「アスペルガー」を含む日記 RSS

はてなキーワード: アスペルガーとは

2024-08-11

(長文愚痴失礼します)成長した「障害児」である私と、母

使い方もよくわかっていませんが、どこか匿名場所に吐き出したかったので失礼します。

読みにくい文章だと思います。ごめんなさい。

私は生まれた時から発達障害であったらしいです。

そんな私は障害言い訳に何もかも諦めて人に頼るのは嫌で、けれどどうしても苦手なことがある自分自己嫌悪を抱いて生きてきました。

そんな時、どんなに私が嫌がっても常にそばにいてくれたのが母でした。

ずっと母のことは苦手だった私ですが、今日明確にその理由自覚してしまい、心が折れそうになっている状況です。

いつからこんなに関係が歪んだのか、母は私の人生最初から歪んでいたのかはわからない。けれど、ひとりごととして書かせて頂きたくこの場所を選びました。最初に言いますが、ものすごく長いです。それに特に目的もない文章であり、私視点のもの見方が多分に入った不公平な記録であり、ただの私の愚痴しかない部分も大きいです。勢いだけで書き殴り、文章校正もろくに行っていない駄文ですが、お目汚し失礼いたします。

現在、私は18歳。生まれた時からアスペルガーADHDであり、小学校の時に診断された(伝えられたのは中学の時)と聞いています中学の途中からいじめ不登校(別室登校をする日も多かったですが)となり、通信高校に進学。今の法律だと成人と扱われる年齢で、あと1ヶ月もしないうちに19となります本来大学生社会人になっている年齢なのですが、去年のいざこざが主で課題どころじゃなくなり、留年となってしまいました。現在高校生活4年目を過ごしています

また、普通ことなのかもしれませんが自立を目指しており、まず誰かに金銭的に頼らず、家事も全て一人でして、完全に自分だけで日常を完結させることを目指しています。不出来で未熟である故に、バイト面接でずっと落とされているのですが……

母は50代。私が生まれから範囲だけで肩書は何度も変わったが、今は看護学校の生徒兼、土日勤務の老人介護施設職員として生活しています

他、いわゆる面白い人で、いわゆる気弱という単語想像する押しの弱い性格ではないけどどこか気力が弱いと感じる父と、高校生かつ彼氏もいて青春謳歌している妹の4人が私の家族でした。父は今現在単身赴任中ですが。

現在の家は端的に言って地獄。使った後のものを捨てられず、ゴミを撒き散らして片付けもしない私と。それに怒る母。料理した後の食器を洗わない私と、それに怒る母。調味料は出しっぱなしの私と、怒る母。部屋に籠る私と、怒る母。

正直片付けは明確に私が悪いです。昔から苦手なのに矯正しきれなかったし、最近は何をするのも面倒で悪化しているほどですから

ですが、私視点言い訳しかならないのは重々承知ですが、料理関連は私としても文句があり、私はたとえば肉を焼いたフライパンも、それを乗せた皿も、食べるのに使った箸も一度に洗いたいのですが、母は私が食事をしている間フライパン放置されるのが我慢ならない様で、リビング中に響き渡る小言を言いながら勝手食器を洗ってくれます。そうしては

「なんで私に食器洗いをさせるんだ、私は召使か」

と怒るのです。単に私が先に洗えばいいのはわかっているのですが、後述するトラウマもあり食事はできるだけ早く済ませたいのと、そもそもどうしても母と顔を合わせて、大小さまざまなトラブルが発生するリビングに私は長く居るのが嫌ですから。母もいちいち怒っていては疲れるでしょう、というのは言い訳しかなりませんが。

洗い物の量にも怒るため、例えば結構火に気を使う必要がある料理で2回バターを使うタイミングがある場合、2回目のバターを皿に取り分けるとまた皿が増えるのでバターのケースを10分程度出しっぱなしにしていると

「腐るでしょう」

と怒ってきます調味料トラブルもこのせいです。

先述しましたが、こんな状態リビングにいては私も疲れてしまます我慢できれば良いのでしょうが毎日こんな環境に晒されていては精神が壊れてしまますから我慢もできなくなっていきます。なので部屋にこもって過ごすことにしたら、

「なんで歩み寄ろうとしてくれないのか」

と部屋の外から叫び出す始末(部屋の戸は勝手に開けるなときつく言ったためもう開けてこないようになりました)。

あと私が母を嫌いな理由に、会話を露骨誘導してくることがあります

たとえばラーメン屋に一緒に行った時。

「席どこにしようか、お座敷は嫌だよね?」

別に嫌じゃないから早よ食べたい」

「でもママは嫌だよ?」

これはほとんど本来の会話そのままで最初から嫌だと決めつけて聞いてくるのがまず少し私は不愉快で。だから今までははいはいと従ってきましたが、自立のために意見を言えることも大事であると多方面から言い聞かされているため反論すると母の意見誘導しようとするのです。最初から母が嫌なだけだと言って欲しい。あと、もう法律上成人となったほどの私にいまだに一人称ママ」なのが気持ち悪いと思ってしまうのは単に私の心が狭いだけなのでしょうか。

その後テイクアウトがあると知り、メニューを開いて会話した時も

テイクアウトどれがいい?」

餃子、妹が食べてるのみて美味しそうだった」

「あれは冷凍食品だよ」

「知ってる、関係ない、餃子がいい」

「あっこれも美味しそうだよ」

餃子にするって言ってるじゃん!!私は餃子って言ってるの!!もう変える気もないんだって!!!

「なんでそんな畳み掛けるように言うの?壁を感じる」
と。私は数日前から妹と母がいる状況で「この餃子はどこで売ってる?」などと聞いたり、とにかくずっと前から餃子が食べたくて、食べれる機会があったら餃子と決めていたのです。なのに3度4度聞き返す。遠回しに餃子却下しようとしていると思うのは私の捉え方がひねくれているのでしょうか。

こんな中でも私は定期的にリビングにいく必要があります。私の部屋にはキッチン冷蔵庫もないため、食事の時は必ずいく必要があるからです。今日日曜日の朝もそうでした。仕事か何かで母がいないことを祈りながらリビングに入ると、普通に母がいました。とりあえず食事だけ済まそうとすると、またしても「なんであれができない」「なんでこれができない」と説教の嵐。最初にも書いた通り、私は発達障害です。もちろんそれを言い訳にはしたくありません、最終的には自分の脚で立って生きていきたいのです。ですが、スタートラインが少し後ろにあるのも、『できない』ことが多いのも悲しいながら事実で、この『できない』ことにより私は自分のことが嫌いになっています。要は『できない』という言葉は、『できない子』であるというレッテルは、私の心の傷なのです。気遣えなんて言いません。私が少し自制すれば済む話でした。なので、今朝のきっかけは私だったと思います

「できないなりに必死にやっているんだ、成長するまで少し待ってくれ」

内容としてはこんな感じでしたが、多少怒鳴るような声と顔で言ってしまたかもしれません。そこから言い合いになり、できないなら頼れという母の主張と、私は自立しようとしている、家を出ようとしているという主張の対立に話が進みます。少し頼るくらいいいじゃないか、と思われる方もいると思いますが、母は私が『できない子』であることを前提に助けの手を伸ばすのです。そして私が何かを成し遂げると

「できない子なのに頑張っててえらいね!」

といった要な意味合いの褒め方ばかりするのです。

なので、私は母に頼るのが絶対に嫌でした。意地を張っているだけです。ですが、本当に私は母が嫌いでした。

そこからは当たり前に母の説教が始まります

「なんで歩み寄ろうとしないの?なんで相手のことを理解しようとしないの?」

「どうせできないから、無理だから、って言うんでしょ」

ラーメン屋も会話を楽しみたかっただけで圧なんてかけてない、そう捉えるお前が悪い。こっちがどんな気持ちで誘っているかも知らないで」

「そう捉えるお前の性格が嫌われる原因だ」

「周りより成長が遅いのに大人になったつもりでいるな、成人だけどお前は子供でいいんだ、子供でいろ」

「今の話の何割が本当?本当によく考えて出した答え?もう一度よく考えて本当の気持ちを教えて」

「頑張って大人びないの」

料理とかで誰かに助けを求めな?…他に探してるの?そっか、それは私じゃないんだね。じゃあ料理する場所も私のキッチンじゃないよね?」

「どうせこの話も言いくるめようとしてるって思われて終わりだ」

など、優しいようで私の行動を誘導してくる説教が延々と続きます

極め付けに言われた言葉が私の母を母だと思う心にとどめをさしました。

結論としてはママは(私)に子供でいてほしいんだよね、お世話したいんだよ。できないこと助けてあげたいんだよ」

母は、私がずっと『できない子』であることを求めている。そして、できない子の世話を続けることを望んでいる。母の理想の可愛がり方ができればそれでよく、そうじゃないなら要らない。そう認識した私は、ひとしきり部屋で泣いた後この文章を書き殴ることにしました。

思えば昔からずっと苦手でした。

比較最近出来事だと、私が留年するきっかけになった妹を119で搬送してもらった去年の話。毎朝毎晩家族喧嘩が勃発しており、私はその時はまだ事なかれといった感じで、とりあえず適当に流したり、会話を無理に遮ったりして根本的な解決を試みたり文句を言ったりしないまま毎日を過ごしていました。そんな毎日とある朝、寝坊した私を妹が泣きそうな顔で起こしており、部屋に入るなと言っただろう、と言う前に妹はスマホの画面を見せてきました。

「声が出なくなった」

と。私もかなり気が動転し、できるだけれいせいになりながら妹のかかりつけの精神科やさまざまな外来を巡りました。ネットの知り合いで集まったサークルで聞いた話でしかありませんでしたが、声が出ないのは重大な病気可能性もあるとのことで、私は救急車相談ダイヤルなどを一旦挟んだのちに、妹をこのまま失うのが怖すぎて、救急車を呼ぶと言う判断しました。

結局妹はそこまで重大な病気ではなく、声も早ければ当日中に戻ると言われました。私は安心したのですが、その後駆けつけた両親から説教の内容に私は耳を疑いました。

多少、怒られる覚悟はしていたのです。親になんで頼らなかった、と。ですが今回妹が怖がっている親に会わせるわけにはいかない、私がどうにかしないと、と思っての独断でした。説教覚悟はしていました。

「なんで救急車を呼んだ、社会迷惑をかけた、本当に助けが必要だった人がいたらどうするつもりなんだ」

なんでこういう説教なんでしょうか。妹がその、助けが必要な人だったら、妹はどうなっていたか。結果何もなかっただけなんです。妹は声が出ない、どんなに頑張っても出ない、という通常ありえない、明らかな何かしらの症状が出ていたのに。

リアルの知り合いに頼れる人なんていませんでした。結局またネットの友人(一応年単位の付き合いであり、毎日少しずつ親の話を聞いてもらって、ネット上という前提である程度信頼していた相手でした)に相談し、強硬手段として親を110通報したのです。
そこから私たち姉妹は叔母さんの家に保護され(結局妹が帰りたいと言い出したので5日程度で帰りました)、少なくとも2種類の緊急番号を実行した私と親の間には明確な溝が残りました。

この件で私は心身をかなり病んでしまい、最終的に精神病棟に3ヶ月入院することになりました。それが高3の最終課題提出時期と被り、私の留年は確定しました。

この一件があまりに大きいのですが、それ以外も昔から毒親』と言ってしまった時に怒鳴られた数日後

毒親系の本買って勉強してみたけど私は全然マシだよね」

と言ってきたり、反抗期のような状態にあった中学時代の私が

他人が私の気持ちがわかると思わないで」

といったら、

他人!?家族他人だって言うの!?

と絶叫のように怒鳴りつけてきたり、小学校の頃まだサンタを信じていた妹がクリスマスシルバニアの家が欲しいと言えば最初から

「さすがに子供っぽいよ」

と難色を示し、結局当日には全く関係ないラジコンヘリを枕元に置いて妹を泣かせたり、

私が学校の授業で2歳の頃の誕生日パーティ写真を使い、写っていたビール缶が誰のか友達に聞かれた時に母と答えたら

「なんで私が酒飲みだってバラしたの、おじいちゃんでもおじちゃんでもよかったじゃん」

と大泣きしたり、いろいろなことがありました。

こんな母でも若い頃はちやほやされて、某大手ソースメーカーパッケージデザイン部門に勤務していた頃、専門知識もないのにその見栄えを買われて『味の専門家』なんて肩書きでテレビに出たりと、まあ中々に話題の中心にいる人物だったようです。

私はこれらの経験を通じて出した結論として、

ペット愛玩動物扱い」なのか、

自分の子供で、自分の一部扱い」なのか、

自分という可愛い存在の装飾品の一部」なのかわかりませんが

少なくとも、私は母に対等に人間として扱われていない、ということだけははっきりわかりました。

自立しようとすると途端に態度が冷たくなるんです。私が母と食卓を囲みたくなくて自分料理をするようにした際も、

「私の料理が食べられないのか」

露骨に機嫌を悪くし、会話の機会が減ればそれだけで怒鳴りつけてくるほどに苛立つ。会話を増やして結果喧嘩も増えれば、譲り合わない(=母の主張を飲まない)私が悪い。

おそらく、母にとって自立した私はどうでもいいどころか無駄喧嘩を売ってくるうざったい存在なのでしょう。

いつまでもよしよしと可愛がることができる子供でいてくれないと、母は愛してくれないのでしょう。

そもそもきっと、最初から愛してなんていなかったのかもしれません。愛していたとして、それは人間を愛する感情より、小動物ケージの中に閉じ込めた上で餌をやり撫でる感覚に近いのだと思います事実旅行などは向こうが一方的に決めて連れ回してきますし。

こんな私ですが、母のことはもちろん大嫌いです。と同時に、捨てきれない執着と苦しみを同時に抱いています

私はあの人間が大嫌いですが、「母」という存在にいまだに夢をみているんだと思います「母」に無条件で抱きしめられて、他より劣っていたとしても、逆に他より優れていたとしても、私が私であるだけで愛してくれるような存在をいまだに求めているんだと思います

私にとっての「母」は、対等に愛してくれないあの人しかいないんです。どんなに嫌いでも、憎くても、私は愛情を求めるたびにあの人の顔が脳裏に浮かびます

結局はこんなことを書かせてもらったとしても、最終的には私が踏ん張って逃げ切るしかないんです。なのにこんなことを書くのは、きっと肯定が欲しいからなんだと思います

別にできない存在として、仕方ないなあと甘やかされたいわけじゃないんです。ただ、私が母に対してひねくれた見方をしているから苦しいだけで、母は普通に愛してくれているのか。それとも、私が苦しいと感じるのは別段おかしいことではないのか。その答えが欲しいだけで、こんな長文を書いているんだと思います。そして、ひねくれているだけだと言われたら余計に傷つくし、単にあなたは悪くないという肯定が欲しいだけであることも自覚してはいるんです。それでも自制ができなかった。

本当に、お目汚し失礼しました。もし最後まで全文読み切ってくれた方がいましたら、綺麗事も誇張も抜きで幸せを祈らせていただきたいです。

ネットの先の顔も性別も年齢も、書いてあることが真実かすらも不確かな相手戯言最後まで聞いてくれる人は、どこかで成功して本人が満足できる人生を送って欲しいですから綺麗事しか聞こえないとはわかっていますけれど、祈りたかったので祈らせてもらいました。ありがとうございました。

2024-08-03

anond:20240803225541

増田映画アスペルガーシンドロームを持つ父親と息子』という映画を知っていますか?これはASD自閉スペクトラム症)の家族関係を描いた映画で、コミュニケーションの難しさとその克服をテーマにしています。その中で描かれる人々の感情の浮き沈みや誤解は、増田経験と通じる部分があるかもしれません。

まず、増田目標である仕事人間関係トラブルを起こさないようにしたい」と「コミュニケーションを楽しみたい」ために役立つアドバイスをいくつか考えました。

### 1. **相手感情に気づく工夫をする**

相手ヒートアップしたり、飽きていることに気づくのが遅いと感じているなら、非言語的なサイン(表情、声のトーン、身体の動き)に注意を払う練習必要です。トレーニング情報を得ることで、相手感情変化に早く気づくことができるようになります

### 2. **会話の進行を少しずつ確認する**

意見が異なる際、「ここまで大丈夫ですか?」や「これについてどう思いますか?」といった確認を挟んで進行をチェックするとよいでしょう。これにより、相手がどの段階で感情的になっているかを早めに察知できるようになります

### 3. **共感表現するスキルを磨く**

相手意見に対して「そうですね」や「それは面白い視点ですね」など、一言でも共感肯定的な反応を挟むことで、相手感情を和らげることができます相手自分意見理解されていると感じてもらえることで、口論が緩和される可能性が高くなります

### 4. **論点を明確にして共通点を探る**

増田意見を述べる際、論点シンプルかつ明確にし、共通点を探ることを意識しましょう。たとえば、「ここまでの話をまとめると、あなたは〇〇と感じているし、私は〇〇と思っています。でも、ここで共通している部分はありますでしょうか?」と問いかけるのも効果的です。

### 5. **相手感情理解し、自己表現を調整する**

相手が「めんどくさいからお前が正しいで良いよ」と言われた瞬間、「そう思わせてしまったのは自分責任だ」と客観的にとらえるよう心がけると、自分の怒りを少し和らげることができるかもしれません。

### 6. **感情管理リラクゼーションテクニック**

怒りやストレスを感じたら、ディープブリジングやマインドフルネスなどのリラクゼーションテクニック日常的に取り入れることが有効です。感情コントロールを身につけることで、状況が理不尽に感じても冷静さを保つことが可能です。

以上のアドバイス増田コミュニケーション改善に役立つことを願っていますさよならさよならさよなら

日本語最近わかってきた

最近わかってきたのでメモしておく。

やった方がいい

やるべき、やってください、の意味。やってもやらなくてもいい、という意味とは違うので注意。

無理かもね

絶対無理、無謀です、やめるべきの意味類似表現に「やめた方がいい」がある。

ここら辺のニュアンスが分からなくて、他の人からアドバイスをけっこう無駄にしてきてしまったのが今になって悔やまれる。

こういうのよく分からなかったのは、俺自身アスペルガー傾向があるのと、親の教育がけっこう直接的な介入だったのが原因かなと思ってる。

2024-07-24

あおやまです

アスペルガー自己愛性人格障害者に粘着されて本当に酷いって言ったら大変だったなって言われました

2024-07-23

脳に電極入れて脳を制御する時代がくる

脳に電極をいれて電気を流せば

過食症拒食症制御できるし

依存症だって制御できる

ギャンブルニコチン中毒制御できるし

ADHDアスペルガー制御できるし

まり脳に電極をいれて脳を制御すれば

次世代人間になることができる!

より真っ当な人間になれる!

2024-07-19

anond:20240719094104

論点ずらしではなく、そんな話はしてないと言っている

アスペルガーなのか統合失調症なのかわからん

全然違う話を突然もってこられても

そんな話はしてないとしか言えない

あたりまえだろそんなこと

2024-07-16

anond:20240714182959

正論でも何でも無いぞ

俺は、あぁアスペルガーだな‥と思いながら読んでた

2024-07-15

アスペルガー少年の「レシピの"適量"ってどれくらい?」って質問シェフが答える。 「味見をして自分で決めるって意味だ」って。

アスペルガー少年の「レシピの"適量"ってどれくらい?」って質問シェフが答える。

「味見をして自分で決めるって意味だ」って。

深いよね。

このやり取りにはASD大切なことが詰まってる気がする。

https://x.com/pawapongASD/status/1812299470643880136?

2024-07-07

anond:20240702110941

元農水事務次官長男殺害事件母親アスペルガーに生んでしまって申し訳ない」

周りに白い目で見られようがなんだろうが、SOS出して最悪の事態を招かないようにね…。

anond:20240702110941

不注意や多動も気になるけど、知能はどうなの?

それが最も気になる。

アスペルガーおっさんが金にものを言わせて結婚したら、息子がひどい自閉症になって世話にめちゃくちゃ苦労している例を聞いたことある

そういう、生活介護必要になるレベルでなければ、まだ取れる手段は多いのかなと。

脳に電極を入れられれば精神的な病気が治せるんだろう

心が辛い時に電極で電気を流せればそんなもの簡単に消せる

これほどいいことはないだろう

鬱病自律神経失調症適応障害不安障害、などなど色々あるがそれらが治せるのはいいことだ

あぁーー脳に電極をいれてえなー!

トラウマとかも簡単に消せて怖いものがなくなるのもいいことだ

発達障害とかも治せそうだ

AHDHもアスペルガーも電極さえいれて脳に電気を流せれば

一瞬のうちに治せると考えると脳を制御しないほうがおかしいだろう

脳に電極さえいれられればなー!!

2024-07-03

anond:20240703232319

あーなるほど

それは難易度爆上がりだわ

実は俺も数人に適切な距離みたいなの教える立場にあるんだが

発達障害の奴数年がかりで教えても、平気で大事故起こすから

アスペルガーならなおさら大変だろう

大変だなと思ってやることしかできないけどがんばれ

2024-06-29

anond:20240629114150

占いにそんなこと言われても(整合性を求められても)だが、フツーにこう言う感じやで?

 

 

ADHD ENTP で検索する
https://www.google.com/search?q=ADHD+ENTP 

ENTP(討論者)の取扱説明書恋愛観〜キャリアと適職などを ...

note

https://note.com › mbti_brain16

note.com からADHD ENTP

2022/12/11 — 【ADHD(多動症)やADD(注意欠陥障害)の可能性が最も高い】. これらの弱みが組み合わさることで、ENTPさんは、比較ADHDADDの傾向が強いとされます単一 ...

 

 

先生 on X: "ENTP、ADHD説明書だと思ったけど

X · Dr_murasaki_

評価 70+ 件 · 2 年前

twitter.com からADHD ENTP

ENTP、ADHD説明書だと思ったけど、意外とADHDで1番多いのはINFPだった。 絶対ADHDアスペであろう身近な人はINFPだった。 ノリで本格的なIQテスト ...

   

 

Entp Adhd 多い

TikTok

https://www.tiktok.com › Discover

75M件の投稿。Entp Adhd 多い関連の動画TikTokで探そう。 Entp and Adhd, Adhd何型が多い, Adhdけが見える, Que Es Adhd, Iep for Adhd, Adhdあるあるに関する動画 ...

 

 

ENTPとADHDASD/アスペルガーなどの発達障害関係を ...

生きづらさ×MBTI

https://minoritymbti.com › MBTI

2021/08/25 — ENTPは優勢機能に外向的直感(Ne)というADHD親和性の高い心理機能を持っているため、ADHDの特徴に当てはまる人が比較的多いタイプです。

2024-06-23

アスペルガーじゃない人間って逆にいるんか疑問になってきた

ここじゃ挨拶のごとく飛び交うアスペという単語だが、日々コミュニケーションの失敗や人間関係を巡るトラブルが絶え間なく起きてることを考えるとアスペルガーでない人間とかほんとにいるんか疑わしくなる。

模範的な回答をするのなら程度問題かいう話になってくるんだろうけど、その程度が健常者とされる人とアスペルガーと診断される人で50歩100歩で思っているより差はないのではないか

2024-06-19

anond:20240619035407

そして馬鹿アスペルガー意味もわかってない。

自分が口にしてる言葉意味もわかってない

2024-06-18

anond:20240618221543

途中で切れた。長いと切れるんだな。知らなかった。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援必要特性について見過ごされたまま、強いストレスを肉体と精神の両方に受けることになったこと。

また、発達特性が仇となり、ストレスを軽減するための人間関係を作れず孤立したこと

これらの要因により精神的な限界に達した時、受けた負荷が強いパニックの形で噴出してしまい、結局はそれが水泳挫折する原因になったということ。

その後も必要ケアが十分には受けられなかったこと。

また、子ども当人(つまり、私)が、その負荷をむやみに強いられたと感じ、母親への不信を深め、その感情に向き合って修復する機会がないまま、成人後に関係破綻させてしまたこと。

そして、これらの感情的な傷付きに至る経緯とは別に特性について適切なケアトレーニングを受ける機会を得られなかったこと。

これらのことが、社会に出てから仕事への意欲が薄いこと、将来への展望を描けないこと、社交場面における不安などに影響し、また自分特性を扱う上での経験不足がストレスによる不眠、日中の眠気などに繋がり、上記不安拍車をかける結果となった可能性はあるのではないか、と私は思う。

そして、冒頭の「あなた言葉感情説明しない」という指摘もまた、やはり『嫌だ』『つらい』という訴えを繰り返し退けられ練習強要された経験から自分のつらさを他人に訴えてケアしてもらうことを諦めてしまい、直視せずに蓋をすることが常態化している精神状態にある、そのために精神的な問題を抱え込みやすくなっている、と説明できるかもしれない。

また、休職前に孤立無援と感じられる状況にふたたび置かれたことで、水泳パニックを起こしたときのように、強いパニックをおそらくまた起こし(あいまいな書き方なのはあんまり覚えていないので)会社に行くことができなくなっている。

これが当時のトラウマのいわゆる『再演』にあたる可能性はあるかな、と少し思う。

とはいえである

両親は私を愛しすぎるほど愛してくれており(少し連絡が取れないだけで着信を100件超えて入れるのが常態化していた程度には)、特に金銭の面では一般的な親の倍以上に私に支援をしてくれたことは事実である

上記事実をもって、私をまだ幸運なほうと思う人もいるだろうし、就活のくだりなんか、特に甘ったれていると思う人間も多いだろう。

ただ、3歳〜16歳ごろの人格形成期+思春期に、チームメイト精神的にまったく連帯できない状態スパルタ式の暴力的な教練を日がな毎日受けるという負荷は、おそらく定型発達の人間でも耐えられる人は限られるのではないか、という気もする。

そういう負荷に発達特性のある子どもが挑む場合には、おそらく精神的なケア定型発達の子ども以上に必要重要なことだったのだろうと思われる。

私がそういう子どもであったことが親の不運で、特性由来のストレスに対する適切なケア社会トレーニングの機会が得られなかったことが私の不運である

正直なところ。

母は小学校高学年くらいの段階で、私を発達障害者だと疑ってはいた。ネットの普及し始めた当時、私の持つASD的な特性の一部分はアスペルガーと呼ばれていたが、そのことについて母が情報収集していたことを覚えている。

しかしそれは、障害を受容した上で、適切な支援に繋げるという結果にはならなかった。

ちょうどそのくらいの時期に平成不況がやってきたのだ。私の特性を考え、進学先に私立中学を視野に入れていた母の計画は、完全にそれどころではなくなってしまった。父の会社にもリストラの波がやってきたのだ。

タイミングの悪いことに、私が水泳の過度のストレスからチックに陥った時、ちょうど母は不況への恐れからパートを始めたばかりの頃だった。私の『病気』の原因について、母は周囲からの責めを一人で負うしかなかった。父の両親との二世帯同居の家で、専業主婦の母は孤立した養育者だった。

結論から言うと父はリストラを免れ、我が家経済危機回避されたのだが、その頃には私の私立進学計画はとっくに頓挫していた。母が「結果で黙らせなさい」と言うようなことを口にし始めたのも、この頃だったかもしれない。

父親はというと、やはり私の親で発達的な特性が強く、自分の興味のあることしかやりたがらないタイプだった。養育者として、社会的な範を示すとか、発達的な特性とどう付き合っていくかとか、そうした問題についてまったく頼りになる人ではなかった。

悪い人ではない。悪気のある人でもない。一流企業にまじめに勤め、高収入であり、私に関わる多額の費用を全部賄ってくれた人である。そしてそれが、おそらく自身でも困りごとをたくさん抱えていたであろう身で父にできた、私への精一杯の愛情だったろうと思う。

母もまた、母の出来ることを最大限にしてくれた。母は、思春期の私の苛烈で発達のアンバランス性格(受けていたストレスを考えると、おそらくそうなるしかなかった)に何度も振り回されて、傷付き、それでも最大限考慮した上で、「あなたは結果で黙らせなさい」と言うしかなかったのだと思う。

これは私がどう生き、どう傷つき、現在どう困っているかにまつわる記録ではあるが、同時に単に毒親から被虐待についての記録としてはなるべく書きたくはないと思っている。充分悪者に書いただろう、と思えるような筆致だったかもしれないので、ここに補足しておく。私は難しい子供で、両親は常に一方的加害者ではなく、私を支援してくれようとした。私たちはお互い感情的な対立を何度も経験し、お互いに何度も傷付き、それを乗り越えてきた。その過程でいくつか間違いがあり、一度関係破綻してしまったが、それでもまだ、この先に和解可能性がないわけではない。

それぞれの人間がそれぞれに苦しんだ結果、私の今日につながっているのである

・これから

これを書いているいま、これからどうなるのか私にはわからない。これらの生い立ちから私が受けた傷を癒せるかもしれないし、そうではないかもしれない。困りごとを軽減してなんとか社会で上手くやっていけるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。

ただ、良くなってほしいという希望を持って先生たちは治療に当たってくれているし、希望は捨てるべきではない。そう思うので自分恥部を曝け出す覚悟でこれを書いた。一種の『底尽き』を気力で前に持ってきた、というやつかもしれない。

ただ、強いトラウマを抱えた発達障害当事者予後は正直あんまり良くなさそうだなぁ、とは、当事者たちの声をインターネットで拾ってみて思わなくもない。

・これからどうしたい?

社会復帰がどうなるにせよ、実家にだけは帰りたくない。

ただ、復帰できないとこれが現実に起こりうることが現状最大の懸念である

プリントアウトして病院池添謙一

当然、持っていく予定である

プラダリアの取捨だれかおせーて。

カウンセリング先生も「感情説明しない」と言っただけで、そこまでドバーッといきなり半生にまつわる自己開示が出てくると思ってないんじゃない?

それはそう。

カウンセリングにはこの記録を持っていこうとは思うが、どの程度まで自己開示すべきなのか、いまが適切なタイミングなのか、そのあたりをきちんと確認しながらやっていこうと思う。

少なくとも、これを書き下せたことで、私の中では問題解決へ向けて、整理と準備がついたと思っている。

・おまえが誰かわかった

べつにわかってもいっかと思って書いている。とくに失うものはない。

何かしらの連絡手段で私とつながっていて、内容でなんとなく察した人は、「もしかしてこれお前?読んだよ」とメッセージくれると嬉しいよ。困窮者だ!金ヅルにしよう!と思って寄ってこられるとちょっと悲しい。というか休職人間に金はない。

やあ。まだ生きていますよ、私。あなたはどう?

・本当のトラウマもっと混沌としたもので、こんなに整然と説明できるものではないのでは。ストーリーをがっつり作りこんで、無意識に本当に触れられたくないことから逃げている可能性はないか

自分言語理解比較的高い特性を持っているので、書くことによって自分をメスで捌くように腑分けして、人前に晒すという自傷行動に割と慣れているし、やはり言葉によって自分説明できるとなんとなく落ち着くタイプである。その助けもあってなんとか書き切れたが、それでも書き切るのにかなり涙を流したので、この記録には多大な精神的労力を必要とした。文字通り血を流しながら書いたと言っていい。

その上で、超フラットに、予断を挟まず言えば、その可能性はないとは言えない。私のような人間レトリックを使うのがうまい。そのレトリックの中にいつでも逃げ場を作り出せてしまうので、「可能性がない」と言い切るのはフェアではない。自分でも気づいていない可能性がある。

発達障害水泳平成不況リーマンショック、30代

・これは何か

私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である

なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。

・なぜこれを書いているか

私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである

精神科に通いつつ、投薬とカウンセリング治療をおこなっている。

そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。

(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなた言葉あなた感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)

正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。

水泳のこと

3歳から高校2年まで水泳をやっていた。

早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。

当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。

楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合母親ほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。

行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。

でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまタイプ人間だった。

父親も叔母もスポーツ学生時代成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。

それが母親成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。

長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。

ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。

こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。

極め付けはようやく出来始めた友人関係破壊されたことだった。

中学に上がると、小学生選手育成クラスから中学クラスに上がって、ここがジュニア女子選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子さらにその上澄みだけが入る、一番練習ハードクラスがあった。

いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイト連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。

(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲーム一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)

けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。

私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスちゃんと私の記録は伸びていた。

だけど母はその伸びでは満足できなかった。

母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。

私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。

そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。

私はかなり嫌がった。もともとジュニア女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。

母は私に、「あん肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたダメになってしまう」と言った。

嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。

中学1年の女子高校生の男子クラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。

私が苦しんだので、母の不安は解消された。

そして、精神とはうらはらに、私の肉体はそれに応えた。

実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。

注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたこである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナス感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。

あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから

この頃から試合合宿遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。

体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。

しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。

だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻きブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。

ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてから予備校漬けになった。

受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業自分特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。

大学には簡単合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。

とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。

ここから水泳を辞めた後の話に入る。

友達が作れない、学業に身が入らない問題が出る大学1年目

ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。

ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。

1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。

とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。

漠然と、卒業したら死のうかな、と思っていた。

就活ができない問題が出る大学3年生

学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリラインだった。

振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。

就職留年

このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショック東日本大震災の影響があった時期で、特に女子就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。

でも、留年したのに就活全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親マイナビリクナビエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。

面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。

卒論が出せなくて2度目の留年

このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。

結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶ぼんやりしている。

ひとり暮らしの家を引き払い、実家カンヅメになって母親監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。

ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。

この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。

新社会人として

もう一度実家を出てひとり暮らしをはじめた。

働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。

本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。

この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分価値ボロボロと溢れ落ち、人生ダメになっていくことについて、母親への不健全復讐欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。

この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場経験した。就職先は人売りのSESだった。

コロナ禍でリモートワークが開始する

これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。

この現場が4年くらいで終わり、本社に戻ることになる。

本社に戻る。眠気の問題ふたたび

リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。

自社開発の案件アサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手全然からず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴スポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミット全然出ないの?

年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。

社長から新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。

そうやって通院治療を開始したのが、2023年10月ごろ。

日中の眠気、夜の不眠、集中困難、ゴミ屋敷などの問題が主訴。

これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始休みを挟んだ後、ボツボツ休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。

心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解ワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。

この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。

現在は、投薬治療カウンセリングを受けている。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援 Permalink | 記事への反応(21) | 22:15

2024-05-25

僕の後輩のアスペルガーくんに対しては怒りや憎しみというよりただひたすら彼の将来が心配だった、結局数ヶ月で辞めたけど、あまりにも心配すぎて「次の職場で頑張ってくださいね」って何回も言ってしまった。

2024-05-24

anond:20240524193146

そういう「アスペ」の使い方をするのがここで言われてる「馬鹿」じゃないのかな。

アスペ」って本来アスペルガーのことであって、アスペルガーって知能は高いけど非言語コミュニケーションが苦手な人のこと。

まりアスペ」ってむしろ言葉どおり受け取る人のことを指すわけで、この場合は逆も良いとこ。

だけど君のように、「アスペ」を単なる理解力の低い人って意味レッテルにする人、結構多いよね。

これこそ、言葉意味より行間馬鹿にしてるというニュアンスだけ)で使ってるから現象に俺には見える。

 

まあ、単なる悪口から普段からいちいち指摘はしないけどさ。

この場合的外れも良いとこだから、好い機会だと思って指摘しておく。

2024-05-22

文章形成ができないんだがどうすればいい?

どうすればいいんだろう

誰に相談したらいいかからないのでここに書いてみた

私はこの通り読みにくくみっともない箇条書きの文章はなんとか書けるが、自分の考えをまとめて話す、または書くことがすごく難しい

何が難しいと言われてもうまく説明できないが、箇条書きでしか文章が作れないというか、文の繋がりが作れないのが問題だと思ってる

職場で人から意見を求められてなんとか話した時、困惑したような数秒の沈黙や「それはこういう事?」という確認しょっちゅうある

その度にその人への申し訳無さと自分の頭の悪さを実感してしまうのですごく辛い

メール文は基本ほとんど定型文を使うので、仕事問題は起きずそこまで悩んでない

ただ問題の入り組んだ件の300字程度のメール文を、2時間残業して考えたことがある

学習障害アスペルガーを疑って検査も受けたが、何も該当せず、グレーなだけですと言われた

単に地頭が悪いということだろう

基本自分以外のすべて人間文章が上手くてすごいと思ってるし、それがどんなに口汚い悪口だろうと、人に伝わる文章が書けるだけで羨望と少しの嫉妬を感じてしま

この頭のまま年を取ることが恐ろしいので、なんとか普通に文章が作れるようになりたい

この能力が足りないとか、この本を読めとかそういったアドバイスが欲しいです

お願いしま

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん