はてなキーワード: スタンスとは
しんどいですね。、親年代は親年代の流儀と価値観とがあり、よそと比べてうちは(子供に)良くしてやっているほう、みたいな感情なのかな。感謝強要もあるあるです。
不器用で愛情表現が下手な方もあるかと思います。あの時、こうしていたら、とあとから後悔しないようにしてください。
元々は趣味繋がりだったが、彼女は時々政治や男女問題に関わる話題にも言及していた
彼女が男女問題に関わる事柄を話していた時のスタンスは所謂ミサンドリーとターフが混ざってる印象だった
結構強烈というか男性やMtoFへの厳しい視線が目立ったが、それも彼女の思想なので別にまあそういう人なのだと思うだけだった
いつだったか、彼女が自身の思想に基づく発言をSNSでした時に、誰かから「それは差別的だ」とつつかれていた
あの出来事で何か省みることがあったのか、単に他者からの反論が疎ましかったのか、彼女は男女問題について話さなくなった
それからしばらく経つと彼女は結婚して誰かの妻となり、更に時間が経った頃に一児の母となった
そうしてこの数年の彼女の話すトピックは趣味や以前話していた政治や男女問題に代わって母親はいかに大変か、夫への苛立ち、子供連れに対して世間がいかに冷たいかといったことへと移り変わっていった
だが今日も今日とて子供連れがいかに冷遇されているかを語る彼女が、そうした話題に絡めて「いい大人が特定の層を堂々と邪険に扱うの恥ずかしいことだ」という旨の言葉を発しているのを見ていると、少しなんだかなあと思うところもある
数年前まで男性やMtoFの人に厳しくあったのはどこの誰なんだろう
かつての彼女がしてきた発言を振り返るととんでもないブーメランになると思うのだが
モヤモヤしてるくらいならとっととフォローやめろよと突っ込まれる話ではある
でも今でも思い出したようにポロリと語られる彼女の趣味の話はとても面白いので離れるのも惜しくてここで吐き出している
専門医っていうのは学会に属してるかどうかで認定うけたかどうかはぶっちゃけ関係ない
属しているだけではあんまり意味ないんだけど、肩書なんかより最新の情報に触れてるってだけでも十分期待はできる
CTとかMRIの画像だけとかマーカー検査の数値だけでわかることも大半なので難病でもないかぎりは顔みないで作業だけのほうが信頼できるとこもあると思うよ
手術については最近わだいの漫画があるからヤバいやつはヤバいって思うだろうけど、同じくらい以上にはイケてるやつはイケてるし検査や施術でうまいやつのほうがヤバいやつより多い
ヤバい話はヤバいと言えるけどいい先生なんてのはどこがどういいのか言葉にしようがないから噂にならないけど学会で症例や臨床の話題がでればその名前でいい先生判定はできる
そもそも健康で問題がない状態からマイナスになって病院にきて、戻ったらとうぜんもとにもどってマイナスからゼロちかくまでもどってあたりまえ協力ありがとう先生ってスタンスにプラスの100点つける一般人がいるわけないので
医者がいいとかわるいとかは、もうパートナーシップの関係性みたいなもんじゃないかなと思う
担当の先生にそういう言葉がかけられないのだったら、その先生が名医かヤブかわからないけどどっちにしろハズレなので自分にとってのアタリとはって基準で探したほうがいいと思う
なんかきまずいから薬のまなかったのいわないでおこうとか、歩いたっていったら怒られるのでだまっとこうとか、痛みがあるって言ったら検査されそうだしなあ、とか思う相手なら病院いかないほうがましなのでちがうとこさがしたほうがいいよ
医者は怪我とか病気とかみてわかるけどそれ以外はわからないからね
二人三脚だよ
大学2年の時にニーチェを読んだ。ニーチェかサリンジャーを読まないといわゆる「基本的人権」が認められない世界観の中で、避けられない選択肢だったので、読んだ。そして意味がわからなかったので、本屋に普通に並んでる様な文化人の解説本をいくつか読んだ記憶があり、その後読んだ年齢の倍以上経てその殆どを忘れてしまってる。
さて、先日「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。何故かネタバレを極端に避ける風潮があって私の周りでも内容に触れる人は極端に少ない。
ただ「理解するのが難解な作品である」といった趣旨の投稿をしている人は何人もいた。
果たしてそうなのだろうか?という疑問を持ったので本増田を書いている。
特にメモをとってわけでもないので、ディテールに齟齬がある部分は勘弁いただきたい。
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その後、母親の妹が新しい母親となり、母親の実家に疎開(?)をする
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亡くなった母親の思い出もあり、新しい母親に真人は心を開けない
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金持ち仕草に抵抗のない父親が車に乗せて初登校をしたため、ガキ大将的な奴と喧嘩になるがMMAの能力があったため圧倒する
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帰り道に石で自分の頭を殴り✳︎1 かつ犯人を言わないという知的な叱られ対策を行う
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亡くなった母親の残した「君たちはどう生きるか」に出会う ✳︎2
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ご覧の様にストーリーは極めてシンプルである。そして、✳︎2の描写が本作品の大部分を占めている。
いやいや、おしいれのぼうけんのさとしとあきらのぼうけんは実際に異世界へ行ったのであるよ。そういう人もいるだろうし、多感な子供がおしいれに罰として閉じ込められるという昭和のみ許された罰によって生じた脳への過大なストレスで発生したイマジネーションの中の世界という人もいるだろう。
今回は後者の説をとらせて貰いたい。
真人はあまりに強く石で頭を打ってしまい、かつ慣れない場所でのストレスから母親が残してくれた「君たちはどう生きるのか」に没頭してしまう。
この原著は小学生の時に読んだことがあり、その歳からは3倍以上の歳となってしまったので
あるが、コペルくんという快活な出来杉くんが日々体験した葛藤とかに、「叔父さん」が真摯に答えてくれるという内容で、漫画化されて話題になった時の売り文句を見ても感じたのだが、児童文学の姿を借りた思想書/啓蒙書である。
うっすら覚えている内容も、格差によるキャズムと父親の金持ち仕草でいきなり浮きまくって喧嘩となり、派手な登校拒否スタートとなった真人とは重なる点も多く、「叔父さん」の回答は真人の心に刺さるものが多かったろう。
聞くところによると反戦主義者であった吉野源三郎は、自由な言論活動が抑制された戦前、戦中において、その活路を児童文学に見出したようだ。
吉野源三郎とニーチェの対比については東洋哲学的視点で語る人は少なくない。戦前、戦中においてはニーチェが死んだと評した絶対的価値観と同様のものがこの国に溢れていたのは事実だろう。
そういった意味では吉野源三郎を日本のニーチェと感じる人はいてもおかしくないのだろうけど、昭和の小学生であった自分には全く刺さらなかった一冊であった。
なんにせよ、真人少年はこの本を読み、心の中のぼうけんへとでかける。
庭にある「塔」はよそから飛来した飛翔体で、大叔父は「これは大事なものだから」と新しい建築物で囲った。
「新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」(ルカ5章38節)当時の慣例を無視したイエスは、新しい思想は、新しい環境にて受け入れかし的な意味で言ったらしい。
と宿るじゃ大きく意味が異なるので、この辺も解釈によって随分と違う。
さておき。この大叔父の言っている「これは大事なものだから」は絶対的な価値観で、この絶対的価値観を装飾したり保護したものが戦前、戦中に世に溢れていた「常識」なのだろう。
この常識に対して、「君たちはどう生きるのか」は児童文学というN国ハックを成功し、無事相対的価値観を真人少年に届けることに成功する。
✳︎母親も塔で行方不明になった時期があり、大叔父は姿を消したままなのは、絶対的価値観に対する「疑問」を持ったことに対して、思想警察等の介入を招いたという事なのでは?といった解釈もなりたつ。一方で、隠れキリシタンのマリア像的な「進歩的思想」を表すものとも受け取れるがその場合にはいくつかの齟齬が生まれる。
本作でトリックスターとして描かれるアオサギは古代エジプトのベヌウを始めとして様々な宗教で描かれている。
混沌に現れたベヌウがアトゥムとなりそしてラーとなったが古代エジプト神話の創世記で、ベヌウはその後もフェニックスになったり、旧約聖書で忌むべきものと描かれたりと様々な存在であり続ける。
全てのアオサギは嘘つきだとアオサギは言った。これは本当か?!
という問答が本作ではあったが、アオサギは「相対的価値観」のメタファとして描かれたのでは?と私は思う。
見る人によって、見る時によって解釈が異なる存在は相対的価値観の象徴としてこの上ない。
ソクラテスの良き友人であり、ソクラテスをソクラテスとならしめ、そして死に追いやった「ダイモン」はその後「デーモン」となり絶対悪となる。
アオサギは創世の核から、忌むべきもの、そして後世では聖職者やキリストとしても解釈をされている。相対的価値観の象徴として登場するに相応しい扱いのブレブレさ。
嘘つきを「悪」や「忌みもの」と置き換えたとしても時代、そして答えるもののスタンスでその答えが変わるだろうアオサギをトリックスターに据えたのは、アオサギが不死鳥=火の鳥としての立ち位置だと考えても中々に面白いのではないだろうか?
わらわらが空に舞うシーンとペリカンの登場をみて、多くの人が空襲によって生まれるはずの命が奪われていったのをイメージしたのではないだろうか。
出雲大社をはじめ、神道の結婚式では玉串をおさめるさいに、新郎と新婦は螺旋の様に左右に交わりながら神前に進む。
この「螺旋」という存在は、永劫回帰にもつながる東洋思想の根幹となるもので、すべてのものは平等に無価値で、それぞれが相対的な価値をそれぞれに対して持ち、または持たない。
下の世界は明示的に「地獄」と表記されてたのであるが、おそらく描かれてるのは冥界だろう。
ニーチェが死んだと評したものはそれ以前のキリスト教における始まりのある絶対的な価値観というのが有力な説であるが、その絶対的価値観を作った人物の1人である聖アウグスティヌスが「聖心、自己犠牲」の象徴とし、その後も様々な紋章で愛されたペリカンが魚の内蔵餌にし、上の世界での誕生を待つわらわらの命を次々と奪っていくのは宮崎駿のフラットな「反戦思想」が読み取れる極めてシニカルなメタファーではないだろうか。
ペリカンは第二次世界大戦でも輸送機や爆撃機のノーズアートとして愛用をされていたのは、ミリタリーに造詣の深い宮崎駿なら知らないわけはないだろうと考える次第である。
インコの軍団の描かれかたは、当時の日本の軍部の急進派やポピュリズムに扇動された国民をイメージとさせる。
ところが、インコはアオサギやペリカンの様に何かのメタファとして使われてた例を少なくとも私は知らない。
あえて言えば、ポピュリズムに扇動される一定数の国民は今も変わらない、その人たちはみな同じ様ち聞いたことを繰り返す。
これらに対しての皮肉を込めて、鸚鵡はアレだからインコにするか、となったくらいしか思いつかない。
1シーン、インコたちが「陰謀論者」を彷彿とさせるセリフを言ってたのが気になるが、それにしても偶然の一致だろう。
本作は極めてシンプルな構成で少年の成長の数年間を描きつつ、そのきっかけとなった一冊の本のバックボーンを深く掘り下げた作品だと思う。
ただ、その一冊が示すところは当たり前の様に社会に実存する不条理や、固定された常識を「畜知」として個々の持つ倫理観や、相対的価値観を持って超越すべきと描くものだった上に宮崎翁の表現だ。わかりやすく理解が困難であるところが極めてわかりやすい。
現象界では常に変化が起こり、全く同じ真理などは存在せず、全てのものに等しく「無」だけがその拠点として存在すると、ナウシカで宮崎駿は伝えたかった気もするのだけど、これすら三連休の最終日にしこたまアルコールを飲んで歩くのすらおぼつかない私の中だけの相対的な宮崎駿評である。
なんにしても本作の序盤の数分で感じるスパイダーバース同様の狂気は、宮崎駿存命の間しか味わうことが出来ない、スタッフロールと引き換えに命を削った各コマを作り上げた人々の命の結晶である。時間は貴重だ。一方、チケット代なんて酒を2、3杯飲むのと引き換えられる程度の数字が書かれた概念でしかないだろう。
よっぽど忙しい人や、ジブリや宮崎駿が嫌いな人も最初の10分で良いから見てほしい。
昨晩、地下室からのふしぎな旅を改めて読んだ。柏葉幸子は素晴らしい。
宮崎駿は引退するまでに一回で良いから柏葉幸子作品の監督をやりたいはずと、私は勝手に思っており、君たちはどう生きるかもその色眼鏡で鑑賞するといくつかのシーンから妄想が膨らむ。「鈴木くん。柏葉幸子は素晴らしいぃぞぉ」という宮崎駿の声が脳内で響く。
吉村知事、首相に対策要望 大阪万博、海外展示館の建設停滞 | 共同通信
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/1052483970482995357
http://web.archive.org/web/20181128085028/https://anond.hatelabo.jp/20181128150900
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20181128150900
万博招致が決まった時ちゃんと万博は国がやるイベントですよって説明してあげてブコメも結構ついてたと思うんだけど
いまだに「国を巻き込むなー」とかアホなこといってるやつがいっぱいおるブクマカのレベルヤバない?
万博に対する賛否とか以前の問題じゃん。基本的な知識のない無知なバカの群れの遠吠えじゃん。
shinonomen 国費を投入するなら大阪以外の人にも賛否を示す機会を与えるべき。大阪知事選の争点にはなっていたが、国政選挙で万博をやるか問われた覚えがない。
いまになって賛否を示す機会とかいうてるし。万博誘致方針が決まってから総選挙2回あったんだよ?
2025年大阪・関西万博の誘致を成功させるため、国を挙 げて取り組みます。来年の開催国決定投票に向け、各国へ の働きかけを強力に進めます。
2025年大阪・関西万博を、世界中の人々に「夢」と「驚き」を与えるような国際 博覧会とするべく、準備を進めます。
2025年大阪・関西万博をカーボンニュートラル、健康医療、 Beyond 5G等の新技術による未来社会の実験場とし、食・ 文化等の魅力発信のため事前訪日プロモーションも推進 します。
ばっちり自民党マニフェストにも書いてるのに何で突っついて争点化しなかったの?
あまりにも物を知らなさ過ぎて政治的スタンスとか政策に対する賛否以前の問題だよ。ただのバカじゃん。
脊髄反射でギャンギャン吠えて3歩歩いたら忘れるんじゃなくてちゃんと真面目に考えようよ。
それができないなら馬鹿なりに何も考えずに生きていった方がいいよ。
というかこの状況で国民が一番言うべきなのって「政府は何やってんの?」だと思うけど
子供が出来るのを知らないとか、子供が出来たら責任が生まれるとか、そんな諸々を知らないから
生中出ししてるわけじゃなくて、シンプルにしたいからしてるだけなんだよな
けど基本的にはそうなんだよ
うちは片親だった。
母親は離婚してから、還暦で働けない祖母(母の母)と三兄弟(姉1姉2自分)を女手一つで育ててくれた。
母親は子供に仕事の愚痴を言わなくて、男と食事に行ったりもしなかった。
母親はよく「おばあちゃんがいて兄弟がいて十分幸せでしょ?」って言ってた。
「男なんていないほうが楽」とも言ってた。
自分もそう思ってた。
旦那はお金に苦労したことがない。両親共々ブルーカラーだけど大企業勤め。子供の頃は年1で家族旅行に行ってて、外食で蟹を食べたりしてたらしい。
結婚してからはスーパーで値札見ずに買い物してくるのでよく叱ってる。
子供っぽいとこもあるけど、優しい人だ。一緒にいて落ち着く。
この前親と電話した時、子供の話になった。お金の面とか、旦那の会社の安定性とか不安でしばらくは子供を考えていないって話をした。
その時に、「いざとなったら離婚して帰ってきたら良いよ!男なんて家にいないほうが楽でしょ!」と言われて、素直に受け取れない自分がいた。
片親が幸せなんて嘘だよ。両親がいる子は自分なんかよりよっぽどいい生活してたんだ。
普通の家は、お年玉は何万円単位で貰えるらしい。ゲームだって買ってもらえるし、塾にだって通わせてもらえる。学用品は当然親のお金だってさ。
友達が父親の愚痴を言ってる時や父親いなくて寂しくない?なんて聞かれた時、父親なんていてもいなくても変わんないよ、なんて言ってた自分は、今思えば馬鹿だったんだ。現実は、父親がいる家はウチの家より裕福だったのに。
大学だって親の金の子もいるんだってね。『なんで大学行かなかったの?奨学金あるじゃん』って聞かれて、高校も奨学金借りてたから返せなくなると言うと、みんな思いもよらなかったみたいな顔をする。
自分が信じてた幸せは全部嘘で、実家の暮らしは世間一般的には下の方だった。それがショックでたまらなかった。
母が『いざとなったら離婚すればいい』なんて、どうしてそんな無責任なことが言えるのかと怒りを覚えた。両親が揃ってる環境を知ってしまったから、受け入れられなかった。
でも、母親の言葉に言い返すことはできなかった。だって母は本当に大変だったと思う。朝から晩まで睡眠時間削って働いて、でもきっとお金に余裕がなかったからずっと神経をすり減らしてただろう。母は全力で子供を育ててくれてた。
そんな母の人生を否定するような言葉を言えなかった。言ったところで母が一生の傷を負うだけで、なんの意味もない。
自分の中では、父親がいたらもっと幸せだったと思ってしまっている。
今まで母親には全部話せてたけど、嘘をついてから、母親との心の距離が空いてしまった。価値観の合わない人間になってしまったと、そうはっきり感じた。
きっと母親には一生言わない。実家は貧乏だったけど幸せだったよと、そのスタンスで母には一生接するつもりだ。でもどこかにぶつけずにはいられなくてこれを書いた。
読んでくれてありがとう。
積立NISAも最大限設定したし、それでも貯金はまあまああるので、個別投資で学んでみたい。日本に住んでいて日本の会社で給料をもらっており、日本株だとインサイダー取引に抵触してしまう危険性もあるので、海外の株に手を出したい。
積立NISAではSP500に入れてるので、SP500と重複しない米国個別株投資したいということで、Factorioの研究ツリーにしたがって投資する方法を試している。これを自分で「Factorio研究ツリー投資法」と呼んでいる。
要は、Factorioの研究ツリーの後半に登場するエネルギー系株でSP 500に重複しておらず、事業内容的に今後伸びそうな企業に投資してみるというスタンスだ。工場自動化ゲームのFactorioは、何もない状態からプレイヤーが
工場を発展させることで研究ツリーが進み、新たなエネルギーや工場コンポーネントなどが解放される仕組みとなっている。研究ツリーの内容はMODを入れていなければ、極端に言うと人類の産業革命を追体験することに近い内容となっており、
後半側に登場するツリー内容に投資しておけば、それが数年、数十年後には株価が上昇するのではないか? という仮定だ。
これが面白いのはそれぞれの企業が存在する背景や事業内容、それぞれのエネルギーの現在地とこれからが何となくつかめることだ。私は世の中のことを何も知らないバカなので、
例えばそのエネルギーをどう取り出して抽出しているかなど、それだけでも社会勉強している気分になる。社会勉強して、投資して、うまくいけばリターンが返ってくる。めちゃくちゃ面白い。
半分おふざけでやった面もあるので少額しか買えていないが、第1段として取り組んだ結果、今のパフォーマンスはSP500の25%を大幅に上回る70%のパフォーマンスを見せてしまった。
当然個別株投資なので分散なんてほぼできていないので、すぐに乱高下することもあるだろう。ただすでに積立NISAの方で老後の蓄えは賄える気がするので、このままこの研究ツリーにしたがった投資法を試していこうと思い、第2段を投入してみた。
この先どうなるかは分からないがいろいろな事業内容を学べてるだけでも面白いので、まあいいかなと思っている。これに飽きたらその時点で利確してもいいだろうし。
トランスヘイターを批判してる人が、「女性トイレを使わせろなどと主張しているトランスジェンダーはいない、ヘイターのデマ」とか昔いってたけど
トランスジェンダー当事者が何の権利を求めてきたのかも知らないのに味方のふりするから、余計に話が拗れているんじゃないか
女性用の風呂に入らせろと主張した人たちもいたよ、全トランス女性の総意ではないにせよ、当人にとってその訴えは真剣なものだったはずだ
なのにトランスジェンダーの支援者たちは、彼女たちの存在を「デマ」として無いことにしている、なんていうか残酷だなと思う
まあさすがに今はそこまではムリだよね、将来的にはもっと理解がすすんだり、うまく利用できる施設が充実すればいいけどね
そう言うこともできたのに、「デマ、そんなトランスジェンダーは存在しない」だって
トランスジェンダーだって色んな主張の人がいるよね、ってだけのことだと思うんだけど
「女性用の風呂に入りたい、入れないのは差別だ」と主張した人は少数はいたよ、という事実はそんなに都合が悪いのだろうか
マイノリティーの味方のふりをして、都合の悪いマイノリティーは存在しないことにしてしまうの、それはそれで問題ある気がするんだが
そりゃ中にはいるだろ、そういう人も
そういうスタンスじゃダメなの?絶対に存在しないってことにしないと、差別がよけいに酷くなっちゃうって心配してるの?
実際に少数であれ存在した人を、「そんな人間はいない」って言い切っちゃうから、ヘイターの連中も執拗にそこを突いてくるんだろうに
いや、容姿やオタク年齢関係なく、社交性高かったら普通にアピるだろ。
同情狙いもあるし。
でも結局、社交性=自信だから、見た目本当にモテそうにない奴でも、そういう奴って、女何人もいるパターンが多い。
自信ない奴は、声小さくして非モテアピールして、ワンチャン、たまたま聞いた女にアピールできるかも、と期待してるだけ。
非モテっていうのは、あり得ないような偶然を信じて、効果のないことを延々と繰り返す生き物だから。
ホモソとかアホかと。
女の話しでホモソなんて固めようとする男居ないよ。
男のホモソは、「女なんて知るか! 失せろ! 要らない! 興味ない!」というスタンスが前提だから。
管理職のヒステリーおばさんに精神を破壊され仕事を辞め、今無職をしているのですが
「何かあったら私の責任になるのよ!!!!あんたは責任取れないでしょ!!!!??何かあったらどうしてくれるのよおおおお!!!!!」と言うよりは「何かあったらあんたの責任よ!!!!あんたが全部後始末しなさいよ!!!!!!!」って突き放される方がよっぽどよかったですね
ガマガエルみたいな顔した太ったアラフィフおばさんがアタシはあんたのせいで人質に取られてる、人身御供にされようとしているってお姫様ごっこしながらこちらを脅してくる姿は本当に醜悪で今後の人生でもう二度と顔を合わせたくないと思った
責任感が強い人って責任を取らされることを異常なまでに恐れる人でもあると思う
増田は「何かあったら責任取ってやるわよガハハ」系の図太いおばちゃんになるか「は?お前ら下っ端はトカゲの尻尾なんだから私を残してお前らを切るが?責任なんか取らんが?」のどちらかのスタンスでいてほしいんだが
まあ無理だろうな……
おまはんの心理的安全性(辛いと言える事)がそもそも保たれてないやんけ
あと、心理的安全性の担保は入り口で、その先にもっと上位の目的があるってgoogleさんは言ってる
トゥギャったんというブクマカーがいる。
このブコメにある
https://b.hatena.ne.jp/kkkirikkk/20230711#bookmark-4739130477862684613
何が嫌かというと、都合の悪い時はダンマリという、汚い政治家がやるようなムーブを行うからだ。
togetterといえば、いろいろな話題がまとめられるサービスだが、どうでもいい雑談の中にまじって極度に政治的、ヘイトを助長するようなコンテンツがあることが少なくない。
コメントをしづらい内容では、完全に沈黙し、雑談みたいな時のみ姿を現し「うんちだね~私もしゅる~」みたいなクッソどうでもいいコメントをする。
トゲというサービスの広報としての活動なのはわかるが、サービス利用を誘導し、うまい面だけを享受して、都合のよい時だけでてくるようなスタンスがけしからん。
じゃあ自分が中の人担当だったらどうするか、というのは特に対案があるわけではないが、上記の態度は普段日本人が政治家にうんざりさせられているところであり、それをなぞるようなダンマリ決め込みムーブというのを見せつけられるのはとても嫌なので、なんらかの改善をしてほしいと思う。
※追記。
夏だといろんなところが蒸れると思うけど、尻の穴がかゆくなることがあって、
はじめに。増田は男性であり、女性の気持ちはわからないことを前提としておく。
伝えたいことは表題の通りなのだが、本件はSNSを覗くと大変な盛り上がりを見せているようである。なんなら「裁判官を国民審査で罷免せよ」という声かけまで行われている始末で怖くなった。
本件は「トランス女性が女子トイレを使うこと」の裁判ではない。「トランス女性に一部の女子トイレしか使わせないこと」の裁判なのだ。この裁判に関係なく経産省は当人に女子トイレの使用を認めている。裁判は全く関係ない。今回の判決は「女子トイレを使わせることを許可するなら一部だけじゃなくて全部使わせなさい」ということだ。
また、本件はかなり限定的なケースだ。「不特定の公共施設のあり方に触れるものではない」とハッキリ明言されている。限定的なケースとしてわかりやすいところでは以下だろうか。
・20年以上ホルモン注射を続けており、医師からの診断も受けている
・10年以上一部の女子トイレの利用が認められており、トラブルが発生していない
これをきっかけとして自称トランス女性(=男性)による性被害が増えるかもしれないという女性の不安は最もだが、増えるとしたら最高裁のせいではなく、誤った情報を拡散して自称トランス女性を勘違いさせた人々の責任だろう。
この情報拡散によって勘違いした自称トランスの性犯罪が増えたり、勘違いした女性が裁判官に不利益を与えたりしないことを祈るばかりだ。
うーんどうかな。
ちなみに度々今回の騒動を受けて「白々しい」と批判される達郎の「市井の人に届けたい」発言だけど、これが盛んに言われるようになったのはRay Of Hopeという曲を出した後と記憶している
元々は自殺したワーナーミュージックの元社長に捧げた歌だったが、時期的に東日本大震災と重なり、特に震災被災者のファンによく聴かれたことから、山下達郎もそういう人々に届けたい的なことをよく言うようになった(違ったら識者の人訂正頼む)。
それ以後の作品で歌詞がその意向を反映しているかは微妙だけど、少なくとも制作のスタンスは日々悩む市井の人一人ひとりに寄り添う的な感じらしい。
(話は脱線するが達郎はノンポリとよく言うが、昔はちょいちょいラジオの冒頭部で政権批判してたし、なんなら原発事故直後は反原発の姿勢を打ち出していたよね。だからコロナ禍で政権批判やめようと言い出して糸井重里かよと結構驚いた)
一見弱者に寄り添うように見せかけて今回のようなことがあると、作品自体の世界観と無関係でも先日のラジオの内容と先述のスタンスとのギャップが気になり入り込めない。
あと弱者に寄り添うと言いながら、サブスク批判して高額課金する信者向けの物理のみに振り切ったり、印税の振り分けも実店舗に負担を強いるものだったり、なんだかなーっていう。
もちろん作品自体に違法性はなく、達郎自身が違法行為を行なったわけでもないので、市場から消すという意味でのキャンセルはそもそも問題にはならないけど、個人的に手が伸びない。
好きな人が見つかってその人からも好かれての結婚はとても素晴らしいものだけど
世の中の夫婦というのは殆どがとりあえず付き合ってみたら何となく居心地が良くてそのまま結婚して気が付いたら老後みたいな感じ
ファンと名乗れるほどではないが、達郎(山下達郎)の音楽が好きだ。
上質なAORの供給源として、代表的なアルバム数枚やベスト盤・ライブ盤などを楽しんでよく聴いていた。
自分の中ではネッド・ドヒニーやニック・デカロとかと同じ枠に入れていたと思う。
私にとってリスニングは分析であり考察であり、つまりは研究だ。
吹き込まれた声と音のひとつひとつを拾い上げ、そのことば・その音がそこにある意味を問い、音と音との相乗効果を探る探求だ。
紀元前の遺跡に向かい合う考古学者のように、感覚を研ぎ澄ませ、精神を集中して、真摯に・謙虚にサウンドと向き合う。
そこには、アーチストの送り出した音とそれを受け止める自分の耳、という対等な関係しかない。とても純粋な対話だ。
ところが、そこに招かれざる夾雑物が混じり込んでしまった。ジャニーズ論争である。
はっきり言って、創作と関係ない部分のバックグラウンドは音楽との対話において邪魔な要素でしかない。
むろん、ある種のアーチストにとって生き様や思想信条はその創作性と切り離せない。その人が過去に起こした薬物事件や暴力事件すら作品の重要な一要素だったりする。
だが今回の達郎の騒ぎは違うよね。
達郎の音楽と向き合うのには完全に必要ない、まったく邪魔な情報でしかない。知りとうなかった。
こんな風に言われてしまうと、リスナーは達郎の音楽を聴くたびに、暗黙に達郎のスタンスに同意したとみなされてしまう。
むろん、そんなことは気にせずに勝手に聴けばよいのだが、もう心を空にしてというわけにはいかない。
どうしたって、あの見苦しい保身にまみれた長広舌が思い起こされてしまう。達郎の音楽を聴くという行為は、もはや純粋な対話ではなくなってしまったのだ。
私のCDラックには10枚ほどの達郎のアルバムが並んでいるが、あのコメントを境にその価値はだいぶん変わってしまった。