマウント合戦には興味がありません。ブログ記事でご返答すべきものがあるとは思えないこと・増田でご意見を頂いたことから、この場を借りてお返事さしあげる次第です。
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20140228/1393606968
『ちきりん氏の科学教育論もそろそろ幕引きで』 id:showgotchさんのブログ記事
showgotchさんが、記事内で僕(コウモリ・id:Rlee1984)について触れた部分を引用します。
なんか高卒ニートがそんなトラウマからか、調べて頑張ってる様子だったのだけれど限界が見えているので細くしておこう。それよりニートに屑とか言っちゃダメだよ増田。
Id:Rlee1984の主張は、経済を勉強した学生によくありがちな「ハイ論破」のつもりで結局平面上を右往左往してる議論にしかかなってない。
トレードオフの話を取り出してくれたのは自分で落とし穴掘ったようなもので、結局つめこみvsゆとりの構造から脱却できてないわけでしょ?ぜんぜん脱構築もアウフヘーベンもしてないじゃん。系統学習か経験学習か、と言われれば両方横断するのが一番なのである。僕の好きなメタファの一つに「デールの円錐」と言うものがある。~略~
分けて返答するのが困難なため、元増田記事とshowgotchさんの記事を同一意見とみて返答しています。
指導要領では、「系統vs経験を乗り越えて」、「ゆとりか詰め込みかを乗り越えて」、というお題目がセットになるものです。
それを引きの視点で見て分類した話をしています。(僕の記事の注釈で分かるかと思いますが、言葉の範囲を拡大して分類整理に使っています)
たしかに企業による利益誘導は問題ですが、『学者や教師以外は外野』と言ってしまうのは極端です。
教育は社会の基幹であり、この社会に暮らす万人が広く意見を述べる権利があると思います。
対応発言:元増田の『より学問や科学知に近いスキームを得られるようにした方がいい』
対応発言:元記事の『学校で行われている教育は100年の改善を積み重ねて来た等しく必要な教育』
対応発言:元増田の『100年の積み重ねがある教育を~中略~必要とはいえなくても不必要とは言えない。』
対応発言:元記事の『その二つは同一平面じゃない。円錐の一番上としたなのですよ。』
これを受けて、平面ではない具体的な制度論としての「提案」を求めておりました。『幕引き』とタイトルで仰られていたからです。そのため、次の発言は意味が分かりません。
また話を広げようとされているので、収束が面倒なのですが;
ICT教育への期待(教育効果の可視化)と、弊害への心配(教育目標の矮小化)については、ツイッター上の発言部分をご参照ください。
→http://twilog.org/1984lee このツイログから検索すれば、見つかるかと思います。
ここで多元的評価(羅生門アプローチ)についても話しています。
僕の記事では、「学習指導要領の変遷くらい眺めてから記事を書かれてはどうですか」と申し上げました。系統vs経験は、ざっと眺めれば素人でもすぐに見つけられる用語です。そして伝えやすさのため、他のベクトルを含む用語を一旦わきに置いて絞り込んだ説明をしています。徒に自分の知っている専門用語をばら撒くのはマウント目的と判断されやすいからです。相互の記事における、固有名と専門用語の数を計算してみれば分かるかと思います。僕はコメニウス、デューイ、ブルーナーの名前すら出していません。また、ICT教育の語も用いておりません。
そのように評価される教育関連の方もいらっしゃるのだ、と受け止めさせて頂きます。
また何かありましたら、よろしくお願いいたします。
ただ今後は、「相互の理解を深める」「生産性ある見識を広める」こと以外を目的としているように思える場合には、返答しないことがあります。ご了承ください。
私は、流行りのSNSとやらをわりとぞんざいに使っているので、
誰であろうと基本的には全て承認するようにしている。
そのせいか、タイムライン上にいつの間にかへんちくりんな人間がいることも多い。
今日はその一例をここに記したいと思う。
彼はプログラミングに精通しているようで、どうやら情報系の学校に通う学生らしい。
彼はよく、流行りらしい関数型言語(Haskell?)やらアセンブル言語等の話題を取り上げ、
これがああなってこうで・・・等と、恐らく的確なのであろうコメントを発する。
最近の学生は勉強熱心であり意識も高いのだな、と思わせるには十分であった。
仕事をほんの少し楽にする為のこまいスクリプト程度なら書くこともある程度での知識を持つ人間である。
そんな彼の観察を時偶に続けていたところ、
彼がとあるウェブ上のプログラミングコンテストに挑戦した、という旨の発言が目に入った。
いつも難しいアルゴリズムや先進的なコーディングについて語る彼のことだから、
さぞかし優秀な成績なのだろう、と期待してコンテストのウェブサイトにアクセスし、彼の固有名で検索にかけた。
コンテストは4つの問題が出題される形式であり、それぞれ難度に差がつけられている。
1つは中学生でもコードの書き方さえ知っていれば解けるであろう問題。
1つはFizzBuzzを基本とし、それに些細な応用を付与した問題。
1つは前述のエイトクイーン問題から更に発展させた上で、高度な数学的思考を求める問題。
彼の結果は、初問正解のみであった。
提出されたコードは、会期を過ぎると誰でも閲覧が可能になる為、
彼のコードを覗いてみることにした私は、そこで更におかしな笑いがこみ上げた。
彼は、FizzBuzzがほぼ全く書けていなかった。
それどころか、基本的なループ処理や、型の扱いが出来ておらず、
素人の私から見ても、これがちんぷんかんぷんなコードであることは一目瞭然であった。
以前、彼はHaskellの話題に言及する中で逆FizzBuzz問題についても述べていた気がする。
確かに、私もそんな事が要求される場面があれば悩むだろうな、とその記事を読み感想を覚えたが、
彼は逆FizzBuzzどころかFizzBuzzすらマトモに記述できないのである。
「圏論が出来ないヤツは将来、プログラマーとしても技術者としても失格」
「構造体同士の四則演算は全メンバに同一の演算子を適用するのかな?」
彼は、一体何なのだ?
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
シャナは「シャナ」という名前を悠二からつけられる。この命名はかなり一方的なようにも見える。しかし、命名というのは本質的に一方的で暴力的なものなのではないだろうか。それは、命名という行為が自分自身によらない、少なくとも命名を引き起こす原因が自分自身によらず、他者によってなされるということから明らかなように思われる。事実ほとんどの人は自分の親から一方的に名前を決められる。
ところが、この、他者から一方的に、暴力的に決められたはずの名前が、しばしばアイデンティティーの基点、「自分が自分であるという同一性」の基点となる。
『とらドラ!』についてのメモで、インコちゃんが自分の名前を言えないのは、主人公たちが自分のアイデンティティーを持っていない状態であることの寓意であるという解釈を以前示しておいた。また、『灰羽連盟』においては、名前がより具体的意味合いを持って象徴的に描かれており、自分の真の名前(あるいは自分の名前の真の意味)を知る(あるいは獲得する)ことが自分の本質を知る(獲得する)ことと同義とされていた。
これらは物語の例だが、実際に名前がこのようなアイデンティティーと密接な関係がなければ、われわれがこれらの物語にリアリティを感じることはできないだろうし、実際多くの物語が名前を象徴的に扱っているのは、われわれの無意識が名前がどのような機能を果たす記号なのかを実は知っているということの証左ではないだろうか。
しかし、ここで疑問が生じないだろうか。物語の主人公たちは、元々名前を持っていたのではないだろうか。特殊な設定でもなければ、ほとんどの人物たちは最初から名前を持っている。それなのに、その名前が物語の序盤ではアイデンティティーの基点になっていない場合が多いのである。シャナはその特殊な「最初は名前がなかった」という例だが、命名されてすぐにアイデンティティーが確立できたのかといえば、まったくそんなことはない。
ここで僕が提示する答えは、名前は確かにアイデンティティーの基点なのだが、時間の経過に伴う経験の蓄積を通して、意味を充填されることで初めてその機能を果たす、というものである。つまりシャナでたとえて言えば、命名された時点t1における「シャナ」と、その後の経験を蓄積した時点t2における「シャナ」では、その意味する「シャナ」の内実が違うのである。
ところが、内実が違うのに同じ「シャナ」である、というところが名前というものの核心である(多分)。過去の自分と現在の自分は本当は違う存在のはずである。なぜなら、過去の自分の経験と現在の自分の経験は違うからである。肉体的にも我々は年を重ねて少しずつ変化を遂げているのであって、「同じ」であり続けることはない。にもかかわらず、われわれが自分が自分である同一性を失わないのはなぜか。名前を持つからである。正確には、他者に呼ばれる名前を、であろうか。一つの「他者から呼ばれる名前」が、過去の自分と現在と自分を統一的に(この統一的にという部分に注意されたい。離人症患者などではこの統一性は失われる)つなぎ合わせることによって、アイデンティティーを確立することができるということである。
シャナがかけがえのない個人「シャナ」として確立されるのは、大雑把に言えば悠二から「シャナ」と呼ばれることの連続性によっている。思えば、『とらドラ!』においても、大河との関係を徐々に深め始めた竜二が「大河!」と大河の名前を叫び、「俺は犬じゃない、竜だ!」と宣言し、大河がその名指しに反応するという場面があるのだが、これもある視点を持つ他者から名前を呼ばれる、ということがアイデンティティー確立の物語へのスタートになっている。さらにスタートだけでなく、物語の途中も、終結も、すべて名前を呼びかける他者を基点として展開する。
シャナにおいては、「シャナ」という固有名の確立を際立たせる展開として、平井ゆかりでもフレイムヘイズでもない名前、という対比がなされる。平井ゆかりというのはシャナが人間世界で暮らすための偽名であり、日常の人間関係に重点のあるミクロな価値を象徴する名前である。それに対してフレイムヘイズは世界のバランスを保つという彼女の社会的使命に重点を置いたマクロな価値を象徴する名前である。第一期の終盤、彼女はマクロな価値のためにフレイムヘイズとして悠二を殺すべきか、ミクロな価値のために平井ゆかりとして悠二を助けるべきかという選択を迫られる。しかし彼女はシャナとして世界も悠二も救うという選択をする。これは悠二と経験したのがマクロな世界での戦いとミクロな世界での日常の両方においてであったことと関係しているだろう。シャナにとって、マクロとミクロは矛盾しない。なぜならマクロにおいてもミクロにおいても、シャナは悠二からシャナと呼ばれ続けたからである。
他者からの呼びかけによって、一つの名前に時間とともに意味を充填していくこと、それによってアイデンティティーは得られる。それは物語というものの本質でもあるかもしれない。
ふー。昼ごはん食べて一服して落ち着いた。
つまりそれは灰皿に水が入ってないからだよ!ΩΩ Ω<な、なんだってー
……ハイ。いいかげんしつこいですね。
非嫌煙家はなんであんなにヒステリックな応対になってしまうかというと(すくなくともおれは)、嫌煙家の中に差別主義、って言い方はちょっときついか。すくなくとも「自分が正しければ他人を避難してもかまわない主義」が見て取れるから。
喫煙は旧大陸に入ってきた当初から非モラル側のアイテムだったわけで(「喫煙が聖書によって禁じられてなくてよかった」とかいう冗談もあるくらい)、タバコを飲む人は、オルタナティブに寛容であることを好むように思う。
ところが嫌煙家は「間違ってるから」という理由で喫煙を許容しようとしない。ここでもうひとつつまらない冗談を言うと「ヤツらはタバコを禁止しようとしている。この次はきっと酒とセックスだぜ。最終的には隣人に笑いかけることも禁止されるに違いない」。つまり「それがタバコだけにすまない」ということを妄想してしまうがために非嫌煙家は恐怖してしまう。これがヒステリックな反論文を書いてしまう原因なんじゃないかな。
もちろん、ここで「そこまで恐怖することもないじゃん」と意見するのは当然だと思う。1対1なら説得するなり、目の前で喫うのを控えたりすればいいだけの話だからだ。実際、嫌煙家のだれかと喫煙者であるおれが、面と向かってここまで罵り合うことなんか想像もできない。つまり「私を気遣え」の百年戦争は非コミュがいる限り終わらないの「非コミュ」なんか、そうそういないんだと思う。そうではなく、「非コミュにしているのは誰か」、という問題を考えたほうがいいんじゃないのかな。
これは明らかに「はてな匿名ダイアリー」だから発生しえた状況だ、と思う。
自分を例にすると
の流れでおれは会話した気になってた。つまり対話=ダイアログを想定していたわけだ(まぁずいぶんと好戦的に文体を変えてくるモンだな、とか思ったけどw)。ところがご存じの通り増田で初噛みつかれで明かされたのは「それ私とちゃいまっせ」ということだった。
つまりanondにあるのは多声的=ポリフォニックな議論なのか。烏合の衆。衆愚衆愚。井戸端井戸端。まあそれが正解なんじゃん。
と思いきや。どうやらおれの奥の方の意識はそう受け取ってなかったようだ。
id、キャップなどで個体の識別ができる(とされている)ほかの匿名の場と違い、anondにおいては一切その手段がない。もちろんidなり固有名を名乗っても良いが、それはかんたんに騙れてしまう以上、誰もその有効性を信じていない。もちろんだ。つまりそこを読む個人であるおれに見えるのは「はてな匿名日記」という一つの声だ。もしくは「嫌煙!」と叫ぶたった一つの声。それは(バカらしいことだが)かんたんに「世間の声」のモノローグと誤解されてしまう(あくまで潜在した意識のレベルね)。
だって、誰も「自分の後ろを歩いてるあのおっさんも目の前から来るあの兄ちゃんもが『喫煙者は市ね』と思ってる」とか、いろんな意味で想像したくないでしょ。そんな世間、全力で拒否したいでしょ。声を大にして反論したくなるでしょ。
そう。喫煙者がフレームアップしたのは、ある人物に自分が罵られたからじゃない。世間が自分たちを排除しようとしている/ある集団を「不正義だから」というだけの理由で排除しようとする世間になりつつある、この2つに恐怖したからだ。まあそれはanondというシステムが生み出した、くだらない誤解なワケですが。
いやホント。よく似てるよ。
タバコがお嫌いなみなさんは?
何に恐怖してるんだろう。
不健康?
逸脱?
これは煽りじゃなくて、本当に興味がある。
あなたは何を恐怖しますか?
もっともタバコを愛しているのは恋する人と兵士だ。
「いずれ来るドデカい一発」を待望し続ける人たち。
詠み人知らず。
http://anond.hatelabo.jp/20070405004641
識別子の有無と匿名性については色々思うところがある。
社会学か文化人類学か、まあその類の学問で、名前の無いものは意識されない、みたいな話がある。「ツンデレ」という単語が誕生する前にも、ツンデレ的なキャラは確かに存在した。しかし、「ほら、普段はそっけないけど素直になれないだけで実は主人公にベタボレみたいな!」とかそういう表現しか存在しなかった。「ツンデレ」という単語の存在によって、はじめてツンデレというキャラ特性が広くの人に認知され、ツンデレについて語ることができるようになったわけだ。
「ふたば☆ちゃんねる」では一時期、デフォルトネームが「としあき」となっていた。2chと違って名前があるわけだが、みんな「としあき」なので当然識別子としての意味はなさない。
どうなったかというと、あくまで個人的観測だが、コミュニティ内の連帯感が非常に強くなった。我々はみんな「としあき」である!我々は仲間だ!というわけだ。
話を戻そう。「としあき」という固有名を与えられた事で、そこに「私はとしあきだ」という認識が生まれ、強い求心力が働いた。その結果が強い連帯感だったのではないか、と感じる。
今では同掲示板のいくつかの板では名前欄自体が消滅し、「としあき」という名も無くなっている。以前のような盛り上がりが無くなってきた、と感じるユーザが多いが、それが住人の増加によるものなのか、名前の消失によるものなのかは分からない。
不特定多数の集団に、個人としての名前をまとめて与えるとどうなるか、という興味深い事例ではないだろうか。
ニュー速VIPについて考えよう。
ニュー速VIPの住人は、単にVIPにいる人(=「ニュー速VIP板住人」)ではなく、「VIPPER」という固有の名前を持っている。上記と同様の構造により、VIP板住人にはVIPPERとしての意識が生まれ、その結果結束力が強くなる。
さらに、「良きVIPPERらしさ」を示す「VIPクオリティ」という単語がある。この単語の存在が、VIPPERという存在を特異なものにしている。「武士道」「騎士道」「フロンティア・スピリッツ」など、その集団の気質を表す単語が存在する時、その傾向が非常に強化される。参照すべき基準の存在により、侍はより武士的になり、騎士は騎士的になる。VIPPERにはVIPクオリティがあり、VIPPERは「クオリティの高い」VIPPERたらんとして、その行動をVIP的なものにする。
「これがVIPクオリティ」という定型フレーズがあるが、しかしVIPクオリティには「これが」というような特定の基準という物が存在しない。集団の中でなんとなく形成されているものなので、集団が「VIPクオリティ」に近づこうとするにつれ、徐々にVIPクオリティは煮詰まっていく。結果、VIPPERの行動は突飛なものになっていく。
そんなものがあると思ったら大間違いだ。
「増田」という名前を与えられた集団がどうなっていて、今後どうなっていくかを注視するのも面白そうだが、正直めんどい。
ええと、文房具全部にたろうって名前つけてたんだっけ。道具を擬人化したかったのか、あるいは自分の道具をその他の道具とは違ったものにしたかったんじゃないかな。どうでもいいや。