はてなキーワード: 放浪とは
8年ほどあちこち転勤して4月に地元に帰ってきて色々な人と飲んだり遊んだりしていて「PCいらないよな、スマホあれば充分」って言われて
ふと気がついた、この4ヶ月で~~で充分って一日数回必ず聞いてるな、と。
イオンで充分、ユニクロで充分、アマゾンで充分、地元で充分、家族で充分、ファミレスで充分、軽自動車~~~等など上げてたらキリがない
転勤族だったので地方都市や田舎に行く度に聞いてたがそんなに親しい人がいるわけでもなかったので頻度は少なかった
ただこっちに帰ってきて老若男女必ずこれで充分と言ってるし、TwitterやFacebookでも一日に一度は必ず目にする
2chやはてなでも都会VS田舎問題になると必ず田舎側の人は充分って必ず言ってる
これがマイルドヤンキーか?と思ってそれとなく言ってみたら違うらしく凄い怒られた。
確かに田舎にはなんにもない、選択肢のあるマーケットやおしゃれな服屋、目で見て触って違いを楽しむウィンドウショッピングも出来ない、お洒落なカフェもなければ
人も少ない、向上心ある人は皆都会へ出て行った。
この充分っていうのを聞くと昔海外放浪しに行こうとすると「海外なんてなんで行くの?危険じゃん」って言われたのを思い出す
物やお金だけではなく精神的な貧しさを感じてしまうんだけど、まぁどうしようもないわな
ただ何となくだけど凄い悲しい。
2000年代半ばまでは、日本は薬物依存の少ない恵まれた国だと思っていた。
覚せい剤だってそう。北朝鮮ルート(例の船舶)が絶たれた安心感は大きかった。
警視庁の統計によると、90年代後半と比べると覚せい剤マーケットは5割強にまで落ち込んでいるという。
その一方で新たな脅威として出てきたのが脱法ドラッグ。
これが脅威なのは、暴力団を直接の入手ルートとしなくてもいいところ(表向きはね)。
ネットで注文して郵パックで送ってくれるみたいな。
先月の池袋の事件はショックだった。まさに最中のよだれを垂らしたトリップ顔が全国報道されたのは衝撃的。
薬をやらなければやってられない社会層は存在するのだから、マリファナを合法化してあてがえという意見もある。
多くはたばこのように吸引するイメージで語られているようだけど、あれは確かに大したことはないんだよ。酒と大して変わらないという気もする。
でも刺激を求める人はバングラッシースタイルで胃腸に染み渡るまでがっつりやるでしょう。
そうすると、次元が変わってくる。トリップしている時間も半日から一日と長い。
インド放浪中にひっくり返って病院に運ばれたり川に入って行方不明になったり、いきなり二階から飛び出したり人前でセックス始めたりとか、
それを日本でやるのは勘弁してもらいたいんだが。脱法ドラッグもそう。日本でやるのはやめてくれないか。
酒の場合は、酔っぱらったやつがどんな行動を起こすかだいたい想像がつく。
でも麻薬って、何をしでかすかわからなくて、ちょっと予測できないところがあるんだよ。
アルコールじゃだめなのか。
今、某アイドルアニメにはまっており、毎回のように目がうるむ。
ストーリーは陳腐というかまあアニメだなというような感じでそれほどなのだけど、
このアニメの前に泣いた作品は何だったかなと思いだしてみると、老→赤に逆に成長する男の映画、
船が沈没する映画、ハチミツと葉っぱが出てくる漫画、未来に戻ろうとする映画第三作、
天下無双を目指す放浪者の漫画、男のシンクロの映画などが出てくる。
どれも号泣する感じじゃなく、目がうるむくらいだけど胸にくる。
でも各学校の卒業式でまったく泣けないし、長年の友達が街を離れるときも泣けなかったし、
SF、ライトノベルの世代間闘争が華やかだけれど、そんな中ひっそりと続きを出してほしいライトノベルを思いつく範囲で。継ぎ足してください。
火浦功って非実在作家だったの? 高柳君のペンネームだったのか。
最近全13巻の構想が発表されたのでめでたく卒業か。まだ予断を許さない。
合掌
合掌
作者が新シリーズ始めちゃった。
秋山には猛省を促したい。ただでも遅筆なのに後片付けもできないとは。先生は悲しいです。
あれで終わっててもいいけど。
もう出ないだろう。合掌。
これは本当、今すぐ出してくれ。頼む。
あれで終わってるのか。
日常ミステリの秀作。メディアワークス文庫なら化けてただろう。
あれはあれで終わっているけど。
イラストレーターにはとりわけ頑張ってほしかったのだが……。ファミ通文庫も切るのがはやすぎる。
なぜ一冊しかない。そんなに木本が憎いのか。
同じくファミ通文庫。のちハヤカワ。それでも無理か。
まだここに入れるには早すぎるかもしれないが。
風呂敷をひろげるだけひろげてそのまんま。よくある事故ではあるが。
なぜ1冊だけ出した。
思いつく範囲で以上。
「星くず英雄伝」を復刊したぽにきゃんBOOKSに期待したい。
気付くと僕は教室の床に分厚い布団を敷いて寝ている。左の窓ガラスを通してグラウンドの様子が見える。ちょうど体操着を身につけた多くの女子クラスメイトがやってきて、サッカーの試合が始まったところだった。僕はその様子を薄目を開けて見ている。
やがて試合中の数人の女子がこちらに気付き、「ねえ、あいつまた昼寝なんかしてるよ」「うわぁ」などとひそひそ会話を始めている声が、なぜかガラス越しに聞こえてくる。いや、あるいはその時点でガラスは消滅していたのかもしれない。それというのも、サッカーを終えた女子たちが体操着のまま教室へぞろぞろ入ってきたから。着替えを取りに来たのだろうか。僕はばつの悪さを感じてじっと寝たふりをしていたが、まだ薄目を開いて周囲を観察していた。やはりと言うべきか、女子たちがみんな着替えをしている。僕は焦っていた。彼女たちがいなくなってくれるのを待った。果たして教室に居残る女子の数はだんだん少なくなってくる。十数人が数人に、数人が三人に、三人が一人に。ところが最後の一人だけはなかなか教室から離れようとしない。よく見るとその子はあのとき「うわぁ」と言って僕に奇異のまなざしを注いできた女子だった。僕は早く出て行ってくれとイライラしながら狸寝入りを決め込み、そうして仰向けのままひそかに様子をうかがう。するとどうだろう。彼女はこちらへ向かって歩いてくるではないか。思わず僕は警戒心から目を閉じる。一時的に暗闇が広がり、彼女の足音や衣擦れの音だけが耳に響いてくる。いま教室には、僕とその女子の二人しかいない。
突如、唇に感覚が宿った。ああ、彼女だ。僕が寝ているのをいいことに悪戯を仕掛けようとしているのだ。気が動転しそうになったがそれでも動かなかった。じっとしていればいつかは満足して去ってくれるはずだ。そう思い、なんとかやり過ごそうと考えたのだ。
しかし悪戯のやむ気配はなかった。そのクラスメイトは僕の身体のいろいろな場所に唇を押し当てて遊んでいるようだった。僕はとうとう痺れを切らして薄目をそっと開く。すると運の悪いことにばっちりと目が合ってしまった……やむを得ない、僕は瞬時に身体を起こすと彼女に襲いかかり、教卓の後ろの壁際まで追い詰め、急いでレイプして射精する。
精液を受け止めてべとべとになった自分の手をぼうっと眺めていると、途端に罪悪感がこみ上げてきてその場を逃げ出した、というよりは手を洗いたかった。トイレから戻ると教室はすでにクラスメイトで溢れかえっており、もう授業が始まっていた。授業……いや、「代理試験」? ……そう誰かが言っていた気がする。その真相はわからないが、席をランダムに交換してお互いが他人の代わりに試験を受けなければならないのだった。僕の席には無口な女子が座っている。僕は自分の机やその周りにたくさん荷物を置いて散らかしていたので申し訳なく思い、急いで片付けた。軽く謝っておいたが相手は意に介していない様子だった。考えてみれば彼女は僕の代わりなのだから、まあそれもそうだろうと思った。
僕は教室の真ん中あたりの席に座った。しかし僕はいったい誰の代わりをすればいいのだろう、それがわからなかった。僕の不安をよそに授業(結局授業なのか)は進められていく。女教師はこれから流すアニメの解説をすると言う。それは僕の知らないアニメで、タイトルはもう忘れたが、主人公が夢の中で一人の少女を追いかけながら夢世界を放浪するという内容だった。人が夢を見る理由、それは、夢の中でしか出会えない女の子を捜すためである、云々。先生がその少女のスケッチと簡単なプロフィールを板書していく。なぜかまどかマギカのBGMが鳴っていた。
ノートを取ろうとして違和感に気が付く。授業でアニメの内容をノートに取る? そんなことなどあるのだろうか? ちょっと考えられない。そう思った瞬間、ここが「夢」だと気付いた。と同時に、世界が狂い始める。気付いてしまった僕は、夢の世界にとっては異邦人となり、その深刻な不和がひずみとなって僕に襲いかかる。おそらくこれが夢の自浄作用なのだろう。足元の床がぱっと消えると同時に、周囲は一気に目まぐるしくなり、すべてが光に包まれ、僕は蒸発させられていく。帰るべき場所へ帰れと、耳元で囁かれているようだった。
昔の日本語の発音は違っていたというのは知っていたが、動画でその復元音声を聞いてみるとまた印象が違う。
ほとんど何を入っているのかわからない。古文法(かつ文語)というのもあるかもしれないが、おそらく話し言葉でもわからないだろう。
今話している日本語もきっと数百年後には不思議な発音法に聞こえるのだろう。
そう考えると、今ある日常がすこしだけ貴重に思えてくる。保存する価値が有るように思える。
小沢昭一氏が「流しの芸」や「客寄せ」、「見世物」、「厄祓い」、…、そういった民俗的な放浪芸のたぐいを収集、録音したCDがある。これもまた今となってはかなり時代を感じるのだが、おそろしく臨場感がある。今はその殆どがなくなってしまったが、当時は(すくなくとも取材された地域では)保存するとか考えるまでもない身近なものだったのだろうと感じさせる。
保存するにしても日常に寄り添いすぎて誰もとっておかないようなつまらないチラシ、パッケージ、謳い文句、宣伝歌の類が意外と生々しさを感じさせるんじゃないだろうか。
そういうのを保存している物好きはどのくらいいるのだろう。公的機関ではまさか保存すまい。
追記:
聞いてみたいという人がいたので、自分が見た動画を幾つか紹介します
古代語 From Proto-Indo-European 古代言語音声集 How Ancient Languages Sound Like - YouTube
日本語以外にもいろんな古言語が聞ける。8:01から上代日本語、10:01から中古日本語(これは多分↓の動画と同じもの)
朗読 源氏物語(Tale of Genji) 若紫1 平安朝日本語復元による試み - YouTube
金田一春彦氏指導の平安時代の発音復元。多分ブコメで触れられているもの。ゆっくりに感じるけどどうなんだろう。
100年前の日本人の声 - Japanese voice 100 years ago - - YouTube
100年前の録音音声。これも多分ブコメで触れられているもの。このへんだと普通にわかる。少し落語っぽいから落語にそのまま継承されているのかも。
ビルの軒先で古本販売をしている。折りたたみテーブルにフリーマーケットのように本やCDを並べる。隣には占い師をやっている男がいる。冬なのにサングラスをかけて気持ちが悪い男だが、愛想だけはよくていつも話しかけてくる。いつまでも話すので、あまり相手にしない。
占い師の男はキャンピングカーで日本一周するのを夢見ている。古本のように在庫があるわけでもないし、身一つで放浪したほうが楽だと伝えてみたが、どうしてもキャンピングカーにこだわりがあるという。占い師はブログでも稼いでいるが、そのブログを読んでみてもどこに人気の理由があるのかわからず感想を伝えるのに難儀する。
客が少ないので早めに店じまいをする。商品をキャリアカートに詰めて、隣の占い師に挨拶をする。急に将来のことが不安になり、ブログで稼ぐ方法を模索してみたが何も思い浮かばない。書評ブログを書いているが月に百円程度の収入しかない。過去に超マイナーな作家から書評の感想をメールでもらったことがあるが、印象に残ることといえばそれくらいだった。
本を読んでいるだけで生きていければいいが、そういうわけにもいかない。せどりも今では稼げなくなってしまった。
なんか現実感のある夢だった。
無限が言いすぎだとしても、おれのような平凡な人間ですら選べる選択肢は無数にあった。
無理に高望みした会社を狙いさえしなければあらゆる職種に就けるチャンスがあり、起業してみる事も、飛行機を使わずに世界一周することも可能だった。
最短コースで一流企業を目指したりするわけでもないのなら、それぞれの可能性をすこしずつつまみ食いしてから決めても手遅れになるってことはない。一生懸命やってる限りは大抵何をやってもコヤシになる。前に向かってさえいれば多少の回り道をしても結局は前進しているものだ。
なんだかんだで定職に就き、結婚し、周りの友達も同じような感じに「成熟」してくる。
子供が生まれたりする人もいるし家を買う人もいる。会社などでそれなりに重要な役目を担っているやつもいる。
そんな中にもいつまでも夢みたいな事を言ってる人がいる。
世界を放浪して生きていきたいとか、音楽で食って行きたいとか。
ずっとアウトロー(と言っていいのかわからないが)としてずっと生きてきた人ならまだわかるが、定職を捨ててまで突然に「やりたいこと」に気がつく人がいたりもする。
そういう人に対して「おとなになれよ」とみんなが言う。結婚して、子供を育てるのがまっとうな人間の生き方だと言う。
なぜうまく行っている仕事を投げ出すのか?将来の保証がなくなってもいいのか?のたれ死ぬかもしれないぞ?とみんなが彼らをたしなめる。
おれらを見てみろ。仕事は確かに大変だがやりがいはあるし、磨いてきたスキルと、そこそこの社歴や業界歴のお陰でお金もそんなに悪くはない。確かに金持ちにはなれないかもしれないが広くも狭くもない家で慎ましく子供を育てるんだ。お前もそうやってちゃんと先を考えた人生を歩めよ。楽しいことだけやって生きていけると思うなよ。しっかりと勤めを果たして小さな幸せを得るのが大人だろう。もう学生じゃないんだ、無限に広がる可能性なんて無いんだよ。
とてもまっとうな意見だと思う。
せっかく先進国日本で平均ぐらいの暮らしを手に入れたのだ。国家財政は先行き不透明とは言え保険制度も年金もある。このまま生きていればそんなにひもじい思いはしなくて済むのかもしれない。
しかし一方で人生の先なんかを考えてもしょうがないし、自分で敷いたレールに自分を縛り付けて我慢して生きるのはバカらしいのではないかと疑問が沸く。
決して刹那主義的な意味ではなく、いつまで生きるかわからない人生を我慢してやり過ごす必要はあるのだろうかと。
安定した仕事、穏やかな家庭を求める人が多くいるのは当然よく理解できるしまったく否定するものではないけれど、本当はそういったことに大きな魅力を感じていないのに無理やり自分を大多数に合わせる必要があるのかどうかがわからなくなる。
医者にもかかれず悲惨な晩年を送るのは嫌だけれど、晩年のためだけにそれまでの数十年を「なんとなく」「普通の暮らし」に合わせるべきなのだろうか。
バンドで売れる事を目指したり、外国の僻地でインチキ日本料理屋を開いたり、田舎で半自給自足の生活をしたり、地ビールを作ってみたりしてもいいんじゃないかと心が揺れる。失敗は怖い。キャリアを捨てればもとの稼ぎに戻ってくることはできないかもしれない。暖かい家でうまいものを食って発泡酒じゃないビールを飲みたい。でも、それだけでいいのかと不安になる。
一人で考え始めると視野狭窄に陥りがちだという自覚があるのでバカにされたり叩かれたりすることを承知で増田に書いてみた。
「やりたいことがあるならやればいい」とか「勝手にしろ」とか言われるのかなとも思うけど、自分でも何がいいのかよくわからなくなってきているのです。
何かの意見を貰えたらうれしい。
どうしようもない。諦めたほうがはやい。
バカみたいだと思うのなら、きちっと内定をもらって就活を終わらせるべき。
そういうシステムだからやむを得ない。将来といっても会社で働くだけが人生ではない。
採用する企業も0か1かみたいなはっきりした理由を持っていないのではないかと思う。
選考基準が明確でもそれを公表するはずがないし。
短信よりB/Sみたほうがいい。企業分析ろくに勉強していないけれど。
私もリクナビ、マイナビが大嫌い。言われるがままに大量エントリーしなくたっていい。
ありのままがいいとか本来の自分だとか、そんなに固定的なものじゃないだろ。
演じ分けることも大事なことだと思う。
・質問時に「お話有り難うございます、質問が一点あるのですが」という前置き
つまらない奴を相手にし過ぎ。放っておけ。
就活に限らずどこでなにをしていてもアホらしい状況に巻き込まれると思う。諦めろ。
・個人情報ダダ漏れで知らない企業からお知らせが来るようになる
・埋もれる中小企業
・TOEIC主義
・これから社畜になるにもかかわらずリーダーシップを求める風潮
・説明会にて「業界ランキング」や「~誌に選ばれました」などの古いデータを提示してくるドヤ企業
・説明会にて「決めた理由は『人』です」とか言ってる内定者と社員
・いろんな人と働くのだから多様性なんて当たり前なのにダイバーシティとかいう横文字を使う風潮
・大量エントリーを推奨して学生と企業両者の作業効率を低くしているナビサイト
・副部長の多さ
・合否が面接官との相性で決まるふがいなさ
・説明会アンケートにて「御社の志望度が高まりました」と書く風潮
・質問時に「お話有り難うございます、質問が一点あるのですが」という前置き
・質問時に頭悪そうな奴の「●●大学〇○学部の△△です」という前置き
・就職課で公開されてるOBOGのリアクション返ってくる率の低さ
・いまどき手書きのエントリーシート
内定もらうおれは他の誰かでもなく自分自身でもなくおかしくなりそうだぜ
野球部の経験から誰でも楽しめる野球サークルを作り運営今では人気サークルに
アルバイトはケータイ営業をおこない店舗のノルマを一人で達成エリアマネージャーに
無気力すぎて親が心配し海外の親戚の家に二年程度預けようとする、
現地空港で置き引きにあい滞在二時間で帰国を決意し飛行機とれ次第すぐに帰る
家にあった本をネットで売った利益がでて背取りにはまる一週間で飽きる
高校時代よく見てたプロ野球を参考に妄想のなかでサークルリーダーになる
アルバイトは学校の授業で隣の学生グループの中の一人が嬉しそうに自分の先輩の話をしていたのを聞いただけ…
堀田善衞の小説『路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。
13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。
読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。
『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。
ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。
異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。
紐のついてない風船みたいな友人がいる。
あの子って、ちゃんと紐握っておかないとどっか飛んでっちゃいそうで心配になるよね、
みたいなことを言ったら
「え?どういう意味?」
と心底不思議そうな顔をされた。
いやいやだって、あんなところやこんなところがさ、
と具体的なエピソードの話をしたけれど
その「どっかいっちゃいそう」「フラフラしてる」感じについてはよく理解できないようで、
「ふーん、そうなのー?」
などとおっしゃっていた。
友人と彼氏さんはその時点でもう5年くらい付き合ってたので
それだけ長く一緒にいてなんでわからないのだろう、と、
私にはそっちの方が不思議だった。
最終的に友人は遠くにふわふわ飛んでいってしまい
何の落ち度もなく素敵な男性だった彼氏さんはフラれて泣いていた。
彼は最後の最後まであの「どっかいっちゃいそう」感がわかんなかったのかなあ。
結局8年付き合って、彼氏はずっと結婚するって当然のように信じてたのに
ふわーってどっか行かれちゃって、非常に気の毒だった。気の毒だったけど
彼女の本質(?)が結局見えなかったところが問題だったのかなあとか
人をわかったつもりになったり勝手に安心するのは危ういものかなとか。
友人は相変わらずフワフワしている。
娘さんの言った「放浪感」を感じる/感じない という所が
ちょうどかぶっていたので書きました。
爽やかな話をしてくれた増田だけど
って区分けして完結させてしまってるところがちょっと、なんだろう。怖いというか。
ちょっと待って。私の保育園仲間には、年収100万以下でも、夫も妻も定職についてなくても、子供を作って楽しく暮らしている家族がたくさんいるよ。
定職についていて年収があって社会的立場がしっかりしていないと結婚も子づくりもできない、なんて世の中の常識(みたいなもの)に増田さんがとらわれているだけじゃないのかな。
例えば、友人(男)は30代でまだ大学の博士課程の学生で奨学金をまだもらっている状況で、しかも将来発展性のない学問分野だから研究者として職にありつける可能性はほとんどなくて、奥さんはスーパーのパートで、今どき珍しい鉄の階段がカンカン鳴るアパート住まいで、でも娘がいてとてもとても幸せそうに暮らしているよ。毎日、顔を合わせているので、その様子は嘘じゃない。
例えば、友人(女)は知人のカフェの軒先をかりて小さな手芸店をやっていて、ダンナはフリーのカメラマンで、夫婦そろっても全然収入がないみたいだけど、それでも息子二人を育てながら、たまにアジアを家族で放浪旅行したりして楽しそうに暮らしている。
住んでいる地域にもよるだろうけど、みんながみんなサラリーマンや正規雇用の人ばっかりじゃないし、貧乏しながらも自分たちの暮らし方を大事にして、似たような友だちを作って、楽しんで生きている人っていると思う。
だから、増田さんも、「自分なんか」という見方はやめて、自分のスペックを卑下せずに、楽しんで暮らしたらいいと思うよ。
もちろん、結婚生活も子育てもそれぞれ大変だし、ラクなことじゃないから、本当に自分たちが求めているなら、という話だけどね。
それでも、少しでも希望があるんなら、経験して損はないと思う。
一度きりの人生だから、いろいろやって、楽しんで、失敗したなと思ったら、また軌道修正すればいい。
応援しています。
俺と似てるやつがいる。
授業はFランなので楽勝。
3年次までにほぼ全ての単位を取り終えて、4年次はゼミへ2回しか顔を出さなかったが無事卒業。
まったく就活しなかったが、バイト先の常連客から卒業年の1月に
客「お前、就職はどうした?」
俺「決まってないです。」
客「うちの会社に来るか?」
ってなかんじで、就職決定。
友人たちが結婚し始めて、さすがにやばいな~と感じボチボチと就活。
ネットで社員募集していたベンチャー会社に応募したら、即採用。
が、スキルのないワンマン社長の放漫経営ブラック企業だった(爆)
ここも、何年か努めて給料減らす話が出た時点で、ハイサヨウナラ!
上司がそれまでの顧客を持って独立すると言うので、そちらに転職。
が、2人会社がうまくいくわけもなく、元上司も言いづらそうだったので俺から辞めることを伝えて退職。
そのまま、しばらくブラブラと放浪の旅などしながらフリーター生活を満喫。
なんかいろいろあって、当時つきあっていた人との間で結婚する事になって、あわてて就活。(注:孕んだわけではない)
またしても、ネットの転職サイトで見つけた会社へ応募したら、面接だけで何故か採用。
1年後、結婚。
そうこうして、3年後妊娠。
またしてもネットで探していたら、会社と連携していた公的機関でその当時の業務で中途採用を募集しているのをハヶ━m9( ゚д゚)っ━ン!!
即応募したら、運良く採用。
採用の年に無事子どもも生まれて、しかも、年収が約2倍にまで跳ね上がり、遅れたフィーバー状態←バカ
で、今に至る、と。
「やばい とても分かる。」の人です。
年代や境遇の違う人と仲がいいのも、何かで職場の人に知られると叩かれるかも。だけれど、そこは華麗にスルーして生きた方が楽しいです。ええ、絶対に。
かくいう私も、年代や職業が違う人とばかり仲良くなっていく自分に
(私は何か間違っているのでは? おかしいのでは? 同世代からハミゴにされるおかしな挙動をしているのでは?)
と疑問を抱いたり、苦しんだりしました。
ついでにいうと、40代半ばの何年か、自分たちにこどもが居ないのでこどもが居る人ともうまくいかないという思い込みがありました。そのために、子ありの人を自分から避けてきていたなとやっと認められるようになりました。
枠を自分で決めたら、自分が嫌がった「話題が限られてる人」と同じなのよね。だめじゃん、自分、と。
とりあえず、違うっていうことを拒否する文化がある場所がある、ということは、こちらの努力では変えられません。梅雨が日本にあるように、いちゃもんフェスティバルは季節の風物詩だと思って眺める程度に。
もしかしたら風物詩をみて、あなたが孤立しているだのなんだの言う男性社員が現れるかもしれません。違うことを拒否する文化の激しさ・拒否される側のつらさを述べたところで、なかなか理解されないことは、今回のコメントを見ても分かるのではないでしょうか。今回のが元増田さんが爆発気味の愚痴をぶちまけたからそのやり方で反感を買った、とも見えますが、じゃあ丁寧に書いたら理解してくれたかといったら、多分違うでしょう。
その辺は「隅田川の花火」と「それに伴う電車の混雑」みたいな関係です。
すいている路線に乗り換えて、自分と同じようにいろんなことを面白いと思っていて一緒に楽しめる友達や仲間がどこかに居るんだわ~と、放浪しましょう。お互いに。
元夫の立場だけど、問題の障害者は弟でなく自分の兄ですでに両親は他界。
自分の場合は兄の世話をするのは基本的に自分だけだし通所施設にも通っている。仕事中でカバーできない時間は居宅支援のヘルパーも使っている。
いまの福祉制度で利用できるだろうことはほぼ利用しているけど、その上でなお普通の生活は難しいし、このままでは自分が独りになって仕事も辞め介護で人生終わるという可能性も有り得なくないといつも考えている。
休日が介護(というか監視)で終わって自由に出かける自由もないというのは、実際に経験してみるとかなりしんどい。
地方の施設は入りづらいとか入り易いとかって議論もあるけど、少なくとも東京都で入所施設を見つけるのはほんとに難しい。今まで福祉事務所などで見聞したところによれば、東京都(それとも厚生省?)は入所施設の運営をほぼ完全に民間任せで、自治体や国の方針として増やす気は一切なく、「地域共生」を合い言葉に通所施設を障害福祉の中心にしたいと考えているらしい。(なので、入所施設とは別に小さなグループホームなどは微増の傾向かもしれない)
この体制からこぼれ落ちるのは、元増田にあるような(または自分の兄のような)一人で生きて行けない障害者だ。グループホームから通所施設へ通うことが出来ない障害者は、その障害者が住む地域の福祉事務所に空きのある入所施設から声がかからない限り、(人員足りないので仕方ないけど福祉事務所の仕事はたいてい受け身)そして声がかかった障害者の中から運良く選ばれない限り、下手をすれば一生家族で面倒を見ざるを得ない。
こうした障害者にとって「地域共生」など奇麗事でしかなく、面倒を見る家族が死亡すれば全国の入所施設で短期入所を繰り返し、最終的な入所施設が見つかるまで全国を放浪することになるという。(入所施設には「短期」と期間のない「入所」があって、どの施設にも「短期」の枠は常にある)
>差別を無くすには個人の意識云々の話ではなく、知的障害者の世話を家族に一任するシステムを変える必要がある。
まったくその通りだと思ったけど、一任でなくてもしんどいだよね。たとえば、居宅支援のヘルパーさんが24時間使えますとなっても正直全然うれしくない。見知らぬ人が24時間、自分の家に出入るするとか落ち着かないし、それってただ自宅が施設になっただけの話だと思う。
きっと知的障害者の世話ってのは素人には無理な仕事なんだって思う。たとえば、重度の知的障害者は普通の病院に入院すると追い出されることもある。日常の激務に耐えている看護師の方々でさえ通常の対処法では相手しかねる、それってもう、その道のプロフェッショナルに任せないと駄目ってことでないのかな。
通所施設の人たちも、小さなグループホームを運営する支援団体の人も、みんな一生懸命やってるのに、公的な援助は少なく立場も保証されない。(移動支援や居宅支援のヘルパーさんはたいていバイトみたいな立場)
行政が口を出すのは利用実績の管理に間違いはないか、不正はないか、利用時間上限超えてないか等々「お金」のことだけみたいで、内容がどうかなんて二の次。専門家がその内容にふさわしい報酬を貰えないのに、その道の興隆なんて望めるわけがない。
問題はたんに行政の施設に対するスタンスだけではないかもしれない。施設を開設しようとすると上がる地元民の反対の声、家族介護のための休日が取りづらい日本の雇用環境(とくに中小)等々、いろいろな問題があって今の状況があるのだろうけど。
生後すぐに処分してしまうのが正しいのか悪いのか、正直、自分にもよく分からない。そうした道を突き詰めると果てはナチのような社会が出現するのかもしれないし、とはいえ現状のような状況もまた健全とは言い難い。自分自身「〆る行為」を肯定したいくらいうんざりしているし。ただ、「〆る」行為を批判できる人など、行政や司法含めてごくごく一部の人に限られるのは間違いないと思う。
俺のスペックだが、
やってます。
普段の仕事では英語は全く使わないのだが、年に1回程度、英語を使う仕事が降ってくる。海外子会社の社長が来るから明日の4時に同時通訳してね、とか、このパンフレット今日中に英訳しといてね、とか。出現頻度が低い割には、突然プロな仕事が期待される。
自分の(外面の)経歴的に、社内で英語完璧超人な立ち回りが求められるのはわかるのだが、正直無理。
向こうの学校では、ひいひい言いながら課題やってましたもん。英語でレポート出すたびに、自分より年下の学生アルバイトの相談員に英語直してもらってましたもん。大体が、若干年喰ってから留学してるから、向こうの生活にどっぷりつかりこんでたわけじゃない。友達もそんなにできなかったし、研究室と図書館と自宅の往復、みたいな留学生活。そんな感じでどーにかこうにか卒業した後は英語は使わないんだから、もともとプアな能力がさらに錆びついてる。
②学部時代に1~2年程度、交換留学プログラムなどを使って留学
④小学校以前から海外(海外生まれ含む):いわゆる帰国子女のパターン
などなど。
自分の場合は、③で、研究留学といったりもする。①のワーキングホリデーや、②の交換留学パターンとくらべれば、ちゃんと英語はできるつもりだが、いかんせん20年以上も日本で育ってきた人間が海外に数年いたのみなので大したことはない。本格的なバイリンガルで英語を生活の糧できるような④のような人たちと比べられてしまうと全然だめなのです。
英語を副次的な能力として使うことはできる。あるいは、英語を専門とするプロを雇う、という働き方ならできる。でも、僕自身は英語のプロじゃない。