はてなキーワード: ファンレターとは
浴室干し用の除湿機を切り忘れたせいで室内はひどい暑さだった。昨朝干したバスタオルは水分という水分が奪われて干物のようだった。そんな浴室の天井に黒くて小さいそいつはいた。
私は虫が苦手だ、掴むことはできない。ホウキではたいて自分の頭上に落ちてきたらこのサイズでも少し怖い。シャワーで流してしまう手もあるがこんな手合いのためにせっかく乾いたこの部屋を濡らすのも馬鹿らしい。
後で殺そう
ベッドに腰掛けた私の顔の高さに張り付いていたので確実に目が(これが目なのか定かではないけれど)合った。
小さな前足をこしこしとこすり合わせ安っぽい賃貸のビニールクロスに張り付いていた。
こんな至近距離でクモを見たことはない、不思議と恐怖はなかった。
それどころか私のことを恐れる様子もなくマイペースに身繕いをするちいさなそいつを不覚にも可愛いと感じた。
ここ最近、何もする気が起きない。
仕事にはなんとか通っているがこの土日は家に引きこもっている、やれGOTOだと言われても外に出る気が起こらない。食欲もない、眠りも浅い、というか人と関わりたくない。つまり病んでいた。
引っ張られまいと気をつけてはいたのだけれど最近立て続いた悲しいニュースにかなりダメージを受けている。
私の母は自死だった、精神が不安定な彼女に長年振り回されたので亡くなったと聞いた時は正直安堵した。
それから最後まで身勝手なあの人に腹が立った、そして不器用な彼女なりに自分を愛してくれていたことに感謝した。
それでもまだ彼女に対する複雑な想いは拭えないけれど、私はついに誰にも縛られず自由に生きられるのだと思った。
それも長くは続かなかった。
この時勢、短期間で様々なことが起こりすぎて『何でどうして』を明確には語れないのだけど、とりあえず何もする気が起こらない。
ただ部屋でぼんやりとする時間が増えている、意味もなく涙が出る。ここ数週間それが顕著になってきた。ネットで調べてみると先ほどの状態を含め鬱のはじまりはこんな感じらしい
『だろうな』と思った。
理由は後述するがこの状況から抜け出したいという危機感はなかった。
私はずっと容姿にコンプレックスがあった、実際何度か顔にメスを入れた。
仕事をしつつ、自責癖のある母に悟られないようにやったので劇的な変化は望めなかったがそれでも元の顔に比べれば多少はマシになった。
身なりにも気を配った、歩き方ひとつも美しくあろうとした、親に教わらなかった最低限のマナーは本で学んだ。生まれ持った容姿をそんなことで補正しようとあがいた、所詮全て付け焼き刃だったが奇跡的に分不相応の異性と知り合えた時期もあった。
(母には捨てられるに決まっていると酷く嘆かれた、実際長くは続かなかった、それ以来彼氏はいない)
とにかく今の自分の生き辛さのすべての原因は自分が馬鹿で醜いからで、配られたカードを最大限生かし切ることの出来ない己のせいだと自分を責めた。
一番にはなれなくても”普通”になりさえすればきっと人並み程度の幸せが手にできると盲信していた。
みんながうらやむような華やかで素晴らしい人生を送って欲しかった。そんなものはエゴだと分かっているけど。
あんなに美しい人たちが、私にとって雲の上の美しい人たちが、多くの人に愛されるあの人たちが、母と同じような死に方をする、信じたくなかった。
母の遺品を整理した時、古いアルバムを見つけた。若いころの彼女は客観的に見てもとても美人で可愛らしかった。
精神を病んでしまった晩年はそれはそれは酷い顔だったと記憶しているけれど、写真に写る彼女はキラキラ輝いていた。
学生時代は多くの異性に言い寄られたという武勇伝はあながち嘘ではないんだろう、なんで私は母に似なかったのかと亡き父を恨んだ。
しかしこれほど愛らしい容姿を持って産まれた人間でも決して幸せにはなれない。あんな酷い最期を迎える。
うまく言えないのだけど自分の信じてきたもの、アイデンティティがそこで崩れてしまった。
最近のその想いが否応なしに強まった。
TLに流れてくる生前の美しいあの人たちの姿を見ると在りし日の母の笑顔を重ねてしまう。
私は人と上手く人間関係を築くことができない。
親友と呼べる人はいない、親戚とは疎遠で母以外の身内もいない、彼氏もいない、先述した通り無条件で愛されるような容姿もなければ、以前のように愛嬌を振りまく気力もない。
最近はとても口が悪くなっている気がする、まるで晩年の母のようだと思う。
このまま自分も母と同じ道を辿るのだろうと考えることが多くなった。
母はあんなめちゃくちゃな状態になりながらも子供のことは愛していた、彼女の残した日記には私を一人遺しては逝けないという想いが書き殴られていた。(それを読んだ時あまりに生きることが不器用なあの人を哀んで泣いた)
ただ私には誰もいない。この状態を抜け出したいと思えない理由はこれだ、私にはこの世に未練がない。
強いて言えばこれまで恥ずかしくて書けなかったファンレターを推しに一通だけ書きたい。置かれた状況も、身の上話も一切書かず、ただお礼を述べたい。
あとは身の回りの整理
こんな生活感丸出しの部屋を人に見られるのは嫌だ。それは私の最後の美意識というか、最後の最後まで人に本音を見せることのできない人間の悲しい性なのだと思う。
だからこの土日で部屋を整理しようと試みた
私は虫が嫌いだ。なので部屋に観葉植物は置いていない。(以前はあったが水受けの皿に黒いあいつの死骸があったことがトラウマでそれ以来置いていない)
切り花を飾った時期もあったけれど日々しおれていく花を見るのが悲しくて辞めてしまった。
だから今、私の目の前でぴょこぴょこと動くこいつはこの部屋で私以外の唯一の生き物だ。
いや、ダニやノミだって生物なので厳密に言えば間違った認識なのだけど、私の目に見えないものはいないことと同じなので、やはりこの部屋にいる生き物は私とこのクモだけなのだ。
そう思ったらこいつが無性に愛おしく感じた、そして自分はなんて寂しいやつなんだろうと今度は己を哀れに思った。
こんな私の部屋にやってきてくれた小さな客人、彼(彼女?)は大人なのか、赤ちゃんなのか、そもそも本当にハエトリなのか、もしかして成長して私の世界で一番嫌いなあいつをモリモリ食べてくれる軍曹なのか(このネタが分からない人は「クモ・軍曹」で、ググってほしい)、皆目検討もつかない。調べようかと思ったけれど画像が怖いのでやめた。
今は床に散らかしたままの服や下着に囲まれこの文章を打っている。
さっきまで部屋中央の照明のあたりにあいつはいたはずなのだけど今はその姿は見えない。多分エアコン付近の死角にあたる場所にいるのだと思う。こいつはずっと動いている気がする。
あの小さなクモの方が数十年生きている私なんかよりよっぽど強くて生きるのが上手だ。
よく見たら造形もスタイリッシュだし、目(?)もくりっとしていて結構可愛い。
どうも彼らの多くは無害で虫を食べてくれる益虫らしい。
負けている。私なんてクモより役立たずで、クモよりずっと醜い。あんなに美しくなりたかったのに虫にすら負けた。
もともとマイナスだった自尊心だけどまだ底があった。笑うしかない。
元気が出たので散らかった服をゴミ袋につめこんだ、死ぬ前に出したい推しへのファンレターの下書きをした。(思いの丈を書き散らかしたらめちゃくちゃ長くなってしまった、どうしよう)
あとはこれまで集めたグッズを価値のわかる人に譲らなければいけない。
せめて死ぬ前に荒れた肌を直したい。髪を染め直したい。ベリーショートにしてみたい。健康問題と思われたくないからジムも再開しとこうか。
のどぐろを食べてみたい。寝台特急に乗って一人旅をしてみたい。全く理解出来なかったテネットをもう3回くらい観たい。
そういえば推しの出演作も来月に控えている、
ああやっぱりグッズを手放すのが惜しい、服もまだ捨てるの勿体無いかも、他にも何かあったかな、多分ある。
この文章を打っている途中は死ぬことしか考えていなかったのだけど私にはまだ未練が山ほどあった。
自分の根幹に関わる重大なことから先延ばしにしていたことしょーもないものまで山ほどあった。
これは母の自死までをリアルタイムで見た自死遺族としての経験則だけど、死にたい衝動は長くは続かない。希死念慮と自殺衝動は違う、後者は発作のようなものだと思う。
その瞬間にたまたま悪い条件が全て揃ってしまうと最悪の結果をもたらしてしまう。それを本人の意思で止めることは難しいし、周囲の人間が止めることはもっと難しい、本当に難しい。
逆を言えばその一瞬踏みとどまればいい、ほんのささいなきっかけで命は繋がるのだと思う、例えば小指の爪ほどの小さなクモ1匹の存在でも。
事実私はこいつに現在進行形で救われていて、今は部屋の隅っこで泣きながらこの文章を打っている、病んでいる。やっぱり病院へ行こう。まだクモの姿は見えない。
私は虫が苦手なので、これ以上君が大きくなったら同居はできないかもしれない。けれど絶対に私は君を殺しはしないから安心して欲しい。
些細なきっかけで人は死ぬ、些細なことで人は生きる。けど結局人はいつか死ぬしこの世は碌なものではないという考えはもう私の心に根付いてしまって、これを変えることはできない。
このまま鬱が本格的に悪化して今度は本当に死にたくなるのかもしれない。そればかりはわからない。
母と同じように首に縄をかける瞬間が来たら、私は天井を見上げるとおもう、見上げたいと思う。
ちいさな友人を探すとおもう、縋るとおもう、さよならの挨拶をするために君を探すとおもう、その時に今日のことを思い出して最悪の条件が揃わないことを祈る。
死んでいいタイミングなんてない、私には未練がごまんとあるのだ。
50代くらいの世代の人の話を聞いたり登場人気だった漫画の巻末のお便りコーナーなんかを見るに
萩尾望都をはじめとする「24年組」の少女漫画だとかバナナフイッシュとかは男性も読んでて
ドラゴンボール、キャッツアイ、北斗の拳、タッチ、うる星やつらなどの少年漫画も
教室で大流行して非ヲタの女子も回し読みするのが当たり前だったらしい
ジョジョのあーんスト様が死んだだって女性からのファンレターで
アニメだけど富野もガンダムの最初のファンは女性だった的な発言をしているし
「女性向け」は男性が読むことを禁ずという意味ではないし「男性向け」も女人禁制ではない
作り手はそんなつもりではない
ただ近年になってジャンプがちょくちょく怪しい発言しているのが問題なんだよな
だから「少年漫画は男だけのものなのに!」と言い出す奴や「少年誌という言い方は女性差別!女性排斥の意図がある!」とかいう奴が出てくる
昔の私は小学生のときに手紙を書くピークを迎えて、中学生~20代前半までは手紙との接点が少ない生活だった。
最近は文通も始めて、今現在人生でもっともたくさん、頻繁に手紙を書いている
アニメ漫画好きなオタクだったからそういうオタクグッズがたくさんあり、ポストカードや同人便箋を処分してしまった
あのとき処分をしていた私にはポストカードやら同人便箋やらの使い道が思い浮かばなかった
しかし、今の私なら、今までの人生で一番手紙を書いている今の私ならあのポストカードや同人便箋たちを使えたかもしれないのに
同人便箋OKな文通相手を探しだして文通とかやってたり、オリジナルキャラの同人便箋とかならファンレターに使ったりだとか
色々と使えてたかもしれないのに
本来与えられた役目を果たせずゴミ箱行きになったものたちの無念さを考えると悲しい本当に
あぁぁ……
今の私は知り合いに手紙出すしファンレターたくさん書くし文通もやってるし
今の私ならあの同人便箋たちに本来の役割を果たさせることができたかもしれないのに
実家から見つかった子供のときに買ったレターセットを今ほそぼそと使ってる(もちろん目上の人には使ってないよ。)
小学生のときの自分がわくわくしながら買ったときの思いを大人の私が昇華しているようで、役目を果たしている昔のレターセットを見ていると気持ちがいいんだよね。自己満足だけど
なんていうか、トイ・ストーリーで子供が昔買ったおもちゃを成長するともう必要としなくなるみたいな切ないシーンあるけど
アイドルや芸能人が炎上し、オタクがお気持ち表明し、それを見た人が「期待しすぎw」「理想を押し付けすぎw」と嘲笑する
という流れをここ数年よく見た。
応援していた対象のスキャンダルを受けてファンがショックを受けるなんて、勝手に理想化してただけのくせに『そんなことする人だと思わなかった』と怒りファンをやめるだなんて、あまりに愚かで勝手すぎる、
そういう意見も一理ある。
でも炎上きっかけでファンをやめることを「勝手に期待していたから」というのは安直すぎるのではないか。
例えば男性アイドルが未成年の女の子と飲酒しお持ち帰りをした、というニュースを見て出る「そんなことをする人だと思わなかった」という気持ち。
もちろん「見損なった」という意味で言う人もいるだろう。そういう人達は揶揄される通りに勝手に自分の理想の人物像をアイドルに押し付け、妄想し、本当はそれに当てはまらないという事実に勝手に裏切られた気持ちになっているかもしれない。
しかし、裏切られたとか憤る気持ちもなく、ただシンプルに、「そんなことをする人だと思わなかった」と思う人もいるはずだ。
私個人の話になるが、私は誰かのファンになる時、その人の表に出ない良くない部分を想像する。
恋人がいるかもしれない、恋人とSNSで匂わせに勤しんでいるかもしれない、ファンレターをオタクキモいと笑いながら読んでいるかもしれない、ヘビースモーカーかもしれない、
毎晩飲み歩いているかもしれない、酔って暴れたことがあるかもしれない、共演者を食い荒らしているかもしれない、違法薬物の経験があるかもしれない。
見えていない部分は「無い」のではなくて、「見えていないから実態はわからないけど、何かある」と思っておく。
想像じゃなくても、良くない部分が見えることもある。遅刻魔で、先輩に敬語が使えなくて、漢字にめっぽう弱い、など。
良くない部分を見ても、想像しても、自分がそれを「許容できるな」と思うくらいその人を魅力的に思えたら、私はその人のファンであると自覚する。
そしたら私は「推しがそんなことをするとは思わなかったな」と思う。
単純に「私の想像の範疇を超えていた」「そのパターンは想像していなかった」というだけの話だ。
「未成年の女の子と派手にお酒を飲んで飲ませてセックスをするなんて絶対しないような、紳士で、倫理観のある人だと思っていた」ということではないのだ。
応援している対象が自分の想像を超えた行動をした、それがわかった後でもファンを続けられるか。
私は推しが未成年とお酒を飲んでセックスしていても合意であるなら「なるほどそんなこともあるのか」と飲み込んでファンを続けられるだろうが、これが暴行しての強制性交なら絶対に応援を続けられない。
見えていなかったものが見えてしまった、見えたものが私の正義と相反した、私は私の正義が許せないものを支持できないから離れる。
私はかつて元KAT-TUNの田口淳之介ファンだった人間だ。(釈放時に派手に土下座して法廷で公開プロポーズしたあいつだ)現在も別の男性アイドルを応援しているので、Twitterでいわゆるオタ垢を動かしている。そのオタ垢のTLで今年私をざわつかせた一連の流れがある。
手越祐也のジャニーズ事務所退所と、そこからのファンの動きだ。
何がざわつくかって、かつての田口のファン層の変化と共通する点が多いからだ。
先にトピックを列挙しておく。
・私生活の切り売り
当初たまたま目にしたファン...というより降りたくても降りられない人たちのつぶやきがあまりにも既視感があって、愚痴垢界隈からしばらく目が離せなくなってしまった。自分でもはちゃめちゃに気持ち悪いと思うけれど、自分のトラウマと向き合って過去を冷静に振り返りたい自分がそこにいたのだと思う。
はじめに書いておくけれど、これはアイドルファンに対して「こうあるべき」と言いたいのではなく、手越くんをはじめとするアイドルたちに「残ったファンがこういう状況になったら危険」とどこかにメッセージを吐き出したくなったそこらの限界オタクの呻きです。オタクたちに石を投げるつもりは一切ございません。
また、「逮捕されたアイドルと一緒にするな」というご意見もあるかと思いますが、正直逮捕の有無に関わらず、逮捕前の田口の状況はいわゆる下降線をたどっていて、あまり芳しくなかったと思います。メジャーとの契約が切れたりして。(現在はリセットされて少し良くなったと思う。この辺りは末尾にて。)知名度も人気の規模も手越くんとは差がありますが、あくまで「アイドルとファンの関係」が悪化すると活動が衰退する可能性があるぞという個人の意見ですのでご了承ください。
田口といえば世間一般的にオラついていたKAT-TUNの中でもマイルド担当で、育ちとスタイルの良さ、ダンスの美しさからクラシカルな王子様的ポジションとして愛されていた。(寒いギャグも言う三枚目キャラでもあったけど。)
ジャニーズ時代は比較的需要をまっとうしていたけれど、退所してソロ活動を始めてからは、本人のリアルな嗜好が垣間見れるようになってきた。
今でも「田口淳之介 ロゴ」と画像検索すると一部ヒットするが、ゴリゴリのワルなストリート系のロゴなのである(語彙力、、)。
インディーズで発表した1stシングル「HERO」のジャケも完全にらしからぬワルでマッチョなフォントでタイトルが描かれていたし、続いてリリースされたメジャー1stシングルのロゴもストリートアート風で、本人のファッションもとてもカジュアルなものだった。
活動のかなり初期から、熱心だったファンからも「これじゃない」「田口くんに似合う服はもっとこういうの(画像つきTweet)」といった類の意見が頻出していた。
音楽性に関してもちょいちょいジャパレゲテイストを出してきたり、ウェイ度の高いラップにチャレンジしたり、イカついテイストの楽曲が目立った。(全てではないが)
はっきり言って、目指している方向が「理想とちょっと違う」というよりファン達が「なんなら苦手」と感じるジャンルだった印象だ。地雷を踏んでいたのだ。
アー写も「強い自分」を打ち出したい意図がわかりやすいものを長らく使っていて、「もっと穏やかな空気感の写真の方が田口くんの良さが出ていいのに」なんて言うファンの数は決して少なくはなかった。あれだけ言われていたのだから、ファンレター等で直接進言した人だっていたに違いない。
逮捕前の田口は、ファンの需要を理解していながらも「自分が表現したい自分」との大きなギャップに苦しんでいたのではないか。
(ライブの衣装しかり、写真集の衣装のチョイスしかり、需要に応える場面もそれなりにあった。けれど、本人が持たれたい印象と差があることがあまりにも明確だったので正直見ていて苦しかった)
独立して個人で活動していくのだから、アイドルが自分のやりたい表現をやる権利を行使して当然だ。それは美しく言えば信念とも言える。だけど、ファンのツボを押さえていないとファンが減るのは当たり前の結果なのだ。
かつてのファンが一番切望しているであろう音楽活動が手薄なまま、YouTubeにボランティアに脱毛サロンにと活動範囲を広げている手越くんを見て、そんなことを思い出した。
ただここまでは本人がリスクを覚悟してどこまで天秤にかけるのか次第の話だからまだいい。ここまでなら未来に期待して残るファンはそこそこいる。
芸能人の実名をあげまくった手越くんの自伝とは影響力にだいぶ差があるが、田口もしばしば私生活の切り売りと称されても仕方のない活動があった。
いくつかの媒体で、退所から現在までを振り返るインタビューで結婚をいずれ考えている主旨の発言をしたり、吉本芸人がたくさん集まる関西ローカルの番組でも同様のことを語ったりしていた。
長年交際を続けている恋人がいるのはファンなら周知の事実だったし、退所理由を濁された時点で結婚を見据えての退所なのだろうと多くのファンが推察していたせいなのか、ソロ活動の開始当初から田口のファンには恋愛に寛容な人が多かった。
だが、週刊誌から情報が流れてくるのと本人の口から語られるのとではダメージ全く異なるのだ。くだりの関西ローカルから一気にファン離れが進んだ印象が強い。
「アイドルだって恋愛は自由だ」という考えは正論だし、どちらかといえば私もその主張に近いが、一方で「恋愛して欲しくないというより、アイドルの生々しさに触れたくない」というファンの気持ちはわからなくもない。そういうファンが良い悪いというより、アイドルが実生活の恋愛の話をすと、一定の耐性がある人でないと応援しづらくなるのが実情なのだ。
また、生々しい恋愛を語りファンに耐性を求めることで、”とあるリスク”が生じるのだ。
現在手越くんを純粋に応援するファンの方も、どちらかというと高齢の方が目立つ。
田口はジャニーズ時代から元々マダムキラーの傾向があったが、1stアルバムを出したときに池袋のサンシャインで行われた特典握手会には本当に若いファンがたくさんいたし、握手して感激して目をはらして会場を後にする人で溢れていた。
それが、いつからか会場には自分の親世代のファンの割合がどんどん増えていって(つまり若い子が減った)、スタンディングの密集した現場なんかでは誇張ではなく本当に加齢臭が漂うようになってしまった。
アイドルの恋愛に耐性がある人とはどういう人なのか。全員ではないが、自身が結婚を経験している人ほど、その傾向は高まるように思う。
また、アイドルの親目線で「幸せになって欲しい」と願うファンもこの傾向が強い。(言わずもがな親世代の人たちに親目線のファンが多い)
「自分が結婚しているのに、アイドルの恋愛や結婚を咎めるのは後ろめたい」と思う人、「アイドルの恋愛を許容する心の広い自分が好き」と思う人たちが生き残る。
高齢なファンが全て悪いとは言いません。年齢を重ねて穏やかに応援していて、マナーを大切にする素敵なファンの方もたくさんいました。
・SNSが苦手
SNSが苦手。これが単に「拡散力が低い」だとか「他界隈を沼に落とすのが下手」といった特徴であれば、単にプラスの影響が少ないだけで、害はありません。
SNS慣れしてない、SNSしてない世代の特徴は、<自分のSNS上での振る舞いで他者からどう見られるか>という視点が欠如した行動全般を指すのです。
わかりやすい例でいうと、愚痴をつぶやくときに検索避けが出来ていなかったり。アイコンやプロフィールがダサかったり。使っている絵文字や顔文字など表現全般が古かったり。内容を垢分けせずに無駄に日常を垂れ流したり。
高齢な女性ってなんですぐ「○○ちゃん〜❗️」とか言ってすぐリプライで絡むんでしょうね。あとすぐ「○○同盟」とか「見守り隊」とか言い出したり。
きっと若い世代以上に良くも悪くも<いかに標準的であるか>に気を遣う世代だからすぐに群れたがるのでしょうか。
アイドルのディープなオタクになるための2大行動として「ファンクラブに入る」と「SNSで専用垢を作る」だと思うのですが、後者の専用垢を作る前段階で、新規の若いファンは大手垢を中心に、界隈のファンがどんな発信をするかをチェックします。そして、安心できるコミュニティーだと判断してようやく壁打ち垢からスタートするものです。
SNSが下手なファンばかり増えてしまうと、残念ながら新規のファンはどんどんつきにくくなります。
あとこれは田口のファンだけかもしれないけれど、高齢のファン、気持ちが昂ってても遠慮してなのかライブ会場であんまり声出さないから、パフォーマンスの素晴らしさの割に現場の熱狂が薄くて悲しくなることが多かったな。。。
よく愚痴垢界隈や降りかけのファン、ひいては批判を投げかけるファンに対して投げかけられる意見として、「嫌なら見なければいい」という言葉があります。
特に逮捕直後は当然ながら田口ファン界隈のSNSも荒れに荒れ、結果として擁護派からこの言葉が発せられました。
少し前にAKB48の柏木由紀ちゃん(この人選で傷つく手越くんファンいたらごめん)も自身のYoutubeチャンネルで、「全肯定してとは言わなけれど、アイドルを自分の理想に変えさせるのは違う。見ていて自然と応援したくなる人を応援すべき」という主旨のことを話していた。全肯定まではいかないけれど、比較的近いスタンスの発言だと思う。
こうした類の意見は、ファン自身が精神を病まずに応援するという観点では大正解だ。
だけどアイドルから見て、本当にこのスタンスは望ましいのだろうか。
アイドルに限らず、認知度がものを言う世界では、無関心こそが最大の脅威だ。愚痴を言われながらフォローを続けられているならまだマシで、チャンネル登録やフォローを一度外されてしまったら、そのファンが戻ってくる望みはほぼゼロに等しい。
だいたいアイドルが何をやっても許すならば、そもそもなぜそのアイドルを推しているのかという根拠が揺らいでしまう。だんだん応援するのが習慣になってしまったとしても、元はといえば応援したくなる決定的な要素があったからファンになったはずだ。本当に全肯定になってしまったら、それはただの宗教か依存か自己陶酔だ。
今私が推しているアイドルの界隈は、ことによっては批判も行われ(批判はアイドルだけでなく運営に向けられることもある)、少なくともファンの間では正当に議論が交わされることが多い。批判も決して押しつけではなく「次は気をつけられるといいね」「反省できる○○くんは素敵」といった具合に幸いにもポジティブに着地するのをよく見かける。こういう意見が見られる場所で応援してこそ、自分の推しているアイドルを好きだと日々自信を持って実感しながら応援出来るのではないか。
そして現在の手越くんの愚痴界隈は、見切る勇気がなかったり、まだ期待しているというだけでなく、ファンが減ってしまう恐ろしさを察知しているからこそ、健気に意見を言い続けているのではないでしょうか。
かつての田口担から見ても、彼女たちがいなくなってからが本当に切ない事態を招いてしまう予感がします。Twitterを見た感じ、若いファンが多いし。
少し前に現在応援しているアイドルグループのメンバーの一人が、新しいレギュラー番組を始めるにあたって、「今まで見せたことがない一面を見せるかもしれない」と事前にブログで発信していてとても感心しました。ファンが離れる恐れのある新しい挑戦の際に、先回りしてファンをケアしたり、活動の幅を広げるにしても、ファンが理解できるような筋を通すことでいかに安心感が得られるか、と実感した体験でした。手越くんもよかったら参考にしてみてください。
最後にこのブログで散々貶めてしまった元自担の田口淳之介さんに関して補足。
私は逮捕が原因でファンをやめたというより、逮捕後、ファンクラブの会員だけが見られるブログでは「法廷で語ったことが全て」と言っていたくせに、そのブログの後で家族との仲が原因で小嶺家に助けられて絆を深めた、などなど余計なことをベラベラと週刊誌に語ったのに呆れ果てて応援する気をなくしてしまいました。
ですが、私がファンをやめる前より、現在の方が状況が良いように思います。
逮捕されたことで以前よりプライドがなくなったのか、自身のオリジナル曲だけでなく「踊ってみた」に積極的に挑戦して動画を投稿したり、逮捕前からラジオ番組を通じて交流があったボカロ界隈の方と楽曲を作ることで、クリエイターを押し上げつつハイペースに作品を出すことに成功しています。
正直、逮捕された後にここまでアクティブに活動してくれると思っていませんでした。
ボカロ曲が私の音楽的嗜好に合わないので、応援はしていませんが、SNSのフォローは続けています。
たくさん傷つけられましたが、今でも幸せになって欲しいという気持ちには変わりはありません。
何より、「歌って踊ることが好き」であるということにしっかり軸を置いて活動しているのが見て取れるのが嬉しいし、どうかこのまま続けて欲しい。田口氏に関しては、いつの日かまたファンに戻る日がくるかもしれません。
勝手に比較して勝手に書き散らしましたが、どうか手越くんのファンやかつて手越くんファンだった人たちが幸せに心穏やかに暮らせますように。
私は私のファン第1号だ。
たとえ活動が無くてもどこかでまた輝く私を夢見て、私が幸せになることを毎日祈り続けている。
自分で歌っては「なんて綺麗な歌声なんだ」と思い、自分の書いた文章を読んでは「こんな文章は私以外の誰にも書けやしない」と感嘆して、可愛く着飾った自分の姿を鏡で見て「こんなの映画の主人公じゃないか」と息を飲む。
自分というアイドル、偶像崇拝をすることで自分のあぜ道を照らし続けてきた。
壊れかけの懐中電灯のような頼りない光は私に三叉路の間違った道を勧める。
迷っているのはとうの昔に気づいているけど「もうこんな所まで歩いてきてしまった」と見栄を張って気づかないフリして自分が正しいと疑わずずんずんと進み続けた先には何も無かったのだ。
いつか見えない手が私に救いを差し伸べて私はただその時が来たらその手に縋ればいいと機会を待ち続けていた。
本当にしょうもない人生だった。ずっと夢ばかり見てきたと思う。
歩き続けてれば勝手に上手くいくほうに導かれるだろうと思ってたけど本当に何も無かった。真っ暗闇に意識だけがふよふよと漂っているのだ。
偶像は振り向かない。微笑んで手を振ってはくれるけどあくまでファンサービスだということを忘れてはいけない。夢を見せてくれるけど夢に見せられてはいけない。応援し続けていればいつか見返りがあるだろうと期待することは甚だおかしい。
私は私の人生を自分の足で歩まなければいけない。叶える気もない夢は幻想でしかなく幻想に囚われていたと気づいた時には見惚れていた夢が煤になり自分に容赦なく降りかかるのだ。自分のことを灰被りの少女だと思っていたけどそれこそ私が作り出した幻想に見せられていたのだ。
誕生日が来る度に「来年はもっと多くの人に祝ってもらえるように頑張ろう」と心に誓うようになってから4年は経った。今年は家族に祝ってもらえたので2人増えたと言っていいんだろうか。
そんなのでもいつか絶対にこの日々が光を帯びて眩い思い出として何度も振り返られる時が来ると思う。
この先の人生で得るはずだった休暇を全てこの瞬間に閉じ込めて消費しているんじゃなかったら何なんだとすら思うほどに自由に生きている。
何にもない私にも自由だけは有り余るほどある。
私は私のファンだけどプロデューサーなんてついていない。「こういう私が見てみたい」「きっと私ならこれができるはず」と思ってもこれまで私一人だけで叶えられなかったことも多かった。
さっき見た映画の余韻に浸っていたらもう既に2時間が経っていた。こうやって限りある人生というのは私の意図に反して終わっていくのだろう。
私は私を幸せにしたい。これは自分という名の偶像と決別するための1200文字の遺書。よってこれを最後のファンレターとして筆を折ろう。キショ。
少女小説が好きだ。
戦前の吉屋信子氏に代表される「少女小説」から始まり、時代の流れのなかでいちどは途絶えそうになるものの、70年代後半にやはり「少女小説」を愛していた氷室冴子さんをはじめとするコバルト文庫の作家さん方によって再び脚光を浴び、2020年まで連綿と息づいてきた少女小説が、好きだ。
昔からずっと変わらず月が愛でられてきたように、百年前から変わらず「少女小説」を愛しているひとたちがいる。そんな長い歴史の浪漫の一端に、きっと私もいるのだろう。
青春時代、「少女小説」というひとつの空間のなかで、ひそやかに繰り広げられてきた世界に没頭し、陶酔し、生涯大切にしようと胸の前でそっと本を抱えながらその思い出を心の奥底にある宝箱のなかにしまったのだ。
私が初めて少女小説を読んだのは、中学生の頃だった。学校の図書室で、静かに置かれていた『シュガーアップル・フェアリーテイル』シリーズを偶然手にして、優しく柔らかに、そして美しく描かれる銀砂糖師と妖精たちの世界に魅了されたのだ。そこから、『ヴィクトリアン・ローズ・テーラー』シリーズや、『おこぼれ姫と円卓の騎士』シリーズ、『英国マザーグース物語』シリーズ、『彩雲国物語』シリーズなどなど、様々な少女小説に手を出した。あるときには、とある少女小説作家の方に、人生で初めてのファンレターを送ったら、返事が届いた。今もその手紙は、机の引き出しの奥できらきらと輝き続けている。そうした読書体験を含め、少女小説を心から愛している。
とはいえ、たぶん。現在の若年層は、そもそも「少女小説」という言葉を知らないひとも増えているのだと思う。実際、私(※大学生)の周りでも、「少女小説」という言葉を知らなかったというひとは多い。コンテンツに溢れた世の中で、他作品よりも目立つことの難易度は、どんどんと高くなっているのかもしれない。だが同時に、「キャラ文芸」あるいは「ライト文芸」といわれるような作品群や、Web小説のなかに、少女小説の文脈はいまも引き継がれているのだとも思う。
ある言葉の持つ意味が時代と共に少しずつ変化することがあるように、時代に合わせて本もまた少しずつ変化していくのだろう。だから、そうした時代の変化を悲観する必要はないのかもしれない。けれどやっぱり寂しい気持ちもあり、もっと沢山のひとに「少女小説」という存在を知ってほしいと思ってしまう自分もいる。
「小説家になろう」発のWeb小説や、「ライトノベル」という言葉の定着によって、昔なら「少女小説」と呼ばれたかもしれない作品群も、「Web小説」や「女性向けライトノベル」という枠に入ることも増えつつある。その結果、「少女小説」という言葉が再び「知る人ぞ知る」ものになりつつあるのだろう。名前が変わっても、物語が描き出すもの自体は何も変わらないのだから、繰り返しにはなるがきっと悲観することではない。それでもやっぱり、どこか寂しい。その思いから、筆を執った次第である。
「少女小説」という言葉に執着する必要はないのかもしれない。前述したように、物語が伝えたい想い自体は、変わらず在り続けているのだから。
それでも、百年前から愛されてきた、そして私が愛した「少女小説」を、再び世に広く知ってもらえる未来が来ることを祈っている。
元増田です。知らないところでバズってたみたいで自分のツイ垢にもこの記事回ってきた。
あの後色々反応もらえて、その中でここ気をつければ私みたいなライト層なら対策取れるなってのが沢山あったのでまとめさせてもらいます。ガチ勢はわからん。瞳の写り込みから特定とかはやったことないし。
https://anond.hatelabo.jp/20200814040800
社内でちょっといいお土産が配られた時、お土産名に日付指定を組み合わせて検索すると会社の人のTwitterが見つかる。
嫌いな元上司のTwitterは退職して5年経った今でも見てる。
https://anond.hatelabo.jp/20200814093952
・停電
・スーパーで買ったもの(お惣菜だとパッケージに○○店って書かれてる。田舎だとチェーン店でも店舗数が少ないから都道府県さえ分かれば生活圏がわかる。)
どの市区町村に住んでることかわかったら、誰かに聞かずともとんとん拍子に特定できる。
気をつけてほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20200814115941
誰かが雨降ってるとツイートしてたらとりあえず雨雲レーダー見るけど、ゲリラ豪雨とかだと市区町村レベルで特定できる
https://anond.hatelabo.jp/20200814143931
不二家とかチェーン店じゃないケーキ屋のケーキは気を付けるべし
chocolaterock 意外とこういうところ学生さんが詰めが甘いらしくて、一人見つけたら芋づる式でわんさか出てくるって友達が言ってた。気をつけたい
hiyori777 黒歴史クリーナー使ってもフォロワーから過去に送られた「◯◯ちゃん、地元◯◯なんだ〜!」みたいなリプライは残り続けるわけだからね…本人が途中からリテラシーを学んでも遅い場合が多い
Galaxy42 これらのポイントに絞ってフェイクを構成すると良いのね。
あと参考ついでに、何で特定なんかするの?って意見を見かけたので。
一概には言えないけど、少なくとも私は特定に至る過程が面白いのでやってる。だから得られた個人情報っていうのは副産物に近いので、正直あんまり興味がない。ファンレターくらいなら出せるなって思ったことはあるけど。
で、趣味に勤しんでいたら思ったより簡単に特定できる人が多くて、特定が趣味のやばい奴が個人情報垂れ流しのもっとやばい奴に出会って正気に戻った。それでせめて対策のための手口とか明かしておこうって思って書いた。
あと私の手口として、瞳の写り込みはないけどコップの写り込みから窓の形が集合住宅に多い型だって特定したことはある。空の写り具合から3階以上だなってのもわかった。
それから写真を上げるときは中の文字はなるべく消した方がいい。有名な観光地でない限りは。
それからチンポジも突っ込まれてたけど、ぶっちゃけまだマイルドな話題で、ある人は息子の精通やネットの履歴から特定したオカズについても書いてた。正直この人にドン引きして正気に戻ったっていうのはある。
でも結局自分を顧みることのできない人だから簡単に特定されるのであって、
ffrog 肝心のそういう人たちにはこのエントリが届かなさそう
だろうなと思ってる。
レターセットやレターパッド、便箋の類いは文通をしたり、ファンレターを書いたりする習慣がある人間なら出番が多いので使いきることが可能
しかし、一筆箋はめったに出番がない。先日前の職場の人がかわいい猫の絵柄の一筆箋でメッセージを書いてくれたので私も嬉々として自分の一筆箋にメッセージを書いて送った。
気に入って買った一筆箋なので書き上げた後「はぁ…やっぱりかわいい」と思い
そして持ち主の私が一筆箋をなかなか使わないことによりその一筆箋のページがなかなかこの世に出回らないことが惜しいなぁと思う。せっかく買った一筆箋なのでじゃんじゃん使っていきたいのに
世の中にはそえぶみ箋というものが存在してちょっとしたブームになるくらい一筆箋がメジャーな道具であるはずなのに、実際には一筆箋の出番が極端に少ないのなんでなんだろ
感想に飢えている人はファンレターを見てテンション爆上げで、書いた側も受け取った側もwinwinの関係であるが、やはりファンからのファンレターを読んだ推しとファンとの温度差というものが生じるときもある。
ファンレターは推しのことをたくさん知っているが、推しが書き手のファンのことを何も知らないので温度差があるのはしょうがない。ファンレターを読んで涙を流すような人もいるだろうが、ファンレターに対して非常にあっさりしてクールな感情を持つ人もいる。
推しが一緒にチェキが撮れるような地下アイドルだったら認知されて手紙を書いた人間に対して好意を持つ可能性が高くなる
推しの知名度が高ければ高いほど、ファンと推しの温度差は広がり、自分は大衆の中のうちの一人と理解して推しを変わらず愛し続けられる人間もいれば、報われない推しへの重苦しい愛情に押し潰されて病んでいく人間もいる
推しに高価なプレゼントをしたり、ファンレターを年間三桁書くようなファンは自分の愛情に押し潰されて推しの一挙一動に苦しむタイプだ
私がいつ手紙やはがきの書き方を教えてもらったのか覚えてないのだが年賀状を出す文化があったため、郵便物を送るときは切手が必要だということは小学生のときからわかっていた。
ふと、YouTubeを見ているときに「おや?」と思う動画に遭遇した。子供に人気のYouTuberに届いたファンレターのうちの一部がむちゃくちゃだった。おそらく小学生から届いたファンレターだと思う。はがきの表裏を間違えて書いてあったり、封筒に切手を貼らずに投函したり、めちゃくちゃだ。すべての子供がそうではなく一部のファンのことである。YouTuberは手紙の書き方をちゃんとお父さんお母さんに聞いてと優しく諭していた。
親が知らないうちに子供が家にある封筒や便箋を使って手紙を投函するということはありえる。
親の見てないところで全ての行為がなされてしまった場合はしょうがない。
こうなってしまう前に私は幼稚園保育園の先生が子供に手紙やはがきの書き方出し方を教えるべきだと思う
私は手紙オタクなんで自分の子供にははがきや手紙の書き方を教えるつもりだが、
最近の保護者はポストに入れる手紙やはがきなんか書かないという人も多いと思う。手渡しの手紙は書く機会はときどきあるだろうけど。
親が手紙やはがきに興味がない人間だったら子供に書き方を教えることもないだろう。小学生は国語の時間に手紙の書き方を勉強するのだろうが、何年生のときに教わるのかは知らない。どこまでの知識を授業で教えるのかもわからない。
手紙やはがきの出し方って国語というよりは家庭科でやるべきなんじゃないかと思えてきた……
切手の料金とかはがきの買い方とかレターセットの買い方とか手紙の折り方や入れ方って国語じゃなくて家庭科の内容ではないか!?
国語でどの程度郵便物の知識を教えるのか知らないが手紙やはがきの知識は幼稚園保育園で先生が子供に教えるべきだと思う。そうしたら子供が自分の大好きなYouTuber宛の手紙やはがきに切手を貼らずに投函することを少しは防げると思う。
元増です。
ファンレターを受け取った表現者がファンの個人情報を悪用するかどうか心配するのは、
元増だけど調べてみたら某大手出版社はとどくファンレターの数が多くて、ファンレターの処理をすることが「通常業務」になってないからファンレターが出版社に届いてから作者の元へ数年かかることがあったみたい。これは2010年頃の話だから昔はこういう状態が実際にあったってことで。
「作者にファンレターを転送することを当社では通常業務として行っています。だからファンレターを送ってください」と宣言する出版社は複数いる。
そして、版元が個人情報保護のために手紙の封筒を処分して作家にファンレターを転送する場合があるらしい。編集者は「読者の個人情報を作家が悪用するかもしれない、流出させるかもしれない。そしたらその問題が起きたときに版元に迷惑がかかるから」という考えで読者の個人情報を作家に渡さないようにするらしい。
でも、作家に「自分の住所や名前を知られたくない」と思ってファンレターに自分の住所や名前を封筒に書いて送るファンがいるのか?
作家というものは読者の個人情報を漏らしてしまうほど、悪用してしまうほど人格が破綻しているのか?そんなことは通常心配しなくていいこと、心配してもしょうがないことだ。