はてなキーワード: 杓子定規とは
③思いつきで設定を増やさない
④起承転結を「1~2話毎」「5~10話程度の一塊」「各章毎」「各キャラ1人ずつ」でそれぞれつける
漫画の作り方やコマ割りの仕方は真似っ子でも結構できちゃうけど、物語の構造そのものを作る技術が身についてないように思う。
まず意識して欲しいのは「この漫画がもし100話続くとしてどんな話にしたいのか」という道を最初に組み立てること。
「人権問題について扱うけど最初は軽めに段々重くしていく」とか「100話あってもシリアスなんて一回も挟まずひたすらナンセンスギャグで笑かし続けたる」とかの大筋が見えてくるだろう。
そしたら次はそのテーマの重さに合わせて世界観を作り込んでいく。
テーマが軽いのに世界観をみっちり作り込んでも読者はついていけないし、重たいテーマを扱っておきながらフニャフニャの設定を毎回書き足していくようでは読者が呆れて去っていく。
たとえばトマトイプーのリコピンなんかは100話も続いているけど未だにキュートピアが実際にどういうものなのか良くわからないし、設定が毎回好き放題に増えていくが、そのフニャフニャっぷりがあの漫画と噛み合っている。
もしもガッチリキッチリ杓子定規に設定を練り込まれてしまったら、読者の中からあの世界が持つ妙なリアリティの無さが失われてしまうだろう。
連載が長くなればギャグ漫画でもドンドン設定が増えてしまうが、そこで世界観を作り込みすぎ定期的にスクラップ・アンド・ビルドしていくのか、固まってきた設定に合わせてシリアスへと転換するのか、それを最初に決めておかないと途中で作品が空中分解してしまう。
最初に方針を決めておけば、序盤は読者から見れば何でもありの世界観に見せつつギャグをやり、中盤からは散りばめた設定を繋げていくことで世界にリアリティを持たせつつテーマをシリアスにしていくという流れもスムーズに行える。
まず100話連載できたらどうするのかを考えて欲しいと言ったが、実際には多くの漫画が20話程度で打ち切られてしまう。
そもそも「100話読み切れば面白いんです!」と言われても、相手がベテランだろうと読者はついていかない。
ひとまずは毎回ちゃんと盛り上げて欲しいし、山場の波は10話ぐらいの単位で用意して欲しい。
起承転結を作る時に、最も大きな塊、章ごとの塊、章を更に区切った塊、数話単位の塊と段階的にしていくのは絶対に必要だ。
そのためには物語の流れを作者がちゃんとコントロールする意識が必要になる。
「キャラクターが勝手に動いちゃいました」と大御所が口にすることはあるが、それでも大筋は決まった上でキャラクターの動きに逆らわないのであって、キャラクターの判断に全てを任せて鵜飼のように構えているわけではない。
場当たり的にならないように各物語をゴールから逆算しつつマイルストーンを決めて動かしていかなければいけない。
作者の脳内で作っている時はゴールが既に見えているので「最高のゴールに向かうための経過」としてどんなシーンも映ってしまうが、読者の側にその盛り上がり画は存在しないことを把握しよう。
物語をコントロールするに辺り気をつけなければいけないのは「設定を一度増やしたら戻せない」ということだ。
なぜそこを意識する必要があるかと言うと、「設定同士は相互に干渉しあうので慎重に配置しなければいけない」からである。
一度「このキャラクターには兄弟がいます」と設定したのにあとになってから「一人っ子でした」と設定を変更することは出来ない。
同じようなことをやっているように見える作品は、実際には作者の中で「一見兄弟がいるように見えるが、本当は一人っ子である」という設定が決まっていて、そこに合わせて読者にミスディレクションを仕掛けているのだ。
新人漫画家の作品は次々に設定を増やしてしまってから相互干渉に苦しめられ、無数の矛盾を解消しきれないまま勢いで誤魔化しきれずに作者が潰れてしまうパターンが多く見られる。
作品を作る時に最初に全部の設定を決めてしまうのは現実的ではないが、設定を増やす時に「これがあとになってから問題になることはないだろうか」と振り返る癖はつけた方がいい。
また、物語を描いていると絵やその後の繋がりばかり優先して「差別と黒人が大嫌いなキャラクター」のような単品で矛盾した設定が出てきてしまうこともある。
フィクションを作るということはどのようなデタラメでも描こうとしまえば描けてしまうため、その整合性は自分で取るという意識が必要だ。
先程の例でも「自分に客観性のないクズなので差別と黒人が大嫌いなキャラクター」という設定なら成立する。
漫画を描く上で重要なのは「読者が納得するかどうかが最優先」という意識だ。
読者が納得すればどんな設定も描写もセーフになるし、読者への説得力作りが足りなければ作者の自己満足で終わることも多々ある。
気をつけて欲しいのは「どんなに作品に好意的であっても、無理のある説明をすれば一発で読者は冷める」ということを忘れないことだ。
マジシャンは自分から種明かしをするまで自分には超能力があるのではないかと思わせられなければいけない。
計画外のタイミングで観客の魔法を解くことがないように最新の注意を払うのはエンタメの基本だ。
最近ジャンプラで新人に説教しても速攻でアンチ認定されて消されてしまう。
近頃は読者のメンタルも弱っているのか「僕の好きなものに文句をつけるなんてきっと悪い奴なんだ!」という感じですぐに癇癪をおこすようだ。
やれやれ。
そうやって甘やかしても漫画家は育たないぞ。
ボーイスカウトは地域の活動なので色んな学校の子供達がバラバラに集まって月1くらいでキャンプをしたりする。
なので普段は学校でどんなキャラなのかもお互いわからないまま共同作業や共同生活をする。
しかし所詮は同じ地域に暮らす同年代なので部活とか塾とかでの他校の生徒との交流で学校ではこういうやつなんだみたいな話は耳に入ってきたりする。
そしてここで仮にA君とするがボーイスカウトの同学年の一人が学校では小物臭溢れるタイプであるらしいことを聞く。
クラスの輪にはなかなか入れていないが先生がいるところでは杓子定規な意見を率先して述べてアピールしたがる。
誰が掃除をサボっていたとか学校の備品を乱暴に扱う遊びをしていたとかの告げ口をする。
学校ではそんな感じのやつだったらしい。
ボーイスカウトでの彼はどうだったかというとそういうことは特にしてなかった。
というかできなかったのだろう。
ボーイスカウトのキャンプ活動はわりとハードで肉体労働が山ほどある。
テントを設営したり薪を割ったりポリタンクでかわの水を汲んで運んだり大変なことは多いし要領の良いやつと悪いやつで差がつきやすい。
A君はそのような労働の場においては足を引っ張る側の人間ではあった。
なんなら苦手意識からなんとか手を抜こうというサボりへの意思も時たま顔を出していた。
サボろうとしている時はみんなで嗜めて労働に参加されつつもそれでA君を除け者にしようって雰囲気はなかった。
ボーイスカウトには「みんなで協調しろ助け合え出来ないならシバく」という風潮があったからだ。
当時はA君が学校では小物臭溢れててボーイスカウトの中ではそんな感じの少し面倒なやつでこういうやつもいるかなくらいだった。
学校と同じ感じで密告魔をやったとてボーイスカウトでは刺し返されるところが大きいのでおとなしくしてるのかなくらい。
それで先日の増田を読んで思い出したA君についてのエピソードがある。
あるキャンプのときにA君は軍手を忘れてきてしまっていたらしい。
みんなで割った薪を運ぶ作業をしている時にみんなが軍手をして薪を運んでいるなかA君だけが着ていたトレーナーの袖を強引に伸ばして手を保護して薪を運ぼうとしていた。
それを見つけたひとつ上の先輩がA君に予備の軍手を貸してやると声をかけた。
A君はあろうことかこの助け舟を拒否した。
先輩はなんでだと問う。薪はささくれ立ってたりもするので怪我をするかもしれない。当然の問いだ。
先輩はなんでだと問う。
借りたくない軍手しろの押し問答が始まりA君はまもなく泣き出してしまった。
A君は失くすかもしれないから借りたくないと泣きながら言う。
それでもA君は泣きながら借りたものを失くしたら嫌だから借りたくないと言う。
そこからまた押し問答が始まって先輩もひとつ先輩なだけで中学生なので怒ってしまってめちゃくちゃな空気になってしまったのは覚えている。
別に失くしたっていいよって言われてるのに頑なに拒否するA君は自分から見ても変だったし借りればいいのにと思いながら薪を運んでいた。
思い出して考えるのは別に正義感なんて立派なものはA君の中にはないのだろう。
ただ怒っていいとか怒られたくないとか自分は悪くないとかあいつが悪いとかそういうのが胸を張って言える時しかA君は動けなかったのだろう。
そうやって胸を張れる理由が揃ってない時はじっとしていたのかもしれないなと考える。
素手での作業は危ないから軍手貸すけど返してくれなくていいし失くしてもいいからという言葉を拒む理由がA君のなかにどういうふうにあったのかはわからないけどA君は今どうしてるんかなと思う。
こういった人たちは真面目で律儀な人だと思っていたが、最近は実は違うのではないかと思えてきた。
何かを進めるとき、杓子定規なまでに規則通りに進めようとするのは、後で何か不都合が起こったとき、その人自身が「規則通りにやりました」という逃げ道を確保し、自分だけは絶対に悪者になりたくないという自己保身・他責思考にすぎないのではないかと思えてきた。
何かを判断するとき、外に根拠を求めようとするのは、後で何か不都合が起こったとき、その人自身が「〇〇という根拠に基づいて判断しました」という逃げ道を確保し、自分だけは絶対に悪者になりたくないという自己保身・他責思考にすぎないのではないかと思えてきた。
自己保身も他責思考もまったく無用とまでは言わないが、しかるべき責任を負う立場にある者なら、臆することなく自らの責任において判断・行動してもらいたいものだし、自分がその立場ならそのようにしたいものだ…というのは理想論か。
3Dモデル使わずに、メカを手描きで描いてたって言う意味ならウソではないと思う。それを杓子定規にとらえてトレスマシンがあったと、あさってな方向の指摘するのも子供っぽい。(オタクは若くてもめんどくさい) 増田 オタク
水星の魔女でも、つい最近やってたサンダーボルトでもメカを手描き(一部例外除く)なんだが???
さらに手描きするのとセル画かどうかってそれまるで関係ない話ですよね???逆襲のシャアやマクロスプラスでも一部3DCG使ってますよね???
かつてセル画で仕上げ撮影していたパートがデジタルに移行したからって、それって作画部分が手描きかどうかには関係ない話ですよね???
たまたまアニメ制作がデジタルに移行したのとメカ作画を3DCGに置き換えるようになった時期が重なっただけでそれらは全然別なんだが???
>「間違ったら謝っておけばいいじゃん」という感覚は、ライターの感覚としては普通ではない
>増田は「ライターだろうと人間なので間違えたら謝るのが当たり前」と考える。
>そもそも、ライターでも文章を間違える事はめちゃくちゃあると思ってる
この文書読んでこう捉えるってけっこうガチで読解力欠如しているよ。ライター向いてないと思う。
明らかに「間違えたときに謝らない」という意味で書いてないよね
そもそも謝るような自体にさせないことが重要、というような意味を含んでいるよね。
間抜けな異言語コミュニケーションみたいになってる箇所がちょこちょこ見受けられる。
わざとやってるのか?ってくらい
どうやってライターなったの?
「○○から△△までは、だいたい20kmあります」と言われた場合、有効数字の観点からは、
「だいたい」の範囲を、19.5〜20.5kmだと考える人と、15〜25kmだと考える人が居ると思う。
まあ、後者は極端だとしても、18〜22kmなどと、ある程度広いレンジを考えるのが、自然だと思う。
一方で、「○○から△△までは、だいたい32kmあります」と言われた場合は、「だいたい」の範囲を、31.5〜32.5kmと考えるのが自然だろう。
よって、「20km」のように、数値の下位に当たる数字がゼロだと、その値は丸められている可能性があるため、
その値が示すレンジを幅広く見積もる、ということを私達は自然とやっているのだ。
つまり、下位の数字がゼロであるかどうかは、私達の感覚に影響を与える要素のひとつなのだ。
だから、表題の通り、20マイルを「約32km」と訳すのには違和感がある。
その違和感の理由は、端的に言うと、値の信頼度が違うだろうということだ。
つまり、「約32km」などと「約」をつけたところで、読み手が想定する値のレンジは、31.5〜32.5kmだ。
「20マイル」という、ざっくりとした値だという感覚は、適切に表現されていない。
なので、個人的には、20マイルは「約30km」、30マイルは「約50km」と、値を丸めて表現した方が正しい気がする。
杓子定規に、単位変換を一の位まで計算して計算して表現することは、意味が無い気がする。
(もちろん、原典となる文章が有効数字を示唆しているなら、その限りではない。)
数値の翻訳をどうするか、という議論を見たことがない(科学論文レベルになれば、使用される単位系が国によって異なるということがないはずなので、
そもそも値を翻訳する必要がない。だから、議論もされないのだろう)のだが、最低限でも、値の有効数字は維持されるべきだと思う。
たとえば中毒性の高い嗜好品のなかで酒とタバコだけが例外的に許されているように「どこかで条件を設定してそれを満たせばぜんぶ禁止」という杓子定規にする必要はないのだ。
事務は公務員か、新卒総合職として企業に入社し経理や総務等に配属された場合くらいしかチャンスが無い。そしてその場合も女の一般事務とは意味合いが全然違う。
元増田が丁寧にちゃんとこう書いてくれているのにもかかわらず、
でも男の事務職ってそこそこいるよな。
あいつらはどうやって潜り込んだんだ?
ブコメは見ていないが管理部門や事務職について全然知らんくせに知ったかで語る似たようなバカがどうせたくさんいるんだろう。
製造現場経験もある管理部門総合職歴約20年の俺が説明してやるからちゃんと読め。
元増田の言う「女の一般事務とは意味合いが全然違う」とはこのこと。この大前提を知ってないと話がまったくかみ合わない。
そして、俺個人もそれが良いとは決して思わないが、前者はだいたい男性(最近は女性もそれなりに増えてはきた、はず)で後者は99%以上女性である(パートの女性も含む)。
この何が違うのかというと、要するに管理職(候補)とそうでない奴だ。
一般事務職女子は基本的に出世したがらないし、新しい作業手順等を自分で構築したりする気も無い。決められた作業をこなすのが主な仕事となる。だが、一般事務職である限りは会社としても別にそれで良いよって扱うもので、その代わりに昇給も総合職と比べて少ないし天井も低い。
元増田の言う
がつまりそういうこと。なお、今時「総合職」と「一般事務職」とが明確に別職種として設定されている会社もけっこうレアだとは思うが。
お前らのイメージする「事務職」のほぼイメージどおり。しかし実際にはそれなりに業務負荷は高い。基本的に暇ではない(結局、職場によるんだけど、暇な事務職がレアなのは間違いない)。
現場猫ネタ画像の事務猫のやつを思い浮かべてくれればだいたい間違いない。
原則として管理職にはなれない。会社によって呼び方はいろいろあるが、上限まで出世して「主任」とか「管理職扱いではない係長」止まり。当然給料もそこで上限になる。
俺は現場経験もあるし、現場から管理部門に異動した奴の面倒を何人も見たことがあるので知っているが、全員が口を揃えて
と言う。まあ、現場仕事つっても色々あるけど、意外と待ち時間とか移動時間とか、語弊のある言い方かもしれないが「厳密には仕事してない時間」があったりするじゃん。
※例えばトヨタみたいなレベルでカッチリ決まってるライン工みたいなのは除く
事務職って「他にやる奴のいない、仕事と言っていいのかビミョーなレベルの職場のあれやこれやは全部事務職の仕事になる」という特性を持っているため、管理する側の業務コントロール意識が低いまたはアレだと無限に仕事が増やされる。
これまた語弊のある言い方かもだけど、「業務時間内は原則常に仕事してる」のが事務職。
余談として、異常なまでに愛想が悪いというか、杓子定規一辺倒というか、偉い人と一部の仲の良い人以外にはめっちゃ横柄な態度の女性一般事務職が意外とたくさんおり(俺の主観では、若いころに「ちょっと生意気なくらいが可愛いよね」的な扱いをされたままアラフォーくらいで勘違いオバハンになるパターンが多い。基本的にどうにもならない存在)、周囲からは煙たがられるので、愛想よく接してくれるベテラン一般事務職には皆さんなるべく感謝してあげてほしい。若手で愛想悪い奴に対しては遠慮なくそいつの上司に苦情を出せ。
上記でほぼ答えになっている気もするが、
である。これだけだと暇だと思われるかもしれないが、実際には事務作業も一般事務職以上にやらせら……やっている場合がほとんど。
俺の知っている範囲で、基本的に課長級はゴリゴリにプレーヤーもこなしている。部長級になると職場によるって感じだけどプレーヤーとしても忙しいことが多いと感じる。
※管理部門て社内の機密情報に接することがどうしても多いので、下っ端には教えたくない・やらせたくない情報に関することは必然的に部長とかがやることになるのも一因。
無いと断言する。そう見える場合は、現場サイドから「引き取ってくれ」と頼まれてそうなった場合がほとんど。
あと純粋に業務適正で判断してそうする場合もあるだろうが、そのパターンはその文章のニュアンスとは異なるであろう。
というのが存在するので、まあそういうことだけやらせればとりあえず時間は潰せるよねって感じで仕方なく引き取らされがち。
ていうか総務と人事は最終的に「お前らのとこでなんとかしろ」と偉い人から命令されがち。
どれもこれも「皆無」とは言わないが「あんま無い」。
ぶっちゃけ「男性事務職(≒総合職の事務職)」は新卒の時または新卒から数年経った時点でのローテで「たまたまそこに配属されて、たまたま適性を発揮した」パターンが多い。
公開当初、劇場で見て細田守を見限った作品(大好きな監督からサマウォ以前が好きな監督へ)。でもおかげで未来のミライをフラットに受け流すことができた恩人(恩作?)でもある。そのバケモノの子を7年ぶりぐらいに見ることにした。もちろん酷評となるが、さんざ言われている人間界不要や監督の家族観とかとは違う部分を書こうかと思う。
改めて見た率直な感想がこれだった。
OPのCG、でいいのかな。炎のシルエットで描かれる演舞はとても素晴らしくて、後を知ってる2回目視聴ですら否が応でも期待が高まる。カンフー映画のようなケレン味のあるアクションが味わえるのでは、と。
しかし今作の大きな格闘と言えば鍛錬を除けば序盤と終盤の熊(熊徹)と猪(猪王山)(面倒なので略す)の2回のケンカぐらいだ。そして悲しいかな、これが見ていてさほど面白くない。二人の戦いは剣術はもとより、相撲や闘牛やボクシングといったようなもののオマージュのような動きが散見される。これが良くなかった。自分としては当初これら齧ったようなエッセンスの動きは小手調べだと思っていたのだが、実はまっとうな戦いの組み立ての範疇だったように思える。それの何が悪いって、二人に軸がなくなってしまったことになる。
古典カンフー映画のようなアクションを期待していた身としては、やはり「流派」は大事だったと思う。違う流派あるいは同じ流派の者が対峙して技を競う。それぞれの特徴的な動きの差異が画面に映えるのだ。それこそスターウォーズだってやってる。バケモノの子だと(恐らく)正統派の武術を扱う猪と、師匠も居ない独学の熊との対決で、実に映えやすい。ところがそういうのは確かに所作に現れているものの、お互いあちこちからちょいちょいとつまみ食いした動きにしてしまったためにもう、流派のぶつかりもなにもない「ただのケンカ」になってしまった。もっと言えば観客が居るせいで「興行的スポーツ」。年末格闘技かのようなエンタメになってしまった。「バケモノ」の活かし方が体当たりなのもマイナスだ。
長年練り上げた鍛錬を披露する、思わず唸るような動きではないせいでもちろんナイスバトルも生まれない。
どちらが勝つかわからない。であるとか、敗者をも称える歓声が起きる決着。なんてものは生じるわけがなかった。次期宗師を決める神聖(かはわからないけど)な戦いがリスペクトも生まれない野次馬がたくさんいるケンカに堕ちていたのは残念でならない。
(負けた猪も勝者並に称えられていたら息子も闇落ちしなかったりそれでも闇に落ちる姿が強調できたりしたかもしれない)
九太の応援が余裕で10カウント超えている賛否多そうなシーンもルールが最重要な興行ではなく宗師を決める心も重要な要素の杓子定規でない神事として見ていたので許せたが、その後顔アップで剣を振り回すとかガッカリ。
その主人公の九太なんかも悲惨で、やはり修行以外ではまともに動かない。成長後の図書館のシーンで不良相手に鮮やかに立ち回るかと思いきや、得意の横長のレイアウトのパンを使いつつなんと画面外で音だけでボコるという手抜き。団子ラリーは好きだけどそれぐらいか。バケモノ界は闘争の世界ではないし、武術を習った主人公が人間をボコるのもよくないのは分かる。ただ素直に成長後九太で気持ちよくなれるシーンが欲しかったな。
直近の過去2作だけみてもキングカズマのOZ内移動含めた格闘やおおかみこどもの躍動感ある動きとかセンスは落ちてないはずなんだけどどうしてこうなったのかなあと不思議に感じる。
(剣が震えるところとかは好き)
熊の家を斜め上から見た図と家までの階段の坂道、あとは修行場の廃墟っぽいところ?バケモノの子はだいたいこのイメージ。あと市場か。
渋天街という異世界に居るのに街全体の引きの絵とかがほぼ無いからせまっ苦しい。ワクワクしない。主人公も視聴者も異邦人なんだから、街をそれとなく見せて欲しかった。たとえば熊とケンカして街中をバルクールじみて走り回る追走劇とかはどうだろうか。アラジンの冒頭みたいな感じで。坂の上下を生かすならコクリコ坂もよく時代の雰囲気を醸すことができていたと思う。
バケモノの子はとにかく「今どこに居るのか」がわかりにくい。賢者歴訪のシーンは渋天街に必要だった賢者の住む街の全景が描かれるが、それぞれ1秒未満ぐらいの一瞬しか映らない。振り返ってどんな場所に行ったかと思い出そうとしても難しい。結局思い出としては賢者の対面シーンと道中が繰り返される狭い印象になる。
絵作りができていないわけではなくて引きの絵も多くて背景もモブも全員書き分けるなど緻密なのだが、画面ごとにどうにもキャラクターが支配的で背景が薄味。乾燥地帯イメージな砂色なのがそう感じさせるのかもしれない。逆に夜や昼夜の境目などの暗さと光は非常に美しくて心に残る。
今作は「時空」の時間を重視しているのかと思う。九太の成長自体がそれでテーマだし、同じ場面で季節が流れるシーンや同じ場所が繰り返されるのも時間の流れが見て取れるので効果的だ。あるいはその犠牲で空間が少々ワリを食った形になったのかもしれない。
(季節が流れるシーンやミライの家の書き方は好きなので時間や密室劇的方面が悪いのではなくバランスかなぁと)
バケモノ界はたぶん全体的に武芸を修めることに重きを置かれると思う。そして武芸の強さが絶対の指標じゃなくて弟子を取るとかも重視されてる。熊ですら過去に弟子を取ろうとしたことがある。つまり剣術は人口が多そうだけど学ぶのは剣術の裏にある精神性とかかと。それで九太は賢者の話を聞いて強いっていろんな意味があるんだなと理解したわけ。じゃあ数ある強さの中で熊と同じ道で強さを歩むことを自覚的に選択しなくちゃならん。
当初の九太は選択の余地がなかった。家族を失って一人で逃げ出して置いておいてもらえそうなのが剣術家の熊んところだったわけだ。そこから8年過ごすわけだけど8年後の九太は人間界に重点されてバケモノ界のシーンがすくなるなる。だから8年間かけて(腕っ節以外に)身につけたものがあまり描写されず、思春期や父親周りの不安定さがフォーカスされていってしまう。九太の成長は物語の最後の最後に持ってくる必要があるのはわかっている。でも8年も経ったんだから自主的な強さの理解をお出ししないと漫然と表面だけ模倣していたことになってしまう。それも家庭内で父の真似をする子が似てきたっていうつっまんない閉じた話になっちゃう。
同じく家族を失って別の家庭に入り込む「三月のライオン」では主人公は明確に「将棋が好き」と嘘をつき、契約をして将棋で強くなり続ける代償を払ってきた。そんな主人公も将棋と向き合い続けてやっぱり将棋が好きで自分の意思で将棋の世界に居ることを選択する。成長には同じことをするでも「そうせざるを得なかった」という消極的選択から「それでもしたい」と一歩進む必要がある。
九太にそういった前進要素がないのは必然だ。だって最後は熊を「胸の中の剣」にする必要があるから。上手な二人の父子なら8年の中で教えることができただろうけどお互い不器用な二人ではそれができなかったんだろう。感動のラストのために。九太は親近感がわく普通の青年に成長した。心は普通程度にしかならなかった。武芸を通して技と体は鍛えられたが心の強さは(幼少期の気の強さの引きつぎはあるが)あまり感じなかった。物語の最後には九太は剣を置くことが語られている。胸の中の剣を手に入れて現実の剣を置くのは修めた感がある。最強の剣士が無手となりにゃむにゃむするかのように剣を置くなら悟り・理解を経てするが映えるというもの。でも九太はそんなに到達点に達してないし人間的にも彼女や熊の支えがあってようやくここからって印象の方が強い。そんな彼が剣を置いたってただバケモノ界から人間界に戻ったって記号でしかなかった。
センスが良くていい旅もさせてもらっていい教師も反面教師も居るなかで8年過ごして出来上がったのがただの思春期の不安定な青年って…。すこしも「強さとは」が染み入ってないのが残念なキャラだった。
なんなら熊とそれを見つける物語でもよかったけれど、最後は信頼・絆一辺倒で「父と子」をやっちゃったね。
尺不足…かなあと。もっとバケモノ界やアクションや九太の成長を描いて欲しかった気持ちがとても強い。そして何のせいで尺不足だというと人間界パートになっちゃう。結局、不人気の人間界パート不要論に収束する。ヒロインの楓は細田ヒロインの中でもとても好きなキャラなのだが…。
そんな感じで当時細田にはガッカリしたわけだけど宣伝だけみるとそばかす姫はそこそこドハデで楽しめそうな映画っぽいんだよね。受け流したとは言ってもミライのダメージもそこそこあってまだ見る気が起きないんだけど、評判はいいみたいだし。(変わらない悪い点もあるみたいだけど)
脚本雇えと一言で談じると楽だけどこうやって書いてみて自分がオタクすぎる気もする。ポストジブリなファミリー向けならちょっとクセがあるけどこんなもんなのかな。これが細田監督の味だとも思うから今後の作品も賛否が大量に出つつも売れて行くんだろうね。
2018年頃の仁藤さんのツイートを読むと、税金使う事業は領収書集めが辛すぎで、
税金貰わない方がマシって言ってたと思う。
それで、Colaboは都と粘り強く交渉して、同じ事業の繰り返しは金額の報告のみで済ませられるようにしたのでしょう。
今回の監査を行った人達は、当時の交渉を知らないので、杓子定規に判定をした。
都の会計処理として妥当性を疑わざるを得ない「不当」な会計となった。
都としては、Colabo から領収書を全部出してもらえば、不当な会計は正当な会計へ正常化できる。
領収書の無い請求については取り下げてもらい、返金してくれれば、やはり、正当な会計へと修正することができる。
唯一、「不正」な会計になるのは、領収書の無い請求分の返金ができず会計を正せない場合だけど、
Colabo は潤沢に資金を貯めているので、確実に返金できるはず。
弁護団が、絶対に不正はないと断言できるのは、不正を疑われ、不正でないことを証明できない(領収書を出せない)分は、すべて修正申告で逃れられると踏んでいるからだと思う。
という災難話がネット(5chのなんJ、なんG)で披露されているのをちょくちょく見るが、投稿者が事の顛末を細かく答えていくにつれて
「制限速度遵守していた」
「一時停止で止まったフリではなく完全停止にしていた」
「ウィンカーを30m手前で出していた」
などの事実が判明するやいなや、ほぼ間違いなく
『杓子定規に交通ルール守ってるお前が悪い。やっぱりヘタクソが被害者ぶってやがった』
という流れを見てきている。
お定まりといっていいほど叩かれている。
自分も杓子定規に交通ルールを守ってハンドルを握っているタイプなので、暗黙の了解を守れていない不良有害ドライバーなのではないか?と正直かなり不安になっている。
実際、私自身、こうした杓子定規の認識について警察官からかなり強く怒られた経験がある。
夜間にかなり見通しが悪い片側一車線道路を制限速度ぴったり(30km/h)で走っていたら、
具体的には、
追突寸前まで煽られ、こちらがハザードを焚いて停まったのにその後続車も停まる
→やむを得ずこちらが再発進した途端に途轍もない速度で追い越され、今度は急ブレーキを連発されその車が停止
→仕方が無いのでこちらが横から追い越そうとしたら急発進・急ハンドルで体当たりしてくる
そして、奇跡的に無事故で何キロも走行した末に、やっとの思いで東急青葉台駅前まで辿り着き、ちょうど道路沿いに立っている警察官を発見し、停まって経緯を説明し必死に助けを求めたら
『さっき抜いて行ったあの赤い車のこと!?
あなたのスピードが遅いから怒ったんでしょ!?それだけの話じゃないですか!!』
と、
むしろ私に腹が立って仕方がないというような態度でかなりキツめに突き放されたという苦い経験がある。
なので、運転に関する態度や認識をちゃんとアップデートしなければいけないという危機感を覚えている。
どういう認識でいるのが実際のところ正しいのか教えて欲しい。
支援施設の作ってる製品を販売した際に、そういう人がやってたという話だが
なんつうか社会の外部に弾かれた人たちをどうにか社会の一部につなげとくためかどうか
そのつなぎの人はアウトローまではいかなくとも、少なくともサラリーマン風の人だと務まらなそうだとは思った
だから多少の無茶は見逃すべきとも思わんが、
杓子定規でやってたら出来ないというかコストが膨らんでパンクするしかないような支援内容が山積みなのは実感としてわかる
本来なら公営施設で公務員として職員を雇ってやるべきなんだろうが、
そのへんの公共投資のカネをケチって、せめて施設内のパワハラやセクハラにならん程度の、
怪しげでパワフルでアバウトな人たちに仕事投げざるをえないんだろうなという感じで眺めてる