はてなキーワード: 原因とは
根元の増田です。
detailは英語で使うときは「でぃーてぉ」みたいに前にアクセントをつけて読んでます。
ぶっちゃけると昔に見たMr.Beanでそういう発音をされてたのが印象に残っているという理由で。
カナだとディテールって書くかな。でもあまりカタカナ語は好まないので詳細って書くと思う。
でもひとつ上の増田の
detail→ディテール とか partition→パーテーション ってのは英語→かな表記の問題であって意味は変わってないじゃん。ダウトなんて意味から違うじゃん。
# それに使い方のパターンが単に切り捨てるためだけに使っててまともに理由を述べてなさ過ぎることがキモい原因のひとつでもある
連想例として挙げるには不適切じゃね?
彼女が1「産み、育てる」を選びたいといってるんだからまずは1で具体的にどうなるかを彼女と一緒に予測・検討してみる。
ざっと予測して以下の問題が出て繰るんじゃないかなーと思う。
とりあえず、「彼女と一緒に育てたこの子」と思えば年を経るごとなんか愛せそうだと思うので、それを前提に話し進める。
( 前提として、遺伝子なんかより共に暮らした時間の方が尊いでしょう。って俺の思想がある。
もしかしたら自分の、自分の遺伝子への卑下も根底にあるかもしれない。)
予測・検討しておきたい内容一覧
もし、このあたりに覚悟、意思がないと判断したら、
そのときは2の「おろさせる」を提案する。
それで覚悟、意思のある内容が出てきたら1、
彼女の納得が得られたら2で
話を進める。
覚悟、意思のないままに、それでも生みたい、と言うなら、おそらくその家庭は不幸になると思うので、
私が目をそむけて「怖いね」って言ったら友人が
もちろん、あなたが自殺者に対してどんな考えをもっていてもいいよ。
でも、だからといって、私にはそれを言わないでほしかった。
でも、私はあなたの考えには絶対に同調できない。
あなたはどうして私にそんなことを言ったんだろう。
兄のことや、私の気持ちを知っていながら、どうしてそんなことを言うんだろう。
赦さなければ赦されない・・・
そうは言ってもな・・・
こっちが赦してても尚、向こうに馬鹿にされたら泣いてしまう。
何なの俺の人生・・・何処から間違ってた?俺が悪いわけ?
虐めの原因だって向こうが発端だったのに。
首謀者はこっちが発端だって言い触らしてクラスメイトどころか先生まで味方に付けて・・・
自分達が最初にやった事は無かった事にするわけか。
で、今でも向こうが発端だったって事は誰にも知られてない。理不尽だ・・・理解できない。
唯一自分のせいだと言える事は、アホだったって事くらい。
大学行くつもりないから高校で遊んどけ??なんて思ってたのが馬鹿でした。
後孤独の辛さを真に理解してなかった所も悪い。・・・悪いのか?何処が。
向こうの心の狭さと卑怯さと陰湿さはどうでも良いのかよ。
もうどうしたら良いのか分からない。既に死んでるのと同じ。
生き返りたい。
うちの子が小学生の頃、学区のPTAである番組が問題になったことがあるのさ。
仮面ライダーやウルトラマンが、いじめの原因だって話を真面目に会議する馬鹿馬鹿しさが伝えられないのが残念で仕方がないけど。
実際に抗議した親も全国レベルでいたみたいだよね。
ウルトラマンが怪獣を倒すのに理由が必要だったり、仮面ライダーの怪人が必ずしも悪人でなかったり、倒すのに苦悩してたりした時期があったでしょ?
コナン(…というかミステリ)での殺人は犯人の欲望が拡大した結果で、動機がしっかりしているものが多い(大半が復讐)。
主人公がとっつかまえる側だから、作品内で殺人はしていても殺人を良しとしていない。
動機??とかそういうのがよくわからなくても殺人は悪い事できっちり捕まるよってのは
小学校低学年でも理解できるんじゃないのかと思う。
では、ひぐらしはどうかというと殺人の原因が謎の病原菌(フィクション)であり
悪く言っちゃえば「あなたなんとなく私を殺しそうなんで殺される前に殺しちゃいます☆」
っていうか虐待してる奴だから殺しちゃうとか殺しを認める部分があるんでどうかと。
ま、なんつーかパッと見なんで殺すのかよーわからんのがいけないのかな。
それこそ大人が見ても変な報道されちゃうくらいだし。
結局は具体的な描写の多さと殺人の動機が猟奇的か、復讐的かなんだと思う。
良くは無いけれど復讐なら動機の理解ができるから。
あとストーリーのわかりやすさ。
あと、ひぐらしはいくら原作者が殺人はダメなんだよっていう思いの作品ですよーと言っても
猟奇的な部分の描写が目玉なんだと思う。そこを勘違いする奴が出る。
まあ、なんだ。
長く生きてると浮気をしてしまうこともある。
誰だってミスすることぐらいある。それは仕方ない。
心理的なダメージを受けてるのはお互い様だろうが、
苦しくても「終わったな」とか言ってる場合じゃない。
結婚生活を続けるつもりなんだから、なんとかして仲直りする方法を考えないとな。
毎日早めに帰って食事を作っておくとか。
前回恋人との交際経験の無い人の割合(日本)について調べてみたのだが、めんどくさくて性別の計算はしなかったし、日本以外の調査までは目を通していなかった。のでもう一度、内閣府の平成17年度 少子化社会に関する国際意識調査(20代から40代の男女に対して5か国で実施したアンケート)を見てみた。
以下の表が、国別・性別・年代別に見た「恋人との交際経験無し」の人の割合。日本の男子すげえ。マジヤバイ。リスペクト。
国 | 性別 | 20代 | 30代 | 40代 |
---|---|---|---|---|
日本 | 女性 | 7.8% | 3.0% | 0.4% |
男性 | 23.9% | 8.7% | 4.0% | |
韓国 | 女性 | 9.8% | - | 0.6% |
男性 | 12.9% | 4.5% | 0.7% | |
アメリカ | 女性 | 1.2% | 1.1% | - |
男性 | 7.4% | 1.8% | 1.2% | |
スウェーデン | 女性 | 4.5% | 1.1% | 0.6% |
男性 | 8.2% | 1.2% | - | |
フランス | 女性 | 13.1% | 3.3% | 1.6% |
男性 | 17.1% | 4.0% | 2.5% |
国際比較でビックリ仰天というよりは、日本の男子の突き抜けた高さに驚く結果となってしまった。そりゃあ文化も環境もそれぞれ違うのだろうけど、ここまで男女間で大きな差が出るのは一夫多妻制の国くらいではないのだろうか。原因について考察すると恨み言になってしまいそうなので他に譲る。当事者なのでさ。
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20070921/p2
「ドアを閉めましょう」というのが「在宅で仕事をする人が生産効率を高めるための」「Tips」なのか。それに気付かない人がいるのか。なぜ誰も突っ込まないのか。
最後が実はジョークなのはよくある。
http://the-getting-things-done.blogspot.com/2007/08/productivity-tips-for-home-office.html
Close your door - If there are distractions at home, like people calling round or noisy kids, make it a rule to not be disturbed when your door is shut.
ドアを閉めよう - 例えば人が訪ねてきたり、子供達が喧しかったり、そんな気が散る原因が家にあるなら、ドアが閉じてからは邪魔されないようにしよう。
http://web-marketing.zako.org/hacks/lifehacks/productivity-tips-for-the-home-office.html
10.ドアを閉めましょう
元気な子供や、何度も電話が鳴るような気が散る要素が家にあるのであれば、神経質にならないためにも、仕事中はドアを閉じるようにしてください。
The original post is 翻訳ブログを作成するための5つのポイント
季節的にそういう季節なのかどうなのかよく分からないが、私も別れた。
相手の様子が最近おかしいなー、とか思って軽くメールで問いただしてみたら、返信が来て、別れ話。
友達という関係の方が良いと思う、などとお約束の台詞を吐かれ、流石に納得できなかったので、電話してみたらどうやら出たくない模様。メールで理由を問いただしてみたけど、一方的でごめんなさいとか返信され、いやそこ謝って欲しいんじゃなくて理由を説明してもらいたいんだけど? みたいな。色々原因を考えてみるが、つまるところ推測の域を出ない。
しかしまあ、いかなる理由にせよ、心変わりを詰っても後味が悪くなるだけなので、しつこく追及もできず、色々と付き合いは長いほうだったので、結局、わかったよ今までありがとう楽しかった、と返信した。
で、所詮、私ってその程度だったのか? というか人間関係なんてそんなもんか? いや、私に見る目がなかったのか? 良い人ぶって引き下がるなんて、私は自分が傷つきたくなかっただけなんじゃ? とか何とか鬱々と悩む事二週間。
今更問いただしてみたところで、意味がないのは分かっているが、一緒に過ごした時間が一方的な文字列のやり取りで終わってしまうのはなんだか悲しい。悲しすぎる。遠距離なので、せめて電話でも、とは思うが、電話したところで何を話せばいいのだろうか。なぜか涙は出ない。情け無い気分で何もする気が起きない。
自分の感じていた違和感の原因が、歳の離れた家族から自然に習ったコミュニケーションの距離感の違いにあり、それを個室がないことが増幅させたというような発見があって、それを聞いて欲しかったということかね。あるかもしれないね。書き方としては、そういう仮説と一事例を突き放して書くってスタンスでいけばよかったかもね。
ただ、こっちから見てると、たかだか10年程度の年の差ですら受け入れられない狭い狭い世界観て、どうよって思ってしまうな。それに自分を必要以上に(他者が要求する以上に)狭いところに押し込めて、そうでなければならないと考えているようにも見える。こことか、
相手にとって相当鬱陶しかったんじゃないかと思うのです。
あと全体的に言い訳がましいところとか(それを自分が悪いんです風に言うのとか)。
なんというか、君は、君自身が思ってるのとは逆方向に変わった方がいいように見えるよ。すこし傲慢なくらいがいい。相手の言うことを気にしすぎない人間になることを心がけた方がいいと思ったよ。
これが危ない、何が危ない、これは実は危険だ、などなどなどなど
そういう情報が溢れすぎて、そしてその情報の真偽がまた、「テレビで危険だといっているが本当は危険なんかじゃない」「こんな本があるがそれは嘘っぱちだ」「ネット上でこんな論が主流になってるがそれは間違い」などなどなどなど……
あれもこれもどれも全て危険な気がするし、そうでもない気がする。
全てを判別している暇なんかあるわけないし
判別できたとしても主に金銭的な問題や時間的な問題により、その危険を回避できるかもわからない。
例えば
中国産が危ないといわれるが実際俺が行くような普通のスーパーじゃ中国産なんてありふれまくりで
なるべく国産を買おうとしたって既製品でもあればたいてい含まれてる。ていうか国産は高い。
その上一見国産でも実は中国産なんてのもあったりするなんて言われちゃもうどうしていいか分からない。
そんな事がしょっちゅう起きていて、もう何をどうすればいいのかさっぱりわからない。
重要度の高低も分からない。どこまでならある程度気をぬいてもいいのかぬいちゃだめなのか
最早考えるだけで頭が痛い
間違いがあったにせよ情報が限られていた昔の方が、生き易かったのかもしれない。自由が無かった分一つの事に打ち込めたのかもしれない。選択肢があふれ、情報も溢れることはいい事だがその分一つの事に打ち込む以前の問題(どれを選ぶか)や、情報を信じて実行する以前の問題(真偽や選択)が出来た。限られていた時はそれがなかった。でもだから昔がよかったとかじゃない。今の方が確実によくはなっていると思う。しかしよくなったというのは単純にメリットだけを産むわけじゃないということだ。昔はやはり視野がせまい状態だったけれど、不幸中の幸い的な、ダメゆえに生まれたメリットがあった。それだけの話。ただ今俺が苦労してるというのも現実。更にもう一歩、いや一歩どころじゃないかもしれないが、先があるのだろう。その苦労すらなくなる先が。ただそれは今じゃない。
とにかく疲れた。面倒だ。
下手に何かを知ってしまうことで、選択に頭を悩ませたくないと、近頃情報をついシャットアウトしてしまう。聞きたくない。下手に知ってしまって、気にしたくはないのだ。知らないまま、無知のままでいたい。いっそ。そう思うようにすらなった。
とにかく疲れた。大体何の為に気を遣ってるのか?究極的には死なない為だ。食べ物も、健康も、仕事も、金も、どの心配も。
ならもう気を遣わず、死んでしまった方が、楽なんじゃないか。
いちいち健康に気をつかって食べ物も制限して生きるより、好きなもんガバガバ食って早死にする、と豪語していた伯父さんがいたが、今、ほのかに、そんな気分だ。
生きるに対し、何の指針もないことが原因なのかもしれない。例えば何を犠牲にしてでも何かを成し遂げたいという思いがあるならいっそ楽だ。それに従い全てを決めればいい。その目標にいらないものは切り捨てればいい、そんなことができる。
俺にはそんなものは今ない。ここ数年の目標やビジョンならあるが、人生を通したそういう目標がない。そんなものないのが普通なのかもしれない。
流動的なのだ。切り捨てられない。後から必要になるかもわからないから。後から指針が変わるかもしれないから。だから全てに保険をうっておかなきゃならない。これをしさえすれば後は死んでもいいという指針でもあれば、健康など気にしなくたっていいのかもしれない。何もないから、とりあえず長く生きたいと気にしだす。
もともとからして、気にしやすい性格なのだ。
もう面倒だ。
全てが気になる一方、その反発で時に全てがどうでもいい。
何書いてるのかわかんない文章になってしまった。でもどうでもいい。気持ちをはけただけでよしとする。
http://anond.hatelabo.jp/20070924224733
普段使ってみて便利だなとか思うソフトウェアはないの?
普段よく使うソフトは……まぁタブブラウザとかFLVプレイヤーとかTerapad辺り? それこそメモ帳を作る、とかならネットにソースがありそうなきもするけれど……
http://anond.hatelabo.jp/20070924225135
俺の場合は、昔からやってたサイトがあったから日記とかの管理が面倒だったんでフリーのperlのスクリプト弄ったりPHP+MySQLで簡単なのを作ったりしてるうちに何となく程度に言語の仕様覚えていったり、今出来そうな範囲で今自分がやってることをコードに落とし込んでいくのが一番覚えるのに良いと思うよ。
そうやって出来る事がわかっていけば作りたいものもイメージできるようになるんじゃない?
これを読んで、何をやれば良いのか判らないのはネットやPCを触るに当たってあんまり不自由していない、面倒だと思わないのも一つの原因かもしれない、と思いました。何かする場合には既存の環境を使うし出来ない事はああ出来ないんだ、なら別のを探してなかったら諦めよう、で終わってしまうというか。ようするに、気付く事が出来ない、発想力のない人間は駄目なんですね。
アニメ版の時をかける少女が良かったので、大林監督の時をかける少女を観てみました。
最初に言っておくと、この作品が良かったとか悪かったとか言うつもりはありません。
コミュニケーションの感覚があまりにも現代とはかけ離れている感じがして、
そこばかり気になってしまい、自分にはまともに見ることができませんでした。
ほとんど冗談のように見えてしまうのです。言ってみれば突っ込みどころ満載というやつです。
映像表現としての古臭さだったりというのは、無関係ではないものの、ややこしくなるのでここでは置いておきます。
自分が触れたいのは、作中で描かれている人間関係、やりとり、コミュニケーションについてです。
現代と比較して、人と人との距離感が近い(近過ぎる)様に感じました。
正直に言って、暑苦しい、鬱陶しい、といった感じでしょうか。
異性にベタベタ触ったり、クサイ台詞を平気で吐いたり、客観性があまり感じられません。
要するにイタイのです。
もしも現代にこういう生徒がいたら、イジメの被害に合うのは目に見えています。
例え田舎でも、ここまで密接ではないんじゃないかと思います。
この作品が好きな方々がもしこれを読み、不快に思ってしまったらごめんなさい。
念のため言っておきますが、断じて作品にケチをつけるつもりはありません。
映画ということで多少大げさな表現があるかもしれないのを考慮に入れても、
この作品が多くの人に受け入れられていたということは、当時はそういう時代だったという事でしょう。
時代が変われば人も変わって当然です。
この時代の人間関係のあり方を貶すつもりもありません。
では何が言いたいかと言うと、ジェネレーションギャップというのは確かに存在する、という事です。
少なくとも自分には、この映画は鑑賞に堪えるものではありませんでした。
それほど隔たりが大きかったのです。特にコミュニケーションという点において。
自分は現在22歳で、両親は二人とも60歳をとうに過ぎています。
姉が二人いて、自分は歳の離れた末っ子として生まれました。
母がちょうど40歳位の時の子供です。
予定外の出産だったのかどうかは分かりませんが、
家の部屋の空きが足らず、姉弟の中で自分だけ、高校に入学するまで個室がありませんでした。
学校から帰ったら誰かしらいる居間で過ごすか外出するかのどちらかで、夜は両親と同じ部屋で寝ていました。
そういう環境だった為、必然的に両親や姉との距離はいつも近い状態でした。
今、当時の事を思い出しながら書いています。
その頃、自分は周りの子に比べてかなりイタイ子だった様な気がしてなりません。
人から冷たい視線を受けていた感覚が沢山残っています。確かに冷笑されていました。
でも当時は馬鹿にされている事すら分かっていませんでした。
自分を見て笑ってくれていることが嬉しいとさえ、思っていました。
大人になるにつれて、徐々に自分がイタイ人間である事に気付き始め、
異常な自分に対する自己嫌悪、加えて自分の異常な言動を起因とするコミュニケーション上の痛み、
それらが同時に襲ってきた十代の後半の頃からは少しずつマシになっている気はするのですが、
今でも人と滑らかなコミュニケーションを取れる自信はありません。
人といたところで、やはりどうしても自分で自分の首を絞める(止められない)事になってしまい、
どうして、自分は小さい頃からあんなにイタイ子だったのでしょうか。
考えた事を、ごめんなさい。お願いします。言わせて下さい。
やはり家庭環境が大きな一因であったと思うのです。
両親に対して育ててくれた恩義を忘れるつもりはありません。
末っ子の自分を可愛がってくれた姉達に対してもそれは同じ事です。
でもどうしても、自分と親の歳がすごく離れていることと、長い間自分の部屋がなかったことが
自分の中でとても大きく感じてしまうのです。無関係とは思えないのです。
この歳になってみて、両親と話しているとジェネレーションギャップの大きさに驚きます。
姉達とさえ、ギャップ(溝)は感じるのだから当然のことです。
今では溝の深い家族ととても密接に暮らしていて、その頃は溝を感じていなかった。
つまり溝は家族との間ではなく、家族以外の他者との間にあったのです。
自分が「時をかける少女」を観て抱いた印象(上記)を、他者は自分と接して抱いたに違いありません。
成人した人間が、こんな事に拘っていること自体、馬鹿馬鹿しく聞こえるでしょう。
実際にこの話を家族に何度かしたことがありますが、
そんな訳がないとか人のせいにするなとか、家族の誰も決して認めてくれようとはしません。
だからこそこんなことにいつまでも拘っているのかもしれません。
勿論自分の人生の責任を誰かに取らせたいなどと言うつもりはありません。
ただこうなった原因を自分の中でハッキリさせたかったんです。
朝から長文失礼しました。
ひぐらしファンとして、放送自粛に嘆き悲しんでいる著者でありますが、マスコミの安易な報道にはもっと嘆き悲しんでいる所存です。ひぐらしが原因で少女が殺害?ふざけんなよてめぇぬっこぬっこにしてやんよ、ということで、マスコミの報道に対して初歩的統計学知識でもって批判してみたいと思います。以下は、専門家でもマスコミ関係者でもない一ひぐらしファンの戯言です。
何らかの原因と結果を説明する理論を実証するには実験をしなければいけません。実験とは、検証したい変数を限定し、その変数に大してなんらかの人工的な付加をかけることで、理論構築のための結果を導きだそうとすることです。例えば、"ポテトチップスを食べると体重が増える"という理論を実証したいのであれば、必要数の被験者に大してフォアグラ用のガチョウのようにポテトチップスを食べ続けさせれば良いわけです。しかし、実験をするに当たって気をつけなければならないことは、人口的に付加与える変数以外に結果に影響を及ぼし得るような他の変数が多数あると結果は歪曲されてしまう、ということです。たとえば、"ポテトチップスを食べると体重が増える"を実証する実験を行うに当たり、被験者が他に高カロリーの食べ物を食べていたり、運動不足であったりすると、検証したいポテトチップスと体重増加の原因-結果関係を検証することが困難です。なので、実験する人間は被験者に大して厳しく食事管理を行ったり、適度な運動が可能なような環境を用意することが必要です。実験において重要なことは、検証する変数を限定すること、環境を設定すること、といえます。
実験をすることはお金もかかりますし、手間もかかります。そもそも、変数を限定する環境に被験者を長時間拘束することは、検証内容によっては非常に困難になります。そこで、実験の代わりに観察という手段で理論の実証を試みることになります。観察の場合、サンプルとして選ばれた人たちは自然な環境で通常の生活をし、実験者が彼らに人工的な付加を与えることはありません。実験者は通常生活を営むサンプルから検証したい変数を含むデータを集め、それをもとに変数と結果の関係性を実証します。重要なのは、観察の場合は、検証している変数の他に結果に影響を及ぼし得る変数がたくさんあることです。"ポテトチップスを食べると体重が増える"を例にとると、観察では被験者からポテトチップスを頻繁に食べるという情報と体重を聞き出し、それらの関係性を検証していく訳です。しかし、ポテトチップスを頻繁に食べ、かつ太っているサンプルの人間が、他にも多くの太る原因となる生活習慣を踏襲していることは安易に想像できることであり、ポテトチップスを頻繁に食べることはたくさんの変数の一つでしかありません 。サンプルのデータを使った観察からはポテトチップスという変数と体重という変数は並列に位置し、二つは関係している、ということしか導きだせません。ポテトチップスを食べるからピザになる、のではなく、ピザだからポテトチップスを良く食べている、かもしれないのです。多数の変数が関わっている観察においては、原因と結果を引き出すことはできません。
ひぐらし自粛事件を以上のことをふまえて検証してみます。まず、京都16歳少女の父殺害事件から”ひぐらしのなく頃に”という作品が少女を殺害に導いた、という原因と結果の理論をたてることは、現時点の証拠不足により不可能です。少女が殺害に導いた変数は、父との関係・学校での人間関係など計り知れません。 上記で検証したように、原因と結果を検証するには変数を限定しなければならないのであり、マスコミが安易に検証できるものではありません。 以下の
「歪曲して事件に影響があったかのように報道した」説に賛成の人が多いだろう… 何か事件が起こると、浅い考察で原因を探すのが現在のマスコミのお得意分野であることも事実である。
という近添さんの発言を厳密に検証すると以上のようになります。
しかしマスコミは結構狡賢いもので、”ひぐらしのなく頃に”が殺人の原因になりましたよーとは言いません。あくまでも二つの事柄の関係性を繰り返し、オドロオドロしい音楽とナレーションにのせて報道することによって、視聴者側が自らの頭で二つの事柄の原因-結果関係を描いてしまいます(マスコミやテレビが放送するリアリティーと現実世界の二つを視聴者がごっちゃに考えてしまう、ということを説明するCultivation Theoryという理論もあります)。 マスコミが放送しているのは関係性の羅列でしかなく、原因と結果は厳密な検証が行われないと実証されない、というリタラシーを持って報道を読むことが必要です。
更にマスコミは事件が起こると事件の一般化を試みます。”ひぐらしのなく頃に”を見ていた少女が父親を殺害した、よってかような作品を見ている人間は殺人者予備軍、というような図式です。しかし、個々の事件のようなケーススタディーにおいては、事件の構造的解析を行うことはできても、その事件から社会的な構造を描き、実証することはできません。サンプル数が1しかない検証内容なんて鼻糞くらいの価値しかありません。マスコミの報道を読むには、検証にはどれくらいのサンプルが使われているのかを注意深くまた批判的に見ていく必要があります。マスコミがよく使うメタ分析(既に行われている研究結果などを使って実証していくこと。専門家の話というのはこれに当たります)も視聴者自らが論文に当たって理論の検証を行うのが良いのかもしれません。あるある大辞典はメタ分析を適当に並べ立てて原因と結果をでっちあげた報道の悪いケースです。
エセ科学議論が一時期はやりましたが、エセ科学的な検証方法は科学以外の様々な議論に当てはまります。議論において、原因と結果を実証することは最も難しく、マスコミが行うような一夜漬けの検証では不可能といっても良いでしょう。しかし、マスコミの 原因-結果関係をでっちあげる安易な報道は強力な影響力をもっており、間違ったリアリティーを視聴者に植え付けます。マスコミの報道を反証するのに個々の事件に対する知識や専門的な知識はいりません。議論を批判するには、ちょっとした議論形式の知識と申し訳程度の統計学の知識で十分です。lovelovedogさんが似たようなスタンスでブログを書いてはりますね。マスコミのメタ分析に対するメタメタ分析(なんのこっちゃ) でもってばしばしっと文句をつけていくのが、健全たる市民としての義務だと思います。
さっき、電話でフられた。
1.5年付き合った彼女だった。自分としては、最長記録。
でも、自分で、今回の事態を回避できなかった(最大に努力したか)といわれたら、そんなこともなくて、だからなんというか、諦めというか申し訳なさが強い。
若干気がついていたのに、見ないようにしていたんだなぁ、いろいろ。
そのたびに、彼女は、自分の別れ話を押し込んで励ましていてくれた、とか思うと泣けてくる。
自分の鈍感さに腹が立つ。
彼女のほうがずっと将来を考えていて、俺は何も考えてなかった。
これから考えていこうとか、のんきに思ってた。
埋める努力もできたのに。
無遠慮な言葉が、どれだけ傷つけたかを今更知ることになった。
あーでも、本当に楽しかったな。
来週、互いの家にあるものを渡すとか言ったけど、どんな顔していけばいいかわかんないわ。
あーあ。。。