はてなキーワード: スマートとは
口の悪い連中が学級のような内輪だと思って、全世界にへんなことを発信するから、はてこもやりかえすだけだとおもってるんだろうけど、
ツイッターで口さがない連中がアカウント停止なり該当ツイート抹消されれば、それなりにユーザー間で情報共有される。
ああここではだれかの目に触れるんだからそういう省略形式で言っちゃいけなかった、あるいは伏せるべきだった鍵かけようとか
それぞれにネットの知恵をつけてくれる。それでおわりなんだよ本来なら。
はてこは本当に大人気ないっていうか、なんでも余裕がなくてまともにとりすぎ。
今後たとえば子供が生まれて育児してて子供がうんこちんこおっぱいしねしね期になったらどこに「通報」「嘆願」するつもりだろう?
なんで雇われ人である声優を巻き込もうとするかとか、やり方が全般的に大人げない(大人の事情が全くわかってないしわかろうともしていないという意味ね)。
もうね、なんでここまで自分が口出しできるとおもってるのかちぃともわからん。
「見ててあぶなっかしい」レベルをずいぶんまえに通りすぎてる。
今回も買ってもプレイもしてないでバズらせてる。
それだけでゲームユーザーにもゲームメーカーにも失礼すぎるしマジ不愉快。
そもそもナコルルKOFに出てないほうが多いだろ。
ナコルルの由来がもっとよくわかる原作にあたる月華とかタイトルもハードも消えてるし、
KOFは国(=ゲーム)を代表するチーム戦のお祭りだからユーザーなら○○チームの意味だってわかる。
アイヌをそういう差別された側の狭量な行動に押し込んでおきたいんだろうな。
騒ぎ?ああ、ゲームか、アイヌチームそんなに強くしてくれてるのか、よくある嘘っこアイヌでも知ってくれるだけでありがたいね、
なんて余裕こいていたかった人が多いのでは。
もうこの雰囲気では看病がてら奮闘するはてこが気の毒で言えない。いきなり偽善になるわけよ、本人なのに。
以前もレイプを炎上ネタにしてでもライターとして売れたいなんて絶対言えない雰囲気だったし、おまえが馬鹿だから進化論わかってねーだけだよともいえない。
はてこPTAはすごい商業マイナス効果だわ。むしろ嫌いな作品送りつけてファンネルに使うのにもってこい。
あーはてこのいないはてなにいきたい。
追記
まだわかってないみたいなので追記。
http://kutabirehateko.hateblo.jp/entry/2016/09/15/073000
KOFの声優さんといっても仕事を最後にもらって20年以上たつひとに今さら何を言ってほしいの?
あれ再録音してないでしょ。はまあゆも声出してた系列ゲームだけどね。生駒さんなら気軽に頼めるのかな。
もうおばさんおじさんになってて、声質も少しずつ変わって、出せっていわれても出ないアクション声が多いから仕方がない。
それでもゲーマーがゲームタイトルを愛してるから使ってもらえてよかった、とだまってるだけだね。
声優は新作に使ってもらえないとお金もらえないから次々新作とか引き受けるしかない。
SNKが火種かかえてるのにごまかしてつかわれた作品でのユーザーの細かい揉め事の火消ししろって。
しかもうっかり引き受けてナコルルのイメージをかえたら契約違反で訴訟「アレは公式見解ではありません、永遠に役から降ろします」。
おまんまの食い上げ。
フリーの仕事してる人に公式背負って発言しろというのは迷惑でしかない。
はてこはどうしても日本を背負ったり女を背負ったりアイヌを背負ったりして
電車の七人掛けの席に下のように人が座っている状況
⚫︎⚪︎⚫︎⚪︎⚫︎⚪︎⚫︎
⚫︎←座ってる、⚪︎←空席
で、2人で電車に乗って、連れ(◎)が席に座るから、自分はその前に向き合って立つ
⚫︎⚪︎⚫︎◎⚫︎⚪︎⚫︎
そうすると左から3番目の人がずれてくれるのよ
⚫︎⚫︎⚪︎◎⚫︎⚪︎⚫︎
こういう風に
で、口には出さないけど空いた席にどうぞって
疲れてる時とか長距離乗る時はありがたいんだけど、荷物多かったり短い距離の時は立ったり座ったりするの面倒だから本当は座りたくないんだ
でも譲ってくれてるから「ありがとうございます」って言って座ることにしている
どいてくれたのに座らないのもなんか嫌だし、かと言ってどいてくれた瞬間に「あ、座んないんで」って言うのも嫌だし
対策として、連れに⚫︎⚫︎⚫︎⚪︎⚫︎⚫︎⚫︎みたいな空席が少ない方に座ってもらうか、自分はドアの近くに立つようにするとかしているが、どうするのが一番スマートなのだろうか
http://tyler-7.hatenablog.com/entry/2016/09/04/120214
ツイッタを眺めていたら、はてぶユーザーによるディアスポリス映画版の感想が上がってて、結論は似通っていたものの、途中の視点が真逆で面白かったので、別の感想を書いてみる。
東京に住む不法滞在外国人が身を寄せ合った住むコミニュティで、殺人事件が起きる。殺されたのはマッサージ嬢、殺したのは中国から来た留学生崩れコンビ。2人は日本での外国人犯罪のビッグネームであるダーティー・イエロー・ボーイズへの入会を夢見るが、彼らの計画は狂い出し、引き返せぬまま西へ西へと流れなから凶行を重ねる。
みたいな内容。
いろんなところで言われてるように、原作の漫画でも人気の高いエピソードで、自分も映画化は楽しみにしてた口。
だだ評価としては「5点満点で3.5位かなぁ」というところ。
はてぶ主と感想が共通で面白かったのが、「物語を順序立ててみせるので精一杯」と言うところ。この映画は「社会から弾かれた若いアウトローが自分たちを止められないまま破綻に向かって突き進む」という、映画では定番のジャンルなので、後半の破綻までに、どう加速していくかが重要なように思う。
でも、それが為に重要な前半は、不吉な予感とか周・林の空気感とかを伝えるより、まず状況説明にバタバタしすぎ、中盤は逆に間延びした感じ。
名古屋の一連のエピソードとDYBs大阪支部の所は特にテンポ悪かったなぁ・・・・
「映画がシナリオに無理矢理従わされてる感」が見えてしまうのが、ちょっと乗れない。
そして感想が真逆だったのが「周と林のエピソードがクドかった」。
表現方法のテイストはもうちょっとスマートにやって欲しいと思ったものの、自分はココこそが終盤の破綻への重要な前振りであり、物語でもっと描くべきところであったと思った。
原作の受け取り方はあるのだが、自分にとって、ダーティー・イエロー・ボーイズ編の主役は周と林であって、久保塚は無力を味わわされる傍観者、伊佐久は周と林を受け入れない社会の冷厳さの代理人に過ぎない。
社会のすべてに弾かれた2人が、お互いだけの楽園を生きようとするが、破綻していく、その輝きと絶望の対比、破綻に突き進む幼い2人と、追う久保塚達の別の関係性の対比が重要なのだ。
周を突き動かすものも、要するに「林に良いところを見せたい」という、幼稚だが、純粋で、ある見方では輝いたものであり、それさえ守れずにすべて壊れていく様が哀しく美しい。
似た感想でも真逆の部分があって面白かったから書いたけど、この映画を見て一番の感想は、「原作ものだからって、原作に忠実であればオッケーって訳ではないし、核となるエピソードの為には入りきらないエピソードは切ったり改変しても良いんじゃないか」って事。
そんなわけで、「ちょっと自分でハードル上げ過ぎたかなー」と感じる映画ではったけど、本当の主役である周、林役の2人はホントよかったし、破滅に向かって西に流れていくダーティー・イエロー・ボーイズの4人は全体的に好演だった。
一応追記
モスクワではスーパー、食堂、商店のほとんどがクレジットカードを使えるようになっており、
体感で約7割がNFC対応の新型端末で、非接触型VISA paywaveやMaster paypassが使えます。
例えば、こんな感じの端末です。
マクドナルド、丸亀製麺、地下鉄の自動販売機でも普通に使えます。
http://metro.donetsk.ua/moskva-tyrnikety-v-84-metro-otel-lobbi-dota-s-paypass
paywaveで支払うときは、機械に指をさして「ペイウェーブ、パジャールスタ」とでも言えば大丈夫です。
paywaveの素晴らしい点は、「偽造の心配がいらない」「暗証番号不要」「小銭を用意しなくて良い」の3つだと実感しました。
ロシアでは磁気クレジットカードのスキミングはよくある話ですし、
ICクレジットカード決済でも暗証番号が必ず必要なので面倒です。
また、ロシアの店員は総じて無愛想で、お釣りが少ないように5秒以内で現金を用意しないと機嫌が悪くなります。
なので、paywaveを使ってワンタッチで決済するのが一番スマートだと感じました。
追記:
正直言ってATMが街中にたくさんあって、キャッシング手数料が取られないことが多いので
でも、paywaveで瞬時に払えた時、本当に感動してしまいました
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00000023-sanspo-spo
記事を読む限りだと、なんとなく叩かれるような雰囲気はある。コメントもだいぶあたりが強い。中継はみていなかったが、これだけたたかれたインタビューには興味が湧いたので動画をみてみた。
https://www.youtube.com/watch?v=PIEnYTB_qE0
インタビューが始まってすぐに涙があふれた。とまらない。うそだろ。辛すぎる。これをみたうえでこの人達はこんなコメントが書けるのか。
これをみて、人はこんなことを普通に言えるのか。頼むよ。悲しすぎる。
泣いているだけじゃないか。声を詰まらせながら話しているだろ。
金メダルとれなかったんだぞ。2位とか3位とかで「とれなかった」じゃないんだ。三十路過ぎて、人生を使って、それでこの結果だったんだぞ。怪我と失敗続きで、そうして最後のいまどうやったらこの現実を受け入れられるんだ。失敗としかいえない結果でもう終わったんだ。
誰も彼もが1位になれるわけじゃない。それを理解しながら、それに恐怖しながらこうしてがんばってきたんだろう。
この人だけじゃなくて、オリンピックの舞台に立っている人はだいたいそうじゃないのか。スマートに涼しい顔して、成功を得られている人なんて多くないだろう。みんな人生を使っているんだ。勝手そう生きているだけだけど、だからといって一方的にこんな絶望をつきつけられるのか。
たった一度のぶりっ子した人たちのカタルシスが届いて、懸命に生きている人の声がここまで届かないなんて悲しすぎるだろう。頼むよ。ここまでの過程をふりかえればその人が本気だったかどうかなんてわかるだろ。
大阪国際女子マラソンのとき、増田明美が泣いた意味がどこにある。この人は、ヘラヘラしてて、品がなくて、日本の恥ともいえる人間に対して泣く程度の人だったのか。
あのときのマラソンはイチローも泣いたといっていたぞ。イチローの目は節穴なのか。懸命の人かどうかも見る目がない人間ということなのか。
はーいはーいはーい、俺も俺も俺も!
ざっくり言えば、良かった(ざっくりすぎ)。
もう一度見に行きたい。
近年、そういう映画にはとんと当たってなかったので。
ただ反面、疑問点や、ちょっとリアリティーに欠けたかなという点も。
この映画のすごいところは、そういった点すら減点要素にはなりえないところ。
以下に記す。
(※個人の感想です)
なんというか「トーキョー対ゴジラ」のような印象。
「ニッポン対」っていう割には、東京(と関東地方)以外の土地が不自然なくらい出てこない。
5秒くらいインサートされる「ヒロシマ」「ナガサキ」の写真くらいじゃない?
よその土地が出てくるの。
中盤、ゴジラくんったら東京のど真ん中であれだけ盛大に火吐いてるから、キー局の機能は失われてしまってるはずなのに
何事も無かったのかのように放送が続いている。
(例えば、「最終兵器彼女」なんかだと、テレビ放送の機能なんかは失われていく描写だよね)
だけど、そういう描写はない。
別に無いなら無いで、ストーリーテリングの上で絶対不可欠というもんでもないし、構わないんだけど
この映画が紐つけられる「3.11」以降という文脈でいうと、首都一極集中型のこの国で
首都が機能を失ってしまったときどーするの?っていうこの国の弱点がなんの議論もされずに残されているという問題がありまして、
そこに関する見解が何も提示されていないという腑に落ちなさは少々残りました。
(とはいえ「3.11」云々は作り手側が喧伝しているというより、受け手が勝手に関連付けてるだけとも言えるので、
・東京に原爆を落とすという国連(アメリカの傀儡)決議がされたときに、登場人物の誰もが怒りに震えてるんだけど、
個人的にはあまりその怒りを(日本人なのに)自分のものとしては感じられなかった。
「ヒロシマ」「ナガサキ」に続く、3発目の原爆をこの国に落とそうということに憤っていらっしゃるようですが
1発目、2発目とは状況も意味も違うので。
もちろん生死という概念すら凌駕している可能性のある最強生物に対して原爆というある種レガシーな兵器が通用するかという
疑問はあるんだが犠牲者を計画の段から見込まないといけない「ヤシオリ作戦」よりも、原爆投下の方がはるかにスマートなやり方のような気がした。
むしろ、Hatenarとして折に触れて見聞きする機会のある「東京対地方」論で、いつも散々にこきおろされる「地方」にいる身としては
「ざまあみさらせトーキョー民!おごりくさった天罰じゃ!!」くらいのことは感じました。スッキリ!
…というくらい、「東京」と「地方」が分断されてしまってる現状、
やっぱり「ニッポン対」っていうよりは、「トーキョー対」にしてくれた方がすっきりするな。
けど、街が壊されていく様子とか、人が逃げ惑う姿、この映画の核と言える描写のリアルさはシリーズ随一だと感じた
(とくに船が積み重なっていく様子とか、押しつぶされたマンションの中にいる住人が流されていくカットとか)。
当方は東日本大震災が発生した時に震度1すら観測されなかった西日本の街に住んでいて、「3.11」という言葉にあまり
リアリティーを感じてなかったんだけど、
そんな人間でもこの作品を見て、あの日の記憶からは逃げられないんだと感じた。
それほどあの地震が残した爪痕は大きいということを思い知った。
お台場が燃えている→東北が被害激しいらしい→津波が来るぞ!逃げて→(絶句…)→原発が危ないらしい!→ハーイ/
ここまで24時間未満。パソコンの前に噛り付いて動けなかった。
実際、関東大震災の記録も集めてみると範囲も広いし、被害も東日本大震災に匹敵するほど大きい。
にも関わらず、この3.11が日本人にとって特別大きく感じるその理由は、
①ビデオ技術(ここでは単に映像なのではない、フィルムではなし得ないほどの情報量をもつメディア)が開発されて
②リアルタイムでその映像をやり取りできるほどの高速ネットワーク回線というものがそろった後の時代において、
この国が迎える、初めての破局的な災害だったからだという側面もある。
そういえば911が起こるまで、200mを超えた高層建築が実際、どんな風に崩れるかなんて人類の誰一人として想像できなかっただろう。
そういう意味では初代ゴジラ以降、60年余の間に人類がアーカイブしてきた全ての映像が、庵野秀明という最終アンカーの目を通して
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
http://rentwi.textfile.org/?759297917043609600s
心臓をドキドキさせながらブコメを見たら、「らしくないね」というようなものや、そのエントリを否定する内容がたくさん星をもらっていたので少し安心し、閉じて終わろうかと思った。
今朝、はてブのトップまであがって来ていたのでダイジェストじゃない方まで読んでみたら、
わりと「何を言ってるんだ、まったく正当なことを書いてるじゃん」というような意見もたくさん目にはいってきた。
もういちどエントリ本文を読み返して、 上へ下へ読み返して、はてなを閉じて、それから部屋でひとり泣いてしまった。
なぜ自分が突然泣いてるのか自分でもわけがわからず、ひととおりめそめそした後考えた。
エントリは、おそらく、どこかの具体的な誰かに対する怒りの発露なのだとは思うけれど、特に対象を特定することなく話が進む。切断処理と思考停止、それは敬意がない姿勢であってその学問や若者にとってはたいへんよくないという怒りの内容。漢字や英語とおなじくらい、あたりまえに数式は読めるようになるべき、できない人は恥ずかしいと思えと。
私は漢字だってそんな詳しくないし、英語だってろくに読めない。ほかにもできないこと知らないことが山のようにある。ひとつひとつ恥じていたら、本当にもう、生きていられないくらいの量になる。恥ずかしくて、みっともない存在だというしかない。
私には、数学じゃないけど、とてもとても苦手なものがあって、長いことそれは「人として普通にできなければだめ」だと思ってかなり苦しめられていた。だけど、ある時点でようやく、人は得意なことに注力そこを伸ばしていれば、社会でちゃんと居場所を与えてもらえる、座る場所をみつけられるということを知って、それでずいぶん楽になった。
もっと早くこれがわかっていればなあとも思った。「早くわかりたかった生き方」とは、ちょうど「数式アレルギー」という言葉をつかって、自分事になる前にスミマセンそれはこれ以上こっち側に入りません!とシャットアウトするようなやり方だ。私はこれをもっと早く知りたかった。たぶん、弱かったからだ。弱い人間なので、少ない体力・能力・時間を、できるだけ絞って特定領域に注力して、ようやく人並み…というか、私はこれが仕事です、と言えるレベルになった。
入ってきてほしくない何かをシャットアウトする時は、情けない顔をして、「すみません私、そういうのが本当苦手で・・・」とへーこらしているだろう。「アレルギー」という単語は使ったことはない気がするが、苦手な部分については取り組むときはアレルギー的に具合が悪くなる。それに触ると軽いパニックになって、心臓に血液がまわって体のほうに震えがくる。飛べそうもない跳び箱を前にしたときと同じかんじだ。情けない。恥ずかしい。そういえば、アレルギーは先天性の避けられないものだから、「苦手」のたとえとして適切でない、という批判を見たけれど、もともと体に合わないのを知らず多量摂取した結果発現する後天的アレルギーもあるので、個人的にはそこまでずれた例えだとは思わなかった。死ぬレベルじゃなくて「触るとかぶれる」「くしゃみがとまらない」程度のアレルギーもある。大きくなってからアレルギー、トラウマになったものがない、という人は幸福だ。うらやましい(私はソバアレルギーになってしまったし、花粉症も出た…)
そんな話を、私はしょうもない笑顔を貼りつかせて言うだろう。神妙にいったら、もっとみじめになる。敬意なく見えただろうか。誰かをいらだたせるようなやりかたをしているんだろうか。
エントリいわく、そんな私は矮小なニセモノの大人だった。考えて学ぶ時間をとっていない勉強不足の。大丈夫だよ出来なくても生きていけるんだよ、などとのたまう、才能ある若者の前には害でしかないような。
自分の専門外のことまでちゃんと気が回って、スマートに返せる人が「まっとうで普通」、「わかりません」を使う人間はものすごくマイナスの彼方にいて、恥ずかしい存在、って書いてあるように読めた。
わたしも実はかつては「わかりません/しりません」が嫌で(かっこわるいし、相手に失礼だと思ったのだ)人とボールのやりとりをするときは、気をまわしていちいち相手方の勉強する方だった。そのころ私は、出来るやつだ、という評価をもらえていた気がする。でも、それは過大評価だった。 時間を使ってむりやりやっていただけで、自分のしごとにプラスオンで、そこまではやってられなかったのだ。ある日パンクした。キャパオーバーになった。
「苦手なことを本業から除外」するためにも、こちらの「相手のためにちゃんと勉強しなきゃ」をやりすぎないためにも、 シャットアウトは私には必要な作業だった。
・・・別に自分に向けられた言葉でもなく、状況はまるっきり違うということは頭ではわかっている。それなのになんでこんなに悲しいのか考えたところ、ちょうどこのあいだホッテントリに入っていた、生きがいについて聞く増田と、その増田を憎む、というエントリの構図を思い出した。既に大量に「持ってる」ことを自然体としてもっと上の何かを求める増田と、そもそも「持ってない」増田。前者の増田に、後者の増田の存在は認識されていなかったので、傷つく人がいるなんて想像もしなかったんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
http://anond.hatelabo.jp/20160728154543
「できる」「持っている」のが当然で、そこがゼロ地点である、という前提で始まる議論は、たいへんまぶしく光っていた。そこからはるか下にいる自分は、 光にばーっと照らされるて、うわー、ゴキブリかー!と改めてつきつけられてしまった。結城さんや、ほかの仕事できる側ですと言うブコメたちからみたら、私は、あの憎む増田のいうところの、ゴキブリということなんだー、と。それがはっきり見えて、私は、 あんなにみじめで悲しくてショックをうけてしまったのだった。 書き手はそんな意図はなかったかもしれないけど、本心をふつうに書いた結果、それは流れ弾になって飛んできた。「恥ずかしい」「ニセモノの大人」 「勉強不足」 全部つきささってしまった。ブコメの「頭が悪い」「逃げをわざわざ打つな」「無知はさておき、恥知らずはちょっと」「無責任」などなど、もりもり刺さった。やっても追いつかない、体が持たずに睡眠に割いてしまう、これは、勉強不足か、頭がわるいか、無能か。
思い返してみる、そういえばもともと、結城さんは「中高生が一人でも数学面白いって思ってくれたら」みたいなことをよく書いていた気がする、今回も「若い人が」って、今後やってくるであろう未来ある若者と数学の未来について考え、憤っている。あー、もともと私のような人間はその立派な活動のおこぼれにあずかっていたようなものだろうか、などと、感じてしまった。優しいから別にそんなこと誰も直接はぶつけてこない。「誰しも学びたいという気持ちが」とか「すそ野を広げることが大切で」みたいに書いてくれるだろう。でも、ただ、眼前には辛辣な実際があった。それを見てしまっ(たように思え)て、がっくりとくじけてしまった。この人は弱い方の人間のためにも階段を用意してくれる人だ、この人は味方だ、…そう思っていたので、ちょっと、そう、ショックだったんだ。
こういうリプライを飛ばしている方がいた。結城さんもこれをリツイートしていたので、それですこし救われた。
「このポストは生まれつき数学が苦手な人に対して失礼だと思います。彼らは「勉強不足」で数学 (算数) のような抽象的な概念がわからないのではありません。生まれつき無理なんです。そして生きるためには「数学は苦手である」ことをこのような表現で宣言する必要があるのです。」
生きるために、という一言がとても優しい。これを読んでまた泣けた。ありがとうございます。
これが繊細チンピラと呼ばれる人々の見る世界か…などと思った。向こうに悪意はない、ないのは知ってる、でも、アアー。何かを受けて勝手に倒れ込んでしまった。朝から夕方ごろまで、めそめそしたりぐったりしたりしていたけど、落ち着いた。大丈夫だ。でも、たぶん数学ガールはもう読めない。あれは私のものではないなと強く思ってしまったから、みじめな気持ちになってしまいそうだから、いったん自己防衛のために、もろもろフタをしめて、また明日から仕事とか家のこととかで、ばたばたして一度いろいろ忘れたいと思った。あー、きょうはお天気もよさそうだし爽やかに走りに行こうと思ってたのだけど、目が真っ赤になりすぎて外に出られなかった。のんびりストレッチでもして寝よう・・・。