2009-12-07

名指しと時間性とアイデンティティー

 アニメシャナについて書きます。

 シャナは「シャナ」という名前を悠二からつけられる。この命名はかなり一方的なようにも見える。しかし、命名というのは本質的に一方的で暴力的なものなのではないだろうか。それは、命名という行為が自分自身によらない、少なくとも命名を引き起こす原因が自分自身によらず、他者によってなされるということから明らかなように思われる。事実ほとんどの人は自分の親から一方的に名前を決められる。

 ところが、この、他者から一方的に、暴力的に決められたはずの名前が、しばしばアイデンティティーの基点、「自分自分であるという同一性」の基点となる。

 『とらドラ!』についてのメモで、インコちゃんが自分名前を言えないのは、主人公たちが自分アイデンティティーを持っていない状態であることの寓意であるという解釈を以前示しておいた。また、『灰羽連盟』においては、名前がより具体的意味合いを持って象徴的に描かれており、自分の真の名前(あるいは自分名前の真の意味)を知る(あるいは獲得する)ことが自分本質を知る(獲得する)ことと同義とされていた。

 これらは物語の例だが、実際に名前がこのようなアイデンティティーと密接な関係がなければ、われわれがこれらの物語にリアリティを感じることはできないだろうし、実際多くの物語名前を象徴的に扱っているのは、われわれの無意識名前がどのような機能を果たす記号なのかを実は知っているということの証左ではないだろうか。

 しかし、ここで疑問が生じないだろうか。物語の主人公たちは、元々名前を持っていたのではないだろうか。特殊な設定でもなければ、ほとんどの人物たちは最初から名前を持っている。それなのに、その名前物語の序盤ではアイデンティティーの基点になっていない場合が多いのである。シャナはその特殊な「最初は名前がなかった」という例だが、命名されてすぐにアイデンティティー確立できたのかといえば、まったくそんなことはない。

 ここで僕が提示する答えは、名前は確かにアイデンティティーの基点なのだが、時間の経過に伴う経験の蓄積を通して、意味を充填されることで初めてその機能を果たす、というものである。つまりシャナでたとえて言えば、命名された時点t1における「シャナ」と、その後の経験を蓄積した時点t2における「シャナ」では、その意味する「シャナ」の内実が違うのである。

 ところが、内実が違うのに同じ「シャナ」である、というところが名前というものの核心である(多分)。過去自分現在自分は本当は違う存在のはずである。なぜなら、過去自分経験現在自分経験は違うからである。肉体的にも我々は年を重ねて少しずつ変化を遂げているのであって、「同じ」であり続けることはない。にもかかわらず、われわれが自分自分である同一性を失わないのはなぜか。名前を持つからである。正確には、他者に呼ばれる名前を、であろうか。一つの「他者から呼ばれる名前」が、過去自分現在自分を統一的に(この統一的にという部分に注意されたい。離人症患者などではこの統一性は失われる)つなぎ合わせることによって、アイデンティティー確立することができるということである。

 シャナがかけがえのない個人「シャナ」として確立されるのは、大雑把に言えば悠二から「シャナ」と呼ばれることの連続性によっている。思えば、『とらドラ!』においても、大河との関係を徐々に深め始めた竜二が「大河!」と大河名前を叫び、「俺は犬じゃない、竜だ!」と宣言し、大河がその名指しに反応するという場面があるのだが、これもある視点を持つ他者から名前を呼ばれる、ということがアイデンティティー確立物語へのスタートになっている。さらにスタートだけでなく、物語の途中も、終結も、すべて名前を呼びかける他者を基点として展開する。

 シャナにおいては、「シャナ」という固有名確立を際立たせる展開として、平井ゆかりでもフレイムヘイズでもない名前、という対比がなされる。平井ゆかりというのはシャナ人間世界で暮らすための偽名であり、日常人間関係に重点のあるミクロ価値を象徴する名前である。それに対してフレイムヘイズ世界バランスを保つという彼女社会的使命に重点を置いたマクロ価値を象徴する名前である。第一期の終盤、彼女マクロ価値のためにフレイムヘイズとして悠二を殺すべきか、ミクロ価値のために平井ゆかりとして悠二を助けるべきかという選択を迫られる。しかし彼女シャナとして世界も悠二も救うという選択をする。これは悠二と経験したのがマクロ世界での戦いとミクロ世界での日常の両方においてであったことと関係しているだろう。シャナにとって、マクロミクロは矛盾しない。なぜならマクロにおいてもミクロにおいても、シャナは悠二からシャナと呼ばれ続けたからである。

 他者からの呼びかけによって、一つの名前時間とともに意味を充填していくこと、それによってアイデンティティーは得られる。それは物語というものの本質でもあるかもしれない。

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